その源
宮本百合子



 二三日前の夜、おそく小田急に乗った。割合にすいていて、珍しく腰をおろした。隣りに大柄な壮年の男のひとがいて、書類鞄から出した本を、しきりに調べている。その隣りの席に黒い外套に白いマフラーをつけ、縁なしの眼鏡をかけた三十歳がらみの洋装の婦人がいて、好奇心を面にあらわし、男のひとの本の頁を横から見ている。その様子に、何か目をひくものがあった。

 すると発車間際になって、一人の紳士が急いで乗りこんで来た。「あら××先生!」遠慮のない声が、その女のひとの唇から迸り出た。そして、「おもちいたしますわ」と鞄をうけとった。「近頃、大分御活動だそうですね」「あら、誰からおききになりまして、そうでもございませんわ」然し、その女のひとは、電車の隅々までよくとおる声を低めず、進駐軍のために日本語を教えていること、自分がアメリカに生れたというので大変よろこんで親切にしてくれること、チョコレートやお砂糖をどっさりくれることを話した。「そりゃ甘いチョコレートですのよ。御馳走いたしますからおいで下さい。本当に、いやになるくらい甘いんですの」

 ユーモラスと感じてそれを聞くには、女のひとが分別あるべき年格好であるし、女のいじきたなさと微笑するには余り優越感めいた傍若無人さがつよく湛えられている。人々は、苦々しさをもって、其をきかされていたのであった。

 東京に進駐軍が来てから二ヵ月余り経った。連合国軍の進駐前、外国兵を人間でない者のように、只恐怖、憎悪すべきもののように教えていたのは、主として日本の軍関係の仕業であった。実際に接触してみると、大多数の人々は、教え込まれていた影像とは全く違った社会生活の訓練と、人間同士のつき合かたの明るさとにおどろかされた。豊かに物をもっている人に対する社会人としての習慣的な畏敬めいた気分も我知らず加って、進駐軍は、好評をもってみられていると云えるであろう。

 ところが、そのような進駐軍の明るさが、そのまま曇りない明朗さとして、日本人の感情に影響しているかと云えば、其は必ずしもそうではない。

 甘すぎるチョコレート話のあった翌日の夕刻、用があって又別の郊外電車にのった。買出しの大荷を背負った人々、勤めがえりの群集のつめこまれたその電車に、進駐軍の若い兵士二人が二人の若い日本の娘をつれて乗り合わせていた。娘たちはありふれた洋装であるが、ありふれないこととして盛にガムをかんでいる。兵士は二人ともラテン系のアメリカ人で、カールした髪が、帽子の下からはみ出ている。彼等としては、普通に国で女の子と喋る時のように喋っているつもりであろうけれども、その栄養のよい体の楽々とした吊皮への下りようや、何か云っては娘の顔を覗く工合が、周囲の疲労し空腹な男女の群の中にあって、どうしても、独得な雰囲気をなしているのであった。

 ふと見ると、その一団の斜め後に、二人の青年が佇んで、凝っと細々と、変化する兵士と娘たちの声やポーズに注目している。十八九歳の二人で、実直な勤労青年であることが一目で見とれる人々であった。その二つの若い日本の青年の面に浮んでいたその時の表情を、わたしは忘れ難く感じている。どちらかと云えば単純なその二つの顔は、彼等が言葉にも表現し得ない程、複雑な、云うに云えない青年としてのこころもちを反映していた。若々しさが、直接に、その若い感性にとっては一つの漠然たる苦悩として感じられている顔つきであった。

 この表情は、これほど真率に、凝集して現れているのを見たことは稀だとしても、今日の日本の青年たちの毎日のうちに、一度二度は必ず顔面を掠めて通る感じではないだろうか。

 若い女性たちの口許に、同じような表情が浮ぶ時も多く見かける。

 そして、感じを表現する能力のある人々は、今日、日本の若い娘が自尊心と気品とを失ってしまっていることを非難しているのである。

 それにつけても、戦争犯罪人というものの行為が及ぼした害悪の大さと深さとにおどろかれる。それらの人々は、経済的に、政治的に祖国を破綻させたとともに、民族の道義をも難破させた。戦争を強行するためには、すべての人民が、理不尽な強権に屈従しなければ不便であった。その目的のために、考え、判断し、発言し、それに準じて行動する能力を奪った。外的な一寸した圧力に、すぐ屈従するように仕つけた。無責任に変転される境遇に、批判なく順応するように何年間か強いて来たのであった。日本人が今日、当然もつべき一個人としての品位と威厳とを身につけていないことを外国に向ってじるならば、それは、現代日本の多数の人々を、明治以来真に人格的尊厳というものが、どういうものであるかをさえ知らさないように導いて来た体制を、今なお明瞭に判断しつくし得ていないという点について、よりずべきであろうと思う。

底本:「宮本百合子全集 第十六巻」新日本出版社

   1980(昭和55)年620日初版発行

   1986(昭和61)年320日第4刷発行

初出:同上

入力:柴田卓治

校正:磐余彦

2003年914日作成

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