若菜のうち
泉鏡花
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春の山──と、優に大きく、申出でるほどの事ではない。われら式のぶらぶらあるき、彼岸もはやくすぎた、四月上旬の田畝路は、些とのぼせるほど暖い。
修善寺の温泉宿、新井から、──着て出た羽織は脱ぎたいくらい。が脱ぐと、ステッキの片手の荷になる。つれの家内が持って遣ろうというのだけれど、二十か、三十そこそこで双方容子が好いのだと野山の景色にもなろうもの……紫末濃でも小桜縅でも何でもない。茶縞の布子と来て、菫、げんげにも恥かしい。……第一そこらにひらひらしている蝶々の袖に対しても、果報ものの狩衣ではない、衣装持の後見は、いきすぎよう。
汗ばんだ猪首の兜、いや、中折の古帽を脱いで、薄くなった折目を気にして、そっと撫でて、杖の柄に引っ掛けて、ひょいと、かつぐと、
「そこで端折ったり、じんじんばしょり、頬かぶり。」
と、うしろから婦がひやかす。
「それ、狐がいる。」
「いやですよ。」
何を、こいつら……大みそかの事を忘れたか。新春の読ものだからといって、暢気らしい。
田畑を隔てた、桂川の瀬の音も、小鼓に聞えて、一方、なだらかな山懐に、桜の咲いた里景色。
薄い桃も交っていた。
近くに藁屋も見えないのに、その山裾の草の径から、ほかほかとして、女の子が──姉妹らしい二人づれ。……時間を思っても、まだ小学校前らしいのが、手に、すかんぼも茅花も持たないけれど、摘み草の夢の中を歩行くように、うっとりとした顔をしたのと、径の角で行逢った。
「今日は、姉ちゃん、蕨のある処を教えて下さいな。」
肩に耳の附着くほど、右へ顔を傾けて、も一つ左へ傾けたから、
「わらび──……小さなのでもいいの、かわいらしい、あなたのような。」
この無遠慮な小母さんに、妹はあっけに取られたが、姉の方は頷いた。
「はい、お煎餅、少しですよ。……お二人でね……」
お駄賃に、懐紙に包んだのを白銅製のものかと思うと、銀の小粒で……宿の勘定前だから、怪しからず気前が好い。
女の子は、半分気味の悪そうに狐に魅まれでもしたように掌に受けると──二人を、山裾のこの坂口まで、導いて、上へ指さしをした──その来た時とおんなじに妹の手を引いて、少しせき足にあの径を、何だか、ふわふわと浮いて行く。……
さて、二人がその帰り道である。なるほど小さい、白魚ばかり、そのかわり、根の群青に、薄く藍をぼかして尖の真紫なのを五、六本。何、牛に乗らないだけの仙家の女の童の指示である……もっと山高く、草深く分入ればだけれども、それにはこの陽気だ、蛇体という障碍があって、望むものの方に、苦行が足りない。で、その小さなのを五、六本。園女の鼻紙の間に何とかいう菫に恥よ。懐にして、もとの野道へ出ると、小鼓は響いて花菜は眩い。影はいない。──彼処に、路傍に咲き残った、紅梅か。いや桃だ。……近くに行ったら、花が自ら、ものを言おう。
その町の方へ、近づくと、桃である。根に軽く築いた草堤の蔭から、黒い髪が、額が、鼻が、口が、おお、赤い帯が、おなじように、揃って、二人出て、前刻の姉妹が、黙って……襟肩で、少しばかり、極りが悪いか、むずむずしながら、姉が二本、妹が一本、鼓草の花を、すいと出した。
「まあ、姉ちゃん。」
「どうも、ありがとう。」
私も今はかぶっていた帽を取って、その二本の方を慾張った。
とはいえ、何となく胸に響いた。響いたのは、形容でも何でもない。川音がタタと鼓草を打って花に日の光が動いたのである。濃く香しい、その幾重の花葩の裡に、幼児の姿は、二つながら吸われて消えた。
……ものには順がある。──胸のせまるまで、二人が──思わず熟と姉妹の顔を瞻った時、忽ち背中で──もお──と鳴いた。
振向くと、すぐ其処に小屋があって、親が留守の犢が光った鼻を出した。
──もお──
濡れた鼻息は、陽炎に蒸されて、長閑に銀粉を刷いた。その隙に、姉妹は見えなくなったのである。桃の花の微笑む時、黙って顔を見合せた。
子のない夫婦は、さびしかった。
おなじようなことがある。様子はちょっと違っているが、それも修善寺で、時節は秋の末、十一月はじめだから、……さあ、もう冬であった。
場所は──前記のは、桂川を上る、大師の奥の院へ行く本道と、渓流を隔てた、川堤の岐路だった。これは新停車場へ向って、ずっと滝の末ともいおう、瀬の下で、大仁通いの街道を傍へ入って、田畝の中を、小路へ幾つか畝りつつ上った途中であった。
上等の小春日和で、今日も汗ばむほどだったが、今度は外套を脱いで、杖の尖には引っ掛けなかった。行ると、案山子を抜いて来たと叱られようから。
婦は、道端の藪を覗き松の根を潜った、竜胆の、茎の細いのを摘んで持った。これは袂にも懐にも入らないから、何に対し、誰に恥ていいか分らない。
「マッチをあげますか。」
「先ず一服だ。」
安煙草の匂のかわりに、稲の甘い香が耳まで包む。日を一杯に吸って、目の前の稲は、とろとろと、垂穂で居眠りをするらしい。
向って、外套の黒い裙と、青い褄で腰を掛けた、むら尾花の連って輝く穂は、キラキラと白銀の波である。
預けた、竜胆の影が紫の灯のように穂をすいて、昼の十日ばかりの月が澄む。稲の下にも薄の中にも、細流の囁くように、ちちろ、ちちろと声がして、その鳴く音の高低に、静まった草もみじが、そこらの刈あとにこぼれた粟の落穂とともに、風のないのに軽く動いた。
麓を見ると、塵焼場だという、煙突が、豚の鼻面のように低く仰向いて、むくむくと煙を噴くのが、黒くもならず、青々と一条立騰って、空なる昼の月に淡く消える。これも夜中には幽霊じみて、旅人を怯かそう。──夜泣松というのが丘下の山の出端に、黙った烏のように羽を重ねた。
「大分上ったな。」
「帰りますか。」
「一奮発、向うへ廻ろうか。その道は、修善寺の裏山へ抜けられる。」
一廻り斜に見上げた、尾花を分けて、稲の真日南へ──スッと低く飛んだ、赤蜻蛉を、挿にして、小さな女の児が、──また二人。
「まあ、おんなじような、いつかの鼓草のと……」
「少し違うぜ、春のが、山姫のおつかわしめだと、向うへ出たのは山の神の落子らしいよ、柄ゆきが──最も今度の方はお前には縁がある。」
「大ありですね。」
と荒びた処が、すなわち、その山の神で……
「第一、大すきな柿を食べています。ごらんなさい。小さい方が。」
「どッちでも構わないが、その柿々をいうな、というのに──柿々というたびに、宿のかみさんから庭の柿のお見舞が来るので、ひやひやする。」
「春時分は、筍が掘って見たい筍が掘って見たいと、御主人を驚かして、お惣菜にありつくのは誰さ。……ああ、おいしそうだ、頬辺から、菓汁が垂れているじゃありませんか。」
横なでをしたように、妹の子は口も頬も──熟柿と見えて、だらりと赤い。姉は大きなのを握っていた。
涎も、洟も見える処で、
「その柿、おくれな、小母さんに。」
と唐突にいった。
昔は、川柳に、熊坂の脛のあたりで、みいん、みいん。で、薄の裾には、蟋蟀が鳴くばかり、幼児の目には鬼神のお松だ。
ぎょっとしたろう、首をすくめて、泣出しそうに、べそを掻いた。
その時姉が、並んで来たのを、衝と前へ出ると、ぴったりと妹をうしろに囲うと、筒袖だが、袖を開いて、小腕で庇って、いたいけな掌をパッと開いて、鏃の如く五指を反らした。
しかして、踏留まって、睨むかと目をみはった。
「ごめんよ。」
私が帽子を取ると斉しく、婦がせき込んで、くもった声で、
「ごめんなさい、姉ちゃん、ごめんなさい。」
二人は、思わず、ほろりとした。
宿の廊下づたいに、湯に行く橋がかりの欄干ずれに、その名樹の柿が、梢を暗く、紅日に照っている。
二羽。
「雀がいる。」
その雀色時。
「めじろですわ。」
底本:「鏡花短篇集」岩波文庫、岩波書店
1987(昭和62)年9月16日第1刷発行
2001(平成13)年2月5日第21刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十七巻」岩波書店
1942(昭和17)年10月初版発行
初出:「大阪朝日新聞」
1933(昭和8)年2月5日
入力:門田裕志
校正:米田進、鈴木厚司
2003年3月31日作成
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