紅玉
泉鏡花
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時。
現代、初冬。
場所。
府下郊外の原野。
人物。
画工。侍女。(烏の仮装したる)
貴夫人。老紳士。少紳士。小児五人。
──別に、三羽の烏。(侍女と同じ扮装)
小児一 やあ、停車場の方の、遠くの方から、あんなものが遣って来たぜ。
小児二 何だい何だい。
小児三 ああ、大なものを背負って、蹌踉々々来るねえ。
小児四 影法師まで、ぶらぶらしているよ。
小児五 重いんだろうか。
小児一 何だ、引越かなあ。
小児二 構うもんか、何だって。
小児三 御覧よ、脊よりか高い、障子見たようなものを背負ってるから、凧が歩行いて来るようだ。
小児四 糸をつけて揚げる真似エしてやろう。
小児五 遣れ遣れ、おもしろい。
凧を持ったのは凧を上げ、独楽を持ちたるは独楽を廻す。手にものなき一人、一方に向い、凧の糸を手繰る真似して笑う。
画工 (枠張のまま、絹地の画を、やけに紐からげにして、薄汚れたる背広の背に負い、初冬、枯野の夕日影にて、あかあかと且つ寂しき顔。酔える足どりにて登場)……落第々々、大落第。(ぶらつく体を杖に突掛くる状、疲切ったる樵夫のごとし。しばらくして、叫ぶ)畜生、状を見やがれ。
声に驚き、且つ活ける玩具の、手許に近づきたるを見て、糸を手繰りたる小児、衝と開いて素知らぬ顔す。
画工、その事には心付かず、立停まりて嬉戯する小児等を眗す。
よく遊んでるな、ああ、羨しい。どうだ。皆、面白いか。
小児等、彼の様子を見て忍笑す。中に、糸を手繰りたる一人。
小児三 ああ、面白かったの。
画工 (管をまく口吻)何、面白かった。面白かったは不可んな。今の若さに。……小児をつかまえて、今の若さも変だ。(笑う)はははは、面白かったは心細い。過去った事のようで情ない。面白いと云え、面白がれ、面白がれ。なおその上に面白くなれ。むむ、どうだ。
小児三 だって、兄さん怒るだろう。
画工 (解し得ず)俺が怒る、何を……何を俺が怒るんだ。生命がけで、描いて文部省の展覧会で、平つくばって、可いか、洋服の膝を膨らまして膝行ってな、いい図じゃないぜ、審査所のお玄関で頓首再拝と仕った奴を、紙鉄砲で、ポンと撥ねられて、ぎゃふんとまいった。それでさえ怒り得ないで、悄々と杖に縋って背負って帰る男じゃないか。景気よく馬肉で呷った酒なら、跳ねも、いきりもしようけれど、胃のわるい処へ、げっそり空腹と来て、蕎麦ともいかない。停車場前で饂飩で飲んだ、臓府がさながら蚯蚓のような、しッこしのない江戸児擬が、どうして腹なんぞ立て得るものかい。ふん、だらしやない。
他の小児はきょろきょろ見ている。
小児三 何だか知らないけれどね、今、向うから来る兄さんに、糸目をつけて手繰っていたんだぜ。
画工 何だ、糸を着けて……手繰ったか。いや、怒りやしない。何の真似だい。
小児一 兄さんがね、そうやってね、ぶらぶら来た処がね。
小児二 遠くから、まるでもって、凧の形に見えたんだもの。
画工 ははあ、凧か。(背負ってる絵を見る)むむ、そこで、(仕形しつつ)とやって面白がっていたんだな。処で、俺がこう近くに来たから、怒られやしないかと思って、その悪戯を止めたんだ。だから、面白かったと云うのか。……かったは寂しい、つまらない。壮に面白がれ、もっと面白がれ。さあ、糸を手繰れ、上げろ、引張れ。俺が、凧になって、上ってやろう。上って、高い空から、上野の展覧会を見てやる。京、大阪を見よう。日本中を、いや世界を見よう。……さあ、あの児来て煽れ、それ、お前は向うで上げるんだ。さあ、遣れ、遣れ。(笑う)ははは、面白い。
小児等しばらく逡巡す。画工の機嫌よげなるを見るより、一人は、画工の背を抱いて、凧を煽る真似す。一人は駈出して距離を取る。その一人。
小児三 やあ、大凧だい、一人じゃ重い。
小児四 うん、手伝ってやら。(と独楽を懐にして、立並ぶ)──風吹け、や、吹け。山の風吹いて来い。──(同音に囃す。)
画工 (あおりたる児の手を離るると同時に、大手を開いて)こうなりゃ凧絵だ、提灯屋だ。そりゃ、しゃくるぞ、水汲むぞ、べっかっこだ。
小児等の糸を引いて駈るがままに、ふらふらと舞台を飛廻り、やがて、樹根に摚となりて、切なき呼吸つく。
暮色到る。
小児三 凧は切れちゃった。
小児一 暗くなった。──ちょうど可い。
小児二 また、……あの事をしよう。
その他 遣ろうよ、遣ろうよ。──(一同、手はつながず、少しずつ間をおき、ぐるりと輪になりて唄う。)
青山、葉山、羽黒の権現さん
あとさき言わずに、中はくぼんだ、おかまの神さん
唄いつつ、廻りつつ、繰り返す。
画工 (茫然として黙想したるが、吐息して立ってこれを視む。)おい、おい、それは何の唄だ。
小児一 ああ、何の唄だか知らないけれどね、こうやって唄っていると、誰か一人踊出すんだよ。
画工 踊る? 誰が踊る。
小児二 誰が踊るって、このね、環の中へ入って踞んでるものが踊るんだって。
画工 誰も、入ってはおらんじゃないか。
小児三 でもね、気味が悪いんだもの。
画工 気味が悪いと?
小児四 ああ、あの、それがね、踊ろうと思って踊るんじゃないんだよ。ひとりでにね、踊るの。踊るまいと思っても。だもの、気味が悪いんだ。
画工 遣ってみよう、俺を入れろ。
一同 やあ、兄さん、入るかい。
画工 俺が入る、待て、(画を取って大樹の幹によせかく)さあ、可いか。
小児三 目を塞いでいるんだぜ。
画工 可、この世間を、酔って踊りゃ本望だ。
青山、葉山、羽黒の権現さん
小児等唄いながら画工の身の周囲を廻る。環の脈を打って伸び且つ縮むに連れて、画工、ほとんど、無意識なるがごとく、片手また片足を異様に動かす。唄う声、いよいよ冴えて、次第に暗くなる。
時に、樹の蔭より、顔黒く、嘴黒く、烏の頭して真黒なるマント様の衣を裾まで被りたる異体のもの一個顕れ出で、小児と小児の間に交りて斉しく廻る。
地に踞りたる画工、この時、中腰に身を起して、半身を左右に振って踊る真似す。
続いて、初の黒きものと同じ姿したる三個、人の形の烏。樹蔭より顕れ、同じく小児等の間に交って、画工の周囲を繞る。
小児等は絶えず唄う。いずれもその怪き物の姿を見ざる趣なり。あとの三羽の烏出でて輪に加わる頃より、画工全く立上り、我を忘れたる状して踊り出す。初手の烏もともに、就中、後なる三羽の烏は、足も地に着かざるまで跳梁す。
彼等の踊狂う時、小児等は唄を留む。
一同 (手に手に石を二ツ取り、カチカチと打鳴らして)魔が来た、でんでん。影がさいた、もんもん。(四五度口々に寂しく囃す)ほんとに来た。そりゃ来た。
小児のうちに一人、誰とも知らずかく叫ぶとともに、ばらばらと、左右に分れて逃げ入る。
木の葉落つ。
木の葉落つる中に、一人の画工と四個の黒き姿と頻に踊る。画工は靴を穿いたり、後の三羽の烏皆爪尖まで黒し。初の烏ひとり、裾をこぼるる褄紅に、足白し。
画工 (疲果てたる状、摚と仰様に倒る)水だ、水をくれい。
いずれも踊り留む。後の烏三羽、身を開いて一方に翼を交わしたるごとく、腕を組合せつつ立ちて視む。
初の烏 (うら若き女の声にて)寝たよ。まあ……だらしのない事。人間、こうはなりたくないものだわね。──そのうちに目が覚めたら行くだろう──別にお座敷の邪魔にもなるまいから。……どれ、(樹の蔭に一むら生茂りたる薄の中より、組立てに交叉したる三脚の竹を取出して据え、次に、その上の円き板を置き、卓子のごとくす。)
後の烏、この時、三羽とも無言にて近づき、手伝う状にて、二脚のズック製、おなじ組立ての床几を卓子の差向いに置く。
初の烏、また、旅行用手提げの中より、葡萄酒の瓶を取出だし卓子の上に置く。後の烏等、青き酒、赤き酒の瓶、続いてコップを取出だして並べ揃う。
やがて、初の烏、一挺の蝋燭を取って、これに火を点ず。
舞台明くなる。
初の烏 (思い着きたる体にて、一ツの瓶の酒を玉盞に酌ぎ、燭に翳す。)おお、綺麗だ。燭が映って、透徹って、いつかの、あの時、夕日の色に輝いて、ちょうど東の空に立った虹の、その虹の目のようだと云って、薄雲に翳して御覧なすった、奥様の白い手の細い指には重そうな、指環の球に似てること。
三羽の烏、打傾いて聞きつつあり。
ああ、玉が溶けたと思う酒を飲んだら、どんな味がするだろうねえ。(烏の頭を頂きたる、咽喉の黒き布をあけて、少き女の面を顕し、酒を飲まんとして猶予う。)あれ、ここは私には口だけれど、烏にするとちょうど咽喉だ。可厭だよ。咽喉だと血が流れるようでねえ。こんな事をしているんだから、気になる。よそう。まあ、独言を云って、誰かと話をしているようだよ……
(四辺を眗す)そうそう、思った同士、人前で内証で心を通わす時は、一ツに向った卓子が、人知れず、脚を上げたり下げたりする、幽な、しかし脈を打って、血の通う、その符牒で、黙っていて、暗号が出来ると、いつも奥様がおっしゃるもんだから、──卓子さん(卓をたたく)殊にお前さんは三ツ脚で、狐狗狸さん、そのままだもの。活きてるも同じだと思うから、つい、お話をしたんだわ。しかし、うっかりして、少々大事な事を饒舌ったんだから、お前さん聞いたばかりにしておいておくれ。誰にも言っては不可ないよ。ちょいと、注いだ酒をどうしよう。ああ、いい事がある。(酔倒れたる画工に近づく。後の烏一ツ、同じく近寄りて、画工の項を抱いて仰向けにす。)
酔ぱらいさん、さあ、冷水。
画工 (飲みながら、現にて)ああ、日が出た、が、俺は暗夜だ。(そのまま寝返る。)
初の烏 日が出たって──赤い酒から、私のこの烏を透かして、まあ。──画に描いた太陽の夢を見たんだろう。何だか謎のような事を言ってるわね。──さあさあ、お寝室ごしらえをしておきましょう。(もとに立戻りて、また薄の中より、このたびは一領の天幕を引出し、卓子を蔽うて建廻す。三羽の烏、左右よりこれを手伝う。天幕の裡は、見ぶつ席より見えざるあつらえ。)お楽みだわね。(天幕を背後にして正面に立つ。三羽の烏、その両方に彳む。)
もう、すっかり日が暮れた。(時に、はじめてフト自分の他に、烏の姿ありて立てるに心付く。されどおのが目を怪む風情。少しずつ、あちこち歩行く。歩行くに連れて、烏の形動き絡うを見て、次第に疑惑を増し、手を挙ぐれば、烏等も同じく挙げ、袖を振動かせば、斉しく振動かし、足を爪立つれば爪立ち、踞めば踞むを透し視めて、今はしも激しく恐怖し、慌しく駈出す。)
帽子を目深に、オーバーコートの鼠色なるを被、太き洋杖を持てる老紳士、憂鬱なる重き態度にて登場。
初の烏ハタと行当る。驚いて身を開く。紳士その袖を捉う。初の烏、遁れんとして威す真似して、かあかあ、と烏の声をなす。泣くがごとき女の声なり。
紳士 こりゃ、地獄の門を背負って、空を飛ぶ真似をするか。(掴ひしぐがごとくにして突離す。初の烏、摚と地に座す。三羽の烏はわざとらしく吃驚の身振をなす。)地を這う烏は、鳴く声が違うじゃろう。うむ、どうじゃ。地を這う烏は何と鳴くか。
初の烏 御免なさいまし、どうぞ、御免なさいまし。
紳士 ははあ、御免なさいましと鳴くか。(繰返して)御免なさいましと鳴くじゃな。
初の烏 はい。
紳士 うむ、(重く頷く)聞えた。とにかく、汝の声は聞えた。──こりゃ、俺の声が分るか。
初の烏 ええ。
紳士 俺の声が分るかと云うんじゃ。こりゃ。面を上げろ。──どうだ。
初の烏 御前様、あれ……
紳士 (杖をもって、その裾を圧う)ばさばさ騒ぐな。槍で脇腹を突かれる外に、樹の上へ得上る身体でもないに、羽ばたきをするな、女郎、手を支いて、静として口をきけ。
初の烏 真に申訳のございません、飛んだ失礼をいたしました。……先達って、奥様がお好みのお催しで、お邸に園遊会の仮装がございました時、私がいたしました、あの、このこしらえが、余りよく似合ったと、皆様がそうおっしゃいましたものでございますから、つい、心得違いな事をはじめました。あの……後で、御前様が御旅行を遊ばしましたお留守中は、お邸にも御用が少うございますものですから、自分の買もの、用達しだの、何のと申して、奥様にお暇を頂いては、こんな処へ出て参りまして、偶に通りますものを驚かしますのが面白くてなりませんので、つい、あの、癖になりまして、今晩も……旦那様に申訳のございません失礼をいたしました。どうぞ、御免遊ばして下さいまし。
紳士 言う事はそれだけか。
初の烏 はい?(聞返す。)
紳士 俺に云う事は、それだけか、女郎。
初の烏 あの、(口籠る)今夜はどういたしました事でございますか、私の形……あの、影法師が、この、野中の宵闇に判然と見えますのでございます。それさえ気味が悪うございますのに、気をつけて見ますと、二つも三つも、私と一所に動きますのでございますもの。
三方に分れて彳む、三羽の烏、また打頷く。
もう可恐くなりまして、夢中で駈出しましたものですから、御前様に、つい──あの、そして……御前様は、いつ御旅行さきから。
紳士 俺の旅行か。ふふん。(自ら嘲ける口吻)汝たちは、俺が旅行をしたと思うか。
初の烏 はい、一昨日から、北海道の方へ。
紳士 俺の北海道は、すぐに俺の邸の周囲じゃ。
初の烏 はあ、(驚く。)
紳士 俺の旅行は、冥土の旅のごときものじゃ。昔から、事が、こういう事が起って、それが破滅に近づく時は、誰もするわ。平凡な手段じゃ。通例過ぎる遣方じゃが、せんという事には行かなかった。今云うた冥土の旅を、可厭じゃと思うても、誰もしないわけには行かぬようなものじゃ。また、汝等とても、こういう事件の最後の際には、その家の主人か、良人か、可えか、俺がじゃ、ある手段として旅行するに極っとる事を知っておる。汝は知らいでも、怜悧なあれは知っておる。汝とても、少しは分っておろう。分っていて、その主人が旅行という隙間を狙う。わざと安心して大胆な不埒を働く。うむ、耳を蔽うて鐸を盗むというのじゃ。いずれ音の立ち、声の響くのは覚悟じゃろう。何もかも隠さずに言ってしまえ。いつの事か。一体、いつ頃の事か。これ。
侍女 いつ頃とおっしゃって、あの、影法師の事でございましょうか。それは唯今……
紳士 黙れ。影法師か何か知らんが、汝等三人の黒い心が、形にあらわれて、俺の邸の内外を横行しはじめた時だ。
侍女 御免遊ばして、御前様、私は何にも存じません。
紳士 用意は出来とる。女郎、俺の衣兜には短銃があるぞ。
侍女 ええ。
紳士 さあ、言え。
侍女 御前様、お許し下さいまし。春の、暮方の事でございます。美しい虹が立ちまして、盛りの藤の花と、つつじと一所に、お庭の池に影の映りましたのが、薄紫の頭で、胸に炎の搦みました、真紅なつつじの羽の交った、その虹の尾を曳きました大きな鳥が、お二階を覗いておりますように見えたのでございます。その日は、御前様のお留守、奥様が欄干越に、その景色をお視めなさいまして、──ああ、綺麗な、この白い雲と、蒼空の中に漲った大鳥を御覧──お傍に居りました私にそうおっしゃいまして──この鳥は、頭は私の簪に、尾を私の帯になるために来たんだよ。角の九つある、竜が、頭を兜に、尾を草摺に敷いて、敵に向う大将軍を飾ったように。……けれども、虹には目がないから、私の姿が見つからないので、頭を水に浸して、うなだれ悄れている。どれ、目を遣ろう──と仰有いますと、右の中指に嵌めておいで遊ばした、指環の紅い玉でございます。開いては虹に見えぬし、伏せては奥様の目に見えません。ですから、その指環をお抜きなさいまして。
紳士 うむ、指環を抜いてだな。うむ、指環を抜いて。
侍女 そして、雪のようなお手の指を環に遊ばして、高い処で、青葉の上で、虹の膚へ嵌めるようになさいますと、その指に空の色が透通りまして、紅い玉は、颯と夕日に映って、まったく虹の瞳になって、そして晃々と輝きました。その時でございます。お庭も池も、真暗になったと思います。虹も消えました。黒いものが、ばっと来て、目潰しを打ちますように、翼を拡げたと思いますと、その指環を、奥様の手から攫いまして、烏が飛びましたのでございます。露に光る木の実だ、と紅い玉を、間違えたのでございましょう。築山の松の梢を飛びまして、遠くも参りませんで、塀の上に、この、野の末の処へ入ります。真赤な、まん円な、大きな太陽様の前に黒く留まったのが見えたのでございます。私は跣足で庭へ駈下りました。駈けつけて声を出しますと、烏はそのまま塀の外へまた飛びましたのでございます。ちょうどそこが、裏木戸の処でございます。あの木戸は、私が御奉公申しましてから、五年と申しますもの、お開け遊ばした事といっては一度もなかったのでございます。
紳士 うむ、あれは開けるべき木戸ではないのじゃ。俺が覚えてからも、止むを得ん凶事で二度だけは開けんければならんじゃった。が、それとても凶事を追出いたばかりじゃ。外から入って来た不祥はなかった。──それがその時、汝の手で開いたのか。
侍女 ええ、錠の鍵は、がっちりささっておりましたけれど、赤錆に錆切りまして、圧しますと開きました。くされて落ちたのでございます。塀の外に、散歩らしいのが一人立っていたのでございます。その男が、烏の嘴から落しました奥様のその指環を、掌に載せまして、凝と見ていましたのでございます。
紳士 餓鬼め、其奴か。
侍女 ええ。
紳士 相手は其奴じゃな。
侍女 あの、私がわけを言って、その指環を返しますように申しますと、串戯らしく、いや、これは、人間の手を放れたもの、烏の嘴から受取ったのだから返されない。もっとも、烏にならば、何時なりとも返して上げよう──とそう申して笑うんでございます。それでも、どうしても返しません。そして──確に預る、決して迂散なものでない──と云って、ちゃんと、衣兜から名刺を出してくれました。奥様は、面白いね──とおっしゃいました。それから日を極めまして、同じ暮方の頃、その男を木戸の外まで呼びましたのでございます。その間に、この、あの、烏の装束をお誂え遊ばしました。そして私がそれを着て出まして、指環を受取りますつもりなのでございましたが、なぶってやろう、とおっしゃって、奥様が御自分に烏の装束をおめし遊ばして、塀の外へ──でも、ひょっと、野原に遊んでいる小児などが怪しい姿を見て、騒いで悪いというお心付きから、四阿へお呼び入れになりました。
紳士 奴は、あの木戸から入ったな。あの、木戸から。
侍女 男が吃驚するのを御覧、と私にお囁きなさいました。奥様が、烏は脚では受取らない、とおっしゃって、男が掌にのせました指環を、ここをお開きなさいまして、(咽喉のあく処を示す)口でおくわえ遊ばしたのでございます。
紳士 口でな、もうその時から。毒蛇め。上頤下頤へ拳を引掛け、透通る歯と紅さいた唇を、めりめりと引裂く、売女。(足を挙げて、枯草を踏蹂る。)
画工 ううむ、(二声ばかり、夢に魘されたるもののごとし。)
紳士 (はじめて心付く)女郎、こっちへ来い。(杖をもって一方を指す。)
侍女 (震えながら)はい。
紳士 頭を着けろ、被れ。俺の前を烏のように躍って行け、──飛べ。邸を横行する黒いものの形を確と見覚えておかねばならん。躍れ。衣兜には短銃があるぞ。
侍女、烏のごとくその黒き袖を動かす。おののき震うと同じ状なり。紳士、あとに続いて入る。
三羽の烏 (声を揃えて叫ぶ)おいらのせいじゃないぞ。
一の烏 (笑う)ははははは、そこで何と言おう。
二の烏 しょう事はあるまい。やっぱり、あとは、烏のせいだと言わねばなるまい。
三の烏 すると、人間のした事を、俺たちが引被るのだな。
二の烏 かぶろうとも、背負おうとも。かぶった処で、背負った処で、人間のした事は、人間同士が勝手に夥間うちで帳面づらを合せて行く、勘定の遣り取りする。俺たちが構う事は少しもない。
三の烏 成程な、罪も報も人間同士が背負いっこ、被りっこをするわけだ。一体、このたびの事の発源は、そこな、お一どのが悪戯からはじまった次第だが、さて、こうなれば高い処で見物で事が済む。嘴を引傾げて、ことんことんと案じてみれば、われらは、これ、余り性の善い夥間でないな。
一の烏 いや、悪い事は少しもない。人間から言わせれば、善いとも悪いとも言おうがままだ。俺はただ屋の棟で、例の夕飯を稼いでいたのだ。処で艶麗な、奥方とか、それ、人間界で言うものが、虹の目だ、虹の目だ、と云うものを(嘴を指す)この黒い、鼻の先へひけらかした。この節、肉どころか、血どころか、贅沢な目玉などはついに賞翫した験がない。鳳凰の髄、麒麟の鰓さえ、世にも稀な珍味と聞く。虹の目玉だ、やあ、八千年生延びろ、と逆落しの廂のはずれ、鵯越を遣ったがよ、生命がけの仕事と思え。鳶なら油揚も攫おうが、人間の手に持ったままを引手繰る段は、お互に得手でない。首尾よく、かちりと銜えてな、スポンと中庭を抜けたは可かったが、虹の目玉と云う件の代ものはどうだ、歯も立たぬ。や、堅いの候の。先祖以来、田螺を突つくに練えた口も、さて、がっくりと参ったわ。お庇で舌の根が弛んだ。癪だがよ、振放して素飛ばいたまでの事だ。な、それが源で、人間が何をしょうと、かをしょうと、さっぱり俺が知った事ではあるまい。
二の烏 道理かな、説法かな。お釈迦様より間違いのない事を云うわ。いや、またお一どのの指環を銜えたのが悪ければ、晴上がった雨も悪し、ほかほかとした陽気も悪し、虹も悪い、と云わねばならぬ。雨や陽気がよくないからとて、どうするものだ。得ての、空の美しい虹の立つ時は、地にも綺麗な花が咲くよ。芍薬か、牡丹か、菊か、猿が折って蓑にさす、お花畑のそれでなし不思議な花よ。名も知れぬ花よ。ざっと虹のような花よ。人間の家の中に、そうした花の咲くのは壁にうどんげの開くとおなじだ。俺たちが見れば、薄暗い人間界に、眩い虹のような、その花のパッと咲いた処は鮮麗だ。な、家を忘れ、身を忘れ、生命を忘れて咲く怪しい花ほど、美しい眺望はない。分けて今度の花は、お一どのが蒔いた紅い玉から咲いたもの、吉野紙の霞で包んで、露をかためた硝子の器の中へ密と蔵ってもおこうものを。人間の黒い手は、これを見るが最後掴み散らす。当人は、黄色い手袋、白い腕飾と思うそうだ。お互に見れば真黒よ。人間が見て、俺たちを黒いと云うと同一かい、別して今来た親仁などは、鉄棒同然、腕に、火の舌を搦めて吹いて、右の不思議な花を微塵にしょうと苛っておるわ。野暮めがな。はて、見ていれば綺麗なものを、仇花なりとも美しく咲かしておけば可い事よ。
三の烏 なぞとな、お二めが、体の可い事を吐す癖に、朝烏の、朝桜、朝露の、朝風で、朝飯を急ぐ和郎だ。何だ、仇花なりとも、美しく咲かしておけば可い事だ。からからからと笑わせるな。お互にここに何している。その虹の散るのを待って、やがて食おう、突こう、嘗みょう、しゃぶろうと、毎夜、毎夜、この間、……咽喉、嘴を、カチカチと噛鳴らいておるのでないかい。
二の烏 さればこそ待っている。桜の枝を踏めばといって、虫の数ほど花片も露もこぼさぬ俺たちだ。このたびの不思議なその大輪の虹の台、紅玉の蕊に咲いた花にも、俺たちが、何と、手を着けるか。雛芥子が散って実になるまで、風が誘うを視めているのだ。色には、恋には、情には、その咲く花の二人を除けて、他の人間はたいがい風だ。中にも、ぬしというものはな、主人というものはな、淵に棲むぬし、峰にすむ主人と同じで、これが暴風雨よ、旋風だ。一溜りもなく吹散らす。ああ、無慙な。
一の烏 と云ふ嘴を、こつこつ鳴らいて、内々その吹き散るのを待つのは誰だ。
二の烏 ははははは、俺達だ、ははははは。まず口だけは体の可い事を言うて、その実はお互に餌食を待つのだ。また、この花は、紅玉の蕊から虹に咲いたものだが、散る時は、肉になり、血になり、五色の腸となる。やがて見ろ、脂の乗った鮟鱇のひも、という珍味を、つるりだ。
三の烏 いつの事だ、ああ、聞いただけでも堪らぬわ。(ばたばたと羽を煽つ。)
二の烏 急ぐな、どっち道俺たちのものだ。餌食がその柔かな白々とした手足を解いて、木の根の塗膳、錦手の木の葉の小皿盛となるまでは、精々、咲いた花の首尾を守護して、夢中に躍跳ねるまで、楽ませておかねばならん。網で捕ったと、釣ったとでは、鯛の味が違うと言わぬか。あれ等を苦ませてはならぬ、悲ませてはならぬ、海の水を酒にして泳がせろ。
一の烏 むむ、そこで、椅子やら、卓子やら、天幕の上げさげまで手伝うかい。
三の烏 あれほどのものを、(天幕を指す)持運びから、始末まで、俺たちが、この黒い翼で人間の目から蔽うて手伝うとは悟り得ず、薄の中に隠したつもりの、彼奴等の甘さが堪らん。が、俺たちの為す処は、退いて見ると、如法これ下女下男の所為だ。天が下に何と烏ともあろうものが、大分権式を落すわけだな。
二の烏 獅子、虎、豹、地を走る獣。空を飛ぶ仲間では、鷲、鷹、みさごぐらいなものか、餌食を掴んで容色の可いのは。……熊なんぞが、あの形で、椎の実を拝んだ形な。鶴とは申せど、尻を振って泥鰌を追懸る容体などは、余り喝采とは参らぬ図だ。誰も誰も、食うためには、品も威も下げると思え。さまでにして、手に入れる餌食だ。突くとなれば会釈はない。骨までしゃぶるわ。餌食の無慙さ、いや、またその骨の肉汁の旨さはよ。(身震いする。)
一の烏 (聞く半ばより、じろじろと酔臥したる画工を見ており)おふた、お二どの。
二の烏 あい。
三の烏 あい、と吐す、魔ものめが、ふてぶてしい。
二の烏 望みとあらば、可愛い、とも鳴くわ。
一の烏 いや、串戯は措け。俺は先刻から思う事だ、待設けの珍味も可いが、ここに目の前に転がった餌食はどうだ。
三の烏 その事よ、血の酒に酔う前に、腹へ底を入れておく相談にはなるまいかな。何分にも空腹だ。
二の烏 御同然に夜食前よ。俺も一先に心付いてはいるが、その人間はまだ食頃にはならぬと思う。念のために、面を見ろ。
三羽の烏、ばさばさと寄り、頭を、手を、足を、ふんふんとかぐ。
一の烏 堪らぬ香だ。
三の烏 ああ、旨そうな。
二の烏 いや、まだそうはなるまいか。この歯をくいしばった処を見い。総じて寝ていても口を結んだ奴は、蓋をした貝だと思え。うかつに嘴を入れると最後、大事な舌を挟まれる。やがて意地汚の野良犬が来て舐めよう。這奴四足めに瀬踏をさせて、可いとなって、その後で取蒐ろう。食ものが、悪いかして。脂のない人間だ。
一の烏 この際、乾ものでも構わぬよ。
二の烏 生命がけで乾ものを食って、一分が立つと思うか、高蒔絵のお肴を待て。
三の烏 や、待つといえば、例の通り、ほんのりと薫って来た。
一の烏 おお、人臭いぞ。そりゃ、女のにおいだ。
二の烏 はて、下司な奴、同じ事を不思議な花が薫ると言え。
三の烏 おお、蘭奢待、蘭奢待。
一の烏 鈴ヶ森でも、この薫は、百年目に二三度だったな。
二の烏 化鳥が、古い事を云う。
三の烏 なぞと少い気でおると見える、はははは。
一の烏 いや、こうして暗やみで笑った処は、我ながら無気味だな。
三の烏 人が聞いたら何と言おう。
二の烏 烏鳴だ、と吐すやつよ。
一の烏 何も知らずか。
三の烏 不便な奴等。
二の烏 (手を取合うて)おお、見える、見える。それ侍女の気で迎えてやれ。(みずから天幕の中より、燭したる蝋燭を取出だし、野中に黒く立ちて、高く手に翳す。一の烏、三の烏は、二の烏の裾に踞む。)
薄の彼方、舞台深く、天幕の奥斜めに、男女の姿立顕る。一は少紳士、一は貴夫人、容姿美しく輝くばかり。
二の烏 恋も風、無常も風、情も露、生命も露、別るるも薄、招くも薄、泣くも虫、歌うも虫、跡は野原だ、勝手になれ。(怪しき声にて呪す。一と三の烏、同時に跪いて天を拝す。風一陣、灯消ゆ。舞台一時暗黒。)
はじめ、月なし、この時薄月出づ。舞台明くなりて、貴夫人も少紳士も、三羽の烏も皆見えず。天幕あるのみ。
画工、猛然として覚む。
魘われたるごとく四辺を眗わし、慌しく画の包をひらく、衣兜のマッチを探り、枯草に火を点ず。
野火、炎々。絹地に三羽の烏あらわる。
凝視。
彼処に敵あるがごとく、腕を挙げて睥睨す。
画工 俺の画を見ろ。──待て、しかし、絵か、それとも実際の奴等か。
底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房
1995(平成7)年12月4日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十六巻」岩波書店
1942(昭和17)年10月15日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:今井忠夫
2003年8月31日作成
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