崩れる鬼影
海野十三
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月光下の箱根山
それは大変月のいい夜のことでした。
七月の声は聞いても、此所は山深い箱根のことです。夜に入ると鎗の穂先のように冷い風が、どこからともなく流れてきます。
「兄さん。今夜のようだと、夏みたいな気がしないですネ」
「ウン」兄は真黒い山の上に昇った月から眼を離そうともせず返事をしました。
兄はなにか考えごとを始めているように見えました。兄の癖です。兄は理学士なのですが、学校の先生にも成らず、毎日洋書を読んだり、切抜きをしたり、さもないときは、籐椅子に凭れ頭の後に腕を組んでは、ぼんやり考えごとをしていました。なんでも末は地球上に一度も現れたことの無い名探偵になるのだということです。探偵名を帆村荘六といいます。
「民ちゃん、御覧よ」と兄が突然口を切りました。空を指しています。「あの綺麗な月はどうだい」
「いいお月様ですね」
「東京では、こんな綺麗な月は見られないよ。箱根の高い山の上は、空気が濁っていないから、こんなに鮮かに見えるのだよ」
「今夜は満月でしょう」
「そうだ、満月だ。月が一番美しく輝く夜だ。まるで手を伸ばすと届くような気がする。昔嫦娥という中国人は不死の薬を盗んで月に奔ったというが、恐らくこのような明るい晩だったろうネ」
私は嫦娥などという中国人のことなどはよく知らないのですが、しかしお月様の中に棲んでいるという白兎が、ピョンと一跳ねして、私の足許へ飛んできそうな気がしました。
「だが向うの森を御覧」と兄は又別のことを云いだしました。「あの森蔭の暗いことはどうだ。あまり月が明るいので、却ってあんなに暗いのだ」
「なんだか化物がゾロゾロ匍いまわっているようですね」
そうは云ってしまったものの、私は失敗ったと思いました。何という気味のわるいことを口にしたのでしょう。俄かに襟元がゾクゾクしてきました。
「ほんとに神秘な夜だ。東京にいては、こんなに月の光や、星のことなどを気にすることはないだろう。こんな高い山の頂きにいると空の化物に攫われてしまいそうな気がしてくる」
私は先程の元気も嬉しさもが、いつの間にか凋んでしまったのに気がつきました。ザワザワと高く聳えている杉の梢が風をうけて鳴ります。天狗颪のようです。なんだか急に、目に見えぬ長い触手がヒシヒシと身体の周りに伸びてくるような気がしてきました。私はいつの間にか、兄の袂をしっかり握っていました。
丁度そのときです。
微かながら、絹を裂くような悲鳴が──多分悲鳴だと思ったのですが──遠く風に送られ何処からか響いたように感じました。
「呀ッ!」
と私は口の中で呟きました。たしかに耳に聞えました。気のせいにしては、あまりに鮮かすぎます。
誰か来て下さい──といっているようにも思われる救いを求める声が、間もなく続いて聞えて来ます。魂ぎるような悲鳴です。月明の谿々に、響きわたるさまは、何というか、いと物すさまじい其の場の光景でした。私の足は、もう云うことをきかなくなって、棒のように地上に突き立ったまま、一歩も進みません。細かい震えが全身を襲って、止めようとしても止りません。
「誰か呼んでいるぜ」兄は立ち止ると、両掌を耳のうしろに帆のようにかって、首をグルグル聴音機のように廻しています。
「兄さん、兄さん」
「おおッ、こっちだ」兄はハッと形を改めて私の手を握りました。「たしかにあの家らしい。民ちゃん、さあ行ってみよう」
そういうなり兄の荘六は、私の手をひいたままひた走りに走り出しました。私も仕方なしに走りました。白い山道に、もつれ合った怪しい影が踊ります。二人の影です。
満月の夜だったことをハッキリと後悔しました。せめて月が無ければ、こんなにまで荒涼たる風光に戦慄することはなかったでしょう。
一体なにごとが起ったのでしょう?
飛びゆく怪博士
悲鳴のする家は、漸くに判りました。それは、向うに見えている大きい洋館でありました。二階の窓が開いて、何だか白い着物を着た女の人らしいものが、両手を拡げて救いを求めているようです。
「どこからあの家へ行けるんだろう」と兄が疳高い声で叫びました。
「ほら、あすこに門のようなものが見えていますよ」と私は道をすこし上った坂の途中に鉄の格子の見えるのを指しました。
「うん。あれが門だな。よォし、駈け足だッ」
私達二人は夢中で草深い坂道を駈けあがりました。
「門は締っているぞ」
「どうしましょう」押しても鉄の門はビクとも動きません。
「錠がかかっている。面倒だが乗り越えようよ。それッ」
二人はお互に助けあって、鉄柵を飛び越えました。下は湿っぽい土が砂利を噛んでいました。私はツルリと滑って尻餅をつきましたが、直ぐにまた起上りました。
「オヤッ」
先頭に立っていた兄が、何か恐いものに怯えたらしく、サッと身を引くと私を庇いました。兄は天の一角をグッと睨んでいます。私は何事だろうと思って、兄の視線を追いました。
「おお、あれは何だろう?」
私は思わず早口に独言を云いました。ああそれは何という思いがけない光景を見たものでしょうか。何という奇怪さでしょう。向うから白い服を着た男が、フワフワと空中を飛んでくるのです。それは全く飛ぶという言葉のあてはまったような恰好でした。私は何か見違いをしたのだろうと思いかえして、両眼をこすってみましたが、確かにその人間はフワリフワリと空中を飛んでいるのです。だんだんと其の怪しい人間は近づいて来ます。私は兄の腰にシッカリ縋りついていましたが、恐いもの見たさで、眼だけはその人間から一刻も離しませんでした。
「民ちゃん、恐くはないから、我慢をしているのだよ」と兄は私の肩を抱きしめて云いました。「じッと動かないで見ているのだ。じッとしてさえ居れば、あいつは気がつかないで、僕たちの頭上を飛びこして行っちまうだろう」
「うん。うん」
私はやっと腹の底からその短い言葉を吐きだしました。そのときです。怪しい人間が頭上五メートルばかりのところを、フワフワと飛び越しました。人間が飛ぶなんて、出来ることでしょうか。飛び越されるときに、なおもハッキリ下から見上げましたが、その怪しい人間は、寝台の上に乗ったように身体が横になっていました。手足はじっとしています。別に動かしもしないのに、宙を飛んでいるのです。どんな顔をしているかと見ましたが、生憎顔が上を向いているので、下からはよく見えません。しかし白い服と思ったのは、お医者さまがよく着ている手術着のようなものでした。
兄と私は、こんどは後から伸びあがって、飛んでゆく人の姿を見つめていました。白衣の人は、尚もフワフワと飛びつづけてゆきます。そしてだんだん高く昇ってゆきます。深い谿が下にあるのも気がつかぬかのようにそこを越えて、やがて向うの杉の森の上あたりで姿は見えなくなってしまいました。私達は悪夢から覚めたように、呆然と立ちつくしていました。
「不思議だ、不思議だ」
兄は低く呟いています。
そこへバタバタと跫音がして、年とった婦人が駈けてきました。さっき窓から半身を乗りだして救いを呼んでいたのは、この婦人でしょう。家の中からとびだして来たものです。
「ああ、貴方がた、主人はどこへ行ってしまったでしょう」
老婦人は紙のように蒼白な顔色をしていました。両手をワナワナと慄わせながら、兄の胸にとびついて来ました。
「奥さん、しっかりなさい」と兄は老婦人の背をやさしく撫でて言いました。
「あれは御主人だったのですか。向うの方へゆかれましたが、追駈けてももう駄目です」
「駄目でしょうか」婦人は力を落して、ヘナヘナと地上に膝をつきました。兄は直ぐに気がついて助け起しました。
「さあ奥さん。こうなれば私達は落付きをとりかえさなければなりません。詳しいお話をうかがうことによって、一番いい方法が見つかることでしょう。しっかり気をとりなおして、一伍一什を話して下さい」
「ああ、恐ろしい──」老婦人は顔に両手を当てると、何を思い出したのか、ワッと泣き出しました。
「奥さん、お家の中へお送りしましょう」
「ああ、家の中ですか。いえいえそれはいけません。家の中には、まだ恐ろしい魔物が居るにきまっています。貴方がたもきっと喰われてしまいますよ。ああ、恐ろしい……」
「魔物ですって?」兄はキッとなって老婦人の顔を見つめました。「魔物って、どんな魔物なんです」
「そいつは鬼です。あの窓のところに、その魔の影が映りました。あれは人間でも猿でもありません。しかし何だか判らないうちにその鬼の形がズルズルと崩れてしまったのです。崩れる鬼の影──ああ、あんな恐ろしいものは、まだ見たことが無い」
崩れる鬼影!
老婦人は一体どんなものを見たのでしょう。空を飛んでいった手術着の人は、どこへ行ってしまったのでしょう。
怪事件の顛末
家の中に三人が入ってみますと、別に何の物音もしません。まるで地底の部屋のように静かです。
老婦人はベッドの上に、暫く寝かして置きました。私は兄に命ぜられて、老婦人のそばについていました。兄さんはソッと部屋を出てゆきました。きっと二階の方に、事件のあとを探しに行ったのに違いありません。
老婦人はベッドの上に、静かに目を閉じて睡っています。呼吸も大変穏かになって来ました。やっと気が落付いてきたものと見えます。二階では、コツコツと跫音がしています。兄が廊下を歩いているのでしょう。
「ああ──」
老婦人は、一つ寝返りをうちました。そのときに両眼を天井の方に大きく開きました。
「ああ、うちの人は帰って来たのかしら」
「いいえ、あれは私の兄ですよ」
老婦人は急に恐ろしい顔になって、私の方を向きました。
「兄さんですって──」
「二階へ調べに行っています」
「二階へ? そりゃいけません。恐ろしい魔物にまた攫われますよ。危い、危い。さ、早くわたしを二階へ連れていって下さい」
そのときでした。俄かに二階で、瀬戸物をひっくりかえしたようなガチャンガチャンという物音が聞えてきました。つづいてドーンと床を転がるような音がします。
「民夫! 民夫! 早く来てくれッ」
兄の声です。兄が呶鳴っています。とても悲痛な叫び声です。今までにあんな声を兄が出したことを知りません。恐ろしい一大事が勃発したに違いありません。
私は老婦人の傍から立ち上ると、室の扉を蹴って飛び出しました。入口を出ると、そこには二階へ通ずる幅の広い階段があります。何か組打をしているらしい騒々しい物音が、その上でします。私は階段を嘗めるようにして駈けのぼりました。
「兄さーん」
二階の廊下を走りながら叫びました。
「兄さんッ」
ところが俄かにハタと物音がしなくなりました。さあ心配が倍になりました。いままで物音のしていたと思われる室の扉をグッと押しましたが開きません。
「うーッ」
変な呻り声が、内部から聞えます。正しくこの部屋です。
私は身体をドンドン扉にぶつけました。ぶつけて見て判ったことです。扉には鍵がかかっているのだろうと思ったのに、そうではないらしいです。何か向うに机のようなものが転がっていて、それが扉の内部から押しているらしいです。それならば、力さえ籠めれば開くだろうという見込がつきました。
ドーン。
ガラガラと扉が開きました。
部屋の中へ飛びこんでみますと、そこは図書室のようでもあり、何か実験をしている室でもあるらしく、複雑な器械のようなものが、本棚の反対の側に置いてあり、天体望遠鏡のようなものも見えます。しかし肝心の兄の姿が見えません。
(攫われたのかナ)
私はハッと胸をつかれたように感じました。
「兄さーん!」
うーッ、うーッというような呻り声が突然聞えました。呻り声のするのは、意外にも私の頭の上の方です。私は駭いて背後にふりかえると、天井を見上げました。
「ややッ──」
私はその場に仆れんばかりに吃驚しました。兄が居ました。たしかに兄が居ました。しかし何という不思議なことでしょう。兄は天井に足をついて蝙蝠のように逆さまにぶら下っているのです。頭は一番下に垂れ下っていますが、私の背よりもずっと高くて手がとどきません。兄の顔は、熟柿のように真赤です。両手は自分の顔の前で、蟹の足のように、開いたまま曲っています。何物かを一生懸命に掴んでいるようですが、別に掴んでいる物も見えません。口をモグモグやっていますが、言葉は聞えません。何者かに締めつけられているような恰好です。どうしたらいいだろう。
一体、兄はどうしてそんな天井に逆さまで立っているのか判らないのです。しかし兄が非常な危険に直面しているらしい事は充分にわかります。
(何とかして早く助けなければ……)
私は咄嗟の考えで、傍の本棚に駈けよると洋書をとりあげました。
「ええいッ」
私は洋書を、兄のお尻の辺を覘って抛げつけたのです。本は兄の身体から三十センチ程手前でバサッという物音がしてぶつかると軈てドーンと床の上に落ちて来ました。
一冊、又一冊。四五冊抛げつづけている間に、兄の様子が少しずつ変って来ました。それに勢を得て尚も抛げていますと、急に兄の身体が横にフラリと傾くとどッと下に落ちて来ました。
私は吃驚して、その下に駈けつけました。抱きとめるつもりが、うまくゆかなくて、兄の身体の下敷になったまま、ズトンと床に仆れました。
「兄さん、兄さんッ」気を失っている兄を、私は一生懸命にゆすぶりました。
「おお」兄はパッと目を見開きました。「ああ影が崩れる──」
謎のような言葉を云ったなり、兄は又ガクッとして、床の上に仆れてしまいました。
丁度そのときガチャーンと大きな物音がして、硝子窓が壊れました。見ると門の方に面した大きい硝子窓には盥が入りそうな丸い大きい穴がポッカリと明いているのです。不思議にも硝子の破片は一向に飛んで来ません。別に何物も硝子窓にあたったように見えないのに、これは一体どうしたということでしょう。
次から次へ、不思議としか言うことの出来ない事件が起ったのです。私は気を失った兄を膝の上に抱き起したまま、老婦人が始めに呟き、それから又兄が今しがた叫んだ謎の言葉を口の中に繰りかえして見ました。
「崩れる影、崩れる鬼影!」
信じられない事件
月の明るい箱根の夜の出来事でした。空中をフワフワ飛んでゆく白衣の怪人が現れたかと思うと、間近くから救いを求める老婦人の金切声が起りました。救いに行った、私の兄の帆村荘六は、その洋館の一室で、足を天井につけ、身は宙ぶらりんに垂下っていました。ニュートンの万有引力の法則を無視したような芸当ですから私は驚きました。これは様子がおかしいと気がついて、やっと助け下ろしますと、「崩れる鬼影!」と不思議な言葉を呟いたまま人事不省に陥ってしまいました。
「崩れる鬼影」とは、あの老婦人も譫言のように叫んでいた言葉ではありませんか。これは一体どうしたというのでしょう。鬼影とはなんでしょう。それが崩れるとは、何のことだか一向見当がつきません。
「兄さん。兄さん──」
私は兄の荘六の耳元で、ラウドスピーカーのような声を張りあげました。でも兄はピクリとも動きません。反応がないのです。
「兄さん、しっかりして下さい──」
と今度は両手でゆすぶってみました。しかしやっぱり兄はまるで気がつきません。所は山深い箱根のことです。人里とては遠く、もう頼むべき人も近所にはないのです。私はどうしてよいのやら全く途方に暮れてしまいました。ポロポロと熱い泪が、あとからあとへ流れて出ます。私はもう怺えきれなくなって、ひしと兄の身体に縋りつき、オイオイと声をあげて泣き始めました。笑ってはいけませんよ。誰でもあの場合、泣くより外に仕方がなかったと思います。
「ああ、ひどい熱だ──」
兄の額は焼け金のようです。私はハッと思いました。兄をこの儘で放って置いたのでは死んでしまうかも知れないぞと思いました。そうなると、もうワアワア泣いてなど居られません。私は一刻も早く、兄の身体を医者に見せなければならないと気がつきました。
私は気が俄かにシッカリ引き締まるのを覚えました。
「日本の少年じゃないか」私は泪をふるい落としました。「非常の時に泣いていてたまるものか。なにくそッ──」
私はヌックと立ち上ると、お臍に有ったけの力を入れました。
「ウーン」
すると不思議不思議。気がスーゥと落付いてきました。鬼でも悪魔でも来るものならやってこい──という気になりました。
私は兄のために、さしあたり医者を迎えねばならないと思いました。この家のうちには電話があるのではないかと思ったので、兄の身体はそのままとし、階下へ降りてみました。階段の下に果して電話機がこっちを覗いていましたので、私は嬉しくなって飛びついてゆきました。だが電話をかけようとして、私はハタと行き詰ってしまいました。どこのお医者様がいいのだか判らないのです。そのとき不図気がついたのは所轄の小田原警察署のことです。
(まず警察へこの椿事を報告し、救いを求めよう。それがいい!)
警察の電話番号は、電話帳の第一頁にありました。私は自動式の電話機のダイヤルを廻しました。──警察が出ました。
「モシモシ。小田原署ですか。大事件が起りましたから、早く医者と警官とを急行して貰って下さい」
「大事件? 大事件て、どんな事件なんだネ」
向うはたいへん落付いています。
「兄が天井に足をついて歩いていましたが、下におっこって気絶をしています。いくら呼んでも気がつかないのです」
「なにを云っているのかネ、君は。兄がどうしたというのだ」
「兄が天井に足をつけて歩いていたんです」
「オイ君は気が確かかい。こっちは警察だよ」
ああ、これほどの大事件を報告しているのに、警察では一向にとりあってくれないのです。私はヤキモキしてきました。
「まだ大事件があるのです。ここの主人が、先刻フワフワと空中を飛んで門の上をとび越え、川の向うの森の方へ行って見えなくなりました」
「なアーンだ。そこは飛行場なのかい」
「飛行場? ちがいますよちがいますよ。ここの主人は飛行機にも乗らないで、身体一つでフワフワと空中へ飛び出したのです」
「はッはッはッ」と軽蔑するような笑い声が向うの電話口から聞えました。「人間が身体だけで空中へ飛び出すなんて、莫迦も休み休み言えよ。こっちは忙しいのだから、そんな面白い話は紙芝居のおじさんに話をしてやれよ」
「どうして警察のくせに、この大事件を信じて手配をして呉れないんです」わたしはもう怺えきれなくなって、大声で叫びました。
「オイ、これだけ言うのに、まだ判らないことを云うと、厳然たる処分に附するぞ。空中へ飛び出させていかぬものなら、縄で結わえて置いたらばいいじゃないか。広告気球の代りになるかも知れないぞ」
警官はあくまで冗談だと思っているのです。私はどうかして警官に早く来て貰いたいと思っているのに、これでは見込がありません。そこで一策を思いつきました。
「ヤイヤイヤイ」私は黄色い声を出して云いました。「ヤイ警官のトンチキ野郎奴。鼻っぴの、おでこの、ガニ股の、ブーブー野郎の、デクノ棒野郎の、蛆虫野郎の、飴玉野郎の、──ソノ大間抜け、口惜しかったらここまでやってこい。甘酒進上だ。ベカンコー」
「コーラ、此の無礼者奴。警察と知って悪罵をするとは、捨てて置けぬ。うぬ、今に後悔するなッ」
警官は本気に怒ってしまいました。その様子では、間もなくカンカンになって頭から湯気を立てた警察隊がこの家へ到着することでしょう。
ところで病院は、小田原病院というのが見付かりました。私はそこへ電話をかけて、急病人であるから、自動車で飛んで来てくれるように頼みました。
さあ、これで一と安心です。警察隊と医者の来るのを待つばかりです。その間に私は現場を検べて、事件の手懸りを少しでも多く発見して置きたいと思ったのでした。私だって素人探偵位は出来ますよ。
少年探偵の眼は光る
兄の身体は重いので、絨氈の上に寝かしたままに放置するより仕方がありません。隣の寝室らしいところから、枕と毛布とをとって来て、兄にあてがいました。それから、金盥に冷い水を汲んで来て、タオルをしぼると、額の上に載せてやりました。こうして置いて私は、現場調査にとりかかったのです。
その室で、まず私の眼にうつる異様なものは、窓硝子の真ン中にあけられた大きい孔です。これは盥が入る位の大きさがあります。随分大きな孔があいたものです。何故この窓硝子が割れたのでしょうか。それを知らなければなりません。
調べてみると、その窓硝子の破片は、室内には一つも残らず、全部屋外にこぼれているのに気がつきました。どうして内側に破片が残らなかったか?
(うむ。これは窓硝子を壊す前に、この室内の圧力が室外の圧力よりも強かったのだ)
もし外の方が圧力が強いと窓硝子が壊れたときは、外から室内へ飛んでくる筈ですから室内に硝子の破片が一杯散乱していなければなりません。そういうことのないわけは、それが逆で、この室内の方が圧力が高かったわけです。
(室内の圧力が高いということは、どういう状態にあったのかしら?)
風船ではないのですから、この室内だけに特に圧力の高い瓦斯が充満していたとは考えられません。それに窓硝子の壊れる前に、私はこの室内へ入っていたのです。扉を破って入ったときに、室内に圧力の高い瓦斯と空気が充満していたものだったら、私は吃度強く吹きとばされた筈です。しかし一向そんな風もなく、普通の部屋へ入るのと同じ感じでありました。するとこの室内に高圧瓦斯が充満していたとは考えられません。
(すると、それは一体どうしたわけだろう)
こんな風に窓硝子が壊れるためには、もう一つの考え方があります。それは何か大きい物体を、この室から戸外へ抛げたとしますと、こんな大きな孔が出来るかも知れません。いつだか銀座のある時計屋の飾窓の硝子を悪漢が煉瓦で叩き破って、その中にあった二万円の金塊を盗んで行ったことがあります。あの調子です。しかし煉瓦位では、こんなに大きい孔はあきそうもありません。少くとも盥位の大きさのものを投げたことになります。
(だが、盥位の大きさのものを外に投げたとしたら、そのとき私は室の中に居たのだから、それが眼に映らなければならなかったのに──)
ところが私は、盥のようなものが、この窓硝子に打ちつけられたところなどを決して見ませんでした。いやボール位の大きさのものだってこの硝子板をとおして飛び出したのを見なかったのです。
(すると、この矛盾はどう解決すべきであろうか?)
全く不思議です。盥位の大きさのものをこの室内から外に投げたと思われるのに、それが見えなかったというのは、どうしたわけでしょう。──そうだ。こういうことが考えられるではありませんか。若し抛げられたものが、無色透明の物体だったとしたらどうでしょうか。仮に盥ほどもある大きい硝子の塊だったとしたら、そいつは私の眼にもうつらないで、この室から外へ抛げることが出来たでしょう。その外に解きようがありません。
しかしながら、そんな大きい無色透明の物体なんて在るのでしょうか。そいつは一体何者でしょうか。それは室内のどこに置いてあって、どういう風にして窓硝子へぶっつかったのでしょうか。こう考えて来ると、折角謎がとけてきたように見えましたが、どうしてどうして、答はますます詰ってくるばかりです。なぜなれば、そんな眼に見えないもの(又は眼に見え難いもの)で、莫迦に大きいもの、そして硝子を壊す力があるようなもの、そしてそれは誰が抛げたか──イヤそれはまるで化物屋敷の出来ごとでもなければ、そんな不思議は解けないでしょう。
「ム──」
と私は其の場に呻りながら腕組をいたしました。
眼に見えないか、見えにくいもので、盥位の大きさ、形は丸くて、硝子を壊す位の重いもので、その上、簡単に室内から投げられるようなものとは、一体何だろう。
怪しい白毛(?)
私はそのときに、「崩れる鬼影」という謎のような言葉を思い出しました。
ああいう非常時に、人間というものは、驚きのなかにも案外たいへんうまい形容の言葉を言うものです。「鬼影」というも「崩れる」というも、決して出鱈目の言葉ではありますまい。ことに此の家の老婦人も兄も、全く同じ「崩れる鬼影」という言葉を叫んだのですから、いよいよ以て出鱈目ではありますまい。
影というからには、どこかに映ったものでありましょう。あのときは──そうです、満月が皎々と照っていました。今はもう屋根の向うに傾きかけたようです。月光に照らされたものには影が出来る筈です。影というのは、その影ではないでしょうか。あの場合、満月の作る影と考えることは、極めて自然な考えだと思いました。すると──
(あの満月に照らされて出来た影なのだ。それはどこへ映ったか?)
私は首をふって、改めて室内を見まわしてみましたが、
(ああ、この窓に鬼影が映ったのだッ)
と思わず叫び声をたてました。そうだ、そうだ。兄はこの部屋に入る前までは「鬼影」などと口にしなかったではないですか。これはこの室に入って始めて鬼影を見たとすれば合うではありませんか。しかもこの室の、この窓硝子の上に……
私はツカツカと窓硝子の傍によりました。そして改めて丸く壊れた窓硝子を端の方から仔細に調べて見ました。破壊したその縁は、ザラザラに切り削いだような歯を剥いていました。私はそこにあったスタンドを取上げてどんな細かいことも見遁すまいと、眼を皿のようにして観察してゆきました。
しかし別に手懸りになるようなものも見えません。台をして上の方もよく見ました。だんだんと反対の側を下の方へ見て行きましたが、
「オヤ」
と思わず私は叫びました。
「これは何だろう?」
硝子の切り削いだような縁に、白い毛のようなものが二三本引懸っているではありませんか。ぼんやりして居れば見遁してしまうほどの細いものです。余り何も得るところがなかったので、それでこんな小さなものに気がついたわけでした。
これを若し見落していたならば、この怪事件の真相は、或いはいまだに解けていなかったかも知れません。それは後の話です。
私はハンカチーフを出して、その白い毛のようなものを硝子の縁から取りはなしました。そしてそのまま折り畳んで、ポケットに仕舞いこんだのでした。
丁度そのときです。
戸外に、やかましいサイレンの音が鳴り出しました。
ブーウ、ウ、ウ。ブーウ、ウ、ウ。
まるで怪獣のような呻り声です。
破れた窓から外に首を出してみますと、どうでしょう、遥か下の街道をこっちへ突進して来る自動車のヘッドライトが一イ、二ウ、三イ、ときどきパッと眩しい眼玉をこっちへ向けます。いよいよ警察隊がやって来たのです。頭からポッポッと湯気を出して怒っている警官の顔が見えるようでした。
ふりかえってみると、兄は依然として絨氈の上に長くなったまま、苦しそうな呼吸をしていました。
私は階段をトントンと下って、老婦人の室の扉を叩きました。
「おばさん。いよいよ警官が来ましたよ。もう大丈夫ですよ」
そう云いながら、私は扉を開いて室内へ一歩踏み入れました。
「や、や、やッ──」
私の心臓はパッタリ停ったように感じました。私は一体そこで、何を見たでしょうか?
妖怪屋敷
この室の扉を開くまでは、私は老婦人ひとりが、静かに寝台の上に睡っていることと思っていました。ところがどうでしょう。いま扉を押して見て駭きました。なんでもそのときの気配では、婦人の外に十人近くの人間がウヨウヨと蠢いているのを直感しました。
「オヤッ」
一体この大勢の人間は何処から入ってきたのでしょう? ここの主人の谷村博士とこの老婦人以外には、せいぜい一人二人のお手伝いさんぐらいしか居ないだろうと思った屋敷に、いつの間にか十人近くの人間が現れたのです。しかも大して広くもない此の婦人の室に、ウヨウヨと集っていたのですから、私は胆を潰してしまいました。
ですけれど、私の駭きはそれだけでお仕舞いにはなりませんでした。おお、何という恐ろしい其の場の光景でしょうか。その十人近くの人間と見えたのは、実は人聞だかどうだか解りかねる奇怪なる生物でした。そうです。生物には違いないと思います、こうウヨウヨと蠢いているのですから。
彼等は変な服装をしていました。時代のついた古い洋服──それもフロックがあるかと思えば背広があり、そうかと思うと中年の婦人のつけるスカートをモーニングの下に履いています。しかしそのチグハグな服装はまだいいとして、この人達の顔が一向にハッキリしないのは変です。
私は眼をパチパチとしばたたいて幾度も見直しました。ああ、これは一体どうしたというのでしょう。彼等の顔のハッキリしないのも道理です。全くは、顔というものが無いのです。頭のない生物です。頭のない生物が、まるで檻の中に犇きあう大蜥蜴の群のように押し合いへし合いしているのです。
「ばッ、ばけもの屋敷だ!」
私はそう叫ぶと、室内に死んだようになって横たわっている老婦人を助ける元気などは忽ち失せて、室外に飛び出しました。うわーッと怪物たちが、背後から襲いかかってくる有様が見えるような気がしました。
「助けてくれーッ」
私はもう恐ろしさのために、大事な兄のことも忘れ、一秒でも早くこの妖怪屋敷から脱出したい願いで一杯で、サッと外へ飛び出しました。
「たッ助けてくれーッ」
ああ、眩しい自動車のヘッド・ライトは、二百メートルも間近に迫っています。警察隊が来てくれたのです。あすこへ身を擲げこめば助かる! 私はもう夢中で走りました。
「オイ何者かッ。停まれ、停まれ」
私の顔面には突然サッと強い手提電灯の光が浴せかけられました。おお、助かったぞ!
怪しき博士の生活
「この小僧だナ、さっき電話をかけてきたのは」
無蓋自動車の運転台に乗っていた若い一人の警官が、ヒラリと地上に飛び降りると、私の前へツカツカと進み出てきました。
「僕です」私はもう叱られることなんか何でもないと思って返事しました。「トンチキ野郎などと大変な口を利いたのもお前だろう」
「僕に違いありません。そうでも云わないと皆さん来てくれないんですもの」
「オイオイ、待て待て」そこへ横から警部みたいな立派な警官が現れました。「それはもう勘弁してやれ」
私はホッとして頭をペコリと下げました。
「それでナニかい。一体どう云う事件なのかネ。君が一生懸命の智慧をふりしぼって僕等を呼び出した程の事件というのは……」
警部さんには、よく私の気持が判っていて呉れたのです。これ位嬉しいことはありません。私は元気を取戻しながら、一伍一什を手短かに話してきかせました。
「ウフ、そんな莫迦なことがあってたまるものか。この小僧はどうかしているのじゃないですか」
例の若い警官黒田巡査は、あくまで私を疑っています。
「まアそう云うものじゃないよ、黒田君」分別あり気な白木警部は穏かに制して、「なるほど突飛すぎる程の事件だが、僕はこの家を前から何遍も見て通った時毎に、なんだか変なことの起りそうな邸じゃという気がしていたんだ」
「そうです、白木警部どの」とビール樽のように肥った赤坂巡査が横から口を出しました。「ここの主人の谷村博士は、年がら年中、天体望遠鏡にかじりついてばかりいて他のことは何にもしないために、今では足が利かなくなり、室内を歩くのだってやっと出来るくらいだという話です」
「可笑しいなア、その谷村博士とかいう人は、確かに空中をフワフワ飛んでいましたよ」私は博士が足が不自由なのにフワフワ飛べるのがおかしいと思ったので、口を出しました。
「それは構わんじゃないか」黒田巡査が大きな声で呶鳴るように云いました。「足が不自由だから、簡単に飛べるような発明をしたと考えてはどうかネ」
「ほほう、君もどうやら事件のあったことを信用して来たようだネ」と警部は微笑しながら「だが兎に角、当面の相手は何とも説明のつけられない変な生物が居るらしいことだ。そいつ等の人数は大約十四五人は発見されたようだ。それも果して生物なのだか、それとも博士の発明していった何かのカラクリなのだか、これから当ってみないと判らない。博士の行方が判ると一番よいのだが、とにかく様子はこの少年の話で判ったから、一つ皆で天文学者谷村博士邸を捜査し、一人でもよいからその訳のわからぬ生物を捕虜にするのが急務である。判ったネ」
「判りました」「判りました」と凡そ二十人あまりの警官隊員は緊張した面を警部の方へ向けたのでした。彼等はいずれも防弾衣をつけ、鉄冑をいただき、手には短銃、短剣、或いは軽機関銃を持ち、物々しい武装に身をととのえていました。これだけの隊員が一度にドッと飛びかかれば、流石の妖怪たちも忽ち尻尾を出してしまうことであろうと、大変頼もしく感ぜられるのでした。
怪物の怪力
「では出動用意」警部は手をあげました。「第一隊は表玄関より、第二隊は裏の入口より進む。それから第三隊は門内の庭木の中にひそんで待機をしながら表門を警戒している。本官とこの少年は第一隊に加わって表玄関より進む。──よいか。では進めッ!」
警官はサッと三つの隊にわかれ、黙々として敏捷に、たちまち行動を起しました。
私はすっかり元気になって、第一隊の先頭に立ち、表玄関を目懸けて駈け出しました。
「オイ少年、静かに忍びこむのだよ」
たちまち注意を喰いました。そうです、これは戦争じゃなかったのでした。あまり活溌にやると、妖怪たちは逃げてしまうかも知れません。
玄関は静かでした。訓練された七名の警官は、まるで霧のように静かに滑りこみました。階下の廊下は淡い灯火の光に夢のように照らし出されています。気のせいか、黄色い絨氈が長々と廊下に伸びているのが、いまにもスルスルと匍い出しそうに見えます。
そのとき私の腕をソッと抑えた者があります。ハッと駭いて振りかえると、何のこと白木警部です。
「怪物のいる部屋は何処かネ」
と警部は私の耳に唇を触れんばかりに囁きました。
「……」
私は無言のまま、すぐ向うの左手の扉を指しました。老婦人を囲んで、怪しげなる服装をつけた頭のない生物が、蜥蜴のように蠢めいているところを又見るのかと思うと、いやアな気持に襲われて参りました。
警部は首を上下に振って大きい決心を示しました。「懸れッ!」サッと警部の手が扉の方を指しました。
黒田巡査が最先に飛び出して、扉の把手に手をかけると、グッと押しました。
「オヤ、あかないぞ」
ウーンと力を入れて体当りをくらわせてみましたが、どうしたものかビクとも開かないのです。
「警部どの、これァ駄目です」
「扉を壊して入れッ。三人位でぶつかってみろ」
三人の逞しい警官が、たちまちその場に勢ぞろいをすると、一、二イ、三と声を合わせ、
「エエイッ」
と扉にぶつかりました。グワーンと音がするかと思いの外、呀ッと叫ぶ間もなく、扉はパタリと開き、三人の警官は勢いあまってコロコロと球でも転がすように、室内に転げ込みました。どうやら鍵は懸っていなかったものらしいのです。
一同は思いがけぬことに、ちょっとひるんで見えましたが、
「それ、捕縛しろッ」
と警部が激励したので、ワッと喚いて室内に躍りこみました。そこには予期していたとおり、頭のない洋服を着た怪物がゾロゾロと匍いまわっていました。
「ウム」
とその一つに手をかけるとたんに、ピシリとひどい力で叩かれました。警官は呀ッと顔をおさえたまま尻餅をつきましたが、叩かれたところは見る見る裡に紫色に腫れ上ってきます。
あっちでもこっちでも、警官が宙に跳ねとばされています。壁へ叩きつけられて気絶をするもの、ガックリと伸びるものなどあって、形勢は不利です。
ピリピリピリピリ。
もうこれまでと、警部は非常集合の警笛をとって、激しく吹き鳴らしました。
素破一大事とばかりに裏門の一隊と、表門に待機していた予備隊とが息せききって駈けつけました。
警部はその二隊を、問題の室には向けず、階段の影に集結しました。この上乱闘をしてみたって、あの怪物には到底歯が立たないことを悟ったからでしょう。
「機関銃隊、配置につけッ」
たちまち階段の影に三挺の機関銃を据えつけました。しかし引金を引くわけにはゆきません。向うの室では、味方の警官も苦闘をつづけていれば、老婦人もどこかの隅にいるかと考えられるからです。唯一つの機会は、室から外へ出てくる怪物があれば、この機関銃から弾丸の雨を喰らわせることが出来ます。
「うーむ、今に見ていろ」
警部は自暴自棄で、苦闘している部下のところへ飛びこんでゆきたいのを、じっと怺えていました。それは犬死にきまっていますが見す見す部下が弱ってゆくのを眺めていることは、どんなにか苦しいことでしょう。戦いの運はもう凶のうちの大凶です。
鬼影を見る
「呀ッ、出て来たッ」
果然、モーニング・コートを着て、下には婦人のスカートを履いた奴が、室の入口からフラフラと廊下の方に現れました。生け捕りにはしたいのですが、こう強くてはもう諦めるより外はありません。死骸でも引き擦って帰れると、成功の方かも知れません。
「撃ち方ァ始めッ」
ダダダダダダダダーン。
ドドドドドドドドーン。
銃口からは火を吹いて銃丸が雨霰と怪物の胴中めがけて撃ち出されました。
「この野郎、まだかッ」
バラバラと飛んでゆく弾丸は、黒いモーニングの上にたちまち白い弾丸跡を止め度もなく綴ってゆくのでした。とうとう洋服の布地の一部がボロボロになって、銃火に吹きとばされました。
怪物の腹のところに、ポカリと大きい穴があきました。それだのに怪物は、悠々と廊下を歩いているのです。
「あの怪物には、身体も無いぞ」
誰かが気が変になったような悲鳴をあげました。なるほどモーニングの大きい穴の向うには、背中の方のモーニングの裏地が見えるばかりで中はガラン洞に見えました。こんな不思議な生物があるのでしょうか。
「あれは洋服だけが動いているのじゃないだろうか」
一人の警官が、いくら雨霰と飛んでゆく機関銃の弾丸を喰らわせてもビクとも手応えがないのに呆れてしまって、こんなことを叫びました。しかしその証明は、立ち処につきました。というのは、破れモーニングの怪物が、こんどはノソノソと、機関銃隊の方へ動き出したのです。
ビュン、ビュン、ビュン、ビュン。
異様な音響を耳にしたかと思うと、そのモーニングはサッと走り出しました。呀ッと一同が首をすくめる遑もあらばこそ、機関銃がパッと空中に跳ねあがり、天井に穴をあけると、どこかに見えなくなりました。
「これはいかん」
と思う暇もなく、一同の向う脛は、いやッというほどひどい力で払われてしまいました。
「うわーッ」
警部と私とが助かったばかりで、あとは皆将棋だおしです。もう起きあがれません。警官隊は全滅です。
モーニングの怪物はと見てあれば、フワフワと開け放された玄関に出てゆきました。玄関には入口の扉の影だけが、月光に照らされて三角形の黒い隈をつくっています。
怪物はその扉の向うへ出てゆきました。出て行ったと思う間もなく、玄関の厚い硝子戸にモーニングの影がうつりました。
「おお、あれを見よ、あれを見よ」
警部さんは生きた心地もないような慄え声で叫びました。
おお、それは何という物凄い影でしょうか。硝子戸に月が落とした影は、モーニングだけの影ではなかったのでした。稍淡い影ではありましたが、モーニングの上に、確かに首らしいものが出ています。その頭がまた四斗樽のように大きいのです。
モーニングの袖からも手らしいものが出ていますが、それが不釣合にも野球のミットのような大きさです。
いやもっと駭くことがあります。
その大きい頭部が、見る見るうちに角が出たり、二つに分かれたり、そうかと思うとスーッと縮んで小さくなったり、その気味の悪さといったらありません。なんと形容して云ったらよいか。
ああ、そうだ。
「崩れる鬼影!」
影が崩れる、鬼の影──というのは、これなのです。私は背中に冷水を浴びたように、ゾーッとしてきました。血が爪先から膝頭の辺までスーッと引いたのが判りました。一体これは何者でしょうか。
鬼か、人か?
妖怪屋敷を照らす満月の光は、いよいよ青白くなって参りました。
異変の夜は、まだいくばくも過ぎていないのです。
続いて起ろうとする怪事件は、そも何か。
警官の紛失
「化物は何をしているんでしょ。ねエ警部さん」
と私は白木警部の腕を抑えて云いました。
「なんだか、ガタガタいってたのが、すこしも音がしなくなったようだネ」
そういって警部は、注意ぶかく頭をもちあげて、戸口の方を、見ました。月光は相変らず明るく硝子戸を照らしていましたが、先刻見えた怪しい鬼影は、まったく見当りません。唯空しく開いた入口の外は木立の影でもあるのか真暗で、まるで悪魔が口を開いて待っているような風にも見えました。
「さっき戸口がゴトゴト云ってたが、みな外へ逃げ出したのかも知れない」
警部の声を聞きつけたものか、あちらこちらから、部下の警官が匍いよってきました。
「警部どの。あれは一体人間なんですか」
「人間ですか。それとも人間でないのですか」
部下のそういう声は慄えを帯びていました。
「さア、私にはサッパリ見当がつかん」
警部も、今は匙を投げてしまいました。それから沈黙の数分が過ぎてゆきました。その間というものは建物の中がまるで死の国のような静けさです。
「オイみんな。元気を出せ」と警部が低いが底力のある声で云いました。「この機に乗じて一同前進ッ」
警部は左手をあげて合図をすると、自ら先頭に立ってソロソロと匍い出しました。ゆっくりゆっくり戸口の方へ躙り出てゆきます。息づまるような緊張です。
「オヤオヤ」
戸口のところまで達すると、警部は意外な感に打たれて身を起しました。
「どうしましたどうしました」
私も警官たちと一緒にガタガタと靴を鳴らして戸口へ飛び出しました。外は水を打ったように静かな眺めです。月光は青々と照り亙り、虫がチロチロと鳴いています。まるで狐に化かされたような穏かな風景です。
「居ないようだネ」と警部が云いました。その声から推して大分落着いてきたようです。「では全員集まれッ」
全員は直ちにドヤドヤと整列しました。私は恥かしかったので、横の方で気を付けをしました。
「番号ッ」
一、二、三、……と勇しい呼び声。
「オヤ、一人足りないじゃないか」
「一人足らん。誰が集まらんのだろう」
警官たちは不思議そうに、お互いの顔をジロジロ眺めました。
「ああ、あの男が居ない。黒田君が居ない」
「そうだ、黒田君が見えんぞ」
黒田君、黒田クーンと呼んで見たが、誰も返事をするものがありません。
「これは穏かでない。では直ちに手分けして黒田を探してこい。進めーッ」
警部は命令を下しました。一同はサッと其の場を散りました。家の中に引かえすもの、門の方へ行くもの、木立の中へ入るもの──僚友の名を呼びつつ大捜索にかかりました。しかし黒田警官の姿は何処にも見当りません。
「警部どの、見当りません」
「どうも可笑しいぞ。どこへ行ったんだろう」
そうこうしているうちに、庭の方を探しに行った組の警官が、息せき切って馳せ帰ってきました。
「警部どの。向うに妙な場所があります」
「妙な場所とは」
「池がこの旱魃で乾上って沼みたいになりかかっているところがあるんです。その沼へ踏みこもうという土の柔いところに、格闘の痕らしいものがあるんです。靴跡が入り乱れています。あんなところで、誰も格闘しなかった筈なんですが、どうも変ですよ」
「そうか、それア可笑しい。直ぐ行ってみよう」
警部さんはその警官を先頭に、急いで乾上った池のところへ駈けつけてみました。
なるほど入り乱れた靴の跡が、点々として柔い土の上についています。
警部さんは、懐中電灯をつけて、その足跡を検べ始めました。
「オヤこれは変だな。足跡が途中で消えているぞ」
「消えているといいますと」
「ほら、こっちから足跡がやってきて、ほらほらこういう具合にキリキリ舞いをしてサ、向うへ駈け出していって、さア其処で足跡が無くなっているじゃないか」
「成る程、これア不思議ですネ」
「こんなことは滅多にないことだ。おお、ここに何か落ちているぞ。時計だ。懐中時計でメタルがついている。剣道優賞牌、黒田選手に呈す──」
「あッ、それは黒田君のものです。それがここに落ちているからには……」
「うん、この足跡は黒田君のか。黒田君の足跡は何故ここで消えたんだろう?」
蘇生した帆村探偵
そのとき、門の方に当って、けたたましい警笛の音と共に、一台の自動車が滑りこんできました。
「何者かッ」
というんで、自動車の方へ躍り出てみますと、車上からは黒い鞄をもった紳士が降りてきました。待ちに待った小田原病院のお医者さんが到着したのです。
「なァーンだ」
警官は力瘤が脱けて、向うへ行ってしまいました。私はそのお医者さまの手をとらんばかりにして、兄の倒れている二階の室へ案内しました。
兄は依然として、長々と寝ていました。医者は一寸暗い顔をしましたが、兄の胸を開いて、聴診器をあてました。それから瞼をひっくりかえしたり、懐中電灯で瞳孔を照らしていましたが、
「やあ、これは心配ありません。いま注射をうちますが、直ぐ気がつかれるでしょう」
小さい函を開いて、アンプルを取ってくびれたところを切ると、医者は注射器の針を入れて器用に薬液を移しました。そして兄の背中へズブリと針をさしとおしました。やがて注射器の硝子筒の薬液は徐々に減ってゆきました。その代りに、兄の顔色が次第に赤味を帯びてきました。ああ、やっぱり、お医者さまの力です。
三本ばかりの注射がすむと、兄は大きい呼吸を始めました。そして鼻や口のあたりをムズムズさせていましたが、大きい嚔を一つするとパッと眼を開きました。
「こン畜生」
兄は其の場に跳ね起きようとしました。
「やあ気がつきましたネ。もう大丈夫。まァまァお静かに寝ていらっしゃい」
医者は兄の身体を静かに抑えました。
「おお、兄さん──」
私は兄のところへ飛びついて、手をとりました。不思議にもう熱がケロリとなくなっていました。
「やあ、お前は無事だったんだネ。兄さんはひどい目に遭ったよ」
兄は医者に厚く礼を云って、まだ起きてはいけないかと尋ねました。医者はもう暫く様子を見てからにしようと云いました。
その間に、私が見たいろいろの不思議な事件の内容を兄に説明しました。
「そうかそうか」だの「それは面白い点だ」などと兄はところどころに言葉を挟みながら、私の報告を大変興味探そうに聞いていました。
「兄さん。この家は化物の巣なのかしら」
「そうかも知れないよ」
「でも、化物なんて、今時本当にあるのかしら」
「無いとも云いきれないよ」
「どうも気味の悪い話ですが」と小田原病院の医師が側から口を切りました。「ここの谷村博士の研究と何か関係があるのではないでしょうか。博士と来たら、二十四時間のうち、暇さえあれば天体を覗いていられるのですからネ。殊に月の研究は大したものだという評判です」
「月の研究ですって」と兄は強く聞き返しました。今夜も大変月のいい夜でありました。
「博士が空中を飛んだり、あの窓から眼に見えないそして大きなものが飛び出したり、それから洋服の化物のようなものがウロウロしていたり、あれはどこからどこまでが化物なのかしら」
「それは皆化物だろう」
「兄さんは化物を本当に信じているの」
「化物か何かしらぬが、僕がこの室で遭ったことはどうも理屈に合わない。あれは普通の人間ではない。眼には見えない生物が居るらしいことは判る。しかし月の光に透かしてみると見えるんだ。僕はこの部屋に入ると、いきなり後からギュッと身体を巻きつけられた。呀ッと思って、身体を見ると、何にも巻きついていないのだ。しかし力はヒシヒシと加わる。僕は驚いてそれを振り離そうとした。ところがもう両腕が利かないのだ。何者かが、両腕をおさえているのだ。僕は仕方なしに、足でそこら中を蹴っとばした。すると何だか靴の先にストンと当ったものがある。しかし注意をしてそこらあたりを見るが、何にも見えないことは同じだった。そのうちに、呀ッと思う間もなく、僕の身体は中心を失ってしまった。身体が斜めに傾いたのだ。僕はズデンドウと尻餅をつくだろうと思った。ところが尻餅なんかつかないのだ。身体は尚も傾いて身体が横になる。そこで僕はもう恐怖に怺えきれなくなって、お前を呼んだのだ」
「ああ、あのときのことですネ」
「すると今度はイキナリ宙ぶらりんになっちゃった。足が天井にピタリとついた。不思議な気持だ。尚も叫んでいると、今度は頸がギュウと締まってきた。苦しい、呼吸が出来ない──と思っているうちに、気がボーッとしてきてなにが何だか、記憶が無くなってしまった。こんな不思議なことがまたとあろうか」
と兄は始めて、この博士の室で遭ったという危難について物語りました。
「眼に見えない生物が、兄さんに飛びかかったんだ」
「そうだ。そう考えるより仕方がない。僕はお医者さまが許して下されば、もっと検べたいことが沢山あるんだ……」
「そうですネ」と医者は時計を見ながら云いました。「大分元気がおよろしいようですが、では無理をしないように、すこしずつ動くことにして下さい」
「じゃ、もう起きてもいいのですネ」
兄は嬉しそうに身体を起しました。そして両腕を体操のときのように上にあげようとして、ア痛タタと叫びました。
二人連れの怪人
兄は元気になって、谷村博士の老夫人を見舞いました。
「まア、貴郎までとんだ目にお遭いなすってお気の毒なことです」
と老婦人は泪さえ浮べて云いました。
「おや、あれはどうしたのです」
兄は内扉の向うが、乱雑にとりちらかされてあるのを見て、老婦人に尋ねました。
「あれは衣服室なのです。それが貴郎、ゾロゾロ動き出して、まるで生物のように此の室を匍い廻ったんです」
「ああ、あの一件ですネ。するとあの洋服はすべて先生と奥様のだったというわけですね」
老婦人は黙って肯きました。
「いや、それですこし判って来たぞ」
「どう判ったの、兄さん」
「まア待て──」
兄はそれから庭へ下りてゆきました。警官たちは例の池のところに、何か協議を開いていました。私は兄を紹介する役目になりました。
「いや皆さん、私まで御心配かけまして」と兄は挨拶をしました。「ときに警官の方が一人見えないそうですね」
「黒田という者ですがネ。これ御覧なさい。この足跡がそうなんですが、黒田君は途中で突然身体が消えてしまったことになるので、今皆と智慧を絞っているのですが、どうにも考えがつきません」
「突然身体が消えるというのは可笑しいですネ。見えなくなることがあったとしても足跡は見えなくならんでしょう。矢張り泥の上についていなければならんと思いますがネ」
「それもそうですネ」
「僕の考えでは、黒田さんは、私を襲ったと同じ怪物に、いきなり掠われたんだと思いますよ。あの怪物が、追っかけた黒田さんの身体を掴え、空中へ攫いあげたのでしょう。黒田さんの身体は宙に浮いた瞬間、足跡は泥の上につかなくなったわけです。それで理窟はつくと思います」
「なるほど、黒田君が空中にまきあげられたとすればそうなりますネ。しかし可笑しいじゃないですか」と警部はちょっと言葉を停めてから「それだと黒田君の足跡のある近所に怪物の足跡も一緒に残っていなければならんと思いますがネ」
「さあそれは今のところ僕にも判らないんです」と兄は頭を左右に振りました。
そのとき家の方にいた警官が一人、バタバタと駈け出してきました。
「警部どの、警部どの」
「おお、ここだッ。どうした」
ソレッというので、先程の異変に懲りている警官隊は、集まって来ました。
「いま本署に事件を報告いたしました。ところが、その報告が終るか終らないうちに、今度は本署の方から、怪事件が突発したから、警部どの始め皆に、なるべくこっちへ救援に帰って呉れとの署長どのの御命令です」
「はて、怪事件て何だい」
「深夜の小田原に怪人が二人現れたそうです。そいつが乱暴にも寝静まっている小田原の町家を、一軒一軒ぶっこわして歩いているそうです」
「抑えればいいじゃないか」
「ところがこの怪人は、とても力があるのです。十人や二十人の警官隊が向っていっても駄目なんです。鉄の扉でもコンクリートの壁でもドンドン打ち抜いてゆくのです。そして盛んに何か探しているらしいが見付からない様子だそうで、このままにして置くと、小田原町は全滅の外ありません。直ぐ救援に帰れということです」
「その怪人の服装は?」
「それが一人は警官の帽子を着た老人です。もう一人は白い手術着のような上に剣をつった男で、何だか見たような人間だと云ってます。異様な扮装です」
「なに異様な扮装。そして今度は顔もついているのだナ」
「失礼ですが」と兄が口を挟みました。「どうやら行方不明の谷村博士と黒田警官の服装に似ているところもありますネ」
「そうです。そうだそうだ」警部は忽ち赤くなって叫びました。「じゃ現場へ急行だ。三人の監視員の外、皆出発だ。帆村さん、貴方も是非来て下さい」
ああ、変な二人の怪人は、小田原の町で一体何を始めたのでしょう。例の化物はどこへ行ったでしょう。奇怪なる謎は解けかけたようで、まだ解けません。
重大な手懸り
「帆村さん、身体の方は大丈夫ですか」
警官隊の隊長白木警部はそういって私の兄を優しくいたわってくれました。
「ありがとう。だんだんと元気が出てきました。僕も連れてっていただきますから、どうぞ」
「どうぞとはこっちの言うことです。貴方がいて下さるので、こんなひどい事件に遭っても私達は非常に気強くやっていますよ」
そこで私達も白木警部と同じ自動車の一隅に乗りました。私達の自動車は先頭から二番目です。警笛を音高くあたりの谷間に響かせながら、曲り曲った路面の上を、いとももどかしげに、疾走を始めました。
「兄さん」と私は荘六の脇腹をつつきました。
「なんだい、民ちゃん」と兄は久しぶりに私の名を呼んでくれました。
「早く夜が明けるといいね」
「どうしてサ」
「夜が明けると、谷村博士のお邸にいた化物どもは、皆どこかへ行ってしまうでしょう」
「さア、そううまくは行かないだろう。あの化物は、あたりまえの化物とは違うからネ」
「あたりまえの化物じゃないというと……」
「あれは本当に生きているのだよ。たしかに生物だ。人間によく似た生物だ。陽の光なんか、恐れはしないだろう」
「すると、生物だというのは、確かに本当なんだネ、兄さん。人間によく似たというとあれは人間じゃないの」
「人間ではない。人間はあんなに身体が透きとおるなんてことがないし、それから身体がクニャクニャで大きくなったり小さくなったり出来るものか。また足を地面につかないで力を出すなんておかしいよ。とにかく地球の上に棲んでいる生物に、あんな不思議なものはいない筈だ」
「じゃ、もしや火星からやって来た生物じゃないかしら」
「さアそれは今のところ何とも云えない。これぞという証拠が一つも手に入っていないのだからネ」
そういって兄は首を左右にふりました。そのとき私の頭脳の中に、不図浮び出たものがありました。
「あッ、そうだ。その証拠になるものが一つあるんですよ」
「えッ。何だって?」
「証拠ですよ」と云いながら私は大事にしまってあった手帛の包みをとり出しました。「これを見て下さい。兄さんが気を失った室の硝子窓のところで発見したのですよ。硝子の壊れた縁に引懸かっていたのですよ。ほらほら……」
そういって私は、あの白い毛のようなものを取り出して兄に見せると共に、発見当時の一伍一什を手短かに語りました。
「ふふーン」兄は大きい歎息をついて、白木警部のさし出す懐中電灯の下に、その得態の知れない白毛に見入りました。
「一体なんです。化物が落していったとすると、化物の何です。頭に生えていた白毛ですか」
「イヤそんなものじゃありません。──これはいいものが手に入りました。御覧なさい。これは毛のようで毛ではありません。むしろセルロイドに似ています。しかしセルロイドと違って、こんなによく撓みます。しかも非常に硬い。こんなに硬くて、こんなによく撓むということは面白いことです。覚えていらっしゃるでしょうネ。あの化物の身体は、自由に伸び縮みをするということ、そして透明だということ、──これがあの化物の皮膚の一部なのです」
「皮膚の一部ですって!」
「そうです。化物が硝子窓を破って外へ飛びだしたときに、剃刀よりも鋭い角のついた硝子の破片でわれとわが皮膚を傷つけたのです。そして剥けた皮膚の一部がこの白毛みたいなものなのです。いやこれは中々面白いことになってきましたよ」
兄はひとりで悦に浸っていました。
化物追跡戦
「とにかく此の白毛みたいなものを早速東京へ送って分析して貰うことにしましょう。分析して貰えば、これが地球上に既に発見されているものか、それとも他のものか、きっと見分けがつくと思いますよ」
「なるほど、なるほど。いいですね」と白木警部は大きく肯きました。
そのとき先頭に駆っている自動車から、ポポーッ、ポポーッと警笛が鳴りひびきました。
「なんだ」
「イヤ警部どの、もう小田原へ入りましたが、ちょっと外を御覧下さい」
「うむ──」
警部さんにつづいて私達も外を覗いてみました。両側の家は、停電でもしているかのように真暗です。しかしヘッド・ライトに照らされて街並がやっと見えます。ああ、何たる惨状でしょうか。
「うむ、これはひどい!」
「まるで大地震の跡のようだッ」
「おお、向うに火が見えるぞ」
近づいてみると、それは町の辻に設けられた篝火です。青年団員やボーイスカウトの勇しい姿も見えます。──警官の一隊がバラバラと駈けて来ました。
「どッどうした」白木警部は手をあげて怒鳴るように云いました。
「やあ、警部どの」と頤髯の生えた警官が青ざめた顔を近づけました。「やっと下火になりました。その代り、小田原の町は御覧のとおり滅茶滅茶です」
「二人の怪人というのはどうした」
「決死隊が追跡中です。小田原駅の上に飛びあがり、暗い鉄道線路の上を東の方へ逃げてゆきました」
「そうか、じゃ私達も行ってみよう」
自動車は更にエンジンをかけて、スピードを早めました。自動車に仕掛けてあるサイレンの呻りが、情景を一層物凄くしました。どんどん飛ばしてゆくほどに、とうとう小田原の町を外れて、線路と並行になりました。生ぐさい草の香が鼻をうちます。
「どうだ、見えないか」と警部は大童です。
「さアまだ見えませんが……呀ッ呀ッ、居ました、居ましたッ」
「どこだ、どこだッ」
「いま探照灯をそっちへ廻しますから……」
運転台のやや高いところに取りつけてあった探照灯がピカリと首を動かすと、なるほど線路上にフワフワと跟めきながら東の方へ走っている二つの白い人影がクッキリ浮かび出ました。一人の方は剣を吊っているらしく、ときどきピカピカと鞘らしいものが閃きます。
「居た、居た、あれだッ」と兄が叫びました。
「追跡隊はどうしたのだ。──うん、あすこの線路下に跼っている一隊に尋ねてみよう」
警部さんは汗みどろになっての指揮です。
「オーイ、どうして追駆けないのだ。元気を出せ、元気を──」
「いま最後の一戦をやるところです。見ていて下さい。駅の方から機関車隊が出動しますから……」
「ナニ、機関車隊だって……」
その言葉が終るか終らぬ裡に、ピピーッという警笛が駅の方から聞えました。オヤと思う間もなく、こっちに驀進してきた一台の電気機関車、──と思ったが一台ではないのでした。二ツ、三ツ、四ツ。機関車が四つも接がって驀進してゆきます。
なにをするのかと見ていると、上り線と下り線との両道を機関車は二列に並んで、二人の怪人に迫ってゆくのでした。いまにも二人の怪人は車輪の下にむごたらしく轢き殺されてしまいそうな様子に見えました。
「あッ」
と私はあまりの惨虐な光景に目を閉じました。
隧道合戦
しかしながら恐いもの見たさという譬えのとおり、私はこわごわそッと目を開いてみました。すると、ああ、なんという不思議なことでしょう。猛然と突進していった筈の機関車が、急に速力も衰え、やがて反対にジリジリと後へ下ってくるのでありました。見ると、驚いたことに例の二人の怪人が、機関車の前に立って後へ押しかえしているのです。なんという恐ろしい力でしょう。それは到底人間業とは思われません。機関車はあえぎつつ、ジリジリと下ってくる一方です。
そのときピピーッと汽笛が鳴ると、こんどは機関車の方が優勢になったものか、逆に向うへジリジリと押しかえしてゆきます。怪人は機関車の前に噛りついたまま押しかえされてゆきます。まるで怪人と機関車の力較べです。しかし私はそのとき、変な事を発見しました。それは怪人の足が地上についていないということです。地上に足がつかないでいて、どうしてあのような力が出せるのでしょう。これは一向腑に落ちません。
「もしや……」
とそのとき気のついた私は、探照灯の光の下に、尚も怪人の身体を仔細に注意して見ました。
「おお、思ったとおりだッ」
私は思わず大きい声を立てました。怪人の身体は機関車にピタリと密着していないのです。怪人の身体と機関車との間には、三十センチほどの間隙があきらかに認められました。前に兄が谷村博士邸で、天井に逆にぶら下っていたとき、私は下から洋書を投げつけたことがあります。あのとき、どうしたものか、投げた洋書は兄の身体に当らずして、いつも三十センチほど手前でパッと跳ねかえるのでした。何か兄の身体の上に三十センチほどの厚さのものが蔽っている──としか考えられない有様でした。あとから兄に聞いたところによれば、あのとき兄は化物に胴中をギュッと締められているように感じたという話でした。
では、この場合、あの機関車を後へ押しているのは、あの怪人だけではなく、あの怪人に纏いついている化物の仕業ではありますまいか。イヤそうに違いありません。やっぱりあの化物です。しかし化物がどうして怪人と力を合わせているのでしょうか。
「何が思ったとおりだ」と兄が尋ねました。
「やっぱりあの化物が機関車を前から押しかえしているのですよ」
「ほう、お前にそれが解るか」
私はそのわけをこれこれですと、手短かに兄に話をしてきかせました。
ジリジリと機関車は尚も怪人を押しかえしてゆきました。そして機関車はとうとう、隧道の入口にさしかかりました。それでも機関車はグングン押してゆきます。怪人の姿は全く見えなくなりました。隧道の中に隠れてしまったのです。
そうこうしているうちに、突如として耳を破るような轟然たる大音響がしました。同時に隧道の入口からサッと大きな火の塊が抛りだされたように感じました。
グォーッ。ガラガラガラガラ。
天地も崩れるような物音とはあのときのことでしょう。私の耳はガーンといったまま、暫くはなにも聞こえなくなってしまいました
「隧道の爆発だッ」
「入口が崩れたッ」
という人々の立ち騒ぐ物声が、微かに耳に入ってきました。どうしたというのでしょう。
「うわーッ。逃げてきた逃げてきた」
「警官も鉄道の連中も、要領がいいぞオ」
そんな声も聞えます。
「あまりに乱暴じゃないですか。東京方面へ列車が出ませんよ」
と抗議しているのはどうやら兄らしいです。
「いや仕方が無い。報告の内容から推して考えると、ああするより外に道はないのです。むしろ思い切って決行したところを褒めてやって下さい。なにしろ化物は完全に隧道の中に生き埋めだ」
「隧道の向うが開いているでしょう」
「なに鴨の宮の方の入口も、あれと同時に爆発して完全に閉じてしまったのです。化け物は袋の鼠です。もうなかなか出られやしません」と白木警部は一人で感心していました。
後で詳しく聞いた話ですけれど、二人の怪人の戦慄すべき暴行について、小田原署の署長さんは一世一代の智慧をふりしぼって、あの非常手段をやっつけたのでした。その儘放って置けば、あの怪人や化物は何をするか判らないのです。お終いには東京の方へ飛んでいって空襲よりもなお恐ろしい惨禍を撒きちらすかも知れません。そんなことがあっては一大事です。署長さんは、あの怪人の背後に、例の化物団が居ると見て、これを釣り出すために機関車隊を編成させ、力較べをさせたのです。恐さを知らぬ化物団は、勝っているうちはよかったが、力負けがしてくると大焦りに焦って、大真面目に機関車を後へ押し返そうと皆で揃ってワッショイワッショイやっているうちに、いつの間にか隧道の中へ押し籠められたのです。それに夢中になっている間に、爆破隊が例の入口封鎖を見事にやってのけました。むろん機関車にのっていた警官や乗務員連中は爆破の前に車から飛び降りて、安全な場所までひっかえしてきたわけでありました。
こうして正体の解らない化物は封鎖されてしまった形ですが、こんなことで大丈夫でしょうか。化物はもう残っていないのでしょうか。残っていたら、それこそ大変です。それから気にかかるのは、谷村博士と黒田警官の行方です。それも今夜は尋ねようがありません。
警備の人々は帽子を脱いでホッと溜息を洩らしました。そして道傍にゴロリと横になると、積り積った疲労が一時に出て、間もなく皆は泥のような熟睡に落ちました。
山頂の怪
警備の人達の苦労を知らぬ気に、いくばくもなく東の空が白んできました。生き残った雄鶏が元気なときをつくると、やがて夜はほのぼのと明け放れました。
「やあ」
「やあ」
目醒めた警備の人々は、相手の真黒に汚れた顔を見てふきだしたい位でした。瞼は腫れあがり、眼は真赤に充血し、顔の色は土のように色を失い、血か泥かわからぬようなものが、あっちこっちに附着していました。しかしそれは自分の顔のよごれ方と同じであったのですが、始めは気がつきませんでした。
「化物はどうしたな、オイ巡視だッ」白木警部の呶鳴る声がしました。
私もその声に、ハッキリと目が醒めました。ハッと思って傍を見ると、一緒にいた筈の兄の荘六の姿が見えません。
「兄さん──」
呼んでみても、誰も返事をする者がありません。
「もしもし、兄を知りませんか」
「帆村君かネ」と警部さんも訝しそうにあたりを振りかえってみました。「そこにいたと思ったが、見えないネ」
私は急に不安になりました。
警部さんは巡視隊を編成すると、勇しく先頭に立って歩きはじめました。
「私も連れていって下さい」
「ああ、恐ろしくなければ、ついて来給え」
そういって呉れたので、私も隊伍のうしろに随って歩き出しました。
歩いているうちにも、化物の封鎖された隧道のことよりも、兄のことが心配になってたまりません。私はあたりをキョロキョロ眺めながら歩いてゆくので、幾度となく線路や枕木に蹴つまずいて、倒れそうになりました。
隧道の入口に近づいてみますと、昨夜とはちがって白昼だけにその惨状は眼もあてられません。崩れた岩石の間から、半分ばかり無惨な胴体をはみ出している機関車、飛び散っている車輪、根まで露出している大きな松の樹など、その惨状は筆にも紙にもつくせません。しかし幸いにも、一向あとから掘りかえした跡もありません。まず西口は大丈夫だということがわかりました。
一行はなおも隧道の全体にわたって異状がないかどうかを調べるために、崩れた崖をよじのぼって、隧道の屋根にあたる山の上を綿密に検べてゆくことになりました。
「どうやら大丈夫のようだね」
「すると化物は、皆この足の下に閉じこめられているというわけなんだな」
巡視隊の警官も、さすがに気味わるがって、足音をしのばせて歩いていました。
「オヤッ」
「オヤ、これはどうだ」
「オヤオヤオヤオヤ」
安心しきっていた一行は、急に壁につきあたりでもしたかのように、立ち止りました。私も遅れ馳せに駈けつけてみましたが、鳴呼これは一体どうしたというのでしょう。山の上に、まるで噴火口でもあるかのように、ポッカリと大穴が明いているのです。穴から下を覗いてみますと、底はどこまでも続いているとも知れず、真暗見透しがつきません。
「こんな穴は、以前から有ったろうか」白木警部は不安に閃く眼を一同の方に向けました。
「いいえ、ありませんです。ここはずッと盆地のように平になっていて、青い草が生えていたばかりですよ」
「ほほう、すると何時の間に出来たのだろうか」
「もしや……」
「もしや何だッ」と警部は声をはりあげて聞きかえしました。
「もしや、あの化物が明けたのでは……」
「そんなことかも知れん。天井の壁さえ抜けば、あとは軟い土ばかりだったのかも知れない」
「すると化物は、どッどこに……」
「さあ──」と警部が不図傍らの土塊に眼をうつしますと、妙なものを発見しました。
「おお、そこに人間の足が見えるではないか」
一行はあまりに近くへ寄りすぎて、穴ばかりに気をとられ、傍らの堆高い土塊に気がつかなかったのです。そこから二本の足がニョッキリと出ています。全く裸の脚です。誰の足でしょう。行方不明になった谷村博士も黒田警官も洋服を着ている筈です。兄は私と同じく和服でありました。するとこの裸の足は、ああ……
私はそう思うと、頭がクラクラとしました。謎を包んだ大きい穴が、急にスーと小さくなって、釦の穴ほどに縮まったような気がいたしました。それっきりでした。私は大きい衝動にたえきれないで、恐ろしい現場を前に、あらゆる知覚を失ってしまいました。暗い世界に落ちてゆくような気がしたのが最後で、なにもかも解らなくなったのです。
覚醒のあと
或るときは、月光の下に、得体の知れぬ鬼影を映しだす怪物、また或るときは、変な衣裳を着て闊歩する怪物、その怪物を、うまく隧道の中に閉じこめたつもりであった警官隊でありましたが、隧道の上に、なんとしたことか、大きい穴が明いていたのです。もしやこれが、怪物の逃げ出した穴ではないかしらと、白木警部はじめ一同が、その穴の縁に近づいたとき、傍らの盛土の中から、二本の足がニョッキリ出ているのを発見して大騒ぎになり、私は、その足の主が、きっと兄の帆村荘六だろうと考え、なんという浅ましい光景を見るものかなと思ったとき、気を失ってしまいました。──と、そこまではお話しましたっけネ。
それから、どのくらい経ったのか、私には時間の推移がサッパリ解りませんでした。フッと気がついたときには、あの凄惨な小田原の隧道の上かと思いの外、身はフワリと軟いベッドの上に、長々と横になっているのでありました。
「ああーッ」
私は思わず、声を放ちました。(ああ、気がついたようだ)(もう大丈夫)などという囁きがボソボソと聞えます。ハッと気がついて周囲をキョロキョロと見廻すと、これはどうしたというのでしょう。傍らに立って、こちらへ優しく笑額を向けているのは、あの悲歎の主、谷村博士の老夫人だったのです。いや駭きと意外とは、そればかりではありません。いまのいままで、惨死したとばかり思っていた兄の荘六までが、警官や手術衣の人達の肩越しに、私の方を向いてニコニコ笑っているではありませんか。ああ私は何か夢を見ていたのでしょうか。
「に、にいさん──」
「おお、気がついたナ、民ちゃん」
兄は私の手を握ると、顔を寄せました。
「どうしたんです。兄さん。──博士夫人も笑っていらっしゃるじゃありませんか」
「はッはッ。では夫人に訳を伺ってごらん」
「イエあたくしからお話申しましょうネ。早く申せば、私のつれあい──つまり谷村が無事で帰って来たのです。兄さんたちのお骨折りの結果です」
「どうして無事だったんです。誰か死んでいましたよ、隧道の上で……」
「あれなら大丈夫。あれは僕だったんですよ」
と、そういって脇から逞しい男が出て来ました。見れば、どこかで見たような顔です。
「僕──黒田巡査です」
「ああ、黒田さん」
「僕が土に埋められたところを、皆さんで掘り出して下すったのです。僕だけではなく、博士も助かったんです。これは怪物が隧道から飛び出すときに、私達を土と一緒に跳ねとばして埋めてしまったんです」
「ああ、すると怪物はやはり隧道から逃げてしまったのですネ」
「そうです、逃げてしまったのです──但し一匹を除いてはネ」
「一匹ですって?」私は思わず大声に訊きかえしました。「一匹は逃げなかったんですか」
「そうなんだよ、民ちゃん」と今度は兄が横から引取って云いました。「一匹だけ、僕等の手に捕えることができたんだよ。それも、お前の手柄から来ているんだ」
「手柄ですって? なんだか、なにもかも判らない尽しだナ」
「そうだろう。いや、夜が明けると、何も彼もが、まるで様子が違っちまったのだからネ」
そういって、やがて兄が顛末を話してくれました。それはまったく思いもかけなかったような新事実でありました。
谷村博士の研究録
兄は、私から渡された例の白毛のことを思い出し、それの正体を一刻も早く知りたい気持で一ぱいで、小田原の警備隊の中からひとり脱け出でると、この谷村博士邸へ帰ってきたのだそうです。私はいま、博士邸に来ているのだそうですから、驚きますネ。
兄はこの怪物について、きっと博士の研究があるものだと考え、博士夫人の力を借りて研究室をいろいろ探したのです。すると果して書類函の一つの抽出に、「月世界の生物について」と題する論文集を発見いたしました。
怪物が月に関係のあることは、兄はすでに感づいていたそうです。それでパラパラと論文を開いてゆくうちに、次のような文面を発見しました。
「月世界には、一つの生物がいるが、それは殆んど見わけがつかない。それは人間の眼では透明としか見えない身体をもっているからだ。その生物は形というものを持っていない。まるで水のように、あっちへ流れ、こっちへ飛びする。そして思いのままの形態をとることができる。液体的生物だ。アミーバーの発達した大きいものだと思えばよい。この生物は、もし地球上で大きくなったとしたら、必ず人間や猿のように固体となるべきものであるが、月世界の圧力と熱との関係で、液体を保って成長したのである。
恐らくこの生物は、アミーバーから出発したもので、人間より稍すぐれた智慧をもっているものと思われる。それは、今日盛んに、この地球へ向って、信号を送っているからである。人間界には、この生物のあることを知っている者が殆んど居ない。それはあの透明な月の住民たちの身体を見る方法がなかったからだ。然るに予は、特殊の偏光装置を使って、これを着色して認めることに成功した。その装置については、別項の論文に詳解しておいた。
ここに注意すべきは、このルナ・アミーバーとも名付くべき生物は、地球の人類に先んじて月と地球との横断を試みたい意志のあることである。おそらく、それは成功することであろう。彼等は地球へ渡航したときに、身体の変質変形をうけることを恐れて、何かの手段を考え出すことであろうと思われる。予の考うるところでは、多分そのルナ・アミーバーは身体を耐熱耐圧性に富み、その上、伸縮自在の特殊材料でもって外皮を作り、その中に流動性の身体を安全に包んで渡航してくるであろう。その材料について、予は左記の如き分子式を想像するが、この中には、地球にない元素が四つも交っているので、もしルナ・アミーバーが渡来したときには、面白い研究材料が出来ることであろう、云々」
ルナ・アミーバーという、透明で、流動性の生物があることは、博士の論文を見て始めて知ったのです。これは恐らく、博士夫妻の外に知った人間は、兄が最初だったことでしょう。兄は勇躍して、その白毛のようなものをポケットから取り出しました。これは私が曾て、壊れた窓硝子の光った縁から採取したものでした。あの怪物が室内から飛び出すときに、鋭い硝子の刃状になったところで、切開したものと思います。
兄は理学士ですから、スペクトル分析はお手のものです。博士の研究室のスペトロスコープを使って、その白毛みたいなものを、真空容器の中で熱し、吸収スペクトルを測定してみました。すると、どうでしょう。その結果が、博士の論文に掲げられた分子式と、ピッタリ一致したのです。
「ああ、ルナ・アミーバーだッ。ルナ・アミーバーの襲来だッ」
兄は、気が変になったように、その室の中をグルグル廻って歩いたのです。
「どうしたのです、帆村さん」
と博士夫人が階下から駈けつけられる。説明をしているうちに、夜がほのぼのと明けはなれ、そこへ白木警部一行が、掘り当てた谷村博士と黒田警官とを護って、急行で引っかえして来たのでありました。
博士も黒田警官も、殆んど死人のように見えましたが、博士の用意してあった回生薬のお蔭で、極く僅かの時間に、メキメキと元気を恢復することが出来たのだそうです。
この不思議な話を聞いて、私はもう寝ているわけにはゆかなくなりました。そして皆の停めるのも聞かず、ガバと床の上に、起き直りました。
室の向うは、博士の研究室です。なんだかモーターがブルンブルンと廻っているような音も聞え、ポスポスという喞筒らしい音もします。イヤに騒々しいので、私は眉を顰めました。
「だから無理だよ。もっと寝ていなさい」と兄はやさしく云いました。
「イヤ身体はいいのです。もう大丈夫。──それよりも向うの部屋で、一体なにが始まっているんですか」
「はッはッ、とうとう嗅ぎつけたネ」と兄は笑いながら、「あれはネ、たいへんな実験が始まっているのだ」
「大変て、どんな実験ですか」
「実はルナ・アミーバーを一匹掴えたんだ。そいつは、この門の近くの沼に浮いているのを見付けたんだ。なにしろ沼の水面が、なんにも浸っていないのに、一部分が抉りとったように穴ぼこになっていたのだ。地球の上ではあり得ない水面の形だ。それで、この所にルナ・アミーバーが浮いているんだなということが判ったんでいま引張りあげ、博士が先頭に立って実験中なんだ」
「私にも見せて下さい──」
私はもうたまらなくなって、寝台の上から滑り下りました。
ルナ・アミーバーの実験
なんだか訳のわからない器械が並んだ実験室には、東京からこの珍らしい実験を見ようと駈けつけた学者で、身動きも出来ません。
真中に立っていた谷村博士は、私の入って来たのに気がついて、こっちを向かれました。
「おお民彌君。もう元気になりましたか」
「はい」
「いやア、あなた方ご兄弟のお蔭で、ここにいる一匹のルナ・アミーバーが手に入りましたよ」
そういって博士は、前に横わっている大きい硝子製のビール樽のようなものを指しました。しかしその中は透明で、博士の云うものは何も見えません。
「いまはまだ見えますまい」と博士はすぐ私の顔色を見て云いました。「しかし今に見えますよ。偏光作用がうまく行ったらネ」
「偏光作用といいますと」
「この硝子器の中に、ルナ・アミーバーが居るのです。この中をすっかり真空にして、こっちの方から偏光をかけてやると、肉眼でも見えてくるのですよ」
「こいつはどうして捕ったんでしょうネ。大変強い動物でしたのに」
「動物じゃなくて、植物という方がいいかも知れませんよ。──弱っているわけは、あの硝子窓を通るときに、外皮を大分引裂いたので、地球の高い温度がこたえるのです。そしてこのルナ・アミーバーは、兄さんを胴締めにしていた奴です。あのとき此奴は、兄さんに苦められたのです。兄さんは護身用に、携帯感電器をもっていらっしゃる。あの強烈な電気に相当参っているところへ、あの硝子の裂け目へつっかかったんで、二重の弱り目に祟り目で、沼の中へ落ちこんだまま、匍い上りも飛び上りも出来なくなったんですよ。つまり荘六君と民彌君とのお二人が、この怪物を捕えたも同様ですネ」
私はそのとき、目に見えぬルナ・アミーバーと闘ったことを思いだしました。
「この一匹の外はどうしたのですか」
「もう月の世界へ逃げかえったことでしょう。今夜月が出ると、その天体鏡でのぞかせてあげましょう」
「すると、あの小田原の町に現れていたサーベルを腰に下げた老人や、白衣を着た若者なども、逃げかえったんですか」
「いや、あれは……」と博士はすこし赧くなって云いました。「あれは私と黒田さんなんです。二人はルナ・アミーバに捕って、あのとおり彼奴の身体に捲きこまれていたのです。だからいかにも私たちは空中に飛んでいるように見えましたが、実はルナが飛んでいたわけで、私たちは、ルナの上に載っているようなものでした。そして彼奴は、私たちを勝手に裸にしたり、そして間違ってサーベルや白衣を着せたりしたのです」
「ああ、そうでしたか」
私は始めて、空中を飛ぶ男の謎がとけたのを感じました。
「では、小田原や隧道で暴れたのも、先生たちの力ではなかったのですネ」
「そうですとも。あれは皆ルナ・アミーバーの一隊がやったことです。たまたま中で見える私たちだけが騒がれたわけです」
「しかし先生、あの崩れる鬼影はどうしたのです。硝子窓に、アリアリと鬼影がうつりましたよ」
「あれはこのルナの流動する形が、うっすりと写ったのです。月の光に透かしてみると、ほんの僅か、形が見えます。それはあの月光に、一種の偏光が交っているから、月光に照らされて硝子板の上にうつるときは、ルナの流動する輪廓が、ぼんやり見えたのですよ」
「ははーん」
私は、この大きな謎が一時に解けたので、思わず大きな溜息をつきました。
そのとき一座が俄かにドヨめきました。
「ああ、いよいよ、ルナ・アミーバーが見えて来ましたよ」
大団円
ああ何という不思議!
硝子樽の中には、いままで何も無いように思っていましたが、ジリジリブツブツと、なんだか紫色の霧のようなものが動揺を始めたと思う間もなく色は紅に移り、次第次第に輪廓がハッキリして来ました。やがてのことに、青味を帯びたドロンとした液体が、クネクネとまるで海蛇の巣を覗いたときはこうもあろうかというような蠕動を始めました。なんという気味のわるい生物でしょう。覗きこんでいる人々の額には、油汗が珠のように浮かび上ってきました。
「ああ、いやらしい生物だッ」
誰かがベッと、唾を吐いて、そう叫びました。それが聞えたのか、ルナ・アミーバーは、草餅をふくらませたように、プーッと膨脹を始め、みるみるうちに、硝子樽一ぱいに拡がりました。
「これはッ──」
と思って、一同が後退りをしたその瞬間、がちゃーンという一大音響がして、サッと濛々たる白煙が室内に立ちのぼりました。
「呀ッ──」
私達は壁際にペタリと尻餅をついたことにも気が付かない程でした。バラバラとなにか上から落ちてくるので、気がついて天井を見ますと、そこには大きな穴がポッカリ明いていました。
「オヤオヤ。ルナが逃げたッ」
「どうして逃げたんだッ」
「弱っていたと思っていたがな」
「いや、これは私の失敗でした」と博士は別に駭いた顔もせずに、静かに口を切りました。
「どうしたんです」
「いえ、彼奴の入っている容器を真空にしたのがいけなかったんです」
「なぜッ」
「真空は、彼奴の住む月世界の状態そっくりです。だから弱っている彼奴は、たちまち元気になって、器を破って逃走したのです。ああ、失敗失敗」
こんなわけで、折角生捕ったたった一匹のルナ・アミーバーでありましたが、惜しくも天空に逸し去ってしまったのです。
いやはや、残念なことでありましたが、谷村博士を責めるのもどうかと思います。ルナが逃げてしまったのですから、「崩れる鬼影」について私の申上げる話の種も、もうなくなりました。
底本:「海野十三全集 第8巻 火星兵団」三一書房
1989(平成元)年12月31日第1版第1刷発行
初出:「科学の日本」博文館
1933(昭和8)年7月~12月号
入力:tatsuki
校正:土屋隆
2005年11月23日作成
青空文庫作成ファイル:
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