地底戦車の怪人
海野十三



この物語は、西暦一千九百五十年に、はじまる。

すると、昭和の年号でいって、昭和二十五年にあたるわけである。

今年は、昭和十五年だから今から、丁度ちょうど十年後のことだ、と思っていただきたい。 作者しるす



   極南へ



 アメリカの貨物船アーク号は、大難航をつづけていた。

 船は、あと一日で、目的の極地へつくはずになっていたが、あいにく今になって、猛烈な吹雪ふぶきに見舞われ、船脚ふなあしは、急にがたりとおちてしまった。この分では、とても、あと一日で、めざす極地の新フリスコ港に入るのはむずかしくなった。

 なにしろ、極寒ごっかんの地帯における吹雪ときたら、そのものすごいことは、ちょっと形容のことばが見つからないくらいだ。

 時は今、極地一帯は、白夜といって、夜になっても太陽が沈まないで、ぼんやり明るい光がさしているのであったが、とつぜん一陣の風とともに、空は、すみをながしたように、まっくらになり、とたんに天から白いものがおちだしたかと思うと、まもなくあたりは白壁の中にぬりこめられたようになって、すぐ前にいる水夫の姿が、まったく見えなくなり、階段がどこにあったか、ロープがどこに積んであったか、わけがわからなくなる。

 ばしらは、今にも折れそうに、ぎちぎち鳴りだすし、ふなばたを、小さく砕かれた流氷がまるで工場の蒸気ハンマーのように、はげしい音をたててたたきつづけるのであった。

 船長フリーマンは、船橋で、一等運転士のケリーと、顔を見合せた。

「おい、一等運転士。これは一体、どうするね」

「は、船長。風向きは幸い北西ですから、当分このままに流されていったら、どうでしょうか」

「まあ、そんなところだろうな。だが、新フリスコ港につくのがいつになるやら、見当がつかなくなった。とにかく、今すぐに、無電で新フリスコ港へ連絡してみなさい」

「は、リント少将を、呼びだしますか」

「それがいいだろう。少将は、明日この船が到着することを、いくども念を押していたから、すこしはしかられるかもしれないぞ」

「はい、やってみましょう、ともかくも……」

 無電は、新フリスコ港にこの船を出迎えに来ているリント少将につながれた。

「なに、船がおくれる。こっちへ到着するのは、二日のちか三日のちか、見当がつかないって。冗談じょうだんじゃないよ。それじゃ万事、めちゃくちゃだ。どうするつもりだ」

「さあ、よわりましたな」

 と、一等運転士は返事をしたが、少将のつよい語気に、すこしむっとした。本船は今、難破もしかねないような吹雪の中に、やむをえず、ぐんぐん流されていくのだ。ひとの気にもなってみないで、いうことばかりいうと、むかむかしてくるのを、やっとおさえ、

「なにしろ、ひどい吹雪で、人力では、どうにもなりません。先が見えないのですから、いつ流氷にへさきをくだかれるか、わかったもんではないのです」

「困ったなあ。汽船なんか、旧時代の遺物だね。潜水艦などは、大吹雪も平気で、どんどんこっちへついているんだ。君では、話にならない。船長をよんでくれたまえ」

「はあ、船長ですね」

 船長が代って、電話をきいた。

「一等運転士のいうとおりですよ、全くどうにもなりません」

「船長の見込みでは、アーク号は、いつ到着するのかね」

「全く、わかりません。天の神様にでも、うかがってみなくてはなりません」

「おい、子供にお伽噺とぎばなしをしているんじゃないよ。はっきりしてくれたまえ、はっきり。こっちは、アメリカ連邦の興廃について、責任を感じているんだからな」

「でも、こればかりはどうも」

「では、仕方がない。こっちから、別の汽船か軍艦を迎えにやることにしよう」

「それは、どうも。迎えていただいても、貨物の積みかえにはどうにもなりませんよ」

「そうだ、その船につんでいる貨物が、明日中にこっちへ到着しないと、せっかく二年間を準備に費した大計画が、水のあわになってしまうのだ」

 少将の声は、気の毒なほど、悄気しょげていた。一体リント少将は、アーク号の積荷の、どんな品物を待ちわびているのであろうか。



   無名突撃隊むめいとつげきたい



 アーク号の船内に、「船長の許可なくして入室を禁ず」とり紙をした部屋があった。中では、わあわあと、元気な人の声がしていた。

「ゲームは、おれの勝だ。あとは誰かと入れかわろう」

「中尉どの、わしが出ます」

「おう、ピート一等兵か。お前、やるのか。めずらしいのう」

「いや、さすがに気長のわしも、もうこの部屋の生活には、あきあきしましたので、なにかかわったことをしたいというわけです」

「あははは、ピートが、とうとう陥落かんらくしたぞ。この部屋をのろわない者は、一人もなくなったよ、あははは」

 カールトン中尉が、大きなこえで、笑いだした。

「全く、永い航海だ。外は見えないし、新聞も来ないし、そしてこのとおり波にゆすぶられ通しでよ、これであきあきしなかったら、どうかしているよ」

「そういえば、今日は、ばかに揺れるじゃないか。そして、すこし冷えるようだね」

 三十人ばかりのアメリカ陸軍の将兵が、スチームのむんむんする部屋で、トランプにうち興じているのであった。

 彼等は、かごの鳥にひとしかった。いや籠の鳥なら、籠の外にがさしているのも見えるし、猫が窓のところを通るのも見えることがあった。しかし、この無名突撃隊の隊員たちには、船内をぶちぬいた教室以外には、少しも外の様子が見えないようになっていたのであった。船腹に、窓がついていたけれど、この窓さえが、外から、かたく眼ばりをされてあった。まるで、重大犯人を護送していくようなものものしさがあった。

 ピート一等兵は、この部隊の人気者だった。彼は、一番年少の十九歳であったし、そのうえ、彼はなかなか我慢がまんづよく、そしてふだんは黙り屋であったけれど、どうかすると、鼻をぶりぶりと、ラッパのようにならして、軍歌や流行唄はやりうたなどをふいてみせた。出港以来、一番たくさんのページをつかって、こくめいに日記をつけているのも、このピート一等兵であった。

「ねえ、中尉どの。もういいころじゃありませんか。いってくださいよ」

 低いこえで、中尉のそでをひいたのは、パイ軍曹だった。彼は、一行中の巨人であった。日本でいえば、相撲すもうの大関格ぐらいのからだの所有者だった。

「なにをいうんだ。おれが知っているくらいなら、もうとっくの昔に、お前たちに話をしてやったよ。上陸してみないことには、なんにも分らないんだ」

「どうもへんですな。隊長が、われわれの隊の任務について全然知らないというのは、どうもふにおちませんよ。どうかいってください。われわれは、どんなことをきかされても、尻込しりごみをしませんよ。国家へ忠誠をちかいます」

「知らないんだ、本当に」

「ほんとですか。戦車兵が、船にのる場合はどんな任務のもとにおかれるのでしょうか。それを考えてみてください。私だけに、そっといってくだすってもよろしいんですよ。私は、誰にもらしませんから。それなら、いいでしょう」

「だめだ。ほんとにわしは知らないのだ。いうときには、皆にいうよ。だってそうじゃないか。中尉だの一等兵だのという区別はあるが、無名突撃隊の一員であることについては、すこしもかわりがないのだからなあ」

 パイ軍曹は、もう口を開こうとはしなかった。だが、彼は、腹の中で舌うちをしていた。

(どこまで強情ごうじょうな中尉だろう。よし、今にみておれ。のっぴきならぬ何ものかをつかまえて、これでも話をせぬかと、ぎゅうぎゅういわせてやろう)

 カールトン中尉は、パイ軍曹の横顔をちらりと見て、さりげなく煙草たばこの煙をふーっと吹いた。

「食事です。食事を入れます」

 高声器から、へんななまりの、子供のこえが聞えた。

「おい、皆、そこでストップだ。食事をやってからにしよう」

「よし来た。今日は、どうか、なたくさいほうれん草のスープは、ねがいさげにして……」

「おいよろこべ」

「なんだ、例のスープか。セロリが入っているんだろう」

「いいや、陽なたくさいほうれん草のスープだよ」

「うわーッ」



   氷山



 アーク号は、全機関に、せい一杯の重油をたたきこんで、全力をあげて吹雪の中を極地へ近づこうと、大骨を折っていた。

 だが、それはほとんど無駄骨に近かった。船はうまい具合に、前進をはじめたかと思うと、またどんどんと後方へ押し戻されて、思うように前進ができなかった。

 あまつさえ、アーク号の危険は、刻一刻とせまってきたようであった。なにしろ、前が見えないのに、どんどん進んでいくのだから、まるで眼の見えない人が、つえなしで、がけのうえをはしっているようなものであった。

 船橋に立って、外套がいとうえりをたて、波のしぶきを見つめている船長と一等運転士の顔は、生きた色とてなかった。

「船長。これはもうだめですね」

「うん、だめなことはわかっている」

「ばかばかしいではありませんか。リント少将には、なんとかあとでいいわけをすることにして、せめて吹雪のやむまで、船を流すことにしては」

「もう、それは、おそい。リント少将は、大きなかけをしているのだ。大アメリカ連邦のために、この大きな賭をしているのだ。われわれもまた、この大きな賭に加わらなければならない。なぜならば……」

「あっ、船長、氷山が……」

「うん、しまった。──無電で、リント少将へ……」

 船長の、悲痛なさけびがおわるか終らないうちに、船のへさきに、とつぜん山のような氷のかたまりがゆらぐのが見えた。とたんに、大音響とともに、船上にいた乗組員たちは、いっせいに、ばたばたとたおれた。

 警笛けいてきが、はげしく鳴った。

 アーク号は、めりめりと音をたてて氷山のうえにのしあげた。

 機関がさけたのであろうか、舷側げんそくから、白いスチームが、もうもうとふきだした。

「全員、甲板かんぱんへ!」

 吹雪する甲板に、乗組員はとびだした。たたきつけるような氷の風だった。たちまち四五人が、つるつるとすべって、海へおちた。

 無名突撃隊の部屋にも、いちはやく警報がつたわった。

 おどろいたのは、隊員だった。

「氷山と衝突した。全員、甲板へ!」

 氷山というのさえ、思いがけないのに、その氷山と衝突して、船は沈みかかっているのであった。

 隊員たちは、さっきすこし寒くなったから、汽船は、ニューファウンドランド沖を、加奈陀カナダの方へ北航しかかったのだろうぐらいに思っていたのであった。

「なんだ、もうベーリング海峡へ来ていたのか」

 ベーリング海峡ではない。それと反対の方向の南極のそば近くへ来ていたのである。

 無名突撃隊をひきいるカールトン中尉は、衝突のときに、はげしく頭部を鉄扉てっぴにぶっつけて、重傷を負っていた。だが、彼はさすがに軍人であった。すぐさまカーテンをさいて、たくましい鉢巻をすると、隊員たちに向って叫んだ。

「皆、おちつくんだ。ここは南極に程近いが、やがてリント少将が、救援隊をよこしてくれるだろう」

「えっ、南極?」

「そうだ、もういっても遅いが南極こそ、われわれ無名突撃隊の目的地だったんだ。われわれは、リント少将の指導下に入って、はじめて、行動の命令をうけるはずであったのだ。それから、われわれは……」

「おーい、ボートはこっちだ。無名突撃隊! 早く、こっちへ来い!」

 中尉の言葉は途中で切られた。

 隊員は、傾いた甲板をすべりながら、われがちに、ボートの方へ走っていった。

「おちつけ! そのうちに、救助隊が、きっとやってくるぞ!」

 吹雪の中に、中尉の声は、ともすれば、うち消された。

 そのうちに、不幸な事がおこった。

 それは、とつぜん、船内から爆発が起ったことであった。ボイラーの中に冷い海水がとびこんだため、爆発が起ったらしい。

 船は、どーんと、はげしくゆれながら、そのたびに傾斜度けいしゃどが加わった。

 ピート一等兵は、パイ軍曹とともに、最後に部屋をでた。彼等二人は、一度部屋を出かけたが、外は吹雪と知って、直ちに引きかえして、防寒服ぼうかんふくを出しにかかったのであった。日頃の訓練が、この非常時に、役に立ったのであった。

「パイ軍曹どの。なかなか壮観でありますな」

「なにィ、おい、お前は、くそおちつきに、おちついているじゃないか。われわれは、ここで死ぬかもしれないんだぞ」

「一度死ねば、二度と死にませんよ。ゆるゆるとこの千載一遇せんざいいちぐうの壮観を見物しておくのですな」

「ふん、お前と話をしていると、わしは、コーヒーでもわかしてのみたくなるよ」

 そういうパイ軍曹も、あわてている方ではなかった。



   沈没ちんぼつ迫る



 アーク号の甲板は、刻々に傾斜を増していく。もうこの船は、あと五分と、もたないで、海面下に姿を没してしまうであろうと思われた。そのうえ、意地わるく、大吹雪は、いよいよ猛烈にふきつのって、甲板を、右往左往する人々の呼吸を止めんばかり──。

「おい、ボートはもう一ぱいだ。おれたちは、はいれやしない。ど、どうなるんだろうか」

「うん、仕方がない。ともの方へいって、さがしてみろ。わりこめる席があるかもしれない」

「だめだだめだ。へさきの方をさがせ。艫の方はボートごと、ひっくりかえって、たいへんなさわぎだ」

 人々は、なんとかして、ボートの中に、いた場所をみつけて、一命を助かりたいものだと、まるで喧嘩けんかのようなさわぎであった。

 パイ軍曹は、唇のうえに鉛筆で引いたようなほそい口髭くちひげをひねりながら、大兵のピート一等兵を見上げ、

「おい、ピート。ボートはもう駄目らしい。お前は、あの冷い南氷洋で競泳する覚悟ができているかね」

「わしは、競泳には、自信がねえです。誰よりも一等あとで、海水につかることに、はらをきめました」

「一等あとで海水につかるって、一体どうするんだ」

「いや、なに、一等背の高いほばしらのうえへ、のぼっちゃうてえわけでさ」

「ばかをいえ。それだから、お前のような陸兵は、役に立たねえというんだ。陸にえている林檎りんごの樹とはちがうぞ。船がどんどん傾いてしまうのだから、一等背の高い檣てえのが、一向いっこう当てにならないのさ」

「そうですかい。なるほど、甲板が、いやにおすべり台におあつらえ向きになってきましたねえ。ところで、軍曹どの。あなたは、これから一体どうなさるおつもりなんで……」

「今に、リント少将の飛行船かなんかがこの上へとんで来て、エレベーターかなんかを、この甲板におろすだろうと思うんだ。そいつをこうして、待っていようてえわけだ」

「あっはっはっはっ。軍曹どの。ここは、寄席よせの舞台のうえじゃあ、ありませんよ」

 二人の勇士は、死を覚悟していると見え、とんでもないばかばかしい口を、ききあっていた。

 そのときであった。

 二人の立っているところから、そう遠くない後方で、とつぜん、どどーンと小爆発がおこって、船の構造物が、がらがらと、はげしい音をたてて崩れた。

「ほう、なかなか景気をそえているじゃないか」

 と、パイ軍曹が、へらず口を叩けば、

「わしは、子供のときから、にぎやかな方が好きです。讃美歌なんかに送られて天国へいくなんて、わしの性分しょうぶんにあわねえ。もっと、どかんどかんと、爆発すると、ようがすなあ」

 と、ピート一等兵はやりかえして、太い指で、鼻を下から、こすりあげる。

 二人は、そのままほうっておけば、いつまでも地獄の門をくぐるときまで、その調子で、へらず口を叩き合っていたことだろう。──が、幸か不幸か、そこへ邪魔じゃまものがとびこんできた。頭を割られて、顔半面まっ赤に血を染めた将校が、二人の前へよろめきながら現れたのであった。二人は、その将校の顔を見るより早く、声を合せて、叫んだ。

「あっ、隊長だ!」

「あ、カールトン中尉どのだ」

 二人は、そのそばへとんでいった。



   中尉の遺言ゆいごん



「隊長どの、しっかり!」

「カールトン中尉! 傷は、かすり傷ですよゥ!」

 二人は、一生けんめい、重傷の隊長を、元気づけた。

 中尉は、間もなく気がついたものらしく、眼をかっと開いた。

「おお、パイに、ピートか。おれは……おれは、もう。……」

「おれはもう──おれはもう帰還されますか?」

「こら、ピート一等兵、だまれ。隊長どのは、これから遺産のことについて述べられるのだ。しずかにしろ」

「こら、二人とも。お前たちは、こここの場にのぞんで、恐怖のあまり、気、気がちがったな」

 パイとピートは、顔をみあわせて、うなずいた。もう何もしゃべるまいぞという信号だった。このにのぞんで、これ以上、隊長に気をつかわせることは、よくないと気がついたからである。

 中尉は、二人に脇の下をかかえられながら、はあはあと、苦しそうな息をした。しかし、さすがは軍人であった。その苦しい息の下からも、二人を相手にすることは忘れなかった。

「おい、両人。おれを抱えて、三番船艙せんそうへつれていけ。そ、そして、おれのズボンの、左のポケットに、は、はいっている鍵で……その鍵で、扉をあけるんだ」

 パイ軍曹とピート一等兵は、また顔をみあわせて、うなずいた。

「こら、両人とも、そこにいないのか」

 二人は、おどろいた。

「はい、いるであります」

「ちゃんと、いるであります」

 中尉は、眼をとじたまま、うちうなずき、

「そ、そんなら、よし! そこで、三番船艙の中にはいって……はいって、その、そこにある戦車の中に、おれを乗せてくれ。おお、お前たちも乗れ」

「えっ、三番船艙に、戦車があるんですか」

「そうだ。お、お前たちの、お眼にかかったことのない恰好かっこうをした新型の、せ、戦車だ。さあ、は、早く、わしをつれていけ」

「隊長どのは、その戦車に乗られて、どうなさるのでありますか」

「わ、わがはいは、せ、折角せっかくここまで持ってきた戦車に、生前、一度は、の、乗ってみたいのだ。そ、その地底戦車というやつに……」

「地底戦車?」

「そ、そうだ。地底戦車だ。リント少将は、そ、その地底戦車をつかって、南極の地底をさぐる──さぐる計画を、たてられているのだ。は、早くしろ。船が、もう、沈む」

「は、はい!」

 パイ軍曹と、ピート一等兵とは、顔を見合せた。二人の顔は、今までのいずれの場合よりも真剣になっていた。死を覚悟して、死の前に、他の何物への執着もすて去った二人であったが、いまこうして、中尉の紫色になった唇の間から、無名突撃隊の秘密についてのべられてみると、彼等二人は、本来の任務にふるい立たないでは、いられなくなった。

「おい、ピート、急ぎ、進め!」

合点がってんです。お一チ、二イ」

「三ン、四イ」

 二人は、中尉を両方から抱きあげつつ、もはや歩行するのも容易でない傾斜甲板のうえを、器用にとんとんと走って、階段口から、下におりていった。

 幸いなことに、三番船艙は、まだ浸水をまぬかれていた。

 扉を、鍵であけた。

 扉は開いた。大きな布カバーを取り去ると、下から現れたのは、怪奇な恰好をした重戦車!

 地底戦車というのは、これか?



   とびら



「おい、ピート、早くしろ」

「えっ」

「ほら、お前の足もとを見ろ。下から、海水がぶくぶくいてきたじゃないか」

「あっ、もういけませんなあ」

「おい、戦車の扉を開け」

「待ってください。すぐあけます」

「おい、早くしないと、隊長どの、折角の希望が水の泡になる」

「えっ、もう泡をふきだしたのか」

「ちがうちがう。早く、戦車をあけろ」

「やあ、もう大丈夫。さあ、あきますぞ!」

 うーんと、大力のピート一等兵が、両腕に力をこめてハンドルをねじると、戦車の扉は、ついにぐーと、大きく開いた。

「あきました、あきました、軍曹どの」

「ばか。もう間にあわないや」

「えっ。どうしました」

「中尉どのは、昇天された。〝生前に、一度でいいから、折角ここまで持ってきた地底戦車に乗ってみたい〟といわれたのに、お前が戦車の扉をあけるのに手間どっているもんだから、ほら、もうこのとおり、天使になってしまわれた。ああ、さぞかし無念でしょう。中尉どの、これ一重ひとえに、平生へいぜいピート一等兵が、訓練に精神をうちこまなかったせいです」

「ねえ、軍曹どの。こうなりゃ、気は心でさあ。中尉どのは、息を引取られたかはしらないけれど、一度、この戦車の中へ入れて、座席につかせてあげては、どうでしょう」

「この野郎。中尉どのに、申しわけないと気にして、いやに中尉どのにサービスするじゃないか」

「軍曹どの、早く。ぐずぐずしていると、戦車の中に、海水が入ります。中の器械が、れてしまいますぜ」

 ピート一等兵が注意を発したので、パイ軍曹は、ぎくりとした。

「おい、早くしろ。浸水させちゃ駄目だ。お前から、先へ入れ」

 軍曹は、ピートの尻をうしろから、どんとつきあげた。ピートは、ばね仕掛じかけの人形のように戦車の中に飛びのったが、そのときまたどどーん、どどーんと、相ついで小爆発が起って、船体がぐらぐらと、動揺した。

「あっ、軍曹どの。早く、こっちへ入って、戦車の扉をしめてください。いよいよ、これは浸水、まぬがれがたしです」

「そうか。あっ、ほんとだ。それ、そこから海水が流れこんでいたじゃないか、靴をぬいで、どんどんかいだせ」

「軍曹どの、扉を!」

「おお、そうだ。扉を閉めるぞ!」

 パイ軍曹は、力一杯、戦車の扉をばたんと閉じた。

 とたんに、戦車内には、電灯が、ぱっといた。自動式の点灯器がついていたのである。二人は、うれしそうに、あたりを見廻みまわしていたが、そのうちに二人の視線が、ぱっと合った。そのとき二人は、べつべつに、同じことを思い出した。

「おい、ピート一等兵。カールトン中尉どのの姿が、見えないじゃないか」

「そうです、軍曹どの。いま、私が申上げようと思ったところです。あなたは、なぜ、中尉を外に置いたまま、その扉をお閉めになったんですか」

「ふーん、失敗しまった。おれが悪いというよりも、貴様きさまが、たいへんな声を出して、扉を閉めろ閉めろと、さわぎたてるもんだから、とうとうこんなことになったんだ」

「あっ、そうでありましたか。じゃあ、わしがすぐいって、お連れしてまいりましょう」

 ピート一等兵は、奥からのこのこと出てきて、戦車の扉のハンドルをまわそうとしたから、パイ軍曹はおどろいて、ピートの手にみついた。



   落下速度



「ああ痛い。軍曹どのに申上げます。軍曹どのは、狂犬病にかかられました」

 と、ピート一等兵は大粒の涙をはらいおとしながら、叫んだ。

「なにを、このばか者! この扉をあけて、どうしようというのか。この扉をあければ、たちまち海水が、どっと流れこんでくるじゃないか」

「えっ、そんなことはありません。どっと、流れこんでくるなんて、そんな……」

「さっきとはちがうぞ。あれからかなり時刻がたっている。おいピート。この戦車は、もう海面下に沈んでしまった頃だぞ」

 パイ軍曹は、そう叫んで、自分でも、真青まっさおな顔になった。

「ええっ、本当ですか、軍曹どの。この戦車は、ついに、海面下に没しましたか」

「大丈夫、それに違いない」

「それじゃ、わしたちは、もう海の上を見ることかできなくなったんですか」

「もう、よせ。貴様がくだらんことをいうから、くだらんことを思い出す」

「いや、くだらんことではないです。わしは、この戦車が、われわれの棺桶かんおけであることを、どうかして、早く信じ、なおつ、ついでに、この棺桶を一歩外へ出た附近の地理を、なるべく、頭の中に入れておこうと思って、懸命に努力しているところです」

「もういい。戦車の外のことなんて、もうどうでもいい」

「じゃあ、この棺桶は、じつにすばらしいですなあ。オール鋼鉄製の棺桶ですぞ。棺桶てえやつは、たいていお一人さん用に出来ていますが、軍曹どの、われわれのこの棺桶は、ぜいたくにも、お二人さん用に出来上っていますぜ」

「おい、しばらく、黙っとれ。おれは、なにがなにやら、わけがわからなくなった」

 パイ軍曹は、座席のうえに、うつ伏して、両腕で、自分の頭を抱えてしまった。

 それを見て、ピート一等兵も、なにやら、心細くなって、自然に口にふたをした。

 ざあざあと、気味のわるい音が、この戦車の壁の外でする。ごーん、ごーんと、鉄板を叩くような音も、聞える。

 と、とつぜん、どどどどーんと、四連発の大砲を、あわてて撃ちだしたときのように、おそろしい響きが伝わってきた。──と、思ったとき、そのとき遅く、二人の乗っていた戦車は、ぐらぐらとうごきだした。

「おい、たいへんだ」

「足が、ひとりでに、上へ向いていくぞ」

 戦車はまるでフットボールを山の上から落したときのように、天井と床とが、互いちがいに下になり上になりして、はずみながら、落下していくのが、二人にも、やっとわかった。

(どうなるのであろう? これも、カールトン中尉の遺骸いがいを、外に置き忘れてきたためか!)

 二人は、もう、生きた心もなかった。



   静かな海



 はげしいいきおいで、何千メートルという深い海底へおちていく地底戦車の中で、パイ軍曹とピート一等兵とは車内を、ころげまわったり、ぶつかったりして、たいへんな目にあった。床だと思っていると、それが、ぐらっとうごくと、天井になったり、そうかと思うと、天井が、横たおしになって、かべになったり、二人は身のおきどころもなかった。いや、身のおきどころがないなどというなまやさしいことではなく、からだとからだが、いやというほどぶつかり、そうかと思うと、鉄壁に、がーんと叩きつけられ、戦車が海底にやっと達したときには、とうとう二人とも気をうしなってしまった。

 だが、この地底戦車は、よほどしっかりできているものと見え、万事異常はなく、車内の電灯も、ちゃんといていて、エンジンのうえに、長くなってたおれているパイ軍曹とピート一等兵の二人を、気の毒そうに照らしていた。

 ここで、二人が、そのまま息をひきとってしまえば、もう『地底戦車の怪人』も、ここでおしまいになるはずである。これから後が、なかなか長くて面白い冒険談となるのである。だから、読者諸君は、パイ軍曹とピート一等兵とがたいへん好都合にも、間もなく息をふきかえしたことに気がつかれるだろう。

 これは、二人にとって、どれくらい後のことだったか、さっぱり分らない。どっちが、先に気がついたのか、それも、はっきりしないが、とにかく二人は、

「うーむ」

「あ、いたッ」

 と、別々にうなりながら、手足を、そろそろとうごかしはじめた。だが、はくたくたになり、首の骨はぐらぐらになっているので、気の方は一足おさきに、相当しゃんとしながら、からだはいうことをきかないのであった。

「うーん、あ、たたたたッ」

「とめ、とめ、とめ、とめてくれたか」

 と、うわごとのようなことを、二人は、とめどもなくしゃべりちらす。二人が、傾斜した車内に、半身を起してあぐらをかくまでには、十七、八分もかかった。

「おい、ピート一等兵、だらしがないぞ」

 パイ軍曹は、自分のことはたなにあげて、兵を叱りつけた。

「はい、軍曹どのが、あれから今まで、一度も号令をかけてくださらないものでありますから自分もつい休めをしていたのであります」

「なにをいうか。頭に大きなこぶをこしらえて休めもないじゃないか」

「いや、これも、軍曹にならったわけでありますが、さすがに上官の瘤は、自分の瘤よりも、一まわりずつ大きいのでありますな」

「ばかをいえ」

 こう、へらず口が、どんどん出るようでは軍曹も一等兵も、瘤こそ作ったが、まず元気はもとにもどったものと思われる。

「おい、ピート、水が飲みたいが、水を持ってこい」

「はい、どこから、持ってきますか」

「……」

 軍曹は、へんじをするすべを知らなかった。ここは、どうやら深い海底のように思われる。扉をあければ、ふんだんに水はありながら、その水は飲めないときている。全く、いじのわるいものである。いや、そんなことよりも、海底におちながら、外部から、海水も侵入せず、空気もくさくならないのが、なにより天の助けと、ありがたく思わなければならない。考えていくと、こうして、二人とも助かっていることが、だんだんふしぎで、そしておそろしくなってくるのだった。

「パイ軍曹どの。一体自分は、只今ただいま、生きているのでありますか、それとも死んでしまったのでありましょうか」

「なにッ。死んだやつが、そんなに上手に口がきけるか。また、おれの声が、きこえたりするものか。ばかなことも、やすみやすみいえ」

 と、叱ったものの、軍曹は、ピート一等兵が、とつぜんへんなことをいいだしたので、気味がわるくて仕方がなかった。

「はあ、やっぱり、只今は生きているのでありますか。なるほど」

「只今も、なるほどもないよ。ちと、しっかりしなきゃいけない。びっくりするのも、無理ではないけれど……」

「いや、軍曹どの。自分は、たしかに一度死んだんです。それから再度、生きかえったのです、たしかに、或る期間、死んでいました」

「そんな、へんなことをいうものじゃないよ。死んだ奴が、どうして生きかえるものか」

「いや、そうではありません。軍曹どの。なぜ、そんなことをいうかと申しますと、さっき自分は死んでいる間に、幽霊を見かけました。幽霊が見えたんです。そのへんを、すーっと歩いていましたよ」



   幽霊ゆうれい



「おどかすなよ」

 と、パイ軍曹は、鉛筆ですじをつけたような細い口髭くちひげをうごかして、いった。

「いえ。ほんとです。軍曹どのとは、全くちがった服装をしていました。幽霊の足音が、ことんことん床を鳴らしたのを、聞いたようですよ」

「ふーん」

 パイ軍曹の顔が、なぜか、さっとかわった。そしてピート一等兵を、じっとにらえていたが、やがて口をひらき、

「その幽霊なら、さっき、わしも、ちょっと見たよ」

 と、こんどは軍曹が、へんなことをいいだした。

「はあ、軍曹どのも、見たでありますか。じゃあ、夢じゃなくて、本物の幽霊が、この戦車の中に現れたんですね。ううッ」

 と、大男のピート一等兵は、肩をすぼめた。戦車の中に、幽霊が現れるなんて、途方とほうもない話だ。相当、戦場ではたらいてきた戦車なら、そのとき戦死した勇士の幽霊が、出てくるかもしれない。だが、これは新しく出来たばかりの戦車なのである。戦争に出たことは、一度もない。その戦車に、幽霊が出てくるなんて、へんなことだ。

「あははは」

 と、パイ軍曹が、とつぜん笑い出した。

「軍曹どの、なにが、おかしいのですか」

「あははは」

 軍曹の声は、戦車の壁に反射して、妙に、ううーんと後をひいた。ピート一等兵は、肩のうえに、手をかけながら眼を丸くした。

「おい、ピート一等兵。幽霊が出るなんて、うそだよ」

「はあ、嘘ですか」

「つまり、これは生理的の現象だ。いいかね。おれたち二人は、さっきから、同じように頭をがんがんとうったじゃないか。だから、同じように、頭がへんになって、同じように幽霊みたいなものの姿が、見えたというわけだよ」

「ははン、同じように頭がへんになって、同じような幽霊の姿が、頭の中にうかび出たというわけですか。なるほど、そうかもしれませんなあ。軍曹どのと自分とは、前から、双生児のように、なんでも気が合うのですから、そういう場合に、二人の頭の中に、別々に出てくる幽霊が同じ姿をしていても、かくべつふしぎでないわけですなあ。なるほど、ああなるほど」

「お前のように、臆病おくびょうで、びくびくしていると、西瓜すいかが、機雷に見えたりするのだ。しっかりしろ。あははは」

 パイ軍曹は、笑った。だが、その笑いごえは、あまりほがらかであるというわけにはいかず、どっちかというと、とってつけたような笑いごえだった。

 それでも、ピート一等兵は、やっと、おちついたようであった。

「なあに、自分は、たいていの物にはおどろきませんが、幽霊ばかりは、にが手なんですよ。あのひきずるような足音、そして地の底から呼んでいるようなあのうつろなこえ、あいつは、まっぴら御免ごめんですよ」

 そういいながら、彼はポケットをさぐって、煙草たばこをさがした。だが、煙草は、なかった。

「あれ、煙草がない。しまった、船へ、おいてきた。軍曹どのは、お持ちですか」

「なんだい、煙草か。うん、煙草なら、ここにあるが、まさか、この戦車の中じゃ、油があるから、危くてすえないよ」

「ははあ、なるほど」

 と、ピートは、うらめしそうだ。

「あっ、たいへんだ。軍曹どの」

「なんだ、おどかすない」

「たいへんですよ、これは。煙草のないのはいいが、一体これからのわれわれの食事はどうなるんでしょうか」

「うん、そのことには、よわっているんだ。しかし、一体われわれは、いつまで生きているかということの方が、先の問題だよ。まあ、どうせ、無い命なんだから、それまでは、朗かにやろうぜ」

「朗かにやれといっても、食うものがなくちゃ、朗かにやれませんぜ」

「ぜいたくいうな。とにかく、この戦車は、深い深い海底へおちこんでいるんだから、救援隊は来っこなしさ。ただ、こうして死をまつばかりだよ」

「いやだなあ。どうせ、乗るんだったら、戦車よりも、破れボートの方がよかった」

「なぜ?」

「だって、ボートにのってりゃ、仰向あおむけば、天から降ってくる雪を、口の中にいれることができるし、たまにゃ、近くの流氷の上に白熊がのっているかもしれませんから、銃をぶっぱなして、白熊の肉にありつけるかもしれない」

「やめろ、そんなうまそうな話は! よけいに腹が減って、よだれが出るばかりだ」

 と、パイ軍曹は、腹を立てた。



   林檎りんご



 傾いた戦車の中に、電灯だけは、ぜいたくにも煌々こうこうと照っている。

 ピート一等兵は、大きな図体ずうたいを、小さく縮めながら、失心したようになって、床を見つめている。

(ああ、なんとかして、もう一度、パンというものをむしゃむしゃ食べてみたい。娑婆しゃばには、むかしビフテキなんてえ、うまいものがあったなあ)

 そんなことを考えているうちに、ピート一等兵は、おやという表情で、鼻をひくひくさせた。

(おや、なんか食べ物のにおいがする!)

 彼は、くすんくすんと、鼻をならした。

 すると、とつぜん、まるで、お伽噺とぎばなしのようなことが起った。それは、傾いた戦車の鉄板の床の上を、林檎りんごのような形をしたものが、ころころと、ピート一等兵の足許あしもとへ、ころげてきたのであった。

 彼は、太い指で、いくども、眼をこすった。

(あれえ、おれの眼は、どうかしているぞ。あまり食べ物のことを考えつづけたため、とうとうおれの頭はへんになって、有りもしない林檎が目の前に見えるのじゃないか)

 眼を、ぱちぱちしてみたが、たしかに彼の足許には、林檎がおちている。

 彼は、いくたびか手をのばそうと思いつつ、いやいや手をだすまいと、はやる心をおさえた。なぜなら、手を林檎の方へのばしたが最後、せっかくの林檎が、しゃぼん玉に手をつけたように、つと、消えてしまうのではなかろうか。まぼろしにしても、林檎の形が、見えている間はたのしい。幻が消えてしまえば、どんなに、つまらないだろう。それを考えると、ピート一等兵は、手をのばすこともならず、からだを化石のようにして、足許へ転がってきたその怪しい林檎の形を、見まもった。

 だが、その林檎の色は、あまりにうつくしかった。まっ赤なつやつやした色が、食欲をそそりたてずには、おかなかった。そして、あの甘ずっぱい林檎の匂いまでが、つーんと彼の鼻をつきさしたように思ったのである。

 ついに、ピート一等兵は、幻の林檎の誘惑に敗けてしまった。彼はぶるぶるふるえながら、手をのばした。そして、思いきって、林檎をつかんだ。

「おやッ」

 大きなおどろきのこえが、彼の口をついてとびだした。

「あっ、ほんとの林檎だ!」

 彼は、その場に、おどりあがった。林檎を頭の上に押しいただきながら……。そして、ひょっとしたら、自分は、とうとう気がへんになってしまったのかもしれないと、考えながら……。

「おい、どうした、ピート一等兵。しっかりしろ。気をしずめなくちゃ……」

 パイ軍曹はだしぬけにピートが、さわぎだしたもので、これまた、心臓が破裂したようなおどろき方だった。

「軍曹どの。奇蹟きせきです。大奇蹟です」

「なんじゃ、奇蹟とは」

「あり得ないことが起ったのです。ほら、この林檎です。自分の足許へ、ころころと転がってきました。この林檎がですよ」

「あっ。林檎だ! こっちへ、よこせ」

「だめです。自分が見つけたんです」

一寸ちょっと見せろ。この林檎は、どこにあったのか」

「軍曹どの、半分ずつ食べることにしましょう。自分にも、残してください」

「食べるのは後まわしだ。おいピート、この林檎は、いかけだぞ。お前、早い所、やったな」

「いいえ、うそです。自分は、まだ一口も、やりません」

「それは、ほんとか。ほら見ろ。ここのところに歯型がついている。お前が、かじらなければ、誰が、ここのところを、かじったんだ」

「さあ? とにかく、まだ自分は、決してかじりません」

「じゃあ、いよいよこれはへんだぞ。お前がかじらず、おれがかじらないとすれば、この生々なまなましい林檎のうえについている歯型は、一体、だれがつけたんだろう?」

 二人は、ぞーっとして、互いに顔を見合せた。そして、どっちからともなく、かすかにうなずいた。次の瞬間に、二人は、ひしと寄り合って互いに抱きついていた。

「わ、幽霊が、あの林檎をかじったんだ」

「ああ、幽霊の歯型! やっぱり、この戦車の中にゃ、ゆ、幽霊がいるんだ!」

 歯型のついた怪しい林檎は、二人の勇士を、ふるえあがらせた。一体、どうしたわけだろう?



   林檎の幽霊



 ほんとに、幽霊が、この地底戦車の中に、巣くっているのだろうか。

 鼻の下に、鉛筆ですじをひいたようなひげを生やしているパイ軍曹は、こんな新しい戦車の中に、幽霊などがでてたまるものかと、さっき大男のピート一等兵を叱りつけたのであるが、今や、彼の自信は、嵐にあった帆船のように、ひどくかたむきだした。

「おい、ピート一等兵」

「へーい」

 二人は、抱き合ったまま、小さい声で、話をはじめた。

「お前、これから、戦車の隅から隅までさがして、幽霊がいないかどうか、たしかめてみろ」

「そ、そんな役まわりは、ごめんです」

「なに、お前は、上官の命令にそむくのか」

「いえ、そんな精神は、ないであります。ですが、軍曹どの。自分は、生きている敵兵は、たとえ百万人が押しかけてこようと、尻ごみはしないのですが、死んでいる幽霊は、たとえ一人でも、どうも虫がすきませんであります」

「お前は、あきれた臆病者だ。そんな弱虫とは知らず、おれはこれまで、お前にずいぶん眼をかけてやった。アイスクリームが、一人に一個ずつしか配給されないときでも、おれはひそかに、お前には二つ食べさせてやったのだ。あああ損をした」

 パイ軍曹は、とんだところで、ピート一等兵をこきおろしたが「アイスクリーム」といったとき、彼は、もうこの戦車の中ではどんなことをしたって手に入れることのできないアイスクリームであることを考えて、しらずしらずに大きな吐息といきが出た。

 ピート一等兵は、軍曹から、とめどもなく叱られながら、足許にころがっている林檎を、じろじろと、横目でながめて、なまつばをのみこんでいた。

 パイ軍曹は、むずかしいかおをして、広くもない戦車の中を、じろじろとみまわした。幽霊が、かくれているとすれば、どこにいるのだろうか。それとも、幽霊というやつは、ふだんは、人間の目には見えないのかもしれないから、案外、自分の目の前に立っているのかもしれない。じっと耳をすましていたら、幽霊の吐息がきこえるのではないか、などと、いろいろと気をくばって、幽霊の発見に努力をしたのであった。

 だが、幽霊のいるらしい気配は、一向いっこうにしなかった。

(どうも、へんだ。おれは、どう考えても、こんな新しい戦車の中に、幽霊がすんでいるとは思わない)

 パイ軍曹は、そのとき、こんなことを思った。

(さっき、ピートと二人で、この戦車の中へ、とびこむとき、船員か戦友かが、ちょうど食べかけていた林檎を、二人のどっちかが、靴のさきでけとばして、この戦車の中へ、けこんだのではあるまいか。すると、あの林檎には、歯型のほかに、靴でけとばしたあとが、ついているかもしれない。もう一度、あの林檎をとりあげて、よくしらべてみよう!)

 林檎と幽霊の関係に、パイ軍曹の悩みは、ひとかたではなかった。

 パイ軍曹は、きょろきょろと、あたりを、みまわした。

「はて、林檎は、どこへおいたかな」

 林檎が、見あたらない。

「おい、ピート一等兵。さっきの林檎を、もう一度、しらべたい。林檎は、どこにある」

「さあ、どこへいきましたかしら……」

 ピートは、ふしぎそうにいった。

「おい、ピート。そっちへ、離れてみよ。猿の子供みたいに、いつまでも、おれに抱きついていても仕方がないじゃないか。お前が、あの林檎を、尻の下に、しいているのではないか。早く、のけ!」

「はい、今、のきます」

 ピート一等兵は、立ち上った。

 二人は林檎をさがした。

 ところが、林檎は、どこにもなかった。軍曹は、ピート一等兵のポケットの中までさがしたが、林檎はなかった。もちろん、自分のポケットにもなかった。

「どうも、へんだな。今、そこのへんにあった林檎が、どうして、なくなったんだろう。これは、いよいよふしぎだ」

 パイ軍曹の顔が、また一だんと、青くなった。

 すると、ピート一等兵が、手で自分の口にふたをしながら、

「あっ、わかりました。軍曹どの、林檎が見えなくなったわけが、わかりました」

「お前に、わかった? どういうわけか」

「つまり、あの林檎も、幽霊だったんです。林檎の幽霊だから、とつぜん、林檎の姿が、かきけすように、見えなくなってしまったというわけです」

「なるほど、林檎の幽霊か、そういうことが、あるかもしれないなあ。ああ気持がわるい!」

「ああ軍曹どの。林檎の幽霊! ああ、おそろしいですなあ」

 といいながら、ピート一等兵は、胃袋の中からこみあげてくるげっぷを、手でおさえた。林檎くさいそのげっぷを……。



   早業はやわざ



 パイ軍曹が、林檎と幽霊の関係について、おもいわずらっている間にピート一等兵は、早いところ、その林檎をしっけいして、皮もたねも、みんな自分の胃袋へおくりこんでしまったのだった。

 すばらしい味だった。彼は、生れてこの方、こんなうまいものを、たべたことがないと思った。胃袋が、いつまでも、生き物のように、うごめいているのが、はっきりわかった。

 おかげで、ピート一等兵は、たいへん元気づいた。もう、幽霊もなんにも、なかった。

 ピート一等兵の元気にひきかえ、パイ軍曹の方は、とつぜん姿を消した林檎の幽霊のことで二重の恐ろしさを、ひしひしと感じ、ますます青くなって、ちぢかんだ。南極の凍りついた海底ふかくおちこんだうえに、人間の幽霊のほかに、林檎の幽霊にまで、くるしめられるとは、なんという情けないことだろう。軍曹は、しゃがんだまま、頭を抱えて、考えこんだ。

 それを見ると、ピート一等兵は、ちょっと気の毒やら、おかしいやらであった。だが、笑うわけにも、いかなかった。

 そこで、彼は、軍曹にこえをかけた。

「軍曹どの、このままで、じっとしていては、われわれは、死ぬよりほかありません。ですから、思い切って、この地底戦車をうごかして、ニューヨークまで、かえっては、どうでありますか」

 パイ軍曹は、顔をあげた。そして、あきれがおで、

「ばか。ニューヨークまで、こんな地底戦車にのってかえれるものか」

「しかし、軍曹どの。われわれ軍人は、常にそれくらいの元気は、もっていなければならぬと思うのであります」

「それは、わかっとる。しかし、ニューヨークまでかえるには、何ヶ月かかるかわからない。その間重油をどうするんだ。また、われわれは、なにを食べて、その何ヶ月かを生きていればいいんだ」

 パイ軍曹は、こうなると、ますますひかんしていった。

「なァに、軍曹どの、なにか考えれば、どうにかなりますよ」

 と、ピート一等兵は、ますます元気なこえでいった。くいかけの林檎一個が、たいへんな力を、彼にあたえたのだ。

「どうかなると、口でいうだけでは、どうもならん」

「だめです。軍曹どのは、やってみないうちから、もういけないとおもっていられるから、だめなんです。どうせ、死ぬときは死ぬのですから、じっとしていて死ぬよりも、軍人らしく、この地底戦車で突進しながら、たおれた方が、軍人らしい最期さいごではありませんか」

「なるほど、なあ」

 パイ軍曹は、大きくうなずきながら、立ち上った。

「お前みたいな臆病者に、こっちが、はげまされようとは考えなかった。お前は、ほんとは、臆病者じゃなかったのかなあ」

 パイ軍曹は、感心していった。そして、さっと、しせいを正しくすると、

「集まれ!」

 と、号令をかけた。

 ピート一等兵は、とつぜん、集まれをかけられて、びっくりしたが、すぐさま、かけ足をして、パイ軍曹の前に、不動のしせいをとった。

「番号!」

 パイ軍曹は、大まじ目でいった。

「一チ!」

 ピート一等兵は、きまりがわるくなった。二イ三ンとひとりで、もっとさきをいいたいくらいであった。

「異状ないか」

「はい、全員異状、ありません」

 全員といっても、たった一人である。隊長をあわせても、たった二人だ。

「命令。地底戦車兵第……ええと、第百一連隊第二大隊第三中隊第四小隊のパイ分隊は、只今より出動する」

 と、べらぼうに大きな数をいって、

「戦車長は、パイ軍曹。操縦員は、ピート一等兵。第一番砲手はピート一等兵。第二番砲手はパイ軍曹。通信兵はパイ軍曹。機関員はパイ軍曹……」

 どこまでいっても、要するに、たった二人であった。たいへん手がりないが、どうも仕方がない。

「全員部署につけ!」

 そこでパイ軍曹は、一番高い戦車長席につき、ピート一等兵は、前の方の、操縦席についた。

「部署につきました」

「よし。では、出動! 針路しんろ、真南! 傾斜をなおしつつ、前進」



   地中前進



 ピート一等兵が、エンジンをかけた。車内は、たちまち、轟々ごうごうたる音響にとざされた。レバーをたおすと、地底戦車は、ごとんごとんと、前進をはじめたのであった。

 パイ軍曹は、配電盤をにらんだり、戦車のゆく方を考えたり、なかなかいそがしかった。

「おい、ピート。エンジンの調子は、わるくないようだな」

 軍曹は、送話器をひきよせて、いった。ピート一等兵の耳にくくりつけた高音受話器が、軍曹のこえのとおりに鳴った。

「エンジンの調子は、異状ありません」

 ピート一等兵は、なかなか操縦上手じょうずだった。戦車は、はじめ、ひどく傾いていたが、まもなく、ちゃんと水平になおって、気もちがよくなった。

 ぎーン、ぴし、ぴし、ぴしッ。

 地底戦車の前にとりつけてある硬い廻転螺旋刃らせんじんが、きりきりとまわり、土か氷か岩石かはしらぬが、どんどんくだいて、戦車を前進させているようであった。

 距離積算計というメーターが、だんだんと大きな数字を、あらわしていった。たしかに前進しているのであった。

 こうやって、気もちよく前進していくと、戦車は地上を走っているように思われるのであった。たいへん具合がよろしい。

め!」

 パイ軍曹が、号令を下した。

 ピート一等兵は、あわてて、レバーをひいて、ギアをはずした。そして、足踏み式の、給油バルブを閉めつけた。地底戦車は、ぎぎーッと、とまった。

「どうしたのでありますか、軍曹どの」

「うん、ちょっと、外をのぞいてみようと思うのだ」

「ああ、そうですか。多分、海底の氷のかたまりの中でしょう」

「そうかもしれないなあ」

 パイ軍曹は、展望鏡を、戦車の上から出すために、ハンドルをまわした。

 ハンドルは、なかなかまわらなかった。

「硬いものが、おさえつけているらしい」

 それでも、展望鏡は、頭だけを少し出しているようであった。軍曹は、そこで、車外に、赤外線灯をとぼした。そして、展望鏡でのぞいてみた。赤外線をあてて、展望鏡をちょっとかえると、まっくらなところでも、はっきり見えるのだった。地底戦車には、なくてはならない展望鏡だった。

「おや、これは、土の中だ」

 と、パイ軍曹は、叫んだ。展望鏡の中にうつったものは、たしかに、小さい石をまじえた水成岩とも土ともつかないあつい層であった。

「えっ。土の中ですか」

「そうだ。われわれは、もうすでに、陸にぶつかっているのだ。これをどんどん進んでいくとうまくいけば、やがて、わが南極派遣隊の駐屯ちゅうとんしているところへ出られるかもしれないぞ」

「そうですか。そいつはいい。うまくいくと、これは、たすかりますね」

「うん、とにかく、もっと前進をしてみよう、前進!」

 パイ軍曹のかおにも、生色せいしょくが、よみがえってきた。地底戦車は、ふたたび、轟々と音をたてて、前進をはじめた。

「針路、真南!」

 キーン、ぴし、ぴし、ぴしッ。

 地底戦車は、ときどきからまわりをしながら、それでも、だんだん前進していった。

「よし、この分では、相当見込みがあるぞ」

 パイ軍曹は、にんまりと笑った。

 下をみると、ピート一等兵が、汗ばみながら、しきりにハンドルをとっている。電熱器のおかげか、それとも地底深いせいか、車内は、かなりに温い。そのとき、パイ軍曹の眼は、とつぜん、あやしいものの姿を、とらえた。

「おや、林檎だ。さっきの林檎が、あんなところに落ちていた」

 林檎は、ごろごろと転げながら、軍曹の席に近づいた。軍曹は、身をおどらせて、下に下りると、その林檎を手にとった。たしかにほんとの林檎だ。すてきな香りがする。てのひらの中に、ひんやりとした感じがつたわる。そのとき、林檎を手にとってみていたパイ軍曹は、

「おや、これはへんだよ。歯型がない!」

 と、小首をかしげた。なぜ、こうして、いくつも、林檎が、ころころ転げだしてくるのだろうか。



   林檎の始まり



「ピート一等兵。エンジンをとめろ。そしてこっちへ下りてこい」

 と、パイ軍曹は、鼻の下に、鉛筆ですじをひいたような細いひげを、ぴくりとうごかして、さけんだ。

「さあ」

 大男のピート一等兵は、地底戦車のエンジンをぴたりととめ、よっこらさと、座席から下りてきた。

「軍曹どの。もう、自分に対し、勲章くんしょうでも、下さるのですか」

「ばかをいえ。もし、このままうまく地上にでられることがあったら、お前を銃殺するよう、上官に申請してやる」

「じょ、冗談を……」

「いや、ほんとだ。貴様は、じつに、けしからん奴だぞ。この地底戦車内において、指揮官たるおれの眼をごま化し、貴重なる食料品を無断で食べてしまうなどということが、許せると思うか」

「はあ、──」

 ピート一等兵は、眼を白黒している。さては、パイ軍曹、自分が林檎をしっけいしたことを感づいたな。

「軍曹どの。自分は、幽霊の林檎なんか、たべないであります」

 そんなことが知れたら、たいへんである。ほんとに、銃殺されるかもしれない。食い物のうらみというのは、おそろしいから……。

「なにィ。まだ白を切っているか。よォし、では、さっきの林檎は、食べないことにしておこう」

 パイ軍曹は、眼をぎょろりと光らせ、にやりと笑い、

「気をつけ!」

 ピート一等兵は、気をつけをする。

「一歩前へ! 口を大きくひらけ!」

「ええッ」

 仕方がない。ピート一等兵は、天井の方をむいて、口を大きくひらいた。

「こら、もっと下を向いて、口をあけろ」

「下へ向けないであります。さっきから首の骨が、どうかなったのであります。幽霊のことを、あまり心配したせいであろうと思います」

「つべこべ、喋るな。命令どおりすればよいのだ。──もっと下へむけ。それから、号令とともに、大きく、息をはきだせ。さあ、はじめる。お一イ」

 ピート一等兵は、泣きだしそうな顔をしている。

「はあッ」

 と、申しわけみたいに、小さい息をはく。

「こら、そんな息のつき方では、だめだ。まるで、お姫様が吐息をついているようじゃないか。もっと大きく息を、はきだせ。こういう風に。お一イ、はあ 二イッ、息をはあ

 軍曹は、いじわるい笑いをうかべて、ピート一等兵のよわっている顔をみあげた。

「軍曹どの。もう、たくさんであります。あれは、自分のしらないうちに、林檎が胃袋の中へ、とびこんだのであります」

 大男のピート一等兵が、べそをかいているところは、なかなかおもしろい。

 軍曹は、やっと、思いのとおりにいって、気がせいせいした。

「そうか、無断でそういうことをやったことに対しては、いずれあとで処罰する」

 と、パイ軍曹は、そり身になって、

「ところで、おれは、もう一つ、こういうものを持っているんだ」

 と、かくしていた林檎を、ピートの眼の前に、ぬっとだした。

「やッ! まだ、あったのですか」

 ピートは、おどろきのこえをあげた。そして、彼は林檎の方へ、手をのばした。軍曹は、すばやく林檎をひっこめると、その手を、いやというほどなぐりとばした。



   意外な声



「軍曹どのは、その林檎を、ひとりで、召しあがるつもりなんでしょう」

「そうだ。さっきの林檎は、お前がくってしまった。こんどは、おれに食べる権利があるのだ」

「半分ください」

「いや、やるものか」

 そんなことをいっているうちに、パイ軍曹の胃袋が、もう待ちきれなくなってしまった。この、どこからでてきたか、わけのわからない幽霊林檎の素性すじょうをしらべることの方が、先にかたづけなければならないことだったが、こうして手にもち、いい匂いをかぎ、うつくしい林檎のはだをみていると、そんなことは、もう、後まわしだ。はやくがぶりと喰いつかないでは、いられなくなった。

 パイ軍曹は、目をつぶり、大きな口をひらき、林檎をがぶりとやろうとした。これをみていたピート一等兵も、もう、たまらなくなった。

「あ、軍曹どの。お待ちなさい」

「なんだ、なぜ、とめる」

「その林檎は、どうも、たいへんあやしいですよ。さっき、自分がたべたとき、へんな味だと思いましたが、ああ、あいた、あいた、あいたたたッ」

 ピート一等兵は、とつぜん顔をしかめ、自分の腹をおさえて、くるしみだした。

「おい、どうしたピート。しっかりしろ」

「あ、あいた、ああいたい。軍曹どの、その林檎を食べてはいけません。その林檎の中には、毒が入っています。うわーッ、いたい」

 ピート一等兵が、しきりにくるしがるので、パイ軍曹は、心配になった。

「毒がはいっているって? ほんとかなあ」

「ほんとです。毒のある林檎であります。軍曹どの、自分はもうさっきの林檎の毒にあたってとても助かりません。ですから、そのついでに、軍曹どののもっておられる林檎も、自分が食べてしまいましょう。そうでないと、自分が死んだのち、軍曹どのが、この林檎を召し上るようなことになると、軍曹どのもまた一命を……」

「だまれ、ピート一等兵。貴様は、林檎がほしいものだから、そんなうそをついているんだな。ふふん、その手には、のるものか。これをみろ!」

 というが早いか、パイ軍曹は、もっていた林檎に、がぶりとかぶりついた。

「あっ、軍曹どの、それはひどい」

 ピート一等兵は、パイ軍曹に、とびついた。軍曹は、林檎をとられまいとする。そうして二人は、組みあったまま、床にどうと転がってしまった。たった一つの林檎のことで、地底戦車の中に、しばらく格闘がつづいた。まことにあさましいことだったが、二人の空腹は、それほど、もうたえられなくなっていたのだ。

 上になり下になり、二人が組みうちをしているうちに、かんじんの林檎が、軍曹の手をはなれて、ころころと床のうえに転がった。

「あっ、しまった」

 パイ軍曹は、手をのばして、それをおさえようとする。ピート一等兵は、そうさせまいとする。二人の身体は、からみあって、林檎のあとを追う。いつしか二人は、戦車の隅っこに、しきりに頭をぶちつけあっていた。

「こら、手を出すな」

「いや、自分も食べたいのです」

 二人の争いは、いつおわるとも、わからなく見えたが、そのとき、何者ともしれず、二人の方に向って、大ごえで、よびかけたものがあった。

「お二人とも、手をあげてもらいましょう。手をあげなきゃ、この機関銃の引金を引きますよ」

 おもいがけない人間のこえだ。

(あっ、あの幽霊か?)

 二人は、とたんに顔の色をうしない、こえのしたうしろをふりかえってみると……。



   安全条件



「まあまあ、そんなこわい顔をしないで、おとなしくしてください。お二人とも、僕に反抗しなければ、べつだん、この機関銃の引金を引こうとも思いませんよ」

 どこからあらわれたのか、二人のうしろに立っているのは、顔の黄いろい若い東洋人だった。

「貴様、どこの何奴どいつか」

「僕の顔をみれば、大よそ見当はつくでしょうがな」

 と、かの若い東洋人は、なおもゆだんなく、機関銃の銃口を、パイ軍曹と、ピート一等兵の方へ向けながら、

「僕の名前ですか。これをお二人さんは、ききたいとおっしゃるのですか。さあ、何といったら、一等わかりやすいでしょうね。そうですなあ、まあ、僕の名前は、黄いろい幽霊といっておきましょう」

 二人は、幽霊ということばを聞くと、ぞっとして、首をちぢめた。

「黄いろい幽霊が、こんな戦車の中に、なに用があるのか」

 パイ軍曹は、やっと、これだけのこえを出した。

「用事は、いろいろありますがね、まず第一は、お二人さんが召し上った林檎の代金を、こっちへもらいたいのですよ」

「林檎の代金、すると、あの林檎は、君の……」

「そうです。僕が持ってきた林檎です。さあ金を払ってくれますか。おやすくしておきますよ」

 黄いろい幽霊は、くそおちつきにおちついている。

「金なんか、ない。たとい、あっても誰が払うものか」

 パイ軍曹が、断然いいきると、黄いろい幽霊のもっている機関銃の銃口が、パイ軍曹の鼻さきへ、ぬーっと、のびてきた。

「お払いになった方が、おためですよ。お金がなければ、他の品物でもよろしゅうございますが……。ぐずぐずしないでください。では、只今、いただきに、うかがいましょう」

 黄いろい幽霊は、パイ軍曹とピート一等兵のそばへ、そろそろと、よってきた。二人は、びっくりして、後じさりした。

「おうごきに、ならないように、引金をひけば、なにもかも、それまでですよ。よろしゅうございますか」

 機関銃の引金をひかれては、たまらない。二人は、もううごくことをあきらめ、黄いろい幽霊の、するがままに、まかせた。

 黄いろい幽霊は、二人のうしろへまわって、ポケットの中をさぐった。お金をとられるか、時計でも持っていくのかと思ったのに、黄いろい幽霊は、そんなものはとらないで、二人のポケットから、大型のナイフをぬきだした。それから、パイ軍曹が腰におびていたピストルも、うばってしまった。

「さあ、もう、ようござんすよ。手をおろしてください。からだをうごかしても、かまいません」

 黄いろい幽霊は、満足そうにいった。

 パイ軍曹は、面をふくらませながら、

「君は一体、何者だ。幽霊じゃないだろう」

 と、かすれたこえでいった。

「幽霊という名は、あなたがたが、僕につけてくだすったんですよ。あなたがたは、僕が床にころがした林檎を拾って、たべてしまったじゃありませんか」

「ああ、あの林檎は、君の林檎だったのか。なぜ、林檎をもって、こんなところへ入っていたのか」

「それは、あなたがたが、どうでも勝手に考えてください」

 と、黄いろい幽霊は答えない。

「じゃあ、もう用がすんだのだろうから、君は、戦車から出ていってくれ」

「あははは。パイ軍曹あなたは、もうこの戦車の中では、命令権がないのですよ。これからは、僕が命令しますからねえ」

 黄いろい幽霊は、からからと笑うのだった。



   幽霊指揮官



「こっちを向きたまえ」

 と、黄いろい幽霊は、おちつきはらった声で命令した。

 パイ軍曹とピート一等兵は、おずおずと廻れ右をして、黄いろい幽霊の方に向いた。

(あっ、こいつは、まさしく東洋人だ。中国人じゃないかなあ。いや、エスキモー人かも知れない。いやいや、こんな大胆なことをやるのは、日本人より外にない)

 これは、パイ軍曹の腹の中であった。

 ピート一等兵の方は、そんなおちついたことを考えるひまがない。

(はあて、この幽霊め、おれたちと、あまりかわらない服装をしているぞ。防寒服を着た幽霊は、はじめてみたよ)

 と、ピート一等兵はがたがたふるえている。

「さあ、これからは、私──黄いろい幽霊が、この地底戦車の指揮をとる。それについて不服な者があるなら、一歩前へ出なさい」

 誰も出ない。そうであろう。黄いろい幽霊は、そういいながら、わきの下にかかえている機関銃の銃口を、二人の方へ、かわるがわる向けているのだ。不服があるといったら、すぐにも発砲しそうである。誰が一歩前に出るものか、それは自殺するようなものだから……。

「よし、わかった」

 と、黄いろい幽霊は、おごそかに、いった。

「お前たち二人とも、わしが指揮をとることに不服はないのだな。それでは、ただちに命令する。二人とも、操縦席につけ!」

「うへッ」

 パイ軍曹とピート一等兵とは、仕方なしに操縦席についた。

「前進せよ。針路は南東だ」

 パイ軍曹は、いわれたとおり、戦車を南東へ向けて、出発させた。

 エンジンは、ごうごうと音を発し戦車の中には、つよい反響が起った。

「おい、パイ軍曹。針路を、ちゃんと正しくなおせ。お前は、命令をきかないつもりか。きかないつもりなら、ここでお弁当代りに銃弾を五、六発、君の背中にお見舞い申そうか」

「いや、いや、いや、いや」

 パイ軍曹は、急にハンドルを切って、黄いろい幽霊のいうとおり、地底戦車の針路を南東に向きをかえた。

「黄いろい幽霊閣下、只今我々は、ちゃんと南東に向け、前進中であります。でありますからして、銃弾をわしの背中にくらわせることは、御無用にねがいたいもので……」

 と、うしろを向いて、おろおろごえで哀訴あいそした。

「うしろを向いてはならん。それでは前進方向が、くるってくるではないか」

 と、黄いろい幽霊は、パイ軍曹を、しかりとばした。

 そのそばでは、ピート一等兵が、予備のハンドルを握って、ぶるぶるふるえている。

(おれは、ああいうふうに、ぽんぽん叱りつける幽霊の話を、きいたことがないぞ。南極地方には、かわった幽霊が出ると、豆本まめほんかなんかに、書いておいてくれればよかったのに……)

 と、ピートは、どこまでも、彼を幽霊だと思っている様子だった。

 一体、この黄いろい幽霊は、どこから来たのだろうか。もちろん、本当の幽霊ではない。

 その謎は、この黄いろい幽霊が、戦車の隅に大きな袋の中に一ぱいつめた食料品をかくしていることによって、とかれるようだ。あの生々しい林檎は、この黄いろい幽霊が、わざと、床のうえにころがしたものであった。──彼は、密航者だった。

 だが、なんと風がわりな密航者よ。わざわざ、南極地方へいく地底戦車の中にしのび入るなんて、ただ者ではない。彼は、一体なにをするつもりか。それはおいおいとわかってくるであろう。



   秘密は御存知ごぞんじ



「おい、パイ軍曹。もっと地底戦車のスピードをあげろ」

 黄いろい幽霊は、おごそかに命令をした。

「は。もうこれ以上、出ませんです」

「うそをつけ」

 と、黄いろい幽霊は、言下に、パイ軍曹をしかりつけた。

「おい、スピードのことは、ちゃんとわかっているのだぞ。極秘ごくひの陸軍試験月報によれば、地底戦車は、地中では最高三十五キロ、海底では、百五十キロまで出ると発表されているぞ」

「えっ、それまで知っているのですか。──では仕方がない。──ほら、スピード・メーターをみてください。いま、三十三キロまで出ていますよ。もうストップです」

「ごま化しては、いかん。それは地中スピードだ。しかるに、わが戦車は、いま海底を伝って前進しているのではないか。ほら、その計器をみろ。岩や土をそぎとる高速穿孔せんこう車輪が、すこしもまわっていないではないか。ほら、こっちのスイッチが、ひらかれたままになっている。ごま化すのは、いいかげんにしろ」

「うへッ」

 黄いろい幽霊が、おそろしく地底戦車のことをよく知っているので、さすがのパイ軍曹も、とうとうかぶとをぬいでしまった。

「わかりました。おっしゃるとおりいくらでもスピードをあげます。しかし幽霊閣下は、この戦車を、一体どこへお向けになろうというのですか」

「目的地か。そんなことは、聞かないでも分っていそうなものではないか。ほら、その地図のうえの、ここだ!」

 と、黄いろい幽霊は、操縦席の前にかかっている南極地方の地図のうえを、機関銃の先で指さした。そこには、絶望のみさきと、妙な地名が書きこんであった。

「えっ、ここですか。ここは絶望の岬ですよ。いくらなんでも、こればかりは、おことわりいたします」

 と、パイ軍曹は、顔色をかえた。

 そうでもあろう、この絶望の岬というのは、この前、十九名からなるノールウェイの南極探険隊の一行が、岬へ上陸したのはいいが、そのまま険悪な天候にとじこめられてしまって、半年間も立往生し、ついに全員が、恨みをのんで、死んでしまった魔の場所であった。パイ軍曹が、顔色をかえるのも、無理ではなかった。

「いや、行くのだ。行くのがいやなら、すぐこの戦車から下りたまえ」

 どこで聞いていたか、黄いろい幽霊は、パイ軍曹の口ぶりをまねして下りろといった。

「下りるのが、いやなら、銃弾をくらうかね」

 軍曹が、だまっていると、となりに座っているピート一等兵は、しんぱいして、口をひらいた。

「軍曹どの。その幽霊のいうことを聞いた方がいいですよ。幽霊なんてものは、むちゃくちゃなことをいいだすものですからね、それにさからうと、よくありませんよ。自分の村では、幽霊にさからった者がいて、いつの間にか全身の血が、一滴のこらず、自分のからだからなくなってしまったのですよ。軍曹どの、だから、さからってはいかんです。もしそうなったら自分は、幽霊と、さしむかえで暮すことになるわけで、こりゃ、やりきれませんよ」

 だが、軍曹は、なにもいわなかった。そのとき彼の眼は、急にあやしい光をおびたが、とたんに、彼は、

「ヤッ!」

 と、さけんで、自分の肩ごしに、前へ出ている機銃の銃身を、ぐっとつかんだ。

「さあ、つかんだぞ。力くらべなら、幽霊なんかに負けるものか。こいつさえ、幽霊の手からこっちへとってしまえばいいのだ。おい、ピート一等兵、お前も下りてきて、手つだえ!」



   うごかぬはず



 黄いろい幽霊が手にもっていた機銃で、操縦席の前にさがっている南極の地図を指したために、そばにいたパイ軍曹は、黄いろい幽霊のゆだんを見すまして、機銃をぐっとつかんだのである。力くらべならば、彼はすこぶる自信があった。

「おい、ピート一等兵。早く、力を貸せ。その幽霊の足を、横に払え!」

 だが、ピート一等兵は、へびににらまれたかえるのように、すくんでしまっている。

「ぐ、軍曹どの。じ、自分は、もういけません。……」

「こら、上官を見殺しにする気か。よおしこの機銃を、こっちへうばいとったら、第一番にこの幽霊をたおし、その次には、き、貴様きさまの胸もとに、銃弾で貴様の頭文字をかいてやるぞ! うーん」

 パイ軍曹は、顔をまっ赤にして、うんうんうなりながら、機銃をうばいとろうと一生けんめいである。

 ところが、黄いろい幽霊はさっきから、一語も発しない。そしてパイ軍曹をしかりつけるまでもなく、軍曹のしたいままに、放ってあるのだ。一ちょうの機関銃は、二人の手につかまれたまま、じっとうごかない。

「こら、幽霊。そこをはなせ。はなさないと、き、貴様を……」

「ほッほッほッほッ。パイ軍曹、君の腕の力は、たったそれだけか」

「な、なにを。うーん」

 じつは、パイ軍曹は、さっきからまるで万力まんりきにはさんだようにうごかない機銃について、少々こまっていたところであった。

「さあ、パイ軍曹。君に、これがとれるものなら、もっと倍くらいの力を出したまえ」

「な、なにを。うーん」

 パイ軍曹は、うんとがんばって、死にものぐるいの力を出して、機銃を前にひっぱったが、機銃はあいかわらず、いわおのようにびくともしない。軍曹のひたいからは、ぼたぼたと、大粒の油あせが、たれる。

「力自慢で、わしが負けるなんて、そ、そんなはずはないのだが……」

 幽霊は、わざとらしい咳払せきばらいをして、

「戦車の中には、食料品が不足だというのに、無駄に、力を出していいのかね」

「えっ」

 この戦車の中には、食料品のたくわえがないことは、はじめからしっていた軍曹だった。だから、黄いろい幽霊のことばは、パイ軍曹の腹へ、大砲のごとく、こたえた。彼はとたんに機銃から、ぱっと手をはなした。

「それで、もともとだ」

 と、黄いろい幽霊は、いった。

 パイ軍曹は、なんだか急に、眼の前がくらくなったように感じた。それは、空腹のところへあまり力を出しすぎたためだ。

「君でなくとも、だれがやってみても、この機銃を人力で取りはずすことはできないよ。このとおり、大きな金具で、はさまれているのだからなあ。ほッほッほッ」

 黄いろい幽霊は、おかしさにたえられないという風に、大笑いをしたが、軍曹が、うしろをふりかえってみると、機銃のお尻のところが、掩蓋えんがい固定の締め金具の間に、うまくはさまれていたのである。それでは、軍曹は、堅い鋼鉄と相撲をとるような、とても勝つ見込みのない力くらべを、していたことになる。

「ああッ」

 パイ軍曹は、あきれかえって、自分がいやになった。とたんに、からだが綿のように、ふにゃふにゃになったように感じた。

「ほッほッほッ。戦車隊員ともあろうものが、そんな不注意で、御用がつとまるとおもうか」

 黄いろい幽霊は、一本するどく、軍曹をきめつけたが、そのときどうしたわけか、地底戦車は、急にかたむきはじめたとおもう間もなく、あっといううちに、大きくでんぐりかえりをうち、とたんに車内の電灯が、すーっと消えてしまった。三人は、それぞれ、南瓜かぼちゃのかごをひっくりかえしたように、ごろごろと投げだされた。さあ、一体、何事が起ったのであろう。



   三つの場合



 海底は、まっくらであった。

 だから、なにごとが起っても、皆目みえなかった。

 みえなかったから、よかったものの、もし海底に、だれかすんでいる者があって、いま地底戦車が、断崖だんがいから、まっさかさまになって、墜落したそのものすごい光景をみていたとしたら、その人は、きっときもをつぶしたにちがいない。地底戦車は、石塊せっかいのように、ころげおちたのであった。あの高い断崖から下へおちて、戦車がこわれなかったことが、じつにふしぎというほかない。

 それもそのはず、ドイツとともに、世界に一、二を争う工業国アメリカが、そのすぐれた技術でつくりあげた極秘の地底戦車であった。その丈夫なことといったら、おそろしいほどだ。

 それはいいが、地底戦車の中の三人は、一体、どうなったであろうか。

 戦車の中は、電灯が消えて、それこそ、真の闇であった。

 なんの音も、きこえない。

 三人とも、あたまを、どこかかたいかべか、器械にぶっつけ、脳みそを出して、死んでしまったのであろうか。

 いや、そうでもなかった。三人の心臓は、いずれもかすかではあるが、それぞれうごいていたのである。が、三人とも、死骸のようになって、うごかない。自分がいま、どこにいるか、それさえ分らない。三人とも、気がとおくなってしまったのだ。

 だが、これっきり、三人とも、死んでしまうではなさそうだ。今に、一人一人、われにかえって、起きあがるだろう。しかし、それから先、どうして生きられるか、そいつは分らない。

 だれが、先に、気がつくか。──これは、たいへん重要な問題だった。

 もし、黄いろい幽霊が先に息をふきかえして気がつけば──幽霊が、息をふきかえすというのも、へんであるが──すべて、戦車が墜落する前のとおりであろう。すなわち彼は、とにかくパイ軍曹とピート一等兵をたすけおこして、それから後は、また機関銃をひねくりまわして、彼の好む方角へ前進するであろう。

 だが、これと反対に、パイ軍曹が、先に気がつけば、彼は、ピート一等兵を靴の先でけとばして、眼をさまさせ、そして二人で力をあわせて、黄いろい幽霊をしばりあげ、ひどいしっぺいがえしをするだろう。幽霊をはだかにして、天井からり下げることぐらいは、命令しそうなパイ軍曹だった。これは、さっきまで勝者であった黄いろい幽霊にとって、まことに気の毒な場合であった。

 もう一つの場合が、残っている。それは、ピート一等兵が、まっ先にわれにかえる場合である。大きなからだとは反対に、たいへん気のよわい彼は、一体どうするであろうか。この場合ばかりは、全く見当がつかない。

 幸か不幸か、事実は、最後にのべた場合をとったのである。ピート一等兵が、うーんとうなって手足をのばし、われにかえったのであった。さあ、どんなことになるやら?



   脳みそだ!



 ピート一等兵は、しばらく、ひきつづき、呻った。

「うーん。ああッ」

 それから、またしばらくして、

「ううーん、ああッ」

 こんな風に、五、六回やっているうちに、彼の鼻が、小犬のそれのように、くんくんと鳴りだした。

「ああッ、ああッ、あーあ。はて、おれは、さっきまで、一体なにしていたのかなあ。おや、これは妙だ。へんなにおいがする」

 ピート一等兵は、鼻をくんくん鳴らしつづけた、鼻から先に、われにかえったピート一等兵だった。

「やっぱり、そうだ。このうまそうな匂いは、林檎りんごの匂いだ。おれは、林檎畑に迷いこんだのかなあ。くんくんくん」

 しばらくすると、彼は、ふと気がついて、両眼をひらいた。が、まっくらであった。

「おや、まっくらだ。はて、おれは、こんなにまっくらな林檎畑があることを、きいたことがないぞ」

 そのうちに、彼は、しくしく泣きだした。

「うん、わかったわかった。ここは、冥途めいどなんだ。死後の世界なんだ。だから、こんなに、まっくらなんだ。かねて冥途は、くらいところだときいたが、林檎畑まで、まっくらだとは、おどろいたもんだ。しかし、はてな、おれはなぜ、死んでしまったのかな」

 彼は、うでぐみをして、考えだした──つもりであった。それはそんな気がしたばかりで、ほんとは、うでぐみもなんにもしないで、やはり死人同様、長くなってのびていたのだ。

「そうだ、おもいだしたぞ。地底戦車が、ぐらっと横にかたむいたんだ。それで、おれはおどろいて、ハンドルに、しがみついたはずだ。すると、とたんにからだがすーっとぬけだして、いやというほど、ごつんと、あたまをぶっつけてしまった。それっきり、気をうしなってしまったのだ。致命傷は、あたまだったはず……」

 そのとき、ピート一等兵の手は、ようやくうごきだすようになった。彼は、右手をのばしておそるおそる、じぶんのあたまにもっていった。

 ぐしゃり!

 ぐしゃりとしたものが、指の先にふれた。

「あっ、いけねえ。脳みそに、さわっちゃった。おれのあたまは、頭蓋骨ずがいこつがこわれて、ぐしゃぐしゃになっているぞ。あ、あさましや……」

 ピート一等兵は、いきなり赤ん坊のようにわあわあ泣きだした。泣きながら、彼は、脳みそで、べとべとになったじぶんの手を、鼻さきにもっていった。とたんに、非常なおどろきにあって、泣きやんだ。

「あら、あやしやな。おれの脳みそは、林檎の匂いがするぞォ!」



   ああ十五個!



「いや、これで、よく分ったよ」

 彼ピート一等兵は、あんがい、おちついたこえで、ひとりごとをいった。

「むかしから、しんるいの奴や友だちがおれをつかまえて、お前は、どうも脳がどうかしていて、あたまが、はたらかない。お前の脳みそは、どうかしているんじゃないかと、よくいわれたもんだが──」

 と、そこで彼は、大きなため息をついて、

「でも、まさか、おれの脳みそが、林檎でできているとは、気がつかなかったね」

 もし、そばで、パイ軍曹が、ピート一等兵のひとりごとをきいていたとしたら、彼は軍曹から、耳ががーんとするほど、叱りとばされたことであろう。いまパイ軍曹は、叱りとばすどころではなく、人事不省じんじふせいにおちいっていたのは、ピート一等兵のため、はなはだ幸運であった。

「おれは、へそのおを切ってから、こんなにおどろいたことは、はじめてだぞ。しかし、このように脳みそが、はみだしてしまっては、おどろいたって、もうおそい。えい、しようがない。こうなれば、やけくそだ。じぶんの脳みそを、なめちまえ」

 ひどい奴があったものである。ピート一等兵は、指さきについたものを、口のところへもっていって、舌でぺろぺろなめはじめた。

「やあ、こりゃうまい。いやあ、すてきに、うまいぞ。おれの脳みそは、まるで、おしつぶされた林檎みたいだ」

 といったが、林檎の味がするのも道理である。ピート一等兵は、林檎の袋の中に、頭をつっこんでいたのである。彼は、じぶんの脳みそとばかりおもって、じつは、じぶんのあたまの下におしつぶした林檎を、指さきにとって、一生けんめい、うまいうまいと、なめていたのである。そのことは、やがて彼も、気がついた。なぜならば、指をなめたあとで、手をあたまのところへもっていくうちに、まだつぶれない林檎に手がふれた。

「おやッ、こんなところに、おれの脳みそのかたまりが、落っこってらあ」

 脳みその塊ではない。ほんものの林檎であった。彼はもうその区別などは、どうでもよかった。彼は、やたらに、林檎を喰った。つぎからつぎへと、手をのばして、林檎を、丸かじりして、腹の中におさめた。

 合計十五個の林檎を食べおわったときには、さすがの彼も、ほんとのことを悟っていた。これは林檎であって、脳みそではない。なぜなれば、大きな林檎が十五個もはいるような脳なんて、きいたことがないからである。そんな大きな頭の人間だったら、じぶんのあたまには、とても陸軍制式の鉄帽が、すっぽりはいるわけがない。

 わけは、さっぱり分らないが、彼は、たくさんの林檎を食べたことをはっきり知った。そして、元気になった。そこで、ふらふらと立ち上った。二三歩あるいたとき、つまさきで、なにかかたいものを、けとばした。

「あ、いたッ!」

 とたんに、ぱっと、車内に電灯がついた。スイッチかなんかを、けとばしたものらしい。彼はおどろいて急に明るくなった車内を見まわした。

「あ、あ、あ、あッ!」

 ピート一等兵は、再度のおどろきにぶつかった。おどろくべき車内の光景!

 戦車は、天井と床とが、全くあべこべになっている。

 操縦席が、天井からぶら下っているかとおもえば、電灯が足許あしもとについているというさわぎだった。

 それよりも、おどろいたのは、上官パイ軍曹の姿だった。彼は、天井から、塩びきのさけのように、さかさまになってぶら下って気絶している。一方の足が操縦席にはさまり、そのまま、ぶら下っているのだ。お世辞せじにも、勇しい恰好かっこうだとはいえない。

 ピート一等兵は、顔をむけかえて、もう一人の人物、黄いろい幽霊の居場所を、さがしもとめた。

 ところが、黄いろい幽霊は、どこへいったものか、見つからない。

「おやおや幽霊め、とうとう妖怪変化ようかいへんげの正体をあらわして、逃げてしまったかな」

 そういって、ピート一等兵が、ひとりごとをいったとき、彼の足許に一本の手がころがっているのを発見した。電灯の反対でさっきは、よくみえなかったのだ。

「うあッ、こんなところに、だれが腕をおとしていったんだろう?」

 といったとき、その腕が、急に、ぐーっと、うごきだした。怪また怪!



   まわみぎ



「ひゃッ!」

 ピート一等兵は、その場に、とびあがった。元来、幽霊が大きらいのピート一等兵だったから、おどろくのも、むりではなかった。

 だが、あまりおどろきすぎて、前後の見さかいもなくとびあがったものだから、大男の彼はいやというほど、頭を器械の角でぶっつけて、うーんと眼をまわして、その場にのびてしまった。どこまでも、世話のやけるピート一等兵だった。

 ぐーっとのびた一本の腕が、やがて床──ではなかった、下になった天井をおさえた。その腕のうえに、肩がえ、それから、頭が生えた。黄いろい幽霊の頭であった。

 そこには、黄いろい幽霊が倒れていたのに、そそっかしいピート一等兵は、彼の一本の腕だけ見たのである。

「しまった」

 彼は、そう叫んで、とび起きた。そして、そこに落ちていた機関銃をひろった。すぐさま、彼は銃をかまえて、あたりを見廻した。

「なあんだ、皆、まだ、伸びていたのか」

 パイ軍曹は、塩びきの鮭のように、ぶら下っていたし、ピート一等兵は放りだされた大根だいこんのように倒れていた。

 黄いろい幽霊は、しばらく両人をながめていたが、やがて、うなずくと、まず、パイ軍曹を抱き下ろして、活を入れてやった。

「うーん」

 パイ軍曹は、やっと気がついたが、黄いろい幽霊を見ても、もうとびかかってくる元気がなかった。

 黄いろい幽霊は、次に、ピート一等兵を、介抱かいほうしてやった。ピートは、気がつくと、きょろきょろあたりを見まわしたが、

「あれッ、どうしたのだろう。いつの間にやら、こんども生きかえって、おれが助けられるなんて、さっきのは、あれは夢だったかしらん」

 と、けげんな顔。

「どうだ、パイ軍曹にピート一等兵。もう、いい加減に、こりたであろう。反抗するのもいいが、このうえ反抗すると、こんどは、いよいよ生命いのちをもらっちまうぞ。ここで、どっちにするか、はっきり返事をしろ」

 黄いろい幽霊は、おごそかなこえでいった。

 パイ軍曹とピート一等兵とは、顔を見合せた。そして、おたがいに、うなずきあった。

(どうだ、こううるさくては、かなわんから、降参してしまおうじゃないか。せめて、われわれが地上に出られるまで……)

(へい、大賛成です!)

 二人は、そんな風に、早いところ、眼と眼とで、相談をしてしまった。

「ええ、黄いろい幽霊どのに申上げます。以後両人は、貴殿きでんを、絶対に上官だと思い、服従いたします。その代り、貴殿のお力をもちまして、どうかわれわれを、再び地上に出していただいて、もう一ぺんだけ、の光や、鳥の飛んでいるところや、それから、酒壜さかびんやビフテキまで見られますように、どうぞどうぞお助けください。アーメン」

 二人は、黄いろい幽霊を、神様あつかいにまで、してしまった。

「ふん、そういう気なら、願いは、聞き届けてやる。きっと、今いったことを、忘れるなよ」

「は、決して忘れませぬ。アーメン」

 どこまでも、黄いろい幽霊は、神様あつかいであった。



   快男児沖島おきしま



 この黄いろい幽霊とは、そも、何者であろうか。

 これは、彼の自らいうように、幽霊ではない。そうかといって、アーメンと、あがめたたえられているように、神様の化身でもない。

 沖島速夫おきしまはやお──それが、この黄いろい幽霊の本名だった。

 その名で分るとおり、彼は日本人であったのである。そのむかし、彼は、苦学生であって、アメリカで皿洗いをしていた。しかし、だんだん世界の情勢がかわって来て、それまでは、それほどでもなかったアメリカ人が、さかんに日本いじめをやりだした。通商条約を、とつぜんやぶったり、急に石油や器械を売らなくなったり、大艦隊を日本に一等近いハワイに集めたりして、さかんにおどしにかかった。アメリカは、すっかり日本いじめに夢中になってしまった形である。そんなことが、沖島速夫を、すっかり怒らせてしまったのだ。彼は、だんだん、アメリカ人のために皿なんか洗ってやるものかと思った。そして、腕は細いが、ひとつ出来るだけの智慧ちえをはたらかして、アメリカ人の荒ぎもをうばってやろうと決心したのだ。

 そこで彼は、だれにも、それを告げず、職場をはなれた。今まで働いて、一生けんめいためた金をもって、彼はしばらく町々をうろついたが、或るとき、地底戦車が秘密に南極へいくことを、かぎつけたのであった。これはいいことをきいたと、彼は思った。そこでにわかに決心して、或る夜ひそかに、苦心に苦心をかさねて、ついに地底戦車の中に、もぐりこんだのであった。そのとき、一ちょうの軽機関銃と、大きな袋に入った林檎とを、その中へかつぎ込んだ。

 戦車の中は、案外ひろびろとしていたから、彼は、べつに息もつまらないで、暮していることができた。そのうちに、例の遭難事件となり、パイ軍曹とピート一等兵とが、とびこんできたのである。そして、とんださわぎが、この戦車の中ではじまることとなったのである。

 沖島速夫は、もちろん、生命をなげ出していた。別に、この地底戦車をスパイするつもりでやったことではなく、ただ、太平洋の彼方かなたで、真の日本人を知らず、ひとりよがりでいるアメリカ人たちに、日本人の意気を見せて、ちょっとおどろかせてやりたかっただけのことである。

 南極地方へ上陸したのち、地底戦車の中からおどり出して、

「アメリカさん。ばあーッ」

 と、やりたいだけのことであった。ところが、ひょんなことから、その戦車をつんでいた船が沈没してしまったため、たいへんな冒険をやるようなこととなった。

 助かるか助からないか、沖島速夫自身も、全く知らない。しかし彼は、むかしから、いかなるときにも、おちつきを失わない男だったから、生命なんかのことで、取り越し苦労をするのは馬鹿者のすることだと決め、自分は生命を神様にでもあずけたつもりで、そんな心配はごめんこうむって、ただたおれてのちやむの精神で、ここまでやって来たのである。

 ところが、パイ軍曹もピート一等兵も、がらは大きいし、いばることも知っているが、今地底戦車が南極の海中に沈んでいると思うと、からいくじがなくなって、とうとうここで、沖島速夫を神様のようにあがめ、そして神様としておすがりするようなことになってしまった。心の弱いものは、いつでも、このように負けてしまう。

(絶対に反抗しません!)

 こんどこそ、いよいよ本気で、二人は黄いろい幽霊に降参してしまったのである。

 速夫は、勝者だ。

 だが、こうなると、出来るなら、二人を助けてやりたいと思った。そして、なにげなく彼は、さかさまに下っている深度計に眼をやったが、

「おやッ!」

 とばかり、心の中でおどろいた。──深度計は、れいをさしていたのである。



   天井の怪音



 速夫は、始め、深度計が、こわれてしまったのかと思った。

 しかしよく他の器械を見てみると、そうでもないらしい。

 しからば、深度計が零をさしているのは、この地底戦車が、逆さにひっくりかえっているせいであろうかとも思った。だが、それもちがう。この深度計は逆さにひっくりかえろうが、針が他をすような構造のものではない。

 すると、正しく深度は零なのである!

(深度が零というと、この戦車の下に、水がないということであるが──それでいいのかな)

 達夫が、ふしぎそうに、深度計を見ているものだから、パイ軍曹もピート一等兵も、そばへよってきて、ともに深度計のうえをながめるのであった。そして、やはりふしぎだという顔をした。

「どうだね、パイ軍曹にピート一等兵。この深度零と出ているのを、どう考えるか」

 と、速夫はきいた。

「さあ……」

「計器に水が入ったかナ」

 二人の答は、はなはだ、なっていない。

「分らないなら、いってやろう。この地底戦車は、地上に出ているんだ」

 と、速夫は、ずばりといった。

「えっ。地上に出ておりますか、あの、この戦車が……」

 ピート一等兵が、眼を丸くした。

「ばかばかしい、深海の底におちこんでいたものが、いつの間にか地上にあがっているなんて、そんなことがあってたまるか」

 と、パイ軍曹は、ピート一等兵を叱りつけた。そのとき、速夫がいった。

「そうだ。われわれの感じとしては、まだまだ深海の底にいるような気がする。しかし、この深度計は、たしかにこわれていないのだから、この上は、深度計が示していることを信ずるのが正しい。わけはわからないが、たしかに、この戦車は、地上に出ているのだ」

「そんなばかばかしい夢みたいなことが……」

「全く、全くだ!」

 二人は、どっちも、速夫のことばを信用しない。

 そこで速夫は、

「じゃ、僕は、この地底戦車の扉をあけて、外へ出てみるから……」

「ああ待ってもらいましょう。扉をあけりゃ、そこから水がどっと入ってきて、われわれはたちまちお陀仏だぶつだ」

「じゃあ、助かりたくないのか」

「扉をあけりゃ、とたんに、死んでしまいますよ。助かるどころの話じゃありませんよ。これは、わしの永年の経験からいうのだ」

 と、パイ軍曹は、なかなか自信あり気である。

 意見は、こうして、二つに分れた。

 一体、どっちが本当か?

 そのときである。不意に、この戦車が、かたんと揺れた。戦車の中は地震のようである。

 ところが、ふしぎにも、戦車は、ますます揺れだし、そしてますます傾くのであった。三名の者は、とても立っていられなかった。てんでに、器械や椅子につかまって、こらえている。まさか、地震でもなかろうに。

 そのうちに、急に、動揺がとまった。

「おお、どうした!」

「おや、いつの間にか、天井と床とが、あべこべになって、戦車は、とうとうもとどおりになったぞ!」

 戦車は、半廻転したのだった。

 トン、トン、トン。

 妙な音が、そのとき天井の方から、聞えてきた。

「あれは、何の音!」

 と、ピート一等兵は、また新たな恐怖の色をうかべた。

 トン、トン、トン。

 ふしぎな音は、しきりに、天井の方から聞えるのであった。



   ピートの失敗



「パイ軍曹どの。自分は、もう死んだ方がましです。このうえ、心臓がどきどきしては、心臓麻痺まひになってしまいます」

 これは、大男のピート一等兵が、からだに似合わぬ悲鳴である。

「こら、ピート一等兵。そんな弱音をはいちゃ、幽霊指揮官どのに、笑われるじゃないか」

「でも、自分はもう、このとおり、からだ中から、あぶらがぬけちまって、もうあと、いくらももちません」

「え、からだの脂がぬけたって」

「はい。うそじゃありません。このとおり、ズボンの下から、たらたら脂が、たれてくるのです」

「そうか。本当なら、こいつは一命にかかわるぞ。どれ、見てやろう」

 と、パイ軍曹は、ピート一等兵のズボンの下をまくって、しさいに見た。

「おや、こいつは、ひどく、たれている。ふん、かわいそうだな。これじゃ、もう、助かるまい」

「軍曹どの、自分は、もういけませんか。もう、だめでありますか」

「もう、いかんぞ。どうも、くさい。いやにくさい。きさまは、からだが大きいせいか、くじらの油みたいな脂を出しよる」

 と、パイ軍曹が、鼻をつまんだ。

「え、鯨の油みたいなにおいがしますか、はてな?」

 ピート一等兵は、そういったかと思うとにわかに、あわてて、自分の毛皮の服の胸をあけて、中へ手をつっこんだ。

「うわーッ、いけねえや」

「おい、ピート。何ということをする……胸の中が、どうかしたのか」

「あははは。大失敗でさ。わけをいうと軍曹どのに叱られ、そしてここにおいでの幽霊どのに笑われてしまいます」

「ははあ、きさま、また欲ばったことをやったな。服を開いて、中をみせろ」

「はい、どうも弱りました」

 ピート一等兵は、悄気しょげている。

「やっぱり、そうだ。きさま、鯨油げいゆの入っている缶を、盗んでいたんだな。どうするつもりか、鯨油を、懐中に入れて」

「どうも、弱りました。まさかのときは、これでも、腹のしになると思ったものですから……」

「なに」

「つまり、鯨の油ですから、こいつは、魚の脂です」

「鯨は、魚じゃない」

「そうでしたな。元へ! 鯨は、けだものの脂ですから、石油とはちがって、食べる──いや、飲める理屈であります」

「あはァ、それで、飲むつもりで、かくしていたのか」

「はい。ところが、あのとおり、戦車の中で、あっちへ、ごろごろ、こっちへごろごろごろんとやっているうちに、缶がこわれて、鯨油がズボンの中へ、どろどろと流れだして、こ、このていたらく……」

「なんだ、そんなことか。お前は、幸運じゃ」

「軍曹どの。からかっちゃ、いかんです」

「からかっちゃおらん。もしもその脂がお前のからだから流れ出した脂だったら、今頃はどうなっていたと思う」

「へい。どうなっていましたかしら」

「わかっているじゃないか。そんなに脂がぬけ出しちゃ、お前は今頃は冷くなって、死んでいたろう」

「冗談じゃありませんよ。はっくしょん」

 さっきから、かたわらで、あきれ顔で、二人の話を聞いていた沖島速夫が、

「ピート一等兵。早く、前をしめろ。風邪かぜをひくじゃないか」

「へーい、指揮官どの」



   氷原



 呑気のんきな二人のアメリカ兵には、沖島も、すっかりあきれてしまった。

 そのうちに、一旦いったんとまっていた戦車の天井の、とーん、とーんという音が、また聞えだした。

 とーん、とーん。

「あ、また始まった」

 ととーん、とーん。

「おや、あれは、モールス符号だ」

 パイ軍曹が、急に目をかがやかせた。

「おや、開けろといっている。ふん、生存者はないか。誰か、上から呼んでいるんだ。おれたちは、助かるかもしれん」

 ピート一等兵は、おどりあがった。

「気をつけッ!」

 沖島速夫が、大きなこえで、どなった。

 二人のアメリカ兵はびっくりして、直立不動の姿勢をとった。

「だから、さっきから、僕は、この戦車の扉を開けろといっているんだ。さあ、早く開けろ」

「開けても、大丈夫かなあ」

「大丈夫だ。水の中じゃない。うそだと思ったら、中から信号をして、外には水があるかないか、たずねてみろ」

 沖島は、深度計をみたとき、この地底戦車のまわりが、どんな状態にあるかを、察していた。そこへ外から信号があった。彼は、そのとき、或る覚悟をした。そして二人のアメリカ兵が、鯨油のことで、いい争っている間に、持っていた機銃を、防寒服の中にしまいこんだり、戦車をうごかすのに、ぜひ無くてはならぬ発火器の鍵を、服の或る部分にしまいこんだりして万端ばんたんの手配を終ってしまったのであった。

 さあ、もうこれでいい。なにが来ても、おどろくことはない。

 パイ軍曹はピート一等兵の肩車にのって戦車のふたを中から、しきりにとんとんと叩いて、外部と連絡をとっていたが、やがて、

「うわーッ、こいつは、たいへんだ」

 と叫んで、おどりあがった。

「あっ、軍曹どの。そんなに、あばれちゃあぶない」

 といううちに、二人は折り重なって、床のうえに、ひっくりかえった。

「おお、痛い。ピート一等兵。早く、扉をあけろ。外には、我が軍が、待っているそうだ。早くしろ」

「わが軍が……。ああ痛い。腰骨が、折れてしまったようです。軍曹どの。あなたにおねがいします。自分には、出来ません」

「わしに出来るなら、きさまに頼みやせん」

 パイ軍曹は、渋面をつくっている。

「じゃあ、僕があけよう」

 沖島は、そういって、天蓋てんがいのハンドルに手をかけて、力一杯ぐるぐるとまわした。

 すると、さっと、白い光が、外からさしこんできた。それとともに、新しい空気が流れこんだ。サイダーのように、うまい空気であった。

「おお生きていたか」

 外から、アメリカなまりの英語がきこえた。



   武勇伝



 地底戦車中から、はいだして、今、三人は、氷上に整列している。

 前には、天幕テントが、四つ五つ張られてある。あたりは、一面のひろびろとした氷原であった。

「一番から、官姓名を名のれ」

 三人の前には、一団の防寒服を身にまとった軍人が、立ち並んで、三人をじっとにらんでいる。その中の一人が、このように号令をかけた。

「陸軍戦車軍曹ジョン・パイ」

「陸軍戦車一等兵アール・ピート」

「……」

 一同の視線が、三人目の沖島のうえに、集中された。

「おい、なぜ、黙っとる。早く官姓名を名のらんか」

「……」

「おい、お前は聞えないのか」

「こいつは」

 と、パイ軍曹が、いおうとするのを、沖島は、皆までいわせず、

「地底戦車長、黄いろい幽霊」

「なに、もう一度、いってみろ」

「この地底戦車長の黄いろい幽霊だ」

「黄いろい幽霊! ふざけるな」

 すると、パイ軍曹が、さっと前へ出て来て、沖島をするどく指し、

「こいつは、中国人──いや、日本人の密偵にちがいありません。この戦車の中に、しのびこんでいたので、自分が捕虜ほりょとなしたものであります」

「え、日本人? そいつは、たいへんだ。それ、取りおさえろ」

「別に、逃げかくれはせん。逃げたって、この氷原を、どこへ逃げられるだろうか。アメリカ兵は、思いの外あわて者が多い」

「なに! かまわん、しばれ」

「いや、待て!」

 前に進んだ一団の中で、どうやら一番えらそうに見える人物が、こえをかけた。

「は」

「その、黄いろい幽霊がいうとおり、こんなところで、逃げだしても、食糧がないから、生命がないことが分っている。だから、ことさら取りおさえる必要はない」

「しかし、閣下……」

「なに、かまわん。に、思うところがある。そのままにしておけ」

 その人物は、悠々としていた。

 パイ軍曹は、けげんな顔だ。

 彼は、そっと、号令をかけた将校のところへ近づいて、たずねた。

「みなさんがたは、南極派遣軍だということは、さっき戦車の天蓋を叩いて信号したときに、承知しましたが、あそこにいられるえらい方は、一体だれですか」

「あの方か。あの方を知らんか。リント少将閣下だ」

「えっ、リント少将閣下」

「そうさ、南極派遣軍の司令官だ」

「ええっ、すると、ここはリント少将のいられる基地だったんですね」

「ふん、そんなことが、今になって分ったか」

 パイ軍曹は、叱られている。

 リント少将は、沖島速夫の前へ歩みより、

「黄いろい幽霊君。パイ軍曹のいうことに間違いはないか」

 と、しずかなことばで、たずねた。しかし少将の眼は、たかの眼のように、光っていた。

「閣下。すこし話がちがうようです。正直者のピート一等兵に、おたずね下さい」

 と、沖島は、ピートをゆびさした。

「それでは、ピート一等兵。どうじゃ」

 ピート一等兵は、さっきパイ軍曹がしゃべっているときから、しきりにこぶしをかためたり口をもぐもぐさせて、いらだっていたが、

「はい、リント大将閣下」

 と、リント少将を大将にしてしまい、

「正直なところを申上げますと、すみませんが、パイ軍曹どののいうことは、すべてうそぱちでありまして、ソノ……」

「嘘か。それで、どうした」

「ソノ、つまりこの地底戦車が、遭難船の船底をぬけおちまして、海底ふかく沈没しましたときから、自分は敢然、先頭に立って、この戦車を操縦しつづけたのであります。ぜひともこの大困難を克服しまして、この貴重なる地底戦車を閣下のおられるところまで、持ってこなければならんと大決心しまして、パイ軍曹どのと、この幽霊どのをはげましながら、ついにかくのとおり閣下のまえまで乗りつけることに成功しましたわけで、その勇敢なる行動についてはれながら……」

 と、ピート一等兵は、はなはだ正直でないことをべらべら喋りだして、止めようもない。



   投獄とうごく



 リント少将は、さすがに、南極へ派遣されるほどの名将だけあって、早くも、わけを察した。

 少将は、幕僚の参謀たちをふりかえり、

「どうだ、事情は、のみこめたろう。要するに、パイ軍曹とピート一等兵とは、この地底戦車の中にとじこめられ、あおくなっていた。そのとき、戦車の中にかくれて、密航していたこの黄いろい幽霊と名のる男が、二人をはげまして、ともかくも、地底戦車を、ここまで、のりあげてきたのだ。そうではないか」

 参謀たちも、このリント少将のことばに、うなずいた。

 少将は、なおも、ことばをついで、

「地底戦車は、一台のこらず、海底にしずんでしまったことと思っていたが、こうして一台でも助かったのは、わがアメリカ陸軍のため、よろこばしいことだ。われわれは、この一台を、できるだけうまく使って南極におけるわれわれの仕事を、やりとげなければならない」

 参謀たちは、また大きくうなずいた。

「ところで、この黄いろい幽霊の始末だがどうしたものであろう」

 参謀たちは、顔を見合せたが、

「軍司令官閣下。こいつは、地底戦車の秘密を知った奴ですから、今すぐに、銃殺してしまうべきであります」

「自分も、同じことを考えます。こいつは日本のスパイに、ちがいありませんから、殺してしまうのが、よろしい。このまま、生かしておくと、またどんなことをするかもしれません。日本人という奴は、大胆なことをやるですからなあ」

 みんな、沖島を早く銃殺せよというのだ。

 少将は、そこで顔を、沖島の方へむけなおして、大胆不敵な彼の面を、しばらくじっとみつめていたが、

「おい、黄いろい幽霊。本官が、日本の将校なら、君の勇敢な行動を大いにほめてやるところだが、余はアメリカの軍司令官だから、そうはいかんぞ。只今から、君は、監房につながれることになった。もうあきらめて、おとなしくしているように」

 沖島速夫に、ついに、きびしい刑罰が、きまったのであった。しかし彼は、べつに顔色をかえるでもなし、にこにこして、リント少将のことばを、きいていた。

 それから沖島は衛兵にまもられて、監房につれていかれた。

 監房は、氷の中にあった。つまり、氷を下へ掘って、氷の地下室が出来ている。そこに、氷の監房がつくられてあった。

 監房の扉は、木でこしらえてあった。のぞき窓も、やはり木で、くみたててあった。氷と木材との合作がっさくになる監房であった。

 沖島速夫は、このふしぎな監房の中に、押しこめられたのであった。

 なかは、いたって、せまい、やっと、二メートル平方ぐらいであった。

 空気ぬきけんあかりとりの天窓が、天井に空いていた。

 この監房は、ふしぎに寒くない。氷の中にとじこめられているのだから、冷蔵庫の中に入っているようなもので、さぞ寒かろうと思ったのに、かえって温い感じがしたのである。

 沖島は、缶詰をいれてきたらしい箱のうえに、腰をおろした。彼はべつに悲しんでいる様子もなかった。

「さあ、ここですこしねむるかな」

 彼は、腰をかけたままいねむりをはじめた。どこまで大胆な男であろう。

 しばらくねむった。そのうちに、彼をよぶものがあった。

「おい、黄いろい幽霊!」

 はて──と、眼をさますと、窓のところに二つの顔が、沖島の方をのぞいていた。

 一つは、衛兵の顔、もう一つの顔は、ピート一等兵の大きな顔であった。

「おい、コーヒーをもってきてやったよ」

 ピートがいった。



   友情



 コーヒーをもってきてやった──と、ピート一等兵はいった。そして窓のところから、うまそうな湯気ゆげのたつコーヒーのうつわが見えた。

 沖島は、腰かけから立って、窓のところへいった。

「コーヒーを、もってきてくれたのか。どうも、すまんなあ」

「すまんことはないよ。わしは、ここだけの話だが、お前に、感謝しているよ……」

「おい、ピート一等兵。ことばをつつしめ」

 と、衛兵が、よこで、こわい顔をした。

「だまっていろ、お前には、わからないことだ」

 とピートは、衛兵につっかかった。

「そのわけは、お前がいなければわしは、地底戦車の中で、腹ぺこの揚句あげく、ひぼしになって死んでしまったことだろう。お前のおかげで、こうして、氷の上にも出られるし今も、たらふくビフテキを御馳走ごちそうになったりして、まるで夢をみているような気がするのだ、これは、一杯のコーヒーだけれど、やっとごま化して、持ってきたのだよ。さあ、のんでくれ」

「や、ありがとう」

「ピート一等兵、待て。衛兵たるおれが、承知できないぞ。そういうことは、禁じられている」

 衛兵が、苦情をいった。軍規上、それにちがいないのである。

「お前にゃ、わからんといっているのだ。お前、気をきかせて、ちょっと、向うをむいていろ。コーヒーをのむ間、その辺を散歩してこい」

 そのへんを散歩してこいといっても、せまい氷の廊下が、ほんのちょっぴりついているだけである。散歩なんかできない。

「おい、衛兵。わしの腕の太いところをよく見てくれ」

 ピート一等兵は、ひじをはり、衛兵にのしかかるように、もたれかかった。

「ピート、分っているよ。いいから、おれが向うをむいている間に、早いところ、囚人にコーヒーをのませろ」

 そういって、衛兵は、向うをむいた。

「ほう、やっと、気をきかせやがった。はじめから、そうすれば、世話はなかったんだ。ほら、黄いろい幽霊、コーヒーだぞ」

 コーヒーのコップは、ようやく、窓の間から沖島の手にわたされた。

「やあ、どうも、すまん」

「わしとお前との仲だ。そう、いちいち礼をいうには、あたらない。さあ、これだ。これをとれ」

 コーヒーだけかと思っていたら、ピート一等兵は、毛皮の外套がいとうの下から、ビフテキを紙につつんだやつを、すばやく沖島に手渡した。

「すまん」

「こら、なにもいうな。──ほら!」

「えっ」

 酒のびんが一本。

 沖島の眼が、涙にうるんだ。ピート一等兵のこのおもいがけない友情が、たいへんうれしかった。

 酒壜を、うけとろうとしているとき、そこへとびこんできたのはパイ軍曹であった。

「おい、なにをしとるかッ!」

 軍曹は、大喝一声、窓のところへ、手をつっこんで、酒壜をおさえた。

 沖島と軍曹とが、一本の壜をつかんで、ひっぱりっこである。

「こら、放せ。こんなものを、やっちゃ、いかん。放さんか、うーん」

 沖島は、だまっていた。そして壜を、ぐいぐい手もとにひっぱった。

「あっ、うーん」

 パイ軍曹は、汗をかいている。沖島は、平気な顔で、その壜を、もぎとった。大力無双の沖島であった。

「いや、どうもありがとう」



   復仇ふっきゅう



 そこへ、衛兵がかけつけてきたから、またさわぎが大きくなった。

 人のいいピート一等兵は、パイ軍曹と衛兵との攻撃にあって、眼をしろくろしている。そして、監房の中の沖島に、早く喰ってのんでしまえと、あいずをした。

 沖島は、もちろん、早いところ、監房の中でごちそうを大急行でいただいている。

 ピート一等兵が、軍曹の一撃を喰って、そこに、目をまわしてしまうと、パイ軍曹は、衛兵に命じて、監房を開かせた。

 軍曹は、ピストルをかまえて、監房の中へとびこんだ。

「けしからん奴じゃ、貴様は」

「いや、たいへん、ごちそうさまでした」

「貴様には、うんと、おかえしをするつもりじゃった。地底戦車の中で、よくも、ひどい目に、あわせたな。ゆるさんぞ」

「ゆるさんとは、どうするのですか」

「ここで、貴様が立っていられなくなるくらい、ぶんなぐってやるんだ。まわれ右。こら、うしろを向けい」

「うしろを向かなくとも、いいでしょう。私を殴るのなら正面から殴りなさい。遠慮はいりませんよ」

「廻れ右だ。ぐずぐずしていると、ピストルが、ものをいうぞ」

 軍曹は、すっかりいきりたって、本当にピストルの引金をひきそうである。沖島は軍曹にとびついてやろうかと思ったが、軍曹との間はすこしはなれすぎている。これでは、仕方がない。沖島は、おとなしくうしろを向いた。

 とたんに、沖島の腰へパイ軍曹のかたい靴の先が、ぽかりと、あたった。

「あッ。うーむ」

 沖島は、痛さを、こらえる。

 と、また一つ、腰骨のところを、ひどく蹴とばされた。沖島は、ひょろひょろとしてひざをついた。

 軍曹は、それをみると、いい気になってまたつづけさまに、沖島を、うしろから蹴とばした。

 沖島のからだは、ついに、どっとその場にたおれて、長くのびた。

 ひどいことをする軍曹である。

 そのころ、氷上では、リント少将が、幕僚をひきつれ、地底戦車のまわりにあつまって、しきりに、会議をつづけていた。

「……敵ながら、あっぱれなものだ。三人でもって、よくまあ、この地底戦車を、ここまでうごかしてきたものだ」

「ではここで改めて、運転いたしましょうか」

「そうだ。うごかしてみろ」

「はい」

 参謀の一人が、そこにならんでいた七名ばかりの下士官共に、それっと号令をかけた。

 七名の将兵は、その中に入って、扉をとじた。

 しかし、戦車は、いつまでたっても、うごかなかった。

「どうした。なぜ、うごかさんのか」

 エンジンは、一向かからない。戦車長が、扉をあけて、とびだしてきた。そしておどおどしながら戦車の点検をはじめた。

 リント少将は、にがい顔だ。

 ちょうどそのとき、一同は、飛行機の爆音を耳にした。

「おや、飛行機だ。いや、相当の数だが、どうしたのだろう」

 といっているうちに、とつぜん、氷山の彼方かなたから、低空飛行でとびだして来た編隊の飛行機、その数は、およそ十四五機!

「へんだなあ。友軍機なら、この前になにかいってくるはずだ。これは、あやしい。おい、みんな、その場に散れ!」

 と、リント少将は、号令をかけた。

 とつぜん現れたこの怪飛行隊は、どこの飛行隊であろうか。



   怪機のむれ



 リント少将は、後日、人に話をしていうのには、少将の生涯のうちで、そのときほど、おどろいたことはなかったそうである。

 その場に散れ──と、とっさに号令をかけた少将は、派遣軍の中で、一等おちついていたといえるだろう。しかも、その少将が、すっかりきもをつぶしたといっているのだ。

 それもそのはずだった。

 ごうごうと、爆音をあげて、少将たちの頭のうえを、すれすれに通り過ぎた十数機の怪飛行機の翼には、日の丸のマークがついていたのであった。

「ああ、あれは、日本の飛行機じゃないか」

「日の丸のマークはついているが、まさか、この南極に、日本の飛行機がやってくるはずはない」

「でも、日の丸がついていれば日本機と思うほかないではないか」

 将校の間には、はやくも、いいあらそいがおこった。

 ところが、いったん、通りすぎた日本機は、すぐまた、引きかえしてきた。

「おい、高射砲はどうした」

「高射砲なんか、あるものか」

「じゃあ、高射機関銃もないのか」

「それは、どこかにあった」

「どこかにあったじゃ、間に合わない。総員機銃でも小銃でも持って、空をねらえ」

 と、氷上では、たいへんなさわぎが、はじまった。なにしろ不意打ふいうちの空襲である。今もし、そこで、機上から機銃掃射そうしゃか、爆弾でもなげつけられれば、南極派遣軍は、たちまち全滅とならなければならなかった。

 ゆだん大敵とはよくいった。

 さあ、こうなっては、空中をねらったのがいいか。それとも氷のかげで、大の字なりになってたおれていたのがいいのか、わからない。さわぎは、一層大きくなった。

 日本機は、大たんな低空飛行をつづけてあっという間にとび去った。

 氷上のアメリカ兵たちは、そのあとをおいかけて、ぽんぽん、たんたんと、小銃や機銃をうちかけた。日本機が、機銃一つ、うたないのに……。

 そんなことで、アメリカ兵の弾丸が、日本機にとどくはずはなかった。

「ちくしょう。日本機め、うまくにげやがった」

「もう一度、とんでこい。そのときは、おれが一発で、うちおとしてやる」

「だが、日本の飛行機は、なにをするつもりだったんだろうか」

「そりゃ、わかっているよ。わが南極派遣軍がなにをしているか、監視のためにやってきたんだ」

 氷上では、アメリカ兵が、つよがりをいったり、いろいろ勝手なことをふいたりしている。

 そのうちに、氷上にいたアメリカ機のエンジンが、はげしい音をたててプロペラをまわしはじめたと思うと、一機二機三機四機──五機の飛行機が、氷上を滑走して天空にまいあがった。

「ああ飛行隊の出動だ。これは、おもしろくなったぞ」

「いやあ、よせばいいのに。五機出発して、五機帰還せずなんてえのはいやだからね」

 アメリカ基地を飛びだした機は、五機だった。いずれも四人のりの偵察機であった。偵察機だけれど、機関砲を持っていれば、機銃もある。小型爆弾も積んでいるというやつで、偵察機と襲撃機との中間みたいな飛行機である。この飛行機は、ことにスピードがうんと出る。時速五百三十キロというから、ものすごいものである。

 さすがにリント少将は、おちついたもので氷上で、一同が色を失ってわいわいさわいでいるときに、いちはやく五機に出動を命じたのであった。指揮者は、マック大尉であった。そして一番機にのっていた。

 五番機は、一等うしろの飛行機であるが、この上に、パイ軍曹とピート一等兵とがのっていた。のっていたというよりも、のせられていたといった方がいい。

 もともとこの二人は、地底戦車兵なのであるが、沖島速夫の事件を知っているのも彼等二人であり、助けだされたたった一台の地底戦車のことを知っているのも彼等二人であり、そこへとつぜんとびだしてきた日本機のあやしい行動についても、なにか地底戦車事件と関係がありそうに思われたので、リント少将は、直ちに彼等二人を探しださせて、むりやりに五番機へのせて出発させたわけである。彼等二人は、指揮官マック大尉に対し、必要なときに、機上から、無線電話をもって、なにか参考になるようなことをいうことが出来るであろう。

 だが、おどろいたのは、パイ軍曹とピート一等兵とであった。沖島速夫の監禁室の前で、二人でいがみあっているところを、急に呼ばれて氷上へ出ると、とたんにおしこむようにして、飛行機にのせられてしまったのである。

 二人は飛行機のうえで、たがいにしっかりつかまってぶるぶるふるえている、だがあいかわらず、口だけはへらない。

「パイ軍曹どの、気分は、どうもありませんか」

「うん。正直なところすこし困っている。なにしろ、おれは地底戦車兵であるが、航空兵ではないのだからなあ。お前はどうか」

「はい、もちろん、自分も軍曹どのと、同じことであります。どうも自分は、スピードの早いものは、にが手なんで……。この飛行機は、落ちませんかな」

「落ちそうだなあ。地底戦車が落ちた場所とちがって、飛行機が落ちれば、われわれの生命はないぞ」

「だから、自分は、戦車の方が好きなんです。ねえ、パイ軍曹どの。一つ指揮官へ無線電話をかけて、われわれ戦車兵を飛行機にのせるのは違法であるから、この五番機だけ、早く元の氷上へかえしてくださいといってくれませんか」

「ふん、それはいい。ではそうしようか」

 とパイ軍曹が、無線の送話器をとりあげようとしたとき、軍曹が耳にかけていた伝声管の中から、機長の、うわずったこえがきこえた。

「敵機が見つかった。戦闘用意!」


 戦闘用意!

「おい、戦闘用意だとよ」

 パイ軍曹は、ピート一等兵の脇腹をついた。

「はあ、戦闘用意ですか。どうすればいいのですかな」

 たよりない二人だった。

 すると伝声管から、また機長のこえが、ひびいてきた。

「早くせんか。ピート一等兵は、後方機銃座へつけ。パイ軍曹は、爆撃座へつけ。早くやれ」

「はい」

 機関銃座へつけといっても、飛行機のうえの射撃には経験のないピート一等兵だった。またパイ軍曹にしてみれば、機上から爆撃なんて、やったことがない。しかし命令とあれば、つくより仕方がない。

 ピート一等兵は、銃座へのぼった。そして始めて、空中のありさまが、はっきり眼にうつった。

 前方を、うつくしく編隊をくんだ十五、六機がとんでいく。それはどうやらさっき基地の上を低空飛行でとびさった日本機らしかった。マック飛行隊は快速を利用して今、ぐんぐんと近づきつつあるのだった。

 マック大尉ののった指揮機が、翼を左右にふった。

「あれッ。あんなことをして、のんきに、遊んでやがる」

 それが指揮機の発した戦闘命令だとも知らず、ピート一等兵は、のんきな解釈をしている。

「戦闘開始。各個にうて!」

 機長が、りんりんたるこえで、号令をくだした。

 すると、全機は、はやぶさのように、日本機の編隊のうえにとびかかっていった。ピート一等兵は、びっくりして、機銃にしがみついた。照準をあわせたり、引金をひくどころではない。



   妙な空中戦



「おい、なぜうたないのか。こら、ピート一等兵!」

 機長の、おこったようなこえである。

「はい。今、うちます。しかし機長どの。自分は戦車の銃手はつとめましたが、飛行機の上の射撃はまだ教育をうけておりません。参考書でもあったら、ちょっと……、ここへ放ってください」

「ばかをいえ。今になって、参考書をよんで間にあうか……。あっ、前に、日本機がいるじゃないか。向うがうたないさきに、おいピート一等兵、うて!」

「困ったなあ。うてといわれても、どうしてねらったらいいか、困ってしまうではありませんか」

「照準具がついているじゃないか。それを見て、ねらえ」

「この照準具には輪がついていますね、どうするのですか」

「飛行機のスピードによって、ちがった輪の上に飛行機の胴をねらうのだ。飛行機はその中心の円に向うようにしろ。一番外の輪が、時速六百キロ、次は五百、次は四百という風に、中心へ来るほど、時速が少くなっているんだ。わかったろう」

「わかりませんなあ」

「早く、うて。間にあわないじゃないか。うて、うて何でもいいからうて。こっちがうたないと、敵は、こっちに弾丸がないのだと思って、安心して、第一番にねらわれるからなあ。うて、うてッ」

「困ったなあ。──パイ軍曹どの、ここへ来て、自分に代ってうってください」

「いやだ。おれは、おれの持ち場がある。ピート一等兵。はやく、うて!」

「いやになっちまうな。地底戦車兵に、飛行機のうえで射撃をしろなどと命令するのは、らんぼうな話だ。うてといわれれば、うつが、どんなことが起っても、自分はしらんぞ」

 ピート一等兵は、泣き面をして、機銃の引金に指をかけた。

「ええと、あの日の丸をうつか。ええと、こうねらってと。それから、こういう風に引金をひいてと……」

 たたたン、たたたたン。

 機銃はうなりだした。こころよい手ごたえが、ピート一等兵の指に……。

「おやっ、おやっ、味方の三番機に命中してしまったぞ。あれッ、本当か。あらあら、味方の三番機は火に包まれてしまったぞ。しまった」

 ピート一等兵は、うーむと呻った。

 うったのはいいが、照準のあやまりで、前をとんでいく味方の三番機のガソリン・タンクをうちぬいてしまったのである。

「おい、ピート一等兵、おれは見ていたぞ」

 と、下からパイ軍曹が、おびやかすようにいった。

「うわーッ、軍曹どの。見ておられましたか。困ったなあ。さっきのは、照準ちがいです。こんどは大丈夫です。見ていてください」

 ピート一等兵は、失敗をとりもどそうと、またもや照準を定めて、引金をひいた。

 たたたたン、たたたたン。

 ピート一等兵の顔が、土色になった。

 こんどは味方の一番機の翼を、うちくだいてしまったのである。マック大尉の顔だと思うが、操縦席のそばの窓から、こっちをおそろしい眼でにらみつけた。と、思う間もなく一番機は、機首を下にして、ぐらっとゆらいで、きりもみになって、ち始めた。ああ、もう駄目だ。

「ピート一等兵。おれは今のも見ていたぞ」

 パイ軍曹が、下からこえをかけた。

「軍曹どの。ここをかわってください。自分がうつと、味方にばかりあたって、損害莫大ばくだいです。たのみます。一つ、かわってください」

 ピート一等兵は、そういうと機銃座をからにして、のこのこ下へ下ってきた。

「困った奴じゃな。射撃命中率は、なかなかいいのじゃが、味方をうっちゃ、しようがないじゃないか、お前は照準をあべこべにやっているから、弾丸が左へいくところが、右へいってしまうのじゃないか」

「なんといっても、自分はだめであります。地底戦車兵を、飛行機にのせるというのが、そもそも始めからあやまっているのであります。軍曹どの。上へあがってください」

「いやだよ。おれはここにいる」

「そういわないで、あがってください」

「いやだ。あとから、おれがやったようにいわれるのはいやだからな」

「困ったなあ」



   あわや爆撃



「ピート一等兵。お前にも同情する。いいから、機銃座はあけておけ。そしてここにいてもいいぞ」

「それはいけません。機銃座にだれもついていないなんて、眼にたちますよ」

「なあに、お前が戦死したことにしておけばいい」

「なるほど。しかし戦死はいやですね」

「重傷でもいいなあ。そしておれも重傷だ。どっちも、うごけないというのならいいだろう」

「なるほど、それは名案だ」

「それになあ」とパイ軍曹はもったいらしい顔付かおつきで「さっきから見ていると弾丸をうっているのは、こっちばかりなんだ。日本機は、どういうものか、一発もうってこないで、ひらりひらりと逃げまわってばかりいるのだ。だから、向うがうってくるまで、こっちでもうたなくていいんだ。どうだ、おれはなかなかおちついて、物事をよく見ているだろう。えへん」

 パイ軍曹は、ちょっぴり鼻をうごかしてみせた。

 ピート一等兵はそれをいいことにして、パイ軍曹のそばにすわりこんでしまった。

 そのうちに、僚機の機銃のうち方が、きこえなくなった。

「ああパイ軍曹どの。射撃をしなくなったです。どうしたのでしょうかなあ」

「さあ、どうしたかなあ。察するところ日本機は全部、うちおとされたのかもしれないぞ」

 パイ軍曹は、景気のいいことをいった。

「そうですかなあ。急に、こっちがつよくなったんですね」

「お前みたいな下手へたくそな射手ののっているのは、この飛行機だけだ。他のやつは、元来航空兵なんだから相当に射撃には自信があるはずだ。ついに、ぽんぽんとやっつけたんだろう」

「下手くそだといっても、自分は元来地底戦車兵なんですからね。それは仕方がありませんよ」

「それは大したいいわけにならないよ」

「え、なぜです」

「あれを見ろ」

「えっ」

「下を見ろというんだ。あそこの氷上に見えてきたのは、日本軍の基地にちがいない。今おれが爆弾をおとしてみせるから、よく見ていろ。おれはお前とちがって、うまく命中させてみせるぞ。同じ地底戦車兵でもパイ軍曹はかくのとおり、空中勤務にまわされても、腕はたしかだというところを今見せてやる」

「えへ、本当ですか」

「本当だとも。この爆撃照準器の使い方は、ちょっとむずかしいんだが、おれはかねて、こんなこともあろうかと、あらかじめ研究しておいたのだ。こういう具合にやるんだ。ええと、もすこし右へまわして……いや、いきすぎた左へまわして、この目盛を、こっちのれいに合わしてと……これでいい、そこで、二つの数字が合ったところで、爆弾を支えている腕金をはずせばいいんだ。一チ、二イ、三ン!」

「あっ」

 ピート一等兵は思わずこえをだした。パイ軍曹が、ついに爆弾を切って放したとおもったのである。──ところが、どうしたわけか爆撃の直前にいって、パイ軍曹は、

「うーむ」

 と呻って、把手はしゅから手を放してしまった。

「パイ軍曹どの。どうせられましたか」

「いかんわい。やめたよ」

「なぜ、やめられましたか」

「下に見えているのは、日本軍の基地だと思っていたが、よく見ると、何のことじゃ。さっきまで、おれたちのいたアメリカ基地だったのじゃ。とんだ間違いを、やらかすところじゃった。もうすこしでリント少将閣下を爆撃するとこだった。いや、あぶなかった」

「へえ、あぶないことでしたな」

「基地へかえってきたことを、おれたちにおしえてくれないから、いかんのだ」

「しかし軍曹どの。機長から命令もないのに爆撃をするから、こういう間違いがおこるのですぞ」

「なにを。お前は、だまれ。上官にむかってなにをいうか」

「へーい」

 パイ軍曹は、自分の失敗に、てれくさくなって、ピートにあたりちらした。ピートこそ、いいつらかわだった。そのころ、機は高度をだんだん低めて、着陸の用意にかかっていた。

 基地上空を一周すると、さらに高度は低くなった。氷原が、下からむくむくともりあがってくるように思った。エンジンの音が、急におちて、機はさっと氷原に下りて、小さくねた。



   二機撃墜げきつい



「三機帰還せず!」

 基地へかえってきたのは、たった二機だけであった。

 飛行隊長は、司令の前に、面目めんぼくなさそうに、あたまを下げた。

「三機の消息について、知るところをのべよ」

 司令はふきげんである。

 パイ軍曹は、ピート一等兵の横腹よこっぱらをついた。ピート一等兵は、目を白黒した。例のことが、ばれては、たいへんだ。

「はい。壮烈なる空中戦の結果、墜落したようであります。われわれも、戦闘中でありましたため、はっきり、その先途せんどを見届けることが、できませんでした」

 隊長は、うまいことをいった。ピート一等兵は、やれやれと胸をなぜおろした。

 司令は、これをきいて、うなずき、

「おお、そうか。そして、戦闘の結果は、どうであったか。撃墜数を報告せんではないか。撃墜状況はどうか」

「はい。撃墜は、ありません」

「なんだ、撃墜はないというのか。これだけの犠牲ぎせいをはらって、撃墜は一機もなしというのか。お前たちは、それでもアメリカ飛行隊の勇士か。よくまあ、はずかしくないことだ」

 司令は、またまたひどくふきげんになった。

 司令の、がんがんいうのをきいていたピート一等兵は、おもわず、興奮した。

「司令。自分は撃墜しました」

「おお、お前はピート一等兵だな。それはでかした。何機撃墜したか」

 パイ軍曹は、おどろいて、ピート一等兵の服をひっぱった。が、もう間にあわない。

「はい。あのう、二機であります」

「おお、二機も、やっつけたか。それは抜群ばつぐんの手柄じゃ。よし、あとで、褒美ほうびをやろう。昇進も上申してみるぞ」

 ピート一等兵がうちおとしたのは、日本機ではなく、味方の飛行機であることを、司令は、しらないものだから、いやにピートをほめあげ、そして上きげんになった。

 横にきていたパイ軍曹は、おどろいて、ひとごとながら、もう気がとおくなって、ぶったおれそうであった。司令が、本当のことをしったら、ピート一等兵は、どんな重い懲罰ちょうばつをくうかしれない。大嵐の前の静けさとは、まさにこのことだ。いくら、これまでいじめてきた部下ではあったが、彼のうえに、これから下るであろう懲罰をかんがえると、全くかわいそうでならなかった。

 そのとき、司令がさけんだ。

「勇士ピート一等兵。五歩前へ」

 ピート一等兵は、えらそうな顔をしてのこのこ前へ出ていった。

 パイ軍曹は、心臓がいたくなった。

「ピートのやつ、どこまで、ばかな奴だろう。いよいよ大嵐のはじまりだぞ」

 すると司令は、

「勇士ピート一等兵。二機撃墜のときの状況をのべよ。まず聞くが、お前が、撃墜した日本機はいかなる機種のものであったか」

「え、日本機?……」

 ピート一等兵は、ようやく気がついた。

(あっ、しまった。こいつはとんだことをしゃべってしまったぞ。撃墜といったのだから、とうとう敵味方の区別をわすれて、喋ってしまった)

 さあ、こまった。

「順序をたてないでよろしい。はなしやすいように、はなせ」

「うわーッ」

 ピート一等兵は、へどもど……。

 しかし、ピート一等兵は運がつよかった、というのであろう。そのとき、とつぜん、思いがけないさわぎが起った。司令のそばへ副官がとんできたのだ。

「おお、飛行司令。リント少将は、こっちに見えていないか」

「リント少将? 閣下は、こっちへ来ておられません。どうかしましたか」

「いや、一大事だ。さっきのさわぎのうちに、リント少将の姿が、急に見えなくなったのだ。もう、しらべるところは、全部しらべた。困ったなあ。君のところも、もう一度、念入りにしらべてくれたまえ」

「はい、承知しました」

 一大事である。飛行隊員は、総動員で、附近をさがすこととなった。──そしてピート一等兵は、味方をうったことが、司令にしられそうになり、あやういところで、たすかった。

 ところが、そのころ、氷の中の監房でも、ふしぎな囚人紛失事件が、もちあがっていた。監房の前では、衛兵と折から又そこへ下りてきたパイ軍曹とが、声高にあらそっている。

「冗談じゃありませんよ。パイ軍曹どの、はやく囚人をかえしてください。黄いろい幽霊を……」

「わしは、知らん」

「わしは、知らんじゃ、困るじゃありませんか。軍曹どのが、監房の扉をあけて、囚人を引っぱりだしたのですぞ。それから、ピストルでおどかしたり、靴で、けとばしたりしたではありませんか」

「けとばすわけがあったから、やったまでだ。そんなことについて、貴様のさしずはうけない」

「さしずをしているのではありません。黄いろい幽霊を、かえしてくださいと申しているのです」

「わしが、そんなことを知るものか。囚人の番をするのは、貴様ら衛兵の仕事じゃないか」

「ああ、それはひどい。軍曹どのが、囚人を自由にしておきながら……」

「なにを云う。上官に対して無礼者め」

 といったかと思うとパイ軍曹は、らんぼうにも、衛兵のあごに、鉄拳てっけんをガーンとうちこんだ。衛兵は、悲鳴をあげて、その場にたおれてしまった。

 そのころ、氷上ではリント少将の姿をもとめ、ますますさわぎが大きくなった。

「どこにも、おられないじゃないか」

「ふしぎなこともあるものだな」

「おや、もう一つ紛失したものがあるぞ。ここにあった」

「何がなくなった?」

「地底戦車が、どこかへいってしまった」

「地底戦車? そんなばかなことが……」といいながらそこを見ると、なるほど地底戦車がない。

「一体、これはどうしたんだ」

「うむ、これは、容易ならぬ事件だ」



   三つの紛失ふんしつ事件



 リント少将が行方不明となる。

 囚人の沖島速夫が、いつの間にかどこかへにげだしてしまった。

 そこへもってきて、氷上においてあった地底戦車が、紛失してしまった。

 三つの紛失事件が、同時に起って、アメリカ基地は、上を下への大さわぎであった。

 リント少将は、どこへいったのであろうか。それから沖島速夫は、どこへかくれているのであろうか。それから地底戦車はどうしたのか。

 地底戦車は地上のさわぎをよそにして、このとき、氷の下ふかくしずかに巨体をよこたえていたのであった。地底戦車の中で、向いあって座っている二人の人物があった。

「……少将閣下。乗り心地は、いかがですな」

 そういっているのは、外ならぬ沖島速夫であった。三つの紛失物──リント少将に沖島に地底戦車の三つは、みんな一つところにかたまっていたのだ。

 少将は、にが虫をかみつぶしたような顔をしている。

「……君が余に要求するものは何か。なにが、ほしいのか。早く、それをいえ」

「少将閣下、お考えちがいをなさらないように。私は閣下からなにを、ちょうだいしようとも思わないのです。ただ、地底戦車の乗り心地をうかがっているだけです」

 沖島速夫は、えらいことを、やってのけた。日本機の襲来さわぎがはじまると、彼はわれにかえった。さわぎのため、監房の入口はあいたままで、番をしているものはない。今だと思った彼は、氷上へとびだしたのだ。そして、とっさに思いついてリント少将を地底戦車の中へさそいこみ、缶詰にしてしまったのだ。そして早いところ氷の中へもぐってしまったのだ。そのとき彼は、一つのすばらしい計画をおもいついていたのだった。

「……早くいってくれ。何でも、君の要求にしたがう。だから、外へ出してくれ」

「外へ出せといって、今はもう、氷の中に入っているのです。おのぞみなれば、このまま海底ふかく、墜落してみてもいいのです」

「もうわかった。君は、余を、不名誉きわまる捕虜ほりょとしたうえ、東洋流の、ざんこくなる刑にかけようというのだな」

「ざんこくは、東洋よりも、むしろ閣下の国で、さかんに行われているではありませんか──しかし、そのように、外へ出たいといわれるなら、出してさしあげましょう。しばらく待っていただきましょう」

 沖島速夫は、どこまで胆力たんりょくがすわっているのか、ゆうゆうと、リント少将に対しているのだ。



   地底戦車はどこへ



 沖島速夫は、操縦席にのぼると、地底戦車を、ぎりぎりと、前進させ始めた。

 計器の針が、一どにうごきだした。

 とらわれのリント少将は、

(この小僧め)

 と、沖島のうしろからピストルをつき出そうとしたが、思い出して、そのまま引込めた。いくらここで、ピストルを向けてみても、何にもならないのであった。なぜならば、沖島を撃って傷つけると、あとは誰が、この地底戦車をうごかすのか。リント少将は、ピストルをにぎって勝ってみるのはいいが、少将は、やがてこの戦車の中で、えと寒さのため死んでしまうだろう。沖島をピストルで撃つことは、この地底戦車の中を自分の墓場とすることだと気がついたリント少将は、せっかく出したピストルを、引込めなければならなかったのである。

「今に、氷上へ、お出しいたしますよ。もうしばらくのご辛抱しんぼうです」

 沖島は、ゆうゆうと操縦のハンドルをにぎっていた。

(全く、ピート一等兵は、かわいい男だ。空襲さわぎのとき、パイ軍曹のすきを見て自分のうしろへ、この私をかくし、そして氷上へ出してくれたからな。そのおかげで、自分はうまい機会にリント少将を、戦車の中に缶詰にして、とっさに氷の下へもぐりこんだわけだが、まるで神さまがまもってくださるように、とんとん拍子にいったじゃないか!)

 沖島は、のん気に、そんなことを、思い出していた。

 地底戦車は、ごっとん、ごっとんと、ゆるやかに、氷の中をっていった。

 その氷の上では、幕僚以下が、いよいよ青くなって大捜索をしているのであった。だが、さっぱり手がかりがない。そうでもあろう。地底戦車がはいりこむときにあけた氷上の穴は一時水がたまっているがさむさのために、たちまちこおりついてしまって、穴は元どおりにふさがってしまったから、どこから地底戦車が入りこんだのか、ちっとも見たところでは、分らないのであった。

 地底戦車の中では、沖島速夫が、地図をにらんで、しきりに、しるしをつけていたが、

「さあ、いよいよ氷上に出ますから、御安心ください」

 と、少将の方へあいさつをした。それとともに、地底戦車は、先がぐっとあがり、ぎりぎりと、斜めにのぼり始めた。

「もうすぐです。ちょっと、御覧ごらんに入れたいところへ出ますから、そのおつもりで」

 一体、沖島は、地底戦車を、どこへ顔を出させるつもりであろうか。



   大和雪原やまとせつげん



 地底戦車は、大きくゆれると、水平にもどって、それから間もなく、エンジンが、とまったのであった。沖島は、操縦席をはなれて、出入口の扉に近よった。

 リント少将は、この中に取り残されてはたいへんと、沖島のあとを追って、彼の腰にだきつかんばかりである。

「リント少将閣下。日本人は、あくまで紳士的ですから、どうぞ御心配なく」

 そういって、彼は、扉を、がらがらとあけた。外から、さっと、まぶしい光線が、はいってきた。

「さあ、少将閣下から、お先におでください。この中に、あなたを閉じこめるようなペテンはいたしませんよ」

 リント少将は、いわれるまでもなく、まっ先に、戦車の外にとび出した。彼は、そこで、さっそく部下をよびあつめ、このらんぼうきわまる黄いろい幽霊を、とりおさえさせるつもりだった。

 だが、それは、少将の思いどおりには、いかなかった。

「あっ、ここは……」

 リント少将は、そういって、呆然ぼうぜんと氷上にたって、あたりを眺めまわした。

 あたりは、彼の部隊がたむろしているところとは、ちがう。まず、氷山のうえに、ひらひらとひるがえる日章旗が、リント少将をその場に、すくませてしまった。

「どうです、お分りですか。ここが、どこであるか」

「うむ」

「お分りのはずですが、私が、説明しましょうか。ここは、大和雪原です。西暦でいって千九百十二年、大日本帝国の白瀬しらせ中尉がロット海を南に進んで、この雪原に日章旗をたてたのです」

「大和雪原。それなら知っている。ああ、しかしいつの間に日章旗が……おお、そして、いつの間にあのように飛行機が……」

 と、リント少将は、氷上に翼をやすめている飛行機の群を発見して、おどろきの声をあげた。

「いや、別におどろかれることは、ありますまい。ここは、わが大日本帝国の領土であるがゆえに、飛行機がいても、ふしぎではないのではありませんか。わが日本人は今や、世界第一の飛行機乗りになったのです。内地から、こんなところへ飛んでくるのは、なんでもありません。丁度ちょうど地底戦車については、貴国が世界一であるのと、似たようなものです。では、少将閣下、大和雪原の日章旗をどうぞお忘れなきように、そしてここで活躍をはじめようとする日本人たちを妨害なさらぬように、私から、とくにお願いいたします。さっきもありましたが、日本機が、弾丸を一発もうたないのに、アメリカ機が、機銃をうって、挑戦してくるなどということは、もうおやめください。そっちの御損ですからね」

「うーむ」

「では、この地底戦車によって、閣下を、再び司令部のあるテント村へお連れいたしましょう。永々、この地底戦車をお借りしていまして、どうもありがとうございました」

 沖島速夫は、そういってリント少将に対して、いんぎんに礼をのべたのであった。

底本:「海野十三全集 第6巻 太平洋魔城」三一書房

   1989(平成元)年915日第1版第1刷発行

初出:「ラヂオ子供の時間」(「地底戦車兵の冒険」のタイトルで。)

   1940(昭和15)年2月~

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:tatsuki

校正:土屋隆

2006年121日作成

青空文庫作成ファイル:

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