太平洋魔城
海野十三



   怪しい空缶



 どういうものか、ちかごろしきりと太平洋上がさわがしい。あとからあとへと、いくつもの遭難事件が起るのであった。

 このことについて、誰よりもふかい注意をはらっているのは、わが軍令部の太平洋部長であるところの原大佐であった。

 その原大佐は、いましも軍令部の一室に、一人の元気な青年と、テーブルをかこんでいるところだった。

「おい太刀川たちかわ。この次々に起る太平洋上の遭難事件を、君たちはなんとみるか」

 力士のような大きな体、柿の実のようないいつやをもった頬、苅りこんだ短い髭、すこし禿げあがった前額まえびたい、やさしいながらきりりとしまった目鼻だち──と書いてくれば、原大佐がどんなに立派な海軍軍人だか、わかるであろう。

「さあ、──」

 太刀川青年は、膝のうえに拳をかためた。なんのことだか、よくわからない。

 いま原大佐からきいたところによると、この春、太平洋横断の旅客機が行方不明になってしまった事件がある。それから間もなく、四艘から成るわが鰹船の一隊が、南洋の方に漁にでたまま消息を絶ってしまった。つい最近には、ドイツ汽船が、「救助たのむ」との無電を発したので、附近を航行中であったわが汽船が、時をうつさず現場におもむいたところ、そのドイツ汽船のかげもかたちもなく、狐に化かされたようであったという話がある。

 よく考えてみると、なるほどちかごろ太平洋上に、しきりとふしぎな遭難事件がくりかえされている。しかし太刀川には、なぜそんなことが起るのか、よくわからなかった。そもそも彼は、水産講習所を卒業後、学校に残って研究をつづけていた若き海洋学者であって、海の学問については知っているが、原大佐からたずねられたような海の探偵事件について考えてみたことがなかった。

 大佐は、眉をぴくりとうごかし、

「いままでに起った事件は、まあそれとしておいて、きょう君にきてもらったわけは、もっと生々しいことだ。ごらん。こういうものがあるのだ」

 そういって原大佐は、さっきから話をしながら指さきでいじっていたはげちょろの丸い缶を、太刀川青年の前におしやった。

「はあ。この缶は、一体どうした缶ですか」

 太刀川はけげんな顔をして前に出された缶をみた。それは、彼の掌のうえに、ちょうど一ぱいにのる小さな缶だった。その缶の胴には、一たん白いエナメルをぬりこみ、そのうえに赤黒青のきれいなインキで外国文字を印刷してあるものだったが、白いエナメルの地はところどころはげていて、これまでにずいぶん手荒くとりあつかわれたことを物語っていた。

 手にとって、缶の胴に印刷されてある文字をひろい読んでみると、それはどうやら高級の油が入っていたものらしく、缶の製造国は日本ではなくて、アメリカであると知れた。缶は、なにか入っているのか、たいへん軽かった。そして缶を横にすると、中でことんことんと音がするものがあった。太刀川はその缶に、たいへん興味をひかれたが、さて何のことだかさっぱり見当がつかない。

 その様子をみていた原大佐は、太い指をだして缶の蓋をさし、

「かまわないから、その缶をあけてみたまえ。そして中にあるものをよくしらべてみたまえ」

「あけていいのですね」

 太刀川は、お許しがでたので、さてなにが出てくるかと、たいへんたのしみにしながら、缶の蓋を力まかせにこじあけた。

 蓋は、あいた。

 中をのぞくと、白い紙片を折りたたんだものがでてきた。それをつまみだすと、まだ缶の中に入っているものがある。缶をさかさまにすると、ごとんと掌のうえにころがり出たものは、ずっしり重い鉄片であった。その大きさは一銭銅貨ぐらいだが、厚さはずっと厚く、そして形はたいへんいびつで、砲弾の破片のようにおもわれた。しかもこの鉄片は、鉄のような色をしていないで、なにか赤黒いねばねばしたものにおおわれていた。まったく不思議な鉄片であった。缶の中には、そのほかになんにも入っていない。

 折りたたんだ紙片と、汚れた鉄片!

 この二つが缶の中から出てきたのである。

「その紙片をひらいて、そこに書きつけてある文章を読んでみたまえ」

 原大佐がいった。

「はあ、──」

 太刀川は、紙片をひらいた。とたんに彼は口の中で、おもわず、あっと叫んだ。



   太平洋の怪



 太刀川青年は、紙片をひらいて、何におどろいたのであろうか。

 それはほかでもない。その紙片が、たしかに人の血とおもわれるもので、汚れていることだった。血に染まった指の跡が、点々としてついている。そしてそこには鉛筆で、走書はしりがきがしてある。その筆跡は、いかにもたどたどしい。たどたどしいというよりも、気がかーっとしていて、夢中に鉛筆を走らせたといった文字だ。それをひろって読んでみると、こんなおどろくべきことが書いてあった。

〝──十二日アサ、海ノ色、白クニゴル。ソレカラ一時間ノチ、左舷前方ニトツゼン大海魔アラワレ、海中ヨリ径一メートルホドノ丸イ頭ヲモタゲ、ミルミル五十メートルホドモ頸ヲノバシタ。ランランタル目、ソノ長イ体ハ、波ノウエヲクネクネト四百メートルモ彎曲シ、アレヨアレヨトオドロクウチ、口ヨリ火ヲフキ、鉄丸ヲトバシ、ワガ船ハクダカレ、全員ハ傷ツキ七分デ沈没シタ。カタキヲタノム。ノチノショウコニ、ワガ足ノ傷グチカラ、破片ヲヌキダシ、コノ缶ニイレテオク。第九平磯丸、三浦スミ吉、コレヲシルス〟

 なんというおどろくべき遭難報告であろう。だが、ここに書いてあることが、にわかに信じられるだろうか。大海魔があらわれ、首を五十メートルももたげ、波のうえにのびた身長が四百メートルもあったなどとは、本当のことだと信じられるだろうか。これでは、まるで昔のお伽噺とぎばなしに出てくるような大海蛇そっくりである。この科学のさかんな世に、誰がそんなばかばかしい海魔を信ずることができるだろうか。新しい海の学問をおさめた太刀川時夫には、ほらばなしとしかうけとれなかった。

「これはいたずらずきの者が書いた人さわがせの手紙ではないのでしょうか」

 太刀川は、思っているままを、原大佐にいった。大佐は、首をかるく左右にふって、

「ところが、そうも考えられないのだ。第一それを書いた第九平磯丸という船は、たしかに船籍簿にのっているし、船の持主のところへいって調べると、たしかに漁にでているとのことだった。また三浦須美吉という漁夫もたしかに乗りこんでいったそうで、このへんのことは、実際とよくあうのだ。するとこの手紙は本当のようにおもう」

「原大佐は、そんな魔物が、太平洋に棲んでいるとおもわれるのですか」

「だから君を呼んだのだ」

 と原大佐は、きっぱりいった。

「私をお呼びになって、それでどうなさるおつもりなんですか」

「ひとつ君にくわしく調べてきてもらおうと思うのだ」

化物ばけもの探検ですか。この私が……」

 太刀川はおどろいて聞きかえした。

「いや、まだそれは化物ときまったわけではない。化物かどうかを、君にいって調べてもらいたいのだ。わが海軍としては、太平洋のまもりは大切このうえもない。そこへ化物が出てくるというのでは、困るのだ。とにかく、化物であるかないかを、われわれは一刻もはやく知りたいのだ。部内から軍人などをえらんで向こうへやると、列強のスパイにすぐどられてしまう。だが君のように、こっちと従来関係のなかった人をえらんで、現場へおくりたいのだ。それには君が一番適任だとおもう。御苦労だが一つひきうけて、海魔の正体を調べてきてくれ」

 太刀川は大佐の言葉をじっと聞いていたが、やはり駄目だという風にかぶりをふり、

「私はお断りいたします。化物探検などというそんな架空な、そして不真面目ふまじめなことをやるのはいやです」

 青年は、きっぱりと大佐の頼みを断った。

 原大佐は、それを聞いて、怒るか、それとも失望するかと思いのほか、いよいよ満足らしい笑をうかべて、

「ほう、なかなか強硬だな。君のその真面目な性格を見こんでいればこそ、あえて私はそれを頼むのだ」

「まことに失礼とは思いますが、この事ばかりはどうかお許しください」

「それはどうかと思う。おい太刀川。君はたいへん思いちがいをしているぞ。架空だとか不真面目とかいうが、そんなものではない。私はこれが実際そうあり得ることではないかと思うから、君に調べ方を頼むのだ。第一考えてもわかるだろう。わが海軍が、そんな不真面目なことを命令するだろうか。断じて否である。今日の国際情勢を見なさい。世界列強は、いずれも競争で武装をしているではないか。科学のあのおそろしい進歩をごらん。これからの戦争には、なにが飛びだしてくるかわからないのだ。野心にまなこを狼のように光らせている国々がある。それに対し、われわれは、極力警戒をしなければならないのだ。この手紙は、漁夫の書いたものではあるが、ともかく太平洋の怪事をしらせているのだ。この空缶は、わが琉球のある海岸に流れついたものである。太平洋は、わが大日本帝国の東を囲む重大な区域だぞ。太平洋の怪事を、そのまま放っておけると思うか。漁夫の目には、それが化物に見えたかしらぬが、科学者である君が見れば、それは科学の粋をつくした最新兵器であることを発見するかもしれない。そこだよ、大切なところは。これほど真面目な重大な使命が、ほかにあるだろうか。国防の最前線に立つ将校斥候せっこうを、あえて君は不真面目というのか」

 大佐の言葉は、一語一語、火のように熱かった。



   貴重なステッキ



「ああ恐れいりました。私が考えちがいをしておりました」

 太刀川は、はっとテーブルのうえに顔をすりつけて、大佐にあやまった。

 原大佐の顔に、微笑がうかんだ。

「おお、わかってくれたか。太刀川」

「はい、わかりました。私をお選びくださって、かたじけのうございます。皇国のために、一命を賭けてこの仕事をやりとげます」

「おお、よくぞいった。それでこそ、私も君を呼んだ甲斐があった」

 と、大佐はつと起立すると、太刀川の方へ手をのばした。二人の手はがっちりかたく握りあわされた。二人の眼は、しつかり相手を見つめていた。大きな感激が、大佐と青年との心をながれた。

 やがて二人は、また席についた。

「原大佐。それで私は、どういう事をすればよいのですか」

「うん、そのことだ。いずれ後から、くわしく打合わせをするが、まず問題の場所だ。これは今もいったとおりこの空缶は、流球のある海岸にうちあげられたのだ。どうしてそんな場所へうちあげられたかをいろいろ研究してみると、謎の空缶の投げ込まれた場所は、北赤道海流のうえであると推定されたのだ」

「はあ、北赤道海流ですか」

「そうだ。君も知っているとおり、この北赤道海流というやつは、太平洋においては、だいたいわが南洋諸島の北側にそって東から西へ流れている潮の流だ。それはやがて、フィリッピン群島にあたって北に向をかえ、わが台湾や流球のそばをとおり、日本海流一名黒潮となる。だから、もし南洋附近の潮の道に空缶を投じたものとすれば、潮にのって押しながされ、琉球の海岸へうちあげられてもふしぎでない」

「そのとおりですね」

「だからあやしいのは、その北赤道海流のとおっている南洋のちかくだということになる。そこで君は、香港までいって、香港から出る太平洋横断の旅客機にのりこみ、アメリカまで飛んでもらいたい」

「え、旅客機で、太平洋横断をするのでありますか」

「そうだよ。あの旅客機は、幸いにもちょうど北赤道海流の流れているその真上を飛んでゆくような航空路になっている。君は機上から、一度よく偵察をするのだ。その模様によって、第二の行動をおこすことにしてくれたまえ」

「はい。誓って任務をやりとげます」

 ここに太刀川青年は、特別任務を帯びて、謎の太平洋へ出発することとなった。

 その前三週間、彼は短期ながら、偵察員としての特別の訓練をうけた。早くいえば探偵術を勉強したのである。

 いよいよ出発の日、原大佐は太刀川青年をよんで、最後の激励の言葉をのべ、そのあとで、

「おい太刀川。君にぜひとも持ってゆかせたいものがある。これだ。これをもってゆけ」

 といって、渡したものがあった。それはチョコレート色の太いステッキであった。

「これはステッキですね。ありがたく頂いてまいります」

「ちょっと待て。このステッキは、見たところ普通のステッキのようだが、実はなかなかたいへんなステッキなのだ」

「え、たいへんと申しますと」

「うん。このステッキの中には、精巧な無電装置が仕掛けてある。これをもってゆき、こっちと連絡をとれ。しかし、むやみに使ってはならぬ」

「はい、これは重宝なものを、ありがとうございます」

「なお、このステッキは、いよいよ身が危険なときに、身を護ってくれるだろう。あとからこの説明書をよんでおくがいい。しかしこれも、むやみに用いてはならない」

 といって、原大佐は一冊の薄いパンフレットをわたしたが、どこからどこまでも行きとどいたことであった。

「では、いってまいります」

「おお、ゆくか。では頼んだぞ。日本を狙う悪魔の正体を、徹底的にあばいてきてくれ。こっちからも、必要に応じて、誰かを連絡のために向ける。とにかく何かあったら、その無電ステッキで知らせよ。こっちの呼出符号は、そこにも書いてあるとおり、X二〇三だ」

「X二〇三! ほう、二十三は、私の年ですから、たいへん覚えやすいです」



   乱暴な怪漢



 熱帯にちかい香港に、太刀川青年がぶらりと姿をあらわしたのは、七月一日であった。壮快な夏であった。海は青インキをとかしたように真青であり、山腹に並ぶイギリス人の館の屋根はうつくしい淡紅色であり、そしてギラギラする太陽の直射のもと、街ゆく人たちの帽子も服も靴も、みな真白であった。どこからともなく、熱帯果実の高い香がただよってくる。

 太平洋横断アメリカ行の飛行艇サウス・クリパー号は、湾内にしずかに真白なつばさをやすめていた。それはちかごろ建造された八十人乗りの大飛行艇で、アメリカの自慢のものだった。

 太刀川は、四ツ星漁業会社の出張員という身分証明書で、この飛行艇の切符を買うことができた。

 七月三日、いよいよサウス・クリパー機の出発の日だ。

 太刀川は、朝九時、一般乗客にうちまじり、埠頭からモーター・ボートにのって、飛行艇の繋留けいりゅうされているところへ急いだ。

 モーター・ボートが走りだしてから、太刀川はあたりをみまわしたが、まるで人種展覧会のように世界各国の人が乗りこんでいる。アメリカ人イギリス人はいうに及ばず、ドイツ人やイタリヤ人もおれば、インド人、黒人もいる。また顔の黄いろい中国人もいた。日本人は、彼一人らしい。

「ああ痛! ああ痛! 足の骨が折れたかもしれねえぞ。だ、誰だ、俺の足を鉄の棒でぶんなぐったのは」

 太刀川の耳もとで、破鐘われがねのような大声がした。それとともに、ぷーんとはげしい酒くさい息が、彼の鼻をうった。すぐ隣にいた大男の白人が、どなりだしたのであった。ひどく酔っぱらっている。このせまい艇内では、どうなるものでもない。

 太刀川は、面倒だとおもって、酔っぱらい白人の肘でぎゅうぎゅうおされながらも、彼の相手になることを極力さけていた。

「な、なんだなんだ。誰も挨拶しねえな。さては俺を馬鹿にしやがって、甘く見ているんだな。俺ががさつ者だと思って、馬鹿にしてやがるんだろうが、金はうんと持っているぞ、力もつよい。えへへ、りっぱな旦那だ。それを小馬鹿にしやがって──」

「おいリキー。おとなしくしていなよ」

 リキーとよばれたその酔っぱらいの向こう隣に、身なりの立派な白人の老婆がいて、リキーをたしなめた。

「だって、大将──いや、ケント夫人! 俺の足の骨を折ろうとたくらんでいる奴がいるのでがすよ。我慢なりますか」

「おいリキー。あたしは二度いうよ。おとなしくしておいでと」

 この老夫人の言葉は、たいへん利いた。リキーは、ううっと口をもぐもぐさせて、ならぬ堪忍を自分でおししずめている様子だった。リキーには、この老夫人が、苦手らしい。それは多分リキーの主人でもあろうか。

 この老夫人ケントは、たいへん立派な身なりをしていたが、この暑いのに、すっぽりと頭巾をかぶり、そしてよく見ると、顔中やたらに黄いろい粉がなすりつけてあり、また顔中方々に膏薬を貼ってあった。ことに、鼻から上唇にかけて、大きな膏薬がはりつけてあり、そのせいかたいへん低い鼻声しか出せない。太刀川は、ケント夫人が皮膚病をわずらっているのであろうと思った。お金がうんとあっても、病気に悩んでいるらしいこの老夫人に同情の心をもった。

「やや、なんだ、鉄棒かとおもったら、この安もののステッキが、俺の向脛むこうすねをぐりぐりぶったたいていたんだ。けしからんステッキだ」

 酔っ払いのリキーが、またどなりだした。そのとたんに、太刀川がついていたステッキが、あっという間につよい力でもぎとられた。リキーは、それを頭上にさしあげた。

「このステッキは、誰のか。俺の向脛を折ろうとしたこのステッキは、一体誰のか。さあ名乗らねえと、あとで見つけて、素っ首をへし折るぞ。ええい、腹が立つ、この無礼なステッキを海のなかへ叩きこんでしまえ」

 リキーは乱暴にも、ステッキを海中へ投げこもうとした。

「待て。それは僕のステッキです」

 太刀川は、さっきから、そのことに気がついていたが、どうしたものかと考え中であった。大任を持つ身の、こんな小さなことで喧嘩したくはなかったが、原大佐から親しくさずけられた貴重なステッキを奪われ、海中になげこまれたのではもう我慢ができない。

「な、なんだ。貴様のステッキか。じゃ貴様だな、俺の向脛を叩き折ろうとしたのは。さあ、なぜ俺を殺そうとしたか。この野郎、ふざけるな」

「ステッキをかえしてくれたまえ」

「いや、駄目だ。おい放せ。ステッキは捨ててしまう」

「いや、かえしてください」

 太刀川は大男の手からステッキをもぎとった。

 これを海中へ捨てられてなるものか。

「あ痛。うーん、貴様、案外力があるな。よし、それなら決闘を申しこむぞ。俺はこのモーター・ボートが飛行艇につくまでに貴様の息の根をとめにゃ、腹の虫がおさまらないのだ。さあ、来い」

「リキー、およしよ。三度目の注意だよ」

 老夫人が、にがにがしい顔で、リキーの横腹をついた。リキーは、いまや太刀川の頭上に、栄螺さざえのような鉄拳をうちおろそうとしたところだったが、このときうむとうなって、目を白黒、顔色がさっと蒼ざめて、その場にだらんとなってしまった。

 太刀川は意外な出来事に眼をみはった。彼は、リキーになにもしないのに、伸びてしまった。結局、老夫人ケントがリキーをどうかしたらしいのであるが、あの弱々しい老夫人には似合わぬ腕節うでっぷしであった。

 あやしい老夫人の腕力!



   暗号無電



 太刀川は、飛行艇にぶじ乗りうつることができた。

 飛行艇サウス・クリパー号は、六つの発動機をもっている巨人艇である。見るからに、浮城といった感じがする。

 金モールのいかめしい帽子を、銀色の頭髪のうえにいただいているのが、艇長ダン大佐だった。彼は欧州大戦のときの空の勇士の一人として有名な人物だった。

 太刀川が入った客室には、二十四人の座席があった。彼が座席番号によって、自分の席をさがしていると、ダン艇長がつかつかとやって来て、

「おお太刀川さん。あなたの座席はここですよ」

 といって、自ら案内してくれた。それは室の一番隅の席であった。

「やあ、すみません」

「いえ、こんなところでお気の毒ですが、きまっているので我慢してください。私はニューヨークの郊外に家をもっていましてね、私の家の隣が、あなたの勤めていらっしゃる四ツ星漁業の支店長花岡さんのお宅なので、いつも御懇意にねがっているのですよ。あなたもどうか、御懇意にねがいます」

 そういってダン艇長は、大きな手で、太刀川の手を握った。知人のない太刀川は、思いがけない艇長の言葉に、たいへん嬉しさを感じた。

 室内へ入ってくる乗客をじっと見ていると、ずっと遅れて、例の酔っぱらいリキーとケント老夫人とが入ってきたのには、ちょっと不愉快になった。

「さあ、どけ。こんなところで何をしてやがる」

 たちまち室内にひびきわたるリキーの怒号の声!

 間違ってリキーの座席にすわっていた若いインド人夫妻が、締め殺されるような悲鳴をあげて、太刀川のいる方へ逃げてきた。

「どうしました。あなたがたの座席番号は?」

 と、太刀川がきいてやると、二人はよろこんで、まだぶるぶる慄える手に二枚の切符をもって、さしだした。

「四十七号と四十八号。それなら、私の前です。私は五十号ですから」

 インド人夫妻は、うれしそうに、いくども礼をいって、太刀川の前に座をとった。

 眼をあげて、リキーの方をみると、かの二人はようやく落ちついたようであった。すなわち、太刀川のいるところと真反対の一番隅に、老夫人がふかく腰をおろし、通路に近い方に酔っぱらいのリキーがすわっている。

 そのうちに、出発の時刻がだんだん迫ってきた。

 はげしく、賑やかに銅鑼どらが鳴りだした。乗客たちは、飛行艇の窓から外をのぞきながら、小蒸気の甲板にいる見送人と手をふり、ハンケチをふって、別れの挨拶をする。

「出航用意!」

 艇長ダンの声が聞えた。

 太刀川の席のすぐ向こうに、艇長室があるらしく、彼の命令する声がひびいてくる。しかしこれはよく調べてみると、艇長室と彼の席のすぐうしろの壁との間に空気ぬきのパイプが通じていて、それがあたかも伝声管のような役目をして、向こうの声がこっちへ伝わってくるものだとわかった。

 発動機は、轟々ごうごうと音をたてて廻りだした。いよいよ太平洋を西から東へ、一万四千キロの横断飛行が始るのである。

「出航!」

 号令とともに、飛行艇は海上をすべりだした。

 スピードは、ぐんぐんあがる。

 艇のあとにひいたおびただしい泡が、はたとたち切れると、艇はすーっと浮きあがった。空中の旅が始ったのである。見下す海面は、ガラス板のように滑らかであった。

 どこかで、無電をうっているらしい音が、しきりにする。

 ふりかえると、いつの間にやら、香港一帯が箱庭の飛石のように小さくなった。発動機の振動が、微かに座席にひびいてくるぐらいで、全く快い空の旅であった。

 酔っぱらいのリキーは、大きないびきをかいて寝こんでしまった。老夫人もその隣で、じっとねむっているらしい。室内では、乗客たちがだいぶん落ちついて、あっちでもこっちでも、しずかな談話をはじめたり、チョコレートの函をひらいたりしている。しかし艇員が出入に防音扉をあけるごとに、轟々たる発動機の音が、あらゆる話声をふきとばしてしまう。だが、なんという穏やかな空の旅であろう。

 それから一時間たった。

 艇は、針路を南東にとって、一路マニラにむけて飛行中であった。すでに陸地はとおくに消えてしまって、真青な大海原おおうなばらと、空中にのびあがっている入道雲との世界であった。その中を、飛行艇サウス・クリパー機は翼をひろげ悠々と飛んでゆく。

「艇長、本社から無電です」

「なんだ、ニューヨークの本社からか。ほう、これは暗号無電じゃないか、なにごとが起ったのか」

 艇長は、しばらく黙っていた。暗号を自分で解いているらしかった。

「事務長をよべ」艇長の声は、甲高い。

「艇長、お呼びでしたか」

「うん。本社からの秘密無電だ。えらいことになったぞ。これを読んでみろ」

「はい」事務長は電文を読みだした。

「貴艇内に、共産党員太平洋委員長ケレンコおよび潜水将校リーロフの両人が乗りこんだ。監視を怠るな。マニラにて両人の下艇をもとめよ。あとの太平洋飛行は危険につき、当方より命令するまで中止せよ」

 事務長の顔は、真青になった。

 艇長ダン大佐の眉に心配のしわがよった。

「どういたしましょう」

「飛行中、この飛行艇を爆破されるおそれがある。困った」

「しかし艇長、その無電は間違いではないでしょうか。ケレンコにリーロフなんて、そんな名前は艇客名簿にのっていません」

「いずれ変名をしているんだろう。まずその両人を見つけることが第一だ」

 さっきから、この会話を聞いていた太刀川の眼が、きらりと光って、向こうの隅に睡っている酔っぱらいリキーと老夫人ケントのうえに落ちて、じっとうごかなくなった。

 太平洋横断の、しずかなる空の旅とおもっていたが、いまやこのサウス・クリパー機上の百人近い命は、最大危険にさらされていることがわかったのである。

 ニューヨーク本社が慄えあがった共産党員太平洋委員長ケレンコとは、一体何者であろうか。彼は何を画策しているのであろうか。

 帝国の国防のため重大使命をおびている武侠の青年太刀川時夫は、はからずもたいへんな飛行艇の中に乗りこんだものである。

 さあ、どうなる? 太平洋横断の飛行艇サウス・クリパー機の運命は!



   大捜査



 おそろしい二人の共産党員が、このサウス・クリパー艇の乗客のなかに、名を変えてまぎれこんでいるというのである。

 一体だれが共産党太平洋委員長ケレンコであり、まただれが潜水将校リーロフなのであろうか。

 太刀川時夫は、空気ぬきのパイプから洩れてくる艇長室の声に、じっと耳をかたむけている。

「おい、事務長」

 ダン艇長の声だ。それはなにごとか決心したらしい強い声だった。

「はい、艇長」

 別の声だ。

「とにかく今からすぐ手わけして、ケレンコとリーロフの二人をさがし出そう」

「はい、かしこまりました。では早速……」

「うん、ひとつがんばってくれ。だがわれわれが凶悪な共産党員をさがしているんだということを、誰にも気どられないように注意しろよ。万一、奴らに気づかれて、その場であばれだされると、危険だからね。この飛行艇が、マニラにつくまでは、あくまで知らぬふりをしておくことが大切だ」

「よくわかりました。ではすぐ艇内をさがす捜索隊の顔ぶれをきめましょう」

「うん、うまくやってくれ」

 その後は、声が急に低くなって、聞きとれなかった。

 それから十五分ほどすると、捜索隊の顔ぶれがきまったのか、事務長が艇内の方々へ電話をかけはじめた。

 秘密のうちに共産党員にたいし、戦いの火蓋が切られたのである。

 当のケレンコとリーロフが、知っているかどうか知る由もないが、艇内はにわかに、重苦しい空気につつまれて行った。

 太刀川時夫は、座席にふかく体をうずめたまま、じっとこらえていた。

(怪しい奴といえば、あの向こうの隅に睡りこけているケント老夫人と、酔っぱらいのリキーの二人組だが……)

 太刀川は、どういうものか、二人組が気になって仕方がなかった。

(しかし待てよ。共産党員のケレンコとリーロフというのは、どっちも男だ。ところがあの二人は、一人は荒くれ男だけれども、もう一人の方はお婆さんではないか。するとこれは、別人かな)

 と思ったが、それでもなお、彼はこの二人組から、目を放す気持にはなれなかった。

 その時であった。

 とつぜん防音扉が、ばたんとあいてどやどやと捜索隊がはいってきた。

(すわこそ!)

 と、太刀川時夫は席から立ちあがろうとしたが、いやまてと、はやる心をおさえつけて、そのまま席に体をうずめた。

「ひどい奴だ。さあ、こっちへ来い」

 隊長らしい艇員の一人が、声をあららげて、誰かを叱りとばした。

(さあ、始ったぞ。リキーの奴がひきたてられるのか!)

 太刀川は、印度人夫妻の肩ごしに、その方に目を光らせたが、リキーは今目をさましたらしく、両腕を高く上にのばして、大あくびをしているところだった。

(あれ、リキーじゃないとすると、一体誰が叱られているんだろう?)

 そのとき、隊長らしい艇員が後をふりむきざま、

「さあ、早くこっちへくるんだ」

 といって、顔をまっ赤にして、一人の少年の首すじをつかんで、ひきずりだした。見ると、それは色のあせた浅黄あさぎいろのズボンに、上半身はすっ裸という恰好の、中国人少年だった。

「貴様みたいな小僧に、この太平洋をむざむざ密航されてたまるものか。この野郎めが」

 艇員は拳をあげて、少年の小さい頭をなぐった。

「ひーい」

 少年は、悲鳴をあげた。

「なんだ、密航者か」

「ふとい奴だ」

「いや面白い。これは、いいたいくつしのぎだ」

 乗客たちは、てんでに勝手なことをいって、さわぎだした。

「さあ、早く歩け」



   密航少年



 と、隊長の艇員は叱りつける。と突然、

「やかましいやい」

 とリキーが座席から立ち上って、どなった。

「密航少年の一人ぐらいで、なんというさわぎをやってるんだ。俺がかわって片づけてやらあ。さあ、その小僧をこっちへよこせ」

 リキーは、松の木のような太い腕をのばして、少年をぐいとつかんだ。

「ああ、ちょっとお待ちください。この少年の処分は、ダン艇長がいたしますから、どうかおかまいなく」

 艇員の隊長は、腕節のつよそうなリキーに遠慮がちに、それでもいうだけのことをいった。

「おれはさっきから、頭がいたくてたまらないんだ。貴様がこの小僧をぴいぴい泣かせるものだから、頭痛がいよいよはげしくなってきたじゃないか。なあに、こいつを片づけるくらい、訳のないことだ。窓から外へおっぽりだせば、それですむじゃないか」

 リキーは、たいへんなことを、平気でいった。そしてそれをすぐにもやりそうであった。

 乗合わせている婦人たちは、さっと顔色をまっ青にした。

「まあ、ちょっとお待ちください。いま艇長に話をいたしますから」

「艇長なんかに用はない。そこを放せ」

 ケント老夫人が、リキーをとめるだろうと思っていたのに、どうしたわけか、老夫人は知らぬ顔をしてそっぽを向いている。

 このさわぎを、太刀川時夫はさっきからじっと眺めていた。はじめは冗談のおどかしかとおもっていたが、リキーが本当に、中国少年を飛行艇からなげだしそうなので、これは困ったことになったと思った。

 密航するのは悪いにきまっている。しかしその罰に、命をとるというのは、無茶な話だ。可哀そうに、少年は、リキーの腕の中で手足をばたばたさせながら泣き出した。

(もう見ていられない。誰もたすけだす者がいなければ、一つ僕がリキーをとっちめてやろうか)

 と、太刀川は考えた。リキーは、相当腕節が強そうだが、強い者が弱い者をいじめているのを日本人の血はどうしてもだまって見ていられないのだ。

 彼は、拳をかためて、すくっと立ちあがった。その時、足もとでがたんと音がした。何かとおもって下をむくと、東京を出発するとき原大佐から贈られた例の太いステッキであった。

〝待て太刀川!〟

 洋杖が、なにか囁いたようであった。

〝お前の使命は、重大だぞ〟

 大佐が別れにのぞんで彼にいった言葉が思いだされた。

(そうだった。軽々しいことはできない)

 太刀川は、一歩手前で、気がついた。彼の双肩には、祖国日本の運命がかかっているのだ。リキーと闘って勝てばいいが、もし負けて、中国少年同様、南シナ海になげこまれてしまえば、祖国への御奉公も、それまでではないか。

(といって、あの中国少年は見殺しには出来ない)

 太刀川は、わが胸に問い、わが胸に答えながら、考えこんでいたが、何事を思いついたのか、

「そうだ」といって席をたった。



   おそろしい制裁



 ダン艇長は、隣室の騒ぎを、まだ知らなかった。太刀川が扉をひらいたので、はじめて気がついたようであったが、太刀川は立ちあがろうとするダン艇長を、すぐさま手まねで押しとどめて、そして扉をぴたりと閉じた。

 どんな話が、艇長室のなかでとりかわされたかわからない。

 だが、それから、一、二分のち、ダン艇長は間の扉をひらいて、さりげない風で、たけり立つリキーの前にやって来た。

「おさわがせして、あいすみませんでした。どうぞリキーさん、その少年をこっちへお渡しください」

 艇長は、おそれ気もなく、リキーによびかけた。

「な、なんだ。うん、貴様は艇長だな。貴様たちが、あまりだらしないから、こういうことになるのだぞ。さあ、どけ、おれがじきじき、この密航者を片づけてやるのだ」

「ちょいとお待ちください。あなたは密航者密航者とおっしゃいますが、その密航者は、どこにおります?」

「なんだと!」リキーは、眉をぴくりとうごかした。

「密航者はどこにいるかって? この野郎、貴様の目は節穴か。よく見ろ、こいつを」

 リキーは、熟柿のような顔をしながら、片腕にひっかかえた中国少年の頭を、こつんと殴った。

「あ、その少年のことですか。それなら密航者ではありません」

「何を、貴様、そんなうまいことをいって、おれはそんな手で胡魔化されないぞ」

「いえ、本当なのです。その少年の渡航料金は、ちゃんと支払われているのです」

「馬鹿をいうな。おれはそこにいる艇員が、密航者だといったのを聞いたのだ」

「いや、それは何かの間違いでございましょう。この少年の渡航料金はたしかにいただいてあります。艇長が申すのですから間違いありません」

「そんな筈はない。一体だれが渡航料を払ったのだ」

「だれでもかまいません。あなたには御関係のないことです」

「なにを。こいつが!」

 叫びざま、リキーが艇長におどりかかろうとした時、

「リキー、その子供をお放しよ」

 それまで隅っこに風呂敷のような布をかぶって、だまっていたケント老夫人が、かすれ声でたしなめた。

「ううん。ちぇっ」

 リキーは舌うちしながら、にわかに見世物の象のようにおとなしくなった。それでも、なにかぶつぶついいながら、小脇にかかえこんでいた中国少年を、床のうえにどすんと放りだした。

「あっ」といって、中国少年は、その場に倒れた。

 太刀川時夫は、そうなるのを待っていたかのように、前へすすみ出て、中国少年をおこしてやった。

「もう泣かないでもいい、こっちへおいで」

「?」

 中国少年は、びっくりしたような顔をして、太刀川青年を見あげた。

「さあ、僕のとなりの四十九番の席にかけなさい」

 太刀川は、汚れきった中国少年に眉一つゆがめず、やさしくいたわって、座席へつかせてやった。

 太刀川は、ダン艇長にたのみ、料金を払って中国少年をたすけてやったのであった。

 これで密航者の問題は無事におさまったが、おさまらないのは、厄介な酔っぱらいリキーであった、よろよろと立ち上ると突然、

「やい」

 と叫んでどすんと腰を下した。

「やい、よくも貴様は、おれの邪魔をしやがったな。よーし、今にみていろ、吠面ほえづらをかかしてやるからな」

 いいながら又立ち上ろうとする。と、ケント老夫人が又たしなめた。リキーはしぶしぶ腰を下したが、いまいましそうにこちらを睨みながら、時々何事かつぶやいていた。

 太刀川は、たいへんなお客と乗り合わせたものだと思った。

 中国少年は、彼にたすけられて、すっかり安心したものか、すやすやと安らかないびきをかきはじめた。



   怪しい透視力



 密航少年事件が、曲りなりにもおさまったので、ダン艇長は、艇員たちをつれて、自室にひきあげた。

「どうだい皆。二人組の共産党員の心あたりはついたかね」

「はい、私の受持の部屋には、怪しい者は見当りませんでした」

「私の受持でも、駄目でした」

「そうか。じゃあ、皆、獲物なしというわけだね」

 ダン艇長の顔には、深いうれいしわがうかんだ。その時、

「艇長」

 とよびかけたのは、事務長だった。

「何だ」

「あの本社からの秘密無電に、誤りがあるのではないでしょうか。もう一度、本社へたずねてみては、いかがでしょう」

「そうだね。いや、もっともだ」

 艇長はうなずいた。彼は通信長を電話によび出し、

「おい、すぐ本社へ無電連絡をたのむ。なに、天候状態がわるくなったって、それは困ったね。だが大事なことだから、なんとかして、至急本社と連絡をとってくれ」

 艇長は、電話機をかけた。

「天候が悪くなったそうだよ」

「そうですか」

 と事務長は、丸窓から外をのぞいてみて、

「ああ、あそこへ変な雲がでてきました。不連続線のせいですよ。一荒れ来るかもしれません」

 艇長も外に目をやった。なるほど、南の方から、まっ黒な雲がむくむくとのぼってくる。

「海の上の気象は、これだから困る。操縦室へ、注意をしてやれ、それから事務長、マニラへ無電をうって、すぐさま近海気象をたずねてくれたまえ」

「はあ、ではすぐ連絡方を、通信室へいって頼んできましょう」

 事務長は、腰をあげて、艇長室を出ていった。急に時化しけ模様となったので、他の艇員たちも、それぞれ自分の持場へ帰っていって、艇長室には、ダン艇長一人となった。

 彼は心配そうに、窓の外をながめている。

「こいつはなかなか手ごわい雲行だぞ。すぐに針路を変えなきや、危険だ」

 艇長は、操縦室と書いたボタンを押して、電話機をとりあげた。

「おお、操縦長か。あの雲を見たろう。針路をすぐに北へ四十度曲げてくれ」

「北へ四十度。するとマニラへはだんだん遠くなりますが──」

 操縦長の声であった。

「仕方がない。このままマニラへ近づくことは、あの黒雲の中の地獄へ近づくことだ」

「はい。ではすぐ」

「そうだ、そうしてくれ。そして当分全速力でぶっ飛ばすんだ、嵐より一足先にこっちが逃げちまわないと、たいへんなことになる」

 どこまでも不運なサウス・クリパー機であった。兇悪な共産党員に乗りこまれている上、いままた悪天候に追いかけられることとなった。艇長は、乗員の安全をはかるため、いままで目的地のマニラへ向けていた針路を、ぐっと北へ変えた。

 すると、マニラに到着するのは、何時になることやら。

「小父さん。外はひどい嵐になったよ」

 太刀川時夫は、だしぬけに中国語でよびかけられて、はっと目を覚ました。彼はねむってはならないと思いつつ、いつの間にか、うとうととしたのだった。

 声のする方にふりむくと、すぐ鼻さきに、中国少年の汚れた顔があった。

「ああお前か。あははは、すっかり気がおちついたようだね」

「小父さん。今しがたこの飛行艇は左の方へむきをかえたよ」

「はははは、そうか。ところで僕をつかまえて、小父さんはすこし可哀そうだが、お前はなんという名かね」

「おれの名かい」

「そうだ」

石福海せきふくかいというのだ。こういう字を書くんだよ」

 少年は、掌のうえに、指さきで文字をかいてみせた。

「なるほど石福海か。福海にしては、ちとみすぼらしい福海だね」

 その時であった。少年は太刀川の脇腹をぐっと突いた。

「小父さん。悪い男が、部屋を出てゆくよ」

「えっ」

 彼は、顔をあげて、室の出入口を眺めた。出入口の扉を押して、ケント老夫人が出てゆくところだった。酔っぱらいのリキーを座席にのこしたまま!……



   電送写真



(変なことをいう少年だ)

 太刀川は、ふしぎに思った。

「お前は、何をいうんだ。今出ていったのは、お婆さんじゃないか。お前は目が見えないわけじゃなかろう」

「そうなんだよ、小父さん」

「何だって」

「おれは目がわるくて、目の前ほんの一、二メートルぐらいしかはっきり見えないんだよ」

「ほほう。そうか。そんなに悪い目をしていて、出入口を通る人をあてるなんて、おかしいじゃないか。はははは」

 ところが、少年は至極まじめだった。

「ちがうよ。そんなことは、目でみなくたって、おれには、ちゃんと分かるんだよ」

「なに、目でみないでも分かるって、馬鹿なことをいうものでない。いいからもうだまっておいで」

 太刀川は、石少年が透視術みたいなことをいうので、ちょっと気味が悪かった。だが、ケント老夫人のことを男だなんて、そんな当りの悪い透視術は、もうたくさんだとおもった。

 だが、はたして彼の考えた如く、石少年の言葉はまちがっていたであろうか?

 無電室では、四人の係員たちが、器械の前にすわりこんで、耳にかけた受話器の中に相手無電局の電波を、しきりに探しもとめている。

 天候状態は、つづいて悪かった。

 そこへダン艇長が、顔をこわばらして入ってきた。

「どうだ。まだ入らないか」

「マニラはやっと入りました。しかしニューヨークの本社が、さっき入りかけて、また聞えなくなってしまいました」

 通信長が答えた。

「マニラの気象通報は、どうだった」

「あっちも、悪いそうです。北々西の風、風速二十メートルだといってました」

「そうか」

 艇長は、それだけいって唇をかんだ。

 その時、一番奥の器械の前についていた通信士が、両耳受話器に手をかけながら、こっちをふりむいた。

「通信長。ニューヨーク本社が出ました」

「なに、本社が出た。それはお手柄だ」

 通信長は、竹竿をつないだような細い体を曲げて、奥へとんでいった。そして別の受話器を耳にかけた。

「はあ、はあ、ダン艇長がいま出ます」

「おお、本社が出たか」

 ダン艇長の頬に血の色が出た。

「ああ本社ですか」

 艇長の声は、上ずっていた。

「なに、専務ですか。いや、しばらくでした。ところで、例の二人組の共産党員ですがね、こっちじゃ分からなくって困っています。これにのりこんだことは、たしかなのでしょうね」

 しばらく艇長の声がとぎれた。

「ははあ、そうですか。すると、たしかに乗っているわけですね。では、そっちにその二人の人相書かなんかありませんか。ええ、何ですって。写真、それは素敵です。では、すぐその写真を電送して下さい。こっちの用意をさせますから」

 艇長は、まっ赤に興奮している。

「おい、写真電送で、二人の顔を送ってくる。すぐ受ける用意をしたまえ」

「はい」

 通信士は、スイッチをひねって、写真電送のドラムを起動した。このドラムの中に、薬品をぬった紙が入っていて、向こうから送る電波によって、一枚の写真が焼きつけられるのだ。

「は、用意ができました」

「もしもし、本社ですか。用意ができました。写真をすぐに送ってください」

 まもなくジイジイジイと、写真を焼きつけるための信号が入ってきた。もうあと十分たてば、写真は出来あがるのである。ケレンコの顔もリーロフの顔も、すっかり分かってしまうのだ。

 なんというすばらしい文明の利器であろうか!

 艇長はじめ通信係の一同は、ジイジイジイと廻るドラムの上を、またたきもせず、見つめている。やがてドラムの中に焼きあがる写真は、そもどんな顔をしているであろう。

 一分、二分、三分──誰一人、声をだす者もない。

 その時だった。

 この無電室の入口の扉が、音もなくすーっと細目にあいた。室内の者は、誰も気がつかない。

 その扉の間から、ぬーっと現われたものがある。

 あ、ピストルの銃口だ!

 ピストルの銃口は、しずかに室内の誰かを狙うものの如くぴたりととまった。ピストルを握るのは、膏薬こうやくをはりつけた汚い手だった。指が引金にかかった。

 とたんに、ドン! 轟然たる銃声!



   おそわれた無電室



 パーン!

 ピストルの音が、びりっと無電室の壁をゆすぶった。

「あ!」

 ダン艇長は、身をかわしつつ、うしろの扉をふりかえった。

 扉がすこしばかり開いている。その間から、ぬっとピストルの銃口がでている。

 ──と、たてつづけに、パーン、パーン。

 カーンと金属的な音がした。

 と思ったら、いままでジイジイと鳴っていた写真電送の器械が、ぷつんと、とまってしまった。

(あ、やられた)

 艇長が叫んだとき、

「うーむ!」

 と、くるしそうな、うめきごえをあげて、今まで器械の前に、両肘をついていた通信士の体が、横にすーっとすべりだした。

「おお、撃たれたか!」

 艇長が、おもわずその方へ走りよろうとしたとき、通信士の体はぐにゃりとなって、椅子もろとも、はげしい音をたてて、床にころがった。

 つづいてパン、パン──

 ぴゅーんと、艇長の頬をかすめて、弾は窓をつらぬき、外へとびだした。

「うー」

 艇長は、うめいて、ぴたりと床にはらばった。何やつだと思った時、

「動くな。動けば、命がないぞ!」

 聞きなれない太いこえが、ダン艇長の頭のうえからひびいた。

 艇長は、勇気をふるって、首をうしろにねじむけた。と、その時、

「ああ、──」

 艇長の目はレンズのように丸くなった。

 彼は一たいそこに何を見たか。

 一挺のピストルを握った膏薬こうやくばりの手!

 その手は、まぎれもなくあの老夫人、乗客ケント老夫人の手だった。

 いや、姿は老夫人であったけれど、その鼻の下には、赤ぐろい髭がはえていた。大きな膏薬がはがれて、その下からあらわれたのである。

 変装だった。

「一たい、き、貴様は何者だ!」

 ダン艇長は、さすがに勇気があった。

「なんだ。おれの名前を聞きたいというのか。ふふん頭のわるいやつだ」

 と老夫人にばけていた男は、にくいほど落ちつきはらって、無電室にはいり後のドアをしめた。そしてピストルを、ぐっとダン艇長の鼻さきにつきつけ、

「写真電送をうけるのが、も少し早かったら、君は、おれのりっぱな肖像を、手に入れたことだろう。いや、そうなっては、こっちが都合が悪かったんだ。いや、きわどいところだったよ。あっはっはっ」

「なに! じゃ貴様は、例の二人組の共産党員の片われ?」

「ほほう、いまになって、やっと気がついたのか。名のりばえもしないが、君がしきりに探していた共産党太平洋委員長のケレンコというのは、おれのことだ。忘れないように、よく顔をおぼえておくがいい」

 彼は、頭からすぽりと、かぶっていた頭巾ずきんをかなぐりすてた。

「あ、ケレンコ! うーん、貴様がそうだったのか!」

 ダン艇長は、ぶるぶると身ぶるいしながらも、ケレンコ委員長のむきだしの面構つらがまえを見た。

 大きな高い鼻、太い口髭、とびだした眉、その下にぎろりと光る狼のような目!

 勝ちほこるケレンコ委員長のにくにくしいうす笑!



   仮面をぬいだ悪魔



「おい、立て!」

 ケレンコはどなった。

「聞えないのか。立てというのに」

 ケレンコは、ピストルを握りなおして艇長につきつけた。

 艇長は、いわれるままに、するほかはなかった。

「こんどは、両手をあげるんだ」

 ケレンコがつづけざまにいうので、

「貴様は、この艇長の自由をしばって、どうしようというのか」

「どうしようと、おれの勝手だ。文句をいわずに手をあげろ、四の五のいうと命がないぞ」

「なに、命がない? 馬鹿をいうな。艇長を殺すことは、貴様も一しょに死ぬことだぞ。艇長がいなくなって、このサウス・クリパー号が安全に飛行できると思うか。それに──」

「それにどうした」

「わが艇員は、貴様のような無法者をそのままにしておかないだろう。無電監視所が変事へんじをききつけて、いまに救援隊がかけつけて来る」

「うふふふ。何をほざく。貴様のうしろを見ろ、無電装置が、ピストルの弾で、こわされているのに気がつかないのか。そんなことに、手ぬかりのあるケレンコ様か」

「え──」

 艇長がふりかえってみた。はたして無電装置の真空管が、むざんにも撃ちぬかれて、こわれていた。

(ああ、艇員たちは、一たい何をしているのだ。艇内が、エンジンの音でやかましいといっても、あのピストルの音が聞えないはずがない)

 そのとき、とつぜん扉の向こうにはげしい銃声がきこえた。

「あ、あれは──」

 艇長がおもわずさけんだ。

「ほう、やっているぞ。艇長さん。あれが耳にはいったかね」

 ケレンコ委員長は、にやりと笑って、艇長の方を見た。

「なんです。あの銃声?」

「うふ、そんなに知りたいのかね、まあお待ち。いいものを見せてあげよう」

 委員長ケレンコは落ちついたもので、ピストルをゆだんなく艇長の胸につきつけながら、左手で扉をどんどんとたたいておしあけた。

 と同時に、扉のかなたで「あっ」というおどろきのこえがした。大勢の艇員を向こうにまわして、にらみあっている一人の大男! その男が顔をくるっとダン艇長の方へまわしたのを見ると、おお、酔っぱらいの暴漢リキーであったではないか。

「あ、リキー」

「そうだ。リキーだよ。艇長さんは、よくおぼえていたね」

「あの酔っぱらいを忘れるやつがあるか」

「そうだ。誰も知っているよ。しかしリキーというのは、およそ彼に似あわしからぬ名だ。おい、ダン艇長さんとやら。あの手におえない男の本名を教えてやろうかね」

「え、なんだって」

「そうおどろかないでもよい。おれの片腕として有名な男。潜水将校リーロフという名を、きいたことがありはしないかね」

「うーむ、リーロフがあの男か!」

 さすがのダン艇長も、そのばけかたのうまさに、どぎもをぬかれたようだった。

 おそろしいおたずね者二人が、いよいよ仮面をぬいで、おもいがけないところからとびだしたのだ。潜水将校リーロフは、ソビエト連邦にその人ありと、外国にまで名のきこえた大技術者だ。ケレンコの方は、いまは太平洋委員長という役にはなっているが、彼は、現代の世界を根こそぎひっくりかえして共産主義の世界にし、あわよくばソ連の独裁官スターリンの地位をうばって、全世界を自分の手ににぎろうとしている、とさえいわれている人物だった。



   悪魔の虜



「さあ、お客さんたちも、艇員どもも、これで様子は万事のみこめたろう。うわっはっはっ」

 酔っぱらいのリキー──ではない潜水将校リーロフは、ピストル両手に、すっかり勝ちほこって、仁王さまのような顔をほころばせてあざ笑った。

「いいかね。これから、ケレンコとおれとが、ダン艇長にかわってこのサウス・クリパー号の指揮権を握ったんだぞ。不服のある奴は、遠慮なくおれの前へ出てこい」

 大男のリーロフは、両手のピストルを、これ見よがしにふりまわしながら、人々をにらみつけた。

 この恐しいけんまくの前に、誰一人あらわれる者もなかった。

 それにしても、気がかりなのは、日東の熱血児太刀川時夫のことではないか。どうしたのか、彼は先ほどからちっとも姿を見せないのだ。一たい何をしているのだ。彼もまた、ケレンコとリーロフの勢いにのまれてしまったのであろうか。

 いまや大飛行艇サウス・クリパー号は、おそるべき共産党員のため、すっかり占領されてしまったようである。

「おい、ダン先生」

 ケレンコはいった。

「これで写真電送の器械も役にたたなくなったし、無電装置もこわれて、外との無電連絡は一さいだめになった。そこでこんどは、この艇の操縦室へ行く番となった。さあ案内しろ」

「私がか」

「そうだ。君は人質なんだ」

 ダン艇長はいわれる通りにするほかはなかった。

 艇内にある武器は、潜水将校リーロフがすっかりおさえてしまった。艇員たちが、ひそかにポケットにかくしもったピストルも、みなリーロフにまきあげられてしまったうえ、あごがはずれそうなほどつよく頬をぶんなぐられた。乗客たちも、一応しらべられたが、この方は、ほとんど武器を持っていなかった。

「おや、四十九番と五十番との席があいているじゃないか。ここの二人の客はどこへいった」

 とつぜん大男のリーロフが、眼をむいた。

「さあ。存じませんねえ」

 リーロフのお伴をしている艇員が、首をふった。

「じゃ、乗客名簿を出せ。四十九番と五十番とは誰と誰か」

 リーロフは艇員の手から名簿をひったくり、太い指さきで番号をたどった。

「うむ、四十九番は石福海。五十番は太刀川時夫。ははあ、そうか。あいつは日本人だったのか。ふふん、うまく逃げたつもりらしいが、なあに今にみろ。素裸すはだかにひきむいて、あらしの大海原へおっぽりだしてやるから」

 リーロフは、ゴリラのように歯をむいてつぶやいた。

 一方、ケレンコ委員長は、ダン艇長をひったてて、操縦室へのりこんだ。

 操縦室は、一面に計器がならんでいた。そしていろいろな操縦桿やハンドルがとりつけてあった。そこには五人の艇員が座席について、熱心に計器のうえを見ながら、操縦をしたりエンジンの運転状態を見たり、航路を記録したり、いそがしそうにたち働いていた。

 だが、ケレンコがはいっていったとき、五人の操縦員の顔は、いずれも紙のように白かった。彼等はすでに、艇内におこった大事件を知っていたのである。

「おい、皆。わがはいが、ただ今からダン艇長にかわって、この飛行艇の指揮をとることになった。わがはいの、いうことをきかない者は、たちどころに射殺する。いいかね、命のおしい奴は、命令にしたがえ」

 それを聞くと、五人の操縦員は、いいあわせたように、ぶるぶると体をふるわせた。



   無茶な命令



「そこでわがはいは、本艇の航路をしめす。地図を出せ」

 ケレンコはいった。

「地図は、ここにある」

 ダン艇長が、壁を指さした。航空用の世界地図が、はりつけてあった。そのうえには、赤や青やの鉛筆で、これまで通ってきた航路やなにかがしるされていた。

「ふん、これか。なるほど本艇はいま、ここにいるのだな。しめた。マニラからよほど北にそれているのだな」

「外はひどい暴風雨です。だから北へ避けているのです」

 操縦長スミスが、ひきつったような声でこたえた。

「本艇の針路を、もうすこし北へまげろ。もう二十度北へ」

「え、もう二十度も北へですって」

 操縦長スミスはおどろきの声をはなち、

「それじゃあんまりです。マニラへはいよいよ遠ざかり、太平洋のまん中へとびこんでゆくことになります」

「わかっている。いいから、わがはいの、いうようにするんだ。君は命令にそむく気じゃあるまいな」

「でも、そっちへ行けば、マニラへひきかえすだけの燃料がありません。海の中におちてしまっていいのですか」

「だまって、わがはいの、いうとおりにしろ。それから、スピードをあげるんだ。いまは毎時二百キロしかでていないようだが、それを三百五十キロにあげろ」

 ケレンコは、どうするつもりか、途方もないことをいい出した。

「え、三百五十キロ? この暴風雨の中に、三百五十キロ出せとおっしゃるのですか。そ、そんなことはできません。そんなことをすると、飛行艇のスピードと暴風の力とがかみあって、艇がこわれてしまいます」

 スミス操縦長は、きっぱりとケレンコの命令をことわった。

「なに、できないって」

 ケレンコの眼が、ぎらぎら光った。

「よし、できないというのなら、貴様に用はない。覚悟しろ」

 パーン!

「あ!」

 スミス操縦長の頬をかすめて、銃弾はとんだ。その銃弾は銀色をした壁をうちぬき、艇外にとび出した。とたんに、その穴から、しゅうしゅうと、はげしい風がながれこんできた。

 スミス操縦長の頬からは、鮮血がぽたぽたとながれおちる。かれは決心したもののごとく、また計器をにらみながら一心に操縦桿をひく。彼もアメリカ魂をもつ勇士の一人だったのである。

「もう一度いう。針路を北へもう二十度。そしてスピードを三百五十に!」

 ケレンコは、スミス操縦長に噛みつきそうな形相でさけんだ。

「わ、わかりました。そのとおりやります!」

 スミスは、唇をぶるぶるとふるわせながら、きっぱりこたえた。

「ああ!」

 ダン艇長は、その横で、絶望のため息をついた。

(これでは陸地へは、だんだん遠ざかる。そしてもしこの飛行艇がこわれたら)

 艇員の身の上を、そしてまたあずかっている乗客たちのことを心配して、艇長の胸のうちは煮えくりかえるようであった。

 助けをもとめたいにも、無電はこわれてしまった。それに他の飛行機か汽船でも通っていればいいが、こんな暴風雨地帯を誰がこのんで通っているものか。たとえ通りかかっていたにしろ、暴風雨警報をきいて、すばやく安全地帯へにげてしまったろう。

(神よ、われ等に救いをたれたまえ!)

 ダン艇長は、心の中に、神の名をよんだ。

 艇内は、にわかにエンジンの音が高くなった。それはまるで金鎚で空缶をたたくようなやかましい音だった。今にも艇が、どかんと爆破するのではないか、とおもわれるようなものすごい音であった。──スミス操縦長は、ついにケレンコの命令どおりに、暴風雨中に三百五十キロの高スピードを出したのだった。

「ああ、これでいい。こりゃ、愉快だ!」

 どういうつもりか、計器の針をながめて、ひとりよろこんでいるのは、おそるべき委員長ケレンコであった。

 他の者は、誰の顔も血の気がなかった。

 しゅうしゅうと風が穴から、はげしくふきこむ。ごうごう、がんがんとエンジンはなりつづける。これでは、まるで地獄ゆきの釜のなかのようなものだ。艇員たちは、それぞれ神の名をよびつづけていた。

 そのときだった。入口から、おもいがけなく、一人の青年の姿があらわれた。

「やあ皆さん、ちょっと失礼しますよ」

「おお、あなたは──」

 ダン艇長は目をみはった。

 その青年は、ほかならぬ太刀川時夫であった。今まで彼はどこにいたのであろうか。右手にはあの太いステッキが握られている。だが、ふしぎなことには、彼の顔は、どうながめても、このさわぎを少しも感ぜざるものの如く落ちつきはらっていた。

「やあ皆さん。乗客の一人として、ちょっと御注意いたしますが、この飛行艇はついに運転不能となりましたよ」



   命の方向舵



 今まで見えなかった太刀川青年が、とつぜんあらわれて、こんなことをいったものだから、操縦員も艇長も、そしてケレンコも、めんくらって目をぱちくりとした。

「え、どうしてそんなことが──」

「いま窓から外を見たんです。方向舵がぴーんと曲ってしまって、今にも風にさらわれてゆきそうですよ」

 太刀川時夫は、平気な口調でいった。

「あ、ほんとうだ。方向計の針が、ぐるぐるまわっています。これはたいへんだ」

「このままでは、本艇はおそろしい暴風雨の真中に吸いこまれてしまいますよ。まずスピードを下げて、風にさからわないように飛ぶことです。さっきからの操縦は、ありゃ無茶ですよ。飛行艇がこわれてしまう」

 そういっているとき、どうしたわけか、操縦室の電灯が一時にぱっと消えてしまった。外は、夜のように暗い黒雲の渦だ。室内はくらくなった。ただその中に、蛍光色の計器の表だけがぴかりぴかりと光る。

「あ、たいへんなときに停電だ」

「こら、誰もうごくな。うごくとうつぞ」

 委員長ケレンコも、あわて気味に一同をおどかした。

「電灯をつけなきゃいかんですが、困りましたね」

 太刀川青年の、おちつきはらったこえが、くらがりの中からした。

 そのさわぎのうちに入口から、小さい猿のような動物が、するすると室内に入ってきたのに、気づいた者はほとんどなかったようである。

「電灯をつけろ。ダン艇長。誰かに命令をつたえろ」

「はい。では発電室へいってみます」

 しめたと思ったダン艇長が、くらがりの中に体をうごかしたとたん、

「こら、この室を出ていっちゃならん。この室に、艇内電話機があるはずじゃないか」

 とケレンコのわれ鐘のような声。

「電話機はありますが、停電ですから、電話もだめじゃないかとおもいますので……」

「なんでもいいから、かけてみろ」

「はい。こうくらくては電話機のあるところがよくわかりません。懐中電灯でもあれば」

「大げさなことをいうな。じゃ、わがはいの懐中電灯を貸してやる」

 ケレンコは、ピストルをポケットにおしこみ、他のポケットをさぐって、懐中電灯をとりだした。

 それはただちにケレンコの手から、ダン艇長の手にわたされた。ボタンをおす。まぶしい光がさっと室内に流れた。

「ああ、ここにあった」

 艇長は、電灯を片手にもちながら、

「ああもしもし」

 と、電話をかけはじめた。

「おう、交換台か。おや、電話は通じるんだね。それはよかった。え、なに?──」

「こら、他の話をしちゃならん。早く電灯をつけろといえ」

 ケレンコは、油断していなかった。

「はあ」艇長は電話をかけながら、ちょいと頭を下げて、

「おい、停電したが、どういうわけだ。なに暴風雨で発電機の中に水がはいった。……蓄電池だけで、電話とエンジンの点火とだけを辛うじて保たせてあるって。ええ、なんだ?──ふん、そうか、よしよし。わかったわかった」

「こら、なにをいう。他のことを話しちゃならぬといっているのがわからないか」

「いや、故障のところを説明させているんです」

 艇長はいいわけをして、

「おい、それからどうするというのか。………うん、わかった。早くなんとかなおせ。そうか、こっちは大丈夫だ。じゃ、あと十分後を期して、一せいに、よし、わかった」

「なんだ、おい。十分後というのは」

「え」とダン艇長は、なぜかどぎまぎしたが、

「いやなに、十分後までになおすから安心してくれといっているのです」艇長は、電話を切ったあとまで、なんだかそわそわしていた。そして、かたわらに立っている太刀川青年の方をちらちらとぬすみ見ていた。

 なんだか様子がへんである。ダン艇長は、はたして電話で停電した話ばかりをしていたのであろうか。

「さあ、艇長。用がすんだら、懐中電灯をかえしなさい。僕がわたしてあげます」

 なにをおもったか太刀川時夫は、艇長をうながして、懐中電灯をうけとると、これをケレンコの顔にさしむけた。

 ケレンコは、不意にまぶしい電灯をさしつけられて鬼瓦のような顔をしておこった。

「こら、何をする。無礼者めが」

 なにか意味ありげに、にやにや笑っている太刀川青年の手から、ケレンコはあかりのついた懐中電灯をひったくった。

 このとき、くらがりの室内を、何者ともしれず、こそこそと床上をはい、そして扉をぱたんといわせて、外へ走りでた。

 それに気がついたダン艇長は、あっと叫ぼうとして、あわてて自分の口をおさえた。

 停電事件と同時に、艇内に、なにかしらふしぎなことが起っているらしかった。

 ところがそのとき、操縦長が、誰にもそれとわかる悲壮なこえで、艇長によびかけた。

「ああ艇長。本艇はもうだめです。ぐんぐん暴風雨におしながされだしました。方向舵が直らないのです。どうしてもだめです」

 それは本当だった。羅針儀の針はぶるぶるふるえていた。

「それはそのはずだ」

 太刀川青年がケレンコに聞えよがしにいった。

「あのとおり方向舵が曲ってうごかなくなってしまったんだ。あれを直さないかぎり、本艇は海上に墜落のほかない!」

「なにを!」

 ケレンコは、ゴリラのように歯をむいて、太刀川青年の方へちかづいた。



   荒肝あらぎもをひしぐ



 どこまでも、不運なクリパー号は、この暴風雨のために、方向舵までも、まげられてしまった。

 艇にとっては、今や人も機械も何のやくにもたたない。ただ暴風雨のまにまに、どこまでも、ながされてゆく。

 いつ突風がおこるかわからない。突風がおこって艇にたたきつけるようなことがあったら、おしまいである。下にはあれくるう波が、艇と人とをひとのみにしようと、白い牙をむいて待ちかまえているのだ。さすがのケレンコも、太刀川青年に、方向舵の曲ったことを知らされて、顔色をかえてしまった。

 が、太刀川青年は、おちつきはらって言った。

「さあ、どうしますか、ケレンコさん。われわれはともかく、あなたがたは、ここで艇と一しょに、海中へおちて死ぬつもりですか」

 ケレンコは、だまっていたが、その目は、あきらかにうろたえていた。

「どうしますか、ケレンコさん。われわれも死ぬが、あなたがたも一しょに死ぬのですよ」

 太刀川青年は、ここぞとばかり言った。

「なに、死ぬ?」

 ケレンコが、ひくい声でつぶやいた。さすがのケレンコもこれには、完全にまいったらしい。

「じゃ、太刀川君。どうすればよいのだね」

 ついにケレンコは一歩ゆずった。太刀川青年の言葉は、敵の荒肝あらぎもをひしいだ。

「それは考えるまでもないじゃありませんか。あの曲った方向舵をなおすことですよ!」

 と太刀川は、こともなげに言った。

「な、なんだと、太刀川君」

 ケレンコはおどろいた。

「あの方向舵の故障は艇内でなおすわけにはいかない。しかし、この暴風雨の艇外に出て、そんなはなれわざが、できるものじゃない」

「ケレンコさん、それをやるのです。やらなければ、われわれは死ぬよりほかないのですよ。二人でやればできないこともないと思います。僕とあなたで、早いところやろうではありませんか」

「え、君とわがはいとで……」

 鬼のようなケレンコも、この一言には、まるで串ざしにされたかたちだった。

 太刀川青年は、艇長の方をふりむいて、

「さあ、ダン艇長、早く麻綱をもってきてください」

 ダン艇長は、さいぜんから太刀川青年の胸のすくような応対ぶりに見とれていたが、はっとわれにかえり、いいつけどおり、この操縦室の網棚から麻綱の束をかかえおろした。

「さあ、ケレンコさん。これで胴中をゆわえて、僕と一しょに早くきて下さい」

「ちょ、ちょっと待て。わ、わがはいはこまる。誰か外の艇員をつれてゆけ」

 ケレンコは一歩後ずさりをした。

「何をいっているのだ、ケレンコ! ほんとに命が大事だと思う者がゆかなければ、この艇をすくうことはできやしないよ。艇長たちは、暴風雨相手に操縦することだけで一ぱいなんだ。これはどうしても、君と僕の二人がやるべき仕事のようだね」

「うーむ」とケレンコはうなった。そして後をふりむき、

「おいリーロフ。君はわがはいよりも、はるかに技術者で、力がある。君がゆけ」

 すると、さっきから二人のおし問答に、耳をかたむけていた大男のリーロフは、何を思ったか、おおきくうなずくと、

「よし、じゃ、おれがゆこう。ケレンコ、こっちの艇員どもは、君にあずけたよ」

 といって、彼はピストルをポケットにしまいこむと、太刀川青年に見ならって、麻綱を胴中にぐるぐるとまきつけた。



   大冒険!



 このままほうっておけば、艇は墜落するよりほかないのだが、それにしても、諸君、太刀川青年はすこし、やりすぎたのではないだろうか。この暴風雨中に、艇外へ出て、方向舵をなおすなんて、人間わざでできることではない。日本をはなれるとき、原大佐から重大使命をさずけられた身として、かるはずみのしわざではあるまいか。

 いや諸君、太刀川青年は、けっしてその重大使命をわすれるような男ではない。いや、これを思えばこそ、ケレンコ事件がおこってからこっち、ひそかに計画をすすめていたのだ。

 その重大使命をはたすために、彼は、にくむべきケレンコとリーロフの国際魔二人を、死なせてはならないと思っていたのだ。

 なぜ? その答は、太刀川青年の胸のなかにある。今はただ謎として、これだけを承知しておけばよいのだ。

 それはともかく、太刀川のたてた計画は、順序正しく、はこびつつあった。

 操縦室の停電も、それであった。

 そして停電のすぐ後に、猿のようなものが、しのびこみ、ケレンコにちかづき、何事かしてまた出ていってしまったことも、その一つだった。

 艇長が電話の受話器を通じて、何を聞いたか。「あと十分ののちに!」とは、なんのことであったか。それもまた、やはり太刀川の計画の一つだった。今や、その十分間の時間も、あと四、五分となった。それにしても太刀川が、リーロフの手から、たすけてやった中国人少年石福海は、今どこに何をしているのだろう。このさわぎがはじまってから、一度も姿を見せないのには、何かわけがありそうである。

「さあゆこうぜ、リーロフ」

 太刀川は、顔色もかえず、大男のリーロフをかえりみていった。

「うん、ゆけ。貴様がさきへ」

 リーロフは、注意ぶかい目つきで、太刀川の方にあごをふった。

「僕は鋼条ワイヤとペンチを持つ、リーロフ、君は手斧だ」

「おれが手斧を持つのか。うふふふ。それはたいへんいいことだ」

 リーロフは、意味ありげに笑った。斧の刃は、するどくとがれていて、切味がよさそうなのが、何だか不気味である。

「リーロフ、さあ、僕につづいて、すぐその天井の窓から、胴体の上へはいだすんだ」

 翼のうしろに開く窓があった。そこから艇の胴体の外へ出られるのだった。太刀川は、ロープのはしを座席の足にしばりつけた。そして自分で窓をひらいた。艇員たちが、はっと顔色をかえるのをしり目に、さっさと艇外へはいだした。とたんに横から、張板のようにかたいはげしい風が、彼の体をぶんなぐった。飛行眼鏡さえ、もぎとられそうで、しばらくは目が見えなかった。風にあおられ、ぐーっと、体がもちあがるのを、一生けんめいにこらえて、胴体の上にうえつけられている力綱の輪をにぎる。

 この力綱の輪は、胴体のくぼみに、はめこまれて、一列にならんでいるので、太刀川は、腹ばったまま、少しずつ前進しては、くぼみから、この力綱の輪をおこさなければならなかった。そして両手ばかりではなく、両方の足首も、この輪のなかにしっかり、かけておく必要があった。

「ひゃあ──」

 というようなさけび声が、太刀川のうしろからきこえた。ふりかえってみると、大男のリーロフが胴体にしがみついて、はげしい風にふりおとされまいとして、力一ぱいたたかっている。

「おい、はやくこーい。この弱虫めが!」

 太刀川は、リーロフをどなりつけた。

「うう、いまゆくぞ。なにくそ!」

 風は、大男のリーロフにたいして、すこぶる意地わるだった。風のあたる面積が太刀川青年の体にくらべて、倍くらいもひろいのだからやりきれない。海底にもぐっては、いささか自信のある潜水将校リーロフも、空中ではからきし、いくじがない。

 そのうちに太刀川の頭が、まがった方向舵にこつんとつきあたった。



   十分ののち



 暴風雨中のこの大冒険を、艇員や乗客は、操縦室、そのほか方向舵の見える場所に、顔をおしつけあって、どうなることかと見まもっている。

 太平洋委員長ケレンコも、ピストルをにぎりなおして、艇員を見はっていながらも、やはりリーロフの身の上が案じられて、ともするとその注意力は、艇外にゆきがちであった。

 それを待っていた者があった。

 艇の後部にいて、さっき電話機で艇長とうちあわせた艇員の一団であった。彼らは、ひそかに操縦室の入口にせまり、ケレンコの前に両手をあげて、つったっている仲間たちの肩ごしに、ケレンコの様子をじっとうかがっていたのだ。

 うちあわせた十分間は、もうすぎていた。

 その中の一人、貨物係主任のレイという男が、この時うしろにむかって片手をあげた。

(おい、用意はいいか)

 という合図だった。

 レイの片手が、さっとおりた。

(それ、とびかかれ!)

 五、六人のものが、ぱっとケレンコにとびついた。

「あ、こいつら、何をする!」

 ケレンコはさっと身を横にひらいて、ピストルの引金をひいた。

 カチリと音がしただけだ。しまったと、また引金をひいたが、これもカチリといっただけであった。三度めに引金をひこうとしたとき、おどりかかった艇員のために、またたくまに、その場におさえつけられてしまった。悪魔のごとく、おそれられている共産党太平洋委員長としては、あまりにあっけない捕らわれ方だった。

「さあどうだ。じたばたすると、首をしめちまうぞ」

 艇員たちは、急に鼻息があらくなった。

 ダン艇長は、この時ケレンコにむかい、

「どうです。ケレンコさん。何かいうことがありますかね。あの停電のくらがりで、あなたが懐中電灯を出そうとして、ピストルをおかれたのはお気の毒でした。そのすきに、太刀川さんのいいつけで、中国人少年の石福海が、弾をすっかり抜きとってしまったのですからな」

 ケレンコは、大ぜいの艇員におさえつけられながらも、胸をはって、

「そうだったか。よし、じゃ一たんは、おれの負としておこう。あの日本の青二才に、うまくひっかけられたかたちだ。しかし見ていろ。いまにお前たちは、おれの前に平つくばってお助け下さいと言うようになるぞ」

「何をぬかす、この強盗殺人めが!」

 と、艇員のひとりが、ケレンコの横面を力一ぱいなぐりつけた。

 こうして、ケレンコは、ともかくもかたづいた。だが艇外の大冒険はどうなったであろうか。

 これをたくらんだ太刀川時夫は、大男のリーロフをたくみに艇外にさそいだして、ケレンコをおさえる機会をつくったのだ。

 はたしてケレンコは、あっけなくつかまり、リーロフは、大きな体をふきとばされまいとして、力のかぎり、尾翼のつけねにとりついている。もちろん彼は、ケレンコがとりおさえられたことなど、知るよしもない。



   空中の惨事



 太刀川時夫は今、はげしい風雨とたたかいながら、方向舵の故障を必死になおしている。手はこごえる。呼吸はくるしい。

「さあ、リーロフ。方向舵のその折れまがったところを、君のもっている斧で切りはなしてくれ」

 そういう太刀川の注文も、声では相手に通じないので、手まねで合図をするよりしかたがない。

「斧で切りはなしてくれだって……それより、貴様の方から先にやれよ。ほら、その切れた鋼条ワイヤを、早くつなげばいいじゃないか」

 リーロフは、あごでそれを言った。

 太刀川は、それが順序ではなく、そのためによけいな手間をかけなければならないことを知っていたが、ここであらそうべきでないと思ったので、方向舵の切れた鋼条をつなぐことにした。

「はやくやれ。この小僧!」

 とリーロフは、かみつくような顔をする。

 だが、ペンチをにぎる手は冷えきって、鋼条をちょっとまげるのにも、たいへんだった。両足と左手を力綱の輪にかけてふんばり、右手と口とをつかって、それをやるのである。みるみる歯ぐきからは血がふきだして、方向舵を赤くそめた。ペンチはいまにも指さきからすべりおちそうだ。しかし彼は、ひるまず、作業をつづけて、やっとあたらしい鋼条で切れたところをつないだ。

 この時、リーロフの眼が、ぎろりとうごいた。彼は太刀川が、鋼条をうまくつなぎおえたのをみると、斧をとりなおした。

 太刀川は、つないだ鋼条をにぎって、ぐっとひいてみた。しかし方向舵は、びくともうごかなかった。折れまがったところが胴体にくいこんでいるからだ。

「リーロフ、斧でもって、方向舵の折れまがったところを切りはなしてくれ!」

 リーロフは、ジリジリと彼の方へはいよってくる。

「おいリーロフ、そっちだよ。方向舵の胴体にくいこんでいるところを切りはなすのだよ」

 リーロフは、太刀川の言っていることがわからない様子をして、なおも太刀川にちかづいてくるのだった。

「あ、リーロフ、何をする!」

 何たることか! リーロフは、やにわに斧をふりかぶると太刀川の体をつないでいる命の綱をめがけて、さっとうちおろした。

「あ」

 ぷつんと綱は切れて、太刀川の体は、ふわりとうきあがり、猫が背中をまるくしたようになった。次の瞬間、彼は、ふきとばされたかと思ったほどだったが、ふたたびうまく胴体にしがみつくことができた。

 リーロフは、歯をむきだして、あざ笑った。それから彼は、方向舵の方へ、からだをうつしていった。

 太刀川は頭を艇にすりつけ、死んだようになっている。

 リーロフは、ふたたび斧をふりかぶった。そして方向舵のまがり目をめがけて、ガンとうちこんだ。

 斧の刃がうまくはいった。ぶーんと音がして、方向舵は生きかえったように、つよくはねかえって、もとの位置にもどった。その時、

「ぎゃ!」という妙な声、

「おや!」と頭をもたげた時には、今の今まで前にいたリーロフの姿が見えない。

 太刀川は、びっくりして下を見た。

「あ、あれは?」

 艇の下方で、リーロフが綱のはしにつかまって、ブランコのように大きくゆれているのを見た。リーロフは、もとの位置にはねかえった方向舵にはじかれて、艇の胴体からすべり落ちたのだ。だがもう一つおどろいたことがあった。リーロフの胴をゆわえていたはずの綱がとけて、彼はわずかに、そのはしをにぎっているのであった。

「あ、あぶない!」

 と、太刀川がさけんだ時は、もうおそかった。リーロフが、力つきて綱をはなしたのだ。あやつり人形のように手足をばたばたうごかして、下に落ちてゆくリーロフ! その顔が赤ペンキをぶっかけたように見えたのは、方向舵にはねられた時にけがをしたのでもあろうか。リーロフの体は、みるみるうずまく黒雲の中にすいこまれてしまった。

 ああ、リーロフは落ち、そして方向舵はもとにかえったが、太刀川青年は一たいどうなるのだろう。



   心配なガソリン



 どうしてきたかわからないが、とにかく太刀川青年は、胴体をはって、ふたたび艇内にたどりつくことができた。

 誰かが彼をかかえおこして、コップにはいったものを飲ませてくれた。その液体は舌をぴりぴりさせ、そしてたちまち腹の中にしみわたり、にわかにあたたかくなった。艇長ダンが、彼にブランデーを飲ませたのであった。

 太刀川は三、四ヶ月ぶりに艇内にかえってきたような気がした。しかしほんとうは、たった二、三十分しかたっていなかった。この二、三十分間に、彼はそれほど全身の精力をだしきってしまったのであった。

「おお太刀川さん。お気がつかれましたか」

「ああ、ダン艇長」

「そうです、ダンです。しかし私はいま、全米国民を代表して、大勇士であるあなたに、大きな大きな感謝と尊敬とをささげます。いや、全米国民だけではありません。全世界の人類を代表して、お礼を申さねばなりません」

 そう言って艇長は、太刀川の手をしっかりにぎりしめた。

「いや、そんなことを言っていただかなくてもいいのです。しかし気の毒なことをしました。リーロフ氏が墜落したのに、たすけることができなくて──」

「え、気の毒ですって? あれこそ天罰ではありませんか。あなたの綱を切った時には、私たちは思わず眼をおおいました。やつは悪魔です。でもあなたが無事に元気にかえってこられて、こんな喜ばしいことはありません。あの時、例の中国人少年石福海が、御恩がえしに、あなたをたすけにゆくといって、艇外へとびだそうとするのには、ほんとうにこまりました」

 艇長がかたる少年の話に、太刀川はふと気がつき、

「ああ、石少年ですか。どこにいます」

「ここにいますよ。あなたの右手をにぎっているのが石少年です」

「おお石福海! お前は──」

「ああ太刀川先生、じっとして、先生の手、氷のように死んでいる。わたしすぐあたためて、生かしてあげる。はあ、はあ」

 石少年は、返事するのもおしい様子で、彼の右手へ、一生けんめいに息をはきかけているのであった。

(石福海は、こんなに僕のことを思っていてくれるのか!)

 太刀川の目頭は、急にあつくなった。彼は、じつと目をとじて、石少年のあたたかい息を感じるのであった。いじらしい石少年よ。その時、

「艇長! スミス操縦長からの伝言です」

「おお、なんだ」

「本艇は、艇長の命令により、二千メートルの下降をおわりました。やがて雲の下に出られる見こみがたちました」

「そうか、ついに暴風雨をのりきったか。では操縦長にこうつたえよ。下界が見えるところまで雲の下に出ろとな」

「は、そうつたえます」

「それから針路は、さっき言ったとおり、もとの方向へもどっているだろうなと言え。もう一つ、ガソリンの量を至急しらべて報告してくれ」

「はい」

 伝令員の、ひっかえしてゆく足音がきこえた。

「艇長、ケレンコはどうしました」

「ケレンコは、あなたの計画どおり捕らえて、貨物室におしこめてあります」

「本艇は、暴風雨圏からうまくのがれたのですか」

「そうです。もう風雨はしずまっています」

「着陸地点までとべますか。無電連絡はまだつきませんか」

 そう言っている時、どこやら、はなれたところで、はげしく人のあらそう声がきこえた。それにまじって、がらがらと物のこわれる音だ。すわ、また事件か?

 どたどたとかけこんでくる靴音!

「艇長、たいへんです。ケレンコがにげました」

「なに、ケレンコがにげたって」

「綱をゆるめて、貨物室の窓をやぶって、外へとびだしました」

「え、外へとびだしたか。どっちへ落ちた」

「あ、こっちです。見えます見えます。ほら、あそこへ落ちてゆきます」

 艇長ダンは、窓にかじりついた。その時ケレンコが、落下傘をひろげてふわりふわりと落ちてゆくのがみとめられた。

「おお落下傘を、どうしてケレンコが? ああ、しかしあれは本艇の落下傘ではないな」

「そうです。艇長。ケレンコは服の下に、あの奇妙な落下傘をしのばせていたんです」

「そうか、あんなものを持っていたか。ざんねんだ。とうとう二人ともつかまえそこねた」

 艇長は、くやしそうにさけんだ。が、あれほど、行手をさえぎった雲が、どこかへふきとんでしまって、すぐ目の下に、青々と水をたたえた大海原が見えだした。その時であった。

「艇長、ガソリンが、もうすっかりなくなりました。まもなくエンジンがとまります」あわただしい注進。

「なに、ガソリンがついにきれたか」

 ああ、マニラから遠くはなれた北方の洋上に、わがクリパー号は、着水しなければならぬのか。艇内百余の命は、これから一たいどうなるのだ。

「あ、あれはなんだ?」

 いつのまにか、窓によっていた太刀川時夫が、おどろきの声をあげて、はるかかなたを指さした。

 艇長は、その方を見た。雲の切れめをかすめて、とつじょ、洋上に姿をあらわしたのは、今まで見たこともない、ふしぎな大海魔だった。



   おお大海魔



 サウス・クリパー艇は、この時、海面からわずか三、四百メートルのところを飛んでいた。

「ダン艇長、あれが見えませんか」

 さすがの太刀川も、色をうしない、そういうのも、舌がこわばって、やっとだった。艇長も教えられるまでもなく、怪物の姿に気づいていたのだが、あまりの恐しさに、声が出なかった。半分気がとおくなって、ふらふらと窓にたおれかかった。

「艇長、あの怪物はどうやらこっちを向いているようですぜ。あ、うごいています。すぐ艇員に命令して、武器をもたせるように──」

「武器──」と艇長はうめくようにいったが、首をふり、

「いや、とてもだめだろう。あれを見たまえ。まるで、煙突が鎧をきたみたいじゃないか。あんなにかたそうでは、小銃の弾なんか通らないよ。そのため、かえって怪物を怒らせるようなことがあっては……」

 煙突が鎧をきたようじゃないか!

 へんないい方ではあるが、なるほど、海魔の姿をよくいいあらわした言葉である。

 海面からにょきっと出た首らしいものは、およそ百メートルはあろうと思われる。

 それは、くねくねと曲って、ゆらゆらうごいているが、そのぶきみさといったらない。この首の一ばん上に、頭らしいものがついている。首も頭も緑色をしていて、ぬらぬらとしたいやらしいつやをもっている。とつぜん、ぱっぱっぱっと、頭のところから、目もくらむような光が出た。

「あ、光った!」

 窓のところへよって、ふるえあがっていた艇員たちは、それを見て、一せいに叫声さけびごえをあげた。

 乗客たちは、もう生きた心地もなく、床の上をはいまわったり、頭をかかえてうめいたり、座席にかじりついて、神の名をよんだりするのであった。

 むりもない。海面から出た首と頭とだけで百メートルにちかいのである。すると海面の下にかくれている胴体や尻尾は、と思うと、この世のこととは思えないのである。

(おれたちは、夢を見ているのじゃないかな)

 しかしそれは、けっして夢ではなかった。

 大海魔は、しずかに頭をうごかして、ふしぎそうに、まい下りてくる飛行艇を見あげ、照空灯のような目を、ぴかぴかと光らせるのであった。

 操縦室では、海魔から少しでも遠ざかろうと必死の操縦をつづけているのだが、エンジンがとまっているので、思うようにいかない。高度は三百メートル、二百メートル、百メートルと、見る見るうちに下って行った。

 あらしの名残の雲がきれぎれにとぶ。

 西を向いても東を向いても果しのない大海原、もうどうすることもできない。艇内百余の人命をあずかっているダン艇長は、心を痛めながら、着水後の用意のため、艇内を見まわっている時であった。

「あ、あれあれ」

 と、とんきょうな叫声がおこった。

 何事かと窓によってみると、海上に大海魔の姿はなく、ごーっという、すさまじい海鳴とともに、今まで大海魔ののぞいていた海面は、ごぼんごぼんと大きな泡をたて、渦をまいてわきたっているではないか。



   約束の無電



 ダン艇長が、大海魔の消えた海面に目をみはっているそばで、太刀川時夫は、しきりにステッキの頭をひねくっていた。ステッキというが、これはただのステッキではない。日本を出発するとき、原大佐から、「万一の時には、この中に仕掛けてある短波無線機で知らせよ。よびだし符合はX二〇三──」だといっておくられた、あのステッキだ。

 それを使う時がいよいよ来たのだ。まさかと思った大海魔が、目の前にあらわれたのである。今だ今だ。今この報告をしなければ、ステッキを使う時が、永久に来ないかもしれない。そして、おそらくこれが、最初にして最後の報告になるかもしれない。──太刀川青年は、そんなことを考えながら、ステッキの頭についている蓋をはずすと、内部につめこまれた精巧な超小型の無電機をのぞいた。くわしいことは、軍機の秘密だから、のべられないけれど、機械のどの部分も、ゴムに似たある特別の弾力のあるかたい物でかためてある。なげとばそうと、海水につかろうと、また少しぐらい熱しようと、中にある機械の働きは、少しもくるわないというすばらしいものだ。

 太刀川青年は、ステッキの中から、紐のついた南京豆ほどの奇妙な受話器をひっぱりだし、耳の穴に入れた。そして右の指先で、小さな無電の電鍵キイを、こつこつとたたいた。

「X二〇三、X二〇三」

 それは、例のよびだし符合であった。

 太刀川は、そのよびだし符合を、十四ほど、つづけざまにうった。

 それがすむと、電鍵キイのそばについているスイッチをきりかえた。それは、機械が、以後電話ではたらくように、なおしたのだった。

 じ、じっと雑音が、受話器をならした。するとそれにつづいて、日本語がはいってきた。

「太刀川君かね。こちらは原大佐だ」

「ああ原大佐!」

 太刀川は、おどろいた。こうもうまく、連絡ができるものとは、考えていなかった。大佐の声はすこしはずんでいるが、その声の大きさは、市内電話と同じくらいだった。

「待っていたぞ、太刀川君。僕は今、君もよく知っている、役所の例の机の前にすわっているよ。さあ聞こう。話したまえ」

「ああ」

 と太刀川は我にかえった。大佐の声を聞いていると、大佐も、この飛行艇内のどこかにいて、そこから電話をかけているような気がするのだ。大佐にさいそくされて彼は、はじめて話しだした。

「私は今フィリピンの、はるかはるか北の沖に不時着しようとしているサウス・クリパー艇の中にいます。つい今しがた例の大海魔が海面からあらわれ、そしてすぐひっこんでしまうところを見ました」

「そうか、やはり本当にそのような怪物がいたのか。よし、じゃ、くわしく話したまえ」

「まず、形は──」

 と、語りかけたとき、艇内の高声器から、とつぜん、警報がなりひびいた。

「皆さん、すぐさま座席の下にある救命具をつけてください。本艇は、あと二、三分のうちに、不時着します。その時は、すぐさま窓から海へとびこんで下さい。本艇は、さきほど暴風雨中を無理な飛行をしましたため、胴体の下部数箇所にさけ目ができました。修理が間にあわず、波があらいので、沈没はまぬかれません。救命具は、しっかり体についているかどうか、たしかめて下さい。すべて行動は、おちついてやること。窓から出るときは、婦人を先にして、男子は後にして下さい。お互に人間としての本分をつくし、どんなことがあっても最後まで気をおとさず、助けあって下さい。無電監視所から、いまに助けに来てくれることと思います。艇員の命令を守らないものは、やむを得ません。銃殺します。ただ、皆さんを、かような運命におとしいれたことにたいしては、艇長以下一同、何とも申しわけなく思っております」

 悲壮な声であった。おお、いよいよ着水かと思った時、

「そうだったか、太刀川君、今のを聞いたぞ」

 原大佐は、口をこわばらせて、そういい、「うーむ」とうなる声がきこえた。



   艇の最後



 だが、太刀川時夫は、おちついて、はきはきとした声でいった。

「もう時間がありませんから、この飛行艇が沈むまでに、できるだけのことを、報告しておきます。お書きとり下さい」

「よし、こっちの準備はできている。さっきから、君の話は、すべて録音されているのだ。では、はじめたまえ」

 太刀川時夫は、早口に語りはじめた。海面は、すぐ目の下に見える。あと百メートル足らずだ。波は白く泡をかんで、ただ一箇所、例の大海魔がもぐったあたりが、灰色ににごっているだけである。あわてさわぐ客をしり目に、太刀川青年は、海魔について自分の見たところを、できるだけくわしく報告した。そして彼は最後に、共産党太平洋委員長ケレンコと、潜水将校リーロフのことを、つけ加えることを忘れなかった。

「おおケレンコにリーロフか。二人とも○○国には、もったいないほどの優秀な人物だ」

 と、原大佐は思わず、おどろきの声をあげた。

「僕は会ったことがある。二人とも、我々が注意していた人物だ。太平洋上へ落ちたとすれば、たぶん命は助るまいが、けっして油断はならない。太刀川君、飛行艇の寿命はあと数分のようだね。だが早まってくれるな。祖国のため、どんな苦しいことがあっても命を大事にしてくれ。そして、ケレンコとリーロフの消息には、これからも、気をつけていてくれ。その中こっちからも、誰かを……」

 その時、人気のなくなったこの廊下へ、あわただしくかけこんで来た者がある。石少年であった。

「太刀川先生、早く……ほら、もうすぐ海におちる」

「おお、石福海か、ちょ、ちょっと待て」

 しかし石少年は、ぐずぐずしていたら死ぬじゃないかという顔色で、太刀川青年の腕をぐんぐんひっぱる。

「よし、わかった。太刀川君、あとは君の天佑をいのるばかりじゃ」

 事情を察した原大佐の声が聞えた。

 太刀川も、ついにあきらめた。

「では大佐、さようなら。ごきげんよう……」

 とたんに、飛行艇は海面にたたきつけられた。太刀川青年は、はずみをくらってあやうく、頭を天井にぶっつけそうになった。

 出入口におしあっていた乗客たちは、いいようのない叫声をあげて、われがちに外へ出ようと争っている。海水はあけた扉から、どどどーっとながれこんで、みるみるうちに艇内は水びたしになる。

「ああ、だめだ、先生!」

「心配するな、しっかり僕の手につかまっておれ!」

 太刀川青年は、そういって、すばやくステッキの蓋をすると、それを腰にさし、救命具をつけて、一つの窓をたたき破り、石少年とともにするりと艇外へ、くぐりぬけた。がぶりと、大きな波が二人をのみこんだ。



   波とたたかう



 太刀川青年は、石少年の手をとったまま、水をけって、水面へ浮かび出た。

 飛行艇は、その時、背中を半分ほど海面にあらわし、プロペラを夕空に高く、つき出していたが、ずぶずぶと、大きな姿を没して行く。

 艇員や乗客たちが、たがいに呼び合う声が、波の音、風の音にまじって聞える。

「ダン艇長は?」と、あたりを見まわしたが、いくつもの頭が、波のまにまに見えるだけで、誰がどこにいるのかわからなかった。

「ぷーっ」

 石少年が、のんでいた水をふきだした。

 それを見て、

「おお、石福海、おまえは、どのくらい泳げるか」

 太刀川はきいた。

「泳ぎ? 泳ぎなら、百里は、大丈夫ある。わたし生れ香港、五つの時から泳ぎおぼえた」

 石少年は、立泳ぎをしながら、こんなのんきな返事をした。

「なに、百里? あきれた奴じゃ」

 太刀川は、思わず笑って、石少年の顔を見た。

 波はまだ大きい。

 西の水平線に、しずみかかった太陽が、海面を金色にそめているのが、かえってものすごかった。

 クリパー号は、もう波間にのまれてしまって、そのあととおぼしいあたりに、乗客たちの持ち物が、ただよっている。

 耳をすますと、遭難者たちの声が、相変らず、もの悲しく聞えていた。



   おそろしい渦



 波は、いくらか小さくなったようだが、急に黒っぽさをました。

 闇が身近にせまって来ると、石少年は、心細くなったのか、

「先生、わたし一晩中、泳ぎつづけても、大丈夫あるが、夜、何だかこわいよ」

 といいだした。

「だまって、おまえは目がわるくて、二メートル先も、よく見えないのだろう。じゃ、夜だって昼だって同じことじゃないか」

「それ、ちがう、さっきの海魔、わたしの足くわえ、海の底、ひっぱりこむような気がする」

「はっはっはっは……何のことかと思ったら、それか。ところが僕は、あの海魔に、もう一度会いたいと思っているんだよ」

 二人が、波にもまれながらこんな話をしている時であった。又も遠い海鳴のような音が、ごーっと聞えだしたかと思うと、とつぜん、闇の彼方から、

「あっ」

「あれ、あれ」

「きゃっ」

 という悲鳴。

「先生、あの声は?」

「うん、みんなの声だ。いよいよ出たか」

「え、何がです」

「心配するな、何でもないよ」

 そういってる間に、おびえきった声が、右の方からも左の方からも聞えだし、それが、だんだんひろがっていくような気がした。

「あ、先生。わたしの体、ながされる。おお、大きな渦、先生、あぶない」

「なに、渦だ。うーむ。いよいよやってきたか」

 太刀川が、そうつぶやいた時、石少年の体が、まるで船にでものっているように、すーっと、目の前を流れた。

「せ、先生。渦がわたしをひっぱるよ。た、助けて!」

 石少年の細い腕が、高くあがったのを見た。

 しかしそれと同時に、太刀川の体も渦にのって流されはじめた。

「おお、石、しっかりしろ!」

 もう石少年の返事はない。そのうちに、ぴちぴちという生木をさくような、ぶきみな音が、渦のまん中と思われるあたりから聞えだし、彼の体は、くるくるとまわりだした。

「む、無念だ」

 と思った時、急に足が下にひっぱられるような気がした。必死にもがいたが、むだであった。太刀川の体は、いよいよはげしく、まるでこまのように早くまわりだした。

「もう、だめか」

 彼は観念の眼をとじた、瞬間、頭の中をかすめるものがあった。

 原大佐の顔、

 重大使命は?

 海魔は?

 ケレンコ、リーロフは?

 やがて彼の気は、だんだん遠くなっていった。

       ×   ×   ×

 太刀川時夫と石福海を、のみこんだ大きな黒い渦は、ゆらりゆらりと所をかえて行く、その底のあたりに、何か、ぴかりぴかりと光るものがあったが、ごーっという海鳴が一だんと高くなり、あたり一面が、ものすごく波立って来たかと思うと、やがて、まっくろい海面を、つきやぶって、ざざー、ざざーと、泡立てながら、ぬーっと姿をあらわした恐しくでかいものがある。

 大海魔であった。

 夜目にもそれとわかる、あのものすごい大海魔の頭であった。



   ミンミン島の珍客



 太刀川時夫と石福海少年とを一のみにしたものすごい大渦巻は、いつしか海面から消えてなくなった。洋上にただよいつつ、しきりに救いをもとめていたクリパー号の他の艇員や乗客たちの声も、いまはもうどこにもきこえなくなった。

 この人々の運命は、どうなることであろうか?

 太平洋上に、とつぜんかま首をもたげた、世にも奇怪な海魔の謎は、いつ誰がとくであろうか?

 それはしばらくおいて、この物語をミンミン島とよぶ、太平洋上の一つの小さな島の上にうつすことにする。

 ミンミン島は、色のくろい原地人たちが、みんな高い木の上に、まるで鳥の巣のように、家をつくって住んでいる奇妙な島である。酋長ミンチの住居すまいは、大きな九本の椰子やしの木にささえられた大きな家で、遠くからみると、納屋に九本の足が生えているようだった。このミンミン島に住んでいる三百人ほどの原地人たちは、太陽のでている昼の間だけ地面をあるいているが、日が暮れかかると、あわてて木の上の家にのぼってしまう。そして夜の明けるまで、けっして地上におりて来ない。

 このふしぎな風習は、大昔、島が真夜中に大つなみにおそわれて、住民のほとんどが、浪にさらわれて行方不明になったことからおこったと、いいつたえられている。

 今日は、酋長ミンチの家はお客さまがあって、たいへんな賑わいだった。お客さまというのは、このミンミン島の隣の島──といっても、海上五十キロもはなれているロップ島の酋長ロロの一行であった。

 さて、酒盛がいよいよたけなわになったころ、日が暮れてきた。するとミンミン島の原地人たちは、急になんだかそわそわしだした。彼等にとってはおそろしい夜がくるからだ。

 これにひきかえ、ロップ島のお客さまたちは、酋長ロロをはじめますます陽気になってきた。この人たちは、みんなそろって、頭の上から鼻のあたりまで、すぽりとはいる黒い頭巾をかぶっている。目のところには、小さな穴があいていて、そこからのぞいているのであった。

 酋長ミンチが、やがて椰子の葉でこしらえた大きな団扇うちわのようなものを、右手にさしあげて頭の上の方でふると、がらがらというへんな音が、あたりになりひびいた。

 すると次の間から、魚の油をもやしているらしい燭台が三つ四つ、はこび出された。

 とたんに、ミンミン島の人たちは生きかえったような顔色になり、思わずわーっとよろこびの声をあげた。

 ところが酋長ロロをはじめロップ島の人たちは、それがおもしろくないといった様子で、何かがやがやとわめきあっている。

 そのうちに、酋長ロロが、席からすっくと立ちあがって、手にしていた短い手槍みたいなものを左右へぴゅうぴゅうとふった。そして胸をはり、肩をいからせて、

「この島のあるじミンチよ。太陽は海の中へすっかりおちてしまった。いよいよやくそくの時刻になったではないか。さあ、早くその尊いものを出してくれ」

 と、きいきい声でさけんだ。

 すると、このミンミン島の酋長ミンチも、すっくと立ちあがり、これは破鐘われがねのような声で、

「客人よ、お前のいうとおりだ。それでは、いよいよこれからミンミン島の宝であるクイクイの神を、ここへ呼ぶことにするぞ」

 といえば、酋長ロロは息を大きくはずませて、

「うむ、待っていたところだ」

 と、こたえた。

「おう、奥から、クイクイの神をよべ」

 酋長ミンチがこの命令をすると、奥の間から、あやしい返事の声がきこえて、やがて垂幕たれまくをわけ、しずしずとあらわれたのは、裸の上に、椰子の枯葉であんだ縄のようなものを、長くたらした奇怪なクイクイの神であった。



   クイクイの神



「おう、クイクイの神だ!」

「クイクイの神よ。われにつきまとう悪霊をはらいたまえ」

 ミンミン島の原地人たちは、てんでに口のなかでつぶやきながら、クイクイの神にむかって、平つくばって礼をするのだった。

 ロップ島の原地人たちは、目をぱちぱちして、この有様を見まもっている。

 クイクイの神は、ゆったりゆったりと、広間の中へすすんでいった。頭の毛をぼうぼうと生やし、その頬には、まっ黒なひげをもじゃもじゃとのばしている。へんてこな神さまだ。

 それもそのはずで、じつはこのクイクイの神は、日本人なのである。神さまをとらえて、いきなりこれが日本人だといっても、だれもほんとうにしないかもしれないが、この神さまは、その名を、三浦須美吉という日本人なのだ。

 三浦須美吉といえば、あたまのいい読者諸君は、きっとおぼえているであろう。原大佐が太刀川青年に話した、あの太平洋上で、大海魔に出あったという第九平磯丸の若き漁夫三浦スミ吉のことである。

「大海魔アラワレ──アレヨアレヨトオドロクウチ、口ヨリ火ヲフキ、鉄丸ヲトバシ、ワガ船ハクダカレ、全員ハ傷ツキ七分デ沈没シタ。カタキヲタノム」

 この悲壮な遺書を、鉄丸の破片とともに空缶の中に入れ、海中に投げこんだ、そのあわれな遭難漁夫三浦スミ吉が、今ここでクイクイの神となりすまし、ミンミン島とロップ島の原地人の前に、とりすました顔で立っているのだ。

 ちょっと信じられないふしぎな話である。

 ところがその訳はこうなのだ。この三浦須美吉は、遺書を海中に投げこんでから、船は沈んだが、自分は海上にうかび、ちょうどそば近く流れていた船の扉にすがって漂いつづけ、運よくこのミンミン島に流れついたのである。

 それにしても、どうして三浦がクイクイの神となりすまして、原地人たちからそんなにあがめられているのか。

 三浦に言わせると、流れついた島の人の中にあって、自分の命を安全にしておくためには、神さまになるのが、一番かしこいやり方だとおもったからだそうだ。そして、それはきわめて訳のないことだったというのである。

 どうして?

 そのわけは、これからクイクイの神が始めることを、しばらく見ていれば、ひとりでにわかるだろう。

 クイクイの神は、ちょっと気むずかしい顔をして、二人の酋長のまえにすすみ出た。彼はえへんと咳ばらいをしておもむろに腕をくみ、

「こりゃ、願は何事じゃ!」

 と、おぼつかない原地語でいった。

「おう、酋長ロロよ、クイクイの神が願をきかれるぞ、早くおまえのつれてきた病人をここへ出せ」

 酋長ミンチがさいそくすると、

「これ、病人を前へつきだせよ」

 酋長ロロは命令をした。

 ロップ島の原地人たちは、いちどきに立ちあがって、その中に立っていた一人の若い女をかつぎあげて、クイクイの神の立っている前に、まるで土嚢どのうでもなげだすように荒っぽく、どんとおいた。

 女は、悲鳴をあげながら、床の上にうつむけになってころがると、両肩を波のようにうごかして、くるしそうな息をついているのであった。いかにも重病でくるしんでいるらしい。

 クイクイの神になりすましている漁夫三浦須美吉は、その様子をじっと見ていたが、やがて両手でもって、女の顔をぐっと正面にむけた。

 女は、これからクイクイの神に何をされるのかと、あまりのおそろしさに、手足をぶるぶるふるわせている。



   へんてこ医術



 クイクイの神は、一座をずっとみわたし、いよいよ神の力をもってこの女の病気をなおしてみせるぞという合図をした。

 ミンミン島の原地人たちの口からは、クイクイの神をたたえるような言葉がつぶやかれた。

 そこでクイクイの神は、原地人の女の顔を見つめながら、両腕を前にぬっとつきだした。次に両腕を、ぽんぽんとたたいて、なんのかわりもないことをしめした。それから両腕をさかんにふりまわしたり、両手をにぎったりはなしたりしていたが、そのうちに右手の指さきを、かたくにぎった左のてのひらの中にさしいれて、ごそごそやっていたかと思うと、左の掌の中から、赤い紐のようなものをするするとひっぱりだした。

 ミンミン島の人は、それを見ると、

「わあーわあー」

 と、奇妙なこえをあげて、さかんにクイクイの神へむかって、おじぎをはじめた。

 クイクイの神は、さももったいぶった様子で、その赤い紐をぱっと両手でふったと思うと、なんとそれは一枚の風呂敷ぐらいの布ぎれになっていた。

「わあー、わあー」

「ふ、ふ、ふーん」

 ふ、ふ、ふーんの方は、酋長ロロをはじめロップ島原地人のため息であった。クイクイの神の、おそろしい力に、すっかりおどろいてしまったらしい。病気の女も、口をぽかんとあけて、クイクイの神の手に見とれている。

 クイクイの神は、掌の中からとりだした赤い布ぎれを、みんなのまえで見せびらかすようにうちふった。そしてこんどは「やっ」と気合をかけると、赤い布の中から一羽の白い鳥をつかみだした。鳥は、ながいくちばしをひらき、翼をばたばたさせてもがいている。

「わあー、わあー」

「ふ、ふ、ふーん」

 ミンミン島人もロップ島人も、クイクイの神のおそろしい神力を目の前に見て、腹の底からおどろきのこえをあげて床の上にひれふした。

 だが、クイクイの神のやっていることは、そう大してふしぎではない。それはごくありふれた小奇術なのだ。クイクイの神を名のる漁夫の三浦須美吉は、かねて習いおぼえていた手品でもって、これらの人たちをすっかり煙にまいてしまったのである。

 しかし、彼にしてみれば何も手品が見せたくて、好きでやっているのではない。こうして原地人たちをおどろかしておかないと、いつ殺されるかもしれないからだ。彼はこうして神さまの威力を見せておいてから、

「おう、女、前に出てこい──」

 と叫んだ。クイクイの神によばれた病気の女は、催眠術にかかったように、神の足もとへにじりよった。

「いよいよこんどは、お前の病気をなおしてやるぞ。どこが痛むか」

 女は顔をしかめて、胸の下のところを指さした。

「おう、そこか。いまに痛みはとまるぞ。そこに悪霊あくりょうがすんでいるのじゃ。いまわが神力でもって、その悪霊をおい出してやる。こっちをむいて、わしの手を見ているがいい」

 そういってクイクイの神は、右手を女の胸にあてたかとおもうと、「やっ」とさけんで、女のからだからひきはなして、さっと上にあげた。

「ああっ、それは──」

 女はおどろきのこえをあげた。クイクイの神の手には、椰子の葉でつくった小さい人形がにぎられている。

「これがお前を苦しめていた悪霊じゃ。わしが、こうして取出してやったぞ。どうだ、おまえの痛みはとまったろう」

 女はこのクイクイの神の言葉に、はっとして胸をおさえてみた。するとどうだろう、ふしぎにも痛みはけろりとなおっていたではないか。今にも死にそうだった女は、別人のように元気になってすっくと立ちあがり、クイクイの神にお礼をのべて、その場で手足をふりながら踊りだした。

 これをみた原地人たちは、いよいよクイクイの神に、おどろきとおそれの言葉をささげた。

 ひとり腹の中でおかしくてたまらぬのは、クイクイの神さまになりすましている漁夫の三浦だった。彼の手品にすっかりおどろいてしまった女は、ほんとに病気の悪霊を、この神さまがとりのぞいてくれたものと思いこんで、すっかり病気がなおったのである。「つまり精神療法というやつさ」と三浦はとくいで、せい一ぱいしかつめらしくかまえていた。



   売られゆく神さま



「われわれロップ族は、ぜひクイクイの神を買うことにする」

 ロップ島の酋長ロロが、ミンミン島の酋長ミンチの肩をたたいていった。

 酋長ミンチは、それをきくと、ぐっと胸をそらして、

「よし、いよいよ買うか。では、そのかわり、わしがほしいといったものを、こっちへよこすか」

「それは承知した。ちゃんと持ってきてある。これこのとおりだ」

 酋長ロロがとりだしたのは、なんと一枚のやぶれたシャツだった。

「おう、それだ。わしがほしくてたまらない物は!」

 酋長ミンチは、破れシャツをひったくった。

「おう、これこれ、すばらしい宝物だ」

 ミンチは破れシャツをなでまわして、よだれをこぼさんばかりの喜びようだ。

「では、こっちは、クイクイの神をもらってゆくぞ」

「たしかに、とりかえた」

 破れシャツ一枚とクイクイの神との取りかえっこだ。

 クイクイの神は、これをきいてがっかりした。自分の体が、破れシャツ一枚にかえられるとは、なんというなさけないことだと思った。

 ロップ島の原地人たちは、クイクイの神を手に入れて大喜びである。これでこそ、はるばる遠い波の上をここまでやってきたかいがあったと、たがいに顔を見合わせ、きいきいごえを出してうれしがっている。

 それからすぐに、クイクイの神こと三浦須美吉は、ロップ島の原地人にまもられて、酋長ミンチの椰子の木の家からくらい地上におりた。

 ミンミン島の原地人は、だれ一人、三浦をおくってこない。彼等には、夜の地上はこの上もなくこわいからだ。

 ロップ島の原地人は、クイクイの神を手に入れて、まるで凱旋でもするような賑やかさだ。あの死ぬくるしみをしていた女までが、先にたってさわいでいる。

 海岸には、丸木舟が五隻ほど待っていた。

 三浦クイクイの神は、もうこうなってから逃げようとしても、とてもだめだとわかっているので、おとなしく丸木舟にのりこんだ。

 やがて丸木舟は、かいの音もいさましく、まっくらな海の上を走りだした。

 磁石もなにももたぬ原地人たちは、星を目あてに、えいえいとこえをそろえて漕ぎゆくのだった。舟は、矢のように走る。夜の明けないうちに、五十キロも先のロップ島へかえりつかねばならないのだ。

 三浦須美吉は、酋長ロロが舵をとる丸木舟の舳にしゃがんでいたが、目が闇になれてきたとき、原地人たちはいつの間にか、ミンミン島で鼻までたれてかむっていた頭巾をぬいでいるのがわかった。

 ロップ島の原地人たちは、太陽の光をおそれて、昼間はその深い頭巾をかぶり、夜が来てあたりがくらくなると、それをぬぐ習慣だということを後で知った。

 さいわいに海は畳のように平らかで、三浦須美吉は大して疲れもしなかった。もう三十キロも来たであろう。時刻もそろそろ夜中の十二時ちかくになるとおもわれる。

「がんばって漕げよ、若い者たち、もうあと半分もないぞ」

 酋長ロロは、こえをはりあげて、はげました。原地人たちは、きいきいごえをあげて、酋長の命令にこたえた。

 その奇声をじっときいている三浦須美吉は、ふだんののんきな性質もどこへやら、たえられないほどさびしい心になった。

(ああ、おれは今、二十四の青年だが、いったいいつになったら、救いだされて、あのなつかしい日本へかえれるだろうか)

 そう思うと胸がせまって、ほろほろと頬の上にあつい涙がながれた。

 その時だった。

 酋長が、何かするどいこえで叫んだ。

 原地人たちは、酋長の叫びをきくと同時に、ぴたり櫂をこぐ手をとめてしまった。そして、き、き、きと妙な声をあげ、あわてて例の頭巾を頭からすっぽりかぶった。

(どうしたのだろう?)

 三浦は、ふしぎにおもって、首をぐるぐるまわした。すると、はるか後の方に、ぴかぴかとへんに光っている物があるではないか。

「おや、あれはなんだ」

 よく目をすえて見ると、くらい海の一てんから、青白い長い光がすーっと出て、横にうごいている。

「探照灯みたいだが──」

 と思っていると、こんどは別のところから、ものすごい火柱が二本も立ちあがって、それからまっ赤な火の玉が、ぽろぽろと海面へおちはじめた。

 やがて、そのどろどろと宙にもえていた火柱の色が、急に赤みがかってきた。それと同時に、火柱のたっている近くの海が、急にぼーっと明るくなった。

 海が光りはじめたのだ。海の上だけではない、海面の下までが、電灯でもつけたかのように光っている。

 原地人たちは、もう櫂をこぐどころか、ただ口々に神への祈りをくりかえしている。

 そのとき酋長がふるえごえで、三浦によびかけた。

「おう、クイクイの神よ、われわれロップ島の人民を、おそれの谷にたたきこむのは、あの魔物であるぞ。クイクイの神の力によって魔物のあの光る息をおさえつけてもらいたい。そうすれば、われらは、クイクイの神にどんな宝物でもさしあげるだろう。た、たすけたまえ」

 三浦は、あああれこそいつぞやの大海魔にちがいないと思った。海魔というが探照灯や信号弾のようなものを放っている様子を見ると、動物ではない。何か恐るべき科学の力によって仕組まれているものとにらんだ。では、大潜水艦みたいなものか、いやそれにしても、大きさからいって潜水艦どころのさわぎではない。

 三浦は、酋長ロロにたのまれた以上、ここでなんとかしてクイクイの神の力をあらわさなければならないのだ。そこで彼は、あやしい光にむかって大きなこえで、呪文をとなえだした。もしそれを日本人がきいたら、腹をかかえて笑いころげたろう。磯節の文句を調子はずれにどなっていたのだったから。

 すると、まもなく海上を照らしていた火がぱっと消え、ついで海中の光もなくなって、ふたたび闇の世界にかえった。

 丸木舟の上の人たちは、これこそクイクイの神の力できえたものと思い、よろこびの奇声をあげて、クイクイの神をたたえるのであった。

「そら、こげ、今のうちだ!」

 酋長の号令に、丸木舟は、またもや矢のように海上をはしりだした。

 そして東の空がうっすりと白みはじめたころ、ようやくロップ島の岸につくことが出来た。

 ロップ島! この島から、海魔があばれている海魔灘まで、わずかに十キロあまりしかないのである。



   太刀川は生きていた



 さて話は元にもどって、海魔灘の渦巻にまきこまれて、海上から姿をけしさった太刀川時夫は、どうしたことであろうか。また、潮に流されながら時夫にたすけをもとめていた石福海少年は、どうなったことであろうか。

 がんがんがんがん。がんがんがんがん。

 鉄をたたいているような物音である。

「あ、やかましい。耳がいたいじゃないか」

 太刀川時夫は、夢心地でつぶやいた。

 ぽとり、と、つめたいものが、時夫の襟もとにおちて、せなかの方にまわった。

「ああ──」

 そこで、太刀川時夫は、やっと気がついた。

「はて、ここはいったいどこだろう」

 あたりをずっと見まわした。

 そこは、コンクリートでかためた四角な空井戸の中のようなところだった。壁はびしょびしょに水でぬれている。ふしぎなのは、時夫のいる床だった。あらい鉄格子でできている。がんがんがんというものすごい音は、鉄格子の下からきこえてくるのだった。

 電灯らしいものもないのに、この室内は鉄格子の下からぽーっと青白い光がさしていて、物の形がわかる。よく見ると、壁にその青白い光の横縞がいくつもあり、天じょうの方までつづいていた。後になってわかったのだが、この光は深い海にすむ夜光虫をよせあつめた冷光灯であった。

 太刀川時夫は、この気味わるい光のなかに立って、手足に力を入れてみた。たしかに力がはいる。しかしそれでいて、自分は生きているのか死んでいるのか、どうもはっきりしないのであった。そこでしきりに記憶をよびおこした。

(──おそろしい大渦巻にすいこまれて──そうだ、石福海が、その前にたすけをもとめていたが──自分はあのまままっくらな海中にひきずりこまれて、息がつまりそうになったが、──それから、なんだか竜宮のように、美しい室を見たようにおもったが──そのうち体がくるくるとまわりだして、なにもかも見えなくなってしまった。それから……)

 それから、さあそれから──それから後はわからないのだ。

「僕は、生きてはいるのだ!」

 時夫は、両の腕を、こつこつとたたきあわせて見ると痛い。たしかに生きている。

「生きてはいるが、ここはどこだろうか」

 まるで牢獄みたいな奇怪な室だった。

 潜水艦の中かしらん?

 こんな大きな室をもった潜水艦はない。では、どこか島の地下室であろうか、それともいわやの底であろうか。

 がんがんがんがん。がんがんがんがん。

 またものすごい物音が、足もとの鉄格子の間からきこえてきた。

「ふむ、あれはどうしても、なにか大きな機械を使っている音らしい。そうしてみると、これは………」

 太刀川時夫は、はっと気がついて、自分のびしょぬれの服をしらべてみた。そしてなにを思ったのか、うんと一つ大きくうなづくと、体をひるがえして、室のすみにとんでいって、そこへ腹ばいになりながら、鉄格子の間から、下をのぞきこんだのである。

 彼は、その鉄格子の下に、いったいどんなものを見たであろうか。



   ぽっかりと窓があいて



 それは大きなエンジン室らしく、はるか下の方に甲虫の化物みたいなエンジンの一部分らしいものが見える。

 がんがんがんがんという音は、ここから聞えて来るのだ。

(一たい、どこだろう?)

 太刀川はずきずきいたむ頭の中で、もう一度考えてみた。

(大渦巻にまきこまれて、水中にひっぱりこまれたことは、たしかだが、それから……)

 それからが、どうしても分からない。

 夢でないことは、自分の服がびしょびしょにぬれていることでもわかる。この室内もどことなく潮の香くさく、しめっぽい。

「海に近い場所かな」

 と思ったが、瞬間、ある考えが、頭をかすめた。

「ひょっとすると、海底にある建物ではあるまいか。いや、まさか、そんな馬鹿なことが……」

 自分の考えを自分で、うち消すようにつぶやいた時である。

「おい、小僧。目がさめたか」

 とつぜん声がした。妙ななまりのあるロシア語だった。

「えっ、──」

 太刀川は、声のする方をふりかえってみた。

 おどろいたことに、冷光灯かがやく壁のところに、ぽっかりと四角な窓が開き、その中から一つの赤い顔が、こっちをのぞいて、あざ笑っているのであった。

 その顔は、鼻の形、額の恰好からいって、たしかにユダヤ人だ。

「うふふふふ。やっと、気がついたようだね。だが、不景気面をしているところをみると、まだ夢でもみているのかね。おい、日本蛙、ここをどこだと思う。海の底だよ。海の底も底、太平洋の底だよ。ある仕掛で渦を起し、貴様をすいこんで、ここへ運んできたのは、貴様にちょっとばかり用があったからだよ。うっふふふ、そうおどろかんでもよい。ちょっと待て、もっとよいところへ案内してやるからな……」

 その言葉が終るか終らないうちに、ジーというベルの音がしたかと思うと、太刀川の立っていた鉄格子の一方のはしが、がたんと外れて下におちた。

「あっ」

 といったが、おそかった。太刀川の体は中心をうしない、鉄格子の上をすーっとすべり、そしてその下にあいた口から、まっさかさまに落ちて行った。



   自分の名を知る覆面の男



 肩先を、ぽんと、けられたいたみに、太刀川は、はっと、我にかえってあたりを見まわすと、そこには、例の男が立っていた。

「ふっふふふ、だいぶ、おやすみのようだったね。あれぽっちのことで、目をまわすとは、案外、意気地のない奴だ」

 あくまで、にくにくしげにいう。

 そこは、何の飾もない物置小屋のようなところだった。

 太刀川は、鉄格子から落ちると、途中で網で受けとめられたような気がしたが、そのまま気を失ってしまった。その間に、この部屋に運びこまれたものらしい。

 あれから、どのくらいたったものか、とにかく相当時間がたっていることは、着ている服が、かわきかけていることでもわかる。

「おい、何をぼやぼやしている。早く立て、委員長閣下のお呼びだ」

「何、委員長?」

 太刀川は、そうつぶやきながら、いたむ体をやっと起して、たちあがろうとした時、

「おおそうだ。早くしろ」

 そういう声と共に、ユダヤ人の右足が、まるで犬ころでもけるように、太刀川の肩先へ、シュッと伸びてきた。

 とたんに、太刀川は、かるくかわした。そしてその足をぐいと引いたからたまらぬ。かの大男は、後向けに、どうとたおれた。

 さあ、ことだ。こんどはほんとに怒って、

「やったな。日本小僧」

 叫びながら両手をひろげて、鷲づかみにしようと、おそいかかって来たのだ。

 太刀川も覚悟はきまっていた。

 どうせ死地にあるのだ。はずかしめをうけるより、日本人らしくたたかって、死のう。

「来い」

「おう」

 大男が、えるような声をあげて、さっととびかかろうとした時である。

「何をする。カバノフ」

 後から鋭く呼びとめた者があった。

「お前に、そんなまねをしろと、誰が命じた。委員長は先程から、待ちきっていられるぞ」

 するとかのカバノフと呼ばれた大男は、

「あ、ああ……」

 わけのわからぬ叫声さけびごえをあげて、手をふり上げたまま、後じさりながら目を白黒。それをみて、

「はははは……そのざまは何だ。いくら貴様が力自慢でも、貴様の手におえる相手ではない。早くひけ」

 見ると、部屋のすみの入口に、覆面、黒の法服のようなものをまとった大男が、銃剣を持った水兵を従えて、じっと、こちらを見つめているのである。

「太刀川君、どうぞ、こちらへ」

「おや」その声のどこかに、聞きおぼえがあるような気がしたが、どうしても思い出せない。

 太平洋の底に、自分を知るものがいる?

 太刀川は、しばらくは茫然と立ちすくんで声も出なかった。



   おお恐るべき海底要塞



 ガーンガーンガーン、エンジンらしい音。

 ゴーゴーガタガタ、工事らしい音。

 そんな音がすぐ近くに聞える。要所要所に、銃剣を持った水兵が立っている。

 太刀川は、みちびかれるままに、長い廊下をいくつかまがって、とある大きな部屋へ通された。

 そこは、まるで法廷のような感じのいかめしい部屋であった。大きな長方形のテーブルをかこんで、覆面黒服の男が十人ばかり、そのまん中に、首領らしい男が、どっかり腰をおろしている。

 すでに覚悟のできている太刀川は、臆する色もなく、一同をじろりとにらめわたしながら、悠然とつったっている。かの首領らしい男は、始めて口を開いた。

「ははは……、太刀川君、何もそんなこわい顔をしなくてもよろしい。実は君に、折入って相談したいことがあって来てもらったのだが……」

 その声を聞くと、太刀川はぎくっとした。

 おう! 聞きおぼえのあるその声、まさかと思ったが、……

 太刀川は、目をかがやかしながら、

「そういうあなたは、共産党太平洋委員長、ケレンコ」

 暴風雨の太平洋上にとびおりたあのケレンコだ。

「いかにもお察しの如く……」

 首領は覆面をとった。まぎれもなく、あの赤ら顔、あの大髭、あの鷲鼻、まさにケレンコである。

「太刀川君。そう驚くには及ばない。今君の案内をつとめたのが、おなじみの潜水将校リーロフなのだ。クリパー号の中では、君にうまくやられた形だったが、そのまま、まいってしまう我輩ではないのだ。クリパー号の進路には、われ等の快速潜水艦が、ちゃんと配置されていたのだ。我輩もリーロフも、落下傘で降りると、着水と同時に、それに救助された。リーロフかい。彼はなるほどクリパー号から、まっさかさまに落ちた。が、途中から洋服下にしのばせた小型落下傘を用いて、これも無事に着水したのだ」

 太刀川は、彼等の抜目のないのに、唯あきれるばかりであった。

「よろしい。君等の宣伝はその位にして、用件というのを承ろうじゃないか」

「ははは……太刀川君。まず腰を下したまえ、君がいかに強くても、もはや我々のとりこだ。生かすも、殺すも我々の意のままだ」

 ケレンコは言葉こそていねいだが、悪魔のような笑をもらしながら言った。

「だがとりこでも、君は大事なとりこだ。われわれは、われわれの目的のために、君をわざわざここまでつれて来たといってもよいのだ。君が、原大佐の頼みで、南洋にむかったと、スパイからの知らせによって知ったとき、一時はこれは困ったことになったと思った。だが、われわれはやがて、君をとらえて、君のすぐれた頭と、君の海洋学の知識を、われわれの目的のために逆に利用することを思いついたのだ。いや、君の頭と、君の海洋学は、絶対に必要なことがわかったのだ。

 われわれは日本をのっ取るために、おどろくべき熱心さで、長い間共産主義の思想をふきこんで来た。が、無駄であった。君等のいう日本精神は、びくともせず、この方法によるわれわれの計画は、完全に失敗してしまった。やはり、武力戦よりほかはない。しかし、日本には、世界無比の強大な陸海軍がある。通り一ぺんの軍備では、到底望をとげることは出来ない。そのことを十分知りつくしているわれわれが、ひそかにもくろんだものは何か。太刀川君。賢明なる君は、すでに承知しているであろうが、われ等がほこるべき海底要塞だ」

(うーむ)

 太刀川は心に叫んで、唾をのんだ。

「それなら、海底要塞とはいかなるものか。それは、君が我輩の申し出を聞いてくれる前に、説明することはできない。けれども、ここ数箇月間、世界中の新聞が、さわぎたてている太平洋上の海魔、即ち、君等が昨日とくと御覧ずみの怪物は、この海底要塞のほんの一部にすぎない。それはのびちぢみが出来て、潜望鏡の役目もすれば灯台の役目もする。しかもその先は、恐しい新兵器で武装されている。賢明なる君には、説明するまでもないことだが、これでみても、海底要塞が、いかに大がかりのすばらしいものであるかがわかるだろう。しかし、わが海底要塞はなお数箇所工事中である。そこに、君の智慧を借りたいところがあるのだ。また、わが海底要塞が、いよいよ日本攻略の行動を起したとき、日本近海の海底の状態、潮流の工合、港湾の深浅等、君のすばらしい海洋学の力を借りたいところがいたるところにあるのだ。どうだ太刀川君、報酬はのぞみ次第だ。一つここで、うんと働いてみる気はないかね」

 悪がしこいケレンコは、さすがに大ものらしく、事もなげにいってのけるのであった。

 すると、それまでじっと聞いていた太刀川青年は、いきなり笑い出したのである。

「ケレンコ君、いろいろ面白い話をありがとう。いや君の親切には感謝する。君はだいぶものしりだと聞いていたが、実は案外のようだね。君は日本人がどんな国民であるか、てんで知っていないじゃないか。日本人は、国のためなら命も喜んですてる。その日本人に、金で国を売るようなことをさせようたってそりゃむだだよ。ケレンコ君。折角だがおことわりだ」

 それを聞くと、さすがのケレンコも、眉をぴくりとうごかして顔をこわばらせた。この青二才めがと、思ったのであろう。が、もちろんそんな気持をそのまま言葉の上にあらわすようななまやさしい彼ではない。

「ははは……太刀川君、ずいぶん君は、かたいことをいう人だね。いやしかし、それでこそ日本人だ。われわれがこの重大な秘密をぶちあけて、君の助を借りようとするのも、それなればこそだ。だが、太刀川君、もう一度よく考えてみたまえ。われわれが許さないかぎり、君がいかに勇敢でも、この海底要塞からは、ぬけだすことは出来ないのだよ。しかも、われわれと同じ目的のために、一しょに働いてくれさえすれば、莫大なお礼が、君のものになるのだ。ね、太刀川君。こんなわかりやすい道理を、わきまえぬ君でもないであろう」

 だが、太刀川は、

「ふん」とせせら笑って、

「いや、よくわかった。だが、ケレンコ君、重ねていうだけ無駄だ。僕は君の申し出にどうしても従うことは出来ない。そのため、君が、僕の命がほしいというなら、勝手にうばいたまえ。僕には、僕の覚悟があるのだ」

 断乎としていいはなった。

 すると、今までいておだやかによそおっていたケレンコは、いよいよ仮面をぬいで来た。

「そうか」

 あきらめたようにつぶやくと、顔色がにわかにけわしくなった。怒をふくんだ目が、太刀川をじーっと見つめた。

「よい度胸じゃ」

 皮肉な口もとに、うすきみ悪い笑をうかべながら、

「それじゃ、可哀そうだが、君ののぞみ通り、命をもらおうか」

 目で合図をすると、左右にいながれた部下たちは、無言のまますーと立ち上った。と同時に、黒服の下からニューッとつき出された十挺の拳銃、その拳銃が一せいに太刀川の胸をねらって、ぴたりと、とまったのである。

 室内にみなぎるすさまじい殺気。

 ああ、快男児太刀川時夫も、ついに最期さいごの時が来たのか。

 もとより国にささげた体なら、すてる命は惜しくない。だが、太平洋の底には、日本をねらう恐るべき海底要塞が、夜を日についで建造をいそいでいるのだ。自分が死んだらその秘密は誰が祖国に知らすのだ。

 一秒、二秒、三秒……

 息づまるような無気味な瞬間だった。

 ぶぶう──、ぶぶう──

 突然、耳をつんざくけたたましい非常警報のサイレンが鳴り出したのである。

「あ」

 扉のそばに立っていたリーロフが叫んだ。

 つづいて何やらわめき合う人声、どたどたどたどた混雑する足音が、廊下の方から聞え出した。

 ケレンコは、さっと立ちあがって、

「おい、リーロフ、君は、太刀川をこの部屋に閉じこめて見張をつけておけ、わが輩は、司令室に行く、手配がすんだら君も後からすぐにやって来い」

 そういいすてて、ケレンコは、とぶようにして部屋を出て行った。

 一たい何事が起ったのか。



   海底司令室



 ぶぶうー、ぶぶうー。

 妙に心をかきみだすようなサイレンの音だった。

 ケレンコは、あわただしく司令室にかけこんだ。覆面、黒服をとると、海底要塞司令官の軍服姿だ。

 司令室は見るからにいかめしい部屋で海底要塞のありとあらゆる械械をうごかす仕掛が、あつまっていた。その仕掛はすりばち山みたいに、うずたかくつみ上げられていた。そのまわりを、階段が下からぐるぐるとまわって頂上にとどいている。それぞれの仕掛の前には、当番の将兵がとりついて、ハンドルをにぎりしめ計器の針をみているが、すこぶるおちつかない様子だ。

 そこへケレンコがとびこんできたのだ。彼は機械の山の階段を、するするとよじのぼり、頂上にすっくと立ちあがった。そこが彼のためにつくられた司令席だった。

「おお、ケレンコ閣下だ!」

 当番の将兵は、すくわれたように叫んだ。それを、さげすむように聞いて、

「腰ぬけどもが、洋上に軍艦があらわれたぐらいで、なんというとりみだし方だ」

 ケレンコは、仁王様のような顔つきで、はらだたしげにどなった。

「でも、委員長、すばらしく、はやい大型駆逐艦隊ですぞ。しかもわが要塞へ向けて、一直線で近づいてくるのですからね」

 そういったのは、ケレンコのすぐ下の席にいる副司令のガルスキーだった。彼のあごも、ぶるぶるとふるえている。

「君までがそんなことで、どうするのだ、戦艦陸奥が来ようと、航空母艦のサラトガが来ようと、わが海底要塞の威力の前には一たまりもないはずだ」

 といいながら、ケレンコは動物園の猿のように、鉄柵をにぎってゆすぶった。が、ふと前の壁をみて急に気がついたらしく、

「なあんだ、ガルスキー、まだ、潜望テレビジョンがつけてないじゃないか」

「いや、閣下がおいでになってから、うつしだそうと思っていたのです。では、ただ今」

 ガルスキーが、あわてながら、スイッチをひねる。と、前の壁に、映画のようなものがうつりだした。よくみると、波のあらい海上を二隻の艦影がまっしぐらに走っている。これこそ潜望テレビジョンで海上の有様をうつしたものだった。

 二隻の艦は、いずれもこちらに近づいているらしく、艦影はぐんぐん大きくなってくるのであった、ケレンコは、待ちきれないらしく、やがて、あらあらしい声で、

「おい、もっと大きく出してみろ。どこの軍艦だか、これではさっぱりわからないじゃないか」

 ガルスキーは、いわれるままに倍率をあげるハンドルをくるくるとまわした。

 艦影は、みるみる大きくなって、やがてスクリーン一ぱいにひきのばされた。

「あ、先頭のはアメリカの駆逐艦。そして後のは、イギリスの商船じゃないか。ははあ、わかった。サウス・クリパー艇の変事をききつけて、やってきたものにちがいない。それにしても、いやに正確に、わが海底要塞を目ざしているではないか。これはゆだんがならない」

 委員長ケレンコの眉がぴくりとうごいた。

 司令室内の彼の部下は、いいあわせたようにケレンコをみつめている。

 その時、入口から、影のように一人の水兵がはいりこんできたのを誰も気がつかなかった。



   洋上の一大惨劇



 ケレンコは、スクリーンのうえにうつる二隻の艦影をじっとにらみつけていたが、なにごとか決心がついたものとみえ、副司令ガルスキーの方へ顔を向け、

「おい、ガルスキー。怪力線砲の射撃用意!」

「え、怪力線砲の射撃? あれを二隻ともやってしまうのですか」

 副司令は、顔色をかえて、ききかえした。

「なにをいっている。君は、わしの命令どおりにやればよいのだ」

「ですが、委員長。アメリカの駆逐艦はともかく、後のは、わが同盟国のイギリスの商船ですよ。それを撃沈する法はないと思います」

 副司令は、いつに似合わず、はっきりといった。

「だまれ!」ケレンコは怒った。

「軍艦であろうと同盟国の船であろうと、わが海底要塞をうかがおうとするものに対しては、容赦はないのだ。つまらぬ同情をして、せっかくこれまで莫大な費用と苦心をはらってつくったこの海底要塞のことがばれようものなら、日本攻略という我々の重大使命はどうなるのだ。なんでもかまわん、やってしまえ」

「ケレンコ委員長。さしでがましいですが、イギリスの商船のことは、もう一度考えなおしてくださらないですか」

 副司令の顔には、なぜか必死の色が浮かんでいた。

「くどい。太平洋委員長兼海底要塞司令官たるわしの命令を、君は三度もこばんだね。よろしい、おい、ガルスキー。司令官の名において、今日、ただ今かぎり、副司令の職を免ずる。直ちに自室へ引取って、追って沙汰のあるまで待て」

「え、副司令を免ずる。そ、それはあまりです。もし、ケレンコ閣下、それだけは」

「くどい。おいそこの衛兵。ガルスキーを向こうへつれてゆけ。そしてリーロフを呼べ」

 ガルスキーは、とうとう腕力のつよい衛兵のために、むりやりにつれ去られた。

 潜水将校リーロフは、どうしたのか、なかなかやってこない。

「あいつは、なにをぐずぐずしているのだろう。

 太刀川をあの部屋にとじこめ見張をつけて、すぐ来るようにいっておいたのに、ばかに手間どるではないか」

 ケレンコは、じりじりしだした。その時、

「委員長、駆逐艦が針路をかえました」

 副司令にかわって、哨戒兵が叫んだ。

「なに、針路をかえた。おい、テレビジョンをまわせ。駆逐艦のすすむ方向へだ」

 そういっているうちに、例の駆逐艦は、大きな円をえがいてぐるぐるまわりだした。それはちょうど海底要塞のまわりなのだ。

「あ、駆逐艦のやつ、なにかこっちの様子に感づいたな。もう一刻も猶予ならん。怪力線砲、射撃用意。目標の第一は、アンテナだ。第二の目標は、吃水線だ」

 ケレンコは、断乎としていいはなった。

「射撃用意よろしい」

 怪力線砲分隊よりの報告。高声電話の声だ。

「よし、撃て!」

 ついにおそるべき号令が発せられた。

 怪力線砲発射のすさまじい模様は、潜望テレビジョンで目の前のスクリーンに、ありありとうつし出されて行くのである。

 駆逐艦と商船との姿が何かをさがすように海面をくるくるまわっていたが、ケレンコの号令が下ったその刹那せつな、海魔の形をした例の屈曲式の砲塔が海面をつきやぶってむくむくとおどりあがった。とたんに、その先のはしからぱっとあやしい光が出た。その光が、駆逐艦のマストにふりかかると、アンテナはぱちぱちと火花をはなって、甲板上に焼けおちる。

 その後につづく商船のアンテナも、全く同じ運命におちいった。

 甲板上に人影が、ありありと見えたが、彼等は、この怪物のだしぬけの出現に、どうしてよいのかわからず、ただうろうろするばかりだった。

 アンテナをやききった怪力線は、こんどは目標をかえて、駆逐艦の吃水部をねらった。

 ぴちぴちぱっぱっと、目もくらむような焔が、駆逐艦の腹からもえあがった。と見る間もなく、海水はにわかにあわだちはじめた。艦腹に穴があいて、そこから海水がはいりこんでゆくのだろう。艦体はがくりとかたむいた。

 どどーん。がーん。

 はげしい爆発が起った。艦内から、ものすごい焔と煙がとびだして、艦全体を包んでしまった。やがてその間から、舳を上にしてずぶずぶと沈んでゆく悲壮な光景が見られた。さっきから怪力線砲が、しきりに甲板の上をなめるようにしていたが、ついに弾薬庫を焼きぬいて大爆発を起したためだった。

「うむ、うまくいった。駆逐艦であろうが、なんであろうが、怪力線にかかっちゃ、まるでおもちゃの軍艦も同様じゃないか」

 ケレンコは、腹をゆすぶって笑った。



   リーロフの行方



 つぎのイギリス商船が、ほとんど一瞬のうちに、波間に姿を消したことは、改めていうまでもないであろう。

 しかも、怪力線砲は、しつこくも、波間にただよう人たちまでなめまわしたのである。全世界にのろいをなげる共産党員は、こうしたことを平気でやっているのだ。

「射撃中止!」

 と号令をかけて、司令席上のケレンコ委員長は、なにがおかしいのか、からからと笑いつづける。

 だが、ケレンコはその笑を、ふととめた。そしてむずかしい顔になった。

「あ、リーロフ。あいつは一体どうしたのだろう。さっきからずいぶんになるが、まだ姿を見せないじゃないか」

 自分の片腕とたのむリーロフのことが心配になったのである。

「おい誰か、会議室へ行って、リーロフの様子を見てこい」

 ケレンコはどなったが、すぐそのあとで、

「いや、やっぱりわしが行こう。そこにいる衛兵五名も、手のすいている者もみんなついてこい」

 といって、ケレンコはすたすたと司令席を下り、出口から出ていった。その後から、十人ばかりの部下がしたがった。

 会議室の前には、一人の水兵が銃をかかえてあっちへいったりこっちへきたり、番をしていた。

 ケレンコは、番兵にいった。

「おい、リーロフはどうした」

「私は少しも知りません」

 番兵は、あわてて捧銃ささげつつの敬礼をしながら、こたえた。

「ふーむ、おかしいな」

 と小首をかしげたが、考えなおして会議室のドアを指さし、

「どうだ、この中の先生は、その後おとなしくしているか」

「はい、はじめはたいへん静かでしたが、さっきからごとごとあばれまわっています」

 その時、扉の内側になにか大きなものをぶっつけたらしいはげしい音がした。

「ほう、やっとるな」といったが、ケレンコの眉がぴくりとうごいた。

「おい、へんじゃないか。中には誰と誰とが入っているのか」

「さあ、誰と誰とが入っているのか、私は知りません。さっきこの部屋の前を私が通りかかると、中から一等水兵がでてきて、(急に胸がわるくなったから、向こうへいってくる。その間、お前ちょっと代りにここの番をしていてくれ)といって、いってしまったんです。それから私が立っているんですが、どうしたのか、まだ帰ってきません」

「それはおかしい。一等水兵は誰か」

「はき気があるとかいって、顔を手でおさえていたので、よくは見えませんでした。小柄の人でしたが……」

「いよいよ腑におちない話だ。よし、扉をあけてみろ。おい、みんな射撃のかまえ。中からとびだして反抗すれば、かまわず射て」

 扉には、鍵がつきこんだままになっていた。それをまわすと、錠はがちゃりとはずれた。

 扉は開かれた。

 とたんに、どたんところがりでた男! それを見てケレンコは、あっとおどろいた。

「おお、リーロフじゃないか。おいリーロフ、これは一体どうしたんだ」

 だがリーロフはくるしそうにうめきながら、床のうえをころげまるばかりだった。それも道理、リーロフは、誰にやられたのか、猿ぐつわをかまされ、そしてうしろ手にしばられ、両足もぐるぐるまきにされている。

「どうしたのか、これは……」

 とケレンコがおどろいてもう一度そういった時、室内からもう一人の男がよろめき出た。この男もリーロフ同様、しばられているが、はだか同様の姿だ。見れば、それはイワンという一等水兵だった。

 相つづく怪事にさすがのケレンコも目をみはるばかりであった。

「イワン、どうした。太刀川はどこにいるのか。──おい、みんな、早くこの二人の綱をといてやれ」

 綱だと思ったのは、電灯の線だった。

 大男のリーロフは、猿ぐつわを靴の下にふみにじって、くやしそうに歯がみをした。

「委員長。あの太刀川めに、またやられました。あっという間に、私たち二人は投げとばされ、腰骨をいやというほどぶっつけたと思ったら、あのとおりひっくくられてしまいました。そして彼は、イワンの服をはいで着かえると、この入口から外へでていってしまいました。さあ、早く手配をしてください」

 太刀川青年は、水兵服をきて、たくみにこの部屋からのがれたというのだ。なんという豪胆さ、なんという早業!

 ケレンコたちも、「ええっ」といったきり、しばらくは茫然と顔を見合わせるばかりだった。



   見なれない当番水兵



 太刀川時夫逃げ出す!

 ケレンコは、ようやく我にかえると、卓上電話で要所要所に非常線をはらせるように命ずるとともに、ひきつれた十人の部下に、一等水兵イワンをつけて、太刀川の行方をさがさせることにした。

 要所要所をかためてしまえば、いくら逃げまわったところで、要塞外に逃げ出すことは出来ないのだ。

 ケレンコは、もうふだんのおちつきをとりもどしていた。

 潜水将校リーロフは、一さいの手配をおえると、むしゃくしゃしながら自分の部屋へかえった。腰骨のところもいたいが、それよりも、あの小男の太刀川にとっちめられたことが、しゃくにさわってならないのだ。彼はつよい酒をとりよせて、大きなコップでがぶがぶやった。

「うーん、いまいましい日本の小僧だ。こんどつかまえたら、おのれ………!」

 酒壜は見る見る底が見えてきた。

「なんだ。もうおしまいか。たったこれだけじゃ、第一酔いがまわってこないじゃないか、うーい」

 そうはいうものの、顔は、もうトマトのように赤かった。

 そこへ電話のベルがじりじりなりだした。

「ええい、うるさい」

 リーロフは、空の酒壜を逆手さかてにとって、電話器になげつけた。

 壜はがちゃんとわれて、破片が、そこら一面とびちったが、電話のベルはなおもじりじりと、なりつづける。

「ふーん、またケレンコの呼び出しだろう。うるさい大将だて」

 リーロフは、ふらふらと立ち上って、電話器のところへいって、受話器をとりあげた。

「はあ、リーロフです。え、なんですって。さっき沈めたイギリスの商船の中から、こっちで使えそうな貨物をひっぱりだせというのですか。なに、私にその指揮を? ふーん、私はそんなまねはいやでござんすよ」

 リーロフは、もうぐでんぐでんによっていた。受話器をもったまま、かたわらの安楽椅子のうえに、だらしなく尻をおろした。やはり電話の相手は、ケレンコ委員長であった。

「いいえ、ちがいますよ、委員長。私は酒なんぞに酔っていませんよ。第一酔うほどに、酒がないじゃありませんか」

 といっていたが、その時ケレンコからなにをいわれたか、急ににやりと笑顔になって受話器をにぎりなおした。

「え、ガルスキーを免職させて、私を副司令にもってゆく。そりゃほんとうですか。ははあ、そいつはわるくありませんよ。この仕事はじめに、潜水隊員をひきいて、沈没商船のところへゆけというのなら、ゆかないこともありませんね。──なになに、その沈没商船は私のすきなイギリス産のすてきなウイスキーも積んでいるのですか。ほう、そいつは気に入った。それにしても委員長は、人をおだてるのが相かわらずうまいですね。よろしい、新任副司令リーロフ大佐は、これよりすぐ、海底へ突撃いたします、うーい」

 リーロフは、さっきにかわるにこにこのえびす顔で、受話器をがちゃりとかけた。

「はっはっは。まるで幸運が、大洪水のように、流れこんで来たようなものだ。副司令にはなるし、沈没商船のどてっ腹を破ると、ウイスキーの泡がぶくぶくとわいてくるし。いや、ウイスキーに泡はなかったな。どれ、しばらくぶりに、太平洋の海底散歩としゃれるか」

 彼は、このうえない上機嫌で、伝声管を吹いて、潜水隊員に出動の命令をくだした。それからよろめく足をふみしめて、戸棚をひらいた。そこには、奇妙な形をした深海潜水服が三つばかりならんでぶらさがっていた。いずれもケレンコ一味がほこるすこぶる優秀なものであって、これを着ると、上からゴム管で空気を送ってもらう面倒もなく、自由に海底を歩きまわれるものだった。それは大小さまざまのタイヤで人体の形につくったようなものだった。そして頭にかぶる兜みたいなものは、ばかに大きくて、その中に酸素発生器が入っていた。

 リーロフが、その潜水服の一つをひきずりおろして、足を入れている時に、入口から一人の水兵が入ってきた。

「副司令、お手伝をいたしましょう」

「いや、手伝はいらない。この潜水服は、自分ひとりで着られるのが特長だてえことを貴様は忘れたか」

 といって、気がついて水兵の顔をまぶしそうに見つめ、

「はて、貴様の顔はばかにもやもやしているが、貴様は誰か」

「は、昨日着任しました一等水兵マーロンであります。本日ただ今副司令当番となってまいりました」

「なんだ、一等水兵マーロンか。貴様は日本人太刀川のことを知っているか」

「は、名前はきいて知っております」

「そうか、知っとるか。その太刀川は、もうつかまったかどうか、貴様は知らないか」

「私はまだ聞いておりません」

「知らない。知らなければちょっと捜査本部に行って、様子を聞いてこい」

「はい。しらべてきます」

 水兵は、いそぎ足に部屋から出ていった。──と思うと、どうしたわけか、その水兵は、またそっとひきかえしてきて、入口のドアのかげから、リーロフの様子をうかがうのであった。

 あやしいのは水兵マーロンの行動だ。それもそのはず、彼こそ太刀川青年の変装姿だったのだ。

 彼は、会議室で、リーロフ等をとっちめると、大胆にも司令室にしのびこんで、内部の仕掛をつぶさにしらべ、そこを出ると、こんどはリーロフの部屋の近くでリーロフの帰りを待ちかまえていたのだった。



   海底を行く



 そんなこととは気がつかないから、リーロフは、物なれた手つきで、潜水服を着こんだ。それがすむと、大きな潜水兜をとって、自分の頭のうえにのせた。いくつかのねじをしめると、それで潜水の用意はできたのだった。

 リーロフは、奇妙な体をごとんごとんとうごかして、同じ部屋のすみに立っている郵便函を太くしたような円柱のところに歩みよった。円柱は開いた。リーロフは、その中に入った。円柱はもとのようにしまった。しばらくすると、どーんという音がした。

 それっきり、リーロフの姿もあらわれず、物音もしなかった。リーロフは、海中にとびだしたのだ。これを見ると、太刀川は、ドアのかげから姿をあらわした。

「さあ今だ。今でなければ、海底要塞をとびだす時がない」

 彼は、戸棚から、のこる潜水服の一つをおろし、さっきリーロフがやったとおりそれを体につけた。それは思いの外、らくらくと着られた。最後に大きな潜水兜をかぶり、円柱を開いて、その中に入った。

 その円柱の壁には、番号のついたボタンがあった。それを一つずつ押してゆくと、円柱はひとりでに閉じ、やがてしゅうっと圧搾空気の音がしたかと思うと、彼の体はどーんと上にうちあげられた。

 ぐらぐらと目まいがした。気がついてみると、彼はすでに海水の中にあった。いや、海底にごろんと横たわっていたのだ。

「おい、なにをぐずぐずしているのか。はやく向こうへならばなければだめじゃないか」

 腰のあたりをけられたので、彼はしまったと思いながら起きあがった。ふしぎにも、水中で相手のいうことが聞える。超音波を利用した電話が、この潜水兜の中にとりついているらしい。

「おい、はやく行け。おくれると、後でほえ面をかかなければならないぞ。水中焼切器は向こうにある。それをもって、商船の底を焼切るんだ」

 太刀川の前に立って命令をしているのは、何者だか、よくわからなかった。太刀川は、こっちの顔を見られまいとして、顔をあげないので、相手の潜水服の足だけしか見えないのだ。そのうちに、その足は向こうへふわりふわりと動いて、立去った。

(逃げだそうかと思ったが、なかなか見張がきびしいようだ。どうなるか、ともかくも、潜水隊員と一しょに、しばらく仕事をしてみよう)

 太刀川の肚はきまった。

 五十メートルほど向こうの海底に、二十四、五名の潜水隊員が整列していた。いずれも同じような恰好だから、誰が誰だかわからない。

 ここは相当ふかい海底と思われるが、水がほとんど動かないところらしく、海藻が腰の深さに生えしげっている。その上を、鯛の群がゆらゆらと泳いでゆくのが見える。

 海底が、意外に明るいので、あたりを見まわしてみると、どうやら海底要塞の方から、つよい光を出して照らしつけているらしく、体をうごかすと、影が幾重ものあわい縞となってふるえるのであった。太刀川は、めずらしげに、あたりに注意をくばりながら、隊の方へゆったりゆったり歩いていった。

 海底に隊員をならべて、その前で足をふんばったり、手をのばしたりしてしゃべっているのは、たしかに副司令リーロフにちがいなかった。

「いまから二時間のうちに、船底に穴をあけて、積荷をとりだすんだ。おれの命令するもののほか、なにものも取出すことはならんぞ。よいか、わかったな」

 そういって、リーロフは一同をずーっと見まわした。

 その時リーロフのぐにゃぐにゃした体が、急に化石のようにかたくなった。

「おや?」

 彼の口から、おどろきの言葉がとびだした。彼は右手をつとのばすと、太刀川の方を指さして、

「おい、そこにいるのは何者だ。名前をなのれ」

 太刀川は、ぎくんとした。なぜリーロフは自分をうたがったんだろうか。

「当番の一等水兵マーロンであります」

 とっさの返事だった。

「なに、マーロンだって。ふふん、おれをだまそうと思っても、そうはゆくものか」

 というと、隊員の方をふりかえり、

「おい、みんな。あそこにおれの潜水服を着ているあやしい奴をとりおさえろ。胸のところに、これと同じように大佐の縞がついている潜水服を着ている奴だ!」

「しまった!」

 太刀川は、思わず声に出して叫んだ。潜水服のところに、妙な縞模様がついていると思ったが、これは共産党大佐の徽章きしょうであったか。



   太刀川あやうし



 太刀川時夫は、海底にでることができたけれど、彼のきていた潜水服が、リーロフのものだったために、共産党大佐の縞模様がついていた。それをリーロフに見つけられたのである。

 海の底であるから、陸上のようにすばやく、にげだすことはできない。海藻のかげにかくれたとしても、大だこの頭のような潜水兜からは、たえずぶくぶくと空気のあぶくが上にのぼってゆくので、すぐ敵にみつかってしまう。おまけに、リーロフ大佐のひきつれた潜水隊員の中には、水中機関銃などという水の中で、弾がとびだす兵器をもった奴がいるから、これでうたれればおしまいである。

「おい、みんな、そいつをいけどれ。そして潜水兜をぬがして、顔をみてやれ。そうすれば、先生め、きっとおもしろい顔をして、おれたちを喜ばせてくれるだろう。あっはっはっ」

 リーロフは、まだ酒の酔いが、ぬけきらないためか、すこぶるごきげんであった。

 だがこの深い海の底で、潜水兜をぬがされてはたまったものではない。せっかくここまで来たのにと思うと、太刀川の胸は、ざんねんさで、はりさけんばかりだった。

「おとなしくしろ」

「副司令の服なんか着こんで、ふとい奴だ」

 潜水隊員は、口々にわめいて、四方から太刀川におどりかかった。

(よし、来い)

 と、太刀川が決心してたち上ったが、とたんにある考えがひらめいた。「そうだ」とつぶやくと、まるで猫の子のようにおとなしくなって、たちまち、隊員たちにとりおさえられてしまった。

「はははは、見かけによらない弱虫の大佐どのだ」

 隊員たちは、あざけり笑いながら、太刀川の両腕をとって、リーロフの前にひきすえた。

 リーロフは、ますますごきげんであった。

「わっははは、貴様は当番の一等水兵マーロンだといったな。潜水兜をきているのでは、どこのどいつか顔が見えない。顔を見てから、話をつけてやる。おい、みんな、はやくこいつの兜をぬがしてみろ」

 リーロフは、太刀川の潜水兜に自分のをよせて、ごつんごつんと、いじのわるい頭づきをくれた。

 その時、

「ええい!」

 はげしい気合が、太刀川の口をついてでた。

 彼は、この時のくるのを、さっきから待っていたのだ。

「ああ──」

「うむ!」というさけび。

 太刀川は、満身の力を両の腕にこめて、隊員たちにつかまれている腕をふりほどいたのだ。

 それはまったくの不意だったから、隊員たちは力をいれなおすひまもなく、ふりとばされてしまった。そのうえ、ごつーんと、はげしく仲間同士の鉢あわせ。頭がくらくらとした。

 と同時に、

「やったな、こいつ!」

「なにを!」

 という声、はげしいもみあいがはじまっている。それは副司令リーロフと太刀川の一騎うちであった。

 あっと隊員たちが目をみはる前で、二人はビールだるのような胴中をぶっつけあいながら、上になり下になりしているのだ。

「このやろう!」

「このやろう!」

 どちらも、おなじことを、いいあっているので、隊員たちは、しばしあっけにとられながら、この妙なかけあい合戦を見まもっていたが、

「おい、ああしてとりくんでいるが、どっちがリーロフ大佐なのかね」

「いや、おれにも、どっちがどっちか、わからなくて困っているんだ」



   すばらしい知恵



 太刀川青年の作戦計画は、どうやら図にあたったようである。

 彼があやういせとぎわで、思いついたのは、リーロフの潜水服と彼の潜水服とが、まったく同じものであることであった。それを太刀川は、うまく利用してリーロフととっくみあいをはじめ、上になり下になりして、隊員たちの目をごまかしたのである。潜水兜の顔を正面からのぞけばいいようなものだが、そんな失礼なことをすると、あとでどんなお目玉をちょうだいするかわからない。ただ二人の言葉を気をつけてきけばわかりそうなものだが、これも、二人がおなじような言葉をどなりあっている以上、水中できく超音波の電話の音色では、ききわけられないのであった。

「おい、なにをぐずぐずしている。みんな、手をかさないか」

「おい、なにをぐずぐずしている。みんな、手をかさないか」

 隊員たちは困ってしまったが、頭のよい奴が、

「ど、どっちがリーロフ大佐ですか。リーロフ大佐の方が、手をあげてください」

 といった。

 が、どっちの潜水大佐も、いいあわしたように手をあげたので、やっぱりだめだった。

「あ、おれのまねをしやがる。おい、みんな、こいつだ!」

 と、一人の潜水大佐が、相手の胸を指さすと、相手もだまっていず、

「何をいう。おい、お前たちにはこのリーロフの声がわからないのか」

「おや、おれの声をまねるとは、こいつふとい奴だ。おい、みんな、早くこいつを銃で撃ちとれ」

「あ、あぶない。おれはリーロフだ。おれの相手を撃て」

 どうもこれでは、どこまでいっても、どっちが本物のリーロフ大佐だか、わかりっこない。

 潜水服の中にびっしょり冷汗をかきながら、生きた心地もないリーロフ大佐は、今は、酒の酔いもさめてしまって、ふうふういっていた。

 その時とつぜん下腹に、はげしい痛みをおぼえた。

「あ、なにをする!」

 といったが、あとはくるしそうなうめきにかわって、どたりとその場にころがった。海藻がびっくりしたようにゆらゆらとゆれて海底の泥が煙のようにたちのぼっている。──太刀川時夫が、さっきからねらっていた一撃が、リーロフの潜水服のよわい箇所の下腹へはいったのである。

「口ほどもないやつだ。さあ、このにせ当番水兵の手足をゆわえてしまえ」

 太刀川は、リーロフの声をまねして、隊員に命令をくだした。

 隊員は、きゅうに元気づいて、そこにたおれているリーロフのまわりにあつまった。そして腰につけていた綱をはずすと、リーロフの手と手、足と足とを、ぎゅっとゆわえてしまった。

(ふーん、やっぱりリーロフ大佐は強いなあ。たった一撃で、相手をたおしてしまった)

 リーロフの強いことを知っている隊員たちは、これで始めて、どっちが本物のリーロフであるかを知って安心したのだ。まったくのところ、彼らはリーロフ以上に腕力のつよい軍人を知らなかったのだから、そうおもうのもむりではなかった。

 リーロフになりすました太刀川は、もうすっかり肚をきめて、きびきびと号令をかけるのだった。

「ほら、むこうに大きな古錨がある。あのくろい岩のかげだ。あの古錨に、こいつをくくりつけておけ。いまに海坊主のえじきになるだろう!」

 なにかこう、らんぼうな、むごたらしい言葉をつかわないと、感じがでないので、リーロフのまねをするのも、らくではなかった。

「海坊主て、なんですか」

 水兵の一人が、ききかえした。

「海坊主を、貴様たちは、知らないのか」と太刀川はわざと肩をそびやかしたが、考えてみると海坊主なんてものは、日本の話にだけあるおばけらしい。

「海坊主とは、海にいる幽霊のことだ」

「海にいる幽霊、ははあ、吸血鬼のことですか。かねてうちの母から、海中にはおそろしい吸血鬼がすんでいると聞いていましたが、な、なーるほど」

 と、水兵はほんとうにして、にわかにがたがたふるえながら、前後左右を見まわしたのであった。



   リーロフにばけて



「さあ、そいつのしまつができたら、さっきの命令どおりに、はやく商船の中にはいりこんで、積荷をとりだすんだ。はやくやらないと、吸血鬼が、船の中のものを食いにやってくる。それとぶつかってもおれは知らないぞ」

「ちぇ、もう吸血鬼の話は、たくさんですよ」

「文句をいわないで、早く船腹の、こわれたところから入りこむんだ」

「へえ、へえ、──」

 隊員たちは、爆薬や水中ハンマーや綱や機関銃などをかついだまま、海底によこたわっている英国商船の中に、ぞろぞろとはいこんで行った。

 それから間もなく、がたがたいうひびきや、綱をひっぱるらしいえいえいというかけ声などが、聞えだした。

 隊員たちが作業にとりかかったのを、見さだめると、太刀川青年はしばらくその場にたたずみ、高くそびえる海底要塞の様子をうかがったのであった。

 あいにく要塞の側面から発する数十条のつよい照明灯がまぶしく目を射て、こまかいところはわからないが、はるか上の方に、あやしげなりんかくが、はけでかいたようにぼーっとうかびでている。それは海底から、はえあがった古城のようだといったがいいか、それともアルプスの峰々が海底にしずんだといったがいいか、見れば見るほど、ものすごい大じかけのものであった。

 ケレンコは、日本攻略のために、これをきずいたといった。だが日本攻略にあたって、これは一たい、どんなはたらきをするのであろうか。

 海面にとつぜんとびだしては怪力線をはなつあの海魔のことから考えると、この中には、さらにおそろしい攻撃兵器がしまってあるのにちがいない。

(たった一目でもいいから、あの巌壁によじのぼり、ながめおろしたいものだ)

 太刀川がそんなことをつぶやきながら歩きだした時、いじわるく、彼を呼ぶ者があった。

「リーロフ大佐。ちょっとお待ちください」

 ふりかえってみると、沈没商船の中から出た一名の潜水隊員が、ゆらゆらとこっちへ泳ぐようなかっこうでやってくる。

「なんだ、あわてたかっこうをして?」

「積荷をとりだせという御命令でしたが、船の中に、もぐりこんでみると、中は爆発で、めちゃくちゃにこわれております。積荷は、ほとんどだめです。ちょっと御検閲をねがいます」

「ちょっ、じゃ、ウイスキーの箱は、あてはずれか」

 太刀川は、たくみに話のつじつまをあわせながら、隊員について沈没商船の方にむかった。

 中にはいってみると、なるほど船内は二目と見られない。まるでバケツを四方八方から銃でうったようなみじめな姿である。これでみると、この商船も船底にかなりの火薬をつんでいて、それが海底に達したとき爆発したものらしい。ビームはあめのようにまがり、太いパイプがささらのようにさけている。

 隊員はと見れば、なにか缶詰や酒壜のようなものをおもいおもいにぶらさげて、鉄板のやぶれ穴からやぶれ穴へ、かにのように、はいまわっている。リーロフ大佐きたると知って、きゆうに化石のように、かたくなった者もあった。

 太刀川は、こんなことでひきかえしては、リーロフらしくないと思い、次のひどい命令を出そうかと考えていたとき、どうしたのか、やぶれ船の奥の方から、たまげるような悲鳴がきこえ、つづいて船艙のやぶれ穴から、あわてきったかっこうで、隊員たちが、ふわふわと逃げもどってきた。手にしていた缶詰も酒壜も、そこへほうりだして……

「こーら、誰がひきかえせといった」

 と、太刀川はどなった。

「た、た、たいへんです。海の吸血鬼がきているんです」

「この奥のところです。そ、そいつは太いパイプの中で、歯をむきだして、こっちをにらみつけました」

「い、いのちがちぢまった。吸血鬼を見たのは、うまれてはじめてだ。おおこわい」

「ばかども!」

 太刀川は、リーロフにまねて、大声でしかりとばした。

 隊員は、びりびりとふるえたが、

「ですけれど、相手は吸血鬼です」

 といった。

「名誉ある海底要塞の潜水隊員が、吸血鬼ぐらいで、こわがっていてどうするんだ。よし、おれがいって、正体を見とどけてやる」

 太刀川は、きっぱりといった。




   ふしぎな顔



 海底の吸血鬼?

 じょうだんではない。

 太刀川青年は、どんどん奥にふみこんだ。

 隊員たちは、それを見おくると、急におそろしくなったとみえ、あわてて外へにげだした……

 太刀川は、べつに吸血鬼の正体をしらべたり、とらえたりするつもりはなかった。潜水隊員から、はなれるのは今だと思ったので、

「おい、吸血鬼、でてこい」

 とむしろ、おかしさをこらえながら、沈没商船の奥へふみこんでいった。

 奥は、なるほどひどくやられていた。さいわい、途中で、隊員のおとした水中灯をひろったので、それをかかげてみると、鉄板でつくった船腹が、十メートル四方も、ふきとばされ、そのあとが、まるでつきだした屋根のようになっていた。

「あ、あぶない」

 太刀川は、足もとの砂がぐらぐらと、動きだしたので、びっくりして腰をおとした。水中灯をさしつけてみると、例の屋根の下が、すり鉢状の形に大きく深くえぐりとられている。ずいぶん大きな爆発跡であった。ぼんやりしていれば、動きだした砂に足をとられて、ずるずるとすり鉢状の爆発跡にすべりおちるところだった。

 よく見ると、その中に、なんだか煙突のようなものが頭をだしている。煙突といっても、上がふさがっているから、穴なしの煙突といった形だ。

「あれは一たい、何であろう」

 と、太刀川は不審におもった。ひょっとすると、さっき隊員たちが吸血鬼がいるといったのは、このことかもしれない。とにかく見さだめておこうと、砂の上をずるずると底の方へすべりおり、そのそばによって、水中灯をさしむけてみた時、彼はじつに意外なものを発見した。煙突様のものには、その一部分に頑丈な耐圧硝子ガラスらしいものをはめこんだ、曲面の窓があったが、その窓の中に、おもいがけなく三つの首がならんで、こっちを見ていたのである。

「おお!」

 と、さすがの太刀川もさけばずにはいられなかった。なんということだ。海底にひょっくり頭を出した煙突様の小さい塔があるのさえふしぎなのに、その中から三つの顔がこっちをのぞいている。

 しかも三つとも、生きていた。さもおどろいたように目を見ひらき、そして大きく口をあけた。それだけではない。その中の一つの首に、太刀川はたしかに見おぼえがあったのである。

「ダン艇長!」

 いうまでもなく、海底要塞附近で墜落したサウス・クリパー艇の艇長のことである。彼は艇と運命をともにして、波にのまれてしまったかとおもわれたのに、意外にも、こんなふしぎな塔の中で生きていたのである。

「おお、ダン艇長! あなたはどうしてそんなところにいるのですか」

 太刀川青年は、水中灯を高くかかげて、煙突様の塔を硝子ガラスごしにたたきながらいった。

 だが、中からはなんの返事もきこえなかった。三つの首は、とつぜんおどろきの色をうかべると、いいあわしたように窓の内側にひっこんでしまった。

「おう、待ってください、ダン艇長」

 太刀川は、窓硝子をわれそうなほど、こんこんとたたいた。しかし内側にひっこんだ首は、そのまま出てこなかった。

 なにがなにやら、わからないながら、太刀川は、ダン艇長の生きている姿を見つけたうれしさで、しばらくはその場をうごこうともしなかった。

 だが、他のもう二つの首は、一たい何者であったろうか。

 太刀川青年は、見おぼえがなかったが、一つは、はばのひろい鼻をもった黒人。もう一つは、妙なひげをはやした東洋人の顔であった。

 ものおぼえのよい読者諸君には、もうおわかりであろう。

 それは、ミンミン島へクイクイの神様を買いにいったロップ島の酋長と、クイクイの神様といっている漂流日本人の三浦須美吉であった。

 しかしダン艇長が、なぜその二人の仲間にくわわっていたのか、またこの人たちが、なぜそのような海底の小塔に顔をならべていたのか。それは、いずれこの物語のすすむにつれて、明らかになるであろう。

「おう、誰かとおもったら、なんだ、お前だったか」

 とつぜん太刀川のうしろにあたって、ふとい声がひびいた。

 不意をうたれて、太刀川は、はっとおもって、うしろをふりかえりざま、水中灯をぱっとさしつけた。

「あ」

 いつの間に来たのか、彼のうしろに、大きな水中灯をもって立っていたのは、ほかならぬ海底要塞司令官ケレンコだった。彼の潜水服には、胸のところに、大きな三角形を二つくみあわせたマークがついていた。そしてその下に、「ケレンコ」とロシア文字がしるしてあった。

(うむ、見つかってしまったか)

 と、太刀川の息づかいが、またもやあらくなる。



   日本攻略作戦



「おい、リーロフ。この沈没船の積荷には、まんぞくなものが一つもないようだね」

 ケレンコ司令官は、太刀川をリーロフ大佐と思いこんでいるのか、気がるにいった。それをきいた太刀川は、とびあがるほど喜んで、

「はい、ケレンコ閣下。どうも、こんどは少しやりすぎたようですね」

 と、なにくわぬ調子で答えた。

「まあ、あまり、よくばるまい」

 とケレンコはいった。

「ところで閣下は、なに用あって、ここへ」

 太刀川はまだ、用心しながらたずねた。

「いや、これから君と一しょに海底要塞を検閲しようとおもうのだ。副司令として、君にみてもらいたいところがあるのだ。潜水隊員は、わしからひきとるように命じておいたから、心配せんでもよい」

「は、では、さっそくおともしましょう」

「いや、なかなかよろしい。君は副司令になってから、言葉づかいも日頃のらんぼうさも、急にあらたまったようだな。いや、わしもまんぞくじゃ」

 なんという気味のわるいほめられ方であろう。あたかも「お前はリーロフになりきっていないぞ」と、いわれたようなものだ。

 だが一方で、太刀川はしめたと思ったのである。ケレンコ自ら、大海底要塞を案内しようという。ねがってもない機会じゃないか。正しき者にはつねに天佑というものがあるというが、まったくである。

 ケレンコについて、沈没船の外に出ると、そこには一隻の潜水快速艇が待っていた。それはケレンコが乗ってきたものである。速力のはやい小型の潜水艇で、潜水服をつけたまま水中で、のりおりできるのが一つの特徴だった。

 二人は、艇の上蓋をとって、ならんで座席についた。運転士が下りてきて、二人の上に蓋をかぶせた。蓋は、すきとおったやわらかい硝子でできているので、外がよく見える。

 潜水快速艇は、すぐさま動きだした。海底からひょいととびあがるところなどは、戦闘機が飛行場からまいあがって急上昇するのと同じであった。行手に大鯛の群がいたが、エンジンのひびきで、たちまち花火のように四方へちらばった。

「日本攻略は、いつ始めるお考えですかな」

 太刀川は、たずねた。

「ふーん、それは君ともあらためて相談したいと思っていたんだ。わしは、はじめ、時期を待つつもりであったが、もうこうなれば早い方がいいとおもう」

「こうなればといいますと──」

「つまり、サウス・クリパー艇を墜落させたことは失敗じゃったのだ。それにつづいて、米国の駆逐艦と英国の商船とをしずめたが、その結果、わが海底要塞のひそむ海面は、全世界の注意をひきつけることになった。各国の艦艇が、ぞくぞくとこの海面へ集って来ては、めんどうだから、その前に行動をおこした方が、得策のように思うが……」

 司令官ケレンコは、ふとい眉をぴくりとうごかしていった。

「その点、至極同感ですが、──」と、太刀川は、ちょっと言葉をとめて、おもわせぶりをみせ、

「まだ十分の準備ができていないのに、戦をはじめて、はたして勝利がえられましょうか。もしも計画どおり行かなかったときは、すぐモスコー(ソビエトの首府)によびかえされて、反逆者の名のもとにどーんと一発、銃殺されてしまいますぜ」

「なんだ、君らしくもない。はじめからやぶれるつもりで戦って、勝てたためしがあるか。わが海底要塞の戦闘準備は、まだ、完全とはいえないが、敵の防備を破壊し、首都東京をおとし入れるだけの自信は十分あるよ。四百隻からなるわが恐竜型潜水艦は、だてやかざりにつくったのじゃない。いかに日本の海軍が強くとも、これにかかっちゃ、手のほどこしようがなかろう。わずか一時間で、東京およびその附近は、全滅じゃ。地上地下、生物いきものは、猫の子一匹ものこるまい。考えただけでも胸がおどるじゃないか。いや、君を前において恐竜型潜水艦の自慢をするのは、あべこべじゃったねえ。ふふふふ」

 なんというおそろしいケレンコの自信であろうか。

 そのとき運転士が、声をかけた。

「もしもし、海底要塞の正面へ来ました。どこへつけますか」

「うむ、恐竜格納庫第六十号へつけろ」

 ケレンコはいった。太刀川時夫の目が、潜水兜の中で、きらりと光った。



   格納庫ひらく



 恐竜型潜水艦の格納庫!

 いま太刀川時夫は、司令官ケレンコとともに、その前に立ったのである。

 だいたんな太刀川も、はげしい興奮に、胸が高なっている。

 見よ!

 彼の目のまえに、あぶくだつ青黒い海水をとおして、とほうもなく大きな怪物が、歯をむきだして、こちらをにらんでいる。それが、じつは格納庫の扉であった。

(この扉のむこうに、共産党海軍の大じまんの対日攻撃武器がしまってあるのだ!)

 ケレンコ司令官は、そのとき腰にさげていた水中笛を、例の例の妙な機械の手でおした。水中笛はぶうぶうと大きな音をたてた。

 すると、格納庫のうえから、やはり潜水服に身をかためた潜水兵が四、五十人、まるでひさしからおちる雨だれのように降ってきた。

(ふふふ、あじなことをやるぞ!)

 と、太刀川は、潜水兜の中で、ほほえんでいる。潜水兵たちは格納庫第六十号の前にならんだ。とくいの司令官ケレンコは、その前にすすんで、

「わが恐竜第六十戦隊員につげる。ただ今より、本戦隊は小笠原群島の南約五百キロの方面に臨時演習に出動すべし。ただし、突発事件に対しては、すぐさま臨機の処置をとるべし」

 これをきいて、潜水兵たちは、いいあわせたように、ざわめいた。それは、日本艦隊おそろしさのためではない。司令官ケレンコのきびしい見はりのもとに演習に出たのでは、きっとまた思いがけないことで銃殺される兵員が、出ることであろう。

 事実、司令官ケレンコは、対日戦の訓練のためには、部下のちょっとした失敗もゆるさず、たいてい銃殺であった。

 彼は、このくらいに部下をきびしくおどかしておかないと、いくらりっぱな武器をもっていても、あの勇敢な日本海軍をうち負かすことはできないと思ったからであった。

「出動用意!」

 司令官ケレンコの号令一下、幹部将校が、すぐさま格納庫のドアをひらく。水圧器のボタンをおすと、あつい鉄板でできた格納庫の大扉が、ギーッと上にあがっていった。

 太刀川の両目が、潜水兜のおくから、異様にかがやいた。

(ふん、あれだな!)

 見ると、格納庫の中に、とほうもない大きな潜水艦が、鼻をならべて、こっちをむいている。一隻、二隻、三隻、四隻!

 それが上中下の三階に、きちんとおさまり、みんなで十二隻! これが恐竜第六十戦隊なのである。

「出発!」

 という司令官ケレンコの命令とともに、

 ぶう、ぶう、ぶーっ。

 サイレンに似た海底をゆするような音がひびいた。

 とたんに、十二隻の恐竜型潜水艦が、いっしょにとびだしたのである。まるで十二の大塔がたばになってとびだしたような壮観であった。

 そのとき太刀川は、水のあおりをくってよろよろとしたが、目のまえをさっとすぎてゆく恐竜型潜水艦の姿を見のがさなかった。

 なんというおそろしい形をした潜水艦だろうか。へさきはうんと長く前へつきだしていて、蛇の腹のようである。ふとい胴中は、鼠のようにふくれ、背中と両脇とに、三角形の大きなひれがついている。しり尾はふとくながい流線型で、そのつけ根のところに、八つばかりの推進機がまわっていたようである。「おい、リーロフ。わしたちは、水中快速艇で戦隊のあとをおいかけることにしよう。快速艇をこっちへ呼んでくれ」

 ケレンコの声に、太刀川は、やっと我にかえった。



   恐竜戦隊の出動



「司令官閣下、どうぞ」

 快速艇がくると、潜水服姿の太刀川は、リーロフの声色こわいろをつかって、こういった。ケレンコが、のりこむと、

「さあ、リーロフ。お前も早く」

 とせきたてた。太刀川は、のりこみながら、

 ふと思いだして、

「演習に出かけると知ったら、酒を五、六本持ってくるんだった」

 と、わざと酒ずきのリーロフらしいことをいえば、ケレンコは、

「ふふふ」

 と笑って、

「お前の潜水服の内がわには、酒びんをとりつけてあるときいたぞ。そんな仕掛をしてあるのに、酒とはへんだね。第一、酒びんをさげてきても、潜水服をきていたんでは、のもうにも、のめんじゃないか。リーロフにしては、また妙なことをいいだしたものじゃのう」

 ケレンコの口ぶりには、どこか、皮肉なところがあった。

 太刀川は、どきんとした。共産党随一のちえ者といわれるだけあって、これはゆだんがならぬぞと思ったのである。そういえば、この潜水服をきたときから、耳のうしろでどぶんどぶんと音のするものがあって、気になって仕方がなかった。これが、リーロフが特別にこしらえさせた酒びんかもしれない。

 太刀川は、ふと鼻の先に、赤ん坊が口にくわえる牛乳の吸口みたいなものが、ぶら下っているのに気がついた。

(はて、これかな)

 と思って彼は、その吸口みたいなものをすってみた。すると、どろんと口中にながれこんできた液体が、舌をぴりぴりとさした。そしてぷーんと、はげしい香が鼻をついた。

(あ、火酒ウォッカだ!)

 酒びんの中から、ゴム管でつながっていたのだ。それをケレンコが、知っていたのだ。たいていの者なら、このへんで、降参してしまうところかも知れない。が、わが太刀川青年は、腹の中でふんと、せせら笑っただけである。

「あははは、あははは。司令官閣下から御注意をうけるまでもなく、私の分だけなら、ここに十分もってきていますよ。あははは」

「うむ、じゃ、どうするつもりなんだ」

「つまりその、あなたがたが、のみたくなったときに、こまると思いましてね」

「なに」

「いや、今日の演習がおわるまでに、きっと、酒をのみたくなることが、できてきますよ。きっとそうなります。そのときに、私ばかりがのんでは、いやはやお気の毒さまで……」

 それをきくと、ケレンコは、「ふふふ」とふくみ笑をしたが、運転士の方へむきなおると、

「おい、まだ戦隊においつけないのか。なにをぐずぐずしている」

 とどなった。

「は。閣下はまだ出発号令をおかけになりませんので……」

「ばか、ばか、ばか。貴様は何年運転士をつとめているのか。よし、こんどかえったら、銃殺だ」

「ええっ、閣下。それはあんまり……」

「やかましい。早く快速艇を走らせろ」

「へえい」

 とたんに、ケレンコと太刀川は、いやというほど後頭うしろあたまを潜水兜のふちにぶっつけた。おどかされてふるえあがった運転士が、いきなりエンジンを全速力のところへもっていったからであった。



   近づく大艦隊



「司令官。戦隊においつきました」

 運転士が、よろこびの声をあげていった。

「だが、まだなにも見えんではないか。うそをつくと──」

 と、ケレンコがいいかけると、

「正面、舳のわずか右上に、うす黒く、ぼんやりしたものがあるでしょう」

「あああれか。なるほど」

 ケレンコの目に、やっとはいった。

 それから彼が妙にだまったと思ったら、座席の下から、水中無電気の受話器をひっぱりだして、耳にあてていたのである。

 それを見て、太刀川も、すぐ座席の下に手をのばして、受話器をとり、人工鼓膜にあてた。

 さかんに無線電話がきこえてくる。早口でしゃべっているのは、前にいく恐竜第六十戦隊の司令パパーニン中佐からであった。

 それは、途中からであったが、

「──約八十隻ノ潜水艦、約百五十隻ノ駆逐艦、ソノホカ大小ノ特務艦十数隻……」

 ここまできいて、太刀川は、ぎくんとした。太平洋上を、このような大艦隊がうごいているとすれば、それはわが海軍にちがいない。だが一たい、いかなる目的でどこへ向かっていくところであろうか。

「──海上ハ波オダヤカニシテ、晴天ナレド雲アリ。空中二相当爆音ヲキクモ、飛行機ノ種別、台数ハ不明ナリ。彼ノ針路ハ西南西微西!……」

 西南西微西といえば、ほとんど真西にちかい。わが日本艦隊がこんなところを、航行しているとは、ちょっと考えられない。とすると、これは演習の想定であろうか。

 無電はなおも早口にしゃべる。

「──コノママワガ戦隊ガ前進ヲツヅケルトキハ十分ノノチ、彼ノ艦隊卜衝突ノホカナシ。故ニワガ針路ヲカエルベキカ、否カ、タダチニ指令ヲタマワリタシ。パパーニン中佐」

 うむ、それじゃ、演習ではないのか。二国の艦隊ははからずも、たいへんなところで、出くわせたものである。

 太刀川の全身は、かーっとあつくなった。

「司令官閣下。どういたしましょう」

「うむ……」

 ケレンコはうなったまま、しばらく考えこんでいたが、やがて決心して、

「対日戦の血祭に、ここでひとつやっつけてやれ!」

 といいはなった。



   おそろしき海戦



 なんという自信であろう。

 ケレンコは、わずか十二隻の恐竜型潜水艦で、約八十隻の潜水艦、約百五十隻の駆逐艦と、戦闘をはじめようというわけだ。

 いや、

 太刀川は、恐竜第六十戦隊の司令パパーニン中佐からの無電を途中からきいたので、

「戦艦八隻、巡洋艦十八隻、航空母艦六隻………」

 というところをききもらしていた。だからじっさいは、太刀川の考えた以上の大艦隊であった。それを、わずか十二隻の恐竜型潜水艦でむかえうとうというケレンコの自信は、おどろくのほかない。

「しまったことをしたなあ」とケレンコは、つぶやくようにいった。

「恐竜にのっていりゃ、海上の様子も、テレビジョン鏡で手にとるように見えるのだが、……今から恐竜にのりうつることもできない。あと十分でアメリカ大艦隊とぶつかるというどたんばに来ては──」

「え、アメリカ大艦隊?」

 太刀川は、思わず口をすべらしてしまった。

「なんだ」

 とケレンコはいった。

「貴様は、また酒をくらって酔っぱらっているんだな」

「いえ、酒などは……」

「なに、わかっとる。そうでなくて、今ごろ、あれはアメリカ大艦隊ですかもないじゃないか」と、つい本気でどなったが、そのあとで、気づいて「ふふふふ」とうす笑をした。

(いや、どうもリーロフの服をきているものだから、ついまちがえてはいけない)

 ケレンコは、太刀川が、にせ者であることは、はじめからちゃんと見ぬいていたのだ。

 太刀川は、アメリカ大艦隊が、西へいそぐと聞いて、これは、容易ならぬことだと感じたが、恐竜型潜水艦の攻撃目標が、さしあたってわが艦隊でなくてよかったと思った。

 だが、ケレンコの肚は、すでにきまっていた。

(ここでアメリカ艦隊をおそっても、まさか西太平洋のまん中に、ソビエトの潜水艦隊基地があるとは、気づくものはないだろう。アメリカでは、きっと日本潜水艦の襲撃をくったものとして、日本政府にねじこむにちがいない。そうなると、ここでいよいよ日米両国の大衝突となるから、そのすきをうかがってこっちは東京湾へつきこめば、いいんだ)

 ケレンコは、戦隊司令パパーニン中佐にあて、秘密無電をもって、

「アメリカノ艦隊ヲ襲撃シ、恐竜型潜水艦ノ威力ヲ発揮セヨ。タダシ、貴隊ハソ連潜水艦タルコトヲ極力カクスコト。ナオ戦闘開始ノノチハ、トキドキニセノ無電ヲウチ、アタカモ日本潜水艦デアルヨウニ、アメリカ艦隊ニ思ワセルコト」

 と、命令をだした。自分でさんざんあばれ、アメリカの軍艦をしずめ、そしてその犯人は日本海軍でございと思わせようというのだ。

 すると戦隊司令パパーニン中佐から間もなく無電が来た。

「──ワガ恐竜第六十戦隊ハ、コレヨリ敵艦隊ノユダンニツケイリ、ナルベク早ク所期ノ目的ヲハタシタ上デ、全艦海底要塞ヘヒキアゲント欲ス。戦闘開始ニアタリ、ケレンコ司令官閣下ノ健康ヲ祝ス。戦隊司令パパーニン中佐」

 米ソ両艦隊の海戦は、いよいよはじまった。

 水中快速艇では、ケレンコ司令官と太刀川の両人が、たがいに身の危険もわすれて、はるかに海水を伝わってきこえてくる海戦のひびきと戦隊司令からの無電報告とにききいった。

 その時、運転士が、

「とてもやりきれません。ハンドルをもっていかれそうです」

 と、なき声で、うったえた。

「しっかりしろ」

 ケレンコが、しかるようにどなった。

 だが、むりもない。快速艇は、空中にうかんだ風船のように上下左右へおどる。恐竜の猛攻撃による艦船爆破のひびきが、水中をかきみだし、このさわぎをひきおこしたのだった。

 もしこのとき、空からこの海戦をながめたとしたら、この場の光景は、まるで血の池地獄、火焔地獄のように見えたにちがいない。

 アメリカ巡洋艦十八隻のうち、その半分の九隻が、理由不明のままみるみるかたむいた。三重の艦底が、いつこわれたのか大穴があき、そこから海水がどんどんはいってきたのである。

 同時に、防水扉ががらがらとおろされた。が、それもあまり役にたたなかった。というのは、せっかくおろした防水扉の表面から、どうしたわけか、ぶつぶつと、さかんに泡がたちはじめた。と見るうちに、そのまん中からだんだんとまっ赤に熱し、やがて、ぱっと大音響をあげて、ふきとび、そこに大穴があく。あとは砂糖がくずれるように、海水にくずれてしまう。どうしてよいか、まったく手のつけようがなかった。

 運のわるい五隻の巡洋艦は、そのあとから、火薬庫の大爆発をひきおこし、まっ二つに、あるいは三つ四つにくだけて、上は空中にふきとび、のこりは波にのまれて、海底ふかく泡をたてながら、姿をけしてしまうのだった。

「大した戦果だ!」

 快速艇からも、水面下の様子が、ときどきながめられ、太刀川青年の舌をまかせた。彼は、かの恐竜型潜水艦が、舳のあの長いものを、敵艦の底にぐっとのばしたかと思うと、底が急に赤くなって、まるい形にとろとろと灼けおちる光景を、目のあたりに見たのだ。

 怪力線砲は、ついにソ連の手によって完成されたのである。



   意外なる敵!



「どうだ。太──いや、リーロフ大佐」

 アメリカの艦艇が、さかだちとなって、ゆらゆらと水中に、しずみはじめるごとに、司令官ケレンコは、太刀川にむかいほこらしげにいった。

 だが、太刀川は、わざと、

「相当ですが、私の理想からいえば、まだやり方がにぶいですね」

 という。

「なに、あれでまだにぶい?」ケレンコはにやりとして、

「うふん、だが、あれが日本艦隊だったら、もっと、こっぴどくやっつけるんだが、なにをいっても友邦アメリカだから、遠慮してあのくらいにとどめておくのだよ。うふふふ」

 ケレンコは、鬼のように笑った。

 その時、とつぜん、潜水兜が、ぴんぴんと、異様な音をたててなった。

 とたんに、たんたん、じゅじゅというひびきがつづいて起り、急に上から、おさえつけられるような重くるしさを感じた。

「あ、あぶない。運転士、すぐ左旋回で、うしろへひっかえせ!」

 ケレンコが、さけんだ。

「は、はい」

「はやくハンドルをまわせ。ぐずぐずしていると、みんなこっぱみじんになるぞ。敵の爆弾が、近くの海面におちはじめたんだ!」

「は、はい!」

 運転士は、力一ぱいハンドルをまわした。

 だが、そんなことで爆弾からにげさることはできなかった。すぐ頭のうえに、ものすごいやつが落ちてぱっと爆発した。あっと思う間もなく、三人ののった水中快速艇は、まるで石ころのように、海底をごろごろところがって、はねとばされた。もちろん三人が三人とも、しばらくは気がとおくなって、どうすることもできなかった。

「うーむ」とうなりながら、ケレンコが気がついたときは、彼ののっていた快速艇は、みにくくうちくだかれ、頭を海底の泥の中につきこんでいた。

 あたりを見まわしても、太刀川の姿が、見えない。

(逃げたかな)と思った、ケレンコは、

「運転士」とよんだ。

 すると、かすかなうなり声が、運転台からきこえた。

「司令官閣下もうだめです。快速艇は、うごかなくなりました。どうしたらよいでしょう」

「心配しないでもよい。今に他の艦が通りかかるだろう。──それより、あれはどうした。太──いや、リーロフ大佐は?」

「リーロフ大佐は、さっき艇から下り、前へまわって、故障をしらべていたようですが」

 司令官ケレンコは、座席から立ちあがって、艇をでた。さいわい艇についている照明灯一つが、消えのこっているので、あたりは見える。

「おお司令官閣下」

 とつぜん、ケレンコは、うしろからよびかけられた。

 ふりかえってみると、リーロフ大佐の潜水服をきた太刀川が立っている。

「お、お前は無事じゃったか」

「はい。ごらんのとおり、だが、この艇はもうだめです。ただ今、無電をもって、別の艇をよんでおきました」

「ほう、それは手まわしのいいことだ」

 とケレンコはうなずき、

「お前のいったとおり、こんな目にあうと知ったら、酒を用意してくるんだったね」

「いや、どうもお気の毒さまで……」

 といっているとき、後方から、一隻の大きな潜水艦がやってきた。

 それをみて、太刀川は、「おや」と思った。

「これは恐竜型潜水艦じゃないか。快速艇をたのんだつもりだったのに……」

 潜水艦は、やがてケレンコたちのすぐそばへきて、とまった。すると艦橋から、大きな声がした。水中超音波の電話で、艦内からよびかけているのだ。

「司令官閣下。おむかえにまいりました。おめでとうございます。恐竜第六十戦隊が、三十数隻のアメリカ艦艇を撃沈して、全艦無事いま凱旋してくるというしらせがありました」

「うむ、そうか。三十数隻では、十分とはいえないが、とにかく恐竜万歳だ。祝杯をあげよう」

「祝いの酒は、本艦内にたくさん用意してまいりました。さあすぐおのり下さい。いま潜水扉をあけます」

「うむ」ケレンコは、なにか、ひとりでうなずきつつ、太刀川をうながして、迎えの潜水艦の胴中についている潜水扉から、艦内へはいった。

 太刀川もケレンコにつづいて艦内へはいったが、とたんに通路のむこうから、こっちを見てにやにや笑っている体の大きい士官の顔!

 あ、リーロフ大佐だ! 本もののリーロフ大佐だ!



   万事休す



「あ、リーロフ大佐だ!」

 太刀川時夫は、潜水着の中で、おもわずさけんだ。

 無理もない。リーロフの潜水着をきて、リーロフになりすましているところへ、本もののリーロフ大佐があらわれたのである。

(錨にしばりつけたはずのあのリーロフが?)

 そんなことを考えてみる余裕さえなかった。

 太刀川時夫の運命は、きまった。太平洋魔城の大秘密を、ことごとく見てしまった以上、生きて日本へかえされるはずはない。

 逃げるか?

 とっさに考えて、あたりを見まわしたが、潜水扉は、すでに水兵の手で、ぴたりととじられてしまい、その前に、二人のたくましい哨兵が、こっちへ逃げてきてもだめだぞといわんばかりに、けわしい目つきで、はり番をしているのだった。

 リーロフ大佐は、大股でつかつかと歩みよって、いった。

「おい、太刀川。おれの潜水服の着心地はどうだったかよ」

 だが太刀川は無言のままだ。

「おれのいうことが聞えないらしい。はてさて、こまったものだ」

 と、わざとらしくいって、

「ふん、さっきは貴様のおかげで、もうすこしで古錨をかついだまま亡霊になりはてるところだった。運よくケレンコ閣下が通りかからなければ、すくなくとも今ごろは、冷たい海底にごろ寝の最中だったろう」

 リーロフ大佐は、そういって、太刀川をにらみつけると、コップ酒を、うまそうにごくりとのんだ。

「おい、なんとかいえ。おればかりにしゃべらせないで。いや、待て待て。その兜をぬがせてやろう。どんな顔をしているかな」

 リーロフ大佐は、コップを水兵に渡して、太刀川の方へ、すりよってきた。その手に、太いスパナー(鉄の螺旋ねじまわし)が握られていた。

 太刀川は、それでも無言で、つっ立っている。

「おい、水兵ども。おれの潜水服をぬがせてしまえ」

 そういうと、水兵たちは、どっと太刀川にとびかかって潜水服をぬがせた。

 兜の下から青白くこわばった太刀川の顔があらわれた。

「あっはっはっは。こわい顔をしているな。おい、太刀川。さっきから、こうなるのを待っていたんだ。積り重る恨のほどを、今、思い知らせてやるぞ」

 リーロフ大佐は、酔った勢いも手つだって、鋼鉄製のスパナーを、目よりも高くふりあげた。

 たくましい水兵たちは、太刀川をおさえつけて、さあ、やりなさいといわんばかりに、リーロフの方へつきだした。



   ケレンコの腹の中



 太刀川は、声もたてず、しずかにまぶたをとじていた。

 リーロフが、満身の力をこめて、スパナーをふりおろそうとした時、うしろから、その腕を、むずとつかんだ者がある。

「あ、誰だ。……」

 リーロフは、まっ赤になってどなった。

「リーロフ。なにをばかなまねをする。わしのつれてきた珍客を、お前は、どうするつもりだ」

 司令官ケレンコだった。

 ケレンコは、奥へいって、艦長から報告をきくと、すぐ引返して来たのだ。

「はなしてください、ケレンコ司令官。この太刀川こそ、わが海底要塞にとって、たたき殺してもあきたりない人物じゃないですか」

「そんなことは、よく知っているよ。しかしお前は、あんがい頭が悪いね。太刀川と知りつつ、海底要塞を案内したり、恐竜型潜水艦の威力を見せてやったりしたのは、一たい何のためか、それぐらいのことがわからないで、副司令の大役がつとまるか」

 ケレンコは、リーロフを小っぴどくとっちめた。だが、リーロフはひるまなかった。

「でも、ケレンコ閣下、太刀川みたいなあぶない奴は、早く殺しておかないとあとで、とんだことになりますぜ」

「それだから、お前はだめだというんだ。太刀川は、日本進攻の際の、このうえないいい水先案内なんだ。お前には、それが分からないのか」

「え?」

「この男は、海洋学の大家だぞ。ことに、日本近海のことなら、なんでも知っているはずだ。この知識をわれらの目的につかうまでは、太刀川は大事な人間なんだ。おい太刀川。貴様にも、はじめてわけが分かったろう。生かすも殺すも、わしの勝手だ。だが、わしの命令にしたがえば、恩賞はのぞみ次第だ」

 太刀川は、

(何を、ばかな)

 と思ったが、それには答えず、何事を考えたのか、にやりと笑った。

「おい、衛兵長。それまでこの太刀川を監禁しておけ」

「は。どこへ放りこみますか」

「あいている部屋ならどこでもよい。それから、上等の食事に、酒をつけてな」

「は。たいへんな御馳走ですな」

「余計なことをいうな。しかし、逃げないように。もし逃がしたら、お前をはじめ衛兵隊全員、銃殺にするぞ」

「は、はっ」

 衛兵長とよばれた下士官は、それきり一言もなかった。太刀川は、引立てられた。

 リーロフ大佐は、それでもあきらめかねたか、酔眼すいがんをこすりながら、太刀川のそばに近づくと、たくましい腕をふりあげて、太刀川をなぐりつけようとした。

 司令官ケレンコは、それをたしなめるようににらみつけると、衛兵たちにむかって、

「早くつれていけ!」

 と命令した。



   くさい監禁室



 潜水艦が、海底要塞にかえりつくと、太刀川は、大勢の衛兵たちにつれられて、臨時一号監禁室に放りこまれた。

 そこは、どうやら、海底要塞の、ごく底の方らしく、臨時というだけあって、まるで倉庫であった。器械を入れてあったらしい木箱や、まだときもしない貨物や、酒樽みたいなものが、ごたごたと山のように積みあげてある。そのすみに、古ぼけた寝台がおいてあった。それはまだいい。たまらないのは、この部屋にみちている悪臭だった。

「あ、たまらない臭だな」

 と、衛兵長は、まっ先に顔をしかめた。

「なんだね、このむかむかする臭は」

「缶詰がくさったらしいんです。捨てろという命令が出ないので、そのままになっているんです」

 と、部下の一人がこたえた。

「これは、やりきれん。早いところ、この日本猿を片づけてしまわないと」

 衛兵長は、顔をしかめながらいった。

「日本猿を、こっちへつれてこい。鉄の足枷をはかせ、その鎖にゆわえつけとくんだ。貴様が逃げだせば、こっちの命までが、ふいになってしまうからな。しっかりゆわえておけよ」

 無言の太刀川を、五人ばかりでおさえつけると、両脚に、鉄でつくったゲートルのようなものをはかせ、その合わせ目に、ぴーんと錠をおろし、更に鉄のゲートルの穴に、二本の重い鉄の鎖を通した。その鎖のはしは、床下に、しっかりと埋っている。まるで重罪人あつかいだ。

「おい、できたか。どうもこの悪臭には、降参だな」

「もう大丈夫です。絶対に逃げられません」

「そうか。では、その方は、それでよしと、あとは飯をくわせてやれ。酒もすこしばかりつけてやれ。だがこの悪臭の中で、食えるかな」

 衛兵長が、そういいながら出ていこうとするので、五人の部下はおどろいて、

「衛兵長。どこへいくのですか」

「うん、おれはちょっと、司令官のところへ報告をしてくる。お前たちは、いいつけたとおり見はっているんだ」

 衛兵たちは、たがいに顔を見合わせてあきれた。が、衛兵長の靴音がきこえなくなると、彼等もみんな外に出た。

「ここならまだ、ましだ。この中にいちゃ、目まいがしそうだ」

「じゃおれは食物をとってくるからな」

「いや、それはおれがいこう」

「待て、おれもいく」

 衛兵たちは、先をあらそって、廊下をかけだして行った。あとには、気のよい衛兵が、たったひとりで、廊下ではり番をしている。

 太刀川時夫は、悪臭をじっとがまんしながら、ゆがんだベッドに腰を下した。祖国日本の一大事を、どうして知らせたものかと、おもいなやんでいるのだ。

「あのステッキがあればなあ」

 日本を出発するときに原大佐からもらったステッキを彼はおもいだした。クリパー艇が沈没するまでは、たしかに持っていたが、海底要塞の中にすいこまれてからこっち、ステッキはどこへいったか行方がしれないのだ。

 ぬけ出すか!

 今では、それさえ思いもよらないことになってしまった。

 太刀川が、腕をくんで思案にくれている時である。

 部屋のすみっこに積んである空樽が、人も鼠もいないのに、ぐらぐらとうごきだした。



   秘密のぬけ穴



 うごきだした樽は、ひょいと横にのいた。すると、そのあとにあいた穴から思いがけない人の顔があらわれた。まっくろな顔だった。原地人だ!

 原地人は、穴から出て来ると音をしのばせて、こっちへはいだした。と思うと後をふりかえって、手まねきをするようであった。すると、また一人、その後からあらわれた。長いひげをはやした東洋人の顔。

 つづいて、第三の顔があらわれた。これは白人だ。

 その時であった。太刀川時夫が気がついて、がばとはねおきたのは。


 彼は、とつぜん身近に、人の気はいがしたので、はねおきて、その方をじーっと見つめた。すると、天からふったか地からわいたか、部屋のすみっこに三つの思いがけない顔が、こちらを見ている。

「あ、ダン艇長」

 と、太刀川はひくくさけんで、ベッドから立ちあがった。

 ダン艇長! そうだ、その白人は、ダン艇長にちがいない。他の二人はいうまでもなくロップ島の酋長ロロと、あの手品のうまいクイクイの神様こと、実は日本人漁夫の三浦須美吉であった。

 ダン艇長も、鉄鎖でつながれている太刀川を見て、

「おお、……」

 と、いって、かけだそうとした。それを、酋長ロロと三浦須美吉が、無言でぐいとおしもどした。

 この部屋の外には、衛兵がいるのだ。もしこれが知れたら、非常警笛が鳴りひびき、同時に衛兵たちがどやどやとなだれこんで来て、四人をうむをいわさず、銃殺してしまうだろう。

 ダン艇長は、気がつくと、そーっと太刀川のそばに近づいて、

「太刀川さん。これは一たいどうしたのですか」

 といって、時夫の手を握った。

「ありがとう。これにはわけがあるが、僕は、捕虜になってしまったんです。しかしあなたがたは、どうしてこんなところへ?」

 するとダン艇長は、

「太刀川さん。これは、すばらしい探検記ですよ。だが、僕たちは、このまえ一度、あなたをみかけましたね」

「そうそう、海底の汽船が沈没していたところでしょう」

「そうです、あの時、僕はあなたを見つけたのですが、あまりのことにびっくりしたのです。実は、太刀川さん。僕はこの酋長ロロのすんでいるロップ島へながれついて、一命を助ったのです。酋長ロロは、なかなかりっぱなそして勇敢な人間です。そのロップ島からすこしはなれたところにカンナ島という石油が出る島がありますが、そのカンナ島の古井戸から、この海底城(ダン艇長は海底城という言葉をつかった)へ、秘密の通路があることを知って、僕たちをつれてきてくれたのです」

 聞けば聞くほど、奇々怪々な話であった。

「その秘密通路というのは、一たい誰がつくったものですか」

 太刀川は、そう問いかえさずにはいられなかった。

「いうまでもなくこの海底城をつくった人間がつくったのです。カンナ島に、かくれた石油坑があればこそ、この海底城に、電灯がついたり、ポンプがまわったりしているのです」

「なるほど」

 太刀川は、その大がかりなのに、今さらのように感嘆した。

 その時、クイクイの神様こと、三浦須美吉が、前へのりだしてきて、太刀川の腕をとった。



   日本人同士



(こいつ、なにをするんだろう)

 太刀川は、クイクイの神様が、指さきで、腕をこするので気味わるく思ったが、ふと、

(おや、なにか字を書いているようだぞ!)

 気がついた。よく見ると、それは日本の片仮名だった。

「アナタハ、ニッポンジンカ。ワタクシモ、ニッポンジンダ」

「ほほう、……」

 と、太刀川はおどろいて、クイクイの神を見なおした。

「僕は日本人で、太刀川時夫というんだ。君は誰だ」

「ああ、やっぱりあなたも日本人!」

 クイクイの神様は、いきなり太刀川にすがりついた。

「うれしい。こんなところで日本人に会うなんて、まったく夢のようです。ダン艇長が、あなたのことタツコウとよぶので、フィリピン人かと思っていたんです。よかった。わたしも日本人、三浦須美吉という者です」

「え、三浦須美吉」

 こんどは太刀川の方が、おどろいた。

「じゃ、君が三浦須美吉君か」

「そうです。あなたはどうしてわたしの名前を……」

「知っているとも、僕は、君が海中へ流した空缶の中の手紙によって、はるばる大海魔を探しに来たのだ。それにしても君はよく生きていたね」

 二人の日本人は、手に手をとって、うれしなきだ。さっきからいぶかしそうに見ていたダン艇長と酋長ロロも、それと気がついて、ふしぎなめぐり合いにおどろいた。

 太刀川は、今までのことを手みじかに話した上、このおそるべき海底要塞の日本攻略準備がなった以上、これを一刻も早く日本へ知らせなければならぬと語った。

「よく、おあかし下さいました。私も、死んだつもりで、祖国日本のために働きます」

 三浦須美吉は、体をふるわせて、太刀川の前にちかったが、足もとの鉄の鎖に気がつくと、ダン艇長、酋長ロロに、

「早く」

 というように目くばせして、鉄の鎖を、ぐいとひっぱった。鎖が、がちゃりとなった。



   銃声



 廊下にいた衛兵が、それに気がついた。

「おや」

 と思ってのぞくと、この有様だからぴりぴりぴりと、警笛をならした。

 酋長ロロは、腰をぬかし、三浦は、立ちすくんだ。ダン艇長は、腰におびていたピストルを手にとって、身がまえる。

 とたんに、轟然たる銃声がひびいた。

「うーん」

 と、さけんだのは、ダン艇長だった。彼の体は、後にのけぞって、どすんと床にころがった。衛兵が、真先にねらい撃ったのである。

「ひゃー」

 と、酋長ロロは、こんどは腰がはいったのか、ぴーんととびあがった。

 そこをまた、だーんと一発!

 ぎゃっという妙な悲鳴、酋長ロロも、そこへたおれてしまった。そのつぎは、三浦須美吉と、太刀川時夫だ。

 衛兵は、銃口を三浦の方へむけた。

「あっ、あぶない。三浦君、そこへ伏せ」

 太刀川は、さけんだ。

 ところが三捕は、伏せをするどころか、衛兵の方をみて、げらげらと笑いだしたのである。

 衛兵はびっくりして鉄砲をひいた。よく見ると、黄いろい顔をした妙な風体ふうていの男が、長いひげをひっぱりながら、こっちをむいてあはははと笑うのである。

 三浦は、気が変になったわけではない。例のクイクイの神様に、ちょっと早がわりをしただけのことである。神様になると、妙に気がおちつくのであった。

「待て、ポーリン」

 という声とともに、入口に、どやどやと足音がきこえたが、いきなりとびこんできたのは、衛兵長であった。

 クイクイの神は、すばやく両手をあげて、降参の意をしめした。

「生き残ったのは、こいつだけか」

 と衛兵長は、いって、

「おい、ポーリン。しばっちまえ」

 と、命令した。

 三浦がしばられている間に、部下の衛兵たちは、ぞくぞくあつまってきた。

「こいつら、一たいどこからまぎれこんだのだろう。それとも、前から、この要塞の中にいたのかな。どうもふしぎだ」

 衛兵長は、つぶやいて、

「とにかく司令官のところへ、こいつを引立てよう。さあ、歩け。この長ひげめ!」

 三浦は、衛兵長に腰をけられて、いやいやながら歩きだしたが、その時、とつぜん、妙な節まわしで、唄をうたいだした。

「いまにイ、たすけるかーら、たんきを、だアすナ」

 それは三浦のとくいな磯節だった。

 太刀川は、それをきくと、三浦の方に向かって、自分の足を指さし、

「君をけとばした奴が、鍵をもっている!」

 といった。日本語だから誰にも分かるはずがない。うまくいったら、鍵をとってくれというのだが、すこぶる無理な注文である。

 三浦が、引立てられていったところは、司令官室であった。

 しかし一同は、衝立ついたてのかげで、しばらく待っていなければならなかった。

 というのは、奥で、しきりにケレンコ司令官のあらあらしい声が聞えているからであった。

「……日本攻略の日は、明朝にせまっているのに、貴様は、酒ばかりのんでいる。少しつつしみがたりないではないか」

 その声は、三浦に聞えたが、ロシア語だからその意味を知ることはできなかった。もし太刀川が、これをきいたとしたら、どんなにおどろいたろう。一たいあの恐竜型潜水艦に勝てるような防禦兵器が、わが日本にあるのだろうか。

 危機は、もう目と鼻との間にせまっているのだ。

「うーい。日本攻略は攻略、戦争は戦争。酒は酒ですぞ。リーロフは、戦闘にかけちゃ、ふん、お前さんたあ、第一この腕がちがうよ」

 そういっている相手は、やっぱり副司令のリーロフ大佐だった。

「無礼なことをいうな。よし、ただ今かぎり、貴様の副司令の職を免ずる」

「なに、副司令の職を免ずる」

 酔った勢いも手つだって、リーロフも負けていない。

 とつぜん椅子がたおれ、靴ががたがたとなる音がきこえた。司令官ケレンコとリーロフ大佐とが、日本攻略を前に、大喧嘩をはじめたのだった。



   鍵をる神



 クイクイの神様こと三浦須美吉を引きたててきた衛兵長は、司令官の前で、工合のわるいことになった。

 ケレンコ司令官とリーロフ大佐が、扉の向こうでつかみあいを始めたからである。室内に入るに入れず、そうかといって、このままひきかえすわけにもいかない。

「えッへん」

 衛兵長は、わざと大きな咳ばらいをした。

「ええ、司令官閣下、ただ今わが海底要塞に怪人物が三人、しのびこんでいるのを発見しましたぞ。私が引っとらえて、ここへつれてきましたが、ものすごい奴であります」

 衛兵長じまんの、大声がケレンコの耳に入らないはずはなかった。

「おい、リーロフ。しずかにしろ」

 司令官は、リーロフ大佐になぐられたあごを、いたそうにさすりながら、大佐に目くばせした。

(われわれ二人の格闘は一時休戦だぞ──)

「な、なにを、……」

 リーロフ大佐は、床にたおれたまま歯をむきだして、どなった。たった今、ケレンコ司令官から、副司令の職をはぎとられたことが、大いに不平でならないのだ。

 だが、喧嘩はとにかく一時おさまったらしいので、衛兵長は、室内へはいった。

「司令官閣下。この男です、監禁室にあてた倉庫の中から、とびだしてきた奴は」

 そういって、クイクイの神様の背中を、どんと前についた。

「ほう、このひげもじゃか」と、ケレンコは目をみはって、

「ところで衛兵長、お前は、三人のあやしい男を発見したとかいったが、あとの二人はどうしたのか」

「はい、二人はその場で、鉄砲でうちたおしてあります。ご安心ください」

「おお、そうか」

 と、司令官はうなずき、クイクイの神様の方にむいて、

「おい、髭もじゃ。貴様は、何者だ。又どうして、こんなところへはいりこんだのか」

 クイクイの神様である三浦須美吉には、ことばは通じなかった。彼は、そんなことはかまわず、

「ああ、ゼウスの神よ、奇蹟をもたらせたまえ」

 妙な言葉をとなえて、上目づかいに天井をみあげた。

「ああ神よ、床にはうこの牛男が、奇蹟をもたらすといいたまうか」

 牛男というのは、酔っぱらいのリーロフ大佐のことだった。クイクイの神様は、つと手をのばして、リーロフの服にさわったかと思うと、ぎゃっとさけんで、掌のうちに一箇の鶏卵をぬきとった。

「おお、牛男は、卵を生んだ」

 クイクイの神様は、あきれ顔のリーロフ大佐の掌に、いま彼の服からぬきとった卵をのせてやった。

「あれ、この髭もじゃ先生、おれの体から卵を、ぬきだしやがったぜ。これは、ふしぎだ」

 リーロフは、目をまるくして、掌のうえにのっている卵をみていたが、

「おお、ほんとうの卵だ。この海底要塞の中で、卵にお目にかかるなんて、たいへんな御馳走にありついたものじゃ」

 ケレンコ司令官をはじめ、その場にいあわせた将校や兵士も、クイクイの神様の手なみにあっけにとられている。

「ああ神よ。次なる奇蹟は、こっちのいかめしき鮭男から、下したまえ」

 クイクイの神様は、こんどはくるりと後へむいて、手を衛兵長の腰のあたりにさしのばした。

「これ、そばへよるな」

 衛兵長が、たじたじとなる刹那せつな

「ええい!」

 クイクイの神様は、衛兵長の腰のあたりから、また一箇の鶏卵をぬきだして、その掌のうえにのせてやった。

「おお、神の力は、広大無辺である」

「あれ、いやだねえ。とうとうわしは卵を生むようになったか」

 衛兵長は、掌にのせられた卵を、気味わるそうにながめつつ、大まじめでいった。

 そばに立っていた将校や兵士が、くすくすと笑った。

 クイクイの神様になりすました三浦須美吉は、してやったりと、心の中でにやりと笑った。こんなことはなんでもない。ほんのちょっとした手品にすぎない。卵は、島で仕入れ、服の下にかくしておいたものである。

「こら、さわぐな」

 ケレンコ司令官が、にがにがしそうにどなった。

「子供だましの魔術をつかうあやしい男だ。だが明日の行動について、これから幕僚会議をひらくから、この男のとりしらべは後まわしだ。向こうへつれていって監禁しておけ」



   司令官室の激論



 室の外へつれだされて、クイクイの神様こと三浦須美吉は、(ほい、しめた)

 と、思った。

 もうこの司令官室に用はないのだ。彼の掌の中には、衛兵長のポケットから、すりとった一個の鍵がかくされていたのである。卵を出すとみせて、手さきあざやかに、この鍵をすりとったのだ。

 この時、床のうえに寝そべっていたリーロフ大佐が、むくむくとおき上った。そして司令官には、目もくれないで、部屋を出ていこうとする。

「おい、リーロフ大佐。どこへいく」

「どこへいこうと、おれの勝手だ」

「いっちゃならん。日本進攻を前にして最後の幕僚会議を開こうというのに出ていくやつがあるか」

「副司令でもないおれに、会議の御用なんかまっぴらだ。おれはおれの実力で自由行動をとる。あたらしい副司令には、太刀川時夫を任命したがいいだろう」

「なにをいうんだ。リーロフ、少し口がすぎるぞ、貴様は、明日のことをわすれているのか。われわれが、スターリン(ソビエトの支配者)の命令をうけ、これだけの時間と労力と費用とをかけて、この海底大根拠地をつくったのは何のためであったか。明日こそいよいよ恐竜型潜水艦をひきいて、日本艦隊をほふり去り、そして東洋全土にわれわれの赤旗をおしたてようという、多年の望がかなう日ではないか。その明日を前にして、貴様のかるがるしい態度は、一たいなにごとか」

「いや、おれはケレンコ司令官の戦意をうたがっているのだ。いつも、口さきばかりで、今まで一度も言ったことを実行したことがないではないか。君は、要塞の番人にあまんじているのだ。ほんとうの戦闘をする気のない司令官なんか、こっちでまっぴらだ」

「リーロフ大佐、何をいう。近代戦で勝利をおさめるのに、どれほどの用意がいるかを知らないお前でもないだろう。ことに相手は、世界に威力をほこる日本海軍だ。われわれはどうしても今日までの準備が必要だったのだ」

「ふふん、どうだか、あやしいものだね。君がやらなきゃ、おれは今夜にも、恐竜型潜水艦で、東京湾へ突進する決心だ。なあに、日本艦隊がいかに強くとも、東京湾の防備が、いかにかたくとも、あの怪力線砲をぶっとばせば、陸奥むつ長門ながともないからねえ。いわんや敵の空軍など、まあ、蠅をたたきおとすようなものだ」

 リーロフ大佐は、いよいよ鬼神のような好戦的な目をひからせる。

「おい、リーロフ。それほど何もかもわかっている君が、なぜ目先のみえない乱暴なふるまいをするのか」

「おれは、日本艦隊を撃滅するのをたのしみに、はるばるこんな海底までやってきたんだ。勝目は、はじめからわかっているのに、いつまでもぐずぐずしている司令官の気持がわからない。明日攻撃命令を出すというが、ほんとうか、どうか、いつもがいつもだから、あてになるものか」

 ケレンコ司令官は、リーロフ大佐のことばを、腕組して、じっときいていたが、やがて顔をあげ、

「よし、わかった。君の心底は、よくわかった。余が君を副司令の職から去ってもらおうとしたのは、大事を前にして、粗暴な君に艦隊をまかせておけないと思ったからだ。君がそれほど戦意にもえているのなら、今後は、粗暴なことをやるまい。なにしろ明日になれば、わが全艦隊は出動して、余も君も、ひたむきに太平洋の水面下を北へ北へと行進するばかりだからね」

「わたしもというと……」

「リーロフ大佐、君をあらためて副司令に任命するのだ」

「なんじゃ。それは、ごきげんとりの手か」

「いつまでも、ばかなことをいうな」とケレンコ司令官は、リーロフをたしなめて、

「そのうえ、もう一つ重大任務をさずける。これを見ろ」

 と、ケレンコ司令官は、テーブルの上の海図を指し、

「わが海底要塞に、今ある潜水艦は、三百八十五隻だ。余はそのうち二百五十五隻をひきいて、これを主力艦隊とし、大たいこの針路をとって、小笠原群島の西を一直線に北上する」

「ふん。そこで、のこりの百三十隻の潜水艦は?」

「その百三十隻をもって、遊撃艦隊とし、われわれよりも先に出発させ、針路をまずグァム島附近へとって、日本艦隊をおびきよせ、そのあたりで撃滅し、次に北上を開始し、紀淡海峡をおしきって、瀬戸内海をつくんだ。そのうえで、艦載爆撃機をとばせて、大阪を中心とする軍需工業地帯を根こそぎたたきつぶしてしまう」

「ふふん。話だけはおもしろい。この遊撃艦隊をひきいていく長官は、誰だ。もちろん、わたしにそれをやれというんだろう」

 リーロフ大佐は、先まわりをしていった。ケレンコ司令官は、いかめしい顔つきで、ぐっとうなずき、

「そのとおりだ。遊撃艦隊司令長官リーロフ少将だ。そうなると、君は提督だぞ。これでも君は、人をうたがうか。いやだというか」

「わたしは少将で、そっちは太平洋連合艦隊司令長官兼主力艦隊長官ケレンコ大将か。ふん、どうでも、すきなようにやるがいい」

 リーロフのことばは、どこまでも針をふくんでいる。

「さあ、そうときまったら、むだないさかいはよして、すぐに最後の幕僚会議だ。さあさあ、全幕僚を招集してくれ」

 ケレンコ司令官は、リーロフの気を引きたてるように、うながした。



   戦闘開始



 ケレンコ司令官の部屋で、会議がはじまった。

 テーブルの上の大海図を前に、おもだった者が、額をあつめて、作戦にふける。

 そこへ、監視隊からの、無電報告が、つぎつぎとしらされて来る。

「ただ今、十日午後六時。北北西の風。風速六メートル。曇天どんてん。あれ模様。海上は次第に波高し」

「よろしい」

 だが、しばらくすると、おどろくべき報告がはいってきた。

「……日本第一、第二艦隊は、かねて琉球附近に集結中なりしが、ただ今午後六時三十分、針路を真東にとり、刻々わが海底要塞に近づきつつあり。彼は、決戦を覚悟せるものの如し」

「ほう、日本艦隊もついにはむかってくるか。どこで感づいたのだろうか。いやいや、もっと見はってみないと、にわかに日本艦隊の考えはわかるまい。とにかくリーロフ提督、君のひきうける敵艦隊の行動について、ゆだんをしないように」

 と、ケレンコがいえば、リーロフは海図をながめて、無言でかるくうなずいた。

 おそろしい時が、刻一刻と近づきつつある。ケレンコのひきいる怪力線砲をもった恐竜型潜水艦隊の、おそるべき攻撃破壊力の前に、わが日本海軍が、はたしてどれほどの抵抗をみせるであろうか。

 この時、快男児太刀川時夫は、一たい、どうしていたか。

 ──われわれは、目をうつして彼が両脚をしばられて、とじこめられている部屋をのぞいてみよう。

 太刀川は、どうしたのか、脚をしばられたまま、床のうえに、うつぶせになって、たおれている。床のうえに、血が一ぱい流れている。あっ、足がつめたい。

 太刀川は、ついにやられてしまったのか。

 いや、待った。彼の顔を、横からみると、どうもへんだ。たしかにソ連人の顔である。ソ連人が、太刀川のかわりに、両脚をしばられて死んでいるのである。

 そのとなりにたおれているのは、ダン艇長らしくしてあるが、これもやはりソ連兵だ。その向こうにころがっているロップ島の酋長ロロらしいのも、よくみると酋長の腰布が、藁たばの上にふわりとおいてあるばかりだ。

 もちろんクイクイの神様もみえない。みんな、どこかへいってしまったのだ。一たいどうしたというのであろうか。

 この時、司令官室では、そのすみにある、むらさき色のカーテンのかげから、するどい二つの目が、のぞいていたのである。室内の将校たちは、明日にひかえた作戦会議に、夢中になっていて、気がつかない。部屋の外を、がちゃりがちゃりと音をさせて歩いているのは、衛兵である。みんな安心しきっているのだ。

 このするどい目の主こそ、わが太刀川青年であった。

 彼は、全身の注意力を耳にあつめて、作戦会議の成行をうかがっているのである。

「それでは紀淡きたん海峡に集めないで、一隊を豊後ぶんご水道にまわすことにしよう。くれ軍港をおさえるのには、これはどうしても必要だ。どうだ、リーロフ少将」

 ケレンコ司令官の声だ。

「いや、おれは、紀淡海峡一本槍だ。せっかくの勢力を、いくつにも分ける作戦は、どうもおもしろくない」

 リーロフは、相かわらず、なかなか剛情だ。

 カーテンのかげの太刀川青年は、じーっと息をころして、きいている。

 それにしても彼は、どうしてこんなところへはいりこむことができたのか。──

 クイクイの神様の三浦は、たくみに衛兵長から鍵をうばうと、何くわぬ顔をしてひきたてられて行き、太刀川と同じ監禁室に入れられた。衛兵たちは、出発前夜の酒と御馳走に夢中になっていたので、三浦をほうりこむと、そのくさい部屋から、あたふたと出ていった。だから、三浦が、太刀川の足のかせをほどくことはなんでもなかったのだ。

 太刀川と三浦とは、衛兵にうたれてきずついたダン艇長と酋長ロロのきず口に、とりあえず手当をして、ありあわせの布でしばった。

 ダン艇長は、右の腕をうたれ、酋長ロロは耳のところにすりきずをうけただけだが、二人とも、びっくりして気をうしなっていたのであった。

 太刀川が「よし!」とさけんで、立ちあがったとき、監禁室のドアを、どんどんとたたく者があった。

「すわ、衛兵だ!」

 一同はびっくりして、その場に立ちすくんだが、太刀川は三浦に命じて扉をひらかせた。するとそこに立っていたのは、守衛のソ連兵ではなく、意外にも意外、とっくの昔に死んだものとばかり思っていた石福海少年だったのである。



   生きていた石福海



 さすがの太刀川も、これには、おどろいた。

「おう、石福海。お前、よくまあ、無事に生きていたねえ」

 石福海は、用心ぶかく、扉をしめると、太刀川をみてにっこり笑ったが、そのまますりよってきて、

「先生、今日という今日は、じつに、うまくいきました」

「なにがさ」

「この外にいる衛兵たちを、みんな眠らせてしまったのです。酒の中に、眠薬を入れておいて出しましたから、衛兵たちは、それをたらふくのんで、今しがたみんな、だらしなくころがって、眠ってしまいました。逃げるなら、今のうちですよ」

「ふーむ、そうか。石、よくやってくれた」

 太刀川は、石少年の手をつよくにぎった。

「先生、わたくしは、先生がこの要塞の中にいられることを前から知っていました。わたくしもあの日、渦にまきこまれて気をうしないましたが、気がついてみると、魔城の一室にとらえられていたのです。それから、ずっと大食堂の給仕につかわれていたのです。おしらせしたいと思ったですが、なかなか見張がきびしくて、とても近づけませんでした」

「おお、そうかそうか」

 ダン艇長たちも、この話をきいて、おどろいたり、感心したりだった。

「では、太刀川さん。今のうちに逃げだそうじゃないですか」

 ダン艇長がいった。

「いや、待ってください。どうやら今夜は、われわれにとって、このうえない好機会のようです。わが祖国のために、又世界の平和のために彼等をうちのめしてやるのには……」

「それは危険だ。一まず、カンナ島へひきあげて、それからにしては……」

「僕は、今宵ソ連兵たちが大盤ぶるまいをうけたのは、おそらく明日、太平洋へ乗りだすための前祝だと思うのです。もしそうだとすると、ぐずぐずしていたのでは、間にあいません。今夜のうちに、彼等をやっつけてしまわないと、おそいかもしれません」

「でも、このきびしい海底城を、どうすることもできないではないですか」

 ダン艇長は、太刀川のやろうとする魔城爆破を、一まず思いとどまらせようとしたが、太刀川の決心はつよかった。太刀川は、ケレンコが恐竜型潜水艦をつかって、たくさんのアメリカの艦艇を撃沈したことなど話してダン艇長をうごかした。

 彼はついに決心して、太刀川の手をにぎり、この大計画に力をあわせることをちかった。

「日本人が二人、アメリカ人が一人、中国人が一人、原地人が一人。同志はみんなで五人だ」

 と、太刀川は、いった。

 一同はまず監禁室の中をつくろうため、酔いつぶれて、寝ころがっているソ連兵をひっぱりこんで、自分等の身がわりにした。中にふらふらと抵抗して来た奴があったが、ダン艇長は、たちまちやっつけてしまった。

 太刀川等は、それからさっそく作戦を相談した。

 その結果、石福海は、監禁室につづく通路を、はり番していることになった。

 のこった四人は、二手に分かれることになった。

 クイクイの神様の三浦と、ロップ島の酋長ロロとは、太刀川からあるすばらしい秘策をさずけられると、いそいで例の秘密通路から、カンナ島へかえっていった。

 太刀川とダン艇長とは、たがいの受持をきめると、ケレンコたちが会議をしている司令官室へ向かった。

 太刀川は、司令官室の前を、行きつもどりつしている一人の衛兵に、不意にうしろからとびついて首をしめた。衛兵は、声もたてずに、ぐにゃりとなった。

 その体を、ダン艇長が横だきにして、片隅につれて行くと、その武装をそっくり頂戴して、衛兵になりすまし、なにくわぬ顔をして、司令官室の前を、行きつもどりつ、警備をしているのである。白人が白人にばけることは、やさしい。

 太刀川は、その間に、司令官室へもぐりこんだのであった。

 だが、二人は、この時、別働隊の三浦と酋長ロロがとりかかったはずの仕事の進行を、しきりと気にしていたのである。

 太刀川は、カンナ島へかえっていった三浦と酋長ロロとに、どんな秘策を、さずけたのであろうか。



   壊滅一歩前



 幕僚会議は、いよいよ熱心につづけられた。

 日本を攻略するについて、あらゆる場合が考えられ、その用意がなされていった。

 太刀川は、そのたびに、はやる心をじっとこらえた。

「七時半だ。もういいころだが」

 太刀川は、カーテンのかげから、そっとぬけでた。

「太刀川さん、いよいよあの時刻が来ましたよ」

 ダン艇長はいった。

 それから二人は、石福海が張番をしている監禁室へかけだしていった。

 太刀川は、つまれたあき樽の中に、首をさしいれて耳をすました。

 カーン、カーン。カーン、カーン。

 鉄管をたたくような音がきこえた。

 ダン艇長の耳にも、はっきりときこえた。

「いよいよ、カンナ島の用意が出来たんだ」

「じゃ。こっちからも、信号を」

 と太刀川はダン艇長に目くばせした。ダン艇長は、あき樽のうしろにもぐりこんだ。そこには、カンナ島へのぼる鋼鉄階段があったが、その階段を、ダン艇長は落ちていた鉄棒で、力一ぱいなぐりつけた。

 カン、カン、カン。──カン、カン、カン。

 三点信号だ!

 その信号は、はるか上のカンナ島の出口で、耳をすまして聞いている三浦と酋長ロロに通じたことであろう。

「さあ、もうぐずぐずしていられない。それ、始めよう」

 太刀川は、はいだしてくると、用意してあった弁当箱二つほどの大ききの火薬の導火線に、火をつけた。

 この火薬は、この海底要塞の様子をよく知っている石福海少年が、工事用の火薬置場から、もちだしたもので、導火線の長さは、時間にして、わずか十二分であった。

 三人は、導火線があき樽のかげでぷすぷすともえ出すのをたしかめたのち、室外にとびだした。そして入口の扉をぴったりしめると、太刀川の身がわりにころがっている衛兵のポケットから、鍵をとりだして、ぴちんと錠までおろした。こうしておけば、誰も、導火線のもえるこの監禁室の中にはいれない。

「あと、十一分半だ! さあ、急ごう!」

 太刀川は、ダンと石福海とをうながして、またくらい廊下をかけだした。彼等は、これからどうするつもりだろうか。カンナ島への階段をのぼっていくのかと思ったのに、彼等は自ら、その口をふさいでしまったのである。

 そこに太刀川のふかい考えがあった。すばらしい計画だったけれど、命がけの冒険であった。だがこうなれば、命を捨てることなんか、太刀川にはなんでもなかったのだ。

 太刀川は、できるなら、恐竜型潜水艦を一隻、お土産にもらっていきたかったのだが、どれも、あつい鉄扉をもった格納庫の奥ふかくしまわれてあって、なかなか引っぱりだすことができない。その鉄扉の一つを開けるにも、海底要塞の心臓部というべき中央発電所の大モーターを動かしてかからねばだめなのだ。たとえモーターをうごかして鉄扉をあけることができても、潜水艦をうごかすには専門の知識がいるので、とてもこの三人ではもって行けない。

 そこで、恐竜型潜水艦のことは思い切り、そのかわり水中快速艇をうばって逃げることにした。これなら、このまえケレンコと一しょにも乗ったし、そしていつも海底要塞の出口のところにつないであるので、なんとか手に入れることもできそうだ。あと十一分の導火線しかのこっていない今、できるだけはやく、この海底要塞から遠くへのがれるためにも、それが必要だったのである。

「あ、あれが出口だ」

 太刀川らは、やっとのことで、出口にたどりついた。

「番をしている兵がいる」

「よし、やっつけるばかりだ」

 そこの衛兵も、例の酒が体にまわっているとみえて、

「あああ、あやしい奴!」

 と、いうさけびもしどろもどろだ。太刀川の鉄拳に、脾腹をやられ、ぎゃっとたおれるところを、三人はすばやく通りぬけて、潜水服置場に走った。ここには、あきれたことに、誰もいない。今夜は、衛兵たちはみな、さっき倒した番兵一人に、一切の見張をまかせて、ふるまい酒に酔いくらっているらしい。三人はこれさいわいと、潜水服を壁からおろして、すっぼりかぶってとめ金をした。

「あ、もうあと五分だ。いそがないと、われわれの命があぶない」

 と、ダン艇長がさけんだ。

「先生、わたくしは、うごけません」

 石福海は、潜水服を着たのはいいが、体が小さいので、前へも後へもうごけなくなった。

「よし、だいてやるから、安心しろ」

 太刀川とダン艇長とが、両方から石少年をかかえて、ついに防水扉を開いて外へ出た。



   ああ太平洋魔城



 外は、海水が、海底要塞の照明灯にてらしだされてうつくしくかがやいていた。

「ああ、あそこに水中快速艇がある」

「早く、早く。あともう四分しかない。これでは、安全なところまで、逃げられないかもしれない。たいへんなことになった」

「なあに、ダン艇長。心配は、あとにして、一刻も早くとび出そう」

 太刀川は、エンジンをかけた。ハンドルをしっかりにぎつて、アクセルをふめば、水中快速艇は、矢のように走りだした。

「あと、もう二分!」

「もう一キロメートル半、遠のいた」

 あと二分のちに、なにごとか起るのであろうか。まず、監禁室にのこしておいた火薬箱が爆破するであろう。

 だが、そればかりの爆薬で、あの堅牢無比の海底要塞が、びくともするものではない。それでは……

「もうあと一分だ!」

「三浦、ロロの二人は、うまくやってくれたろうか」

 この二人は、カンナ島で、どんなことをやっていたのか。じつは、これこそすばらしい思いつきであったのだ。

 それはカンナ島の石油の利用であった。無尽蔵といわれるカンナ島の石油は、大きな油槽にたくわえられ、必要なときに、海底要塞へおくられていた。太刀川はこの話をきいたとき、この石油を、海底要塞に通ずる秘密通路へながしこむことを考えついたのである。

 秘密通路にながれこんだ石油は、どうなるか──まずあの監禁室にはいり、それから扉のすき間から外へあふれだし、やがて川のようになって、廊下をながれ、中央発電所の空気窓から、滝のようになって中へとびこむだろう。いや、海底要塞の中、いたるところ、石油びたしになってしまうだろう。

 そのとき、火薬が爆発して火がついたら、どういうことになるか?

 まさに、たいへんである。この世のものとは思えない、おそろしい大爆破だ。──わが太刀川がねらったのはここである。

「ああ、あと三十秒だ! 神よ!」

 と、ダン艇長がうめくようにいった。

「さあ、水面にうきあがるぞ。島だ。カンナ島だ!」

 太刀川は、ハンドルをきりきりとまわした。あっという間に、水中快速艇は、どしーんと、海岸の砂にのりあげた。

 そのとたん、ダン艇長は、艇から、あやうくなげだされようとした。

 十二分はすぎた。時間だ。

 太刀川は、操縦席から、どさりと砂浜のうえになげだされたが、すぐさまはねおきて、月光にうかびあがる大海面をふりかえった。

(はてな?)

 太刀川は、もう立っていられなくなって、ふらふらとそのまま尻餅をつこうとした。その時、前方の海面が、ぱっと、真昼のようにかがやいた。太刀川が生まれてはじめて見たものすごい明るさだった。

「あ!」

 というさけび、ついで、まっ赤な焔が、天をついた。ゴ、ゴ、ゴーッ、ドドドーッ、バリバリバリッ。

 天地もくずれるような大音響! ひゅーうと、嵐のような突風が三人の頬をうった。大地は、大地震のように、ゆらゆらとゆれた。三人は、砂上にはった。その上を、どどーんと、大波がとおりこしていった。大爆発によって生じた津波が、カンナ島にうちあげたのであった。

「とうとう、やった。海底要塞の大爆破だ……」

 太刀川がさけんだ。

 ごうごうの爆音は、それからまだ十四、五分もひっきりなしにつづき、閃光はぴかぴかと夜空にはえた。

 海は一面、すさまじい焔が、もえひろがって、ものすごくかがやいている。

 砂上にたちつくしている太刀川の頬を、あつい涙が、はらはらとつたわっておちた。

 思えばあやういところであった。もしも一隻の恐竜型潜水艦が、太平洋へとびだしたとしたら、こんなことではすまなかったであろう。日本の海軍は、世界にほこる強大な海軍であるが、怪力線砲をもつ恐竜型潜水艦の威力も、われわれは、わすれることはできない。恐竜型潜水艦は、かたく下りたあつい鉄扉にさえぎられ、一隻もとびだすことができなかったのは、何よりであった。

 魔城ほろんで、太平洋はその名のようにふたたび平和にかえった。

 ケレンコ、リーロフの両雄は、おそらく魔城と運命をともにしたことであろう。

 小笠原諸島の南沖を西に進んでいたアメリカの大艦隊は日本の大陸政策を、さまたげる目的でやって来たのだが、途中、恐竜型潜水艦のため、大損害をこうむり、その二日後、やっとのことで、フィリピンのマニラにはいった。ダン艇長の報告で、共産党海軍の仕業とわかり、文句のいいようがなかった。その上、乗組員の士気が、おとろえたので、どうすることもできなかった。

 しかし、これによって、太平洋は、永久に、波しずかなることを得るであろうか。

 無事大任をはたした太刀川時夫は、これについて、原海軍大佐に、次のように語っている。

「日本の将兵はつよい。軍艦もすばらしい。しかし、これだけでは十分でない時代となった。太平洋の平和を永久にたもつには、どうしても正義の国日本が、今までにない科学兵器を発明することが大切である」

     *   *   *

 最後に、太刀川青年と一しょに、はたらいた人々は、どうなったであろう。ロップ島の酋長ロロは、よき酋長として附近の島々の住民たちからもうやまわれ、三浦須美吉は、郷里平磯にかえり、相かわらず遠洋漁業にしたがっている。わが愛する石福海少年は、東京の太刀川の家にとどまって、昼は軍需工場にはたらきつつ、夜学に通って一生懸命勉強しているということである。

底本:「海野十三全集 第6巻 太平洋魔城」三一書房

   1989(平成元)年915日第1版第1刷発行

初出:「少年倶楽部」大日本雄弁会講談社

   1939(昭和14)年1月~12

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:tatsuki

校正:kazuishi

2006年627日作成

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