火星兵団
海野十三



奇怪な噂



 もはや「火星兵団」の噂をお聞きになったであろうか!

 ふむ、けさ地下鉄電車の中で、乗客が話をしているのを、横からちょっと小耳にはさんだとおっしゃるのか。

 ──いや全く、こいつは冗談じゃないですぞ。これはなにも、わしたち科学者が、おもしろ半分におどかしたがって言うのではないのですわい。今われわれ地球人類は、本気になって、そうして大いそぎで戦闘準備をしなくちゃならんのだ。しかるに、わしのいうことを小ばかにして、だれも信じようとはしない。これでは、やがてたいへんなことになる。わしは今から予言をする! 地球人類は、一人残らず死んでしまうだろう。第一「火星兵団」という名前を考えても、その恐るべき相手が、どういうことをしでかすつもりだか、たいがい想像がつくはずじゃと思うが──。

 と、そういう話を、地下鉄電車の中で聞いたと、おっしゃるのか。

 ふむ、なるほど。

 そのことばづかいから察すると、そう言って自分一人で赤くなって興奮していた人というのは、からだの小柄の、頭の髪の毛も、あごのさきにのばした学者鬚も、みんな真白な老紳士だったであろう。

 それに、ちがいないと言われるか。

 ふむ、そうであろう。やっぱり、そうであった。その老紳士こそは有名な天文学者で、さきごろまで某大学の名誉教授だった蟻田ありた博士なんだ。

 さきごろまで名誉教授であったと言ったが、つまり蟻田老博士は、今では名誉教授ではないのだ。博士は、さきごろ名誉教授をやめたいと願い出て、ゆるされたのだ。

 そういうことにはなっているが、その実蟻田老博士は、奇怪にも大学当局から、辞表を出すように命令され、むりやりに名誉教授の肩書をうばわれてしまったのだ。そんなことになったわけは、ほら例の「火星兵団」にある!

 あのように「火星兵団」のことを、世間に言いふらさねば、大学当局は、なにもあの老齢の蟻田博士から、名誉教授の肩書をうばうようなことは、しなかったであろう。

 まあそれほど、大学当局では、老博士が言いふらしている「火星兵団」が、ありもしないでたらめであるとして、眉をひそめていたのである。

「火星兵団」に関する老博士の第一声は、今から一カ月ほど前、事もあろうに、放送局のマイクロホンから、日本全国に放送されたのであった。その夜の放送局内の騒ぎについては、すぐ記事さしとめの命令がその筋から発せられたので、世間にはれなかったが、実は局内ではたいへんな騒ぎで、局長以下、みんな真青になってしまい、その下にいる局員たちは、仕事もなにも、手につかなくなってしまったほどだった。

 その夜の蟻田博士の講演放送というのは、なにも「火星兵団」のことが題目になっていたわけではない。そんなものとはまるで関係のない「わが少年時代の思出」という立志伝の放送だった。

 ところが、その途中で、老博士は急に話をそらせ、講演の原稿にも書いてないところの「火星兵団」について、ぺらぺらしゃべりだしたのであった。

 つまり、こんな風であった。

 ──ええー、ところでわしは、最近重大な発見をした。それはわれわれ地球人類にとって、実に由々しき問題なのである。事のおこりは一昨日の午前四時、わしはまだ明けやらぬ夜空に愛用の天体望遠鏡をむけ、きらきらときらめく星の光をあつめていたが、その時驚くべし、遂に「火星兵団」という意味の光をつかまえたのである。おお「火星兵団」! このことばは短いが、この短いことばの中には、いよいよわれわれ地球人類に対し、あの謎の火星の生物が、今夜のうちにも──。

 その時放送は、とつぜん聞えなくなった。

「火星兵団」について、一生けんめいしゃべっていた蟻田博士の放送が、なぜその時、ぷつんと聞えなくなったのであろうか。

 それは、放送局が停電したわけでもなく、また機械が故障になったわけでもない。放送の監督をしている逓信局ていしんきょくが、博士の放送がおだやかでないのに驚いて、がちゃんとスイッチを切ったのである。逓信局では、いつでもこうして、おだやかでない放送はすぐさま止める。

 放送室の蟻田博士は、マイクのスイッチが切られたこととは知らない。だから、日本全国の人々が自分の話を聞いているものと思い、気の毒にも、額からはぽたぽた汗をたらして、一生けんめいに、その後をしゃべり続けたのであった。

 博士が、その後、どんなことをしゃべったか、それは放送が止ってしまったのであるから、外に洩れなかった。だから、ここにはなんにも書くまい。

 博士が、放送を終えて室を出ると、そこには、その筋の掛官が待っていた。おだやかでない博士の放送を聞いて、すぐさま自動車で駈附けたらしい。

 博士は、その場からその筋へ伴なわれていった。そうして大江山課長という掛官で一ばんえらい人から、「しゃべってはならない」と命令された。

「なぜしゃべっては悪いのですかな。わしは苦心の末『火星兵団』という意味の光を空中に発見した。そうして、それはまさに人類にとって一大事だ。それをしゃべって悪いと言われる貴官の考えがわしにはわからん」

 と、蟻田老博士は不満をうったえた。

「いや、その──『火星兵団』という意味の光を空中に発見した──というのが、困るのです。そんなばかばかしいことが、出来るとは思われない。火星を警戒しろというのはかまわないが、あなたが観測中に何を知ったか、その内容については、後で解除命令のあるまで、誰にもしゃべってはなりませんぞ」

 大江山課長は、きつい顔で申し渡した。

 ふしぎな謎の言葉「火星兵団」!

 蟻田博士の放送によって「火星兵団」のことは、日本全国津々浦々にまでつたわった。そうして、その時ラジオを聞いていた人々を、驚かしたものである。

 ここに一人、蟻田博士の放送に、誰よりも熱心に、そうして大きなおどろきをもって、耳を傾けていた少年があった。この少年は、友永千二ともながせんじといって、今年十三歳になる。彼は、千葉県のある大きな湖のそばに住んでいて、父親千蔵せんぞうの手伝をしている。彼の父親の手伝というのは、この湖に舟を浮かべて、魚を取ることだった。しかしどっちかというと、彼は魚をとることよりも、機械をいじる方がすきだった。

「ねえ、お父さん。今ラジオで、蟻田博士がたいへんなことを放送したよ。『火星兵団』というものがあるんだって」

 千二は、自分でこしらえた受信機の、前に坐っていたが、そう言って、夜業に網の手入をしている父親に呼びかけた。

「なんじゃ、カセイヘイダン? カセイヘイダンというと、それは何にきく薬かのう」

「薬? いやだねえ、お父さんは。カセイヘイダンって、薬の名前じゃないよ」

「なんじゃ、薬ではないのか。じゃあ、うんうんわかった。お前が一度は食べたいと言っていた、西洋菓子のことじゃな」

「ちがうよ、お父さん。火星と言うと、あの地球の仲間の星の火星さ。兵団と言うと、日中戦争の時によく言ったじゃないか、柳川兵団やながわへいだんだとか、徳川兵団だとか言うあの兵団、つまり兵隊さんの集っている大きな部隊のことだよ」

「ああ、そうかそうか」

「お父さん、『火星兵団』の意味がわかった?」

「文字だけは、やっとわかったけれど、それはどういうものを指していうのか、意味はさっぱりわからぬ」

 千蔵は大きく首を振るのだった。

「おい千二、その『火星兵団』という薬の名前みたいなものは、一体どんなものじゃ」

 父親は網のほころびを繕う手を少しも休めないで、一人息子の千二の話相手になる。

「さあ『火星兵団』ってどんなものだか、僕にもわからないんだ」

「なんじゃ、おとうさんのことを叱りつけときながら、お前が知らないのかい。ふん、あきれかえった奴じゃ。はははは」

「だって、だって」

 と、千二は口ごもりながら、

「『火星兵団』のことは、これから蟻田博士が研究して、どんなものだかきめるんだよ。だから、今は誰にもわかっていないんだ」

「おやおや、それじゃ一向に、どうもならんじゃないか」

「だけれど、蟻田博士は放送で、こんなことを言ったよ。『火星兵団』という言葉があるからには、こっちでも大いに警戒して、早く『地球兵団』ぐらいこしらえておかなければ、いざという時に間に合わないって」

「ふふん、まるで雲をつかむような話じゃ。寝言を聞いているといった方が、よいかも知れん。お前も、あんまりそのようなへんなものに、こっちゃならないぞ。きっと後悔するにきまっている。この前お前は、ロケットとかいうものを作りそこなって、大火傷おおやけどをしたではないか。いいかね、間違っても、そのカセイなんとかいうものなんぞに、こっちゃならないぞ」

「ええ、大丈夫。ロケットと『火星兵団』とはいっしょに出来ないよ。『火星兵団』を作れといっても、作れるわけのものじゃないし、ねえおとうさん、心配しないでいいよ」

「そうかい。そんならいいが……」

 と、父親も、やっと安心の色を見せた。

 だが、世の中は一寸先は闇である。思いがけないどんなことが、一寸先に、時間の来るのを待っているかも知れない。千二も父親も、まさかその夜のうちに、もう一度「火星兵団」のことを、深刻に思い出さねばならぬような大珍事に会おうとは、気がつかない。

 その夜ふけに、千二は釣の道具を手にして、ただひとり家を出かけた。湖には、たいへんおいしいうなぎがいる。千二は、その鰻をとるために出かけたのだった。

 出かけるときに、柱時計は、もう十二時をまわっていた。

 外は、まっくらだった。星一つ見えない闇夜だった。

 だが、風は全くない。鰻をとるのには、もってこいの天候だった。

 千二は、小さい懐中電灯で、道をてらしながら、湖の方へあるいていった。

「なんという暗い晩だろう。鼻をつままれてもわからない闇夜というのは、今夜のことだ」

 でも、湖に近づくと、どういうわけか、水面がぼんやりと白く光ってみえた。

「こんな暗い晩には、きっとうんと獲物があるぞ。『うわーっ、千二、こりゃえらく捕ってきたな』と、お父さんが、えびすさまのように、にこにこして桶の中をのぞきこむだろう。今夜はひとつ、うんとがんばってみよう」

 千二は、幼いときに母親に死にわかれ、今は親一人子一人の間柄だった。だから、父親千蔵は、天にも地にもかけがえのないただひとりの親だった。千歳は、千二のためには父親であるとともに、母親の役目までつとめて、彼をこれまでに育てあげたのだ。なんというたいへんな苦労であったろうか。しかも父親千蔵は、そんなことを、すこしも誇るようなことがなかった。千二は少年ながら、そういういい父親を、できるだけ幸福にしてあげたいと思って、日頃からいろいろ考えているのだった。できるなら、ひとつ大発明家になって、父親をりっぱな邸に住まわせたい……

 そんなことを考えながら歩いていた千二は、とつぜん、

「おや!」

 といって、立止った。それはなにかわからないが、きいんというような、妙な物音を耳にしたのである。

 きいん。

 妙な物音だった。あまり大きな音ではなかったけれど、何だか耳の奥に、錐で穴をあけられるような不愉快な音だった。

「うーん、いやな音だ。一体何の音かしらん」

 暗さは暗し、何の音だか、さっぱりわからない。その音のしている見当は、どうやら頭の上らしいが、またそうでもないような気もする。

 その怪音は、やがて更にきいんと、高い音になっていったかと思うと、そのうちに、すうっと聞えなくなってしまった。

「あれっ、音がしなくなったぞ」

 音はしなくなったが、千二は、前よりも何だか胸がわるくなった。腐った物を食べたあとの胸のわるさに、どこか似ていた。千二は、さっき家を出る時に食べた、夜食のかまぼこが悪かったのではないかと思ったほどである。

 しかし、これは決して食あたりのせいではなかった。いずれ後になってはっきりわかるが、千二が胸が悪くなったのも、もっともであり、そうしてそれは食あたりではなく、原因は外にあったのである。

 千二は、ついにたまらなくなって、道のうえに膝をついた。

 とたん、さあっと音がして、雨が降出した。この時冷たい雨が千二の頬にかからなければ、彼はその場に長くなって、倒れてしまったかも知れない。だが、幸運にも、この冷たい雨が、千二をはっと我にかえらせた。

「うん、これはしっかりしなければだめだ」

 雨のおかげで地面が白く見え、彼のすぐ近くに、大きな鉄管てっかんが転がっているのが眼についた。彼は雨にぬれないようにと思って、元気を出してその中へはいこんだ。

 その時であった。ずしんと、はげしい地響じひびきがしたのは!

 ずしん!

 たいへんな地響きだった。

 千二のはいこんでいた大きな鉄管が、まるでゴムまりのように飛びあがったような気がしたくらいの、はげしい地響きだった。

 はじめは、地震だとばかり思っていた。

 が、つづいて何度もずしんずしんと地響きがつづくので、地震ではないことがわかった。

 千二は、そのころ、もう立上る元気もなくて、鉄管の中で死んだようになって横たわっていた。

 その時、彼は、何だか話声を聞いたように思った。どこでしゃべっているのか知らないが、さまで遠くではない。

 話声のようでもあり、また数匹のけものが低くうなりあっているようでもあった。

 ひゅう、ひゅう、ひゅう。

 ぷくぷく、ぷくぷく。

 そんな風にも、千二の耳に聞えた。そんな風に聞えるのは、彼の気分が悪いせいだとばかり思っていた。

 そのうちに、その話声は急に声高になった。

「何を言っているのだろうか。あれは誰だろうか」

 この時千二の頭は、かなりぼんやりしていたが、あまりに気味のわるい叫び声であるから、鉄管の中でじっとしているわけにもいかず、鉄管から首をだして、声のする方を眺めたのであった。

 その時の彼の驚きといったら、言葉にも文字にもつづれない。

 千二のいるところから、ものの二十メートルとは離れていないところに、大きな岩があった。それは湖の中へつきだしている、俗に天狗岩という岩にちがいない。その岩の上に、とても大きな爆弾のようなものが、斜に突刺さっているのだった。その爆弾ようのものは、表面からネオン灯のようなうす桃色の光を放っていたので、その輪郭は、はっきり見えた。

 それは一体何ものであろうか。



ただよ毒気どっき



 天狗岩てんぐいわに、斜に刺さっている爆弾のような怪しい物!

「あっ、あれは、なんだろう!」

 と言ったきり、千二は、まるで石の人形のように、からだが、うごかなくなった。それはあまりに驚きがひどかったからだ。

 でも、こわい物を見たいのが人情であった。千二は、ぶるぶるとふるえながらも、目を皿のように大きくして、そのうす桃色に光る爆弾様の巨体をじっと見つめていた。

 すると、いた、いた。

 その爆弾様のものの上に、なにかしきりに動いているものがあった。それは、俵のような形をしていた。うす桃色の光が、そこのところだけ影になる。つまり俵の影絵を見ているような工合だった。

「な、なんだろう、あれは……」

 千二は、鉄管からはい出した。とたんに、なにかの毒気にあたったかのように、胸がむかむかして来た。

「あっ、苦しい」

 彼は、また鉄管の中に、はいこんだ。すると、とたんに、気分はもとのようにすうっと晴れやかになった。

「どうも、へんだ。鉄管から頭を出すと、気分が悪くなる。これは一体どういうわけだろう」

 でも、千二は、そのまま鉄管の中にひっこんではおられなかった。どうしても、あの怪しい物の正体を見とどけるのだ。

 千二は、鉄管のかげにいると、気分が一向悪くならないのに気がついたので、こんどは用心して、鉄管の隙間から、目だけ出したが、果して思った通り、気分の方は大丈夫であった。

「うむ、あの怪物体から、何か気分を悪くするような毒気を出しているのにちがいない」

 千二は大きくうなずいたが、そのとき、また意外な光景にぶつかった。

 もう千二は、一生けんめいである。鉄管と鉄管との、わずかの隙に目をあてて、天狗岩の怪物体をにらみつけている。

 その時、かの爆弾のような形の、大きな怪物体が、突然すうっと動き出した。いや、動くというよりも、横に倒れ出したのである。

「あっ、あぶない」

 と、千二が叫んだ時には、もうかの怪物体は、天狗岩の上に横倒しとなって、ごうんとぶつかった。そうして、ぶつかった勢いで、こんどは、ぽうんと天狗岩からはねあがった。

「あっ、おっこちる」

 千二は、手に汗をにぎって、怪物体を見つめていた。

 すると、かの怪物体は、にわかにその光る姿を消してしまった。

「おや、どうしたのか」

 と、千二がいぶかる折しも、どぼうんという大きな水音が聞えた。大地がみしみしと、鳴ったくらい大きな水音だった。

「ああ、とうとう湖水の中におっこってしまった!」

 千二は、驚きとも喜びともつかない声をあげた。

 それっきり、かの怪物体は見えなくなった。天狗岩も、また元の闇の中に消えてしまった。

「ふうん、今のは夢じゃなかったかな」

 千二は、自分の顔をつねってみた。痛かった。たしかに痛かった。では、夢ではない。

 千二は、鉄管をはい出した。もう大丈夫だろうと思ったから。

 果して、もう大丈夫であった。さっきのように、気分が悪くなりはしなかった。するとあの毒気のようなものは、やっぱりあの怪物体からふきだしていたものにちがいない。

「湖水の中におっこって、どうしたかな」

 千二は、そろそろ天狗岩の方へ、にじりよって行く。

 うす桃色に光っていた怪物体が、天狗岩の上から姿を消すと、つづいて起る大きな水音! 千二少年が、暗闇の中を這って天狗岩に近づいたのは、その怪物体が、どうなったかをたしかめるためであった。多分この怪物体は、湖水の中に落込んだものと思われた。

 千二は、もう天狗岩の上に来ていた。

 彼は、そこで懐中電灯をともした。

「さっきは、このへんに怪物体が立っていたんだが……」

 そう思って、岩の上を見ると、果して岩の上は大変に壊れていた。岩層がんそうがすっかり出てしまって、あたりにはその破片が散らばっていた。

 千二は、びっくりしたが、自ら気をひきたてて、天狗岩の先の方まで這って行った。

 その岩の鼻のところは、別に何ともなっていなかった。苔もむしていたし、風化をうけて岩肌はすすけたようになっていた。

「さあ、この下のふちに何が見えるか。気が遠くならないように、おへそのところに力をいれなくては……」

 と、千二少年は、はやる気をおさえ、二、三回おなかをふくらませたりまた引込ませたりした上で、天狗岩の鼻先に腹ばいになった。そうして下を向いて淵をのぞきこんだが、何だか、ぶつぶつと泡の立つような音がするだけで、何にも見えない。そこで彼は、また懐中電灯をつけて、はるかの水面に光をあてて見た。

「やっぱり、なにも見えやしないや」

 見えるのは、十メートルほど下に淀んでいる黒い水面ばかりであった。しかし彼は、そのままの姿勢で、しばらくはこの黒い水面をじっと見つめていた。

 そのうちに、彼はとつぜん身近に、ひゅうひゅうという妙な音を聞いた。

 すわ!

 千二は、びっくりして、その場にぱっと身を起した。

 とつぜん耳にしたところの怪音。ひゅうひゅう、ひゅうひゅうと、むちかなんかを振るような音だ。その音なら、さっきも、彼はたしかに自分の耳で聞いたのである。あのうす桃色の怪物体が、天狗岩のうえに下りて来たあの時に。

 ひゅうん。

 いきなり、千二の耳もとに、怪音が聞えた。

「あ、痛っ」

 何者かが、ふいに、千二の持っていた懐中電灯を叩きおとした。

「だ、誰だ」

 千二は、身近くに、誰かがいるなどとは、想像しなかった。だからそれだけに驚きはひどかった。──立直ろうとする時、又もや、

 ひゅうん。

 と唸りごえが聞えたかとおもうと、千二少年は背中を、どすんと強くなぐられた。

「ううむ」

 つづけざまの、不意打の襲撃だった。何も見えないまっくら闇の中で、おもいがけない見当から、なぐられたり、つきとばされたり、ひどい目にあった。しかも相手は、何者だか、まるっきりわからない。千二は、はあはあ息をついていたが、そのうちに何者かが、すぐ目の前をとおりすぎるようなけはいを感じたので、思いきって、

「やっ」

 とさけぶと、ここぞと思う見当に向かって、とびついた。

 すると、はたして手ごたえがあった。

「うぬ、もうにがさないぞ」

 千二は、どなった。そうして、しっかりとおさえつけた。その相手というのは、何者であったろうか。とにかくそれは、手ざわりだけでは、苔がはえた土管のような気がした。生き物のようではなかった。

 まったく妙な手ざわりである。苔がはえた土管のように、上はぬるぬるしていて、しかもたいへん固いのであった。それが、千二が闇の中でとらえた相手であった。その形はくらがりのことで、はっきり見えない。

「これは、間違えて、何か別のものをつかまえたのではないかしらん」

 とすこしの間、千二は、そう思った。

 しかし、千二のつかまえている土管みたいな怪物は、彼のおさえつけている下から、はねかえそうとしているらしく、しきりにもくもくと動いたし、また、しばらくたって、

 ひゅう、ひゅう。ひゅう、ひゅう。

 と、しのびやかな鳴き声を立てたので、今おさえているのが、例の怪物であることに、決して間違がないと知った。

 だが、こうしておさえつけていても、千二は、決していい気持ではなかった。とびつく前は、相手は人間か、またはこの湖によく下りる鳥だろうと思っていた。ところが、それとはまったく手ざわりの違った、ぬれ土管どかんの怪物だったのである。でも後から考えると、彼はよくまあ勇敢に、組附いたりしたものだと感心する。これが闇夜の出来事ではなく、昼間の出来事で、相手の姿がはっきり見えていたとしたら、彼は決してとびつきはしなかったろう。いやその反対で、きっと顔色をかえて、逃出したことであろう。

「さあ、ずるい奴め。土管の中からひっぱり出してやるぞ」

 千二は、本気でそう言って、相手の体をなでまわしたが、さあたいへん、土管だと思ったのに、その先は鉄甲のように、まるい。

「ぷく、ぷく、ぷく」

 とたんに、その怪物は、うなった。そうして千二の体を、細い紐みたいなもので、ぎゅっとしめつけた。その力の強いことといったら……。

「うむ、苦しい」

 千二少年は、遂にたえきれなくなって、悲鳴をあげた。怪物は、妙な手ざわりの紐で、千二の体をぎゅうぎゅうしめつけるのであった。そのうちに息が止りそうになった。

「ああっ!」

 もうだめだと思った。天狗岩の上で、変な怪物にしめ殺されてしまうんだと、覚悟しなければならなかった。そのとき千二の瞼の裏に、わが家に、彼の帰りを待っている父親千蔵の顔が、ぼうっと浮かんだ。

「あ、お父さん」

 すると、父親千蔵の顔が、にやりと笑って、

「おい千二。負けちゃならねえぞ。かまうことはない。そのけだものを、水の中にひきずりこめよ。お前の得意の水練で、相手をやっちまうんだな」

 と、千二をはげました。きっとそれは、人間が息たえだえになる時に、必ず見る幻であったと思うが、また同時に、孝心ぶかい千二に対し、神が助けの手をのべさせたもうたものと思われた。

「よし、負けるものか」

 千二は、勇気百倍した。そうして力いっぱい相手をつきとばした。

 だが、そんなことで離れるような相手ではない。

 ひゅう、ひゅう、ひゅう。

 かの怪物は、うなり出した。

「うぬ、この野郎!」

 千二は、もう必死だ。相手が離れないと見ると、そのままずるずると相手をひきずって、岩の先の方へ──。

 怪物は、驚いたか、また一段とうなりごえも高く、妙な紐で千二の首をしめつける。いよいよ千二の息は、止りそうだ。死んではならない。その時千二は、

「えい!」

 と叫んで、どうと横に転がった。

 千二は、怪物もろとも、どうと横にころがった。にぶい音がした。怪物が、横腹をうったのである。

 天狗岩のうえを、千二と怪物とは、取組んだまま、上になり下になり、ごろごろと転がる。

「なにくそ。負けてたまるものか」

 と、千二はどなっているが、実のところ、どうやら怪物の方が力がつよいようだ。千二は、すこぶる危い!

「ま、負けてたまるか!」

 そのとき怪物は、千二のうえにのしあがって、があんがあんと、かたい身体からだを千二にぶっつけるのであった。その痛いことといったら、まるで自動車につきあたられるような気持であった。怪物は、千二をおしつぶすつもりらしい。

 このとき、千二の気持は、かえってだんだんおちついてきた。どうせ死ぬのなら、という覚悟がついたせいかもしれない。日本の少年は、死の一歩前まで勇ましくたたかうのだぞと、日頃教わってきた先生のお言葉を思い出したためでもある。

「水の中へ、怪物をひっぱりこむんだ!」

 父親の幻は、一生けんめいに、応援してくれる。そこで千二は相手の怪物のすきをうかがって、

「えい、やっ!」

 と、満身の力をこめて、はねかえした。そのきき目はあった。

 怪物の身体が、くるっと一転した。そしてひゅうひゅうと、苦しそうに呻った。そのとき両者の体は、一しょにごろごろと転がっていく。だんだんはずみがついてくる。そのうちに、体が急に軽くなった。

(あっ、落ちるのだな)

 両者の体は、つぶてのように落下していく。

 どぶうん。はげしい水音がきこえた。水柱が、夜目にも高くのぼった。

 それっきり千二は、気が遠くなってしまった。



第二の謎



 話は、すこしかわるが、「火星兵団」のことを、ラジオで放送して、世間の注意をうながした蟻田老博士のことである。

 蟻田博士が、警視庁の大江山捜査課長から大いに叱られたことは、前に言った。それは「火星兵団」につき、博士があまりにもでたらめすぎることを言出したので、警視庁では、世の中をまどわすものとして、叱ったのである。

 しかし当の博士は、それがたいへん不服であった。

 その翌日、博士は、大江山課長をたずねて、警視庁へのこのこはいって来た。

「やあ、大江山さん。わしはどうも貴官から言いつけられた命令を、はいはいと言って聞いておられないように思いますのじゃ」

 博士は、課長の顔を見ると、いきなり大きな声で、こう言った。

「困りますねえ、蟻田博士」

 と、大江山課長は、椅子からたちあがって、博士の肩をおさえ、

「私がお伝えした命令が聞かれないとあれば、やむを得ず、博士の自由をおしばりすることになるかもしれませんぞ」

「ははあ、わしを留置場へおしこめると言うのでしょう。うむ、やりたければ、どうぞおやりなさい。しかしそのために『火星兵団』を用心することが、おろそかになるわけじゃから、大損ですぞ。天下はひろいが、今『火星兵団』の秘密を解く力のあるものは、はばかりながら、わしの外には誰もないのじゃからのう」

 蟻田博士は、白髪頭をふりたてて、盛に言いまくるのだった。

「じゃ、博士は、火星が兵団をつくって、今夜にも我々の住む地球へ、攻めて来るとでも言われるのですか」

「今夜にも、火星の生物が地球へ攻めて来るかどうか、それはまだはっきり言えないが、『火星兵団』と言うからには、火星の生物は、どこかと戦いを交えるつもりにちがいない。すると、地球を攻める場合もあるわけじゃ」

「ねえ博士」

 と、大江山課長は、何とか博士をなだめすかしたいものだと思い、ますます下から出て、

「博士のお考えは、ごもっともです。ですが、火星に生物がすんでいるか、すんでいないかもわかっていないのに、いきなり市民にむかって、火星の生物が、今夜にも攻めて来るぞとおどすのは、どうでしょうかね。つまり、よけいな心配をかけるわけで、あまり感心しないと思うんですがね」

「なに、おどす? わしが、ありもしないことで、市民をおどすとでも言われるのかな」

 と、蟻田博士は大不服らしく、白髪頭をぶるぶるとふるわせ、

「とんでもない間違じゃ。これほどわしが本気で心配しているのが、貴官にはまだおわかりにならぬかのう。ああそんなことでは、前途が案じられる。が、わしの言うことが信じられないとあれば、もう何を言ってもむだじゃ。わしは、もう一つ重大なことを、聞かせるつもりで来たが、もう何も言うまい。だが、後で貴官は、きっと思い知られる時があるじゃろう。はい、さようなら」

 博士は、そう言って、無念そうな顔つきで、課長の部屋を出ていこうとする。

「もう一つ、重大なことを聞かせるつもりで来た!」と蟻田博士は言った。その言葉は、課長の耳に、たいへん無気味にひびいた。

「もし、蟻田博士、お待ちください。もう一つ重大なことと言うのは、一体何ですか」

 と、博士のうしろに、おいすがった。

 蟻田博士は、課長の手を払って、小ばかにしたような目で、じろりとふりかえったが、そのまま出ていく。

「博士、聞かせてください」

「ふん、聞きたいと言われるか。聞いても、やっぱり信じられまいと思うが──」

 と博士はあきらめ顔で、

「こういう謎がおわかりかな。近く地球の上では、『暦がいらなくなる日が来るであろう』どうじゃ、おわかりかな」

(近く地球の上では、暦がいらなくなる日が来るであろう)

 蟻田博士は、みずから、これが謎の言葉だと言って、大江山課長にぶっつけた。

 課長は、もちろん面くらった。

(ふむ、「近く地球の上では、暦がいらなくなる日が来るであろう」ううむ、はてな!)

 蟻田博士は、課長が困った顔をしているのを見ると、それ見たかと言わぬばかりに、にやりと笑って、部屋を出ていった。

 課長は、もうその後を追おうとはしなかった。

「はてな、どういう意味かしらん」

 課長は、ひとりごとを言うと、腕を組んで考えこんだ。

「ねえ、課長さん。あの博士は、変なんですよ。変な人の言うことを、本気になって考えていると、こっちもまた変になってしまいますよ」

 佐々さっさという、年の若い、顔の赤い元気な刑事が、課長の後へ来て、なだめるように言った。

「うむ、博士は変かもしれないとは思っていたが、それにしても、今の言葉は、変に気になる言葉じゃないか」

「なあに、気にするからいけないのですよ。あんなことを、なにも考えることはありませんよ。僕だって、変なことなら、なんでも言えますよ」

「ほう、言えるかね」

「言えますとも。たとえば、猫がピストルを握って、人を殺したぜ。いや、今日、僕の前をラジオが通りかかったので、右手で掴まえたよ。どうです、こんなことなら、いくらでも言えますよ」

 佐々刑事は、口から出まかせを言う。

 だが、課長は笑いもせずに言った。

「いや、博士の言った謎は、そんなふざけたものとはちがうようだ。もっと、ほんとうのことがはいっている。これは、明日までに、よく考えて見ることにしよう」


 蟻田老博士が、かえりぎわに、なげつけていった謎の言葉を、大江山課長は、その夜も大いに考えた。しかしどうも、一向にとけなかった。

 明くれば、その翌朝、課長は、警視庁へ出勤する道すがらも、バスの中で、いろいろ考えつづけたが、やはりとけなかった。

(近く地球のうえでは、暦がいらなくなる──とは、はてな)

 出勤してみると、大江山課長は、或る別の事件で、急に目がまわるようないそがしさとなった。それがため、あれほど気になっていた老博士の謎だったが、いそがしさにまぎれて、忘れるともなく、忘れてしまった。

 それは、一週間ほど、のちのことだった。

 ふと、大江山課長は、蟻田博士がぶつけていったあの謎の言葉のことを、思いだした。

(はて、あれは、どこまで考えたのだったかなあ)

 大江山課長は、それを思いだすのに、たいへん骨が折れた。それとともに、課長は、ふしぎな気持におそわれた。それは外でもない。あれほど、ぎゃんぎゃんやかましいことをいった蟻田博士が、その後うんともすんともいってこないことだった。

 課長は、その日も時間がたつにしたがって、博士のことが気がかりになった。そこで彼は、部下の刑事をよびだした。

「おい、佐々さっさ。君、これからすぐ出かけて、蟻田博士がなにをしているか、様子をみてきてくれ」

「ははあ、いよいよまた始りますね」

「なにが、始るって」

「いや、変な人相手の、新こんにゃく問答が始るんでしょう。こんどは、こっちも負けずに、でたらめな文句を用意していって、変な博士をあべこべに、おどかしてやるかな。うわっはっはっ」

 佐々刑事は帽子をつかんで、課長の部屋をとびだした。が、しばらくすると、彼は顔色をかえて、戻ってきた。

「課長、いけませんや」

 顔色をかえて戻ってきた佐々刑事は、大江山課長の机のうえに、はいあがるような恰好をして、ものものしいこえを出した。

「どうしたのか、佐々」

 課長も、胸になにかしら、するどいものを突込まれたような感じがした。

「課長! 蟻田博士が、姿を消してしまったんです」

「姿を消した? すると家出したのか、それとも殺されたのか、どっちだ」

 大江山課長も、息をはずませて、問いかえした。

 全く、厄介やっかいなことになったものである。「火星兵団」をいいだした博士が、奇怪な謎をのこしたまま姿を消すなんて、めいわくな話である。

「わしのほかに、この謎をとく力をもった人間は、居ないであろう」

 などと、大きなことをいった博士である。

 それは、いくぶん大げさにいったのであろうが、それにしても、謎を出した御当人がいなくなっては、たいへん困る。

 ──大江山課長は、佐々がどんな返事をするかと、目をすえて待っている。

 佐々は、課長が、家出か殺されたのかと急な問いをかけたので、鳩が豆鉄砲まめでっぽうをくらったように、目をまるくして、しばらくは口がきけなかったが、やがて、ごくりとつばをのんだ。

「ええええ、そ、それは……」

 佐々は、あわてると、つかえるくせがあった。

「そ、それは──つまり、蟻田博士は、いつの間にか、天文室からいなくなったのです。机の上も、望遠鏡の位置も、博士がその部屋にいるときと、全く同じ有様です。天窓も、あけ放しです。ですから天体望遠鏡にも、机の上においた論文や本のうえにも、露がしっとりおりて、べとべとです」

「ふうむ、なるほど」

「だから、博士は、ちょっと便所にでもいくような工合に、行方不明になったんです」

 蟻田老博士の行方不明!

「火星兵団」の謎を解く力のあるのは、自分だけだと、いばっていたその老博士が、とつぜんいなくなったのだ。

 佐々刑事が、大江山課長に、今報告したところによると、博士の邸内にある天文室の様子は、ふだんとすこしも変らず、天窓はあけ放しになっていて、机の上にも、望遠鏡にも、露がおりているというのだ。

「博士が部屋から姿を消したのは、何時いつのことかね」

 と、大江山課長は、たずねた。

「それは、わかりませんよ。あの邸内には、博士一人が住んでいるだけなんですから、誰も知らないのです」

「ふむ、博士は一人で暮しているのか。じゃあ、食事などは、どうするのだろうか」

「食事は、外に食べにいったり、または、パンなどを買いためておいて、それを出して食べているらしいんですよ。私がさっきいった時も、包紙から、パンが顔を半分出していました」

 博士は、よほどの変り者である。

「でも一日のうちには、誰か博士邸をたずねて来る者がありそうなものだ。たとえば、ガスのメートルを見るために、ガス会社の人が来るとか、洗濯物の御用聞がやって来るとか、そんな者が、ありそうではないか」

「さあ、どうですかな。今後の調べを待つほかはありませんね」

「ふうん、そいつは弱ったね」

 と、課長は眉の間に、しわをよせて、考えこんだ。

「どうしますか。ラジオ自動車隊へ、すぐ手配をしてはどうですか」

「いや、そんなことはしない方がいい。おい佐々。君、案内してくれ。僕がいって、一つよく、調べてみよう」

「えっ、課長と私と二人きりで……」

「そうだ」

 と、課長はうなずき、

「それから博士の失踪のことは、当分世間へは秘密にしておくのだ」



わからない話



 蟻田老博士の行方不明になった事件は、新聞にも出なかったし、ラジオのニュースでも放送されなかった。

 そのわけは、主として大江山捜査課長のふかい考えで、世間には知らせない方がいいということになったのである。報道禁止命令が、新聞社へも放送局へも発せられた。そうして、課長の部下は、老博士の行方をつきとめるために、四方八方に散って、大活動を始めた。

 だが、老博士の行方は、いつまでも、なかなかわからなかった。

 そのうちに、二十日はつかほどの日数が過ぎてしまった。ちょうどそのころ、読者もまだよくおぼえておられることと思うが、あの天狗岩事件が起ったのである。

 天狗岩事件といえば、友永千二少年が、夜釣にいく途中、はからずも天狗岩の上に、怪しい物体が飛んで来たのを見つけ、それから彼は勇敢にも、天狗岩へ上ったところ、怪しい者に組みつかれ、もみあううちに、両方もろとも、天狗岩をすべって、どぼんと湖の中に落ちてしまった事件のことだった。

 だから、その当時、蟻田老博士は行方不明のままだし、そこへ持って来て千葉県下の出来事ながら、奇怪な天狗岩事件が持上ったわけである。この二つの怪事件の間には、何かつながりがあるのか、どうであろうか。

 いや、それよりも、友永千二少年は、その後どうなったのであろうか。湖の中に落ちて、そのまま溺れ死んでしまったのであろうか。

 千二少年は、生きていた。

 彼は今、ふと我に返った。とたんに感じたことは、なんだか、大変長い夢を見つづけていたということであった。

「ああっ──」

 千二は、うす眼をひらいた。

「ああっ──」

 千二少年が、正気をとりもどしたときに、まずはじめて感じたものは、においだった。それはじつに異様なにおいだった。

 彼は、くすんくすんと鼻をならして、そのにおいが、なんのにおいであるかを知ろうとした。だが、彼のおぼえているものに、そんなにおいのするものはなかった。しいて、それに似たにおいをさがしてみると、牛小屋のかたわらを通ったときの、あのたまらないにおい──そのにおいを、もすこし上等にして、その中へ海草のにおいをまぜると、いま千二がかいでいる異様なにおいに近いものになる。けれども、牛小屋と海草のにおいを合わせただけではない。そのうえに、もう一つ、なんだかにおったことのない、妙にぴりぴりしたにおいが交っていたのである。なんとなくうまそうでいて、そしてむかむかするにおいだ。

 におったことのない妙なにおい!

 それも道理であった。これこそ、火星の生物の汗のにおいであったのだ。火星の生物の汗のにおいが、その部屋一ぱいに、みちていたのである。

 はじめ千二は、ちょっといいにおいだと思ったけれど、間もなく胸がむかむかしてきた。それほどいやらしいにおいであった。

 そのとき、ぎーぃと音がして、誰かが近づいた気配けはいである。

 千二は、ぱっと眼をひらいた。それまで千二は、正気にかえったとはいうものの、ぐったりして眼をつぶって、ただ鼻ににおいだけを感じていたのだった。

「おい君、いま元気にしてやるぜ」

 うす桃色の湯気の中から、とつぜん、この言葉が聞えたのである。

「えっ」

 千二少年は、その方を見た。

 湯気は、もうもうと渦を巻いていた。その向こうに、何者か立っている。ぼんやりと、頭のかっこうのようなまるいものが見えた。

「だ、誰?」

 千二は、まるい頭のようなものに、声をかけた。

「誰でもない。おれだよ」

 湯気の中から、ぬっと姿をあらわした者があった。

 頭には、つばの広い、黒い中折帽子をかぶり、そうして同じ黒い色の長い外套がいとうを、引きずるように着た大男であった。

 黒い色のレンズのはまった大きな眼鏡をかけているので、人相のところは、はっきりしない。

 その眼鏡の上には、太い眉毛がのぞいている。

 鼻は、まるで作り物のように、すべっこくて、きちんと三角形をなして、とがっている

 唇は、肉がうすくて、たいへん横に長い。

 あごのあたりは、よく見えない。外套のえりを立てて、その中に頬から下を、ふかく埋めているのである。

 胴中どうなかは、さっきも言ったように、たいへんふといのであるが、両方の腕は、外套の上からではあるが、たいへん細くて長い。だから胴中と腕とが、妙につりあわない。全く、千二少年の知らないおじさんだった。

 千二は、この黒いものずくめの、かっこうの悪いおじさんを一目みた時に、すでにもう、たいへんいやな気持になった。遠慮なく言うと、蜘蛛くも化物ばけものみたいな人間なんだから……

「誰です。おじさんは!」

「おじさん? おじさんて、何のことかね」

「おじさんというのは、あんたのことをさして言ったんですよ」

 おじさんという言葉を知らないなんて、変な大人おとなである。千二は、いよいようす気味が悪くなって、立上ろうとした。

 が、立上ることは出来なかった。よく見ると、彼の下半身は、何かで縛られているらしく、立とうとしても、体がいうことを聞かないのであった。

「ああ、こらこら。じっと寝ているがいい。今おれが、お前を元気にしてやるよ」

 と、蜘蛛の化物みたいな、その黒いものずくめの大男が言った。

「もう、たくさんです。それよりも、あんたは誰なのか、それを教えて下さい。そうして僕が、どうしてこんなところに来ているのだか、それを教えて下さい」

「はははは。そんなに気になるかね。ほんとうのことを言って聞かせてもいいが、お前がおどろくだろうから、まあ、やめにしよう」

「そんなことを言わないで、教えて下さいな」

「そうか。きっとおどろかない約束をするなら、教えてやってもいい」

 その蜘蛛の化物みたいな大男は、ものを言うたびに、唇を境にして、鼻の下からあごまでの間が、障子紙のように、ぶるぶるふるえるのだった。どうも只者ではない。

「僕、おどろいたりしませんよ」

 千二少年は、心の中に決心した。どんなことがあっても、おどろくまいと。

「そうか。きっとおどろかないな」

 と、その大男は念をおして、

「では教えてやろう。いいかね。お前が今こうしているところは、火星のボートの中だ。そうしてこの中には、火星の生物が、十四、五体も乗組んでいるのだ」

「えっ、火星のボートの中ですって」

「なんだ。やっぱりおどろくじゃないか」

 火星のボートの中! これがおどろかないでおられようか。

 火星のボートの中に、千二はいたのである。何時いつの間に、火星のボートの中にはいったのか、さっぱりわからない。

「すると、僕の体は、もう地球から離れてしまったのですね」

「ううっ、まあそのへんのことは、何とでも考えたがよかろう」

 蜘蛛の化物みたいな大男は、ちょっとあわてたらしかったが、ともかく返事はした。

 そうか、火星のボートの中か。道理で変なにおいがすると思った。こんな変なにおいは、地球の上ではないにおいだ。

 だが、ボートにしては、天井があるのが、不思議である。火星では、天井のあるボートを使うのだろうか。

「おい。お前を今元気にしてやるから、そのうえで、一つ頼みたいことがあるんだ」

 その男は、突然用事のことを話しかけた。

「頼みたいことですって」

 千二は、目をぱちぱちして、この不思議な男の顔を見上げた。

「一体、おじさんは、何という人なの。ああそうか。おじさんも、やはり火星の生物なんだね」

 そうだ、それに違いない。人間と同じ恰好をしていたので、今まで、人間のように思って話をしてきた。しかし火星のボートの中にいて、いばっているからには、やはり火星の生物に違いない。しかし、それにしては、日本語がこんなにうまいのは、どうしたということであろう。

「お、おれのことかね」

 と、その大男は、またどぎまぎしているようだったが、やがて蜘蛛のように肩を張ると、

「お、おれは人間さ。お前と同じ人間なんだよ。ほら、よくごらん。人間と同じ顔をしているだろう。話だって、よくわかるだろう。火星の生物じゃないさ。だから、おれをこわがることはない。仲好くしようや」

 と、そのきみのわるい大男は言うのであった。とんでもないことだと、千二は心の中で思ったが、口に出しては、この大男をおこらせるだろうと思って、やめた。

「おじさんは、ほんとうに人間ですか」

「そ、それにちがいない。なぜ、そんなくだらんことを聞くのか」

「でも、変ですね。火星のボートの中に、地球の人間が一しょにいるなんて」

 千二は、生まれつき胆はふとい方だった。始めは、びっくりして、すこし、あわてていたが、だんだん気が落ちついて来た。

「べつに、変なことはない。まあ、そんなことはどうでもいいじゃないか。おれのたのみを聞いてくれれば、たくさんお礼をするよ」

「さっきから、たのみがあると言っているのは、どんなことですか」

 こんなきみのわるい男にたのまれる用事なら、どうせ、ろくなことではあるまい。

「なあに、ちょっとした買物があるんだ。くすりを買いたいんだ。それについていってもらいたい」

「えっ、くすりの買物? どこへ買いにいくのですか」

「どこでも近いところがいい。たくさんくすりを売っているところがいいのだが、東京までいった方がいいだろうね」

「東京? へえ、東京ですか。ははあ、すると、僕たちは、また地球にまいもどるのですか」

「ふふん、それはまあ、なんとでも考えるさ。とにかく東京までいこうじゃないか。今すぐお前を元気にしてやるから、待っていろ。元気にしてやらないと、途中で歩けなくなっては困るからね」

 大男は、向こうへいこうとする。それを見て千二は、うしろから呼びかけた。

「おじさん、ちょっと待ってください。おじさんの名前は、なんというのですか」

「おれの名前か。それは──」

 と、かの大男は、背中を見せたまま、だまって立っていた。すぐには、名前が出て来ないらしい。

「おじさんは名前がないのですか」

「ばかを言え。おれの名前は……」

 と、彼はうなっていたが、

「そうだ、おれの名前は、丸木まるきというんだ。丸木だ。よくおぼえておけ」

 そう言うなり、丸木と名乗る大男は、うす桃色の湯気ゆげの彼方に、姿を消してしまった。

 あとには千二一人がのこった。あいかわらず、寝かされたままである。からだは、やはり思うように、うごかない。一体どんなものをつかって、自分のからだを縛ってあるのか、それをたしかめるために、首をもち上げようとしたが、首がじゅうぶんに上らない。のどのところも、何ものかで、床に縛りつけられているらしい。千二は、いつの間にか、彼が捕虜ほりょになっていることに気がついた。

 捕虜といっても、あたり前の捕虜ではない。火星の生物が乗組んでいる火星のボートの中に、捕虜となってしまったのである。これから先どうされるのであろうか。このまま火星へつれていかれるのであろうか。それとも火星の生物の餌食になってしまうのであろうか。考えれば考えるほど、不安はだんだん大きくなって来る。こうなると、うす気味わるい男ではあるが、あの黒いものずくめの、丸木と名乗るおじさんを、たよるしかない。

 その時、とつぜん、湯気の向こうに、火花のようなものが、ぱっときらめいたかと思う間もなく、千二は全身に、数千本の針をふきつけられたように感じた。

「あっ、いたい」

 だが、それは針ではなかった。全身がぴりぴり痛むのだった。電気にさわった時の感じと同じだ。いつまでもぴりぴりと痛む。

 ぴりぴりと、はげしい痛みが、千二のからだを、だんだんつよくしめつけていった。

「あっ、苦しい」

 おしまいに、千二はもう息が出来ないくらい、苦しくなった。

「おうい、丸木さあん」

 千二は、ついに悲鳴をあげた。このままこのぴりぴりが続いたら、彼の血管けっかんけてしまうだろうと思われた。

「丸木さん、早く来て……」

 と、千二は、歯をくいしばって叫んだ。

 すると、とたんに、そのぴりぴりが止った。

 湯気の向こうから、誰かのっそりと出て来た。見ると、それは外ならぬ丸木であった。

「なあんだ、人間というやつは、ずいぶん弱いものだなあ、はははは」

 丸木は、笑い声をあげた。しかし千二は、丸木が笑い声をあげているのに、その顔は少しも笑っているような顔に見えないのを、不思議に思った。それからもう一つ、「なあんだ、人間というやつは、ずいぶん弱いものだなあ」などと、自分も人間のくせに、人間の悪口を言ったのを、たいへん変に感じた。

「どうだ、千二。体に元気が出て来たろう」

「えっ」

 言われて気がついた。なるほど、さっきまで、手足が抜けるようにだるかったのに、今はすっかりなおってしまった。そうして筋肉がひきしまって、その場にぴょんと飛上りたいほどの気持だった。

「ほう、これは不思議だ」

 と、千二が目をぱちくりさせると、

「さあ、千二。さあ起きろ、起きろ」

「起きろと言っても、僕は縛られているんです。起上れるものですか」

「それはもう解いたよ。起きろ。起きてこれからすぐ、買物にいくんだ」

 丸木は、心得顔に言った。



あ、火星の生物!



 丸木の言ったことはうそではなかった。まさか起上れないだろうと思って、千二は、ためしに首をもたげた。すると、ちゃんと首が上るのだった。

 おやおや、不思議だと思い、今度は両手をついて、上半身を起してみると、なるほどちゃんと上半身が起上った。(あっ、いつの間に、縄を解いたのかしら)

 飛起きて、千二は足元を見まわした。彼のからだを縛っていた縄が、そこらに落ちているだろうと思ったのである。

 だが、足元には、細紐ほそひも一本すら、落ちてはいなかった。まるで見えない透明の縄で、からだを縛られていたようだ。

「さあ、こっちへ来い」

 丸木は、大きな声で、千二をよびつけた。

「え、どうするのです、この僕を」

「どうするって、これから東京へいくのじゃないか。東京へ着くまでは、これで目隠しをしておく。あばれちゃいけないぞ」

 丸木の言葉が終るか終らないうちに、千二の目は、急に見えなくなった。

「あっ!」

 と、千二は、両手を目のところへもっていった。目をこすろうとしたのだ。ところが、おどろいた。ちょうど目の前が、ゴム毬を半分に切ったようなやわらかいもので、蓋をしたようになっている。

「こんなもの!」

 と、千二は、そのゴム毬の半分みたいなものを、むしり取ろうとしたが、つるつるすべるだけで、そのもの自身は、かたく目を蓋していて、取れない。

「あははは。何をしているのか。お前の力ぐらいでは、取れやしないよ。さあさあ、しばらくの間だ。がまんしろ」

 そう言うと、丸木は、千二の背中をどんとついた。千二は、あっと言って、たおれた。その時、何だか、ばさりと音がして、千二の首から下を包んでしまったものがある。

 千二は、目かくしをされたまま、袋のようなものの中に入れられた。

 どうなることかと、彼は気が気ではなかった。

 そのうちに、丸木が、

「どっこいしょ」

 と、かけごえをしたと思うと、千二の体は袋にはいったまま宙に浮いた。

 それから丸木は、歩き出した。

 千二の体は、袋の中で、たいへん揺れた。

 しばらくすると、袋のまわりにひゅうひゅうという鳴き声が、集って来た。ひゅうひゅうひゅうと、しきりに鳴き合わせている。

「あっ、例の怪しい声だ!」

 千二の胸はどきどきして来た。それとともに、珍しいにおいが、ぷんぷんにおうのであった。

(うむ。丸木さんが、さっき言ったが、火星の生物が、袋の外に集って来たのに違いない。あの、ひゅうひゅうという口笛を吹くような声、それからこの気もちの悪いへんなにおい、この二つが見附かると、そこに火星の生物がいると考えていいんだ)

 千二少年は、たいへん大事なことを知った。これから、この二つのことに気を附けていると、そこに、火星の生物がいるか、いないかがわかると思った。

 それにしても、丸木のおじさんという人は不思議なおじさんである。火星の生物と、おそれ気もなく話をしている。一体、このおじさんは、何者なのであろうか。この次によく尋ねてみることにしようと、千二は思った。

 丸木のおじさんと火星の生物との話は、しばらくしてすんだらしい。丸木のおじさんは、火星語が出来るようだ。例のひゅうひゅうとしか、聞きとれない言葉である。

「おい、千二。しばらく目が廻るかも知れんが、我慢しろよ」

 突然、丸木の声が聞えた。

 目がまわるかもしれないが、がまんをしろと、丸木の注意である。

 その言葉が終るか終らないうちに、しゅうしゅうとはげしい音が始った。蒸気がふき出すような音であった。

 それと同時に、袋の中に、はいっている千二の体は、ゴム毬が転がるように、ぐるぐるまわりだした。

「わっ、目がまわる!」

 目がまわって、胸が悪くなった。千二はよだれをだらだらと出した。

「丸木さん、僕は苦しいよ」

 千二はとうとう悲鳴をあげた。

 だが、その声は、しゅうしゅうという音にかき消されて、丸木の耳には達しなかったようである。丸木は、うんともすんとも返事をしなかった。

 どうなることかと、千二は気が気ではなかった。

 しかし、それはものの四、五分しかつづかなかった。しゅうしゅうという音がとまった。

「さあ、千二。外へ出るんだ」

 千二は、袋の中から出してもらえるのだとばかり考えていた。しかしそれはまちがいだった。千二は袋ごと、どさっと下におろされた。その時彼はひやりとした大地を感じた。そうして、ぴちゃりぴちゃりと、さざなみがみぎわを叩くらしい音を聞いたと思った。

「ああ湖の近くだ」

 千二は、おぼえのある磯くさいにおいをさえ、かぎわけた。

「ねえ、丸木のおじさん。僕をちょっと外へ出して下さいよ」

「外へ出して、どうするんだ」

 丸木が、怒ったような声でたずねた。

「ちょっとうちへ寄っていきたいんです」

「だめだめ。そんなことはだめだ!」

 丸木は、あたまごなしに叱りつけて、

「これから東京へ出るんだ。しっかりつかまっていろ」

 外へ出してやるぞと丸木が言ったのは、千二を袋から外へ出すことではなかった。後になって考えて見ると、あの時千二は、湖の底から、何かある乗物に乗って、水面に浮かび出たものと思われる。それを操縦したのは、もちろん丸木にちがいなかったが、その乗物は、一体どんな乗物であったか、それをここに書くと、誰でもびっくりするであろう。

「さあ、出発だ。いいかね」

 丸木が、そう言うと、千二の体は、ふたたび袋の中でゆられ出した。しかし今度は、もうしゅうしゅうと音はしない。丸木が、千二のはいった袋を肩にかけて、歩き出したと思われる。

 丸木は、どんどん歩きつづけた。

「丸木さん、汽車に乗っていかないの」

 千二は、袋の中から声をかけた。

「汽車?」

 丸木は、ちょっと言葉を切って、

「汽車なんかをつかうより、歩いた方が早いや」

「うそばっかり」

 千二は、丸木が、汽車より早く歩けると言ったので、うそつきだと思った。

 しかし、これは後に、千二の考えちがいだったことがわかった。いや、妙な話である。たいへんな話である。

 袋の中にゆられながら、千二は、その間に、これまでのことをふりかえってみた。するといろいろと腑におちないことが、たくさん出て来た。

 中でも千二にとって不思議でたまらないのは、この丸木が、いつの間にか千二の名を知っていたことである。千二は、まだ一度も彼の名前を名乗らなかったし、服のどこにも名前は書いてないのだ。

 丸木というこのおじさんは、考えれば考えるほど、うす気味の悪いおじさんだ。

「ここには火星の生物がいるのだ」と、驚きもせずに言ったのも、丸木だった。

 千二を袋の中に入れ、それをかついで走る丸木という人物は、考えれば考えるほど、腑に落ちないところのある人物だ。どうしても、ただの人間とは思われない。

 千二は袋の中から、声をかけた。

「ねえ、丸木さん。おじさんは、なぜ火星のボートの中にいたの。僕が火星のボートの中で、目をさました時、おじさんは隣の部屋から出て来たでしょう。すると、おじさんは、僕より早くから、あのボートの中にいたわけね」

 丸木は、どんどんスピードをあげて、走り続けながら、

「こら、千二。よけいな口をきくものじゃないよ。だまっていなさい」

 と、叱りつけた。丸木は、たいへん気をわるくしているらしいことが、その声からわかった。

 千二は丸木に叱られて、しばらく黙っていた。しかし彼は、間もなくまた丸木に話しかけた。

「ねえ、丸木さん。今は、まだ昼かしらん、それとも夜かしらん」

「よく喋る子供だな。そんなことぐらい、きかなくても、わかるじゃないか」

 丸木の返事は、あいかわらず、ぶっきらぼうであった。

「僕には、昼だか夜だか、どっちだかわからないんですよ。だって、僕は、厳重な目かくしをされているんだもの」

「ああ、そうだったね」丸木は、ようやく思い出したらしい。「いまは夜だよ。外は、真暗まっくらで、どの家も戸をしめているよ。そんなことを聞いて、一体どうする気だ」

「そして今、幾時?」

「時刻か、さあ、幾時だかわからない」

「おじさんは、時計をもっていないの」

「時計? 時計なんか持っているものか。おい千二。東京へ近くなったから、もうお喋りしちゃならんぞ」

「えっ、もう東京の近くまで来たの」

 千二は、丸木の足のはやいのにおどろいた。さっきから、まだものの二十分とたっていないのに、はや東京の近くへやって来たというのだ。そんなばかげた話はない。千二は、丸木がうそをついているのだと思った。

 丸木は、かまわず、どんどんと駈けつづけた。しばらくして、丸木はこえをかけた。

「おい千二、もう東京の中だ。買物をするのには、銀座がいいのだろうね」

「さあ、僕はよく知らない。だって僕は、そう幾度も東京へ来たことがないんだもの」

「なあんだ。お前は、こんな近い東京をよく知らないのか。とにかく、銀座へ出よう。さあ、このへんなら、人通りがないから、お前の目かくしを取るには、いい場所だ」

 そう言うと、丸木ははじめて足をとめた。そうして袋の中にはいっていた千二は、丸木の肩から下された。

「今、中から出してやるし、目かくしもとってやるが、その前に一つ、きびしく言っておくことがある」

 丸木は言葉のおしりに、力を入れて言った。

 千二は、丸木が何を言出すかと、だまって、待っていた。

「いいか。忘れないように、よく聞いているんだぞ。ここでお前のからだを自由にしてやる。しかし買物が終らないうちに逃出したりすると、お前の命があぶないぞ。命が惜しければ、よく言うことを聞くんだ。わかったか」

 千二は、丸木からおどかされて、ほんとうのところは、腹が立った。

(なにを、この野郎!)

 と思った。千二少年も日本人である。むやみにおどかされて、それでおめおめ引込んでいるような、弱虫ではない。だが、この場合、千二は、丸木ととっくみあいをする時ではないと思ったので、

「僕、逃げたりなんかしないよ」

 と答えた。

「逃げないと言ったな。よし、その言葉を忘れるな。ふふふふ。やっぱり人間という奴は、命がおしいとみえる」

 と、丸木は、ふふふふと、鼻の先で笑いながら、千二を袋の中から、ひっぱり出した。

「さあ、ちゃんと立ってみろ。うしろを向いて、しっかり立てと言うんだ」

 千二の足は、ふらふらだった。袋の中で、へんな工合に足をまげていたので、足が変になっていた。

 丸木は、千二の頭の後で、ごとごとやっていたが、そのうちに、千二の目の中に、ぱっと夜の光が飛びこんで来た。

 うつくしい広告灯の灯だった。銀座が、千二のすぐ目の前に立っていた。

「あっ、ほんとうにもう東京へ来たんだ。丸木さん、僕たちは、さっき千葉県にいたはずだけれど、どうしてこんなに早く東京へ着いたの」

「そんなこと、どうでもいいじゃないか」

 すぐ横で、丸木のこえがした。

 千二が、横をふりむくと、そこには、例の黒ずくめの服装をした丸木が、眼鏡をきらきらさせて、立っていた。

「さあ、薬屋へいくんだ。いいかね。逃げると承知しないぞ」

 そう言って丸木は、千二の手を握った。

 それは氷のように冷たい手だった。いや、丸木は革の手袋をはめているらしい。

 二人の立っているところは、銀座裏の掘り割りのそばで、人通りはなかった。だからこの二人は、怪しまれることもなしに、こんな会話をすることが出来た。

「薬屋へいって、なにを買うの」

「ボロンという薬だ。ボロンの大きな壜を、二、三本買いたいのだ」

「ボロンを、どうするの。何に使うの」

「おだまり。お前は、早く薬屋をさがせばいいのだ」



悪人あくにん丸木まるき



 丸木におどかされながら、千二は、賑やかな銀座の通に、ようやく一軒の薬屋さんを見つけて、その店先をくぐった。

 千二は薬剤師らしい白い服を着た店員に、

「あのう、ボロンの大壜おおびんを二、三本売ってくれませんか」

 と、おそるおそる言った。

「ボロン? ボロン? 硼素ほうそのことですか」

「さあ……」

「白い粉末になっているやつでしょう」

「さあ、どうですかねえ」

 千二は、何も知らないので、弱ってうしろをふり向いた。すると、店先で、他人をよそおっていた丸木が、

(それだ、それだ)

 という意味を千二につたえるため、うなずいてみせた。千二は、元気づいて、

「ああそれですよ。白い粉末のボロンです」

「精製のものと、普通のものとありますが、どっちにしましょうか」

「さあ、精製のと普通のと、どちらがいいのでしょうかねえ」

 千二は、またうしろをふり返った。すると丸木は、手を上にあげて、信号をした。精製の方のがいいという意味らしい。

「いい方を下さい」

「はい、承知しました。三本でよろしいのですね。では一本、ただ今二円三十銭ですから、三本で、六円九十銭いただきます」

「六円九十銭ですとさ」

 千二は、丸木の方をふり返って、そう言った。

 すると、おもいがけなく、丸木が急に、そわそわしだした。

 たいへんあわてているのであった。彼はしきりに胸のところを叩いている。何かよほど困ったことがあるらしい。

「丸木さん、一体どうしたの」

 千二は、丸木のところへやって来て、わけをたずねた。

 丸木は、いかめしい姿に似合わず、ひどくあわてている。その様子が、ますますはげしくなった。

「おい千二。お前、金を持っていないか」

「僕? 僕は、お金なんかすこしも持っていない。なにしろ、魚をとりにいくために家を出かけたので、お金なんか一銭も持っていないですよ」

「そうか。それは、どうも困った」

「丸木さんは、お金を持っていないの。なくしたんですか」

「いや、お金のことは知っていたが、ついそれを用意することを忘れた。そうだ、買物をする時には、お金がいるんだったなあ。ああ、大失敗だ」

 丸木は、ひとりでさわいでいる。

「じゃあ、ボロンを買うのは中止ですね」

「それは困る。どうしても、ボロンを買っていかなければ、困ることがあるのだ」

 丸木は、今はもう自分に代って、千二に用事をしてもらっていることが、がまん出来なくなった。彼はいきなり薬剤師の白い服をつかまえ、

「ねえ君、金はあとでとどけるから、ボロンを渡してくれたまえ」

 薬剤師はおどろいた。いきなりお客さんに、自分の服をひっぱられたのだから。

「あっ、そう乱暴しちゃ服がやぶれますよ。はなして下さい」

「ぜひ、ぜひボロンをたのむ」

 丸木は、必死であった。

「いや、いけません」

 年のわかい薬剤師はすこし怒っているらしく、きっぱり丸木のたのみをしりぞけた。

「そう言わないで。あとから君にも、たっぷりお礼をする」

「いや、だめです。お金を持って来なければ、ボロンでも何でもお渡し出来ません」

「どうしても、だめか」

 と、丸木はうらめしそうに、薬剤師をにらみつけた。

「お金を持って来ない人に、どんどん薬を上げていたのでは、商売になりませんや。じょうだんじゃありませんよ」

 と、若い薬剤師は、丸木にからかわれたとでも思ったのか、本気になって、怒っている。

「ふふん。どうしてもだめか」

 丸木は、あらあらしい息で、またうなった。全く気味のわるい人物である。

「ああ金! 金さえ持って来れば、ボロンを売ってくれるんだな」

「もちろんですよ。たった六円九十銭ぐらいのお金に、おこまりになるような方とも見えません。じょうだんはおよしになって下さいよ。本気のお買物なら、もう午後九時も近くなりましたから、早くお願いいたします」

「金は、今ここに持っていないのだ。だが、すぐあとから持って来る。金を持って来れば、かならずボロンの大壜を三つ渡してくれるね」

「そんなに、くどくおっしゃって下さらなくとも、大丈夫です。かならずお渡しいたします」

「きっとですぞ。きっとだ! もしそれをまちがえたら……」

 と言いかけて、丸木は、後の言葉をのみこみ、

「いや、すぐにお金を持って来る。待っていてくれたまえ」

 おし問答のはて、丸木は薬屋の店をとび出した。

「おい千二。お金を手に入れなければならないんだ。さあ、お前も来い」

 何を考えたか、丸木は、千二の手を取ってどんどん走りだした。

 もう午後九時は近い。が、銀座通は、昼間のように、たいへんにぎやかであった。

 丸木はその人込の中をわけていく。一体彼は、なぜお金を持っていないのであろうか。

 丸木は、千二の手を引いたまま、夜の銀座通の人波をかきわけて、どんどん前へ歩いていく。

「丸木さん、どこへいくの」

 千二が、心配になって聞くと、

「だまっておれ。声を出すと、ひねりころすぞ」

 丸木は気がいらいらしているらしく、ひどい言葉で、千二をしかりつけた。千二は、丸木の冷たい手から、自分の手をはなそうと試みたが、丸木の手は、まるで大きな釘抜のように、千二の手をしめつけていて、はなすことが出来なかった。

 丸木の歩調が、少しばかり遅くなった。彼はしきりに、いろいろなものを売っている店先に、目を向けている。そこには、美しく飾られた飾窓をのぞきこんでいる人もあれば、中で何か買物をしている人も見える。

「ああ、金だ、金だ」

 丸木は、時々ひとりごとを言った。

 そのうちに、丸木はぴったりと足を止めた。

「どうしたの、丸木さん」

「しっ、だまっておれと言うのに……」

 この時丸木の目は、大きな鞄店の中で、りっぱなハンドバッグをたくさん前に並べ、どれを買おうかと、しきりに見ている一人の年の若い、洋装の女の上に釘づけになっていた。

 やがて、その洋装の女は、中で一番りっぱな鰐革のハンドバッグを買った。その時かの女は、抱えていた白い蛇の革のハンドバッグの中から、たくさんの紙幣をつかみだして、店員に支払った。

「ああ金だ。たくさん金を持っている」

 丸木は、またうなった、そうして、買物をして出ていくその洋装女の後姿をふりかえって、じっとみつめていたが、

「おい千二。ここで待っていてくれ」

 と言った。

 丸木は、千二に向かって、ここに待っていてくれと言うのだ。

「ああ、待っていますよ」

 千二は、ひょっとすると、この間に、丸木の手から逃出すことが出来はしないかと思ったので、そう返事をした。

「すぐ、おれはここへ帰って来る」

 そう言置いて、丸木は千二をはなすと、すたすた歩き出した。

(どこへいくのだろう?)

 千二は、その時ふといやな気持になった。丸木は、さっき見とれていた、あの洋装女から、金を借りるつもりではないかと思ったのである。だしぬけにそんなことを頼まれては、さぞかし女の人は驚くだろう。

 千二は、たいへん心配になった。

「おうい、丸木さん」

 千二は、じっとしていられなくなって、丸木の後を追いかけた。

 だが、丸木の姿は、いつの間にか人込のなかに吸いこまれて、どこへいったのか、わからなくなった。それでも千二は、あっちへいったり、こっちへかえったり、いやな胸さわぎをおさえつつ、しきりに丸木の姿をさがしもとめたのだった。しかし、それは、遂にむだに終った。

 千二は、またいつの間にか、元の所へもどって来た。

「おい、千二」

 だしぬけに呼ばれて、千二はびっくりした。それは丸木だった。いつの間にか、丸木が帰って来ていたのだった。

「ああ、丸木さん。どうしたの」

「どうしたって、ふふふふ」と、丸木は、へんな笑い方をして、「お金はこんなにある。さあ、これを持っていって、あの薬屋で、ボロンの大壜を三本買ってくれ」

 そういう丸木の手には、たくさんの紙幣さつが握られていた。不思議なことである。どこでこんな大金をつくったのか。

 どこから手に入れたか、丸木の握っている大金!

「丸木さん。このお金は、どこから持って来たんですか」

 千二は、息をはずませて、たずねた。

「ふふふふ。さっき、洋装の美しい女がいたのを、知らなかったかね。あの女が持っていた金だよ」

「はあ、そうですか。あの女の人が、丸木さんに貸してくれたというんですか」

「貸してくれたって。いや、ちがうよ。あの女の持っていたのを、こっちへもらって来たんだ。そんなことはどうでもいいじゃないか」

「すると、丸木さんは、あの女の人から、お金を取ったんですね。女の人は、きっと怒ったでしょう」

「ふん、怒ったかどうだか、ちょっとなぐりつけたら、おとなしくなって、地面に寝てしまったよ」

「えっ、そんなことをしたんですか。丸木さんはいけないなあ。女の人をいじめたりしちゃ、いけないですよ。もし、死んでしまったら、どうします」

「死ぬ? はははは、死ぬことが、そんなにたいへんな問題かね」

 丸木は、悪いことをしたと思わないのか、声高く笑った。

(ああ、悪い奴だ。丸木さんは、とんでもない悪人だ!)

 千二は、あきれてしまった。

「おい千二、何をぐずぐずしているのか。金が手にはいったんだから、すぐボロンを買うんだ。さあ、一しょにいってくれ」

 丸木の冷たくてかたい手が、千二の手くびをにぎった。千二は、丸木にひきずられるようにして、人影もようやく少くなった銀座の通を走った。そうして、例の薬屋の店先まで来た。その時丸木は、驚きの声をあげた。

「おや、この家だと思ったが、店がしまっている」

 薬屋の店は、もうしまっていた。そうであろう。商店法により、午後九時を過ぎると、店をしまう規則になっている。

 丸木は、ぷんぷんおこりだした。

 そうして、薬屋の戸を、われるようにどんどん叩いた。

「もしもし、さっきの店員の人。金を持って来たから、ボロンを売ってくれたまえ」

 店の中では、人の話しごえが聞えるが、だれも丸木にこたえる者がなかった。

「もしもし、さっき君は、金を持って来れば売るとやくそくしたじゃないか。さあ、ボロンを売ってくれたまえ」

 すると店内から、ばかにしたようなこえで返事があった。

「もう九時を過ぎましたから、商店法の規則で、品物はうれません。明日あしたにして下さい」

 これを聞いて、丸木は、獣のようにおこりだした。

「おいおい、金を持って来れば、売ると言ったのに、それじゃあ話が違う。ぐずぐず言わないで、この戸をあけろ」

「そりゃ売ると言いましたが、今晩のうちに売るとは言わなかったですよ。商店法なんですから、なんといってもだめです」

「なにっ、どうしても売らないと言うのか。今になって売らないと言うなら、この戸を叩きこわして、はいるぞ」

「そんな乱暴なことをやっちゃ、だめですよ。しかしこの戸は、あなたのような乱暴な人をはいらせないために、かなり丈夫に出来ているんです。お気の毒さまですが、あなたの手が痛いだけですよ」

 店員もなかなか負けていない。丸木は、それを聞くと、益々たけりだした。

「これだけ言っても、言うことをきかないなら、わしは、好きなとおりにやる。お前などを相手にせんぞ!」

 そう言うと、丸木は二、三歩さがり、きっと戸をにらんだ。

 驚いたことに、戸はめりめりと鳴った。今にもこわれそうだ。

 丸木は、からだでもって、薬屋の戸にぶっつかる。

 見ている千二は、びっくりした。

「丸木さん、およしなさい」

 千二は、一生けんめい、丸木をとめにかかったが、丸木の耳には、もう千二の言葉などは、全く聞えないらしい。

 そのとき、千二は、妙な音を聞いた。

 ひゅう、ひゅう、ひゅう、ひゅう、ひゅう、ひゅう。千二は、その妙な音を聞きながら、

(あれ、あの音は、どこかで聞いた音だぞ)

 と思った。しかし彼はすぐさま、そのことを忘れてしまった。そのわけは、丸木が、ついに、めりめりと薬屋の戸をおしたおしてしまったからである。

「あっ、乱暴者!」

「おい、みんな、力を借せ。こいつを取りおさえて、交番へつきだすんだ」

 奥で顔をあらっていた店員たちも、どっと店にとび出した。そうして、十人近い人数で、一人の丸木をとりまいた。

 だが、丸木はすこしも、ひるまない。長い外套の下から、足をだして、店員たちを蹴たおした。丸木に蹴られた店員は、だれでも、ううといったきり、二度とおきあがって来なかった。

 残った店員たちは、この烈しい丸木のけんまくに、すこしおそれをなして、後へひきさがる。

 その間に、丸木は、薬の壜を並べた棚のところにとんで行って、壜の上にはってあるレッテルを一々見ては、ちがっていると見えて、かわるがわる両手につかんで、店員の方へなげとばす。劇薬も毒薬もあったものではない。さわぎは、ますます大きくなった。

 そのうちに、丸木は、大きな声でさけんだ。

「ああ、あった。ボロンの壜があったぞ」

 と、丸木は、その場におどりだした。

 その時、丸木の後頭部めがけて、野球のバットが飛んで来て、ぐわんと大きな音をたてた。店員の一人が、この乱暴者を静かにさせるため、ありあわせのバットで、丸木の後から、なぐりつけたのだった。

 だが、丸木は、それには一向驚かなかった。そうしてボロンの壜を大事そうに、幾度もなでまわした。

「あれっ、こいつ! びくともしないぞ。へんだなあ」

 店員は、もう一度力まかせに、バットを振って、丸木の頭をなぐりつけた。丸木の頭は、ぐわんといった。そのはげしい音では、頭がれたかと思ったが、やはり丸木は平気だった。しかし、どうしたわけか、その時から丸木の首は、急に曲ってしまった。たいへん妙な工合で、まるでおもちゃの人形の首を、ぎゅっと曲げたような恰好であった。

 丸木は、それでも平気であった。首を曲げっ放しで、ボロンの壜を腹のところに抱えると、表へとび出した。

 店頭には、もちろん、このさわぎをみようというので、弥次馬連中が、わいわい集って来て、店内をのぞいていたが、丸木は、おそれ気もなく、その連中を垣でもおしたおすように突きのけて、一散に戸外に走り出したのだった。

「おうい、待て。薬品どろぼう、待て!」

 店員と弥次馬連中が一しょになって、丸木の後を追いかけた。店をしめて、静かになったばかりの銀座は、とんだことから、火事場のようなさわぎになった。

「あれっ、いないぞ。どこへ行ったんだろう!」

「おい薬品どろぼう、こっちへ出てこい」

 出て行くものもないだろうが、とにかくどこへ逃込んだか、丸木の行方はわからなくなった。



やみとひかり



 銀座に起った怪事件については、あくる朝の新聞は、たいへん大きな見出しで、でかでかと書きたてた。

「怪人、銀座に現れ、薬屋を荒す」

「怪事件におびえた昨夜の銀座通」

「共犯者の少年、逮捕さる」

 など、いろいろな見出しで書きたてられたが、「共犯者の少年」とはほかならぬ千二のことであった。

 千二は、逃げそこなって、警視庁にひかれて行ったのである。

 その朝刊に、もう一つ銀座の怪事件が、並んで出ていた。

「宵の銀座に、奇怪な殺人。被害者は、若きタイピスト」

 各紙ともこの二つの事件は、別々の事件として新聞に並べて書きたてられた。

 ただ一つ、東京朝夕新報という新聞だけは、この二つの事件を一つと考えていいような風に、記事を書いた。

「怪人、深夜の銀座をあらして逃走す。美人殺害、薬屋の店員はあやうく鬼手をのがれた。満都の市民よ、注意せよ」

 この方の新聞記事は、かなり市民を驚かした。犯人が逃走したまま、まだつかまらないから、注意をするようにと書いたことが、市民の胸に、大きな不安を植えつけたのだった。

 かわいそうなのは、千二少年だった。その前夜から、へんな目にあい通しであった。そのあげく、怪人丸木にこきつかわれ、共犯者ということになり、警視庁の留置場りゅうちじょうへ、放りこまれてしまったのである。

 千二は、冷たい壁にとり囲まれた留置場に、しょんぼりと坐っていた。彼は悪い夢をまだ見つづけているような気がしていた。

 千二は、警視庁の留置場へほうりこまれたのち、ほんのちょっと調べられただけで、あとはそのまま留置場の中に、忘れられたようにとめおかれた。

「うそをつくな。うそをついている間は、一カ月でも二カ月でも、ここへほうりこみっぱなしだ。一つ、よく考えなおしてみろ」

 そういう言葉を、千二は、痛いほどつよく、小さい胸におぼえている。それは、取調が終って、再び留置場にほうり込まれる前に、掛官の大江山課長から、なげつけられた言葉だ。

 だが、千二は、なにもうそなどはついていない。ほんとうのことを答えたのであるが、課長が、それをほんとうにしないだけのことだった。

 千二のことも新聞に出た。

 ある新聞には、千二の顔が大きく出ていた。それはどこでとった写真か、千二が見たら、きっとなげくに違いない写真だった。

 その写真は、一年前、成田町でとったものだ。その時、写真屋さんの店へ上ったのは、千二ただ一人ではなかった。新田にった先生も、一しょだった。つまり新田先生が、小学校をおやめになって、大阪へ行かれるのを、成田町まで千二が送って来て、そうしてその別れの記念にとった写真であった。新聞社は、どこからか、その記念写真をさがし出して来て、千二の顔だけを大きく伸ばして、写真版につくりあげたのである。思出のふかい写真から、複製したものだったのである。

 だが、千二は、彼の顔が新聞に出たことは知らない。だから、その写真が使われたことさえ、知らないのだ。

 しかしながら、新田先生の方では、千二の顔を新聞の上に発見して、たいへんおどろいた。そうして顔をまっかにして、怒りの声を発した。

「こんなばかなことが、あってたまるものか。あの千二君が、共犯者だなんてことがあるか!」


 千二少年のつよい味方が、一人あらわれたのである。

 新田先生は、つい一年前に別れた教え子の千二が、とんでもないうたがいをうけ、警視庁に入れられたことを朝刊で知り、その場で東京へいこうと決心した。それはもちろん千二のために弁護して、留置場から一刻も早く出してやりたいためだった。

「あの千二君が、あんなむさくるしい留置場にはいっているのだと思うと、かわいそうで、たばこをすう気さえ起らなかった」

 と、後に新田先生は、その頃のことをふりかえって、思出話をなさったことである。

 とにかく、その朝先生はすぐに電話を日本空輸にかけた。それは東京行の旅客機に乗れるかどうかをたずねたのである。たとえ一時間でも一分間でも、早く千二の困っている東京へいきたいと、新田先生は飛行機でいく道を選んだのである。

 幸いに、座席が一つあった。予約してあった客の一人が、急に都合がわるくなって、それに乗らないことになったのである。新田先生は、すぐそれに乗りこんだ。

 この新田先生というのは、千二少年の組に理科を教えていた先生である。一年前に、小学校をよして、大阪へいった。大阪では、教鞭をとるのではなかった。大阪帝国大学工学部の聴講生となって、さらに勉強をしようというのであった。新田先生の専攻するのは、ロケットであった。

 ロケットというのは、飛行機と同じように、空中に飛びまわる新しい乗物である。まだ研究が完成していないので、あまり大きなものはないが、行く行くは、地球の旅行にも、あるいはまた宇宙を飛びまわるにも、このロケットがたいへん都合のいい乗物であった。

 新田先生は、お昼前、無事に東京羽田の空港に着いた。

 新田先生は、東京の羽田空港で旅客飛行機から下りると、すぐその足で、とるものもとりあえず、千二少年の留置されている警視庁へ駈けつけた。

「何の用ですかね」

 と、受附の警官はたずねた。

 そこで先生は、じつは、これこれしかじかと、千二少年のことをのべ、あの少年は自分のいい生徒だったから、殺人事件を一しょにやるような悪い子供ではない、ぜひ許してやっていただきたいと、まごころをおもてにあらわして言った。

 受附の警官は、たいへんいい人であった。新田先生の話に、すっかり同情して、

「そうですか。そういうことなら、誰よりもまず捜査課長の大江山警視にあって、よく話をしたらいいでしょう。ちょっとお待ちなさい。今会えるかどうか、私が聞いてあげましょう」

 と言って、親切にも、他の来訪客を待たせておいて、大江山課長へ話をしてくれた。

 その口添がきいたのか、課長は、すぐ新田先生に会ってくれることになった。

 先生が、みちびかれてはいったのは、応接室ともちがう小さな部屋だった。壁は防音材料で出来、となりへ話が洩れないようになっていた。その壁に、一枚の鏡がかかっているのが、どうもこの部屋に似合わしからぬものだったが、これは、この部屋からみると鏡としか見えないが、隣室から見るとこの部屋の様子がすっかり見えるという、一種の魔法の鏡であった。

 また机の下には、マイクロホンが隠してあった。ひとり言を言ったり、悪者同士が話をすると、その話はすぐ警官の前においてある高声機から、大きな声になって出るという仕掛であった。

 さすがに、警視庁だけあって、最新の仕掛がしてあり、悪人を調べるのには、すきがない。外に応接室がなかったので、新田先生はここへ案内されたわけであった。

 新田先生が待っていると、そこへ一人の痩せぎすの、背のひょろ高い背広の紳士がはいって来た。顔は若々しいのに、頭はすっかり禿げている。ちょっと見ると、老人だか若いのか、わからない。

「やあ、どうも待たせましたね」

「はあ、あなたは一体どなたで……」

「私が大江山警視です」

「はあ、あなたが大江山さんですか。これはとんだ失礼をいたしました」

 警視庁のいかめしいお役人といえば、さぞかし金ピカの服に、サーベルをがちゃがちゃさせていると思っていたのに、これはまた、たいへんくだけた姿、くだけた物腰だった。新田先生は、正直にそのことを言ってお詫びすると、課長は笑って、

「いや、皆さんがそう思っとるので、困りものですよ。警視庁の役人は、善良な市民諸君のため、悪い者をおさえるのが役目なんです。悪い者に対しては容赦しませんから、こわい顔をしますが、善良な市民諸君に対しては、親類のように思って接しています。実際の役柄から言って、そうなんですからね。子供たちには、それがよくわかると見え、おまわりさんと言ってしたってくれます。大人おとなの人には、まだよくわかってもらえないようで、残念ですがね」

 と言い、光のある自分の頭をつるりとなでた。

「大江山さん、私の元の教え子の千二少年のことでうかがったのですが、千二少年は殺人共犯者となっていますが、彼はそんなことをするような生徒ではありません。どうか、放してやっていただきたいものです」

 新田先生は、そう言って、頭を下げた。

「さあ、そのことですよ、新田先生」

 と、課長は、にわかに別人のように、きつい顔になって、

「私も、千二君が、そのような悪人でないことは、大体認めている。しかし、どうも今困ったことがある!」



先生と教え子



 新田先生が大江山課長から聞いたところによると、怪人丸木の行方は、さらに、わからないそうである。

「これは困ったことです。我々は捜査陣を広げて、銀座怪盗(と課長はそう呼んだ)を探しているのですが、どうもわからない。彼をとらえないうちは、気の毒ながら千二少年を、ゆるすわけにはいかんのです」

 新田先生も、それを聞いて、なるほどと思った。そこで、仕方なく、千二をぜひ、今自由の体にしてくれと、頼むことは、一時見合わせることにして、その代り、千二に一目あわせてくれるように頼んだ。

 大江山課長は、まだ誰にも面会をゆるしていないが、特に新田先生には、それをゆるすことになった。

 じめじめとしたうすぐらい留置場で、先生と教え子とは、手に手をとりあって泣いた。あまりの情なさとなつかしさに、どちらも言葉は出ず、涙の方がさきに立ったのである。

 やがて、先生は、しわがれた声で千二の名を呼んだ。

「おい、千二君」

「先生!」

「誰がなんと言おうとも、この先生だけは、君が悪者でないことを信じているよ」

「先生、ありがとうございます。僕は、うれしいです」

 千二と新田先生とは、また強く手をにぎりあった。

「先生、聞いてください。あの丸木という怪しい人が、僕を、僕の村からこの東京まで、むりやりに連れて来たんです。そうして、あのようなひどいことをやったんです。ですが先生、僕は、あの丸木という人が、どうもただの人間でないと思うのです」

「ただの人間でないと言うと、どんな人間だと言うのかね」

「火星のスパイじゃないかと、思うのです」

「えっ、火星?」

 新田先生は、いきなり火星が飛出して来たので、目をまるくした。

「火星? 火星のスパイとは、一体それは、どういうことかね」

 新田先生は、目をまるくして、千二の顔をじろじろと見た。

「先生、これは、僕がいくら警視庁の人に話をしても、誰も信じてくれないことなのですが、二、三日前の夜、僕の村へ、火星の生物が、やって来たらしいんですよ」

「なに、火星の生物がやって来た。ふん、そうかね。それで……」

 新田先生も、この話には、ちょっと困ったようであった。いくらなんでも、火星の生物が、この地球にやって来るなんて、そんな突拍子とっぴょうしもないことは考えられないからである。

 しかし千二は、熱心に、そのことを語り出した。

 あの湖水こすいへ、夜おそく、うなぎを取りにいったこと、妙な音が聞えたこと、光り物がしたこと、うす桃色に光る塔のようなものが、天狗岩の上に斜に突立っていたこと、それから、妙な鳴き声の、不思議な動物がはいまわっていたこと、千二がそれと取組みあいをやって、天狗岩の上から水面へ落ちたこと、気がつくと、へんなにおいのする部屋にいて、そこへあの丸木と名のる怪人が出て来たこと、その丸木が、「火星の生物が隣にいる」と言い、また「これは火星のボートだ」というような意味のことを言ったこと、丸木に捕えられ、はるばる東京の銀座までボロンという薬品を買うため、丸木は千二を案内人として連れて来たこと、それから例の大事件となったことなど、怪奇きわまるこの数日の間の出来事を、千二はくわしく新田先生に話をしたのであった。

 それを聞いていた新田先生は、はじめのうちは、笑いながら聞いていたが、そのうちに、だんだんまじめな顔になり、おしまいごろには、膝を千二の方へ乗出して、ほうほうと驚きの声をあげて、聞入った。

「ほう、そうか。千二君。これは笑いごとではない、大変な事件かも知れないよ」

 新田先生は、息をつめて、千二の顔を見つめた。

「先生は、わかって下すったんですね。僕、うれしいです」

 と、千二は、永い間の自分ひとりの驚きが、初めてほかの人にもわかってもらえたことを嬉しく思った。

「ところで、その丸木とかいう怪人物だが──」

 と、新田先生は、頭を左右に振って、

「丸木こそ、実に不思議な人間だ。さっき千二君は、火星のスパイかも知れないと言ったが、とにかく彼をつかまえさえすれば、何もかもわかるだろうと思う。よし、大江山課長さんにも、そう言って、よく頼んでおこう」

 千二少年は、又、その時心配そうに、

「ねえ、先生。僕は、もう一つ心配していることがあるのです」

「心配していることって、なに?」

「外でもありません。お父さんのことなんです。お父さんは、僕がいなくなったので、心配していると思うのです」

「あっ、そうか。お父さんは、さぞ心配しておられるだろう。君のお父さんは、まだここへ来ないのかね」

「ええ、何の話もないんですから、まだ来ないのでしょう。きっと僕がいなくなって、お魚を取るのに、大変いそがしくなったためでしょう」

「しかし、それは、どうも変だね」

 と、新田先生は、首をかしげた。

 なぜといって、千二君が警視庁へあげられたことは、新聞にも出たことだから、お父さんは知らないはずはないのだ。それを知ればお父さんは、千二君がどうしているかと思って、すぐここへ駈けつけて来るであろう。ところが、まだお父さんが来ないというのは不思議という外ない。

(これは、よほどの大事件だ。ゆだんをしていると、たいへんなことになるぞ!)

 と新田先生は、腹の中で、おどろいたのだった。

 だが、千二の前で、心配そうな顔を見せることはいけないと考え、心配の方は、自分の腹の中にだけしまい、

「千二君、何も心配しないがいいよ。そこで、先生は決心したよ」

「決心? 先生は何を決心されたのですか」

「それはね、千二君のため、先生は、この奇怪な事件を解こうと決心したんだ。君の味方になって、働くんだ。警視庁でも、もちろんしっかりやって下さるだろうが、それだけでは、十分とはいくまい。先生は当分、大学の聴講をやめて、君のため、怪人丸木氏にまつわる謎や、そのほかいろいろとふしぎなことを、出来るだけ早く解いてみようと思うんだ」

「先生、すみません」

 千二は、言葉すくなに、先生にお礼を言った。が、彼の大きなうれしさは、両眼からぽたぽたと落ちる涙が、それをはっきり語っていた。

「なあに、お礼なんか言わなくてもいいよ。僕は、自分の教えた生徒が、苦しんでいるのをじっと見ていることは出来ない。生徒がいくら大きくなっても、またえらくなっても、やはり先生は先生だ。生徒のためになるように働くのが、やはり、先生のつとめなんだ」

「先生、ありがとうございます。父にもよろしく言って下さい」

「よしよし、心配するな。君も、そのうちここから外へ出してもらえるだろうが、それまでは、じめじめした気持をすてて、元気でいなければだめだよ。では、失敬」

「先生、もうおかえりになるんですか」

「うん。僕は、これから例の事件について、活動を始めるつもりだ。たとい半日でも、一時間でも、君を早く自由の体にしてやりたいからね」



ああ天狗岩てんぐいわ



 千二少年のため、新田先生は、ついに立ちあがったのだ。

 先生は、大学の勉強をしばらくやめることにして、教え子のうえにふりかかった怪事件をとこうと決心した。まことにうれしい新田先生の気持だった。

 先生は、警視庁を出ると、すぐその足で東京駅にかけつけ、省線電車で千葉へ急行した。先生は、まず千二の父親に会うつもりであった。

 駅を降りてのち、先生は畠と畠との間の道を、例の湖の方へ、てくてくと急いだ。その道すがら、先生は千二のことを何と言って話をすれば一等心配をかけないですむかしらんと、いろいろと考えてみた。

 だが、それは、なかなかむずかしいことであった。親一人子一人の仲で、父親は千二のことを目に入れても痛くないほど、かわいがっているのである。その千二が、警視庁の留置場にいることを知ったら、父親はどんなに悲しむか知れない。

 新田先生の足は、だんだん重くなった。

 ふと気がついて見ると、このさびしい田舎道を、湖の方に向かって、大勢の人々が行きつかえりつしているのであった。

「はて、ばかににぎやかだなあ。お祭でもあるのかしらん」

 そう思いながら歩いていると、行きかう二人の話が、ふと先生の耳にはいった。

「どうも、えらいこったね。まだ千二のことを知らんのか」

「知るもんか。千蔵はあのとおりの体だ。そこへ倅の千二のことを聞かせちゃ、かわいそうだよ。悪くすりゃあ、それを聞いたとたんに、ううんといっちまうかもしれないよ」

「そうかもしれないね。あの怪我で、血をたくさん失って、からだがひどく弱っとるちゅうことだ。言わないのがええじゃろう」

 新田先生は、胸をつかれたように、はっと思った。

 行く人々の話によると、千二の父親は大怪我をしたらしい。一体、どうして大怪我などをしたものであろうか。

 怪我をしたればこそ千蔵は、千二のことも知らないし、東京へ駈けつけもしないでいるのだ。

 千二は、しきりに父親のことを心配していたが、やはり、それはとりこし苦労ではなく、ほんとのことだった。

「もしもし、千蔵さんがどうかしたのですか」

 新田先生は、一人の青年団服の男に声をかけた。その男は、けげんな顔をして、新田先生の顔をながめていたが、

「大怪我をしたんですよ。今うちで、うんうんうなっていますよ」

「ああ、そうですか。どうしてまた、そんな大怪我をしたんですか」

 青年団服の男は、目をぱちくりして、

「へえ、あなたは何も知らないんですね。第一、なぜこのような人出がしているんだか、知らないのでしょう」

「ええ、何にも知りません。しかし、私は千蔵さんのところへ用があって、これから、いく者なのです」

「ははあ、なるほど。では、親類の方ですね」と、かの青年は、ひとり合点をして、「それなら話してあげましょう。千蔵さんは、ゆうべ火柱ひばしらにひっかけられて、大怪我をしたのですよ」

「えっ、火柱ですか? 火柱というと……」

「火柱というと、火の柱です」

 と、青年団服の男は、わかったような、わからないようなことをいった。

「ああ、火柱がどこに立ったのですか」

「天狗岩という岩が、湖の上に出ているのです。すぐその側から、びっくりするような大きな火柱が立って、そばにいた千蔵さんがやられてしまったんですよ」

 新田先生は、道行く人の話を聞いてびっくりした。千二の父親が、ゆうべ火柱でやられたというのだ。

「はてな、天狗岩というと、聞いたような名だぞ」

 先生は、千蔵の家へ急ぎながら、道々考えた。

 天狗岩とは?

(そうだ。千二くんに聞いたのだ)

 やっと先生は、天狗岩のことを思い出した。千二が、その天狗岩の上に、ふしぎな光をはなつ塔のようなものが立っているのを、見たと言っていたが、その天狗岩だ。

 また、千二は、天狗岩の上へのぼっていって、そこで怪しい生物と、組打をやったと言っていた。その生物と、組合ったまま、岩の上からころがり落ちて、湖にはまった。だが気がついて見ると、例の丸木という怪人がそばにいて、これは火星のボートだと言った。

 そういうわけだから天狗岩というのは、この度の事件と、切っても切れないふかい関係のある岩である。

(この岩は、後になって、火星岩と名をかえた。それほど、後になるほど有名になった岩だった)

 その天狗岩で千二の父親が大怪我をしたとは、よくよくつきない縁のある岩である。

 だが、一体千蔵は、どうして怪我をしたのであろうかと、いろいろ考えながら歩いているうちに、ついに千蔵の家の前まで来た。

 たいへんな人だかりであった。村人が、たくさん集っている。みな、心配そうな顔であった。

 新田先生は、人波をわけて、中にはいった。すると、ぷうんと、消毒薬のきついにおいがした。奥には、白いうわっぱりを着たお医者さんが、看護婦相手に病人の手当をしているのが見えた。

「どうもいけない。困ったもんだ」

 と、千蔵を見ているお医者さまが言った。

 新田先生は、玄関に立って、それを聞いていた。

「困りましたわねえ」

 と、そばについている看護婦が言った。

「なんとか気のつく方法は、ないものですかなあ」

 と言ったのは、勝手の方から、氷ぶくろをかえて来た中年の男だった。近所の人らしい。

 新田先生は、そこでしずかに礼をして、はいっていった。先生が名乗をあげると、お医者さんをはじめ次の部屋へつめかけている人までが、親切な先生が、とおく来てくれたことを感謝した。

 その時、お医者さまの話では、千蔵がここにかつぎこまれて後ずっと人事不省じんじふせいになっていて、いくら注射をしても、気がつかないので、困っているということだった。

「それは、困りましたねえ」

 と、新田先生も、おなじことを言った。

 お医者さんは、千蔵の脈をじっとかぞえて首をかしげていた。

 氷ぶくろを持って来たり、こまごました用事をしていたのは、千蔵の家のとなりに住んでいる佐伯さんという人だったが、彼は、新田先生に向かい、

「この千蔵さんは、天狗岩の上で、ひっくりかえっていたんです。あのとおり大怪我をして、虫の息だったんです。出血多量というやつで、今朝がたに輸血までしたのですが、ここらで気がついてくれればいいのですがねえ」

 と言った。

 それを聞くと、新田先生は、

「では、千蔵さんは、なぜ怪我をしたか、まだそのわけを、だれにも話していないのですか」

「そうです。なにしろ千蔵さんが、人事不省のままここへかつぎこまれたのですから、よくわからないですが、とにかくお聞きでしたろうが、火柱にやられたらしいと噂しています」

 そう言っている時、お医者さまが、

「あっ、うまいぞ。口を動かしはじめた。注射がきいて来たのかもしれない」

 と言ったので、隣室につめかけている者も、それを聞いて、よろこびのこえをあげて、千蔵のまわりに集って来た。

「ああっ、ああっ」

 千蔵は苦しそうに声をあげ、そうしてうす目をひらいた。

「さあ、千蔵さん。しっかりするんですよ」

 と、お医者さまは、千蔵の手を、かるく叩いた。

「あっ、火柱ひばしらだ。湖の中から、火柱が飛出した。あっ、火柱が飛ぶ。火柱が飛ぶ」

 千蔵は、へんなことを口ばしって、そうして身もだえをした。

「おい、千蔵どん。気をしっかり持つんだよ」

「おい千蔵さん。わしが見えないか」

 素朴な近所の人たちは、気の毒な千蔵をとりまいて、しきりに声をかけた。

 お医者さまは、それをとどめて、

「ちょっとお待ちなさい。千蔵さんは、よほど興奮しているようですから、それがおさまるまで、また元のところで、しばらく様子を見ていて下さいませんか」

 そう言ったので、皆は元の隣の部屋にうつった。新田先生も、それについて、千蔵の枕元から去ったが、先生は、

「はてな」

 と言って、じっと腕ぐみをして、考えこんだ。それは、さっき千蔵が、うわごとのように言った言葉の謎を、どう解いていいかという問題だった。先生は、その言葉の中に、千蔵がその夜でくわしたおそろしい事件が、はっきり織りこまれているように思われるのである。

 新田先生は、病床にねている千蔵のうめき声を聞きながら、ふかい考えにしずんだ。

 さっき千蔵が言ったうわごとは、たいへん意味があるように思われた。

(火柱だ、湖の中から火柱が飛出した。あっ、火柱が飛ぶ!)

 これだ、これだ。

「そうか。うむ、そうかもしれないぞ」

 新田先生は、膝をとんと叩いた。先生は今千蔵のうわごとから、たいへんな意味を拾い出したのであった。

(火柱だ!)

 千蔵は、ゆうべ火柱をみたんだ。なぜ千蔵は火柱を見たか。それはいつごろかわからないが、とにかく千蔵は例の湖のそばへいっていたので、火柱を見たのである。湖のそばへいったわけは、息子の千二少年が、鰻を取りにいったまま、いつまでたってもかえって来ないので、心配のあまり、見にいったのであろう。そこで火柱を見たというわけだ。

(湖の中から火柱が飛出した)

 火柱は、湖の中から飛出したという。その火柱は、地面の上から出たのではなく、実に湖の中から立ったのであるというのである。湖の中から、なぜ火柱が立ったか。またその火柱は、一体どうしたわけで燃立ったのか。これについて、新田先生はすこぶる大胆な考えだったが、こう考えた。

 この湖の中から、火星ボートが飛出したのにちがいない。その火星のボートというのは、千二の見たという塔のような形をしたもので、それは全体がうす桃色に光っていたというから、それが湖の中から上へ舞上ったので、火柱に見えたのであろう。

 これは、すこぶる大胆な考え方だったけれど、そのように考えると、次の言葉の、

(あっ、火柱が飛出した)

 という意味が、ちゃんと合うのではないか。新田先生が、膝を叩いたのも道理だった。

 新田先生のおもてには、喜びの色が浮かんだ。

 とにかくこれで、千蔵のうわごとから、一つの答えを得た。

(湖の中から、光る火星のボートが飛出した)

 というのが、その答えだ。

 はたして、この答えは正しいかどうか。

 火星のボートは、おそらく空中に飛去ったことであろう。

 一体、なぜ火星のボートは、湖の中にあったのであろうか。それは千二少年が語ったことが、思い合わされる。──つまり、天狗岩の上に立っていた塔みたいなものが急に傾き、そうして、湖の中に落ちるところを見たと言った。そういう千二少年の話から考えてみて、火星のボートは、湖の中に沈んでいたのである。それが、飛出したというわけだろう。

 そのあとで、千二は怪物と取組みあったまま水中に落ちた。そうして気がついてみたら、妙な部屋の中にいた。その妙な部屋というのは、火星のボートの中であった。

 そこで千二は、丸木という怪人から、ボロンという薬品を買いにいくので、一しょにいってくれと頼まれた。そうして丸木は、遂に殺人事件をひきおこしてまで、ボロンを手に入れたのである。

 その丸木は、ボロンの壜を、大事そうに抱えて、走り出したという。彼はそれからどこへいったのであろう。

 もちろん怪人丸木はすぐさま、この湖へひきかえしたのにちがいない。ボロンの壜は火星のボートの中に持ちこまれたことであろう。それからしばらくして、火星のボートは湖の底から、空へ向けて飛出したものと思われる。

 新田先生のすぐれた頭脳の力は、遂にここまで、怪事件を解いた。しかし先生も、ボロンがなぜ火星のボートに入用であるか、それについては知らなかった。



10 異常現象いじょうげんしょう



 新田先生は、東京へ引返した。

 そのわけは、千二の父親が、真夜中に天狗岩のそばで見た火柱というのが、どうやら「火星のボート」と言われた怪ロケットの出発するところだったらしいので、さっそくこれは東京へ帰って、別な方面から調べたがいいと思ったからである。

 両国駅のホームで電車から下りた新田先生が、階段を下りて外に出ようとした時、

「やあ新田さん、どうしました」

 と、声をかけられた。

 その声のする方をふり向いて見ると、そこには背広服の紳士が立っていて、やあと帽子を取った。

「やあ──」

 と、新田先生は挨拶を返したが、その紳士の顔は、どこかで見たおぼえがありながら、どうも思い出せなかった。

「はて、あなたは、どなたでしたかしらん」

「おや、もうお忘れですか。私は、捜査課長の大江山ですよ」

「ああ、そうだ。大江山課長でしたね。いや、これは失礼しました」

 と、先生は、その失礼をわびたが、その後で首をかたむけ、

「しかし、どうもおかしいですね。僕がお目にかかった大江山さんは、もっとお年をめしていた方のようでしたが……おつむりなども、きれいさっぱりと禿げておられましてね」

 それを聞いて、大江山課長は、苦笑した。そうして課長は、新田先生の耳のそばへ口をよせると、低い声で、

「いや、はげ頭は、あれは、私が変装していたんですよ。初めて人に会う時は、相手がどんな人かわからないから、あのように変装してお目にかかることにしているのですよ。私は、あんな禿げ頭の年寄ではありません。どうか、よく見直してください。はははは」

 両国駅頭で、大江山課長と禿頭問答をやった新田先生は、急になんだか和やかな気持になった。

「大江山さん。僕はいま千二少年の父親をみまって、東京へ帰って来たところですが、あの千蔵さんは大怪我をしていますよ」

「そうだそうですね。それを聞いたので、私たちもこれから、あっちに出かけるところだが、あなたに先手をうたれたわけですね。それで、何かへんな噂を聞かなかったですか」

「ああ聞きました。火柱の一件でしょう」

 そこで新田先生は、千蔵のうわごとについて話をした。そうして自分の考えを、みんな課長の前にのべたのであった。

「ふん、そうですか。よく聞かせてくだすった。たいへんわれわれの参考になります」

と、大江山課長は一向こだわる様子もなく、新田先生の話を喜び、

「だが、そうなると、これまでわれわれが、蟻田ありた博士の予言をばかにしていたことが、後悔されて来ますよ。私は、博士が変になったんだろうとばかり思っていたが、これは、改めて考え直す必要がある」

「蟻田博士は変ではないはずです。僕も、むかし教わったことがあって、よく知っています」

「ほう、あなたは、蟻田さんの門下だったんですか。これはふしぎな縁だ。そういうことなら、あなたに一つ、お願いしたいことがあるんだが……」

 課長は、ちょっと言いにくそうに、あたりを見廻した後、

「新田さん、怒っちゃあいけませんよ。実は私たちは、蟻田博士が変だと思ったので、極秘のうちに、博士を病院に入れてあるのです」

「えっ、博士を、……」

「何しろあのとおり、火星兵団さわぎをまきおこした本人のことですから、帝都の治安取締上、そういう非常手段をとらないわけに、いかなかったのです」

「ああ、僕は新聞で読んで、蟻田博士が御自分で家出をして、行方不明になってしまったことと思っていましたが……」

 と、新田先生は、ため息をついた。

 大江山課長は、かざりけのない態度で、その時の苦しい立場を説明し、

「そこで、あなたにお願いというのは、蟻田博士を病院から出して、博士の屋敷へお帰ししますからしばらく博士の様子を見てくれませんか」

「はあ、様子を見ろとおっしゃいますと、どういうことですか」

 新田先生は、課長の言う意味を問いただした。

「ああ、それは、こういう意味です。実は、われわれは、蟻田博士の言われることは、ありもしないことだと思っていたのです。しかし、こういうことになって、火星のボートか何か知らないが、ともかく妙なものが、やって来たり、飛んでいってしまったりするものですから、博士の言うところを、もう一度考え直してみなければなりません。そこで幸い、あなたが博士の門下生だということですから、あなたにお願いして、それを調べていただきたいのです」

 と言って、課長は、ためいきをつき、

「こういう天文学のことなどになると、われわれ素人には、ほんとうのことか、うそのことか判断がつきませんのでね」

 と、苦笑いをした。

 新田先生は、大きくうなずいて、

「よろしい。そういうことなら、僕もおよばずながら、それをやってみましょう。そうすることは、同時に、旧師に対する門下生のつとめでもあるのですから。しかし、千二君は、なるべく早く出していただきたい」

 すると、大江山課長は言った。

「これから千二君は、大事に扱うことにします。今すぐに出すわけにはいきません。が、これは別にわけがあるのです」

「別のわけとは、どんなことですか」

 新田先生は、大江山課長の顔を見た。

「それは、例の怪人丸木が、まだつかまらないからです。千二君を外へ出したは、とたんに怪人丸木が現れて、千二君を、殺したはというのでは、かわいそうですからね」

「怪人丸木は、千二君を殺しましょうか」

「それは、新田さん、私たちが犯罪についての経験の上から言って、たしかに起りそうなことなんですよ。丸木については、千二君が一番よく知っているのですからね。千二君が、この警視庁から外へ出たことを、怪人丸木が知ると、必ず、少年を殺そうと思うに違いありません」

「なるほど。そういえば、そういうことになりそうですね。ああかわいそうに……」

 新田先生は、気の毒な千二の身の上を思って、胸の中があつくなった。

「でも、課長さん」

 と、新田先生は、しばらくして言った。

「あの怪人丸木は、火星のボートに乗って、もう逃げてしまったんではないのですか。あれもきっと、火星のまわし者かなんかでしょうから……」

 すると、大江山課長は、首をかしげて、

「さあ、そこが大事のところなんですが、銀座事件があってから、まだ幾日もたっていないので、それは何とも言えません。私どもの経験によると、とにかく、ここ四、五日は様子をみていなければ、安心できません。その間に、丸木が、ひょっくり姿をあらわすかもしれないのです」

 大江山課長は、火星のボートがいなくなったから、丸木も一しょに逃げたと、そうきめることは、まだ早すぎると思っていた。

 新田先生には、どっちがほんとうだか、よくわからなかった。とにかく課長の頼みもあることだし、彼も前から、旧師蟻田博士のことが気にかかっていたところなので、その足で、蟻田博士に会いにいくことにした。

 新田先生は、その足で、蟻田博士が入れられている病院へいった。

 大江山課長は、両国駅にはいるのを一時見合わせ、病院へ電話をかけて、博士を出すように命令をした。そうして新田先生に、一人の警官をつけて、案内させた。

 とつぜん退院のゆるしが下って、蟻田博士は、喜ぶやら怒り出すやら。

「けしからん奴どもじゃ。わしを、まるで囚人のように、こんなところへおしこめておいて、今になって、もう出てもよろしいとは、なんという、勝手な奴どもじゃ。わしを、一体なんと思っているのか」

 その時、新田先生が、博士の前にいって御機嫌を取らなければ、博士はなおも、檻の中から出たライオンのように、あばれまわったことであろう。

「あっ、新田か。貴様まで、わしを変だというのか。け、けしからん」

「いや、蟻田博士。そういうわけではありません。もうただ今から、お屋敷にお帰りになれるのです。私がお供をいたします」

「ふふん、その手にはのらんぞ。そんなことを言って、貴様はわしを、またどこかの牢へぶちこむつもりなんだろう。弟子のくせに、けしからん奴じゃ」

「いえいえ、そうではありません。全くもって、私はそんなけしからんことはいたしません。さあ、御機嫌をお直しになって、お屋敷へお帰りのほどを」

 蟻田博士は白いあご鬚をふるわせつつ、暫く新田先生の顔をじっとみつめていたが、

「おお、新田。貴様はわしをだますのじゃないだろうな。だましてみろ。──あとで、うんと、思いしらせてやるから。──とにかく、だまされたと思って、出かけるか」

 蟻田博士は、そこに立ちながら医者や看護婦の顔色を用心ぶかくじろりじろりとにらみつつ、一歩一歩玄関の方へあるいていった。

 新田先生は、けわしい眼つきの蟻田博士を、なだめすかして、ともかく博士邸へつれもどった。

「けしからん。実にけしからん」

 と、ぶつぶつ言いどおしだった博士も、久しぶりに、わが家の前に下りたつと、急に機嫌がなおったようであった。博士は、すたすたと鉄門をあけて、邸内へはいっていった。番をしていた警官の一人が、おどろいたような顔をして、裏手からとびだして来たが、蟻田博士は、その方へ、じろりとけわしい目を向けた。

「け、けしからん。わしの屋敷を、刑務所にするつもりだな。わしはゆるせん」

 新田先生はまた困った顔をしたが、一しょについて来た警官が、番をした警官を呼んで、博士の相手にはならず、そのまま自動車に乗り、ぶうーつと警笛をあとに残して、帰ってしまった。

 それでも博士は、まだ心をゆるめず、

「おい、新田」

「はい」

「お前、そのへんを、よく見てまわれ。もし人間がいたら、どんな奴でもかまわないから、箒でぶんなぐってやれ」

「はいはい。承知いたしました」

 新田先生は、博士をこの上おこらせてはいけないと思い、博士の言われるままに、邸内をぐるっとまわってみることにした。

 裏手にまわってみると、博士の研究室になっている異様な形の天文台がある。

 屋根は丸くて、これが中で、モートル仕掛でうごくのである。そうして屋根は二つにわれる。その間から、博士のご自慢の反射望遠鏡が、ひろい天空をのぞくのである。

 博士の研究室には、りっぱな機械がそろっているが、その天文台の外は、庭一面、草がぼうぼうと生えている。ほとんど足をふみこむすきもないほどである。垣などはこわれたままである。

 蟻田博士の天文台のまわりを、新田先生は幾度か足を草にとられながら、廻ってみた。

 もちろん、誰一人として、そこにひそんでいる者はなかったし、警官の姿も見えなかった。

 新田先生は、天文台をひとまわりして、博士邸の表に出た。そうして、あらためて玄関をはいって、博士の姿を研究室に見出したのであった。

 蟻田博士は、新田先生に言いつけた見張のことなどは、もうすっかり忘れてしまったかのように、室内の機械を調べるのに夢中であった。

 壁の上に、ガラスにはいった自記機械があった。自記機械というのは、人が見ていなくても観測した結果が、長い巻紙の上に、インキでもって、曲線になって記録せられる機械である。例えば、室内の温度が一日のうちに、どう変ったかというようなことを知りたい時、人が寒暖計のそばにつききりで、一々水銀の高さを読んで記さなくとも、この自記機械にかけておくと、巻紙が廻るにつれ、ペンが長い曲線をかいて、室内温度がどう変ったか記してくれる。

 蟻田博士は、この自記機械をあけ、中から巻紙をひっぱって、それを見るのに夢中になっている。

「博士。よく見廻りましたが、もうお屋敷のうちには、誰もいませんですから御安心なさいませ」

 と、新田先生は、博士の後から、声をかけた。

 ところが、蟻田博士は、それには、返事をしない。

 そうして、なおも夢中になって、その自記機械から、巻紙ようのものを長くひっぱり出して見ている。その目は異様な光をおびていた。

「博士。それは、何を自記する機械ですか」

 新田先生は、博士の後に近づいた。

 博士は、新田先生に声をかけられ、びっくりしたようであった。

「誰かっ?」

 と、けわしい目で振返って見て、そこに新田先生が立っているのを見ると、

「なんだ、お前か」

「先生。お屋敷の内には、ほかに、もう誰もいないようでございますよ」

「そうか。だが、油断は出来ないぞ。もし誰かの姿を見つけたら、すぐわしに知らせるのだぞ」

 そう言いながらも、博士は長い巻紙を手に取って、自記曲線を見入っている。

「博士。それは何を測ったものなんですか」

 新田先生は、再び同じことを蟻田博士に尋ねた。

「これか」

 と、博士は、巻紙のような記録紙の上をぽんと手で叩いて、

「わしが留守にしている間に、大変な異常現象が起っていたんだ」

「えっ、大変な異常現象とは?」

「異常現象が起ったとは、つまり、この宇宙の中に、あたりまえでない出来事が起っていたんだ」

 博士の目の中には、いらいらした気持が、はっきりと見られた。それを見て、新田先生も、なにかしらぞっとした。

「博士。宇宙の中に、あたりまえでない出来事が起っていた、とおっしゃるんですか。それは、一体どんなことなんですか」

 博士は、なおも長い記録紙を、くりかえし広げて見ていたが、

「とにかく、これは地球始って以来の大事件が、近く起るぞ。というわけは、わしのかねて注目していたモロー大彗星だいすいせいの進路が、急に変ったのじゃ」

「はあ、モロー彗星の進路が、急に変ると、大事件が起るのですか」



11 モロー彗星すいせい



 モロー彗星が、急に進路を変えたからといって、さわいでいる蟻田博士だった。それがなぜ大事件になるのか、新田先生には、わけがわからなかった。

「おい、新田。地球が遂に粉みじんになる日が来るぞ」

「えっ、なんですって」

 新田先生は、びっくりして、博士の顔を見なおした。先生は、自分の耳をうたぐったのである。地球が粉みじんになる。……と聞えたように思ったので。

「なんだといって、それだけのことじゃ。地球が、粉みじんに、くだけてしまうのじゃ」

「先生、それはじょうだんですか。それとも、小説かなんかの話ですか」

 新田先生には、博士の言葉がまだのみこめなかった。

 そうでもあろう。地球が粉みじんになる日が来るなんて、そんなばかばかしいことが、あるであろうか。

 さもなければ、蟻田博士は、やはり病院にはいっている方が、いい人なのではなかろうか。つまり博士は、変になっているのではなかろうか。

 新田先生はどっちに考えていいのか、たいへん迷った。

 蟻田博士は、記録紙を机の上にのせると、ていねいに巻いていった。そうしてそれを大事そうに側の金庫の中にしまった。その間、博士は一言も発しなかったが、それが終ると深いため息をついて、新田先生の方を見た。

「おい、新田。お前には、このことがのみこめないかもしれない。が、よくお聞き。さっきも言ったように、かねて注意を払っておいたモロー彗星が、わしの留守中、急に進路を変えたのだ。その結果モロー彗星の新しい進路は、これから地球が通っていくはずの軌道と交るのだ。しかもその交る時刻に、モロー彗星も、地球も、その軌道の交点に来るのだ。だから、両方は大衝突をする!」

「地球とモロー彗星とが、大衝突をするとおっしゃるのですか」

 新田先生はびっくりして、思わず博士の腕をつかんだ。

 博士は、悟りきった人のように平気な顔で、

「そうだ。やっと、わかったかね」

「つまり、地球の軌道と、モロー彗星の軌道とが交っていて、どっちかが、その交点を早くか遅くか通ってしまえばいいのだが、不幸にも、地球とモロー彗星とが、同時に、その交点を通る。それでその時大衝突が、起るというわけですか」

「そうだ、そうだ。全くその通りだ。地球の人類にとって、こんな大きな不幸はあるまいなあ」

「そこで、大衝突をやって、地球は粉みじんになってしまうのですか」

「そうだとも。モロー彗星のしんは、地球の大きさにくらべて八倍はある。これは、さしわたしの話だ。そうして、その心は、どんなもので出来ているか、まだよくはわからないが、とにかく非常な高熱で燃えている、重い火のかたまりだと思えばいい。そういうものが、地球の正面から、どんとぶつかれば、地球はどうなるであろうか。衝突後も元のままの地球であるとは、もちろん考えられない」

「地球は、幾つかに壊れるのでしょうね。日本と、アメリカとが、別れ別れになったりするのでしょうね。しかしわれわれ人類は、そうなっても、ちゃんと生きておられるでしょうか」

 新田先生は、恐しい想像の中に、思わずおののいた。

「いずれ日本とアメリカとが、別れ別れになると言っても、それが二つの小さな地球の形になるとは思われない。今のところ、わしの考えでは、地球は粉みじんになって、そうして、いくつかの火の塊になってしまう」

「えっ、火の塊ですか。するとわれわれ人類は。……」

 蟻田博士は、モロー彗星が地球にぶつかった時は、地球は幾つかの火の塊になってしまうであろうと、大胆な見通しをつけた。

「そうなれば、もちろん、地球上の生物は、一ぺんに焼けてしまって、ただもやもやした煙になってしまうだろうなあ」

 蟻田博士は、平然と、まるでひとの事のように言う。

「博士、それでは、大衝突をすると、地球上の人間も、牛も、馬も、犬も、猫も、みんな死にたえてしまうと、おっしゃるのですか」

「そうだよ」

「やっぱりそうですか。地球上のありとあらゆる生物が、死滅するのですか。ああなんという恐しいことだ」

 新田先生は、もう立っても坐ってもおられなくなって、椅子の上に、やっと自分の体をささえた。

「蟻田博士。ほんとうにそんな恐しい時が来ますか」

「もちろん来るさ」

「ああ、なんとかしてその大衝突を、防ぐことは出来ないものでしょうか。だって、余りにも悲惨です」

「相手は、地球だのモロー彗星だ。その大衝突を防ぐことは、とても出来ない相談だ。そんな大きな物体を、右とか左とかに動かす力を、人間が持っていないことは、お前もよく知っているだろう」

「それにしても、それでは、出来事が余りに悲惨です。歴史も、文化も、みんな煙と化して、なくなってしまうのです」

「仕方がないよ。人間の力は、とても自然の力には及ばない。それともお前は、人間が、そんなえらい生きものだと思っているかね。列車を走らせたり、ラジオで通信したり、戦車を千台も並べて突撃させたりは出来るだろうが、宇宙にみなぎる力に比べれば、そんなことは、ほんのちっぽけな力さ」

 なるほど、大宇宙の中で、地球とモロー彗星とがぶつかるその大きな力に比べると、大砲の威力も、爆弾の破壊力も、まるで大男に蚤が食いついた程の力にも値しないことは、よくわかる。新田先生は、もうその後を尋ねる元気もなくなった。

「どうだ、新田。いよいよ地球の文明も、これでおしまいになるよ。人間どもは、日ごろこの宇宙の中で、一等えらいもののように思っていたろうが、これで、いかに弱いものだか、わかる日が来るのじゃ。全く、気の毒みたいなものじゃ」

 と、蟻田博士は、自分だけは人間でないような口ぶりであった。

 新田先生はそれを聞いて、いやになってしまった。自分の足の下にふまえている地球が、こわれてしまうなんて、とんだことになったものである。しかも、その地球がこなごなにこわれることを、じっと見ながら死んでいくのだ。なんという恐しいことであろうか。

(全く、こうなると、人間というものの力は、ずいぶん小さいものだ。蟻が人間の指の下で、おしつぶされるよりも、もっと簡単に、人間たちは、モロー彗星の衝突で、みな殺しにされてしまうのだ。ああ、なんというみじめな人間の力であろうか」

 新田先生は、心の中で、泣きの涙になっていた。

「さあ、そうなると、わしも、新しい仕事が出来て、いそがしくなったぞ」

 と、蟻田博士は、手を後に組んで、落着かない様子で、部屋をあちこちと歩き廻る。

「まず、第一に用意しておかなければならないことは、地球の最期さいごを映画にうつして、後の世まで残しておくことじゃ。はて、どうしてそれをやりとげたらいいじゃろうか。これは、なかなかむずかしいぞ」

 博士は、ひとりごとを言って、また歩き廻る。

 新田先生は、不審ふしんの面持だ。

(地球の最期を映画なんかにおさめたって、どうにもならないではないか。なぜといって、地球そのものが、モロー彗星の衝突で、煙のように消えてしまうのだから。へんなことをいう博士だ)

 そう思って、蟻田博士の方をじっと見ていると、博士は、そんなことは一向気にかけない様子で、今度はしきりに天体望遠鏡をのぞきこんでいる。

「ほう、モロー彗星の形がだいぶん変って来たぞ。なるほど、これで観測の結果が正しいことがわかって来た」

 博士は、やがて地球がこわれ、そうして自分も死ぬことが、さらに気にならないらしい。そういう落着きは、学者だからそうなのか、それとも又別にほかのわけがあるのか、今のところ、どっちともわからない。

「もし、蟻田博士」

「なんじゃ。大事なところじゃ。あまり口をきくな」

「だって、そういう大事件が迫っていると聞けば、もっと詳しく博士から伺っておきたくなります。博士。一体モロー彗星が、地球に衝突するのは、何月何日のことですか」

 新田先生は、モロー彗星が地球に衝突する日までが、なるべく長いことを祈りながら、最も大事なことを博士に尋ねた。

「衝突の日のことか。つまり地球最期の日は何月何日かと聞くのじゃな。ふふふ、それはなかなか重大問題じゃ。うっかり答えることは出来ない」

「博士。ぜひ教えていただきたいです。それによって、僕たちは、用意をしなければなりません」

「なに、用意をする? 用意って、なんの用意をするのか。お前たちがどんな用意をしようと、結局むだなことじゃ。おとなしく死んでしまうがいい」

 博士は、地球とモロー彗星との衝突する日を、なかなか言おうとはしなかった。新田先生は、ますますいらいらして来るのだった。

「もし、博士。なぜそれをおっしゃって下さらないのですか」

「まあ、いいよ。そんなことを聞いても、なんにもなりはしない」

 博士は、頑として言わなかった。

「まだ一年ぐらい先ですか」

「さあ、どうかな」

「それとも一箇月後でしょうか」

「さあ、どうかな」

 博士は、同じことを言いながら、望遠鏡にしがみついている。

「どうしても、おっしゃって下さいませんか。では、よろしい。僕は、誰かほかの天文学者のところへいって、それを聞いて来ます」

 新田先生はとうとうおこってしまった。いつもは決しておこらない先生だったが、地球が粉みじんになるという恐しい話を聞いたので、少し取りみだしたかたちであったと、先生のために言いわけをしておきたい。

 それを聞くと、博士は初めて望遠鏡から目を離した。そうして新田先生のそばへ近づき、両手を後に組んで、若い弟子の顔をのぞきこむようにして、

「はははははは、お前は、この師の学力が、どんなに大きく、かつ深いものであるかを知らないとみえるのう。まあ、やってみるがいい。誰のところでもいい、天文学者という学者のところを歴訪して尋ねてみるがいい。恐らく、それに答えてくれる学者は、一人もいないであろう。いや、第一、モロー彗星が地球に衝突することすら、誰も気がつかないであろう。ふん、自慢じゃないが、世界広しといえども、わしよりえらい天文学者は、ただの一人もいないのじゃ」

 そう言って、蟻田博士は、ここちよげに、からからと笑った。

 蟻田博士の、恐るべき自信!

 モロー彗星と地球とが、やがて衝突するだろうことを知っているのは、世界広しといえども自分一人だと言う。

 あまりにも、大きなことを言いすぎるではないか。

 だが、新田先生は、博士が大ぼらを吹いているのだと、一がいには、きめられないと思った。なぜなら、博士が実にすぐれた学者であることは、その昔、博士のもとで助手のようなことをしていたので、そのころからよく知っている。そのころアメリカのウィルソン山の天文台に、テーラーという博士がいたが、その人こそ、その頃における世界一の天文学者だった。そのテーラー翁がなくなるすこし前に、蟻田博士のところへ一通の手紙が来た。新田先生も、あとでその手紙を見せてもらったけれど、その文中にこんな文句があった。

(ああ、自分は、初めて安心ということを知った。それは自分の亡きあと、あなたのような天才的天文学者がいるから、天文学については、心配がいらないということを発見したからである。蟻田博士よ、どうかあなたは世の中の評判を気にしたり、またえらくなったり、金持になったりすることを願ったりしないで、一命をただひたすら学問のために捧げてもらいたい。世の中からわる口を言われても、学問の上のことでは、決して、弱くなってはいけない。そうすることが、世界人類のため、真の幸福をもたらす道であるからである)

(自分は恐れる。あなたの上に、あるいは、世間の非難が集中する時が来るのではないかと。なぜなれば、あなたはきっと、オリオン星座附近に横たわる、千古の秘密について興味をもち、そうしてついに一つの恐しい答えを得るかも知れないからだ。その恐しい答えこそ、世界人類が常日頃願っている幸福をにぎりつぶし、大暗黒を与えるものであるかも知れないからだ)

 テーラー老博士の手紙の中には、こうした意味ぶかい文句があったのである。


 モロー彗星と地球との衝突は、もうさけることの出来ないものだ──と、蟻田博士は信じきっている。だが、その衝突が、いつ起るのやら、それについては、口をかたくむすんで、語ろうとしない博士だった。

 新田先生は、どうかして、その衝突の予想日を、博士から聞出したいと、あれやこれやと、手を考えた。

「もし、博士。僕にもお手伝をさせて下さい。モロー彗星の位置の計算でもやりましょうか」

 すると、博士は笑って、

「ふふん、お前なぞにそんなむずかしいことが、出来るはずがないよ。手伝ってくれるというのなら、この望遠鏡で、モロー彗星の様子にかわりがないか、それを気をつけていてくれないか」

 そう言って、博士は望遠鏡を新田先生にゆずった。

 もちろん博士は、その望遠鏡の使い方について、一通りのことを新田先生に、教えてやらなければならなかった。また、モロー彗星が、これまでどんな風に形を変えていったか、それについても、写真や観測表でもって、大体の知識を入れてやらねばならなかった。おかげさまで、新田先生は一気に最新の天文学をのみこむことが出来た。

 そこで、新田先生は、ひとりで、望遠鏡を動かすことになった。

 ただ残念なことには、モロー彗星のいるところが、今ちょうど太陽面の近くにあり、そのうえ雲が邪魔をしているので、はっきり見えないことだった。しばらく時間をまつよりほか、仕方がない。

 その代り、新田先生は、望遠鏡をいろいろと動かして見ることが出来た。博士が世界一を誇るだけあって、じつにすばらしい明かるい望遠鏡だった。そのうちに、新田先生は、異様なものを、望遠鏡の中にとらえた。



12 三つの獲物えもの



 湖畔に起った怪事件を取調べるため、かねて千葉へ出張中だった大江山捜査課長は、一日向こうに泊り、その翌日の夕刻、東京へ帰って来た。

 帝都は、今ちょうど暮れたばかりで、高層ビルジングのあちこちの窓には、電灯の火が明かるくかがやき、その下で、いそがしい仕事をかたずけるため居残りをしている社員たちの姿さえ、はっきり見られた。

「課長、すぐ本庁へ行かれますか」

 と、自動車の運転をしている警官がたずねた。

「ああ、すぐ本庁へたのむ」

 課長としては、こういうわけのわからない事件の報告は、なるべく早くすませておかないと、気が落ちつかないのであった。いってみてよかった。これまでに手がけた事件とちがって、全く妙ちきりんな事件である。警視総監も、さぞ驚かれることであろう。

 課長の乗った自動車は、お濠を右に見て、桜田門の向かいに立ついかめしい建物の玄関に着いた。この建物こそ、わが帝都を護る大きな力、警視庁であった。

 課長は、一旦いったん、自室へはいったが、すぐ席から立って、総監室へはいった。

 課長は、なかなか出て来なかった。彼が出て来たのは、それから約一時間もたった後のことだった。総監も、課長の報告によって事件の重大性に驚き、今後のため、いろいろと念入な打合わせが、行なわれたものらしい。

 課長が自席へ帰って来ると、それを見かけた佐々刑事が、課長のところへ飛んで来た。

「やあ、課長。ごくろうさまですなあ。で、その火星の火柱とか、火星の化物とかいう怪しいものの正体は、わかりましたか」

 課長は、それに返事をするかわりに、首を左右にふった。

「えっ、やっぱりわからないのですか。課長にもねえ」

 大江山課長は、溜息をついた。

 そうして佐々刑事に向かって、

「おい、皆にここへ集ってもらってくれ。千葉出張の獲物について報告をするから」

「ははあ、獲物についての報告ですか。獲物とは、そいつはすばらしい話だ」

 佐々は、大仰に驚いて、課内の幹部の机を一々走ってまわった。

 まもなく、課長の机の前後左右は、部下の主だった警官によって、ぐるっと取りかこまれた。

 課長は、そこで、いつになく深刻な顔つきで、一同をぐるっと見まわしたあとで、

「千葉へ出張して、掴んで来たことについて報告をする。結局獲物は、たった三つである」

 と言って、課長は、机の上を指先で、ことんと叩いた。

「その第一。火柱ひばしらの発見者で、そのために大怪我をした友永千蔵という男は、怪我をした場所がよくないらしいが、目下気が変な状態にある。どうにも、手のつけようがない。だが、怪我の方は、重傷ではあるが、致命傷ではないそうで、このまま死ぬ心配はない」

 課長はそこでちょっと口を切って、

「第二の収穫は、こういう拾い物だ」

 と言って、鞄の中に手を入れて、やがて机の上に放り出したものをみれば、木の葉蛙の背中のような、色のまっ青な、長さ一メートルあまりの鞭のようなものであった。

 課長を取りかこんでいた幹部警官たちは、にわかにざわめきたった。そうして首をのばし、目をみはって、その気味のわるい色をした鞭のようなものをみつめた。

「課長。これは一体、何ですか」

 部下の一人が、たまらなくなって、課長に質問を放った。

「さあ、お前たちは、これを何だと思うかね」

 大江山課長は、机の上にのせたその気味のわるい青い鞭のようなものを指して、周囲に集った警官たちの顔を、ずっと見まわした。

「はて、何でしょうかね」

「一種の紐だな」

「どこかについていた紐が、ちぎれたのじゃありませんかね」

「どうもわからない。とにかく、いやらしい青い色だ」

 課長について千葉へ出張していた部下たちも集って来て、皆の説をおもしろげに聞入る。千葉で拾って以来、一体これは何だろうかと、さかんに議論をやったらしい。

「ねえ、課長。それは、火星の化物の遺失物ですよ」

 とつぜん、大きな声でどなった者がある。それは、いつも元気のいい佐々さっさ刑事であった。遺失物というのは落し物とか、忘れ物とかいう意味であった。

「よう、佐々、お前はなかなか目がきくぞ。今日は、特製ライスカレーを食べたんだな」

 一座は、どっと笑った。

 佐々刑事と特製ライスカレーの関係は、庁内でたいへん有名であった。彼はずっと前、或る事件のため、一年近く遠く南の方に出張していた。わが南洋領の諸島を廻り、それから更に南下して、ジャワ、スマトラ、ボルネオ、セレベスという四つの大きな島をぐるぐる廻って来た。そのとき彼は、みやげにカレーの粉を石油缶に五杯も持って帰り、同僚にも分け、もちろん大江山課長にも呈上した。残りは、大事にしまってある。そうして、時々そのカレー粉を出してニウムの鍋にとき、自分でライスカレーを作って食べる。

 それが有名な佐々の特製ライスカレーだが、それについてまだ話がある。

 彼は、特製のライスカレーを、うまそうに食べる。七分づきの御飯は食堂からとりよせるのであるが、この上にぶっかける黄色なカレーの汁の中には、いろいろなものがはいる。鳥のこともあれば豚の時もあり、じゃがいものはいっていることもあれば、玉葱たまねきのはいっていることもある。

 なおその上に、彼はいろいろな香の物をきざんで、混ぜあわすのである。黄色く押しのかかった古漬の沢庵や、浅漬のかぶや、つかりすぎて酸っぱい胡瓜や、紅しょうがや、時には中国料理で使う唐がらし漬のキャベツまでも入れる。香の物は、なるべくたくさんの種類がはいっているのがいいそうである。

 ぽっぽっと、湯気の立つ皿の上をながめて、彼は、まだ食べない先から、盛に、ごくりごくりと唾をのみこんでいる。

 こうして用意がすっかり出来る。そこで彼は大きなため息を二つ三つして、はじめて瀬戸物製の大きなスプーンを左手に握るのである。彼は、左ききである。

「ああ、これゃ熱くて、口の中が火になるぞ!」

 彼は、頬をふくらませて、皿の上にもうもうと立昇る白い湯気を、ふうっと吹き、そうして山のように盛上ったライスカレーへ、左手に握った瀬戸物のスプーンをぐさりと突立てるのである。あとはただ夢中で、馬のように食う。──これをやると、佐々の頭は、急にたいへんによくなるそうである。

 当人はそれでいいが、迷惑をするのは机を並べている同僚だ。なにしろ、これだけのカレー料理を、佐々は自分の机の上で作るのである。誰がなんと言っても、彼は、断然自分の机の上で作る。そのために、彼のカレー料理が始ると、捜査課の中は、カレーのにおいがぷんぷんする。時には、警視庁の建物全体がカレーくさくなる。

 佐々刑事の自席料理のため、恐るべきカレーの毒ガスが、警視庁のどの部屋といわず、どの廊下といわず、はいこんでいくのであるから、これまで幾度も問題になった。

 だが、当人は、何と言われようと平気であった。この特製のカレー料理を食べると、元気が出て頭がよくなる。その結果、犯人を早くつかまえることが出来る。そうなれば、警視庁のために喜ばしいことである。だからライスカレーの手製はやめられない。──というのが佐々刑事の言分いいぶんであった。


 とにかく彼は、だれからなんと言われても、一向気にしないたちだった。そうして思ったことを、どんどんやっていく。だから、成功することも多かったけれど、失敗することもまた多かった。

 失敗したときは、彼はちょっとはずかしそうな顔をして、自分の首すじを平手でとんと叩く。が、いつまでも悲観しているようなことがなく、間もなく猛犬のように立ちあがる。そうして目的へ向かって突進する。機関銃の弾丸みたいな男であった。

 佐々刑事のことを、私はあまり長く書きすぎたようである。

 大江山課長の机の上に置いた青い鞭のようなものを見て、

(それは、火星の化物の遺失物だ!)

 と言った佐々の言葉は、たしかにあたっていた。

 その青い鞭のようなものは、大江山課長が、天狗岩の附近から拾って来たものであるが、全くめずらしい品物なので、果して火星の生物が、天狗岩のところへ来ていたとすると、それが落していった、と考えると、一応話のつじつまが合うのであった。

 だが、火星の生物の遺失物であるのはいいとして、それがどんな用につかわれる品物か、それがよくわからない。

 火星の生物が、天狗岩の附近に落していった青い鞭のようなものは、一体何に使う品物か、謎を秘めたまま大学へ送られることとなった。

 つまり、大学へ持っていって、材料や形などから、それがどんな用に使われる品物かを、研究してもらうためだった。

 大江山課長は、一通りの報告を終えたあとで、次のような注意を、部下一同に与えた。

「はじめ、蟻田博士が、火星の生物に注意をしろとか、火星兵団というものがあるから気をつけなければいけないなどと言出した時には、私は、何を言うかと、実は、博士を気が変な人あつかいにしていたが、その後、つづいて起ったいろいろの怪事件──と言うと、千二少年が天狗岩で会った怪塔・怪物事件、怪人丸木が銀座でボロンを買うため殺人を犯した事件、それから千二の父親千蔵が、見て大怪我をしたという火柱事件などであるが、それらの事件を通じて、よく考えてみると、どうもこれは何かあるらしいのだ」

 と言って、課長は、あらためて、部下一同の顔を、ずっと見廻した。一座は、しいんとなって、課長の口から出て来る稀代の怪事件に関する、一言一句も聞きもらすまいとしている。

 大江山課長は、言葉をついで、

「確かに、何かがあるのだ! 果して、これは火星の生物か、火星のボートかわからないけれど、とにかく前代未聞の怪しいものが、東京附近へまぎれ込んだことだけは、疑う余地がない」

 課長は、そこで、溜息をついて、

「それでわれわれは、ここで一大決意を固めなければならないと思うのだ。それは、一日も早く、この前代未聞の謎をつきとめることだ。この解決の近道は、目下行方不明の怪人丸木を逮捕することにあると思う」

 大江山課長は、重大決意のほどを、部下一同に語りつづける。

「もう一度言う。この際一日も早く、怪人丸木を捕えよ。そうして、捜査に当っては、仮に火星人なるものが、我々の住んでいるこの地球へ紛れこんでいるものとして、ぬかりなく用意をととのえるのだ。これまでに次々と起った事件をふりかえってみると、怪人丸木にしても、火星人にしても、かなり狂暴性を発揮している。だから、お前たちは必ずめいめいにピストルか催涙弾さいるいだんを身につけておれ」

 これを聞いていた一同は、深刻な顔つきでうなずいた。めいめいに、ピストルか催涙弾を身につけておれ、などという命令は、共産党本部へ突入した時のほか、受取ったことがない。

「課長、彼等を殺してしまっては、何にもならんじゃないですか。ぜひ生捕いけどりにしろと、なぜ命令しないのですか」

 佐々刑事は、いささか不満の顔つきであった。

「うん、生捕に越したことはない。だが、彼等は、我々の決意を知ると、将来においては、もっと狂暴なふるまいをするだろうと思う。君がたに命がけで活躍してもらいたいことはもちろんだが、しかし一方において、私としては、ここにいる君がたのうちの一人でもを、冷たいむくろにするに忍びない。だから十分用意をととのえるように」

 悪人たちからは、鬼課長として恐しがられている大江山警視だったが、部下の身の上を思うその言葉の中には、限りない慈愛の心があふれていた。

「おれは、必ず生捕ってみせる。おれも生き物なら、相手だって、生き物なんだから。生き物の息の根をとめるには、こうしてぐっとやれば、わけなしだ」

 と、佐々は柔道の手で締めるまねをした。

 怪人丸木と火星の生物との検挙命令を発しおわった大江山捜査課長は、その時、急に思い出したらしく、

「おおそうだ。あの子供は、どうしているかね。千二少年は?」

 と、かたわらを向いてたずねた。

「ああ、千二少年ですか。あれは……」

 と言って、掛長が、あとのことばを、口の中にのんだ。その刹那に、掛長は、鋭敏に、何ごとかを感じたようであった。

「あれは! あれは、どうかしたのか」

 と、大江山課長も席から立って、掛長のそばによった。

「あれは、今朝、放免いたしました」

「なに、千二少年を留置場から出したのか。ほう、一体、誰が千二少年を出せと命令したのか」

「これは驚きました。課長が、今朝ほど、電話をこちらへおかけになって、放免しろとおしゃったので、それで、出したようなわけですが、もしや課長は、それがまちがいであると……」

「大まちがいだよ、君」

 と、大江山課長は掛長の肩に手をかけて、ゆすぶった。よほど、あわてたものらしい。

「おい君。わしは、そんな電話をかけたおぼえがないんだ。その話をくわしくしてくれたまえ」

「いや、それは驚きましたな」

 と、掛長は、あきれ顔でその先を語り出した。

 その話の要点は、つまり、今朝ほど、全く課長にちがいない声でもって、電話があったというのに過ぎなかった。その声も、言葉のしゃべり方も、全く課長にちがいないので、

「すぐ千二少年を放免しろ」というその命令にしたがったのだという。その話を聞いて、大江山課長の顔は、急に青くなった。



13 りっぱな自動車



 千二少年は、どうなったろうか。

 その朝、彼は、突然ゆるされて、留置場を出た。

「おい、千二君、もう二度と、こんなところへ来るのじゃないよ」

 と、佐々刑事が言った。

「ええ、もう二度と、来やしませんよ。だいいち、今度だって、僕は何にもしないのに、まちがって、こんなところに入れられたんですからね」

「まちがって入れられた、などと思っていちゃ、いけないよ。だって千二君、君のつれの丸木という男は、確かに人を殺して逃げたんだからね」

「でも、僕は、何にもしないのです」

「何にもしないかどうか、証拠がないから、はっきり身のあかしが立たないじゃないか。とにかく、課長からすぐ放免せよという電話でもなかった日には、まだまだ共犯のうたがいでもって、ここへ止めおかれるところだよ。くれぐれも、これからのことを注意したまえ」

「はい」

「あの丸木なんかと、一しょに、悪いことをやるんじゃないよ。それから一つ、君にたのんでおくが、もし君が、どこかで丸木を見かけたら、すぐこのわしのところへ、知らせてくれ。どこからでもいいから、電話をかけてくれればいいんだ。ほら、この名刺に電話番号が書いてある」

 千二は、佐々にいろいろと、たしなめられたり、たのまれたりして、警視庁を出ていったのである。

 そこは、桜田門のそばであった。千二はふたたび自由の天地に放たれたことを喜び、まるで小鳥のように、濠端をとびとびしながら、日比谷公園の方へ駈出していった。

 公園の垣根のところまで来ると、千二は、そこに一台のりっぱな自動車が、運転者もいないで放りっぱなしになっているのに気がついた。


 公園のそばに、放りっぱなしになっている無人自動車は何であったろうか。

 千二は、人一倍機械なんかが好きであったから、このりっぱな自動車を見ると、そのまま通りすぎることが出来なくなって、自動車の窓のところから、内部をのぞきこんだ。

 美しいスピード・メーターがついているし、ハンドルも、黒光りにぴかぴか光っていて、まだ倉庫から町へ走り出して間もない外国製の自動車であることが、千二にもよくわかった。

「ふうん、ずいぶん、りっぱな自動車もあればあるもんだなあ」

 彼は、ガラス戸におでこをこすりつけながら、思わずひとりごとを言った。

「ああ、ぼっちゃん。少々ごめんなさい」

 不意に、千二のうしろで声がした。

 千二は、きまりが悪くなった。振りかえって見ると、そこには、からだの大きな、そうしてきちんとした服と帽子に身なりをととのえた運転手が立っていて、扉についている取手とってを、がたんとまわすと、その扉をあけた。

 この運転手は、運転台へ乗りこむつもりであることが、よくわかった。

「ぼっちゃん、これに、乗せてあげようかね」

「えっ」

「乗りたければ、乗せてあげるよ」

 千二のうしろに立っていた運転手は思いがけないことを申し出た。

「だって、僕は……」

 千二は、乗りたいのは山々であった。しかし、せっかく警視庁から放免されたところである。へんなことをして、また間違いをしてはならないと、乗りたい心をおさえたのであった。

「いいから、お乗りなさい。さあ、早く、早く」

 千二は、運転手に腕をつかまれたまま、車内の人となった。

 はじめから、このりっぱな自動車に乗りたい心であったが、これでは、何だかこの運転手のため、無理やりに、運転台へ乗せられてしまったようなものである。

 千二は、何だかちょっと不安な気もちになった。そういえば千二の腕をつかんだ運転手の力は、あんまり力がはいり過ぎて、こっちの腕が折れそうであった。

「動くよ」

 運転手は、しわがれた声で言った。

 すると自動車は、たちまち勢いよく公園のそばを離れた。そうして日比谷公園の角を右へ折れると、芝の方へ向かってスピードをあげた。

「すごいスピードだなあ」

 千二は、感心して、運転台のガラスから、商店や街路樹や通行人がどんどん後へ飛んでいくのを、おもしろく見まもった。

 だが、しばらくいくと、変なことが起った。

 それは、白いオートバイが、後から追いかけて来たことである。そうして、千二の乗っている自動車の前を通り過ぎると、うううっと、すごい音のサイレンを鳴らした。オートバイの上には、風よけ眼鏡をつけた逞しい警官が乗っていたが、手をあげて、こっちの自動車に「とまれ!」の合図をした。

(ははあ、この運転手さんがスピードを出し過ぎたから、それで、おまわりさんに、ストップの号令をかけられたんだな。かわいそうに、この運転手さんは、おまわりさんに叱られた上、罰金をとられるだろう)

 と、千二は気の毒になって、運転手の方をふり返った。

 すると、運転手は車をとめるかと思いの外、車外の警官をじっとにらみつけると、かえってスピードをあげて、たちまちオートバイを追越した。

 千二は驚いた。

 白いオートバイの警官からストップを命令されたのにもかかわらず、自動車は彼を乗せたまま、ぐんぐんスピードをあげて逃出したからだ。

「ねえ、運転手さん。おまわりさんが、ストップしろと命令しましたよ。早くとめないと、大変ですよ」

「おだまり、千二!」

「えっ!」

 千二は、また驚いた。

 運転手から、彼の名を呼ばれて、二度びっくりであった。

「運転手さんは、どうして僕の名を知っているんですか」

 と千二は、となりに並んで腰をかけている運転手の顔を見た。

 運転手は、中腰になって、正面をにらんでいた。車は、町の信号も何もおかまいなく、怒れるけだもののように走っていく。

 その時千二は、運転手の横顔を見て、心臓がとまるほど驚いた。

「あっ、丸木さんだっ!」

 丸木だ! 怪人丸木だ! 運転台でハンドルを握っているのは、この前千二がひどい目にあわされた怪人丸木であったのだ。

「静かにしろ、お前が、そばからうるさいことを言うと、この自動車のハンドルが、うまくとれやしない。もし衝突でもしたら、大変じゃないか」

 丸木も、かなり、あわてていることが、彼の言葉によって、よくわかった。

「でも、丸木さん。おまわりさんにつかまると、大変なことになるから、早く自動車をおとめよ」

「いや、とめない。もしとめると、わしは、また人間を殺すだろう。なるべく、手荒いことはしたくないからなあ」

 そう言って丸木は、スピードをさらにあげて、芝公園の森の中に自動車を乗入れた。

 芝公園の森の中にとびこんだ自動車は、小石をとばし、木の枝をへし折って、森かげをかけぬける。

 公園の出口が見えた。

 非常召集の命令が出たとみえ、森の出口のところには、棒をもった警官隊がずらりと人垣をつくって通せん坊をしているのが見えた。

「あっ、あぶない!」

「なに、かまうものか。向こうの方で、この車に轢かれたがっているのだから」

 怪人丸木は怒ったような口調で、このような言葉を吐くと、あっという間に自動車を、その人垣の中におどりこませた。

「ああっ!」

 千二は、もう目をあけていられなくなった。彼は、両手で自分の目をふさいだ。

 自動車の前のところへ、何かぶつかったような音を聞いた。車体はぎしぎしとこわれそうな音を立てた。

 だが、千二が、ふたたび目をあけてみると、自動車は、相かわらず、すごいスピードで町を走っていた。

「どうしたの、丸木さん」

 と千二は、とてもしんぱいになって、丸木にたずねた。

「こら、だまっていろというのに。──もうすこしだ。下りるかも知れないから、もっとわしのそばへよって来い」

「えっ」

「はやく言いつけたとおりにしろ。さもなければ、お前の命がなくなっても、わしは知らないぞ」

「いやです。ま、待って下さい」

 自動車は、その時さびしい坂道をかけあがっていた。人通はない。

 その時、自動車は、くるっと左へまがって、きり立ったような坂をのぼり始めた。その時千二は、その坂道の行手に、「危険! とまれ! このうしろは崖だ!」と書いてある立札が、立っているのを見た!

 警報によりオートバイの警官はふえ、隊をなし、怪人丸木と千二少年ののった自動車を追いかけたが、やっと追いついてその自動車の姿を見ることが出来た時には、警官たちは心臓がぎゅっとちぢまるような恐しい光景にぶつかった。

「あっ、あぶない!」

 それは、例の「危険! この先に崖がある!」の立札が立っている坂道横町へ曲ったとたんのことであった。

 見よ、その時ちょうど丸木たちの乗っている自動車は、すでに、坂をのぼりきり、つきあたりのところに立っていた柵をがあんとはねとばし、車体は腹を見せ、砲弾のごとく空中に舞上っていた。

「あっ、崖から飛出した! もう、だめだ」

 警官隊は、オートバイをそこへころがすと、一せいに飛下り、息をとめて、大椿事だいちんじを見まもった。

 自動車は、そのまま右へ傾き始めたが、その時、意外なことが起った。

 それは、自動車の運転手席の左の扉がさっと開き、そこから怪人丸木の上半身が、ぬっと出て来たのだった。

「あっ、あいつ、やっぱり逃げおくれたんだな。かわいそうに、もう飛下りたって、どうもなりゃせん。どっちみち、死ぬばかりだ」

 丸木は、この時、なぜ自動車の扉をあけて上半身を乗出したのか。警官たちには、丸木が逃げおくれたものとしか思われなかった。

 空中をもがく自動車は、頭の方を下にすると、そのまま落ちていった。丸木は、まだ助るつもりか上半身を乗出して、死にものぐるいであたりを見まわしている。

「うっ、かわいそうに、見ちゃおられないなあ」

「とても、助る見込はない」

 警官たちも、ひどく同情した。

 崖から、まっさかさまに落ちていくその自動車には、千二少年も乗っているはずであった。丸木が死ぬのは、自らまねいた罰で、仕方がないとして、かわいそうなのは千二少年であった。

 警官たちは、崖のところにしがみついて、自動車がこれからどうなるかと、はらはらしながら見まもっている。

 この崖は、高さが七、八十メートルもあった。ちょうどま下は原っぱで、その向こうには、川が流れていた。川といっても、大きいどぶ川ぐらいのもので、川幅もせまく、深さもいくらでもなかった。丸木のしがみついている自動車は、どうやらこの川のうえに落ちそうに見えた。

 やがて、どうんと大きな音が聞えた。

 それは、丸木の自動車が、川のすぐそばの堤のうえに落ちて、ガソリンタンクがこわれると同時に火を発したためであった。川の中に落ちるかと思ったのに、それよりもずっと手前に落ちたのである。

「あっ、焼けるぞ、自動車が。おい皆、すぐ、あそこへいって、火を消すんだ」

 崖のところに腹ばって下を見ていた警官たちは、号令一下、すぐさま起上って、またオートバイにうち乗った。今度は下り坂で、車がすべろうとするのを、一生けんめいにブレーキをかけながら、隊伍堂々と下へ下りていった。

 あの恐しい墜落ぶり、そうしてあのはげしい火勢では、乗っていた者は、だれ一人として助るまいと思われた。

 自動車は、赤い焔と黒い煙とにつつまれて、はげしく燃えつづける。そのガソリンの煙が、大入道のようなかっこうで、だんだん背が高くのびていった。このさわぎに、駆けつけた近所の人たちも、その煙の行方をあおぎながら、

「ああ、あんなに高くなった。蟻田博士の天文台の屋根よりも、もっと高くなった」

 と言って指をさした。なるほど、その崖の上に、あの奇妙な形をした、蟻田博士の天文研究所のまるい屋根が霞んでいた。



14 おそろしい日



 窓の外に、そのような椿事ちんじがひきおこされているとはつゆ知らず、天文研究所では、蟻田博士と新田先生とが、しきりにむずかしい勉強をやっていた。

「おい、新田」

 と、博士が、めずらしくやさしい声で、新田先生を呼んだ。

「はい、ただ今」

 新田先生は、そう言って、自分の席を立上ると、博士の机の前へいった。

 博士の大きな机の上は、本とノートとで一ぱいだ。まるで、本の好きなどろぼうがはいって散らかしたように、机の上には、ページをひらいた本の上に、また他の本がひらいて置かれ、そのまた上に、ノートがひらいてあるという風で、ほんとうの机よりも十センチぐらいは高くなっている。だから博士は廻転椅子をぐるぐるまわして、だんだん椅子を高くして、坐っている。

 新田先生が、机の上をのぞこうとしたというので、博士は、またどなりちらした。困った博士である。

 新田先生は、二、三歩後へ下って、ていねいにおじぎをした。

「どうも、失礼いたしました」

「お前は、どうもけしからんぞ。わしのやっていることを盗もうとして、いつもどろぼう猫のように目を光らせておる」

「どうもすみません」

 新田先生は、博士が病気のため気が立っていると思うから、なるべくさからわないようにしている。

 それを見て、博士は、また少しきげんを直し、

「せっかく、わしがお前をえらくしてやろうと思っているのに、お前は……」と言いかけて、後は口をもごもごと動かし、「あのなあ、お前が知りたいと言っていた、地球とモロー彗星とが衝突する日のことじゃが……」

 新田先生は、思わず、全身に電気をかけられたように思った。蟻田博士が、どうやら、ついに地球とモロー彗星との衝突する日のことについて、話そうとしているらしい。

「はあ、はあ」

「なにが、はあはあじゃ。もう、教えてやろうかと思ったが、やっぱり教えないでおくか」

 博士は、どこまでも意地悪で、つむじまがりであった。こういう人につきそっている新田先生の気苦労と来たら、たいへんなものである。教え子の千二少年をたすけ、そうして博士だけが知っているところの、今地球に迫りつつある、恐しい運命について知るために、新田先生は辛抱して、この天文研究所におきふししているのだった。

「教わりたくないのか。だまっていては、わからんじゃないか。おい、新田」

「は、はい」

 返事をすれば怒るし、また、返事をしなくても怒る博士だった。

「どうか、教えていただきます」

「ふん、では、かんたんに、わしの研究の結果だけを話そう」

 博士は、白いあごひげをつまみながら、

「モロー彗星と地球とがぴたりと接触するのは、来年の四月四日十三時十三分十三秒のことである」

「えっ、来年の四月四日、十三時十三分十三秒?」

 四月なら、今からまだ約半年先のことである。明日や明後日あさってでなくてまあよかったと、新田先生は胸をなでおろした。

 十三時──というのは、一日を午前・午後で区別せず、一日は二十四時間として言いあらわしたもので、十三時は、ちょうど午後一時にあたる。つまり、来年の四月四日午後一時十三分十三秒のことである。

「どうじゃ。四、四、十三、十三、十三──と、数字が妙な工合につづいている。数字までが恐しい運命を警告しとる!」

 来年の四月四日十三時十三分十三秒に、地球は、モロー彗星にぶつかって、粉々になってしまう──と、蟻田博士の言葉である。

 これを博士の机の前で聞かされた新田先生は、わが耳をうたがった。

「博士、来年の四月四日に、地球とモロー彗星が衝突することに間違はありませんか」

「間違? このわしの言葉に、間違があるとでも言うのか。お前は、わしの言葉を信じないのか。わしの天文学に関する智力を知らないのか」

「知らないことはありませんが……」

「そんなら、それでいいではないか。わしを疑うような言葉をつかうでない。もし疑わしいと思うなら、何なりと尋ねて見ろ。たちどころに、その疑いをといてやる」

 蟻田博士の自信は、いわおのようにゆるがなかった。博士の自信に満ちた様子がうかがわれると、それだけに新田先生は悲しくなった。

「すると、四月四日の衝突ののち、我々地球の上に住んでいる人間は、一体どうなりますか」

「そんなことは、わしに聞くまでもない」

「すると──すると、やはり我々は一人残らず死ぬのですね。死滅ですね」

「そうだ、その通りだ」

 博士は、こともなげに、あっさりと返事をした。新田先生の胸は、しめつけられるように苦しかった。いよいよ来る四月四日かぎりで、地球とともに人類も滅びるのだ。こんなに永い間、いろいろと苦労をつづけて来た人類が、あっさりと滅び、その光輝ある歴史も何も、全く闇の中に葬られてしまうのである。そんな恐しいことがあっていいだろうか。いや、人類の好くと好かないとにかかわらず、現にモロー彗星は、刻々地球に追っているのだ。

「助かる方法はないでしょうか、博士」

 蟻田博士は、だまって、鉛筆で、白い紙のうえを叩いている。

「ねえ、博士。モロー彗星のため地球がぶち壊されても、何とかして、我々人類が助る方法はないものでしょうか」

「ないねえ。絶対に助る手はない」

 博士は、他人のことのように言う。博士はどうなるのか。博士だって、やはり人類である以上、一しょに死ぬのではないか。それとも、自分だけは助るつもりであろうか。

「先生は、生命をまっとうされますか」

「いや、むろんわしも死ぬさ」

 博士は、新田め、何をわかりきったことを聞くのだと、言いたげな顔であった。

 新田先生の最後の頼みの綱も、ついに切れた。先生は、千仭の断崖から、どんと下へ突落されたように思った。もう立っていることが出来ないほどだった。

(だが、──)

 と、新田先生は、その時口の中で言った。

(だが、万物ばんぶつ霊長れいちょうたる人間が、そうむざむざと死滅してなるものか!)

 人間というものは、どうにも、もういけないときまった時に、不思議にも、それをはねかえす力が出て来るものである。新田先生も、今それをさとった。

「もし、博士。私は死にません」

 新田先生は、きっぱりと言いきった。

「何じゃ。お前は死なぬというのか。ほほう、地球が粉々になっても、死なないというのか。お前は、変になったのではないか」

 蟻田博士から、あべこべに変になったのではないかと聞かれた。世の中のことは、ずいぶんおもしろい。

(変になった?)

 新田先生は、自分でも、変になったのではないかと思った。しかし先生は、どうしても死ぬつもりはなかったのである。死ぬ気もしなかったのである。

「うん、私はきっと、生きのびて見せる!」

 先生は、顔を赤くしてどなった。



15 大江山課長



 大江山捜査課長のにせ者が現れ、警視庁へ電話をかけ、千二少年をゆるして留置場から出すよう命令したと聞き、本物の課長は、驚きのあまり、顔色を失ったことは前にのべた。

「どうも、そうだろう。おれは、あの電話のことを後で聞いて知ったんだが、あれは警視庁の黒星だ」

 と、佐々刑事はのこのこ前に出て来た。課長はよほど驚いたものと見え、無言で、机の上に頬杖ほおづえをついて考えこんでいる。

 課長からの電話だと思って、千二少年を出してやった掛りの責任者は、すっかりおそれ入ってしまって、これまた石像のように固くなって、突立っているばかり。

「だが、あの少年は、なかなかはしっこい子供だったから、うまく家へ逃げかえったんじゃないかしら。どうです、千葉へ電話をかけてみては」

 と、佐々刑事ひとりが、元気よくいろいろとしゃべる。

 課長は、相変らず、頬杖をついたまま、動こうともしない。

「どうです、課長。千葉へ電話をかけては……」

 佐々は、課長を元気づけたいと思っているようで、机の前から半身を乗出して、課長の顔をのぞきこんだ。

 大江山課長は、はっきりしない顔つきのままで、唇だけを動かした。

「それは、だめだ」

「課長、なぜだめです。この名案が……」

「名案?」課長は、じろりと上目で佐々の顔を見て、

「そんな名案があるものか。佐々さっさ、お前は、まだライスカレーの食い方が足りないらしいぞ」

「ははあ、ライスカレーですか。はははは」

 と、佐々は、とってつけたように笑い出した。佐々お得意のライスカレーのことを、課長が言ったので笑い出したわけであるが、佐々としては、ここで大いに笑って、課長を元気づけたい一心だった。

 だが、課長は、佐々の笑いにつられて、笑い出しはしなかった。

「そうじゃないか。なぜと言えば、もし千二が朝のうちにこの留置場から出ていったものとすれば、お昼すぎには千葉の家へかえりついているはずだ。そうだろう」

「まあ、そうですね」

「かえりつけば、千葉警察の者が、こっちへすぐ報告して来るはずだ。なぜと言えば、千二の家は、ちゃんと警官が張番をしているんだからな」

「なるほど」

「ところが、今はもう夜じゃないか。しかるに、千葉からは、何の報告も来ていない。すると、千二は、まだ自宅へかえりついていないことが、よくわかるじゃないか」

「な、なるほど」

 佐々は、なるほどの連発だ。

「そこだ、私のたいへん心配しているところは」

 と、課長は、語気を強めて言って、

「だからこれは、ひょっとすると、千二が途中で例の怪人丸木にさらわれてしまったのではあるまいか。そういう疑いが起るではないか」

 課長だけあって、考えがかなり深かった。ほんとうに課長の言うことは、あたっていたのである。怪人丸木は、たしかに千二を途中でさらっていった。日比谷公園のそばに、自動車をとめておいて、千二をうまく運転台におしこんで、逃げていったのだった。

 そこで、課長は、はじめて頬杖をやめて体を立てなおすと、一同の顔を見まわし、

「どうだ管下において、少年がかどわかされていくのを見た者はないか」

「さあ、そういう報告はどうも……」

「それとも、なにか少年に関係した事件はなかったろうか」

「そうですねえ──」

 さすがに、大江山課長は、目のつけどころがちがう。千二少年が、何者かにさらわれたと知ると、すぐさま、捜査の糸口をつまみ出した。

「さあ、今日管下に起った事件の中で、少年に関係があった事件と言いますと、皆で三件あります」

 と、佐々刑事が、主任の机の上から帳面を持って来た。

 一同は、その帳面の方へ、頭をよせる。

「まず第一は、午前八時、名前のわからない十二、三歳の少年が、電車にはねとばされそうになった小学校一年生の女生徒を、踏切で助けようとして自分がはねとばされ、重傷を負いました。これは小田急沿線登戸附近の出来事です」

「それはちがうね」

 と、大江山課長は一言で、首を横に振った。

「は、ちがいますか」

「時間が午前八時では、千二少年は、まだ外に出ていないではないか」

 正にその通りである。

 その時刻なら千二少年は、まだ警視庁の留置場にいた。

「なるほど。これは私としたことが、ぼんやりしていました」

 と、佐々は頭をかきながら、また帳面をめくった。

「はい、ありました。これは午後一時です。十四歳になる竜田たつた良一と名乗る少年が、リヤカーに乗ったまま、昭和通で自動車に衝突、直ちに病院にはいりましたが、この原因は、信号を無視したためです。直ちに、主人に知らせたので、主人は、店員と共に駈けつけ、目下、看病中──というのがあります」

「それもいけないね」

「はあ、名前がちがっていますが、もう一度しらべ直してみませんと……」

「主人や店員が来て、落ちついて看病しているのなら、ほんとうの店員竜田良一で、千二少年が偽名しているわけではない」

「なるほど。これもだめですなあ。では、こういうのがあります。あ、これだ」

 と、佐々刑事が、大きな声を出した。

「うむ、早く読め!」

 大江山課長は、思わず体を前に乗出した。

「午後九時四十分のことです。千葉県から出て来た十三歳になる少年が、大川端から投身自殺とうしんじさつ──はて、おかしいぞ。大川端から、投身自殺をはかった年若い婦人があるのを、交番へ知らせるとともに、自分も飛込み、巡査と協力して助けた。いや、これは少年のお手柄だ。千葉県から、杉の苗木を積んで、東京へ売りに来たその帰り道での出来事だった」

「なるほど、それから……」

「それから──人命救助の表彰の候補者として、この少年宮本一太郎を──あっ、やっぱりいけません」

「何だ。早く名前を読めばいいのに」

 これもだめであった。

 その日、少年に関係のある事件三つが、いずれも千二少年には関係のないことがわかって、大江山課長は、がっかりしてしまった。

 佐々刑事は、きまり悪そうな顔をして、同僚のうしろへ、こそこそと姿を消しながら、

「ちぇっ、きょうは、あたまが悪いや。しようがない、すこし遅いが、これからライスカレーを作り直すことにするか」

 佐々刑事は、ライスカレーをうんと食べて、頭をよくしようと考えた。

 その時交通がかりの主任が、課長の前へ進み出た。さっきから何が気になるのか、もじもじしている主任であった。

「ええ、課長。これは、あまりたいしたものではありませんが、御参考までにお耳に入れておきます。申し上げない方がいいのですが、後で万一関係があったということになりますと、申訳がありませんので……」

 と、いやに気の弱い言いかたをして、大江山課長の顔をじっと見た。

「なに、参考になることなら、どんどん報告したまえ。引込んでいることは、ないじゃないか」

 課長は、少しいらいらした気持で、この遠慮ぶかい主任をうながした。

「は、それではお話いたしますが、実は、お昼ごろのことでしたが、スピード違反の自動車がありましたので、これを白バイで追跡いたしました。すると、運転台に、妙な顔をした運転手と、そのそばに一人の少年が坐っているのを見ました」

「なあんだ。少年の助手は、このごろ、いくらでもいるよ」

「ところが、少し変なことになったのです」

「あまり、もったいぶらないで、どんどん先を話したらいいだろう」

「は、つまり、自動車は、脱兎の如く逃走いたしました」

「逃げたとは、変だな。白バイは、何をしていたのか」

「いえ、自動車が、猛烈なスピードをあげて逃げてしまったのです」

「逃しては、話にならないね」

「ところが、追いついたのであります」

「どうも君は、話し方を知らないね」

「いえ、課長さんが、もう少し黙っていて下さると、話しよいのですが、むやみに、おいそがせになるもんですから困ります」

「何だ。手のかかることだね。よろしい、では、君が喋り終えるまで、こっちは、一言も喋らない。だが、もっと要領よく、そうしてもっと早く喋ってくれ。きょうは、いつになく気が短いのでね」

「は、それでは……」

 と、主任は、例の追跡談をくわしく語り出したのであった。ついにその自動車は、麻布の崖の上から下に落ちてしまったことや、運転手が、まっ逆さまに落ちる自動車の中から、半身を出して、こっちをにらんだことなどを……。

 交通主任の口は、なかなか重くて、話は一向スピードを上げなかった。しかもその話はたいへん詳しいので、話はなかなかおしまいにならないのであった。

 だが、さっきまで、自分でいらいらしているんだと叫んでいた大江山課長は、どうしたわけか、別人のように、たいへん熱心に、この話に耳をかたむけているのだった。もっと早く喋れとも、もっと要領よく喋れとも、どっちとも言わなかった。

「……とにかく、不思議なことです。崖下へいって、焼けおちた自動車の車体をひっくりかえして見ましたが、運転手の死体はおろか、骨一本も、そこには見当らなかったのですからね」

 と、交通主任は、その時のことを思い出したらしく、ここでもう一度不思議そうな思い入れをして、首をかしげた。

「で、少年の死体は?」

 課長は、やっと一言、口を出した。

「実に、不思議という外ありません。運転台に一しょに乗っていたはずのその少年の死体も、やはり見当らないのです。全く、こんな不思議なことは、生まれてはじめてです」

 交通主任は、「不思議」を盛にくりかえすのだった。

「まさか、君たちが見あやまったのではないだろうね」

「見あやまり? そ、そんなことは、けっしてありません」

 交通主任は、これを報告して来た白バイの巡査をたいへん信用していたので、課長から、見あやまりではないかと言われると、一生けんめいにべんかいした。また、墜落現場へは、自分もいってみて、共に二人の死骸をさがしまわったのだった。

「不思議だ。どんなに考えても、ありそうな話だとは思われない」

 課長は、腹立たしいような顔をして、握り合わせた両手で、とんとんと机の上を叩いた。

「課長、この話ばかりは、まじめに聞いていられませんよ。まるで西洋の大魔術みたいなものですからねえ」

 いつの間にか、佐々刑事が、前へ出て来て、あたりはばからぬ大きな声をたてた。

「不思議だ」

 課長は、一言、また不思議だと言った。そうして、とんとんと、机の上をたたきつづける。

「この大魔術に、なんという名前を、つけますかねえ。ええと、秘法公開、空中消身大魔術! どうです。なかなかいい名前だ」

 佐々刑事は、ひとり喜んでいる。

「不思議だ!」

 と、課長は、また言って、あごの先をつまんだ。

「だが、この世の中に、種のない大魔術は、あるはずがない。そうだ、この事件なんか、とても怪人丸木くさいところがあるぞ」

 課長は、すっくと、立ちあがった。

「怪人丸木ですって?」

 一同は、言合わせたように、声をそろえて、丸木の名を言った。

「そうだ。運転をしていたのが、怪人丸木で、運転台に乗せられていた少年が、千二であった──と、こう考えてみるのも、魔術であろうか」

「えっ、千二少年に怪人丸木!」

 と、一同のおどろきは、再び爆発した。事件が、また再び、千二少年の行方のところへ戻って来たのであった。

「そうだ。あいつなら、魔術ぐらいは、使うであろう。だが、使わば使え。魔術の種を、こっちでもって、あばいてやる。きっと、その魔術の種をつきとめるぞ」

 課長は、例の自動車の墜落事件を、丸木のやった魔術だと、きめてかかった。たしかにそれは誤りではなかった。怪人丸木のやった仕事にちがいなかったのだから。課長はいかにして、その魔術をとくであろうか。

 課長は、車を命じた。

 恐しい自動車惨事のあった崖下は、警官によって守られていた。

 まっくらな夜を、火がもえていた。

 まだ、惨事の自動車がもえつづけているのかと思われたが、そうではなくて、焚火であった。あたりを警戒するためと、そうして惨事の現場を照らすためだった。

 焚火は、すぐそばを流れている小川にうつって、火が二段に見えた。

 大江山課長は、部下をしたがえて、焚火の方へ近づいた。

 そこを守っていた警官が、やっと気がついて、課長の方へ、さっと手をあげて敬礼をした。

「やあ、ごくろう。崖の上からおっこちた自動車というのは、これかね」

「はい、この縄ばりをしてあるのが、それであります」

「ふん、ずいぶん、ひどくなったものだね。もとの形が、さっぱりわからないくらいだ」

「そうであります。なにしろ、崖の高さは七、八十メートルもありますので、あれからおっこちたのでは、とてもたまりません。その上、車体はごろごろ転がりながら、すぐ発火いたしました」

「転がるところを見ていたのかね」

「はい、私は、崖の上から、それを見ていたのであります」

「そうか。乗っていた者の死骸が、見当らないという話だね」

「はい。死骸はおろか、骨一本見当らないのです。よく焼けてしまったものですなあ」

「……」

 課長は、それに答えないで、懐中電灯をつけて、あたりを照らした。焼けくずれた自動車のエンジンが、地面をはっているような形をしている。そこから二、三メートル先は、小川であった。

「ふうん、これは、どうも腑に落ちないことだらけだ」

「どこが、腑におちないというのですか」

 闇の中から、ぬっと顔を出したのは、佐々刑事であった。彼は、大江山課長が、何か言出すのを待っていたようであった。

「おお、佐々か」

 と、課長は、後を振返り、

「どうも腑におちないことがあるんだ。ガソリンに火がついて、崖の上からおちた自動車を焼いたことは、よくわかるが、乗っていた人間の体はもちろん、骨一本さえ見当らないのだ。へんではないか」

「だって、課長さん。ガソリンに火がついて、たいへんはげしく燃えたため、骨もなんにも、すっかり跡形なく焼けてしまったんではないのですか」

「ガソリンが燃えたくらいで、骨が跡形なくなってしまうだろうか。そんなことはない。骨はもちろん残るはずだ。まあ、黒焦死体がころがっているというのが、あたりまえだ」

「じゃあ、ガソリンではなく、もっと強く燃えるものがあって、それが、骨まで焼いてしまったのじゃありませんかね。たとえば、焼夷弾しょういだんみたいなものが、自動車に積んであったと考えてはどうです」

「それもおもしろい考え方だ。しかし、たとえ焼夷弾が燃出したとしても、そこから少し離れた所にあるものは、焼け残るはずだし、ことに、骨が一本残らず燃えてしまって、灰も残っていないというのは、ちと変だね」

 課長は、小首をかしげた。

 佐々刑事は、いらいらして来た。

「課長。どうも変だというだけじゃ、困りますねえ。で、その事について何かいい答えをもっているのですか」

「うん。だから私は、こう考えてみた。とにかく、この自動車に乗っていた人間は、生きていると思う」

「えっ、生きている。まさか──」

 佐々刑事は、あまりのことに、あいた口がふさがらないといった形だった。

「課長、あなたのおっしゃることの方が、変ですねえ。あのとおり、高い崖の上から自動車が、ここへおちたのですよ。たとえ、ガソリンに火がつかなくとも、人間は脳震盪のうしんとうかなんかを起して、死んでしまうはずです。生ているなんてことは、考えられませんなあ」

 そう言って、佐々刑事は、課長の顔を、じっとのぞきこんだ。課長は、どうかしているのではないかと思ったのである。

「だが、佐々。骨が一本も見あたらないのだから、私は、乗っていた人間が、ここで焼け死んだとは思われない」

「だって、課長、──」

「もちろん、私にも、あの高い崖の上から人間が落ちて、それで、命が助るものとは考えない。しかし、骨が一本も見当らないのだから、崖からおちた人間は、命が助って、どこかへいってしまったとしか考えられないのだよ。不思議というほかない」

「そんな無茶な考えはないですよ、課長。崖の上からおちた人間が、命を全うしたばかりか、そのままどこかへ行ってしまったというのは」

「やむを得ない。理窟では、そうなるのだよ」

「それにしても、変ですよ。それゃ、人間の体が、鋼鉄造りであれば、助るかもしれません。骨といってもたいして固くないし、柔かい肉や皮で出来ている人間が、あの高い崖の上からおちて、死なないで、すぐさまどこかへ行ってしまったなどと……。あっはっはっ。これはどうもおかしい。あっはっはっ」

 佐々は、大きなこえで笑い出した。



16 大発見



 同じ夜のことであった。

 崖の上に並んでいる蟻田博士の天文台では、新田先生が、昼間からぶっ通しで、望遠鏡をのぞいていた。

「おい、新田。お前は、なかなかがんばり屋だのう。たのもしい奴じゃ」

 と、蟻田博士が、いつになく新田先生をほめて、椅子から立って来た。博士もなかなかがんばり屋で、この天文台へかえって来てからは、ぶっ通しで、本を読んだり、しきりに鉛筆をはしらせて、むずかしい計算をするなど、勉強をつづけていたのであるが、その博士が、今になって、やっと新田先生の熱心さに気がついたのであった。

「おほめにあずかって、恐れ入ります。しかし私は、モロー彗星の衝突が起っても、何とかして地球の人類を助けたいのです。それを考えると、じっとしていられないのです」

 新田先生は、その問題のため、全く熱中していたのである。千二少年が無実の罪におちているのを早く助け出したいと思っていた先生であるが、博士からモロー彗星のことを聞くと、更にこの方の事件がたいへん急に迫った問題だと考えたので、何とかして、人類を惨禍から救う道がないかと、その糸口をみつけることに熱中していたわけであった。

 何しろ、天文のことについては、蟻田博士が、世界中で一番よく知っている。博士のそばにいる間に、せめて問題解決の糸口でも見つけておかないと、後がたいへんである。気まぐれな蟻田博士は、いつまた気がかわって、どこかへ姿をかくしてしまうかもしれないのだ。今のうちだと思って、新田先生は、しきりに勉強をしているわけだった。

 実は、こうして、望遠鏡ばかりのぞいていることについては、先生に一つの考えが、あってのことだった。

 新田先生の考えというのは、外でもない。それは、天空に飛去ったはずの火星のボートの姿を、この望遠鏡の中にとらえることなのである。

 火星のボートの話は、うそではないと先生は信じていた。あの千二少年が、うそをつくような少年ではないし、また千二少年が、枯尾花を幽霊と見ちがえるような、そんな臆病者でもないと信じていたのである。

 火星のボートは、一たん天狗岩の上に下りたが、それから間もなく姿を消してしまった。一体どうしたのであろうか。その火星のボートは?

 新田先生の思うには、火星のボートは、千二の父親の見ている目の前で、天狗岩から天空はるかに飛去ったのにちがいない。火柱が見えたというのは、火星のボートというのは、じつはロケットであって、ロケットのお尻から強くふきだすガスが、火柱に見えたのであろうと考えていた。

 しかしこの方は、なにぶんにもおかしくなった千蔵の言うことだから、あてにはならない。

 それで、とにかく例の天狗岩に姿をあらわし、そうしてまた天狗岩から飛去ったものが火星のボートであるとしたら、それは地球をあとに、火星へどんどん帰っていったにちがいない。

 ところで、火星と地球とのへだたりは、たいへん遠い。火星のボートが、火星へかえりつくのには、どんなに早く天空を飛んでいったにしろ、一週間や二週間はかかるであろう。そういうわけなら蟻田博士の自慢の大望遠鏡で宇宙をさがしていると、きっとその火星のボートといわれるものが、見つかるにちがいない。見つかれば、そこではじめて、火星のボートであったことが、ほんとうだとわかるし、さらにすすんで、火星のボートの秘密もいろいろとわかるにちがいない。

「何を観測しているのかね」

 と、蟻田博士は、望遠鏡のそばへ寄って来た。

「ああ、博士。ちょっと待って下さい」

 新田先生は、そう言って、博士をとどめた。ちょうどその時、新田先生は、望遠鏡の中に、赤い点のようなものが、ぶるぶるふるえながら、動いていくのを見つけていたのであった。

(これが、例の火星のボートではないかしらん)

 新田先生は、胸をわくわくおどらせながら、しきりに接眼レンズを前後に動かした。

 すると、例の赤い点のようなものが、だんだんはっきりして来て、やがて砲弾をうしろから見るような形をしていることや、その尾部からガスらしいものを、しゅうしゅうとふき出していることまでが、はっきり見えて来たのであった。

「あっ、見つけた」

 新田先生は、思わず声をあげた。たしかに火星のボートといわれる一種のロケットであった。しきりに上下左右にゆれてはいるが、火星のボートは、いつも同じ尾部を見せていた。スピードをあげ、どんどん前進していくところらしい。その行手は、やはり火星なのであろうか。

「何を見つけたのかね。ちょいと、望遠鏡をわしに貸しなさい」

 蟻田博士は、新田先生の体をおしのけるようにして、望遠鏡に目をあてた。そうして、しばらくピントを直していたが、そのうちに、大きな声をあげた。

「おや、これはめずらしいものにお目にかかるぞ」

 新田先生は、博士のうしろから、

「博士、そこに見えている、動く物体は、一体何でしょうか」

 と、せきこんで質問の矢を放った。

「これかい。これは宇宙艦さ」

 博士は、それを宇宙艦と呼んだ。

 怪人丸木は、それを火星のボートと言ったのである。

 新田先生は、口の中で、

(なに、宇宙艦! 宇宙艦とは?)

 と、くりかえした。宇宙を走るから、宇宙艦というのであろうか。

 博士は、望遠鏡に食いついたようになって、しきりにその宇宙艦のあとを目でおいかけている。

「おお、まちがいなく宇宙艦だ」

「博士、宇宙艦というのは何ですか」

「宇宙艦は何だと聞くのかね。宇宙艦は、わしの友人が、一度報告書に書いたことがあった。しかし、誰もその友人の報告書を信用しなかったし、その友人はまもなく急死してしまったのだよ。結局、その友人は、脳に異状があったため、ありもしないそんな変なものを見たように、報告したのであろうということだった。わしも、正直に言えば、その友人が、変になっていたのだと思っていた。が、これはどうだ。その友人の報告書に書いてあったとおりの形をした宇宙艦が、今レンズの向こうに見えているではないか。しかも、さかんにうごいている!」

 博士は、すっかりその宇宙艦に、気をうばわれている様子であった。

「博士、その宇宙艦というのは、どこの国で作ったものですか」

「作った国は、どこだというのかね。さあ、わしはまだよく研究していないが、さっき話したわしの友人は、ドイツの空軍研究所が、試験的に作ったものであろうと書いてあった。もっとも、ドイツの当局では、そんなばかな話はないと、さかんにうち消していたがね」

「博士は、あの宇宙艦が、ドイツで出来ると思っておられますか」

「いや、そうは思わない」

 蟻田博士は、望遠鏡の中にうごめく宇宙艦を、しきりに観察しながら、新田先生と話を続けている。

 博士は、その宇宙艦が、いつだか博士の友人のドイツ人が報告書にのせ、人々の注意をうながした宇宙艦だと言った。新田先生は、その宇宙艦は、ドイツ人に作れるかと、重ねて尋ねたが、博士は、いや、ドイツ人には作れないであろうと答えたのだった。

 そこで、新田先生は、急に頭の血管が、ちぢまったように感じた。先生はせきこんで博士に尋ねた。

「じゃあ博士、あの宇宙艦は、どこの国で作ったものだとお考えになるんですか」

「うむ。さあ、そのことだが……」

 博士は、すぐには、返事をしなかった。そうして、なおもしきりに、望遠鏡のレンズを動かしつづけた。

「博士、それは一体、どうなんでしょうか」

「うむ、待ってくれ」

 と、博士は、苦しそうにうめいた。

 新田先生はいらだって、もうだまっていられない様子だった。彼は、博士の洋服をつかむと、

「博士、私は、あの宇宙艦が、どこで作られたか、知っているのです」

「なんじゃ、お前が知っているって。ほほう、そんなはずはない。なにをお前は、ばかばかしいことを言出すのじゃ。あははは」

「いや、博士、私は申します。あれは、火星国でつくられた宇宙艦なのです。そうして、あの宇宙艦は、これまでにたびたび、この地球にやって来たことがあるのです。いかがですか、博士」

「ややっ、どうしてお前は、そんなことを知っているのか」

 博士は始めて望遠鏡から目を離すと、新田先生の顔を、穴のあくほど、じっと見すえたのであった。

 博士の目は、ゴムまりのように大きく開いて、新田先生を見すえた。

「おい新田、お前はどこでそんなことを聞きこんだのか。それともお前は、おかしくなったのではないか」

 博士は、新田先生をつまらん弟子だと思い、いい加減にあしらって来たのであるが、とつぜん博士の心にちくりと痛い質問を投げかけたばかりか、その果に、宇宙艦が火星国でつくられたことを、新田先生に言いあてられて、びっくりした。

 それもそのはずであった。宇宙の秘密、殊に火星の事情などは、蟻田博士以外に誰も知る者がないと思っていたのに、とつぜん新田先生にあばかれてしまって、博士のおどろきは、一方ひとかたでなかった。

 博士は、元来世間の事情にうとい人であったから、天狗岩事件が新聞に出たことなどには、気がついていないらしかった。

 新田先生は、そこで改めて、千二少年の話、火星のボートが天狗岩へ来たこと、それから怪人丸木が殺人事件を起してまで、ボロンの壜をうばって逃げたことなどを、すっかり博士に話をしたのであった。

 博士は、たいへん真剣な顔になって、一々、ふむふむとうなずきながら、新田先生の話に耳をかたむけた。

 話しおわって、新田先生は、ここぞと思って博士に重大な質問を放った。

「博士は、丸木という怪人物について、なにか、お心あたりはありませんか」

「ああ、丸木──とかいったね、その怪人物は。さあ、わしは、なんにも知らないよ」

 博士はそっけなく答えたが、新田先生のにらんだところでは、博士は、その怪人物丸木のことについて、たいへん心をひかれている様子であった。

「丸木、丸木か? おい、新田。その丸木なる者は、どのくらいの大きさだったかね」

「大きさ? ああ、背丈のことですか」

「そうだ、丸木の背丈のことだ」

 と博士は、新田先生に言われて、質問を言直した。

「丸木の背丈──と言って、別に変ったことはないようです。中背というところじゃ、ありませんかね」

「ありませんかねとは、はっきりしない言葉だね」

「だって博士、私は、丸木を見たことがないのです。千二少年から聞いた話なんですからね」

「おお、そうか。なるほど、なるほど。そうして、その千二という少年は、今どこにいるのか。すぐ、ここへ呼んでもらえまいか」

 博士は、丸木の話を聞くと、急に熱心になった。

「千二少年は、いま警視庁に留置されているのです。博士から、大江山捜査課長に、お話しになれば、会えないことはありますまい」

「そうか。では、わしは、これから大江山に会って来よう」

「たいへんお急ぎですね」

「うむ。いや、なに、ちょうど読書にあきたところだからのう」

 博士は、なぜか、ぽっと顔をあからめて、そう言うと、帽子もかぶらず、そのまま玄関から出て行った。

 新田先生は、博士について行って、また千二少年に会ってみたい気がしたが、しかし少し別に考えることがあったので、

「じゃあ、行ってらっしゃいまし」

 と、玄関で博士を送り出したまま、自分は急いで研究室の方へ引返した。

 新田先生は、室内にはいると、すぐさま、博士がさっきまで書見をしていた大きな机へ突進した。そうしてその大引出を、開いてみたのであった。

「確かに、博士は、あれを置いて行ったと思うのだが……」

 と、新田先生は、しきりに、何かを探し始めた。



17 意外な室内



 蟻田博士邸にはいりこんだ新田先生が、博士のすることについて、いろいろと気をつけていると、わりあい明けっぱなしの博士が、ただ一つたいへん用心をしていることがあった。それは、この天文台と棟つづきの奥まった一つの部屋に出入するのに、かならず鍵を用いていたことである。

 しかも博士は、その部屋へいく時は、きっと、横目でじろりと新田先生の様子をうかがい、それから先生に気づかれないように、そっと大引出をあけ、中から鍵を取出し、てのひらに握ってから、席をはなれるのであった。

 だが、鍵は時々がちゃりと音をたてることがあった。そういう時博士は、はっと息をとめ、ゆだんなく新田先生の顔を、しばらくじっと見つめていた。新田先生がそれに気がついた時は、博士は席を立つのをあきらめる。もし新田先生が気がつかないでいると見ると、はじめて席をはなれるのであった。そうして奥まった部屋へ出かけていくのであった。そういう時、研究室の廊下へ通じる扉には、かならず外からかけがねがかけられていて、先生がハンドルをまわしても、向こうへは、あかなかった。

 でも、新田先生は、博士が、その大切な鍵をつかって奥の部屋をあけているのを、ちゃんと見て知っていた。それは、扉の下の方に、一つの節穴があって、そこからのぞくと、廊下の奥で、博士がやっていることが、手にとるように、わかってしまうのだった。

 その部屋の中には何があるのかは、まだわからないが、これほど大切な鍵ならば、それをいつもポケットに入れておけばいいと思うのに、博士は用のない時は、鍵を持っているのがきらいらしく、いつも大引出の中へしまうことにしていた。

「ああ、あった。これだ、鍵は!」

 新田先生は、大引出の中の書類の下にかくしてある鍵を、ついに見つけ出したのであった。

「さあ、今のうちだ」

 新田先生は、蟻田博士の机から、鍵を取出すと、いそいで廊下へ飛出した。その奥には、博士が秘密にしている部屋がある。

 恩師の秘密にしている部屋を、そのゆるしもなくて、ぬすんだ鍵であけてはいるなんて、けっしていいことではなかった。しかし、ぜひともそれをしなければ、気のすまない新田先生であった。

 先生には、一つの信念があったのである。それは、秘密室へしのびこむのは、悪いことではないと信じていたのだ。なぜならば自分だけがとくをするために、むやみに他人の秘密室にはいるのは、どろぼうみたいなものである。しかし新田先生は、自分だけのとくを考えているのではない。そうすることによって、地球の全人類を、だんだん迫って来た大危難から救う道を発見したいのであった。どろぼうみたいなまねをするにはちがいないが、その気持は実に正しく、そうして尊いものであった。

「さあ、この鍵で、この部屋があくはずだ。どうかあいてくれますように」

 先生は、心の中で祈りながら、秘密室の鍵穴に鍵を入れてまわした。

 すると、がちゃりと錠のはずれる音がした。

「しめた!」

 先生は、喜びの声もろとも扉をおして、中へ飛込んだ。さて、どんなにおどろくべきものが、室内に積みかさねられてあるのであろうか。新田先生の胸は、どきどきと大きく動悸を打った。

 さて、先生の目には、どんなものがうつったか。

「あれっ」

 先生は、そこに棒立ちになったまま、目玉をぐるぐるっとまわした。思いもかけないこの部屋の有様であった。

 新田先生は、博士の秘密室の中で、一体何を見たのであろうか。

 意外にも意外! その部屋は、空っぽも同様であった。

 そのだだっぴろい部屋には、湿気のために、妙な斑点のついた床があるばかりで、その床の上には、何もないのであった。まるで、雨天体操場みたいなものであった。

「なんだ、何もないではないか」

 新田先生は、目をぱちくりした。

 全く何もないのであった。

「不思議だ、不思議だ。これは不思議だ」

 先生は、あまりの意外さに、つづけて同じ言葉をはいた。

 どう考えても変である。博士があれほど注意を払って、大切にしている部屋であるにもかかわらず、床ばかりで、何物もおいてないというのは、腑に落ちかねる。

 もっとも、鼠色によごれた壁には、背の高い柱時計がかけてあった。しかもその柱時計は、なぜかわからないが、並べて二つかけてあった。

 どっちも、たいへん古めかしい飾りがついている、振子形の旧式時計であった。

 振子は、どっちの時計の振子も、とまっていた。つまりうごかない二つの柱時計が、このがらんとした秘密室の留守番であったのである。

「まてよ、この二つの柱時計が、値打のある宝物なんかではなかろうか」

 新田先生は、柱時計がかかっているその下まで出かけていって、それをていねいに何度もよく見たのであった。

 たしかに古くて、時代がかったものであったが、作りもそうりっぱなものではない。むしろ安時計と見てもいいものだ。

「変だなあ。なんとなくわけがありそうな時計だけれど、どうもわけがわからない」

 そう言って、先生はなおも柱時計の文字盤を、じっと見すえたのであった。

 まるで、二つの柱時計が、留守番をしているような、がらんとした空部屋だ。これが、蟻田博士が、厳重に鍵をかけておく、秘密の部屋なのだ。

 しかし、こんながらんとした空部屋の、どこが秘密にしておく必要があるのであろう。空部屋ならば、扉に鍵をかけておいても、或はまた、鍵をかけないで、あけ放しにしておいても、同じことではないか。

 新田先生は、部屋のまん中に立って、あきれ顔で、部屋中をいくども見まわしたのであった。

「どうも、おかしい。しかし、博士が鍵をかけておく以上、この部屋には、何か重大な秘密のものがあるにちがいない」

 新田先生は、そのように判断した。

「でも、見たところ、あやしいのはこの二つの柱時計だけだが、一体こんな柱時計が、何の役をしているのであろうか」

 先生は、また柱時計のそばへいって、つくづくと見なおしたのであった。

 その柱時計の針は、どっちもとまっていた。また、時計の上には、ほこりがたまっていた。

「ふうむ、この時計は、近頃、ずっととまっていたんだな」

 新田先生は、柱時計の振子に、くものすがかかっているのを見て、そう言った。

 するといよいよわからない。博士は、たびたびこの部屋に出入しているのだ。きょうもたしか、この部屋にはいったことがあった。

 博士は、この時計が示している時刻を見るために、この部屋へ出入するのではあるまいかと思ったが、時計は振子がずっととまっているのであるから、見ても何にもならないはずであった。すると、ますますわからなくなる。この部屋の秘密は、一体どこにあるのであろうか。新田先生は、途方にくれてしまった。

「どうも、わからない!」

 新田先生は、蟻田博士の秘密にしている空室のまんなかにしゃがんだまま、とけないこの部屋の謎を、じっと考えこんだ。

 だが、先生は気が気ではない。警視庁へ出かけた博士が、いつ、ここへかえって来るか、知れないのだ。

 見つかれば、たいへんなことになる。博士にことわりなしに鍵を持出し、この秘密室にはいっているのだから、見つかれば、博士はどんなに怒り出すか知れない。その結果、せっかく新田先生が、博士の力を利用して、モロー彗星衝突によるわが地球人類の全滅を、何とかして食いとめたいと努力をしていることが、一切だめになる。

 先生は、腕ぐみをしてしゃがんだまま、しきりに頭をふったが、この部屋の謎は、一向にとけなかった。

 先生が、考えこんでから五、六分のちのことであったが、ふと先生は、あやしい物音を耳にした。

「おや、何の音だろうか、あれは……」

 先生は、けげんな顔で、聞耳をたてた。

 ごとん。──しばらくして、また、ごとん。

「ああ聞えた。あれは一体何の音だろうか。うむ、床下から聞えて来るようだ」

 先生は、足音をしのばせて、立ちあがった。どこかに、床下へはいる場所がありはしないかと、部屋の中を見まわしたが、何しろ、とっさのことでもあり、そんなものは見あたらなかった。

(どうしたら、床下が見えるだろうか?)

 先生は、考えた。

 ごとん。ごとん。

 又しても、怪音は床下から聞えて来る。

(そうだ。庭へ出て、外から床下をのぞいてみよう)

 先生は、そう決心すると、さらに足音をしのばせて、そっと部屋をたち出でた。



18 命びろい



 床下の怪音!

 新田先生は、その怪しい音こそ、蟻田博士の秘密室の謎をとくものであろうと思った。

 先生は、くらがりの庭を、足音をしのばせて、秘密室の外まわりをまわった。

(どこかに、入りこめる穴があったように思っていたが……)

 先生は、その建物の床下に、空気を通じるための穴があって、そこに鉄の格子がはまっていたことを思い出したのであった。それで先生は手さぐりで建物の外をさぐってまわった。気はいらいらするが、もしも相手が生き物だったら、たいへんだと、一生けんめいに、はやる心をおさえた。

 だが、一体何だろう、あの音は?

(あっ、穴だ!)

 先生の手が、穴にふれた。四角い窓のようにあいていた。

(おや、鉄格子が、はまっていたはずだが、外してしまってあるじゃないか」

 鉄格子は、なくなっていた。誰が外して持っていったのであろうか。

 窓のところから、すうと風が出て来るのが、はっきり感じられた。

 ごとん。

 またあの怪しい音がした。どうも人間がいるらしい。

 先生は考えた。どうしてやろうか、と。だが、ぐずぐずしていられないことはたしかであるから、思い切って、先生は床下に向かって声をかけた。

「誰だ、そこにいるのは?」

 ごとん──と、また音がしたけれど、へんじがない。

「そんなところにはいりこんでいては、困るじゃないか。用があるなら、こっちへ出て来たまえ」

 先生は、床下にひそんでいるのは、刑事かも知れないと思ったので、なるべく鄭重に言った。

 新田先生は、マッチを出して火をつけた。

「とにかく、こっちへ出て来たまえ」

 と、空気穴から声をかけた。

 すると、床下では、ごとんごとんとつづけざまに音がしたが、やがて何者かが、こっちへごそごそはい出して来る様子。

「いよいよ、おいでなすったな」

 と、新田先生は、体を建物の土台の方へよせて身を守りながら、また新しいマッチに火をつけた。

(もし、変な奴だったら、この空気穴から頭を出したとたんに、力一ぱい首をしめてやろう!)

 そう思って身がまえたとたん、近づいた床下の怪物は、

「先生、新田先生ではありませんか」

 と、意外な言葉を発したのであった。

 驚いたのは新田先生だ。下手をすれば、どうんとピストルのたまぐらい、こっちへ飛んで来るだろうと思っていたのに、意外も意外、その怪物は自分の名を呼んだのであった。

「だ、誰だ!」

 新田先生は、どなり返した。

「先生、やっぱり、新田先生だ。僕です、僕です」

 僕です、という声とともに、空気穴からかわいい少年の顔が、こっちをのぞいた。

「あっ」

 新田先生は、思いがけない驚きにあって、しばらくは口がきけなかった。

「先生、僕、千二ですよ。ああ新田先生だ。よかった、よかった」

 新田先生は、空気穴の方へ手をさしのばして、

「ああ、千二君だ。ほんとうに千二君だよ。どうして、こんなところへ……」

 と、言ってから気がつき、

「さあ、早く、こっちへ出て来たまえ!」

 空気穴から千二少年がはい出して来た。

「おお、千二君。よくまあ……」

「先生!」

 二人は、思わず抱きあって、涙にむせんだ。

「先生は、どうしてこんなところに、いらっしゃるんです」

「ああ、これには、わけがある。要するに、君を助けたいためと、もう一つは、もっと大きなものを助けたいためだ」

「もっと大きいものって何ですか」

「それはね──」

 と言いかけたが、先生は、あわてたようにあたりを見まわし、

「それは、話が長くなるから、いずれあとで、ゆっくりして上げるよ」

 と言って、それから改まった口調になって、

「私のことはともかくとして、千二君、君は一体どうしてこんなところへ? 警視庁を脱走したのじゃあるまいな」

「ああ、そのことですか。先生、心配しないでください。僕は、おひる前、もう帰ってよろしいというので、久しぶりで自由の身になれたんです」

「それはよかった。が、ほんとかね。じゃあ、なぜこんな床下にもぐりこんでいたんだい。許されて出たものなら、堂々と町を歩いていてもいいはずではないか。どうも、おかしいじゃないか」

 新田先生は、千二が、こんな床下にもぐりこんでいたのは、やはり心の中に、うすぐらいところがあるのではないかと、心配しているのだった。

「僕、うそなんかつきませんよ。じつは、僕、日比谷公園のそばで、丸木のため、むりやりに自動車に乗せられて、こっちへ連れて来られたんです」

「なに、丸木が?」

 と、新田先生は、驚いて言った。

 そこで千二は、日比谷公園のそばで、怪人丸木のため、むりやりに自動車にのせられたことや、丸木の自動車が交通違反をしたため、オートバイの警官に追いかけられ、とうとうこんな方角へ来てしまったことなどを話した。

「……すると、先生。僕は、おどろいてしまったんです。とつぜん自動車の行手に、『危険! この先に崖がある』という注意の札が見えたんです」

「ほう、ほう」

「危険の札が、立っているのに、丸木はそのまま、そこを突破したんです」

「ほう、らんぼうだね。それじゃ、自殺するようなものだ」

「そうです。僕は、もう死ぬことを覚悟しました。すると、そのとき丸木は、片手で運転台の扉をさっとあけました。そうして、僕の体を、力一ぱい、車の外へどんと突きとばしたんです」

「なるほど、なるほど」

「僕は、思わず目を閉じました。頭をぶっつけては即死だと思ったので、両腕で、自分の頭を抱えるようにしたことまで覚えています。それから後のことは、なんにも知りません。丸木がどうしたのか、自動車がどうなったのか」

「それで……」

「気がついてみると、僕の頬ぺたが、ちくちく痛いのです。それから、だんだんと正気にもどってみますと、僕は、さつきという木がありますね。あのさつきの繁みの中にころがっていたんです」

「ふん、さつきというと、この屋敷にも、たくさんあるが……」

「そうなんです。そのさつきは、この屋敷のものだったんです。僕の落っこったところは、屋敷の外まわりに芝の植っている堤がありますね。あの堤を越して、下にごろごろと落ちて、気を失っていたんです」

 聞けば聞くほど、あぶない命のせとぎわであった。よくぞ千二少年は、一命が助かったものであった。

 堤下の、さつきの繁みの中に、気を失っていたので、あとをおいかけていた警官は、そばまで来ながら、千二がいることには、気がつかなかったものらしい。

 いや、警官たちは、それよりも、崖下に落ちていった自動車のことばかりに、気をうばわれていたのかも知れない。自動車は、怪人丸木をのせたまま、崖から下へ落ちていった。そうして、めちゃめちゃにこわれてしまい、やがて車体は火に包まれてしまったのだ。誰も彼も、この方に注意をうばわれたのは、もっともだった。

「ふうん、全く、驚いた話だ」

 と、新田先生は、大きな息をついて、千二少年の命びろいを喜び、

「その運転手は、怪人丸木にちがいないかね」

「丸木ですよ。僕は、丸木の顔をよく知っていますから、見ちがえるようなことはありません」

「ふうむ、やっぱり、ほんとの怪人丸木か。あいつは、もう、こっちにはいないだろうと思っていたのに」

「先生、丸木は、僕をさらって、何をするつもりだったんでしょうか」

「さあ、それも、私の思いちがいだった。先生はね、丸木が千二君を……」

 と言ったが、そこで先生は気がついて、ことばを止めた。新田先生は、丸木が千二君を捕えたのは殺すつもりだったと思っていたのだ。

「──とにかく、丸木は、君の命を助けたことになって、丸木は命の恩人だとも言えるね」

「でも、先生。僕、丸木のことを恩人だなんて思うのはいやですよ」

「そうだろうね」

 先生はうなずいた。でも、新田先生は、丸木は千二を殺すだろうと思っていたのに、かえって命を助けたことが、不思議でならなかった。

「丸木は、どうしたろうね」

「さあ、どうしたでしょうね」

 新田先生と千二は、丸木のことが心配でならなかった。

「とにかく、自動車は崖下に落ちたんだから、崖下へ行って調べてみれば、よくわかるだろう」

 新田先生は、いま崖下で、警視庁の掛官たちが集って、しきりに手がかりをさがしているとは知らない。

 怪人丸木は、一体どうしたのであろうか。彼は、自動車もろとも崖下に落ちて、死んでしまったのであろうか。

 りくつのうえでは、どうしても、そうならなければならないのであったが、丸木の骨が見つからない。これは、どうもへんである。

(自動車に乗っていた大人と少年とは、どこかに生きているとしか、思われない)

 と、大江山捜査課長は、現場の模様から、そういう断定をした。そうして、刑事の佐々に笑われたのであった。

(佐々が笑うのも、むりではない。あの崖から落ちて、こんなにこわれてしまった自動車に、乗っていた人間が死なずに生きているなんて、べらぼうな話だ。しかし、現場の模様は、それにちがいないと教える!)

 大江山課長は、永年の経験で、どこまでも証拠のうえに事件の解決をきずいていく人だった。証拠のないものは、決して信じないのだ。

 ともかくも、課長の推察の半分は、たしかにあたっていた。なぜならば、千二少年が、ちゃんと生きていたではないか。

 だが、大江山課長も、まさか自動車が崖をふみはずす前に、千二少年が車外へつきおとされたのだと、そこまでは、気がつかない。

 千二少年は、助って、ちゃんと生きている。では残りの怪人丸木はどこにいるのであろうか? そうして、どうして、命をとりとめたのであろうか?



19 怪力かいりき



 大江山課長は、崖の下に集っている警官や、刑事たちを励まして、再び念入の捜査をするように命じた。

「必ず、この附近に、何かの手懸てがかりが残っているはずだ。それを探しあてないうちは、われわれは、いつまでも、ここから引上げない決心だ。さあ、しっかり探してくれ」

 課長は、聞くのもいたましい声で、そう叫んだのであった。

「よろしい、やりましょう」

 部下は、そう答えて、課長の前を散った。篝火かがりびが点ぜられ、現場附近は、更に明かるくなった。捜査のため、右往左往する人々の顔が、その篝火をうけて、鬼のように、赤く見えた。

 このとき佐々さっさ刑事は、懐中電灯を照らして、自動車の落ちた崖のすぐ下のところを、しきりに探していた。

「この辺に、足跡がついていなければならぬはずだが……」

 と、彼は、ていねいに、崖下を、しらべて歩いた。

「こうあたまを使うのだったら、ライスカレーを、うんとたべてくるんだったのに……」

 あたまのよくなるライスカレーのことを、佐々刑事は、思い出して、うらめしくなった。

 そのとき、佐々刑事の進んでいく方角から、反対にこっちへ歩いて来る一人の警官があった。彼は夢中になって、崖下を照らしている佐々刑事の姿を、様子ありげに、じろじろと見ていたが、やがてあたりを振りかえり、足早に佐々の側へ近づき、

「おい君。この辺で、子供を見かけなかったか」

 と、声をかけた。

「なに、子供?」

 佐々は、顔を上げたが、けげんな顔。

 とつぜん呼びかけられて佐々刑事はちょっと面くらった。

「子供って、何のことだね」

 と、佐々は問いかえしながら、相手の顔を見た。

 相手は、制服すがたの警官だった。帽子をまぶかにかぶって、その帽子のひさしから、こっちをじっと見ている。しかし、佐々刑事は、そのような顔の警官に始めて会う。芝警察署あたりから応援に来た警官だと、佐々は思った。

「子供だ。この辺で、子供を見なかったかね。その子供は、死んでいたかも知れない。子供の足跡でもいい。君知っていたら、教えてくれたまえ」

 その警官は、つかえながら、そんなことを言った。

「さあ、僕は、何も見かけなかったよ」

 相手の様子が、何だか変である。よく見ると、その警官は、あごからのどへかけて、白い繃帯ほうたいをまいているのであった。

「君、どうしたんだ、その繃帯は?」

 と言って、佐々は、すこし失敬かなとは思ったが、懐中電灯を相手ののどに向けた。

 すると、相手はびっくりして、

「な、何をする!」

 と叫んで、横にとびのいた。

「やあ、失敬失敬。いや、その繃帯はどうしたのかと思ってね。どこで怪我をしたのかね」

「かぜをひいたのだ。それで繃帯をまいているんだ」

 相手はつっけんどんに言った。

「そうかね。かぜをひいているのか。でも、あごまで繃帯で包んでしまうなんて、君はずいぶん変っているね」

「ふん、おれのすることに、君が口出しすることはないよ」

 と、相手はおこったような、ものの言いかたをした。

「君が探している子供というのは、一体どうした子供なんだね」

 佐々刑事は、かわり者の警官に、それをたずねた。

「ああ、その子供というのはね、背が、これくらいの少年なんだ」

 と、顎に繃帯したその警官は、自分の胸あたりに、手をあげた。

「名前は?」

「名前は──名前は、千二というんだ」

 と、警官は言った。

「千二というのか。はて、聞いたような名前だが……」

 佐々刑事は、小首をかしげた。

 千二? そうだ、千二といえば、あの天狗岩事件や銀座事件で、つかまったあの少年が、千二という名前だった。

「千二というのは、けさ警視庁から放免された千葉県生まれの少年のことじゃないのかね」

「ああ、そうかもしれない。とにかく、その千二という子供に会いたいという者があって、それからの頼みで探しているんだ」

「へえ、そうかね。で、それを頼んだ者というのは、誰かね。もしや、丸木とかいう、怪しい男じゃなかったかね」

「丸木?」

 と、顎に繃帯を巻いた警官は、何にびっくりしたのか、ちょっと口ごもったが、

「ああ、あの丸木なら、もう死んでしまったじゃないか。ほら、あそこで皆が、火をたいて集っているが、丸木は、自動車に乗ったまま、この向こうの崖から墜落して、死んでしまったということだよ。丸木は、もうどこにもいない」

「ほう、君は、丸木のことをよく知っているね。それから、千二少年のこともよく知っているらしい。一体、君は、どこの警察署の人かね」

「わしのことかね。わしは、そのう、つまり日比谷ひびや署の者だ」

「うそをつけ!」

 佐々刑事は、何と思ったのか、顎に繃帯をまいている警官に、うそをつけと、はげしいことばを吐いた。

「何が、うそだ。警官に対して、何をいうのか。お前こそ、どこの何者だ」

 相手は、きびしく、佐々に向かって、逆襲して来た。

「君は、おれを知らないのか。すると、いよいよ君は、もぐりの警官だということになる。おれは、本庁随一の腕利刑事で、佐々というけちな男だ」

「えっ」

「おれが腕利だということは、もう四、五分のうちに、君にもわかるだろう」

「なにっ」

 相手の警官は、思わず一、二歩、うしろへ下った。

「──ということは、おれは偽警官の貴様をふんじばって、留置場へのおみやげをこしらえようとしているんだ。こら、神妙にせい」

 佐々刑事は、いきなり相手におどりかかった。

 相手の警官は、逃げるひまがなかった。佐々は、彼を、その場に押したおそうとしたが、

「おや、貴様は、何を着ているのか。うむ、よろいを着ているんだな。いよいよあやしい奴だ。神妙にしろ!」

 と、ねじふせようとした。

 ところが、相手は、佐々に抱きつかれたような恰好だが、びくともしなかった。

「それを知られたからには、貴様の命はもらった。かくごしろ」

 ううんと、相手は、うなった。そうして、あべこべに、佐々の胴中へ手をまわし、ぎゅうとしめつけた。

「なまいきなまねをしやがる。貴様は、佐々刑事の強いのを知らないと見えるな」

 相手の警官は、なかなか強かった。

 のどに繃帯をまいて、かぜをひいているとか言っていたので、さぞ弱い相手だろうと思っていたが、なかなかどうして、強かった。佐々刑事は、たじたじであった。

 二人は、組みついたり、離れたり、うちあったりしたが、なかなか勝負がつかない。

 こんな場合、佐々刑事は、もっと早く助けをよぶべきであったと思う。ところが佐々は、自分一人の手柄にしようと思って、大いにがんばったのであった。

 ところが、どうも佐々の方が旗色が悪い。助けの声を出そうにも、声を出す隙さえないという有様だった。

「あっ……。うむ」

「ぶうーん」

「やっ。えいっ」

「ぶうーん」

 苦しいかけ声をかけているのが佐々刑事で、相手の警官は、ぶうーんと、妙なうなりごえをあげる。どこまでも、かわった人物だった。

(こいつは手ごわい相手だ。ぐずぐずしていると、あいつの鉄拳で、こっちの肋骨を折られてしまうかもしれない。何とかして、早いところ、相手をたおしてしまわねばならぬ!)

 佐々刑事は、だんだん無我夢中になって来た。どこか、相手の隙はないか。

 そう思っている時、彼は、一つの隙を見つけた。

「これでもかっ!」

 佐々刑事は、飛びこみざま、相手の顎を下からうんとつきあげた。ぐわんと、はげしい音がした。

「あいたっ」

 佐々刑事は思わず悲鳴をあげた。拳の骨が、くだけたと思ったのだった。相手の顎のかたいことといったら、まるで石のようだ。

 相手は、よろよろとよろめいた。その時佐々は、びっくりして、目をみはった。

「あっ、首が……」

 佐々は、自分の目をうたがった。相手の警官の肩の上から、首が、急に見えなくなってしまったのである。

 警官の首は、どこへいった?

 そんなばかな話があってたまるものではない──と、誰でも思うであろう。ところが、そのばかばかしいことが、ほんとうに起ったのである。佐々は、面くらった。そうして、背筋から冷水をざぶりとあびせかけられたような気がしたのであった。

「おれは、わけがわからなくなったぞ。おれは、相手の首を、たたき落してしまったんだ!」

 首を落された警官は、たおれもせず、そのまま、ちゃんと立っていた。白い繃帯が、ばらりととけて、ひらひらと肩にまつわる。首のないくせに、彼はなおもはげしく、佐々の方にむかって来る。彼の鉄拳が、ぶんぶん佐々の目をねらって飛んで来た。

「あれっ。おれはおかしくなったんじゃないかしらん。首のない人間と、たたかっているのだ!」

 佐々は、こんな気持の悪い思いをしたことは、生まれてはじめてだった。てっきり自分はおかしくなったのだと思った。おかしくなったから、首のない人間が、生きているように見えるのだ。

「ぶうーん」

「あっ、いた──」

 とつぜん、佐々の顎に、相手の鉄拳が、ごつんとはいった。彼は、顎が火のようにあつくなったまでしかおぼえていない。佐々は、はり板をたおすように、どすんと、うしろへたおれた。そうして気を失ってしまった。

 首のない怪人は、ここで、にやりと笑いたいところであったろう。しかし首がないので、笑うわけにはいかない。

 そこで彼は、ちょっとしゃがむと、両手をのばして、うしろに落ちていた首をひろい上げた。

 怪人が、首をぽろりと落した。

 佐々刑事も、そこまではちゃんと見ていたから、間違ない。

 ところが、そのあとで、怪人は腕をのばして、自分の首をひょいと拾い上げたのだった。その時には佐々刑事は、怪人から一撃をくってひっくりかえっていたから、何も知らない。もしも、そこまで見ていたとしたら、恐らく、佐々刑事は自分の目をうたがって、発狂してしまったかも知れない。

 怪人が、首をぽろりと落したこともほんとなら、また、首を拾い上げたことも、ほんとであった。

「そんなばかなことが!」

 と、叱られるかも知れない。だが叱られても仕方がないのである。あたりまえの考え方では、首がぽろりと落ちれば、その人間は死んでしまうのだから。死んでしまった体が、手をのばして自分の首を拾うなんてことが、出来ようはずがないのだ。普通に考えれば、そうであった。

 しかし、事実は、たしかに怪人の首がぽろりと下に落ち、そうして怪人が手をのばして、その首を拾い上げたのである。そのことは決して間違ではない。

 結局、そのように、普通では考えられないことが起ったについては、普通でないわけがあると思わなければならない。そのわけとは、どんなことであるか?

 そのわけの一つは、顎に白い繃帯をしていた警官が、ただ者ではなかったということだ。

 怪人! そうだ、たしかに怪人であった。しかも、この怪人こそは、外ならぬ丸木であったのである。

 丸木だろう──とは、気がついていた読者もおありであろう。しかし、丸木の首が落ちても、丸木は平気で生きていられるんだとは、まさか、だれも考え及ばなかったであろう。

 怪人丸木は、自分の首を拾うと、それを小脇にかかえて、どんどん逃出した。そうして、どこへいったか、姿は闇にまぎれて見えなくなった。

 この怪事件は、佐々刑事が息をふきかえして、始めて大江山課長をはじめ、警視庁の掛官たちに知れわたったのであった。

「その曲者は、きっと丸木だろう。そのへんをさがしてみろ。裸になっている警官が、みつかるにちがいない」

 さすがに、大江山捜査課長は、すぐさま、怪人の正体を言いあてた。

「えっ、丸木があらわれたのですか」

「警官などにばけるとは、ひどい奴だ」

 と、掛官たちは、意外な面持であった。

 大江山課長は、ただちに自ら指揮をして、丸木のあとを追った。

「丸木だと思ったら、かまわないから、すぐピストルを撃て! ぐずぐずしていると、こっちがやられるぞ。あいつは、多分人間じゃないんだろう」

「えっ。課長、丸木は人間ではないのですか」

 と、部下の一人がきいた。

「うん、ばかばかしい話だが、そういう考えにならないわけにいかないのだ」

「課長!」

 その時呼んだのは、佐々刑事であった。彼は、同僚の手あつい介抱で、やっと元気をとりもどしたのだった。

「どうした、佐々。もう大丈夫か」

「さっきは、残念ながら、やっつけられましたが、もう大丈夫です。ねえ、課長。相手は人間でないそうですね。課長が、おばけの存在を認めるようになったとは驚きました。大へんなかわり方ですなあ」

「おばけというのは、どうもことばが悪いがしかし、たしかに、丸木という奴は、おばけの一種だ!」

 課長は、そう言って、唇をかんだ。


 怪人丸木は、どこへ逃げた。

 大江山課長は、部下を励まして、あたりをさがさせた。中にも、佐々刑事は、さっき丸木にやっつけられたくやしさもあって、たいへんな、はりきり方であった。

「こんど丸木に出会ったら、僕は、どんなことがあっても、あいつの首を分捕ってやる」

 佐々刑事は、そんなことを言っていた。

「怪人丸木の首を分捕る? そんなものを分捕って、どうするんだ」

 と、同僚が聞くと、佐々は肩をゆすりあげて、

「ふん、あいつの首の使い道か。僕は、あいつの首をきざんで、ライスカレーの中へたたきこむつもりだ」

「えっ、君は、あいつの首を食うつもりか。とんでもないことだ、君は食人種かね」

「食人種? そうじゃないよ。丸木が人間なら、あいつの首を食べればそりゃ食人種さ。しかし丸木は、人間じゃないんだ。だから、僕は食人種になりはしないよ」

「じゃあ、何になるかなあ」

「食化種さ。お化の味を、僕が第一番に味わってみようというわけさ。もし、おいしかったら、君にも分けてやるよ」

「じょうだんじゃない。お化の肉のはいったライスカレーなど、まっぴらだ」

「さあ、くだらんことを言わないで、早く丸木をさがし出せよ」

「くだらんことを言っているのは、佐々君、君だよ」

 そんなさわぎのうちに、とうとう不幸な半裸体の警官が見つかった。彼は、すっかり官服も帽子も奪いとられて、草むらに倒れていた。課長以下は、すぐさま手あつい介抱を加えたが、残念ながら、もうだめであった。肋骨ろっこつが三本も折れて、ひどく内出血していた。

「かわいそうなことをした」

 と、大江山課長は涙をのみ、

「丸木という奴は、いよいよ人間じゃない。人間なら、こんなに残酷なことは、しないだろうに」



20 秘密室



 こっちは、新田先生と千二少年とであった。二人は不思議な再会に、手をとって喜び合ったが、話はつきなかった。

 だが、そのうちに、新田先生は、蟻田博士が間もなく帰って来るだろうということに気がついた。そうして、同時に、まだ謎のとけない博士の秘密室のことも思いだしたのである。

 そこで、新田先生は、話をしてみても、しようがないと思ったけれど、千二少年に向かい、

「なあ、千二君。先生は、君を助けようと思って、ここへ来たのではなかったのだ。実は、君のかくれていたところは、蟻田博士の秘密室の床下だったんだよ」

「えっ、博士の秘密室?」

「そうだ。蟻田博士が、たいへん大切にしている部屋なんだ。ところが、その部屋へはいってみたところ、部屋はがらん洞で、何も置いてないんだ」

空部屋あきべやなんですね」

「うん、空部屋なんだよ。ただ、柱時計が二つ、壁にかかっているだけだが、この時計も、べつに変った時計でもなく、昔からよくあるやつだ。しかも、その時計は、ほこりを一ぱいかぶったまま、針はとまっているんだ。先生は、博士がなぜ、あのようなとまった古時計しかない空部屋を、大切にしているのか、わけがわからないので、困っているのだよ」

「そうですか。全く、わけがわかりませんねえ」

 と、千二も、先生も同じように首をかしげた。

「どうだ、千二君、君は床下にいて、何か秘密のあるようなものを、見なかったかね」

「床下で秘密のあるようなものというと……」

 と、千二はしきりに考えていたが、

「ああ、あれじゃないかしら」

「何だ。あれとは──」

 新田先生は、思わず声を大きくして、千二にたずねた。蟻田博士の秘密室の床下で、千二は、何を見たのであろうか。

「それは、博士の秘密だか何だか、わかりませんけれど……」

 と、千二少年は前おきをして、

「僕は床下で、たいへん太い柱を見たんです」

「なに、太い柱?」

「そうです。とても太い柱です。コンクリートの柱なんですよ。太さは、そうですね、僕たちが、学校でよく相撲をとりましたね。あの時校庭に土俵がつくってあったことを、先生はよく覚えていらっしゃるでしょう。柱の太さは、あの土俵ぐらいの太さはありましたよ」

「そうか、小学校の庭の土俵ぐらいの太さといえば、相当太い柱だね。それは柱というよりも、中に何かはいっているのじゃないかなあ」

「そうかも知れません」

「柱の上は、床についているのかね」

「さあ、それはよく、たしかめてみませんでしたけれど、もし床の上に出ているものなら、先生がおはいりになった博士の秘密室のまん中に、その柱が、にょっきり生えていなければならないはずですね。先生、そんなものが、ありましたか」

「いや、あの部屋には、決してそんな柱は見えなかったよ。不思議だなあ」

 新田先生は、腕ぐみして、不思議だなあと、くりかえした。

「いや、とにかく、その柱の中は、調べてみる必要がある。が、どこからはいればいいのかわからない。あの部屋には、別に、その入口らしいものも見えなかったがねえ」

「変ですね」

「なあ、千二君。君は、あの部屋の床下にもぐりこんでから後、もっと何か見なかったかね」

「もっと、何か見なかったかと言うんですか」

 と、千二少年は、またしきりに、前のことを思い出そうとつとめていたが、

「ああ、そうだ。僕は、時計が鳴るのを聞きましたよ、先生」

「え、時計って」

「いや、僕のかくれていた頭の上で、ぼうん、ぼうんと時計が鳴ったんです」

「ああ、そうか。千二君は、床下で、それを聞いたんだね。すると、博士のあの秘密室の柱時計が鳴ったんだな。でも、それは不思議だ」

 新田先生は、首をかしげて、妙な顔をした。

「先生、止っていた時計を直しているから、時計が鳴ったのだと思いますよ」

「ああ、そうか。時計の針を動かしていたんだね」

「きっと、そうなんでしょう。だから、ぼうんぼうんと、幾つも打ちましたよ」

「なるほど、なるほど」

「ところが、先生、それがどうも、へんなんですよ」

「へん? へんとは、何がへんなのかね」

 新田先生は、千二少年の話に、たいへんひかれた。

「その時計の鳴り方ですよ。はじめ、ぼうんと一つうち、次にぼうんぼうんと二つうち、それからぼうんぼうんぼうんと三つうち……」

「つまり、一時、二時、三時だな。すると一時間おきに鳴る柱時計は、めずらしい」

「先生、僕がへんだと言ったのは、そのことじゃありません」

 と、千二は、先生の言葉をさえぎった。

「えっ」

「僕がへんだと思ったのは、ぼうんぼうんぼうんと三つ打ったのち、こんどは四つ打つかと思ったのに、ぼうんぼうんぼうんぼうんぼうんと五つ打ったのです。それから次は六つ、次は七つと、それからのちはあたり前に打っていったのです」

 千二が床下で聞いた柱時計の不思議について、新田先生は、首をかしげて考えこんだ。

「ふうむ、柱時計が一時・二時・三時とうって四時がぬけ、それから、五時・六時・七時とうっていったと言うんだね」

「そうなんですよ、先生」

「不思議だねえ」

 と、新田先生は、四時をうたない時計の謎を、どう解いてよいか迷った。

「ねえ、先生。その時計が四時をうたなかったのは、時計がこわれていて、四時のところでは鳴らないのではないでしょうか」

 千二は、おもしろい答えを考えだした。

「なるほど、それも一つの考えだね」

 と、新田先生はうなずいた。

「しかし千二君、柱時計というものは、たいへんがんじょうに出来ているものだ。四時だけ鳴らないというようなことは、まず起らないと思う。とにかく、それをしらべてみようじゃないか。さあ、先生と一しょに、博士の秘密室へいこう」

 新田先生は、千二をうながして、ふたたび博士の秘密室へはいっていった。

 うすぐらい電灯がつくと、室内は、さっきと全くかわらないがらんとした部屋であった。古びた柱時計が二つ壁にかかっているのも、さっきと同じことであった。もちろん二つの時計は、どっちも動いていなかった。

 千二は、この部屋の殺風景さに、ひどく驚いたようであった。

「先生、この部屋は、何だか、気味のわるい部屋ですね」

「そうだ、あまり気味のよい部屋だとは言えないね」

 そう言って、新田先生は、つかつかと柱時計の下に歩み寄り、時計の中を見ようとしたが、背がとどかない。そこで、先生は、梯子を探しにまた外へ出なければならなかった。

 一体蟻田博士の秘密室と、そうして四時に鳴らない柱時計の謎とは、どのような関係があるのであろうか。

 柱時計の中をしらべるため、新田先生と千二少年とは、部屋を出て、梯子をさがしにいったが、その梯子は、その隣の物置のような室内にあった。

「ははあ、博士は、いつもこの梯子をつかっているのだな」

 脚立のような形をしたその西洋梯子を、新田先生は、秘密室へかつぎこんだ。そうして柱時計の下においた。ちょうど、ほどよい高さであった。

「先生、僕、梯子をおさえていますよ」

「そうかね、じゃあ、先生はのぼってみるよ」

 新田先生は、梯子をのぼった。

 先生は、時計の扉を開いてマッチをつけると、その光をたよりに中をのぞきこんだ。

「先生、何か、かわったものが、見つかりましたか」

「そうだね。時計の中には、ラジオの受信機のように、電線が、ごたごたと引張りまわしてあるよ。しかし、この電線は、何のためにあるんだか、どうもよくわからない」

「先生、四時が鳴らないわけは、わかりましたか」

「うん、今それをしらべているところだが、ええと、この歯車が、時計を鳴らす時にまわる歯車だ。すると──」

 先生は、また新しいマッチをつけて、時計の中をのぞきこんだ。

「──べつに、かわったことはないようだ。三時も四時も、ちゃんと鳴るはずだがなあ」

「四時は鳴るように、なっていますか」

「そうだよ、千二君、今、鳴らしてみよう。聞いていたまえ」

 新田先生は、時計の中へ指を入れて、歯車のかぎを引張った。

 ぼうん、ぼうん、ぼうん、ぼうん。

「あっ、四つうった」

「なあんだ、ちゃんと、四つ鳴るじゃないか」

 柱時計は、いきなり四時をうったのであった。先生と千二少年とは、拍子ぬけがして、たがいに顔を見合わせた。

 続いて次をうたせてみたが、ちゃんと五時、六時、七時……と、うつのであった。

「ふん、別に、こわれているのではないようだ」

「先生、もう一つの時計を調べましょう。四時をうたないのは、もう一つの時計かもしれませんから」

「よろしい。もう一つの時計も調べてみよう。こんどは、千二君、君が調べてみたまえ」

「ええ。じゃあ、僕が調べましょう」

 先生が下りて、梯子を隣の時計の横にかけかえた。代って、千二少年がのぼっていった。

「じゃあ、先生。僕がこの時計を鳴らしてみますよ」

 第二の時計は、千二の手によって、時をうちはじめた。

 柱時計は九時、十時、十一時……と、正しくうっていった。そうして、三時をうち、次はいよいよ四時の番だ。

「いよいよ、四時のところです。ああ、僕、何だか、気味が悪くなった」

 と、千二は、梯子の上で、すこし顔をこわばらせた。

「何だ、千二君。君は、日本少年のくせに、いくじなしだね」

「先生、僕は、勇気はあるのですよ。ただ、気味が悪いと言っただけです。先生、さあ、聞いていて下さい」

 千二は、指さきで歯車のかぎをおした。すると、第二の時計はいよいよ鳴り出した。

 ぼうん、ぼうん、ぼうん、ぼうん。

 音は四つだ!

「なあんだ。どっちの時計も、四時をうつじゃないか」

「どうも、へんだね。君はこの時計が四時をうたなかったと言うけれど、今やってみると、第一の時計も、第二の時計も、ちゃんと四時のところで鳴ったじゃないか」

 そう言って、新田先生は、千二の顔を見た。

「おかしいですね。そんなはずはないんだが……」

「たしかに、君は四時をうたなかったと言うのだね」

「そうですとも。僕は、時計が間違なく、四時をぬかしてうったのをおぼえています。間違ありません」

 千二は、きっぱり言った。

「そうかね。それほど言うのなら、間違ないだろう。だが、柱時計は、この通りちゃんと四時をうつんだからね。おかしな話さ」

 先生は、腕ぐみをして、あきれ顔で、柱時計を見あげた。

「これには、何か、わけがあるんだ。──千二君は、この柱時計が、四時をぬかしてうったと言うのに、今鳴らしてみると、どっちの柱時計も、ちゃんと四時をうつ。なぜ、そんなことになるのだろうか。この答えが考え出せないうちは、博士の秘密は、それから先、何にもとけないんだ」

 新田先生は、うなりながら、しきりに考えた。

「うむ、これくらいの謎が、とけないようでは、地球の人類の生命を救うなんて大仕事は、出来るはずがない。ちぇっ、新田、お前のあたまも、存外ぼんくらに出来ているなあ!」

 知らない者がこれを横から見ていると、新田先生はおかしくなったんだろうと思ったであろう。そばに立っている千二少年も、何だか気味が悪くなった。

 その時であった。新田先生は、急ににこにこ顔になると、

「ああ、そうか。謎はとけたぞ!」

 と、ぴしゃりと手をうちあわせた。

「先生、わかりましたか」

 と、千二は胸をおどらせてたずねた。柱時計がなぜ四時をうたなかったかという謎を、ついに先生がといたと言うのだから。

「わかったよ、千二君。こう考えれば、柱時計が四時をうたないように聞えるではないか」

 と、新田先生は、思わずごくりとつばをのみこんで、

「いいかね。はじめ、第一時計も第二時計もとまっているんだ。そこで、針を指で動かしていくんだ。まず、どっちか第一の時計を、ぼうんと鳴らして一時さ。それから、もっと針を廻してぼうん、ぼうんで二時だ。それから、またさらに針をまわして、ぼうん、ぼうん、ぼうんで三時さ。わかるかね、千二君」

「それくらいのことなら、はじめから、僕にもよくわかっていますよ」

 千二は、先生に、ばかにされたとでも思ったのか、頬をふくらませて答えた。

「それが、わかっているね。そんなら、よろしい。第一時計は、そのままにしておいて、さて次に、第二の柱時計をうごかすのさ」

「はあ、──」

「分針を、十二のところへもっていくと、第二の柱時計は、鳴りだした。ぼうん、ぼうん、ぼうん、ぼうん、ぼうん、ほら五時だ。五時をうったのだ」

「えっ、五時?」

「そうだ。第二の時計は、五時から鳴りだしたのだ。次は六時、七時……とうっていった。そういうわけだから、四時をうつ音は、聞えなかったんだ」

「ええっ、何ですって」

「つまり、千二君、実際は、二つの時計が鳴ったのだ。それを、君が一つの時計が鳴ったように思ったから、四時がぬけたと思ったんだ」

「ははあ、なるほど」

 ああ、ついに、柱時計の秘密はとけた。

 千二少年は、新田先生のあたまの働きに、すっかり感心してしまった。

(四時をうたないわけは、一つの柱時計が三時をうって終り、次にもう一つの時計が、五時からうちはじめるからだ)

 なるほど、二つの柱時計を、そういう風に鳴らせば、四時のところでは、鳴らないわけだ。先生は、実にすばらしい謎をといたものだ。

 その新田先生は、謎をといたあと、別に嬉しそうな顔もせず、二つの柱時計を、じっと見あげている。

「ああ先生、どうしたんですか。何を考えているんですか」

 と、千二は、先生の様子が心配になって側へよった。

「うん、千二君。先生は今、この柱時計について、もっと重大なことを思いついたんだよ」

「えっ、もっと重大なことって?」

 千二は、先生の顔と、相変らず振子のとまったままの二つの柱時計とを見くらべた。そういわれると、何だかまだ大きな秘密が、そのあたりにもやもやしているような気がする。

「そうだ。先生の考えているとおり、大胆にやってみることにしよう」

 新田先生のまゆが、ぴくんと動いた。先生は、何かしら、一大決心を固めたものらしい。

「先生、先生。何を先生はやってみるというんですか」

「おお千二君」

 と、新田先生は、千二の方をふり向いて、急に顔をやわらげながら、

「さっきから、先生は考えていたんだが、今とうとう先生は、たいへんな大秘密をつきとめたような気がするんだ。それこそは、この蟻田博士邸内にある最大の秘密かも知れない。どうやら、これで、この屋敷にがんばっていたかいがあったようだ」



21 りそう師弟してい



 何が、そんなに、新田先生を興奮させているのか。

「先生、大丈夫ですか」

「何が、大丈夫だって。いや、心配しないでもいいよ。そして、これから、先生のやることを見ておいで」

 新田先生は、はりきった顔に、つとめて笑いをうかばせ、なるべく千二君に恐しさをあたえないようにつとめていた。

「さあ、千二君。そこにいては、あぶないかもしれない。君は入口の扉のところへいって、なるべく体を、ぴったりと扉につけておいで」

「先生は?」

「先生は、もう一度時計を鳴らして見る」

「また、時計を鳴らすのですか」

「そうだ。だまって、見ておいで。しかし、あるいは、千二君の思いがけないようなことが起るかもしれない。が、どんなことがあっても、おどろいてはいけないよ」

「先生、僕のことなら、大丈夫ですよ」

 千二は、そう答えて、先生から言われたとおり、入口の扉のそばへ、場所をうつした。


 その間に、もう先生は、柱時計のそばにかけた梯子はしごを上っていた。

 先生は、

(千二君、始めるが、覚悟はいいかね)

 といった風に、千二の方を、ふりかえったが、千二が、言いつけたとおり、ちゃんと扉のところで小さくなっているのを見ると、安心の色をうかべて、時計の方へ向きなおった。それから、新田先生は、右の柱時計の針を、指さきでまわして、また、ぼうん、ぼうんと鳴らしていった。一時、二時、三時!

「さあ、こっちの時計は、これでよし。今度は、もう一つの時計の方だ」

 先生は、右の時計を三時のところでとめると、今度は、左の柱時計の方へ手をのばして、ぼうん、ぼうんと鳴らしはじめた。

 一体、何事が起るのだろうか。

 ぼうん、ぼうん、ぼうん、ぼうん、ぼうん。

 第二の柱時計は、あやしい音を立てて、五時をうった。

 その音を聞いていた千二は、何だか、背中がぞくぞくと寒くなるのを覚えた。

 新田先生の指が動くと、時計の針は、またぐるぐると廻って、やがてまた、ぼうん、ぼうんと、あやしい音を立てて鳴り出すのであった。

「ああ先生! 新田先生!」

 と、千二は、先生の後から、呼びかけてみたくなった。でも、どうしたわけか、のどから声が出なかった。

 第二の柱時計は、続いて、ぼうん、ぼうんと鳴りつづける。そうして、ついに八時をうってしまった。

 その時、何思ったか新田先生は、後を向いた。

「おお、千二君。よく注意しているかね。さあ、この次は、いよいよ問題の九時をうたせるから、君は、おへそに、うんと力を入れておいでよ、ね」

 千二は、返事をするかわりに、無言でうなずいた。

「さあ、いよいよ始るぞ。九時をうたせても、鼠一匹出て来なければ、ことごとく先生の失敗に終る!」

 荒鷲の巣へしのびよって、巣の中の卵へ、いよいよ手を、にゅっとのばした猟師のように、新田先生の顔は、一生けんめいな気持で真赤になっていた。

 ぼうん、ぼうん、ぼうん……

 いよいよ柱時計は九時をうち出した。

 すると、新田先生は、急に、梯子から、どかどかと下りた。そうして、時計の下の壁ぎわにぴったりと体をよせ、なおも鳴りひびく怪時計の音に、注意ぶかく聞入った。

 ぼうん! ついに時計は、九時をうち終った。

 その時、柱時計の下で、壁にぴったりと、からだをよせている新田先生のはげしい興奮の顔!

 また入口の扉を背にして、何事が起るかと、目をみはっている千二少年の顔!

 ぎいーっ、ぎいーっ。

 床下にあたって、歯車か何かが、きしる音!

「ううむ……」

 と、新田先生はうなった。

 ぎいーっ、ぎいーっ。

「あっ、床が……」

 千二は、思わず驚きの声をあげた。

「しっ!」

 新田先生が、叱りつけるように叫んだ。そうして、両眼を皿のようにして床を見つめている。

 見よ! 床が、動いているのだ!

 秘密室の床が、真中のところで二つに割れて、しずかに左右に分れていく。そうして、その間から、まっくらな床下の穴が見えて来た。だんだんと、そのまっくらな四角な穴は広がっていく。

 千二少年は、息をつめて、それを見ていた。なぜこうして、床が、動きだしたのであろうか。

 新田先生は、ついに、二つの柱時計の謎をといたのだった。一方の時計を三時までうたせ、それからもう一方の時計を九時までうたせると、それが組合わせになって、この床を左右に開く仕掛が働き出すのであった。つまり、そのように二つの時計を鳴らさせるということは、錠前を鍵ではずしたことにもなり、また、床を動かす仕掛のスイッチを入れることにもなるのだった。これが蟻田博士が、この部屋に仕掛けておいたすばらしい秘密錠なのだ。

 動いて、割れる床!

 蟻田博士の秘密室には、こんな思いがけない仕掛があったのだ。博士は、床に錠前をかけておいたのでは、合鍵などをつかって人にあけられるのを恐れるあまり、こうした暗号のような仕掛をつくっておいたのだ。

 床は、いつしか、動かなくなった。ぎいーっ、ぎいーっという歯車のきしる音も、今は聞えなくなった。そうして、だだっぴろいこの秘密室の床の上には、まん中のところに、ぽっかりと四角な穴が取残されていたのであった。

 新田先生は、しずかに、柱時計の下から体を動かして、壁にそって、千二のところまで、ぐるっとまわって来た。

「どうだ、千二君。さぞ驚いたろうね」

 新田先生は、千二が、どんなにびっくりしたかと、それが心配になって、やさしくそばへ近よったのであった。

「ああ、先生。僕、大丈夫です。けれども、あまり思いがけないことが起ったので、はじめは胸がどきどきしました」

「そうだろうね。あの柱時計が、たいへんな仕掛になっていたのだ。とうとう床がひらいたよ。博士は、なかなか用心ぶかい」

「先生、床の下には、何があるんでしょうか」

「さあ、何があるか、先生には、まだよくわからない。とにかく、下をのぞいてみよう。千二君、君はついて来るかね。それとも、ここに待っているかね」

 先生は、千二の気持をたずねた。

「先生、僕は、先生の、おいでになるところなら、どこへでも、ついて行きますよ。つれて行って下さい」

「行くかね。そうか。大丈夫かね」

「先生。僕は、もう火星の化物でも何でも、恐しいなんて思いません。どこまでも戦うつもりです」

 たしかに、千二少年は、昔の千二少年とはちがって、強くなったようだ。

 火星のボートにつれこまれたり、怪人丸木にいじめられたりしている間に、彼は、だんだん勇気が出て来たのだ。そうして、世の中をさわがす怪しい物の正体を、どこまでもつきとめたいという気持で、はりきっていた。

 ことに、自分の先生である新田先生が、わざわざ学校をやすんで、千二のことを心配して、一生けんめいにやっていてくださることを知った時、千二は、自分もまた先生の親切にむくいるため、しっかりしなければいけないと、決心したのであった。

「先生、じゃあ、勇敢に、床下の様子を、さぐって見ましょう」

「ほう、千二君。ばかに元気だなあ」

 と、新田先生は、感心の言葉を洩らして、

「だが、もうそのうちにへ蟻田博士が、かえって来そうだから、早いところ、床下を探検して見よう。なるべく、足音を忍ばせ、先生のうしろについておいで」

 新田先生は、千二の肩に手をおいて、はげますように言った。

 さあ、柱時計の暗号鍵によって開かれた床下には、一体何が秘められているのであろうか。

 二つに左右に割れた床の穴に近づいて、下をのぞくと、そこには古びた木製の階段がついていた。懐中電灯をつけて、その階段の下の方を照らして見たが、光がよわくて、よく見定めることが出来なかったが、とにかく階段は、かなりはるか下までつづいているようだった。

 先生は、先になって、その階段を踏み、しずかに下りはじめた。古びた木製の階段は、ぎちぎちと音を立てた。

 この階段は、大きな煙突の中に仕掛けてあるようなかっこうをしていて、まわりは、厚い壁でとりかこまれていた。だから、ちょっと靴の先が階段の板にぶつかると、とても大きな反響がした。



22 怪動物



 真暗な階段を、新田先生と千二少年とは、足音をしのばせつつ下りていく。

 その階段は、なかなか長くつづいていた。まるで、ふかい井戸の中にはいっていくような気がした。千二少年は、あまりいい気持ではなかった。

 先に立って、懐中電灯を光らせていた新田先生が、この時、ふと足をとめた。

(おや先生が、立止った!)

 と、千二は、すぐ、それに気がついた。

 その時、先生の手が、千二の肩を、静かにおさえた。

(動いてはいけない。静かに!)

 と、先生の手は、言っているようだった。

 千二は、もちろん、動かなかった。そうして、これは何事かがあるのだと思ったので、耳をすまして、先生の合図をまった。

「おい、千二君。君には、聞えないかね」

 新田先生が、千二の耳もとに口をつけて言った。この井戸の中のような階段にはいって後、始めてのことばである。

「えっ、聞えないか──とは、一体何が?」

 千二は、自分の耳に、全身の注意を集めた。

「ああ、──」

 千二は、その時、思わず、低く叫んだのであった。

 何か、聞えるようだ。

 気のせいかと思うが、そうではない。何だか、口笛を吹いているような音が、地底ちていから、聞えて来るのだった。

「先生、僕にも聞えます。口笛を吹いているような音でしょう」

「そうだ」

 先生のあつい息が、千二の耳たぶにかかった。

「おい千二君。あの音は、一体、何の音だろうね」

 ひゅう、ひゅう、ひゅう。

 地底から、かすかに響いて来るその気味の悪い怪音は、一体、何であったろうか。

 ひゅう、ひゅう、ひゅう。

 誰かが、地底で、口笛を吹いているように聞える。

 だが、まさか、こんな地底に、人間がいるとは思われない。

 では、機械の音ででもあろうか。

 新田先生と千二とは、よりそって、なおもその怪音に聞入った。

「千二君、機械の音にしては、何だかへんだね。だって、早くなったり遅くなったりするようだよ」

「そうですか。機械の音でないとすると、何でしょうか」

「どうも、わからない」

 と、先生は吐きだすように言った。

「もし、地底に、誰かがかくれているのだったら、われわれは今、たいへんあぶないことをやりはじめたことになるのかも知れない。と言って、せっかくここまで来たのだから、このまま引きかえすのも残念だ」

 新田先生は、どうしようかと困っているらしい。

「先生、やっぱり、下へおりてみようではありませんか」

 と、千二は、勇敢に言った。

「下へおりると言うのだね。よし、そんなら、行ってみよう。さらに一そう用心をしておりて行くのだよ」

 それから二人は、さらに足音を忍ばせて階段をおりて行った。

 すると、階段がき、二人はしめっぽい土のうえにおりた。

 懐中電灯の光でさぐってみると、あたりは、なかなか広い。それだけに、気味の悪さは、一そう加わった。

「おお、あの見当だ。おや、ぽうっとあかりが見えるぞ」

 暗い廊下の奥に、穴でもあるらしく、下からぽうっと、光が天井の方へ映っている。

「何の光であろうか?」

 新田先生と千二とは、やっと並んで歩けるほどの、狭いその廊下をしのび足で、奥へ前進して行った。

「這って行こう」

 先生の注意で、千二も、しめっぽい土の廊下に腹ばった。

 ひゅう、ひゅう、ひゅう。

 ひゅん、ひゅん、ひゅん。

 奇妙な笛みたいな音は、だんだん大きくなって来た。

 千二は、その音を聞いているうちに、いつか、どこかで、そのような音を聞いたことがあるような気がして来た。

(はてな! 一度聞いたことがあるようなあの音? どこだったかなあ)

 新田先生は、ぐんぐん前進して、ついに腹ばいのまま、穴のふちのところまですすみ寄った。さすがに、これから先は、先生もよほどの覚悟をもってのぞまなければならない。先生は、その覚悟をつけるためか、二、三度大きい息をした後、思い切って、穴の方へそっと頭をさしのべた。今こそ、穴の中の光景が、見えるところへ来たのである。

 さあ、先生は、穴の中に一体何を見たであろうか。

(ああ──)

 先生は、石像のように、固くなった。大きなおどろきが、先生をそうしてしまったのである。

 見よ! 穴の中には檻が見えた。

 その檻の中には、何やら暗いなかにうごめくものがあった。

 ぽうっとうす桃色に光っているが、先生が、その怪しいうごめく物の形を、はっきり見きわめるには、かなり手間がとれた。

(ああ、不思議な動物だ! 見たこともない怪しい動物だ! 一体、あれは何であろうか!)

「見たか、千二君」

 と、新田先生は、千二を後から抱きながら、おどろきを伝えた。

 千二は、無言で、うなずくばかりであった。

 うすぼんやりした光を放っているその怪物は、何だか大蛸おおだこのようなところがあった。頭がすこぶる大きくて、目玉がとび出しているところは、蛸そっくりであった。

 だが、蛸とは似ていないところもあった。それは、その大きな頭の上から、二、三本の角みたいなものが出て、それがしきりに動いていることだった。いや、角というよりも、蝶や甲虫などの昆虫類が頭部に持っている触角に似ていて、しきりにそれが動くのであった。

「不思議な動物じゃないか」

 新田先生は、たいへん感心して、はじめに感じた恐しさを、どこかへ忘れてしまったようであった。

 千二は、やはりうなずくばかりであった。

 その怪物は、はじめ床の上に、ぐにゃりとなっていたが、しばらくすると、むくむくと立上った。そうして、ぶらぶらと室内を歩き出したものである。

 その時、また奇怪なことを発見した。その動物には、人間や獣にあるような胴というものが見当らなかった。いや、胴はあるにはあるがたいへん細く、そうして短く、枕ぐらいの大きさもなかった。

 足はあった。その足を使って怪物は立上り、床の上をゆらゆらと動いているのだった。

 その足のまわりに、長い手のようなものがぶらぶらしているのが見えたが、その長い手はむしろ、蛸の八本の足に似ていて、ぐにゃぐにゃしていた。しかし、ずいぶん細い手であった。

 細いのは手だけではない。足もまたひょろ長いが、乾大根のように細い。

「どうも、不思議な動物だ」

 と、新田先生は、低くささやいた。

「熱帯地方にいるくも猿は、手や足がたいへん長い。胴は、ほんのぽっちりしかないように見える。だから、くも猿かしらんと思ったが、そうでもなさそうだ」

「先生、やはり大蛸ではないのですか」

 千二は、やっと、自分の考えを言ってみた。蛸とはちがったところがあるが、しかし、蛸に一ばんよく似ているのであった。

「そうだね。蛸と思えないこともないが、蛸にしては、檻の中で、あんなに活発に生きているのが変だね。何かあれに似たものがいたが、はて何であったろうか」

 と、新田先生は、しばらく考えていたが、

「ああ、そうそう。これは熱帯地方にあるものだが、たこの木という植物がある。これは、今見えているあの怪しい動物のように、小さいものではなく、大きな木だけれど、そのたこの木のかっこうが、どこやらあの動物に似ている」

「先生、今下に見えているのは動物ですねえ。そのたこの木は、植物なんでしょう。たこの木と言っても、動けないのでしょう」

「もちろん、そうだ。地面に生えている大きな木だから、動けるはずはない。千二君、先生は、形のことだけを考えて、たこの木に似ていると言ったんだよ」

 いくら考えても、この不思議な動物の正体は、わかりそうもなかった。

「ああ、先生」

 と、その時千二が叫んだ。

「何だい、千二君」

「先生、一ぴきだけかと思ったら、まだ奥の方に、もう一ぴきいますよ」

「なに、二ひきだって。どれどれ」

 檻の奥の、うす暗いところを見ると、なるほど、もう一匹の怪しげな動物が、眠っているのか、丸くなっている。

 地底にうごめく二匹の怪しい動物!

 新田先生と千二とは何だか、夢を見ているような気がしてならぬ。

「ねえ、千二君。あの動物のそばへよって、もっとよく見たいものだね」

「ええ」

「どこか、そのへんに、下りるところがあるのではないか。さがしてみようよ」

「ええ」

「ああ、千二君、こわければ、先生について来なくてもいいよ」

「いえいえ、僕、一しょに行きます。しかしねえ、先生。あの怪しい動物は一体何でしょうか。先生は、すこしも、見当がついていないのですか」

 千二は、熱心にたずねた。

「まだ、わからない。全く、わからない」

「そうですか」

 と、千二は、ちょっと考えていたが、

「実はねえ、先生。僕はさっき先生が、穴の中にへんな動物がいる、と言われたので、のぞきましたね。その時、僕は、それは火星の動物じゃないかしらと思ったのです。つまり、いつか、火星のボートに残っていた、怪しい奴のことを思い出して、また、あれと同じかっこうをした奴ではないかと思ったんです」

「うむ、うむ。それは、なかなかいいところへ気がついた。それで……」

「それで、穴の中をのぞいて、よく見たのですが、違っていました」

「違っていた?」

「そうです、たしかに、違っていました。火星のボートに乗っていた奴は、僕と組みうちしたことがありますが、それは体が、たいへん固いやつでした。まるで、鉄管のような固い体を持っていました。それから、大きさも、ずっと大きいやつでした」

「ふうむ、そうかねえ」

 先生は、小首をかしげた。

 新田先生と千二少年とは、あくまでも、その地底の怪物の正体をつきとめる決心をして、穴の中へ下りていく道を探した。

 ところが、その道は、どこにあるのか、なかなか見つからなかった。

 そんなことで、まごまごしていた二人は、とうとう、かなりの時間を費してしまった。

 もちろん、新田先生は、蟻田博士がやがてかえって来るだろうから、早くこの地下室を引上げなければならないと思っていたのであるが、ふと気がついてみると、もうぐずぐずしておられないほど、時間がたったことがわかった。

「千二君。もう、ここを引上げよう。ぐずぐずしていて、蟻田先生に見つかると、たいへんなことになるから……」

「ええ、わかりました。でも、残念ですねえ。もっと、あの怪物をよく見たいのですが」

「仕方がない。この次のことにしよう」

 二人は、ふたたび例の狭い階段の下へ来た。そうして、千二少年が先に、先生がその後からついて、その曲った階段をのぼって行った。

「おや」

 先に立って階段をのぼって行く千二が、とつぜん叫んだことである。

「どうした、千二君」

「先生、どうも、へんですよ」

「何が、へんかね」

「だって、階段をのぼりきったところは、天井で、ふさがっているんです」

「天井で、ふさがっているって。それはどういう意味かね。この階段の上には、さっき僕たちがはいった床の割目があるはずだ」

「それが、ないのですよ」

「なにっ」

 先生は、驚いて、懐中電灯を上に向けた。なるほど、これはへんだ。階段の口は、いつの間にかしまっていた。



23 国際放送



 日本時間で言えば、その日の真夜中のことであるが、ロンドンとベルリンとから、同時に、驚くべき放送がなされた。

 ロンドンでは、時の王立天文学会長リーズ卿がマイクの前に立ち、また一方、ベルリンでは、国防省天文気象局長のフンク博士がマイクの前に立った。

 この二人の天文学の権威ある学者は、一体何をしゃべったのであろうか。不思議なことに、二人の話の内容は、はんこでしたように同じであった。違っていたのは、

「わが英国民諸君、および全世界の人類諸君よ!」

 というリーズ卿の呼びかけの言葉と、

「わがドイツ民族諸子、および全世界の人類諸君よ!」

 というフンク博士の呼びかけの言葉だけだった。

「ああ、諸君。本日ここに、諸君を驚かすニュースを発表しなければならない仕儀となったことを、予は深く悲しむものである。諸君よ、諸君が今足下に踏みつけている地球は、遠からずして、崩壊するであろう。従って、わが人類にとって一大危機が切迫していることを、まず何よりも、はっきり知っていただきたい」

 と言って、ここで講演者は言いあわせたように、しばし言葉をとどめ、

「なぜ、われわれの地球が崩壊しなければならないか、それを語ろう。わが太陽系は、非常な速力を持ったモロー彗星の侵入をうけている。われわれは、本日念入な計算の結果、わが地球が、このモロー彗星との衝突を避け得ないという、真に悲しむべき結論に達した。われわれは、直ちに善後策の研究をはじめたが、如何なる有効な損害防止方法が発見されるか、それは神のみ知ることである。ちなみに、モロー彗星との衝突は、来る四月の初である」

 講演者の声はふるえていた。

 ロンドンとベルリンとからの驚くべきニュース放送は、まだつづいた。

「われわれは、近くこの対策について、国際会議を開くつもりで、もうすでにその仕事を始めた。八十億年のかがやかしい歴史の上に立つわれわれ地球人類は、今こそあらんかぎりの智力をかたむけて、やがて来らんとする大悲劇に備えなければならない!」

 マイクの前の講演者は、ここで、一きわ声をはりあげた。

「われわれは、決して、悲しんでばかりいてはならないのだ。この非常時において、何かのすばらしい考えが飛出さないものでもない。そうして、大悲劇をいくぶんゆるめ、たとい地球が崩壊しても、幾人かの幸運者は、後の世界に生残るかもしれない。われわれのゆく手は、全く暗黒ではないと思うから、この放送を聞かれた方々は、大いに智慧をしぼり、いい考えが出たら、私のところへお知らせねがいたい。お知らせ下さった避難案は、われわれの会議にかけ、よく研究してみるであろう」

 と、ひろく一般から、来るべき災難をさける方法をつのり、おしまいに、

「わが愛する地球の全人類よ。どうか、最後まで元気であれ。そうして、人類の恥になるようなことはしないように」

 と、言葉を結んだのであった。

 驚くべきニュースであった。

 一般の人々にとっては、まさに寝耳に水をつぎこまれたような大きな驚きであった。

 地球が、近く崩壊するのだ!

 モロー彗星というやつが、われわれの住んでいる地球にぶつかるのだ!

 大宇宙におけるその衝突は、来る四月だ!

 この放送を聞いた人は、はじめはとても信じられなかった。これはラジオドラマの一節じゃないかと、幾度もうたがってみたのであるが、不幸にも、それはラジオドラマでないことが、だんだんはっきりして来た。

 ロンドンとベルリンとから放送された地球崩壊の警告講演は、もちろん地球の隅々にまでも達した。

 その国際放送は、すぐさま録音せられ、そうして自国の言葉に訳され、時をうつさず再放送されたのであった。

 新聞社は、驚くべき手まわしよさで、このことを号外に出した。

 各国市場の株は、がたがたと落ちた。

 銀行や郵便局には、貯金を引出す人々が押掛けて来て、道路は完全にその人たちによってうずまった。自動車も電車も、みな立往生である。

 わりあいに落着いて、パイプを口にくわえて、この有様を見ていた老いたイギリス人が、がてんがいかないという風に首をふりながら、

「あいつら、何をさわいでいるのか、わしには、とんとわからん。地球がこなごなにこわれてしまうものなら、いくら札束を持っていても何にもならんじゃないか」

 すると、そばを通りかかったアメリカ人らしい若者が、

「おじいさんには、わからないのかね。僕は、銀行にあずけてある金を全部引出して、さっそく大きい風船をつくるのだ。ガスタンクほどもある大きいやつをね」

「ほほう、そうかね。そうして、その風船をどうするのかね」

「つまり、彗星が地球に衝突すると、地球が、こなごなになるでしょうがな。とたんに僕は、その大きな風船にぶらさがるのさ。すると、足の下に踏まえていた地球がなくなっても、僕は安全に宇宙に浮かんでいられるというわけさ」

 若者は、とくいになって言った。

「そうかね。それもいいが、わしは、彗星が地球にぶつかる時、お前さんの風船だけを残していかないだろうと思うんじゃが……」

 と老人が言うと、若者は、な、なあるほどと言って、とたんに腰をぬかしてしまった。

 モロー彗星が地球に衝突するという放送ニュースは、日本の国際無電局でもアンテナにとらえることが出来た。

 その驚くべきニュースは、事柄が事柄だけに、一時発表がとめられた。そういうことをいきなり発表すると、国内の人々がどんなに驚き、そうして騒ぎ出すかも知れなかった。また、そのようなニュースが、あるいは嘘であるかも知れないので、ともかくも、よく調べた上にしなければならないと、当局者は考えたのである。

 それで、この驚くべきニュースは、まずわが国の、一ばんえらい天文学者の集っている学会へ知らされ、ほんとか嘘か、これについて問合わせがあった。また一方では、警視庁のようなところへも知らせがあって、騒ぎの起らないように注意をするようにと、上からの命令があった。

 大江山捜査課長のところへも、すぐさま知らせがあった。課長は、ちょうど、麻布の崖下で、崖から落ちた例の自動車事故の事件について、夜もいとわず、怪漢の行方について取調をしているところだったが、この驚くべきニュースを受けると、現場はそのままにして、急いで本庁にもどった。

「課長、さっきから、面会人が待っておりますが……」

 と、部下の刑事巡査が、外から帰って来た課長の姿を見るなり、言ったことであったが、課長は、気ぜわしそうに首を振ると、

「ううん、面会人なんか後だ。それどころじゃない。まず、大変な事件の報告を聞くのが先だ」

 と言って、奥の総監室に姿を消した。

 総監は、真夜中にもかかわらず出て来ておられた。これは、それほど大きい事件であった。

 何の打合わせがあったかわからないが、それから三十分ほどたって出て来た大江山課長の顔色は、いつになく、朱盆のように赤かった。

 総監室を出て来た大江山課長は、たいへん興奮のありさまであった。

 彼は、すぐさま自分の席にとって返すと、首脳部の警部たちを集めて、何ごとかを命令した。すると、その首脳部の警部たちは、共にうなずいて課長の前を下った。どの人の顔も緊張しきっていた。警部たちは、そのまま外に出て行った。

 だんだんと、モロー彗星事件の波紋は広がって行く。警部たちは、まためいめいに自分の部下を集めて、鳩のように首をあつめ、何事かを伝えた。

 それから、電話掛と無電掛がたいへんいそがしくなった。驚くべき警報と、何事かの密令とが、方々にとんで行ったのである。

 そのうち、警官たちは一隊又一隊、剣把をとってどやどやと外に出て行った。庁内は、もう胸くるしいほどの緊張した空気で、満ち満ちていた。

 その時、課長室の扉があいて、大江山課長が、顔を出した。

「おい、佐々刑事はいるかね」

 机の上で電話をかけていた掛長が、

「いや、ここにはおりません」

「どこへ行ったのか、君は知らんか」

「はい、佐々君は、やはり麻布の崖の下で、警戒と捜索にあたっているはずであります」

 課長は、なるほどとうなずき、

「そうか。電話をかけて、すぐ彼に帰って来いと、言ってくれ」

「はい、かしこまりました」

 課長が、また室内に引きこもうとすると、当番の刑事巡査が飛んで行って声をかけた。

「課長。あの面会人ですが、いつまでおれを待たせると言って怒っていますが……」

「ああ、面会人だ。どこの誰かね、その気の短い面会人は?」

蟻田ありた──だと、申していました」



24 博士怒る



 モロー彗星が、わが地球に衝突する──という国際放送を受けて、にわかに、色めき立ったわが警視庁!

 その騒ぎの中に、大江山課長をたずねて来た蟻田博士が、あまり待たされるので、とうとうおこり出したという知らせであった。

「おお、蟻田博士だったのか、その面会人は……」

 と、課長も大へん驚いたが、

「そうだ、ちょうどいい。博士に、すぐ会おう。今、すぐお目にかかるからと、そう言ってくれ」

 と言えば、課長の前にかしこまっていた取次の刑事巡査は、ほっとした面持で、

「はい、そう申します。いや、どうも、あの蟻田博士という人は、扱いにくい人で困りましたよ」

 と言って出て行ったが、間もなく入口のところで、その巡査の言争う声が聞えた。

「もし、蟻田博士、困りますなあ。こっちへ、はいることはなりません」

「いいやかまわん。大江山氏がすぐに会うというのだから、わしの方で、はいって行くのは、一向かまわんじゃないか」

「だめです、博士。応接室でお待ち願います」

「おうい、まあいい、博士をこっちへお通し申せ」

 博士は、相変らずなかなか強情であった。白髪あたまをふりたてて、つかつかと大江山課長の前に近づくなり、

「おお、大江山さん。留置場にいる千二という少年に会いたいのだ。すぐ会わせてくれたまえ」

「千二少年ですか。彼は……」

 と言いかけて、

「博士は少年に何用ですか」

「うむ、千二が、一しょにつれになっていた丸木という怪漢について、話を聞きたいのだ」

「丸木? 博士は、丸木について、何をお知りになりたいのですか」

 と、大江山課長は、博士を怒らせないように、ていねいな言葉でたずねた。

「そんなことを、君たちに言ってもわからんよ。早く千二少年に会わせてくれ。その上で、君たちは、わしたちの話を、よこで聞いておればいいじゃないか」

「それでもけっこうです。が、博士。あの丸木という奴は、一体、何者なんですかねえ」

「丸木は、一体何者だと言うのか。ふふん。君たちは、わしを変だと思っている。だから、わしが言って聞かせてやっても、一向それを信じないだろうから、言わない方がましだよ」

「いえ、博士。ぜひとも教えていただきたいのです。私は、今までたいへん思いちがいをしておりました。博士に対して、つつしんでおわびをいたさねばなりません」

 課長は、そう言って、頭を下げた。

 すると博士は、びっくりしたように、目をみはったが、やがてにやりと笑い、

「ふふん、そういう気になっているんなら、まだ脈があるというものだ。だが、今さらわしが話をしてやっても、君たちに、どこまで、わしの言うことを信じる力があるかどうか、うたがわしいものじゃ」

「博士。私は、しんけんに、お教えを乞います。あの丸木という人は、何者なんですか」

「あの丸木かね。あれこそ、火星兵団の一員だよ」

「えっ、火星兵団の一員?」

 よくやく博士から釣りだした答えであったけれど、課長は、事の意外に、思わず大きなこえで反問した。

「そうだとも。火星兵団のことについては、ずっと前に、わしが君たちに警告した。そうしてわしは変だと言われたが、丸木こそ、その一員にちがいないと思うのだ」

 博士は、たいへんなことを言出した。

(丸木という怪人こそ、火星兵団の団員だ!)

 蟻田博士は、大江山課長の前で、そのように言切ったのだった。

 火星兵団──というのは、さきに蟻田博士が宇宙からひろいあげた言葉であった。そうして、蟻田博士は、そのことを放送したため、大事件を起したことは、読者も知っておられる通りである。だが、大江山課長は、この火星兵団のことをちょっと忘れていたかっこうだ。今、博士の口から、火星兵団という言葉を聞いて、はっと思い出したのであった。

(そうだ。この蟻田博士が、いつかこの火星兵団のことで、ばかばかしい警告放送をやったことがあったが……)

 大江山課長は、火星兵団のことを、前の時のように、今もばかばかしいと、片附けるわけにいかなくなった。先ほど警視総監の前で、モロー彗星が、やがて地球に衝突すると聞いてからは、宇宙というものを、あらためて見なおさないわけにはいかなくなったのだ。

 昨日までのわが捜査課は、主として日本内地だけをにらんで仕事をしておればよかった。ところが、今日からは、大江山課長は、地球の外に果てしなくひろがる大宇宙にまで目を光らせなければ、すまないことになったのである。

(火星兵団? そうだ。これをあらためて考えなおす必要がある!)

 しかも、課長の驚きはそればかりではない。蟻田博士は、火星兵団員というものがあると言放ったのだ。そうして、この間から、捜査課をあげて、みんなで手わけして大童おおわらわで探しているあの怪人丸木が、その火星兵団員だという蟻田博士の言葉は、二重三重に大江山課長を驚かせ、そうして、彼のあたまを、ぼうっとさせてしまった。

「ふうん、たいへんなことになった」

 と、課長はとうとう本音をはいた。

「早く千二少年に会わせて下さらんか」

 と蟻田博士は、白い髭の中から唇を動かした。

「ええ」

 と、大江山課長は返事をしたが、千二少年は、もうこの警視庁にはいないのである。

 そのことを博士に言うと、博士はたいへん怒った。

「じょうだんじゃない。さっきから、千二少年に会わせてくれと言っているのに、いないならいないと、なぜ早く教えないのか」

 これには、課長もまいった。博士の怒るのは道理であった。だが課長としては、自分が今困っている問題につき、博士から一刻も早く知識をすいとりたかったのである。それは課長の利益だけではなく、広く日本人のためになることでもあったから、そうしたのである。はじめから、千二はいないと答えれば、博士は、そうかと言って、そのまま帰ってしまったであろう。でも博士の怒りは、なかなかしずまらなかった。

「うーん、けしからん。君たちはいつでもそうだ。このわしを、だましては喜んでいる」

「博士、それは違います。警察官がだますということは、ぜったいにありません。どうか、考えちがいをしないように願います」

「いや、いつもわしをだましているぞ。この後は、君たちが何を聞いても、わしはしゃべらないぞ。そうして、わしはわしで勝手に思ったことをする」

 博士は、いよいよきげんが悪い。ステッキをにぎつている博士の手は、ぶるぶるとふるえて、今にも課長の机の上の電話機を叩きこわしそうである。低気圧がやって来たようなものだ。

 これには、さすがの課長も困ってしまった。が、ふと思いついた一策!

「蟻田博士。あなたに、おもしろいものをごらんに入れましょう」

 博士は、おこってしまって、席を立ちかけたところだった。そこへ、とつぜん課長から声をかけられたのだった。

「おもしろいものを見せるって?」

 博士は、その言葉にすいつけられたように、後へかえりかけたが、

「いや、もうその手には乗らないぞ。わしは、もう君たちとは会わんつもりだ」

 課長は、博士の言葉にはかまわないで、後にあった金庫をあけて、一つの長い箱を持出した。

「博士、さあ見て下さい。これは、火星の生物が落していったものです。一体、これは何だと思いますか」

 課長が箱の中から取出したものは、いつか千葉の湖畔でひろって来た不可解な、むちのようなものだった。課長には、それが何であるか見当がつかなかった。また、課員に見せて智慧をしぼらせたがやはりわけがわからない。

 仕方がないので、それを、鑑定してもらうため大学へ送ったが、あいにくその方の先生が旅行中で、鑑定が出来ないことがわかったので、ふたたび課長のところへもどって来たものだった。それを思い出したので、課長は、博士に見せることにしたのだった。

 蟻田博士は、その青い一メートルばかりの長いむちみたいなものを手にして、目を光らせた。そうして、さっき課長になげつけた言葉などは、もうわすれてしまったかのように、このめずらしい品物を、どこでひろったのかなどと、いろいろと課長にたずねるのであった。課長は、博士のきげんがなおったので、このところ大喜びだった。そうして、いろいろと説明した。博士は、大きくうなずき、

「ふむ、これは実にたいしたもんじゃ」

 と、いすの上にこしを下した。

 蟻田博士が、ひどく感心した顔で、

(これはたいしたものだ!)

 と言った長さ一メートル余りの、むちのようなものは、一体何であったろうか。

 それを箱から出して、博士の目の前へ押しやった大江山課長は、博士のまたたき一つさえ見おとすまいと、じっと見つめているのであった。

「いかがです、博士。これなら博士をおひきとめした値打はあったでしょう」

 博士は、ふんふんと、ただ間に合わせの返事をしながら、その青いむちのようなものを、しきりにひっくりかえして見ていた。やがて博士は、その一方のはしが、すこし太くなっているところへ、指先をあてて、押したり、離したりしはじめた。

 すると、どうかした拍子に、その青いむちのようなものが、ほんのわずかではあったけれど、半殺しのへびのように、ぴくぴくと動いた。そうして先の方がくるると円く輪になった。

「ほう、こいつは大発見だ!」

 博士は、熱心をおもてにあらわして、なおもさかんに指先でいじりまわしたが、一度蛇のように動いた後は、二度とそんなに動かなくなった。

 大江山課長は、さっきから博士のじゃまをしないようにと思い、さしひかえていたが、もうがまんが出来なくなって、

「博士、その珍品ちんぴんは一体、何に使うものだかおわかりですか」

 と、せきこんで聞けば、博士は無言で、首を左右にふるばかりだった。

「博士、なぜ教えて下さらないのですか。博士には、おわかりになっているはずだと思うのに……」

 大江山課長の言葉に、博士は、はじめてそのむちのようなものから目を上げ、

「わしにも、さっぱりわからないのだ。わしはこれを研究してみたいと思う。どうだろう、これをもらって行っていいかね」

「いえ、それはだめです。持って行ってはいけません」

 大江山課長は、博士の手からその青いむちのようなものを、うばうように受取って、すぐさま箱の中に入れてしまった。

 博士は、気のどくなくらいがっかりして、

「たった一日でいいが、貸してくれんか」

「いや、だめです」

「じゃあ、もう十分か二十分か見せてくれんか」

「だめです。お断りします」

「そんなら、ぜいたくは言わない。もう五分間見せてくれ」

 課長は博士の頼みをあくまでもしりぞけた。そうして箱にふたをしてしまったけれど、箱を元の金庫にしまうことはしなかった。

「ねえ、博士」

 博士は、箱をじっと見つめて、よだれをたらさんばかりであった。返事もしない。

「ねえ、博士。さっきあなたは国際放送をお聞きでしたか。地球がモロー彗星に衝突するという……」

 課長のこのだしぬけの質問は、博士を驚かせるに十分であった。

「なに、地球がモロー彗星に? そんなことは、わしには前からわかっていたが、誰がそんなことを君の耳に入れたのか」

「国際放送ですよ。ロンドンとベルリンとからです。どっちもりっぱな天文学者が放送しました」

「ふうん、そうか。あいつらもやっと気が附いたとみえるのう。それで、わが日本では、誰が放送したのかね」

「まだ誰も放送していません」

「なぜ放送しないのかね。号外は出たのかね」

「いや、どっちも今、報道禁止にしてあります。そんなことを知らせては、どんなさわぎが起るか、大変ですからね」

 課長は、ほんとうに心配そうな顔をして、そう言った。

「そんなことは、一刻も早く、全国の人々に知らせるのがいい。かくしておくのは、かえってよくない」

 地球とモロー彗星とが、やがて衝突するであろうというニュースを、博士はすぐさま人々に知らせよと言う。

「もちろん、いずれ知らせますが、その前に、我々は、十分責任のある用意をしておかなければなりません」

 と、大江山課長は言う。

「責任のある用意とは?」

「それは、つまりその恐るべきニュースを聞いて、あばれ出す奴が出たら、すぐ捕えてしばり上げる用意をすることです」

「そんなつまらんことを、心配するには及ばないだろう。もっと大事な……」

「そうです。我々はそれも考えています。第二の用意は、その衝突が果してほんとうに起ることかどうか、それをたしかめなければなりません」

「よくよく、ばかばかしいことを考えたもんだ。それよりも、もっと……」

「まあ、お待ちなさい。我々の第三の用意は、もしほんとうに衝突が起るものとすれば、何とかして衝突しないですむ方法はないかと、それを研究すること」

「泥棒をとらえて縄をなうというのは、このことだ。ばかばかしい」

「いや、我々は、すべてのことに手落があってはならないのです。第四の用意としては……」

「第四の用意? ずいぶん用意をするのだねえ」

「そうです。第四の用意は、もし衝突が起っても、我々日本人だけを死なさずに、何とか助ける方法はないものかどうか」

「雲をつかむよりむずかしい話だ」

「第五の用意は……」

「わしは、もうたくさんだ。ばかばかしくて、黙って聞いていられんよ」

 蟻田博士は、大江山課長の言うことを、一々だめだとやっつけた。

 だが、博士は、帰る帰ると言ってなかなか帰らず、課長の机の前で、もじもじしていた。

「課長。総監がお呼びです」

 一人の警官が、大江山課長を呼びに来た。課長はうなずくと、そそくさと自分の席を立って、向うへ行った。

 その課長の姿は、衝立ついたての後へ消えたが、そこで彼は、足をとどめた。課長を呼びに来た警官も、また、そこで足をとどめて、課長の顔を、興ありげに見た。

「課長。あの老人の写真をとるのですか」

「いや、今日のは、違う」

 課長は、よく、こんな風に自席を立ち、後に残った机の前の客を、知れないように写真にとらせることがよくあった。つまり、その時たずねて来た人の顔を、後のために、ちゃんと残しておく必要があるような時には、よくやる手であった。警官は、またその写真かと思ったのである。

 課長は、衝立のかげから、自席の方を注意している。

 その時、警官が課長の耳の近くに口をよせ、早口で言った。

「あっ、課長。あの老人が変なことをやっていますよ。いいんですか」

「ああ、いいのだ」

「あっ、課長の机の上にある箱の中から、何か長いものをひっぱり出しましたよ。大丈夫ですか」

「うん、いいのだ」

 いいのだ、いいのだと言っているうちに、蟻田博士のからだは、課長の机を離れた。そうして、戸口の方へ、早足で、つつうっと歩いて行く。どうやら、博士は逃げるつもりらしい。

「いいんですか、課長。あの老人は太い奴ですよ。課長の机の上から、何か盗んで行きますが、いいのですか」


 蟻田博士は、うまうまと、青い色のむちのようなものを、大江山課長の机上から盗んでしまった。それは、課長が、千葉の天狗岩の附近から拾って来た貴重な証拠物であった。

 不思議なことに、課長は、博士がそれを盗むところを見ていて、何もしないのであった。わざわざ博士に盗ませたようなものであった。一体、どうしたんだろう。

 博士の姿は、もう室内に無かった。

「課長、追いかけて、あの老人の襟首をつかまえて、連れもどして来ましょうか」

「いや、それにはおよばない」

「じゃあ、追跡しましょうか」

「いや、それも必要ないよ」

 と言って、課長は、衝立のかげから、ゆったりと姿をあらわし、自席へ帰って行く。

「なんだか、さっぱりわけがわかりませんなあ。課長さえよければそれでいいんですが、みすみす、庁内の現行犯のどろぼうを逃してしまうなんて、一体どういうわけなんですか」

 課長は、別に、それに対して返事はしないで、

「おい、どうした。まだ、佐々さっさは、帰って来ないのかね」

 と、佐々刑事のことをたずねた。

「佐々なら、もう、こっちへ帰って来るはずですが……」

 と、掛長が、席から立って来た。そうして課長に向かい、

「あの博士は、とうとうあれを持って行ったようですね」

 と言えば、課長は軽くうなずいた。

 そこへ、戸口が大きな音と共にあいて、佐々刑事がとびこんで来た。

「課長、帰って来ました。ところで、今、蟻田博士にすれちがったのですが、あの博士の様子が、いやにへんなんですがねえ」

「佐々。博士を追跡しろ。そうして、当分お前は博士を監視するんだ!」

 火星のボートが残して行ったと思われる、青い色のむちのようなものを、蟻田博士がさらって逃げた。大江山課長は、元気者の佐々刑事に、追跡して監視しろと命じた。

 佐々は、いまかけ上って来た階段を、またどかどかとかけ下りて、警視庁の玄関からとび出した。

 こっちは、課長のそばにいた当番の警官であった。佐々のとび出して行った戸口を、あきれたような顔で見送りながら、

「課長。佐々刑事は黙ってとび出しましたが、あれでいいんですか」

「何が?」

「つまり、博士の行方が、佐々刑事にわかっているでしょうか。博士はどこへ行ったか、もう姿は見えなくなっているはずです。どうも、あの佐々刑事と来たら、気が短く、早合点の名人ですからねえ」

「ああ、そのことか。そのことなら、彼のことだから何とかやるだろう」

 佐々は、玄関の外にとび出したが、博士の姿はもう見えなかった。

「しまった。どっちへ行ったのかしら」

 玄関を警戒していた同僚に、博士がどっちへ行ったかをたずねたが、誰も知らない。戸外をすかして見たが、街灯がほの明かるい路面には、夜更よふけのこととて、行人の姿は見えなかった。

「しまった」

 刑事は、案にたがわず、博士の行方を見失って、弱ってしまった。

 が、彼は、突然手をうった。

「そうだ。なあんだ、わかった、わかった」

 刑事は、急に元気になって、自動車を呼んだ。

「どっちへやるのかね」

 と、運転台の同僚が聞いた。

「麻布だ。蟻田博士邸へ直行してくれたまえ」



25 去らぬ足音



 話は変って、ここは、蟻田博士邸の地下室の中だ。

 新田先生と千二少年とは、階段の下に閉じこめられて、どうしてよいか困ってしまった。誰がどうして階段の上の蓋を、しめてしまったのだろうか。それをいぶかる折しも、二人の頭上に、こつ、こつと重い足音が近づいた。誰もいないはずの部屋に、人の足音がする! では、博士が帰ってきたのか? それとも、別の人であろうか。新田先生と千二少年とは、声をのんで、じっと足音のする頭上を見上げた。

 こつ、こつ、こつ、こつ。

 怪しい足音は、なおも頭の上を歩き続けるのだった。もし二人が、地下階段から床にのぼれば、待っていましたとばかり、二人の首っ玉をおさえるつもりのように思われる。

「先生、誰でしょう? この上を、歩いているのは?」

 千二は、新田先生のそばにすり寄って、低い声でたずねた。

「さあ、誰だろうか。先生もさっきから考えているんだけれど、よくわからない。博士が帰って来たのかも知れないが、それにしては、あの足音が、あまり響きすぎる」

「足音が響き過ぎるというと、どんなことですか。足音が怪しいのですか」

 新田先生は、うなずいた。

「千二君。よく耳をすまして聞いていたまえ。博士は、老人だよ。そうして体もたいして大きくないのだ。そのような老人にしては、あの足音は、あまりにどしんどしんと響き過ぎるのだ。まるで、鉄でこしらえたロボットが、足を引きずって歩いているようではないかねえ」

 千二は、それを聞いて、にわかに、薄気味が悪くなった。まさか、ロボットが!

 新田先生と千二少年は、だんだん不安になって来た。

 せめてその足音が遠くなるようにと、心の中にいのっていたが、意地わるく、その重くるしい足音は、いつまでたっても、二人の頭上から去らなかった。

「私たちを、いつまでも、この地下室に閉じこめて置くつもりなのだよ」

 先生はそう言った。足音は、同じところを、こつこつと、ぐるぐるまわりしているのだった。

「先生、僕たちは、どうなるのでしょうか」

 千二は、心細くなって、思わず、先生にひしと抱きついた。

「こうなれば仕方がない。あっさりと、あやまるより外ないだろうね」

「つまり、ここから、上に聞えるように、大きな声であやまるのさ。博士の留守に、地下室へもぐりこんだことを、すなおに、あやまるんだよ」

「残念ですねえ」

 先生は決心した。そうするより外に、やり方はないと思った。自分一人だけならいいが、千二少年を、いつまでもこんな気味の悪いところにおくのは、かわいそうだと思ったのだ。

 そこで、先生は、階段を上までのぼった。そうして右手を上にのばして、ふたの下から、どんどんと叩いた。

「あけて下さい。ここをあけて下さい」

 新田先生が、そう叫んだ時、頭上をこつこつと歩いていた足音は、にわかにぴたりととまった。

 だが、別に答えはなかった。

「早くここをあけて下さい」

 先生は、ふたたび、はげしく蓋を下から叩いた。すると、今度は、上から何かうなるような声が聞えた、と思つていると、階段上の蓋は、左右にぐうっとあきだした。

 蓋はあいたのだ。今こそ、外へ出られるようになった。

「さあ、おいで。千二君、早く……」

 と新田先生は、千二の手を取り、階段を上にかけ上った。さだめし、そこには博士が白い髭をぶるぶるふるわせ、大おこりにおこって、つっ立っていることだろうと思った。──ところが、それは思いちがいであったのだ。

「あっ、君は……」

 床の上におどり上った新田先生は、非常な驚きにぶっつかった。先生は、さっと体をひねると、自分のあとから出て来た千二を後にかばった。

「き、君は、何者だ! 生きているのか、死んでいるのか」

 いったい先生が目の前に見た相手というのは、何者であったろう。

 黒い長いマントを着た肩はばのいやに四角ばった怪物が、新田先生に向かい合っている。だが、その怪物には首がなかった。

 首のない長マントの怪人だ!

 さてこそ、新田先生は、「君は生きているのか、死んでいるのか」とたずねたのだ。

 その怪人は、獣のように低くうなるばかりで、口をきかなかった。

「向こうへ行け。ぐずぐずしていると許さないぞ」

 よわ味を見せてはたいへんと、新田先生は、はげしい声で相手を叱りつけた。

 が、その怪人は、べつに驚く様子もなかった。もっとも、首がないのだから、どんなことをしても顔色が見えないので、見当がつかない。

 先生は、千二の手を取って、怪人の前をすりぬけようとした。

 その時、首のない怪人は、黒いマントの下から、にゅうと腕を出した。そうして、あっという間に、千二の肩を、ぎゅっとつかんだ。おお一大事だ!

 蟻田博士邸の秘密室のまん中!

 とつぜん、新田先生と千二少年の前にあらわれたのは、首のない怪人! 先生が後に千二をかばうひまもなく、黒い長マントの怪人は、腕をのばして、千二の肩をむずとつかんだのである。さあ、たいへんなことになった。

 この怪人は、一体誰であろうか。

 あの自動車事故のあった崖下を、うろうろしていたあの怪人であった。そうして佐々刑事とたたかっている時、首をぽろんと落したその怪人であった。

 大江山捜査課長は、この怪人こそ、例の丸木であるにちがいないとにらんでいた。

 そのにらみに、まちがいはなかった。この怪人こそ丸木だったのである。

 一度は、千二をつれて銀座に案内させ、ボロンの壜をうばってにげた。二度目には、警視庁から出て来た千二を、日比谷公園のそばに待受けていて、むりやりに自動車に乗せてしまった。そうして、交通掛の警官においかけられたが、ついに麻布の坂においつめられ、進退ここにきわまった。この時、「この先に崖がある。危険!」という注意の札が目に入ったが、もうどうすることも出来なくて、とうとう自動車を断崖へ走らせ、あの恐しい自動車事故をひき起したのであった。

 その時、丸木は、不思議なことをやった。

 それは一体どういうことであるかというと、千二の生命をすくったことである。──自動車が、断崖を通り過ぎるその直前、丸木は自動車の扉をひらいて、千二を外につき落したのであった。千二の体は、蟻田博士邸の生垣のしげみの中に、もんどりうってころげこみ、そうして一命は助ったのであった。そうして丸木は?

 丸木は、そのまま自動車と共に崖下に落ちた。そうして不思議なことに、今もなおちゃんと生きているのだった。不思議だ。



26 格闘かくとう



 首のない丸木が、生きているのだ。今も新田先生と千二少年の前に、その丸木がうそぶいて立っているのだ。

 いや、それどころではない。千二少年は今、丸木のために肩をつかまれて動けなくなっているのだ。

「こら、怪物。その少年をはなせ。何という、かわいそうなことをするのか」

 新田先生は、相手をどなりつけた。

 だが怪人丸木は、いっかなそれを聞こうとはしない。少年の肩をつかんで、ぐいぐいと手もとにひきつける。千二は顔を真赤にして丸木と争っているが、かよわい少年の力で、どうしてかなうものか。

 そうして、ついに千二少年は、丸木の長マントの中にかくされてしまった。怪人は、かちほこるように、気味の悪いうなりごえを上げる。

「け、けしからん。もう君をゆるしておけないぞ」

 新田先生は、相手が強敵であることは知っていたが、こうなってはもうやむを得ない。全身の力をこめて、怪人丸木の胸にぶつかった。

 丸木はよろよろと、二、三歩後に退いた。だが、彼はたおれはしなかった。

 やりそんじたかと、新田先生は、もう一度後に下った後、どうんと怪物の胸につきあたった。

 今度は、大分こたえたようであった。丸木はうなりながら、四歩五歩と、後によろめいて、ついに壁ぎわにどうんと背中をつけてしまった。

 それは相当ひどい音だった。そのひびきで壁の柱時計がごうんと鳴ったほどであった。だが、怪人はまだまいらない。

 千二は、マントの下で、足をばたばたさせている。新田先生はそれを見ると、またもう一度、丸木の胸にぶっつかって行った。

 すると、丸木の腕がマントの下からぬうっと出たが。……

 三度目の新田先生のもうれつな突っぱりに、さすがの怪人丸木もややひるんだものと見え、それまではうごかさなかった左腕を、マントの下からぬうっと出したが、これを見ておどろいたのは、先生だった。

「あっ、首!」

 怪人の腕のさきに、一箇の首が生えていた。──いや、怪人はマントの下で、左手に自分の首を提げていたのであるが、新田先生のはげしい突っぱりによわったものと見え、マントの下から左手を出したとたんに、提げていたその首があらわれたのであった。

 何をするのか怪人!

 彼は、自分の首を持上げると、とつぜん自分の胴にすえた。──これで、今まで首のない怪人に、はじめて、首が生えたのであった。

「おお、きさま!」

 新田先生は、丸木の顔をにらみつけた。

 怪人丸木は、低くうなりながら、左手でしきりに首をおさえている。

 それは、どうやら一たんはずれた首を、胴の上に取附けようと、一生けんめいにつとめているものらしかった。

 人間が、首をおとして生きていることも、不思議きわまる話であるが、一たん下におちた首を、もとのところへ取附けようとするのも、へんな話であった。

 読者は、こんなばかばかしい話に、あきれられたことと思う。まったくのところ新田先生も、この有様を見て、あきれきっているのである。

 だが、これはまだ説明してない、一つの秘密があるのだ。それが何であるかは、まだ話をする時期になっていない。その秘密は一体どんなことであるか。当分読者のみなさんにおあずけしておく。

 さて、新田先生は、この時、すてきな機会をつかんだ。

「待て、新田先生」

 とつぜん、丸木が叫んだ。丸木がはじめて声を出したのである。

 先生はおどろいた。

 首のない怪物が、ひょいと首をのせたかと思うと、とたんに大きな声を出したのにもおどろいたが、いきなり自分の名を呼ばれたのには、とてもびっくりした。

 どうして、そんな魔法のようなことが出来るのであろうか。とっさの出来事で、先生にはそれがどういうわけだか、一向わからなかった。

「何だ、降参するか」

 先生は、負けないで大きな声でやりかえした。

「誰が降参すると言った。先生こそ、おとなしくしないと、いのちがないぞ」

「ばかを言うな。誰が降参するものか」

 と、新田先生は、またはげしくつっかかって行った。

「おい、待てというのに、話がある!」

「話? 何の話だ。それより先に、その少年を放せ」

「いや、放さん」

「じゃあ、たたかうばかりだ。この怪物め!」

 先生は、もうれつに相手の体にぶっつかった。

 怪物は、肩から落ちそうな首を、上からちょいとおさえて、身をひるがえした。

「おい待て。そんなに、らんぼうをすると、僕は……」

 と、怪物は、少しひるんだような声を出した。

 先生は、怪物の胴にしっかりとだきついた。

 その時、不思議なことに、怪物の胸もとあたりから、妙ないきづかいが聞え、先生をおどろかした。

「おや、へんだなあ。この怪物は、ふところに、何か入れているかしら」

 新田先生は、怪物の胴にしがみついて、はなれない。

「こら、放せ。放さんと、いのちがないぞ」

 怪物の声が、先生のあたまの上から、きみわるくひびく。しかし先生は、千二少年を助けたい一心で、もう死にものぐるいでしがみついている。先生の顔は朱盆のようにまっ赤だ。

 先生は、怪物を床にたたきつけてやろうと思って、えいやえいやと腰をひねったが、この怪物の力の強いことといったら、話にならない。

 そのうちに、怪物が急にだまりこんだ。と思ったら、新田先生は、頭にはげしく一撃をくらった。あまりはげしくなぐられたので、先生は、頭がわれてしまったかと思った。

「うぬ、負けるものか」

 先生は、がんばった。

 だが、それにつづいて、また第二の一撃がやって来た。それは、前よりもさらに強い一撃だった。さすがの先生も、

「あっ!」

 と言って、両手で頭をおさえた。そうして大きなひびきを上げて床の上にたおれてしまった。

 怪物丸木は、妙な声をあげた。それは、うれしそうに笑っているようなひびきをもっていた。

 千二は、おどろきのあまり、さっきから失神したまま、丸木の手にかかえられていた。

 丸木は、つかつかと先生のたおれているそばへやって来た。そうして腰をかがめて、先生の様子をうかがった。

 先生が、曲げていた腕を、ぐっと伸ばした。

「ふん、まだ生きているな」

 丸木は、そう言うと、片足をあげ、新田先生の鮮血りんりたる頭を、けとばすようなかっこうをした。そんなことをされれば、先生は、ほんとうに死んでしまう。

 あわれ新田先生も、ついに怪物丸木のために、け殺されるかと思われた。そんなことがあれば、千二のなげきは、どんなに大きいだろうか。

 重傷を受けて、床上に苦しむ先生を、何とかして助ける工夫はあるまいか。

 ちょうど、その時であった。蟻田博士の秘密室の扉が、ばたんとあいた。

「待て、曲者くせもの!」

 と、大ごえをあげて、室内へ飛込んで来た者があった。

 丸木は、ぎょっとしたようであった。

 入口の方へふりむくと、そこへかけこんで来たのは、佐々刑事と、もう一人は制服の警官だった。

「おう、手荒いことをやったな」

 と、新田先生の倒れている姿をみとめ、丸木の正面にまわり、

「おや、お前は例の崖下で見た、首のない化物だな。いいところでお目にかかった。おい君、綱をつかって、こいつをふんじばってしまおう」

 と、つれの警官に目くばせした。

 丸木は、うーう、うーうとうなっている。新田先生一人さえ、かなりもてあましぎみだったのに、今度は二人の新手あらてが飛出した。ことに佐々刑事とは、この前、崖下で組打をやり、その時首を落されてしまったのである。これはわるいところへ、にが手がやって来たものと、丸木はちょっと困っているらしい様子が見える。

「おお、静かにしろ。出来なければ、これをくらえ」

 佐々刑事は、綱を輪にして、ぴゅうっと、丸木の肩へうまくすっぽりとひっかけた。そこへ、また連の警官が、もう一本の綱をひっかけたので、両方からひっぱられて、丸木の腰はぐらぐらになった。が、彼も怪物である。また首を肩の上にのせると、獣のように、うおっと吠えた。

 怪物丸木と、佐々組の二人との決闘であった。

 丸木は、胴中を佐々刑事たちの二本の綱で、ぎゅうぎゅうとしめられながら、決してそれでまいる様子はなかった。彼は、獣のようなこえを出すと、千二少年を隅へほうり出した後、部屋のまん中へとびだして、あばれだした。

 たいへんなあばれ方である。丸木もほんとうに死にものぐるいらしい。

「こら、しずかにせんか。あとで、ほえづらをかくなよ」

「ううーっ」

 丸木が、体を一ふりすると、佐々と警官とは、綱を持ったまま、よろよろと前につんのめりそうになった。しかし、すかさず、また綱の端を、丸木の片足にかけて、えいやと引いたから、丸木は、ついに床の上に、どしんと転がった。首は、手からはなれて、壁にぶつかった。

「しめた!」

 佐々は、連の警官に目くばせして、起きあがろうとする丸木の上から、どうんと、とびついた。

 それから先が、たいへんなことになった。丸木は二人力も三人力もあるとみえ、なかなかひるまなかった。三人は、上になり下になり、蟻田博士の秘密室に、ほこりをたてた。勝負は、なかなかつかない。

 その組打のまっ最中に、とつぜん思いがけない一大椿事ちんじがもちあがった。

 それは、どうんという地響じひびきとともに、にわかに床が、ぐっと上にもちあがると、たちまち部屋は、嵐の中に漂う小舟のように、ゆらゆらと、大ゆれにゆれはじめたのであった。

 地震? 地震なら、よほどの大地震であった! 壁は、めりめりと大音響をあげて、斜に裂けだした。柱がたおれる。天井がおちて来る。あっという間に、五人の者は、倒壊した建物の下敷になって、姿は見えなくなった。

 思いがけない大異変であった。五人の運命はどうなったか?


 思いもよらない大地震に、蟻田博士の建物は、がらがらと崩れてしまった。

 その下になった人々は、一体どうなったであろうか。真夜中のこととて、さわぎはなかなか大きかった。

 もし、元気な佐々刑事が、運よく外にはい出さなかったとしたら、他の人たちは、どんなことになったか知れない。

 暁近くなって、ようやく崩れたあとを掘りかえしはじめたが、最初に見つかったのは、佐々のつれの警官の死体であった。いたましくも、彼は殉職してしまったのである。

 佐々は作業隊をはげまして、さらに、発掘をつづけた。すると、今度は、折重なった柱の下から、新田先生が出て来た。

「おお、新田先生。しっかりしなくちゃだめですよ」

 佐々は声をかけた。新田先生は、まっ青な顔をして、ものも言わなかったけれど、生きている証拠には、かすかにまぶたをうごかした。

 助け出された先生は、かなりの重体であった。ことに、丸木のために頭に加えられたうち傷はかなり深く、それに時間もたちすぎているので、その経過があやぶまれた。それで、救護班の手によって、大いそぎで病院に送られて行った。

 何しろ東京全市も大混乱しているので、新田先生の手当も、早くしなければならぬのに、だんだんおくれて、その結果新田先生は、それから数箇月後までも、病床に横たわらなければならなかったのである。

 とけない謎は、怪人丸木と千二少年の行方であった。二人の体は、棟木の下に見つからなかった。どうやら二人は、命が助かったものらしい。そうして千二は、丸木のために連去られたものと思われた。そうして二人は、消息をたってしまった。

 その年は、混乱の中にあわただしく暮れ、新しい年が来た。



27 大警告だいけいこく



 元の体になるかどうか、あやぶまれた新田先生の傷も、年があらたまるとともに、不思議によくなって行った。

 先生が、怪人丸木のため頭部に受けた深い傷は、先生をながい間気が変になった人にしておいた。ところが、このごろになって先生は、ようやくあたりまえの人にかえり、看護婦たちと、やさしいお話なら出来るようになった。

 しかし、新田先生が、ほんとうに以前の元気な体になるのは、まだ一箇月の先のことであろうと思われた。

 先生が、病院のベッドの上に寝ているあいだに、世の中は、たいへんかわった。

 東京地方をおそった例の強い地震は、大正十二年の震災ほど大きな災害を与えはしなかったが、それでも東京市だけで言っても、市の古い建物はかなり崩れ、また火事が十数箇所から出て、中にはたいへん広がったところもあったが、多くは、日頃訓練のとれている警防団や、隣組などの働きで、余り大きくならないうちに消しとめられた。一番被害の大きかったのは、水道と電気であった。これは、元のように直るのには、約三箇月もかかった。

 どちらかというと、東京地方の震災は、それほどさわがれなかった。それは震災の程度が軽かったというのではなく、その時別に、もっとたいへんな、しんぱいになる事件があったのである。それは外でもない、モロー彗星が、いよいよ地球の近くに迫ったことであった。

 東京だけではない、日本国中は、その日に対する準備のため、上を下への大さわぎであった。工場という工場は、昼と夜との交替制で、たくさんの技術者を使って、宇宙旅行に使うロケットの製造に目のまわるような、いそがしさであった。

 日本だけではない。ドイツもイタリヤも、イギリスも、アメリカも、ロシヤも、フランスも、それから満洲も、中国も、大さわぎである。

 足の下に踏みつけている地球が、こなごなにこわれてなくなるのだというから、これほど恐しいことは外にない。

 一体、地球の上の人類はどこへにげたらいいであろうか。またどうしたらにげられるであろうか。

 このことについて、世界中で一番さわいでいるのは、イギリスとドイツとだった。

 イギリスでは、例の王立天文学会長リーズ卿が、昨年の暮になって、『いかにしてわが人類は、生命を全うすべきか』という題のもとに、放送局から全世界へよびかけた。その時、リーズ卿は、こんな風に言った。

「わが王立天文学会へ、皆さんがいろいろな避難方法を書いて送って下さったことを、予はふかく感謝するものです。我々の学会では、学者たちにこれを示して、どの方法がいいか、どの方法がすぐにも出来るか、ということについて調べてみました。しかし、ざんねんながら、どれもみな出来そうもないものばかりでありました。

 たとえば、モロー彗星と衝突する前に、地球の反対側から軽気球に乗って、空中へのがれるのがいいという案がありました。そうして、モロー彗星が衝突するのを空中で避け、衝突が終ったら、しずかに元の地球へもどればいいではないかというのです。なるほど、これはちょっと聞くと名案でありますが、ほんとうは、全く出来ない相談であります。

 なぜかと言うと、モロー彗星が地球に衝突すれば、地球は多分こなごなになって、宇宙に飛びちるものと思われます。すると、その破片は、避難者の乗った気球のガスぶくろをそのままにはしておかないでしょう。つまり、地球の破片は、ガス嚢を破りますから、それに乗っていた人たちは、空間にほうりだされるでしょう。そうして……」

 リーズ卿の放送は、さらに続く。

「……そうして、その気球に乗っていた者はともに焼かれてしまうか、たとえ焼かれなくて助かっても、地球がなくなってしまうのだから、下りる場所がない。だから、この方法はむだである」

「結局、予等が考えた一番よい方法というのは、モロー彗星に衝突する前に、我々人類は地球からはなれて、地球の代りに住める場所を新たに見つけて、そこへ移り住まなければならない。これがために、我々はさしあたり、二つの大きな仕事をしなければならぬ」

「その第一は、我々は宇宙を旅行するロケットのような、りっぱな乗物をたくさん作らなければならない。第二には、地球の代りに新たに我々人類が住むことが出来る場所を発見しなければならない」

「第一の、宇宙旅行用の乗物は、幸いにも我がイギリスにおいては、前からかなり研究をしてあったので、相当りっぱなものを作ることが出来る見込である。そうして現に今も、たくさんのロケットが盛に作られている」

「第二の、我々は新たに住むべきところを、どこに発見すればいいかという問題は、なかなかむずかしい問題である。世界の多くの天文の知識のある人々は、誰しもそれは火星がいいというであろう。予等の考えも火星を最もよい移住星だと思っている。火星よりも工合のよさそうなところは他にないと思う。なぜなら、火星には、人間の呼吸に必要な空気がわりあい量は少いけれども、とにかく空気があることがわかっている。水があることもたしかめられているし、かなりおびただしい植物が茂っていることさえわかっている。また地球からの遠さも、他の星に比べると、まあ近い方である。こういう諸点から考えて、火星は一番いい移住先ではあるが、また心配なことがないでもない」

 リーズ卿はちょっと言葉を切った。

「火星へ移住することは、一番都合がよいように思われるが、一方において、心配がある。その心配とは、何かというのに、それは、火星の空気が、大変うすいことが、その第一である。空気がうすいから、肺の弱いものは、生きていられないであろうと思う。もっとも酸素吸入をやればいいことはわかっているが、火星へ着いてから、果して我々たくさんの人間全部が、酸素吸入が出来るほどの大設備がつくれるであろうか」

「第二の心配というのは、火星の生物と、果して仲よく暮していけるかどうかということである。火星には、多分生物がいる。それは、火星に空気があることや、植物地帯らしいものがうかがわれることや、それからまた我々は時々、火星人らしいものから無電信号を受取ることから考えても、まず、火星に生物がいることはうたがいないと思う。その火星人と果して仲よくつきあっていけるかどうか。これはなかなか心配なことである」

「我々の仲間には、火星人がきっと我々地球人類を、いじめるにちがいないと言っている者もある。それだから、我々が火星へ移住するためには、まず火星人とたたかわなければならない。つまり敵前上陸をやるつもりでなければ、この事は失敗に終ると言っている。しかし我々は、このようなことを言う仲間を大いに叱ってやる必要がある。すべては愛情でいきたいものである。敵前上陸とか、火星人征伐とか、そのようなおよそ火星人の気持を悪くするような言葉は、つつしまなければならないと思う。話は、わき道にそれたが、このことだけは、くれぐれも賢い諸君にお守り願わねばならぬ」

 そう言って、リーズ卿はそこで深いため息をついたのだった。

 リーズ卿は、蟻田博士ほど火星の生物について、ふかいことは知らないような放送ぶりであった。果して卿は知らないのであるか、または知っていても言わないのか、そこはまだよくわからない。

 蟻田博士が、リーズ卿の放送を聞いたら、どんな感想を持つであろうか。ざんねんながら、蟻田博士の行方は知れないのであった。くわしく言えば、昨年の東京地方の大地震以来、どこかへ行ってしまったのか、それともまた、どこかの軒下で押しつぶされたのか、とにかく博士の消息はさっぱり聞かないのであった。

 リーズ卿の放送は、実は、まだもっと先があったのである。

「とにかく、この二つの心配──つまり、火星の空気がうすいことと、火星人と仲よく助けあって住んでいられるかどうかということ──この二つの心配が、火星移住をきめるについて、暗い影を投げる」

「その外、食物の問題もあるが、これは何とか解決がつくだろう。火星の上に空気があり植物があることがわかっているのだから、我々人間に食べられる野菜みたいなものがあってもいいはずだと思う」

「それからまた、火星の上は、夜はたいへん寒く、一日中の気温のかわり方も、たいへんはげしいから、我々人間がそれにたえることが出来るかどうかという心配もあるが、これは防寒具を持って行けば、何とかなるだろうと思う」

「また、火星へ移住するためのロケットは、つくり上げたものが、もうかなりわがイギリス国内にもあるし、諸外国もそれぞれ工場を大動員して、たくさんのロケットがつくられているはずであるから、モロー彗星と衝突する日までには、相当たくさんのロケットが、世界各地に備えつけられることになろう。この点についても、諸君は心をしずかにしていていいと思う」

 卿の言葉は、なかなかつきなかった。

 リーズ卿の放送には、世界各国の人たちが、水をうったように、耳をすまして聞入っていた。モロー彗星との衝突は、もはやさけることが出来ない今日、我々人類は、どうしてその後の生命を全うすることが出来るか。それは誰もの、ぜひ知りたいところであった。

 卿の放送は、いよいよおしまいに近づいたようである。

「つまり、ひっくるめて言うと、モロー彗星の衝突によって起る惨害から救われるためには、誰しも考えつくのは、火星への移住である。しかし火星へ移住することは、二つの心配があって、一つは空気がうすいこと、もう一つは、火星人が、我々地球人類を、こころよく迎えてくれるかどうか、この二つのことがたいへん心配である。

 どうか、諸君は、くれぐれもこのことを忘れてはならない。世界各国の政府は、この二つの心配に対し、本気になって考えておかねばならない。移住に際し、火星人を、みな殺しにしてしまえなどという、あらい言葉をつつしむように。きびしい言葉で言えば、我々の一人たりとも、火星人をおこらせてはならないのだ。火星人が気持を悪くするような言葉を、はいてはならないのだ。つつしみのないたった一人の失敗のために、我々全人類が、火星人から、ひどい目にあうとすれば、ばかばかしいことだ。とにかく、そういう不穏な人間が出た時は、政府はすぐ彼を、銃殺にしてしまうのがいいだろう。予のもっとも気にかかることは、これである」

 リーズ卿の放送は、そんなところで終った。

 卿の講演放送によって、世界各国は、またさわがしくなった。火星への移住の用意は、うまく出来ているか。ロケットの数は十分にあるか。自分の乗る座席は第何号かなどと……。

 しかし中には、卿の放送に対し、悪口を言う者もあった。



28 山の上の火



 長い間、傷のため病床に寝ていた新田先生が、ようやく退院することとなった。

 三月といえば、いつもの年ならまだ春に遠く、ひえびえとした大気を感じるのが、あたりまえであったが、その年はどうしたものか、日暦が三月にかわると急にぽかぽかと暖くなって、まるで四月なかばの陽気となった。

 めずらしい暖さだ。それもモロー彗星が近づいたせいだとあって、人々は、夕暮間もなく、西の地平線の上に、うすぼんやりとあやしい光の尾を引くモロー彗星のすがたを、気味わるく、そうして、また恐しく眺めつくすのであった。

 新田先生は、退院の後、すぐさま甲州の山奥の、掛矢温泉へ向かった。

 掛矢温泉といっても、知らない人が多いであろう。ここは温泉と言っても、宿は掛矢旅館がたった一軒しかない。その掛矢旅館も、たいへんむさくるしい物置のような宿であって、客の数も、いたって少い。附近に地獄沢というところがあって、そこは地中からくさいガスがぷうぷうとふきだしていて、一キロメートル四方ばかりは草も木もなく、ただ一面に、灰色の石ころの原になっていた。掛矢温泉に湧出る湯も、実はこの地獄沢からぷうぷうふきだしているガスによって、地中で温められている地下水だった。

 新田先生は、この温泉に落着いた。

 このように、掛矢温泉がさびれているわけは、地下から湧出している温泉が、時々ぴたりととまって、温泉がお休になるせいであった。そのお休も、一日や二日のことではなく、時には半年も一年もとまっていることがある。それでは客が行くはずがない。新田先生は、学生時代ここへ時々行ったことを思い出し、今度も病後の体をこの湯で温めようと思って足を向けたのだ。

 掛矢旅館を、ひょっくりとおとずれた新田先生は、そこの主人の弓形ゆがた老人から、たいへん歓迎を受けた。

「ああ、新田さんだね。いい時においでなすった。長いこととまっていたうちの温泉が、一昨日おとといからまたふきだしたんでがすよ。これがもう三日も早ければ、せっかくおいでなすっても、お断りせにゃならないところじゃった」

「ああ、そうかね。僕は運がよかったというわけだね」

 先生は、笑いながら、勝手をよく知った上にあがった。

 弓形老人は大喜びで、新田先生をいろいろともてなしたが、先生が長い間、病気に倒れていたと聞いて、たいへん驚いた。

「そうけえ、そうけえ。まあなおって、ようがした。体が元のようになるまで、ゆっくりうちの湯につかって行きなせえ」

 老主人は、いつに変らぬ親切を、新田先生に向けたことであった。

 その親切が、新田先生の心を、かえっていたませた。これがいつもであれば、すっかり腰を落着け、のうのうとした気分で、湯につかっておられるのであったが、今度はそうはいかない。モロー彗星は、あと一箇月で地球に衝突してしまうのだ。この掛矢旅館ののんびりした気分も、三方を高い山に囲まれたもの静かな風景も、あと僅かでおしまいになるのだ。そう思うと、先生の心はかえって、暗くなる。老主人弓形氏は、モロー彗星のことなど、まだ何も知らないようである。この大地がくずれて、天空にふきとんでしまう最後まで、この人のいい老主人は、何も知らないで人生を終えるのではないか。

(これは何とかしなければならぬ!)

 新田先生の同胞への限りない愛の心が、先生の血を湧きたたせる。

 春なおあさい掛矢温泉の岩にかこまれた浴槽の中に、新田先生は体をのびのびと伸ばして、はや二、三日を送った。

 温泉のききめは早い。先生の体から、病後の疲れが見る見る去っていって、頬にもくれないの色がさして来た。

「ああ、ありがたいことだ」

 先生は浴槽から上って、手ぬぐいをぶらさげたまま、部屋に帰って来た。

 すると、その後からこの旅館の老主人弓形氏が、お茶とお菓子とを持ってはいって来た。

「温泉はいかがでございましたかな、新田先生」

「ああ、ありがとう。今日はまたかくべつないい入り心地でしたよ」

「それは、けっこうでした。まあお茶でも入れましょう」

 老主人は鉄びんの湯をきゅうすについで、手を膝においた。

「御主人に、この前からうかがおうと思っていたのですが……」

 と言いながら、新田先生は、ぬれ手ぬぐいを欄干にかけて、自分の席へ戻って来た。

「はあ、どのようなことで……」

「ゆうべも見えましたがね、温泉につかりながら、真暗な山を見上げていると、こっちの方向にある山の上の方に、ちろちろとうす赤い火が見えたり消えたりするんだが、あれは一体、何ですかね」

「はあ、あの火を、ごらんになったのかね」

 と弓形老人は、茶わんを盆の上において、新田先生の前に差出しながら、

「あの火は、わしらも何の火だろうかと、うわさし合っているのでがすよ」

 南の山の上に、ちろちろと見えたり消えたりする火! 先生が気にして、老人に尋ねると、老人も知らないと言う。

「昔から、あの火はあるのですか」

 と、新田先生は尋ねた。

 山の上の火のうわさ! 弓形老人の顔が少しこわばった。

「それが先生、わりあい、近頃のことでがすよ。昔は、あんな火は見えなかった」

「ああ、そう」

 新田先生は、うなずいて、

「あの火は一体何の火ですかね」

「さあ、それがどうも正体が知れないのでしてな」

 弓形老人は、首を左右にふった。

「この村の人で、誰もあの火のことは知らないのかなあ。ちょっと、気になる火じゃないですか」

「新田先生。あそこまでは、なかなかけわしくて、近づけないのでがすよ。第一、途中はこの間まで雪がふかくて、とても上れなかったんです」

「それで、あの火のところまで、行ってみた者がないというわけですね」

「この村の者じゃないが、一週間ほど前に、一人の男が、あの火のことをうわさしながら、上って行きましたがな。あの男はどうなったかしら」

「ほう、誰かあの火のところへ、出かけた者があるのですね。それはどこの者です。そうして、まだ山を下りて来ないのですか」

 新田先生は、ふかい雪をふみ分けて、あの火のそばへ上って行った者があると聞いて、たいへん興味ぶかいことに思った。

「それは、東京の人だと言っていましたがね。名前は、わしが聞いても、いや、いいんだと言って、言わないでがすよ。もっともその人はこの雪をふみ分けて、あの山を越え、向こう側の垂木たるき村へ下りて行くのだと言っていたから、こっちへは下りて来ないことになっていたんでがすよ」

「ほう、この雪の中を、山越しに垂木村へ下りるというんですか。そいつは風がわりな人だなあ」

 新田先生は、何だか、この人のことが気になって仕方がなかった。

 山の上に、ちろちろと、見えかくれする怪しい火に、新田先生は、たいへん興味をおぼえたので、その翌朝、先生は、掛矢温泉の老主人がとめるのも聞かず、一人山をのぼって行った。たいへんな元気であった。

 新田先生は、山のぼりについては、いささか経験があったから、ありあわせの綱を借りたり、杖をこしらえたり、また蝋燭などをもらい、一夜ぐらいはすごせるほどの食料品も用意して、出かけたのであった。

 山道は、かなりけわしかった。

 病後の新田先生には、なかなか骨の折れる山のぼりだった。だが、経験はえらいもので、しずかにのぼって行くうちに、おひるすぎには、もうその高い山のてっぺん近くまで、たどりついた。てっぺんに出れば、怪火の正体も、きっとわかるにちがいないのだった。

 山は、まだ冬のままのすがただった。雑草は、のこりの雪の下から枯れたまま、黄いろいかおを出していた。それでも、春はもう近くまで来ているものと見え、枯草のあいだに、背のひくい青草がまじっていた。

 けけけけっ。

 とつぜん、羽ばたきをして、新田先生のあたまのうえに、飛びあがったものがあった。なんであろうと、新田先生が、上を見あげると、それは一羽の大きな鳥であった。きじのようでもあったが、なんという鳥か、はっきりしない。その鳥は、春めいて来たので、岩穴から外へ出て、餌をひろいもとめていたところを、先生が、おどろかしたものであろうとおもった。

 その、名も知れぬ鳥は、空高く飛びあがると、あわてふためいて、峰つづきのとなりの山の方へ飛んで行ってしまった。

 先生は、その鳥の行方を、じっと見送っていたが、そのうちに、

「おや」と叫んだ。

 山のてっぺんは、すぐ上に見えている。新田先生が、今、「おや」と叫んだのは、そのてっぺんのしげみの間から、西瓜すいかのように丸いものが四つ五つ重なり合って、動いているのを、見つけたからであった。

「あれは何だろう?」

 先生は、すぐさま体を地に伏せた。それから、また、少しずつ前へ這って行った先生は、ちょうど、体をかくすのにつごうのいい岩かげを見つけ、ここへ滑りこんだ。そして、そっと首を出して、例の西瓜のようなものが、一体何であるか見きわめようとした。

 西瓜のようなものは、人の頭であることがわかった。しげみの上から、人の頭が行列して、向こうへ歩いて行くのであった。それはしばしば木のかげになって、見えなくなったり、そうかと思うと、また、ひょっくり岩角から現れたりしたが、結局、不思議な人間の行列であることだけは、はっきりした。

「どうも、へんなかっこうをした人間どもだ」

 始めは、木のしげみの上から、首だけを出していたその怪しい人間どもは、だんだんと峰伝いに奥の方へ歩いて行く。そうして、ようやく彼らの肩のへんが見え出し、やがて足のあたりまでも、見えるようになった。

 彼らの頭は、いずれも西瓜のように、丸味を持っていた。その西瓜のような頭の下には、ドラム缶のようにふくれた太い胴がついており、首は短くて、あるのかないのか、はっきりわからないくらいだ。

 奇怪なのは、彼らの手足であった。

 腕は、えもん竹のように張った肩の両端から、まるで竹箒をつったように、細いやつがぶらぶらしている。足といえば、これも竹のように細く、曲っており、へんなかっこうで歩いている。全体の色は、すこぶるあざやかなみどり色だった。

 一体、何者?



29 ロボット



 峰伝いに遠ざかる怪人の群を、新田先生は岩かげから、ねっしんに見送っていた。

 気がつくと先生は、全身にびっしょり冷たい汗をかいていた。

「な、何者であろうか?」

 どうも、たいへんな怪物に出会ったものである。

 よもや、あれはほんとうの人間ではあるまい。人造人間とかロボットとか言って、人間の形をした機械があるが、そのロボットではないかと思った。

 それにしても、不思議なのは、こんな山の中に、ロボットがぶらぶら歩いていることである。ひょっとすると、軍隊がロボットをこの山の中で試験しているのではないかと思った。

 だが、ロボットでもないように思えるふしがあった。ロボットなら、歩調などは機械的に、ちょんちょんと正しくとるはずである。なぜなら、ロボットはたいてい、みんな電波などで動かされているわけだから、ちょうど電気時計と同じように、正しく動くはずである。

 しかるに、今新田先生が見かけた怪しい人間の群は、人間と同じように、みんなが一人ずつ勝手気ままに動いていた。大またに歩いている者もあるし、ちょこちょこ歩いている者もあった。また互に何か話をしているようなのもいた。肩を組合っていたものさえあった。機械で出来た魂のないロボットが、そんなことをするであろうか。いやいや、そんなことはしまい。

「どうも、あいつらは、ロボットでもないらしい」

 ロボットでなければ、一体彼らは何者であろうか。

 新田先生は、小首をかしげた。

「……もしかすると、あいつらは、火星からやって来た生物ではあるまいか」

 火星の生物?

 新田先生は、そう考えて、はっと胸をおどらせた。

 火星の生物は、この前千葉の湖畔へやって来たようである。千二少年の話によると、胴が太っていて手足が細くて、丸い頭があるというから、今見た怪物によく似ている。

「ふん、これは、たいへんなものを見つけたものだ」

 先生はうなった。

 これはいよいよ火星の生物どもに違いない。先生は怪物の後を追いかけることにした。

 怪物たちは、いつしか隣の山の上に姿を消してしまった。山の向こうへ下りて行ったか、あるいはそのへんに、穴でもあるのではなかろうか。先生はわざと道を遠廻りして、けわしい山の傾斜をそろそろと上り始めた。先生の指先はやぶれて、血が流れ出した。

 小一時間もかかって、先生はやっと山の上に上りついた。

「さあ、このへんに違いないのだが……」

 先生はあたりに気をくばりながら、そっと岩かげから顔を出した。

「ほう、あった! あれだ!」

 先生は、思わずおどろきの声を上げた。

 何があったか? 先生の目にはいったのは、大きなドラム缶のようなものが、山の向こう側の斜面に、つっ立っているのであった。まるで小さな塔をそこに建てたような、かっこうであった。

「ああ、あれに違いない。千二君が言っていた火星のボートというのは、多分あれと同じものだろう」

 何という奇妙な形をしたものであろうか。その大きな円筒は、表面がへんに焼け焦げたようになって、そうしてちかちかと、薄い光がさしていた。

 この人跡じんせきまれな山中に、火星の宇宙ボートが着いている。

 新田先生の驚きは大きかった。

 火星の生物は、この山中に宇宙ボートを着けて、一体何をやるつもりなのであろうか。

「早く、このことを知らせなければ、たいへんなことになる!」

 と、新田先生はいらいらして来た。

 では、このまますぐ山を下ろうか。

(いや、このまま山を下ったのでは、物足りない。火星の生物は、まだ自分が近くにいることを知らないだろうから、もっと彼らに近づき、彼らの様子を、もっと調べたうえで、山を下ることにしたい)

 新田先生は病後の体ではあるが、この一大発見をして、ここで自分は、もっとがんばらなければ、日本国民──いや、世界人類のために申しわけないと考えた。

 そこで先生はかたく決心をすると、またしげみの中を、そろそろと前進して行った。何とかして、目の下に見えるあの火星のボートまで、行ってみようというのである。

 先生は、しげみの中を巧みにくぐりぬけ、ある時は岩かげを利用して、だんだんと火星のボートに近づいて行った。

 気味の悪いボートは、だんだん大きくなって来た。実に、いやな気持のする色である。地球の人類ではないものが作っただけのことはある。小さい窓みたいなものが、見えて来た。穴みたいなものがあった。そこからは、うす赤い煙のようなものが、すうっと出ていた。しかし火星人の姿はもう見えなかった。みんな、どこにはいってしまったのであろうか。

 だが、火星人の姿が見えないのを幸いに、新田先生は、誰にもとがめられずに、ずんずん近づくことが出来た。そうしてとうとう火星の宇宙ボートの側までやって来た。

 ボートを見上げて、新田先生は、そのボートの高さが、三階建の家ぐらいあるのに、今さらのように驚いた。

 新田先生は火星の宇宙ボートのまわりを、そっと廻って見た。

 先生は今初めて、目のあたりに火星の宇宙ボートを見るのであった。それは全く不思議な乗物だった。だが、いつ、火星人たちに襲われるか知れないので、先生は、あまりゆっくり見ていることが出来なかった。

 ほんの僅かの間、きょろきょろと見廻しただけのことだったけれど、先生は、これは確かに火星の宇宙ボートであるに違いないと思った。そのわけは、火星のボートの外壁を見ても、それは地球の人類が作るなら、かならず鉄とかジュラルミンなどを使うのであるが、この火星のボートでは、そんな金属は使っていない。それは、みたこともない青褐色の材料で出来ていた。先生が軽く叩いてみたところでは、なかなか固く、ひょっとすると鉄などよりも、もっと固いのではないかと思われた。

 それからこのボートが、地球以外のところで出来たらしいしるしは、まだ、ほかにもあった。今の外壁のことであるが、どこにもつぎ目がない。もちろんリベットなどは、一つも打ってない。これほどの大きなものを、リベットもつぎめもなくして作りあげることは、とても人間わざでは出来ない。

 まだ違うところがある。

 それは窓である。我々が知っているような窓は、窓わくを持っていて、そこへふたのようなものがはまるのであるが、火星のボートへよって、先生が見たところによると、そうはなっていない。窓のあいているところは、まわりから中央へ向かって、写真機のしぼりのようにしぼられて、しまるのであった。全くへんな窓である。

 これらのことから、新田先生は、このボートは、火星人が作ったものに違いないと思った。

 火星の宇宙ボートの前に、新田先生が立っている。

 先生は、この宇宙ボートの珍しい姿に、すっかり気を奪われていた。そのあたりに、火星人が、うようよいることを、忘れていたのである。それは、ほんのちょっとの間のことだったが……。

 先生が、はっと我にかえった時は、もう遅かった。何者かが、先生の両腕をうしろから強い力で、ぎゅっとおさえつけた。

「あっ、しまった」

 と、先生がそれをふりほどこうとする間もなく、今度は、先生の両眼が見えなくなってしまった。それは、うしろから、いやにぬらぬらするゴム布のようなもので、目かくしをされてしまったのである。

 いくら、じたばたやって見ても、うしろから、先生の腕をおさえている力は、たいへん強く、それを無理にふりほどこうとすれば、先生の腕の方が、今にもぽきんと折れそうになった。

(騒ぐだけ損だ!)

 先生は、勇気をなくしたわけではなかったけれど、今、じたばた騒いでも、こっちの体が痛くなるばかりなので、手向かうことをやめた。あとで、相手にすきが出来た時に、力一ぱい腕をふるうことにした方がよいと、賢い新田先生は早くも見てとった。

「な、何をするんだ、君がたは……」

 先生は、おちつきの心をとりかえしながら、相手を叱りつけた。

 先生のうしろにいる相手は、何にも、返事をしなかった。何だか、へんなにおいが、ぷうんと先生の鼻をついた。奇妙なにおいであった。それは先生が、始めてかいだへんてこなにおいであった。

(ふうむ、こんなへんなにおいを出すからには、いよいよ火星人に違いない!)

 と、先生は心の中でうなずいた。

 新田先生は、あやしい者のために両腕をうしろからおさえられ、その上目かくしまでされて、無理やりに、前へ向かって歩かせられた。

 何とかして相手の顔を見たいものだと、先生は顔をくしゃくしゃにしながら、目かくしの間にすき間を作ろうとしたが、なかなかうまくいかない。そうした先生の心をなおさらいらいらさせるかのように、例の胸がむかむかするにおいが、うしろからにおって来る。

「けしからん。なぜ、私を、こんな目にあわすのか。そのわけを、話したまえ」

 先生は、体をふりながら、見えない相手にまた呼びかけた。今度は思いきって、せい一ぱいの大声でどなった。

 相手は、あいかわらず、返事をしなかった。だが、先生がたいへん大きな声を出したので、相手もよほどおどろいたものと見え、急にうしろで、何だかわけのわからない叫び声が聞えた。

 ひゅう、ひゅう、ひゅう。

 ぷく、ぷく、ぷく、ぷく。

 彼らの叫び声はそんな風に聞えた。その叫び声のわけは、一向にわかりそうもないが、そのひゅうひゅう、ぷくぷくと言う声は、何か話をしているらしいことが、おぼろげながらわかった。これは、火星人の言葉なのであろう。

(この人間が、今大きな声を出したではないか。逃げるつもりではないか)

(逃げるかもしれない。もっときつく、おさえているんだ)

 と、言ったような言葉でもあろうかと、先生は思った。だがそれは先生の思い違いで、ほんとうは火星人はそんな、なまやさしい話をしていたのではなかった。それは、いずれだんだんとわかる。

 先生はその話声からして、自分のうしろにつきしたがっている火星人の人数が六、七人、あるいはもっと多人数であることを覚った。

 ひゅうひゅう、ぷくぷく。

 新田先生を、後からおさえつけた火星人たちは、一体何を言っているのであろう。

 しばらくすると、火星人の話は、まとまったものとみえ、新田先生は、また後からぐんぐん前に押された。

「どこまで、連れて行くつもりかなあ」

 新田先生は、少し不安になって来た。

 ひゅうひゅう、ぷくぷく。

 火星人は、おこったような声を出した。

 それから十五、六歩も歩いたところに岩があった。その岩のかげに、人間のはいれるくらいの穴があった。

 火星人は、後から、ぐんぐん押した。その穴の中へ、押込むつもりらしい。その穴の中には、一体何があるのであろうか。

「ええい、どうなることか。行くところまで行ってやれ」

 先生は、もう度胸をさだめた。そうして、火星人の意にさからうことなく、穴をくぐった。穴の中から、例のいやなにおいが、ぷうんと鼻をうった。

 中はまっ暗であった。しかし、中はあんがい広くて、人間がはいっても、頭がつかえるようなことはなかった。

 先生は、くさいにおいには閉口しながらも、一生けんめいがまんしながら、穴の奥の方まで、連れて行かれた。

 目かくしは、いつのまにか、取れてしまったようである。

 穴の中の暗さにも、だんだんなれて来たものとみえ、あたりの様子がぼんやりわかって来た。

 その時、まず先生をおどろかしたのは、いつの間にか、自分の前を歩いている異様な火星人の姿であった。穴の中は暗いので、それで安心して、火星人は、先に立って歩いているらしかった。彼らのかっこうの悪い胴体が、歩く度に重そうにゆれた。

 すると、とつぜん先生は、明かるい光の中へ押出された。

「あっ!」

 先生の目は、くらくらとした。



30 妙な申出



 穴の中で、新田先生はとつぜんまぶしい光をあびせかけられ、はっとした。

 眼がくらくらとして、頭のしんが、つうんと痛くなった。そうして、ひょろひょろと、足元があやしくなって、踏みこたえるいとまもなく、その場にどすんと尻餅をついてしまった。

(どうにでもなれ!)

 先生はもう覚悟をきめた。

 耳元では、例の通り、ひゅうひゅうぷくぷくと、火星の生物が、奇声を出しながらしきりに騒いでいた。

 しばらくして新田先生は、とつぜん呼びかけられた。

「さあ、顔を上げなさい、新田先生」

 先生はびっくりした。いきなり人間の言葉で、呼ばれたのであった。しかも自分の姓まで、知っているのだ。

 一体自分を呼んだのは誰?

 新田先生は、光の中に顔を上げた。

 目の前に一人の男が立って、先生の方を見ていた。黒い長マントを着て、つばの広い帽子をかむった長身の男だった。眼には黒いふちの大きな眼鏡をかけているのだった。

「あっ、丸木?」

 新田先生はおどろいて、その場にはね起きようとしたが、相手のために肩をおさえつけられた。それは、かなりの強い力だったから、新田先生は起きあがることが出来なかった。

「そうだ。わしは丸木ですよ」

 と、黒マントの男は、へんにしわがれた声で言った。

「君は丸木か。いつぞやは、わしをひどい目にあわせたな。それはいいが、君はまた千二少年をさらって、どこへ連れて行ったのか。早く返したまえ」

 怪人丸木は、それには答えず、

「新田先生。我々は、あなたに相談があるのだ」

 穴の中の広間で、めずらしくも、怪人丸木と新田先生とが、にらみあっている。

 その丸木が、いつになく、やさしい猫なで声を出して、新田先生に相談があると言ったのである。

「相談とは、何です」

 と、新田先生はゆだんをしない。

 すると、丸木は、

「まあ、そこへおかけ」

 と言って、先生に、腰かけにちょうどいいほどの大きな石ころをすすめ、自分はのっそりとつっ立ったままで話をはじめた。

「どうぞ、君もおかけなさい」

 と、先生は礼儀正しく、丸木にも腰をかけることをすすめたが、丸木は、いや、私は、この方がいいのですと言って、あいかわらずつっ立ったままだった。他の火星人は、先生と丸木とをとおまきにして、つっ立っている奴もあれば、無作法ぶさほうにもごろんと地面に寝そべっている者もあった。

「ところで、新田先生。相談というのは外でもないが、先生は、この地球がやがてモロー彗星と正面衝突して、ばらばらにこわれてしまうのを知っているでしょうね」

「知っていますよ」

 と、新田先生は、すぐに返事をした。

「それが、どうしたのですか」

「いや、どうもしやしませんが、モロー彗星に衝突されると、皆さん、地球の人類は、死んでしまうわけだが、その対策は出来ていますか」

「対策というと……」

「つまり、その場合、何とかして助かる工夫が出来ているかと、私は聞くのです」

「さあ、それは……」

 と言ったが、先生は、返事につかえた。

 日本をはじめ、世界各国では、その日の用意として、全工業力をあげてロケットをたくさんつくっていると噂に聞いているが、それを丸木に話していいものかどうか?

 丸木の眼が、黒眼鏡の奥で、きらりと光ったようである。

 怪人丸木の質問に、新田先生はどう返事をしようかと、迷ってしまった。

 丸木は先生の困った様子を見てとって、それを自分のつごうのいい方へとった。

「お困りの様子だが、まったくお気のどくに思う。皆さん方は、永久に地球の人類が栄えるものと思っていられたのであろうが、モロー彗星というやつが、それを正面から、じゃまをするんですからね。もっとも、モロー彗星は、意地わるをたくらんで、じゃまをするわけではなく、不幸にも、モロー彗星の進む道が、地球の道とちょうど合うことになっているんですから、これはどうも仕方のないことですよ。その点は、先生にもよくおわかりでしょうね」

「それは、よくわかっています」

「それならよろしい。来るべきこの大事件は、地球の人類にとって最大の不幸である。しかしそれは同時に、モロー彗星にとってもまた不幸な出来事である。そうでしょうが」

 先生は、うなずいた。今まで、考えなかったが、モロー彗星にとっても不幸であるに違いない。しかしモロー彗星の上には、この地球みたいに、生物が住んではいないだろうから、いくら不幸だと言っても、我々の不幸にくらべると、くらべものにならないと思った。

「わしはずっと前から、この不幸な事件について、モロー彗星にも、また地球の人類にも同情をしていた。そうして、何とかして外力を用いて、一方の軌道をすこし外してみる方法はないものかと、研究をしたこともあった」

 丸木がとつぜん、けなげなことを言出したので、先生はおどろいた。

「だが、そいつは、なかなかむずかしいことだ。ちょっと我々の手におえないことです。だから、この上は、せめて皆さんがた地球の人類の命を、一人でも多く救ってあげたいと、思うようになったのです」

 怪人丸木は、親切そうなことを言出した。

「それは、御親切さまに……」

 と、新田先生は怪人丸木にお礼を言った。

 ほんとうに親切なのだか何だかわからないが、とにかく丸木は、熱心を面にあらわして、地球の人類をモロー彗星の衝突で死ぬことから、助けてやろうというので、これには、挨拶としてお礼を言わないわけにいかない。

「で、あなたは一体、我々人類を、どうやって助けて下さるのですか」

「そのこと、そのことです」

 と、怪人丸木は両足で地面をとんとんと踏鳴らしながら、

「ねえ、先生。わしは、火星に持っている宇宙艇を、たくさん地球へよこそうと思うのです」

「宇宙艇と言うと……」

「つまり、さっき先生は、外で見られたろうと思うが、山のいただきに火星のボートが、斜になって、立っていたでしょう」

「ああ、あれが火星のボートですか」

 先生は、始めてそれを知ったような顔をして、うなずいた。

「宇宙艇と言うやつは、あのボートよりも、何倍も大きい乗物なんだ。この宇宙をどんどん走るやつで、それはとてもこの地球の上では、どこにも見当らないりっぱな乗物なんですよ」

 丸木は、身ぶりをまぜて、ほこらしげに話をした。

「この地球の上にだって、ロケットと言うものがありますぞ」

「ロケット? はて、それはどんなものかな」

 丸木はまだロケットを知らないらしいので、先生は、地面に図をかいて、こんなものだと説明してやった。

 丸木は、たいへん熱心に、それを聞いていたが、

「ははあ、ロケットとは、そんなものか」

 と、安心したような声で言った。

「あのロケットなどというものは、全く、おもちゃみたいなものだ」

 と、怪人丸木は笑う。

 新田先生は、ちょっとむっとした。

「わが火星にある宇宙艇は、スピードもたいへん早いし、人を乗せるにしても、一せきの中に千人や二千人は、大丈夫だ。一万人乗のものもある。この地球には、そんなに人の乗れるロケットはないでしょう」

 丸木は、ほこらしげに言ったことである。

「火星の宇宙艇には、そんなに、たくさんの人が乗れるのですか」

 と、新田先生は、思わず、ためいきをついた。わが地球のロケットでは、せいぜい五十人ぐらいの人間が乗れるだけである。

「だから先生、この際地球の人類は、自分だけの力でこの難関を切りぬけようとしてもだめですよ。わが火星の力がなくては、地球人類の生命は、助らないのだ。だから、我々の申出を受けて下さるがいい」

 丸木は、いよいよ得意そうに言った。

「なるほど。そんなりっぱな火星の宇宙艇を、たくさん借りることが出来れば、我々も大助りです。政府に話をすれば、きっと喜ぶでしょう」

「そうです。きっと喜ぶでしょう。先生、あなたは、やっと、我々の話を、本気で聞いてくれるようになりましたね」

「で、私に、政府へ話をしろと、おっしゃるのですか」

「その通りです。そうして、こういうことも、よく話をしてもらいたいのです。わが火星の宇宙艇の着陸場として、この附近の山中を我々にゆずってもらいたいのです」

「えっ、何ですって」

 丸木は、少し言葉じりをふるわせながら、

「つまり、この山梨県の山中を、我々火星人に、自由に使わせてもらいたいのです」

 と、何でもないことを、おずおずと申し出た。どうも、丸木の話しぶりがへんだ。



31 火星人



 たいへんな相談をかけられたものである。地球人類を救ってやるから、この山梨県の山中一帯を、火星人にゆずれと言うのだ。

 新田先生は、そんな相談をかけられても、返事をすることは出来ない。先生は、この山梨県の地主でも何でもないのだから。

「そんな相談を受けても、私にはとりきめる力がありませんよ」

 先生は、正直に怪人丸木に返事をした。

 すると丸木は、むっとしたようであった。

「なぜ、とりきめが出来ないのかね」

 丸木は、時々らんぼうな口のききかたをする。

「私は、そんなことに力のない一国民ですからねえ」

「そんなことはない」

 と、丸木は強く言いきった。

「我々は、君を人間の代表として、相談をしているのだ。力があるもないも、もう一箇月もすれば、地球の人類は、誰も彼も、なくなってしまうではないか。君は人間だろう。人間なら、人間として、りっぱに我々に返事が出来るはずだ」

 どうもよく、丸木の言っていることが、のみこめないが、火星人は、人間界のことなら、どの人間に相談してもいいのだと、思っているらしかった。

 先生は、はからずも人間の代表に選ばれて、むしろ、たいへんめいわくだった。

 どうしたものかと、なやみながら、ふと前を見ると、怪人丸木のまわりには、いつの間にか例のドラム缶に、細い手足をはやしたような火星人が、たくさん集って来て、しきりにこっちを見ている。

 先生は、その時、火星人が、まん中に妙な機械を抱えこんでいるのを見つけて、あれは一体何であろうかと、不思議に思った。それは、ラジオの機械の上に、うちわを立てたような機械だった。先生がこっちから何か言うと、丸木以外の火星人は、その機械の方に、ねっしんに顔をよせる。

「どうしても、そんな相談に、約束は出来ません」

 先生は、きっぱり言った。

「まだ君は、そんなことを言うのか」

 怪人丸木は、いよいよきげんを悪くした。

 すると、他の大勢の火星人も、とつぜん奇妙な声を立てて、騒ぎ出した。

 その時先生は、その大勢の火星人が、大事そうに抱いているへんな機械が、ひょっとすると、人間の話を、火星人にわかるように直す変話機ではないかと、気がついた。

 その時先生は、とつぜん火星人の一人に、胸ぐらを取られて、びっくりした。

「こら、らんぼうし給うな」

 と、先生は彼の手を振りはらったが、彼はしっかと握って、放さなかった。その時、先生は火星人の手が、まるで鋼鉄の棒のように固くて、そうして冷たいのを知っておどろいた。

 そのらんぼうな火星人は、先生をなぐりつけるつもりか、一方の手を振上げた。その時、火星人の腕のつけねに妙な音がした。ぎりぎりぎりと、何か歯車で鎖を巻くような音だった。

「何をするっ」

 先生は、必死になってそれを防ぎながら、火星人の目を見た。

 火星人の目は、じっと遠いところを見つめているようであった。ガラス玉のような、うつろな動かない目であった。

 そのくせ、火星人の腕はのびて、先生の頭をめがけて、はげしくうちおろすのであった。

「あっ!」

 先生は、受損じて、頭が割れたかと思った。そうして、ふらふらと倒れそうになったので、先生は前後の考えもなく、火星人の胴中どうなかに抱きついた。

 すると、火星人はあわて出したようであった。そうして急に弱くなって、ごろんとその場に倒れた。

 新田先生は、火星人を下に押さえつけたまま、ふうふうと苦しい息をはいた。何かどなりつけてやりたかったが、あまりに息切れがはげしくて、声を出そうにも、声が出なかった。

 下になっている火星人は、両手、両足を動かして盛にもがいた。

 ひゅう、ひゅう。ぷく、ぷく、ぷく。

 火星人は、妙な声をあげてうなった。

 新田先生は、この時火星人の体について、重大な発見をした。

 それは、ひゅうひゅうぷくぷくと言う声が、火星人の口から出ていないで、のどのあたりから出ていることだった。

 先生は、おどろいて火星人の、のどを見た。すると火星人の首は、もう少しで、肩から外れそうになっていた。

 やっぱり、首なしの生き物なのだ。火星人は──。

 ひゅうひゅうぷくぷくの声は、首と肩とのつぎ目のあたりから、もれて来るのであった。

 首の外れる生物! 首なしの生き物!

 そんな不思議な生物が、この世の中にあっていいものか。

 気がついて、先生はもう一度火星人の目を見直した。

 目は相かわらず、ガラス玉のように遠いところを見つめていた。そうして少しも動かないのであった。まるでつくりものの目だ。

 火星人の、のたうち廻るのを押さえつけながら、先生は苦しい息の下に、なおも敵の体に気をつける努力を忘れなかった。

 先生は火星人の口を見た。

 口は半ば開いたきりであった。そうしてうるおいがなく、動かなかった。もちろんそこからはげしい息づかいも聞かれなかった。どう考えても火星人は、こしらえものの首を肩の上にのせているとしか思われない!

(おどろいた。火星人のやつめ、こしらえものの首をのせているらしい!)

 先生が下に組みしいているこの火星人だけが、そうではないのだ。丸木だと思われる怪人も、この前、首をころりと落したことがある。

 先生は急に、気持が悪くなった。首がなくて、生きていられるなんて、不思議なことだ。とても、ほんとうだと、思われないことだ。

 だが火星人は、まさしく首なしで生きているのだった。それをしょうこ立てるように、ちょうどその時、先生の下でもがいていた火星人の首がもげて、ころころと向こうへころがって行った。

「あっ、とうとう首が落ちた!」

 あまりの奇怪さに新田先生は、もうたまらなくなって火星人の腹の上から飛びのこうとして上半身をおこした。その時であった、先生がもう一つの、おどろくべきものを見たのは……。

 それは、一体何であったろうか?

 新田先生が、上半身をおこした時、先生は火星人の胸についている大きな二つのボタンに、ぐっと睨まれたように思ったのである。

 ボタンに睨まれる?

 そんなことがあっていいであろうか。とにかく、確かに大きな二つのボタンに、睨まれたような気がしたのであった。そうして確かに、そのボタンはぐるぐると目玉のように、動いたのであった。

「ああっ」

 先生は思わずさけび声を立てて、もう一度その目玉のように動く大きなボタンを見た。すると、どうであろう。奇怪にも、今の今まで見えていた二つのボタンは、あとかたもなく消えて、火星人の胸は前のように、ドラム缶のように固い表面があるきりだった。

 この時火星人は、す早くはね起きた。

 気味の悪い火星人と組みうちをやって、新田先生は、いろいろと不思議な目にあった。火星人の首が、今にも落ちそうになっていたことや、その火星人の声が、肩のあたりから聞えたことや、それからまた、火星人の胸に、目玉のように動く大きなボタンがちらと見えたと思ったら、また直ぐなくなってしまったことなど、どれ一つとして、不思議でないことはなかった。

 火星人の体には、いろいろの、ひみつがあるらしい。少くとも地球の人類が持っている体とは、そのつくり方が、たいへん違うようだ。

 新田先生は、この時以来、どうかして、火星人の体のひみつを、ぜひ早く知り尽くしたいものだと考えるようになった。火星人の体のひみつが、はっきりわからなければ、こうして火星人とつきあっていても、何だか安心していられない気がした。

 先生の組みうちの相手になったその火星人は、すっくと立ちあがったが、それで引込むのかと思ったら、そうではなく、またじりじりと先生に向かって来た。

 先生は、もうかなり疲れていたが、ここで弱みを見せては、敵になめられると思い、

「まだ来るか、来るなら来い!」

 と、大手をひろげた。

 すると、さきほどから、両人の組みうちを、かたわらから、じっと見ていた丸木が、急に両人の間に割って入り、何だかわけのわからない言葉をぺらぺらとしゃべった。

 それはどうやら、らんぼうな火星人を叱りつけたものらしい。先生の敵は、すごすごと廻れ右をして、仲間の後へかくれてしまった。

「新田先生」

 と、今度は丸木が先生に話しかけた。

「これ以上、火星人をおこらせないのが、身のためですよ。さっきの話は承知してください」

 怪人丸木が、新田先生におしつけようとするのは、山梨県一帯の山中を、火星人にゆずりわたせということだった。

「そんなことを言っても、私には、きめる力がないのだ。それは、政府へ申し込んで下さい。私は、そんなことには何の力もない、一人の教師なんだから……」

「ふふふふ、こまった人間だ」

 と、丸木は、うす笑いをしながら、

「わしの目から見れば、先生であろうが、政府の役人であろうが、どっちも地球の人間と見ることにかわりはない。わしは、これ以上くどくど言うことはやめます。要するに、わしたちの相手は、人間でありさえすれば、誰でもいいのだ。人間どうしの相談なら、先生だとか、役人だとか、そんなうるさい資格が必要かもしれないが、火星人対地球人の相談には、人間が勝手にきめた地位や資格のことを考える必要はないのだ」

 と、丸木は少しむずかしいことを言ったのち、

「ねえ、先生。ぐずぐずしていると、あなたがたの足の下にふみつけている地球が、煙のようになって、ふきとんでしまうのですよ。わしたちは火星人だから、そんなことになっても、一向こまりはしない。こまるのは、あなたがた地球の人間たちばかりだ。そうでしょうが」

 先生は、だまっていたが、もちろん、丸木の言うとおりにちがいなかった。

「だから、先生。あなたは、地球の人間を代表して、わしに返事をしてくれればいいのです。先生がうんと言って承知をしてくれれば、わしたちは出来るだけの力を出して、先生をはじめ地球の人間をすくうつもりです。人間だけではない、牛や馬や犬や猫や、それから桜の木や、松の木や、かつおや、ひらめのような魚や、それから、鶴や蛇や、地球上のありとあらゆるものを、一通りすくい出して、火星につれていってあげる」

「えっ、人間ばかりでなく、たくさんの動物や植物までも、のせて行くのですか」

 新田先生は、火星人丸木の言葉を、おどろいて聞きかえした。

「そうですとも」

「なぜ、そんなことをするのですか。一人でも、多くの人間をのせて行ってもらいたいと思うのに、牛馬や木などに、場所を取られては、惜しいです」

「いや、わしたちは、こう考えているのです。人間だけを火星に持って行ったのでは、向こうで、人間がくらしに困るかと思う。だから、あらゆる植物や動物を、持って行ってあげようと言うのです」

「なるほど。そういうわけですか」

 新田先生も、丸木の言葉が、ようやくわかったような気がした。

「では、そのへんで、わしたちの申出を、承知してくれますね」

「いやいや、丸木さん」

 と、先生はあわてて、丸木をさえぎり、

「その話は、いくら私に相談をかけられてもだめです。政府に話をして下さい」

 すると丸木は、ぶるぶると体をふるわせ、

「どうも君は話のわからない人間だ。もうよろしい。わしたちはこんなことで、ぐずぐずしておられないのだ。兵団長は、もうこれで十五へんも、話はきまったかと聞いて来られた。この上、ぐずぐずしていると、わが火星の大計画はくずれてしまって、とりかえしのつかんことになる。……」

 と、丸木は妙なことを口走って、しきりに足ぶみをした。

 新田先生は、丸木の言った言葉の中から「兵団長」だの「わが火星の大計画」だの「とりかえしがつかん」だのと言う謎のような言葉を、頭の中でおさらいをしてみて、不審顔であった。



32 はいって来た者



 新田先生が、火星人の申出を、うんと言ってきかないので、丸木は、とうとうおこってしまった。

 丸木は、うしろをふりかえって、奇妙な声をあげて、両手を、頭のうえで振った。

 それが、合図であったらしい。うしろに集って、丸木と新田先生との話を、熱心に聞いていた火星人たちは、一時に立って先生に向かって来た。

「な、なにをするっ」

 先生は、近よる火星人たちを、しかりつけた。

 しかし、相手は大ぜいであり、こっちは一人である。もうどうすることも出来なかった。あっという間に、先生は、両手両足を、火星人たちに取られて、真暗な奥の方へ、引きずりこまれてしまった。そうして、やがてどさりと柔かい土の上に、なげだされた。

「あっ、いたっ!」

 先生は、腰骨のところを、したたかに打って、痛さのあまり、しばらくは、呼吸いきが出来ないほどだった。

 先生は、ぐったりとして、地上にへたばったまま身動きさえしなくなった。

 それから、どのくらいたったか、わからない。そのうちに、先生は、ふと、眠りから、目ざめた。冷たい、ひやりとした土が、先生に、

(さあ、しっかりして下さい、先生)

 と、励ますように、思われた。このしっとりとした土さえ、やがて間もなく、数十億年もすみなれた故郷を、奪われてしまうのだ。先生は、なんだか、涙もろくなってしまった。

 先生は、起上った。

 逃げることが出来たら、逃げだそうと思って、手さぐりで、はいだしていった。

 しばらくはっていくと、ぼうっと薄桃色の光が見えた。

(しめた、あれが出口だろう)

 と、はいだしていったが……。

 穴の入口の、うすもも色の光りもの!

 監禁のうき目にあっている先生は、ここを逃出したい一心で、これに近づいた。

 すると、その光りものは火星人だということがわかった。

(しまった!)

 と、思った時にはもうおそかった。

 火星人は、くるりと後をふり向き、先生の方へのこのこ歩いて来た。そうして、右手をふり上げたかと思うと、びゅうんという、うなりとともに、何だか鎖のように固いものが飛んで来て、先生の背をぴしりと打った。

「ああっ!」

 先生は、思わず悲鳴を上げて、そこへ、へたばった。

 火星人は、またぞろ右手を上げた。

 先生はそれを知っていたが、さっき強く打たれたいたみで、もう逃げることが出来ないのだった。

 やがてまた強い一撃が、先生の頭の上に、降って来るかと、先生は目をつぶった。

 しかし次の一撃は、いつまでたっても、上から、降って来なかった。

 不思議に思った先生は、おそるおそる顔を上げた。すると火星人は、いつそこへ来たのか黒マントの丸木の前に、しきりに、憐みを乞うている様子だった。

 丸木は、首を横に向けた。すると、前にかしこまっていたその火星人は、外へ出てしまった。丸木に叱られでもしたのであろうと、先生は思ったことである。

 黒マントの丸木は、先生の方へ寄って来た。何か用事でもありそうな様子である。

 新田先生は、立上って、身がまえた。

 怪人丸木は、ずんずん前に寄って来る。彼の手には、妙な形の灯火ともしびがにぎられている。まるで竹筒のようでもあり、爆弾のようにも見える。

 先生は、じりじりと下った。

 穴ぐらの監禁室の中!

 新田先生は、もうさがれるところまで、後さがりした。

 それでも、黒マントの怪人丸木は、まだじりじりと先生に迫って来る。もうこれ以上、後にさがれない。先生はさっき丸木の言うことに、どうしても従わないと言ったので、丸木は大へんきげんを悪くしているはずだ。こうして、今また丸木が先生の前に迫って来たからには、いよいよ丸木は、先生の体に危害を加えるつもりではないか。

 そう思うと、じりじりと穴の奥まで、追いつめられた先生は、もうどうにも助かる道がないように思った。先生は最後の勇気を出して、自分の鼻の先に迫って来た丸木の顔を、ぐっとにらみつけた。

「おや!」

 この時先生は、非常におどろいた。急にくらくらと目まいを感じたほど、おどろいたのであった。

 それは一体なぜだったろう。

 丸木の眼は、いつも黒く色のついた眼鏡をかけていることは、誰でも知っている。今丸木はマントの下から手を出して、その眼鏡をとったのである。すると、その下から二つの眼が現れて、くるくると動いた。──生きている目だ!

 火星人もそうであるように、怪人丸木もよく自分の首を下に落した。

 ぽっくり下に落ちる火星人の首には、目玉がついているけれど、先に先生が発見したように、その目玉はガラス玉同様で、決して生きている人間の目玉のように動きはしないのである。ところが今、丸木の目玉が、くるくるぎょろぎょろと動いたので、先生は、びっくりしてしまったのだ。なぜ急に丸木の目玉が、生きている人間の目玉のように、動き出したのであろうか? 丸木だけが火星人として、特別仕掛のにせ首を持っているのだろうか?

 先生は、丸木の動く目玉に、気を失いそうなくらいおどろいた。全く丸木という奴は、なみなみならぬ怪物だ。

「しずかに、声を立ててはいけない!」

 怪人丸木が、とつぜん口を開いた。その声は、あたりをはばかるような低い小さい声だった。

 先生は、二度びっくりであった。なぜなら怪人丸木の唇がたしかに動き、その中からは白い歯も見えた。丸木だけは、他の火星人と違って、作り物の首を肩の上にのせていないのか。

「……」

 新田先生は、声もなく恐怖の色を浮かべた。全く、どんなに考えても、正体のわからない奴は、この丸木だ!

「新田先生、何とか返事をしなさいよ。おっとおっと、大きな声を出してはいけない。火星人だの、それから丸木なんかに知れると大変なことになる」

 怪人丸木は、先生の耳のそばに口をつけて、ささやくように、こう言った。

「えっ、丸木に知れると大変だと言って……丸木は君じゃないか」

「違う違う。丸木じゃない。わしだよ。新田先生。わからないのかい」

「えっ、君は、誰?」

「わしだよ、佐々さっさ刑事だ」

「ええっ、佐々刑事? へえ、佐々さんですか。ほんとうですか」

 新田先生は、あまり話が意外なので、信じてよいかどうか、大迷いのかたちであった。

「よくわしの顔を見たまえ。へんな仮装のお面をかぶっているが、わしだということが、わかるだろう。何しろ、こんな竹ぼらのような声を出す人間が、世間にそうたくさんあるものかね」

「ああなるほど、佐々さんだ。あっ、佐々さん、あなたはよくまあ、こんなところへ……」

 と、新田先生は、喜びのあまり、佐々の手に、すがりついた。

「どうしてあなたは、丸木に変装したりなんかして、こんなところへ忍びこんだのですか」

 と、新田先生は佐々に尋ねた。もちろん、大方そのわけは、察しがついてはいたが……。

「わしの任務かね」

 と、佐々刑事は、仮装のお面をぬいで上にあげ、

「わしの任務については、くわしく言うことは、許されていないさ。大江山捜査課長にでも聞いてもらうんだね。しかし新田先生。わしは重大使命を帯びて、こうして火星人に近づいているんだ。わしは今、命がけで仕事をやっているんだ」

 先生はうなずいた。なるほど、単身火星人の群に飛びこむなんて、命がけの仕事でなくて何であろうか。

「それで、その仕事と言うのは……」

「それはやっぱり、あまりしゃべれないけれど、とにかく先生、今夜これから、大変なことが起るよ」

「大変なこと? 佐々さん、それは何ですか」

「今夜の中に火星のボート群が、かなりたくさん、このへん一帯に着陸するだろうよ。火星人はいよいよその数を増して来るんだ」

「えっ、そうですか。それはどうも話が、早すぎますね。さっき私は、ぜひこの山中一帯をゆずってくれと、丸木に責められたんです。もちろん私が、うんと言わないので、丸木はおこっていました。その時の丸木は、まさか佐々さんじゃなかったでしょうね」

「違うよ違うよ。あれは本物の丸木だ。わしはかげのところから、そっと隙見をしていて、知っているよ」

 と、佐々はにが笑いをして、

「そこで先生。わしは、いよいよ思いきったことをやるつもりだよ」

 怪人丸木に変装した佐々刑事が、すこぶる、はりきっているのは、たのもしいことであった。とりこになっている新田先生も、佐々の話を聞いていると、自然に勇気が出て来るような気がした。

「ねえ、佐々さん、私は一つ、大変心配していることがあるんだが……」

「心配ごとって、それは何だね。早く言いたまえ」

「それは外でもない、千二少年の行方のことなんですがね」

「ああ、千二のことか」

「どうです、佐々さん。千二少年は、丸木につれられて行ったんだが、ここで見かけなかったでしょうか」

 先生はどこまでも教え子の千二のことを、心配しているのだった。これも先生なればこそで、まことにありがたいことであった。

 佐々刑事は、首を左右に振って、

「見かけなかったねえ」

「いないのでしょうか。一体、千二少年はどうしたんだろうな」

 先生の目は、憂いに曇った。

「千二の行方も捜さなければならんが」と佐々刑事は言って、

「わしが課長から命ぜられていて、まだ果してないのは、蟻田博士が去年の大地震以来、どうなったということだ。君はその後、蟻田博士と会ったことがあるかね」

「いや、どういたしまして……」

 と、新田先生は首を振って、

「何しろ私はあの大地震以来、つい先ごろまで、病院のベッドに寝ていたんですからねえ」

「ふん、なるほど。考えてみればあの大地震というやつが、我々の仕事をどのくらい邪魔したか知れない。いや、こんなぐちを、今言ってみても仕方がないがね。まあいいや。どんな災難であろうと、困ったことであろうと、もうおどろくものか」

 佐々刑事は、立上った。

 丸木の顔に似せた面をかぶり、黒い眼鏡をかけると、全く丸木そっくりに見える。

「もう、行くんですか」

 と、新田先生は、少し心細くなって、声をかけた。

「そうだ。こんなところにぐずぐずしていて、本物の丸木やそのほかの火星人に見つかっては、せっかくのわしの冒険も、とたんに、だめになってしまうからね」

「あ、ちょっと待って下さい」

 と、新田先生は、佐々刑事を呼止めた。

「佐々さん。ぜひ、この際、伺っておきたいのですが、丸木と火星人とは、別ものなんでしょうか。それとも同じ火星人でしょうか」

「そりゃ、同じことさ。丸木も、確かに火星人だと思われる」

「でも、見たところ、服装が違うじゃありませんか」

「うん、もちろん、丸木という奴は、火星人の中でも、頭かぶの火星人らしい。しかし火星人であることは、同じことさ。丸木は、黒い眼鏡をかけたり、黒いマントを着ているが、わしの考えでは、あれは、人間に近づくため、ああしているのだと思うね。つまり、あの蟻の化物みたいな、火星人独得のへんな体を、見られないためさ」

「じゃ、丸木も、マントを脱ぐと、火星人と同じことですか」

「確かに、その通りだ。しかし、マントを着ていてくれて、こっちは大助りさ。もしも丸木が一般の火星人と同じように、蟻の化物みたいな体をむき出しにしていたら、こんどのように、わしは、彼らの陣営に忍びこむなんてことは、出来なかったろうねえ。何が、幸いになるかわからない。はははは」

 なるほど、佐々刑事の言う通りであった。しかし、彼は、なんという豪胆な刑事なんであろうかと、先生は、改めて感心した。



33 大襲来


 新田先生は、佐々刑事から火星人のことについて、もっとたくさん聞きたかったが、その時、佐々は何かの音におどろき、

「じゃあ、また後で、もう一度来る!」

 と言捨てたまま、新田先生をそこにおいて出て行ってしまった。

 穴の中は、またもとの闇にかわった。そうして、また心細いこととなった。

 それから、かなり長い時間が過ぎた。

 新田先生は、穴の中で空腹を感じながらも、今に何ごとかが、起るだろうと待構えていた。

 その時刻のことは、はっきりしなかったが、とにかく、かなり夜更よふけになって、新田先生は、ごうんごうんという遠雷のような響を耳にした。

「あっ、いよいよ来たなっ!」

 と、先生は、穴の中に、居ずまいを直した。火星のボートが、いよいよこの山中目がけて、やって来たのであろう。

 ごうんごうんという怪音は、先生の耳のせいか、だんだん大きくなって来るようであった。火星のボートが、ますます近づいて来たのであろう。

 ひゅう、ひゅう、ひゅう。

 ぷく、ぷく、ぷく、ぷく。

 妙な声を立てて、火星人たちが、騒ぎ出した。新しくやって来る火星のボートの着陸の用意で、大変いそがしくなったのであろう。

 新田先生は、その時、またもや穴の奥から、そろそろと這出して行った。

(今こそ、脱走するのに、もって来いの時だろう!)

 この騒ぎのうちに、先生は監禁の手からのがれたいと思ったのである。

 穴の中から外の方へ、そろそろと這って行ったが、幸いにも、さっきの番人がいたところに、誰もいない。

「しめたっ!」

 新田先生は、番人のいないのを幸い、どんどんと、穴の中を這って前進した。

 すると、とつぜん目の前に、ぴかっと光りものがした。

 そうして、火星人から奇妙な叫び声をあびせかけられた。

「あっ、見つかったか」

 先生はおどろいたが、かねて覚悟をしていたこととて、いきなり身をひるがえして、後へ戻ると、壁にぴたりと体をつけた。とたんに後を、風のように行きすぎたものがあった。火星人が、先生の跡を追って、穴の奥の方へ行ったのであった。

「今だ!」

 先生は勇気を出して、またもや、穴の入口の方へ向かって、這って行った。まるで、もぐらのような、かっこうであった。

 しばらく夢中になって、這って行くうち、また前方から光りものが現れて、ぱっとこっちを照らした。

「ちょっ、しまった!」

 先生は、今度はいよいよだめかなと思ったが、もう一度と、またぞろ身をひるがえして、壁に体を押しつけた。

 すると、とたんに先生の体は、ずるずると壁の中にはいってしまった。

「ああっ!」

 先生は、声をあげたが、もう遅かった。先生の体は、もんどり打ってころげ込んだ。

 いよいよ深い底なし井戸へでも、落込んだのかと思ったが、気がついてみると、先生は、うすあかりのともった小さい部屋の中にいた。かくし部屋だ。いや、よく見れば、そこは倉庫みたいなところで、いろいろなものが、ごたごたおいてあった。その中に、先生の目にふととまったのは、黒い長マントと黒い帽子とであった。よく見れば、黒眼鏡もあるではないか。

 先生はあることを思いついた。

 黒マントに黒帽子に黒めがね!

 新田先生は、それをじぶんの、からだにつけた。すると、先生は、すっかり怪人丸木とおなじ姿に変ってしまった。

「こういう姿をしておれば、しばらくでも火星人の目をごまかすことが出来るであろう。その間に、何とか次のことを考えよう」

 その時、壁穴のそとでは、先生のあとを追って来た火星人の、ひゅうひゅうという声がした。先生を探しているのだ。

 先生は、もうその時、別の入口から、外に出ていた。あたりには、同じような姿をした火星人が、しきりに、走りまわっていた。もちろん、黒マントのない、はだかみたいな火星人も、たくさんいた。

 黒マントを着ている火星人は、おなじ仲間の中でも、すこしはえらい火星人のようで、先生が、黒マントを着て、前に進むと、はだかの火星人は、さっとからだを横飛にして、先生のため道をあけるのであった。

 こうして、先生は、火星人の中に、うまく、まぎれこんでしまった。

 このころ、先生を追いかけていた番人たちも、もう、あきらめてしまったようである。

 先生は、火星人の間をすりぬけて、穴の入口から外へ飛びだした。

 先生は、久方ぶりに、新しい空気を吸って、元気をとりもどした。

 だが、外は真暗まっくらであった。その上雨風がはげしく、この山中をたたいていた。時おり、ぴかぴかと電光が光って、ものすごさを加えた。

「ああ、たいへんな嵐だ!」

 先生は、一度、雨の中に飛びだしたものの、吹飛ばされそうになったので、また穴の入口へもどらなければならなかった。

 その時であった。あたまの上はるかに、また、ごうんごうんと雷とも違う、気味の悪い音がしはじめた。

 嵐の中に気味の悪いごうん、ごうんという音は、また大きくなって来た。

 がらがら、ぴかぴかと、雷がひっきりなしにあたりの山々に落ちた。そうして、足の下に踏まえている大地が、地震のように揺れた。

 その時先生の目は、一隻の火星のボートのすがたを捕えた。はげしい電光が、あたりを昼間のように明かるく照らした時、先生の立っているところから百メートルぐらい先に、火星のボートがあざやかに着陸するところを見てしまったのであった。

 火星のボートは、例の通り大きな塔のような形をしていた。そうしてボートは、電光に見まがうような明かるい光に包まれながら、空中から降って来たのである。そうして、地ひびきとともに大地に突きささったのである。

 先生は火星のボートが、地面に突きささってから、少し左右にゆらぐところまで、はっきり見てしまった。でも、思いの外やわらかく大地へ突きささった。何かよい方法があって、大地に近づくとともに、スピードをゆるめる仕掛がついているらしい。

 そのうちに、また次の新しい火星のボートが降って来た。一隻ではなかった。二隻、三隻、四隻……いや、数えているひまがない。おどろくべきたくさんの火星のボートは、百雷が一時に落ちる時のように、巨大な光と音とを立てて、空中から舞いおりた。雨と風とは、いよいよはげしさを加え、雷はしきりにあたりの山中に落ちた。

 火星のボートと落雷と、どっちがどっちだかわからないような、恐しい光景であった。

「ああ──」

 と、新田先生は、ため息をついて、全身を雨に打たれながら、もの陰にたたずんでいた。一体これからどうなるのであろうか。



34 火星兵団



 大雷鳴の中に、山梨県の山中に着陸した火星のボートは、その数およそ五、六十隻であった。

 これこそ火星兵団の敵前着陸だ。

 しかるに、地球の人類は、この恐るべき兵団を、やすやすと着陸させてしまったのである。もっとも、誰がこのような火星兵団の襲来を、あらかじめ考えていたであろうか。

 我が日本について考えてみても、これは全く意外な出来事であった。また、そうなるまでの事情はともかくも、いいことではなかった。我が日本は昔から、日本本土を敵に占領されたことはなかった。いくら地球外に住んでいる火星人の襲来だからといって、本土の一部を占領されたことは、決していいことではない。新田先生は、闇の中にたたずみながら、くやしさに涙をぽろぽろと落した。

 たくさんの火星のボートは、いずれも皆着陸が終ったらしい。空中を飛ぶあの大きな音も、もう聞えなくなった。そうして、火星のボートは、船体から例のうすもも色の光を出して、あちこちに塔を並べたように立っていた。

 時々妙な怪音が、ひとしきりやかましく耳を打つのであったが、それは、今着いたばかりの火星人たちが、点呼を受けているのであろう。

 今度はかなりたくさんの火星人が、着いたらしいのであるが、その割に騒ぐ様子もなかった。

(ははあ、それでみると、火星人はかなり教育程度が進んでいると見える)

 と、新田先生は、心の中でひそかに、そう思ったのであった。

 先生は、この上は、何とかして、ここを抜出して、この一大事を出来るだけ早く、警察なり軍隊なりに知らせなければならないと思った。

 新田先生は、そろそろと、もの陰から這出した。今のうちに火星人の目をのがれて、山を下ろうと考えたのであった。

 先生は手さぐりで雑草の間をくぐって、山を下り出した。

 すると下の方から、また例の、ひゅうひゅうぷくぷくと火星人の声がして、こっちへ近づいて来る様子なので、びっくりしてまたもとへ引返した。

 先生は、もとのもの陰に戻ったつもりであった。

 ところが、しばらくすると、先生はそれが間違で、また別の場所へ来ていることに気がついた。

 そこも、一つの洞穴ほらあなであったが、火星人が十四、五人ごろごろと転がっていた。

(これは大変!)

 と、先生がそこを飛出そうとすると、前方から怪人丸木がはいって来た。

 丸木は、洞穴にはいると、大きな声でどなった。それは、先生には何を言っているのか、よくわからない火星人の言葉であった。

 すると、転がっていた一同は、がばとはね起きて丸木の前に並んだ。

 先生はびっくりした。ここで見つかっては大変である。どこかに体をかくすところはないかと、前後左右を見廻すと、ちょうど幸いにも、あまり大きくない機械を、山のように積上げてあるところがあったので、先生は急いでその後に体をかくした。

 丸木は、先生のいることには、どうやら気がつかないらしく、しきりに火星人を前に、声高に話をしている。一体何の話をしているのか、先生はこれを知りたかったが、火星人の言葉を知らないので、どうにもならない。

 ところがその時、先生は、どこかで人間の小さい話声を耳にした。

 怪人丸木が洞穴の一室で、隊員たちを前に、何かわけのわからない火星人の言葉で、しきりにしゃべっている。その同じ室の隅では、新田先生が、つみ上げられた機械の後に、じっと小さくなってかくれている。すると、その時先生はとつぜん、かすかな人間の声を耳にしたものだから、びっくりしてしまった。

(誰だろう。あのように小さい声で、一生懸命にしゃべっているのは?)

 先生は不思議に思って、声のする方を、しきりにさがしてみた。その声は、どうやら、機械の中から聞えて来るようであった。先生はますますおどろいて、

(はて、このように、機械をつみ上げた中に、誰かが、かくれているのだろうか)

 しかし、それはどうも、ありそうなことと思われない。その声は大変小さい声であった。いや、むしろ大変遠い声だと言った方がいいであろう。小さい声だが、大変はっきりした言葉である。それがしきりにしゃべっているのである。

「……だから、我々は、短い時間のうちに、この重大な仕事をやってしまわなければならない。さもないと我々火星兵団が、危険を冒し、こうして地球上へ来たことが、まったく、むだになる。……」

 はっきりと、そういう声が、新田先生に聞えたのである。

 先生は改めて、びっくりし直した。なぜと言って、この言葉の中には、明らかに、「火星兵団」と言う言葉があった。それから「こうして地球上に来たことが……」などと言っている。この言葉は地球の上で、火星兵団の中の一人が、しきりにしゃべっている言葉らしいことがわかる。それにしても、人間にわかるような言葉(実にその言葉は、日本語だったのである)を使っているのはなぜであろうか?

 先生はあることに気がついた。

 新田先生は、積んである機械の箱の中に、そっと手を差入れた。

 幸いにも、箱の蓋があいているものがあったので、中の機械をさぐることは、思いの外やさしかった。

(おお、これは妙なものだ。電話機のような形をしているぞ)

 先生は、手さぐりでそれをひっぱり出した。それは小さな胸あてのようなもので、真中には、送話機の口と同じに、小さいラッパのようなものがついており、またその胸あての両側からは、お医者さんが使う聴診器のような管が二本、かなり長くついているのであった。例の小さい声は、確かにこの機械の中からしているのであった。

(これは、不思議だ)

 先生は、その聴診器のゴム管みたいなものを、耳の中に入れてみた。しかし、何の音もしなかった。さっきまで、聞えていた例の小さい人間の声もしなくなったのである。

(変だぞ)

 そこで先生は、ゴム管みたいなものを、耳の穴からはずした。すると、また前のように、どこからか、小さい人間の声が聞えて来るのであった。先生は、あせりながら、その機械を、ひねくり廻しているうちに、やっと、声の出るところがわかった。それは、胸あてのようなものの真中についているラッパから聞えて来ることがわかった。

(あっ、ここから聞えるのだ!)

 先生は、耳にあてた。しばらく聞いているうちに、先生は重大なことを見つけた。それは、丸木の声と、この小さなラッパから出て来る声とが、いつも同じ時に大きくなったり、また、とまったりするのである。

(ふうん、この機械を使えば、火星人の言葉が日本語に直って聞えるのだ。すばらしい機械を見つけたぞ!)

 変話機だ!

 変話機が見つかったのだ。

 新田先生は、鬼の首をとったように嬉しかった。変話機のラッパの方に耳をあて、またゴム管の穴を怪人丸木の方に向けると、丸木が、火星人の言葉でしゃべっていることが、みな日本語に直されて、ラッパから出て来るのだった。

 この機械は、あべこべにして働かせると、日本語が、火星人の言葉に直るのであった。そういう場合は、火星人は二本のゴム管の穴を耳に近づけ、ラッパを人間の方に向ける。つまり、その時はラッパが一種のマイクの働きをし、ゴム管のある方が、受話機になるのであった。

(しめた。これはいいものが手にはいった。ようし、丸木が何を言っているか、しばらく聞いていてやろう)

 と、新田先生は、息を殺して、変話機から聞えて来る丸木の言葉に聞入ったのであった。

「……だから、我が隊は、出来るだけ早く、この仕事をすまさなければならない。地球の人間に勘づかれたら、それから後は、人間どもは用心を始めるから、人間をつかまえることが、ますますむずかしくなる。……」

 丸木は、人間をつかまえることについて、話をしているらしい。人間をつかまえるといって、一体誰をつかまえるつもりであろうか。

 丸木の言葉は、なおも続く。

「……我々の計画では、男と女とが同じ数だけ入用だ。ぜひとも男を五百人、女を五百人集めてくれ。このうち、我々が集めて持って行くのは、生まれたばかりの赤ん坊が百人、五歳ぐらいの小さい子供が百人、それから十歳から十五歳ぐらいの子供が百人──つまり子供は三百人だ。その上に、二十五歳ぐらいの若い大人が百人、それから四、五十歳の大人が百人、これでちょうど五百人だ。その外の人間に用事はない。……」

 丸木は、とんでもないことを言っている。

 丸木は、隊員に向かってなおもしゃべりつづける。新田先生は、変話機にかじりついて、一生けんめいに、丸木の話をぬすみ聞きしている。

「……どうだ、わかったろうな、みんな。人間に近づいた時は、さっきも言ったように、なるべく相手の顔を見ないようにしろ。こいつをさらうのだと見当をつけたら、足音を忍ばせて、うしろからどんどん追いせまり、さっき教えたような方法で、早いところ、袋を頭の上からかぶせ、それがすんだら、すぐさま、人間の足を、こういう工合にかついで、例の人間箱の中に入れてしまうのだ。いいかね。……それが出来れば、後は、出来るだけ気を落ちつけて、その人間箱を自分のそばにならべて、ゆっくりゆっくり歩いて行くのだ。その時そわそわしていようものなら、人間箱をつきたおして、せっかくの獲物えものが人間に気づかれてしまったり、また、お巡りさんや刑事に怪しまれて、かえってこっちがとりおさえられるから、出来るだけ用心をするんだぞ」

 新田先生は、これを聞いていて、ますます驚いた。丸木たちは、こんな手で、人間を五百人もさらって行くつもりなのである。

「隊長!」

 と、火星人の一人が、違った声を出して丸木に呼びかけた。

「何用か、三八九」

「ねえ隊長、わしは、どうも人間というものが恐しくてならんのです。ほかの役にかえてくれませんか。たとえば、草とか木とかを集める方へ廻して下さい」

「だめだ、だめだ。われわれは、はじめから一等むずかしい役をすることにきまっているのだ。むずかしい役をやるのだから、われわれは火星兵団の中でも、特別にごほうびをもらっているのだ。姿だって、人間そっくりの道具をもらっているではないか」

 怪人丸木と、その部下の火星人とのあいだに、とんでもない話がつづいている。それは、地球の人間を捕えることについてである。

 これを聞いていた新田先生は、顔色をかえた。丸木は、この前、

(地球がこわれる前に、君たち地球の人間を出来るだけたくさん、すくってあげたいと思っているのだ)

 と言ったが、その当時、丸木たちの親切に、お礼を言ったものだ。ところが、今聞いておれば、丸木は、

(人間を集めるのだ。人間を捕えるのだ!)

 と、部下に話をしているのであった。丸木たちは、人間を捕虜にして、火星へつれて行くつもりらしい。

「けしからん。地球人類が、火星人の捕虜なんかになってたまるものか」

 と、新田先生は、ものかげでひとり歯をくいしばった。しかし、そうは言うものの、地球のこわれる日はもう目の前にせまっている。その上、この洞穴ほらあなで見ていてもよくわかるように、智慧にかけては人間よりも火星人の方がずっと進んでいるようだ。たとえば、火星人の持っている火星のボートだって、じつにすばらしいものである。人間の力では、とてもあのようなものをつくることは出来ない。だから、まともにたたかえば、これはどうしても火星人の勝で、地球人類の負となるだろう。これはたいへんなことになったものである。

「では、二十四時間の後に、お前たちは、人間狩に出発するのだぞ。それまでは十分に養分をとったり、人間に見あらわされないような練習を積んだりしておけ」

 丸木は、隊長らしくおごそかに命令し、そうして心こまやかな注意を、部下たちに与えたのである。

 先生は、さしせまった事件を前になやんだ。



35 佐々さっさ刑事



 こっちは、佐々刑事であった。

 彼は丸木のあとを追ってくらがりの中を歩いているうちに、とうとう相手のすがたを見失ってしまった。

 実はその時、丸木は隊員のところへ行って、例の二十四時間後に、東京へ出発のことを話すため、洞穴の中へはいっていったのである。そうして丸木の話は、新田先生によってすっかり聞かれてしまったのである。

 そうとは知らない佐々刑事は、丸木のすがたを見失ったことを、大変残念に思いつつ通りかかったのが、一隻の火星のボートのそばだった。

 その火星のボートは、例の通り大きな塔のような巨体を、地に対して、すこしかたむきかげんにしてそびえ立っていたが、ふと見ると扉が少しあいている。

「おや、これは……」

 火星のボートの出入りは、かなりきびしかったから、これまでも、佐々刑事はその内部をうかがおうとして、ついに一度も、その目的をはたすことが出来ないでいた。ところが、今めずらしく火星のボートの扉が少しあいていて、中からぼんやりとあかりが見えるのであった。

「ふむ、これはもっけの幸いだ」

 と、佐々刑事は身をひるがえすと、ボートのそばへ近づいた。

 扉に手をかけて中をのぞいたが、いいあんばいに、誰もいない。火星人の番兵か誰かが、扉のかぎをかけ忘れて、どこかへ行ってしまったらしい。

「こいつはしめた。しからば、まっぴらごめんと、中へ入ってみるか」

 佐々刑事は、およそ世の中に、恐しいというものを知らない人間だった。だから扉があいておれば、後のことはたいして心配しないで、のこのこはいって行く彼だった。

 佐々刑事は、丸木と同じような姿をして、火星のボートの入口から中へはいりこんだ。

 誰もいない!

「おやおや、誰もいないぞ。どうしたというのかなあ」

 佐々刑事は、あたりをぐるぐる見廻しながら、しばらくそのへんを歩き廻った。がらんとした部屋で何もない。

 そのうちに、彼は何の気なしに、扉に手をかけて動かしてみているうちに、どうしたはずみだったか、扉が、ぐうっと動き出して、やがてばたんと音を立てて閉まってしまった。

「あれっ、扉が閉まったぞ」

 と、佐々刑事は、扉のところへ行ってハンドルを握り、扉をあけにかかった。

 ところがハンドルは、どうしたものか、右にも左にも、廻らなかった。したがって、扉はしまったきりで、あかないのである。

 あたり前の人間なら、このへんで顔色を変えて、おどろくところであるが、さすがは佐々刑事である。べつだんおどろく様子も、あわてる様子もなく、

「ははあ、扉にかぎがおりてしまったんだろう。が、まあいいや。そのうちに、誰かがあけるだろう」

 と、おちついたもので、彼は次の部屋へはいって行ったのである。

 次の部屋は、大変くさかった。彼がまだ一度もかいだことのない変なにおいであった。その部屋は、休憩室らしい様子であった。ここにも、誰もいなかった。

 もう一つ次の扉をあけると、そこは機械室になっていた。天井は急に高くなって、ビルヂングの床を三階分もぶちぬいたような高さであった。そこは、たしかに機械室には違いなかったが、地球上にある工場では、こんな風変りな機械室を持っているところはない。まるで、化学工場と変電所と要塞砲とを組合わせたような形だ。

 火星のボートの中を、すみずみまでよく見て廻ったのは、人間では佐々刑事が始めてであろう。

 佐々は階段をのぼって、だんだん上へいった。そうしてとうとう頂上までいった。

 すると、どこからか、何かしきりに話をしているような声が聞える。

「はてな、誰だろう?」

 と、佐々は廊下に立ちどまって耳をすました。

 話声は、壁の中から聞えて来るのであった。

「はてな、この壁の中に部屋があるらしいが、どこから出入するのかなあ?」

 と、佐々はあたりを見廻したが、別に扉もない様子であった。

 その時、話声はぴたりととまった。

「おや?」

 と、佐々は壁の方に耳をすりよせた。すると、どこかで、するすると扉の開くような音がした。佐々は、すばやくまたあたりを見廻した。

「あっ」

 ちょうど、彼の立っていたところの後の廊下のまん中に、大きな円い穴があきかかっている。それは、見る見る大きくひろがって、人間のからだがはいれるくらいの大きさになった。佐々は、これを見ると、すばやくからだを伏せた。

 すると、また別のぐうぐうという音がして、穴の中から二つの大きな頭が現れた。

 あっ、火星人だ! 火星人が、そこに残っていたのだ。

 二人の火星人は、佐々の姿を認めてびっくりした。一旦、穴を飛出そうとしたが、また急に引返そうとする。

「こら、待て」

 佐々刑事は、大きな声で叫ぶと、床をけってはねおき、二人の火星人めがけて、

「やっ」

 と、飛びついた。

 佐々刑事は二人の火星人に見つけられ、このまま引込んでは、こっちに弱みが出来ると思ったので、やにわに、二人の火星人に飛びついたのである。

 火星人は、これにはたしかに、肝をつぶしたようである。妙な声をあげると、彼らは、へたへたとその場にへたばった。同時に、三人の体は下に落ちて行った。二人の火星人は、何だかエレベーターのようなものに乗っていたのである。そのエレベーターが、三人を乗せて下に落ちたのである。とたんに、えらい音がした。

「ふん、おどかしやがる」

 佐々は、顔をしかめながら起きあがった。腰骨が折れたかと思ったくらいである。頭の中がびいんとなった。

 二人の火星人はどうしたかと思って、後を見ると、二人とも気を失ったのか、長くのびている。

「こいつはしめたぞ。やっつけるのは、今のうちだ」

 佐々は、ふところから捕縄を出した。刑事として、どこへでも持って行く丈夫な麻縄であった。それをすばやくとくと、二人の火星人の体を引きよせ、それを背中合わせにして、足は足、手は手、首は首という風にしばりあげてしまった。

 さあ、こうしておいて、今のうちに早いところ、火星のボートにおさらばしようと思って、元の出入口まで行ったが、どうしたものか、扉がぴたりとしまっていて、あけようとしたが、あかない。

「あ、やられたかな」

 佐々は、いまいましそうに舌打をした。しかし、あかないものはいつまでたってもあかない。仕方がないので、さっきしばった火星人をおどかして扉をあけさせようと考え、いくつかの階段をのぼって行くうちに、火星のボートは、ぐらぐらと動き出した。

「ああ、あの音は!」

 さすがの佐々刑事も、火星のボートのエンジンが、大きな音を立ててまわり出したのにはおどろかされた。

 彼は、廊下を走った。廊下のつきあたりに、妙な形をして外へつき出した反射式ののぞき窓があった。佐々はその窓に飛びついて、下の方を見た。大きなおどろきが、そこに待っていた。火星のボートは、今や地上を離れて、大空高く、ずんずん上昇して行くのだった。

 はるか下の方には、中空からのまぶしい光に照らし出されて、たくさんの火星のボートが、まるで太い棒を植えたように見える。

 その異様な中空からの光は、佐々の乗っている火星のボートから出ているのであった。これでみると、火星のボートは、エンジンをうんとかけると、ボート全体が、大変明かるく光るらしい。だから、これを遠くから見ると、火柱が天に向かって伸びて行くように見えるであろう。

「ほう、これはえらいことになったぞ。とうとうこのボートは、宇宙へ飛出したらしい」

 この時、佐々刑事の声は、もうあたりまえにもどっていた。別にうろたえている様子も、恐れおののいている様子も見えなかった。

「さあ、これは珍しい旅行をすることになったぞ。このボートは、どこまで行くつもりかしらないが、何しろ、火星のボートに乗って、宇宙旅行をしたのは、わしが始めてだろう。これでまた話の種がふえたぞ」

 と佐々刑事は、おもいの外、落着きはらっていた。

 火星のボートに、とりこになってしまったような佐々刑事であった。宇宙へ飛出したのはいいが、これから果して彼はどんな目にあうことやら……。



36 脱出



 話は変って、こっちは新田先生であった。

 先生は、今はうたがいもなく火星兵団の一隊長であるところの、怪人丸木の恐るべき人間狩の話を聞き、今はもう、ぐずぐずしていることは出来ないと思ったので、先生はくらがりを幸いに、洞穴をうしろにして、山を下りにかかった。

 先生は、肩に大変貴重な品物をぶらさげていた。それはほかでもない、あの変話機だった。それを使えば、火星人の話が、人間の言葉に変って、耳に聞えるという不思議な機械だった。

 先生は、くらがりの山の斜面を、ずるずると二、三メートル下っては休み、耳をすました。誰か、自分の後を追いかけて来ないであろうかと、先生は、心配であった。別に、そのような音がしないのをたしかめると、先生は、またずるずると二、三メートル下って、また耳をすますのであった。もし今火星人に見つけられたら、今度こそ、人間の世界へはもどれないであろう。

 その心配は、時間と共に、だんだん薄らいで行った。火星人は、先生が逃出したことに気がつかないらしく、誰も追いかけて来るものはなかった。

「ここまで来れば、大丈夫だぞ」

 先生は、やきつくようにかわいたのどを、手にふれる残雪をぶっかいて、口の中に入れ、元気を取りもどした。こうして、地獄沢を後に、掛矢温泉へたどりついた時は、もうすっかり夜は明けて、朝となっていた。

 温泉旅館の主人の、弓形ゆがた老人は、庭に出て梅の枝を切っていたが、とつぜんそこへもどって来た先生の姿を発見して、おどろきのあまり、はさみを手に持ったまま、その場へ尻餅をついたほどだった。

「せ、先生。あ、あなたは、まあ、きのうから、どこにいっておいでだったのですか」

 新田先生の体も、へたへたと庭にくずれてしまった。

 先生の顔は、血の気を失って、まっ青だった。目の下には、黒い隈が出ていた。顔はもちろん、手足といわず服装といわず、血や泥にまみれて、どこの人かと思うくらいだ。

 そうでもあろう。病後まだ幾日もたっていないのに、新田先生は、精神の上においても、また体の上においても、非常な苦労を味わったのであった。今まで、途中で、よく倒れなかったものである。

 それというのも、先生が、一つには教え子の千二少年の身の上を心配し、また一つには、やがて地球がモロー彗星と衝突した時の大惨事を思い、どうかして、人類を救いたいとの一心が、こうして、先生を堪えがたい苦しさの中から、ようやく救い出したのであった。

 弓形老人に、先生は手みじかに、火星兵団の先遣部隊の襲来のことを話した。そうして自分は、これから直ぐにこのことを東京へ知らせたいから、電話を頼んでくれと言った。

 弓形老人は、いよいよおどろいて、ぬけた腰が、元にもどらなかった。そこで手を叩いて家人を呼ぶと、その手を借りて、先生と共に家の中にはいった。

 老人が、直ぐにこの話を家人にしゃべったので、旅館内は、さらに大さわぎとなった。さっそく電話を東京へ申し込んだが、急ぐ時は、意地の悪いものでなかなか通じない。

 それでも午前九時ごろになって、やっと、旅館の電話は警視庁へつながった。

 新田先生は、久しぶりに、大江山捜査課長の声を聞いた。

 課長は、新田先生の声が、直ぐにわかった。

「やあ、新田先生。あなたは、もう東京へ帰って来られたんですか」

 と、電話に出て来た大江山課長は驚いていた。そうでもあろう、新田先生にしたところが、あの掛矢温泉につかって、病後の体をゆっくり丈夫にしたいと思っていたのであるが、はからずも、地獄沢の上の怪火に引きよせられ、火星兵団にぶつかったればこそ、こうして早く東京へ舞いもどらねばならなくなって来たのだから。

「大江山さん。私は、火星兵団にあいましたよ。命からがら逃げもどって来たところです」

「なに、火星兵団?」

「課長は御存じないのですか、甲州の山の奥に、火星兵団が、いわゆる火星のボートに乗って着陸したことを」

「それが、火星兵団ですかね。こっちにはそんな報告は来ていないが、昨夜、山梨県でたいへんあざやかな、流星が見えたという話は聞いていますがね」

「昨夜なら、それは、きっと火星兵団のことに違いありません。私は、あの時、火星のボートの着陸するすぐそばにいたのですよ」

 と、新田先生は、手みじかに、昨夜からの出来事を話した。

「ふうん、それはたいへんなことだ。あまり深い山奥のことだから、我々の目には、それほどたいへんなものに見えなかったんだ。よろしい、総監に報告をして、すぐさま手配をしましょう」

「まあ、課長、待って下さい。火星のボートを駆りたてるのも大切なことですが、それと同時に、丸木隊の火星人が、人間に変装して、もうすぐ、そちらへやって行くと言っていましたから、用心して下さい」

「何です、その丸木隊というのは」

「人間をさらって、火星へつれて行こうというのです」

「えっ、それはほんとうかね?」

 丸木隊の火星人が、東京方面へも出て来て、人間狩をするであろうという新田先生の報告は、大江山課長を大変おどろかせた。課長は、はじめのうちはなかなかこれを信じようとはしなかったが、先生が、変話機を使って、親しく丸木の命令するのを聞いたと話をすると、

「ふうむ。そういうことなら、火星人は、本気でやるつもりだな。そういうらんぼうなことは、許しておけない。にくむべき火星人だ」

 と、大江山課長は、机を叩いておこり出した。

「しっかり頼みますよ、大江山さん」

「いや、よくわかりました。早く知らせてくれて、ありがとう」

「大江山さん。私が火星兵団からうばって来た変話機は、大変重宝なものです。これを使えば火星人の話が、ちゃんと日本語になって聞えるのです。この機械は、いつでもお貸ししますよ」

「ありがとう、ありがとう」

 と、課長は厚く礼をのべ、

「しかし、火星人は、先生を一生懸命探しているだろうから、油断がなりませんよ。わしも、先生のことが心配だから、誰か腕利うでききの警官をつけて上げましょう。体がよくなったら、先生、あなたも、ぜひわれわれに力を貸して下さい」

「はい、わかりました。私は、すこし寝たいと思います。その上で、火星人と大いに戦いますよ」

 そこで、先生は電話を切った。

 警視庁では、先生のこの報告には、おどろきもしたがまた喜びもした。

 早速全国に手配をして、火星人に備えることとした。

 さて火星人は、どんな手を使って、人間狩をするであろうか。



37 石けりの子供



 火星兵が、人間狩をはじめる。

 何と、世の中は変ったことであろうか。その昔、地球人類は、火星へ攻めていこうなどと言うことを考えた時代もあったが、今はあべこべに、いつの間にやら、火星兵におびやかされる世とはなったのである。

 地球がモロー彗星すいせいと衝突して、こなごなにこわれる日は近づいたし、その上に、この火星兵の人間狩の恐怖までが加わって、地球に住む人間たちは、二重の大難にぶつかったわけである。

 その火星人と言うのが、どうもいろいろのことから考えて、地球の人間よりも、ずっと賢い生物らしいのは、困ったことであった。

 人間と人間、国と国との戦争においては、いくら相手が強くても、強さが知れている。いくら相手に秘密の新兵器があると言っても、こっちはスパイを使って、ある程度まで、その新兵器がどんなものであるかを、あらかじめ知ることが出来る。

 しかし、火星兵のとつぜんの襲撃には、全く困ってしまった。地球の人間は、今までに、火星兵のことなどを、ほとんど、しらべていなかったのである。火星人のすがたを見たのも、今がはじめてである。

 ところが、火星人の方では、前から、よほど念入に、地球のことをしらべ、地球に住んでいる人間のことまでしらべていたものらしい。ことに、地球の上で世界戦争がおこり、人間同志攻めあい殺しあいしているのを、火星人は、よく知っていたようである。彼ら火星人は、人間たちが人間たち同志の戦争で、ちょうどつかれはてていることを知って、地球攻略の心を起したようにも考えられるのである。

 誰か、火星人のことをよく知っている者はいないか。そうして火星人の弱点をついて、あべこべに、彼らをやっつける者はいないか。こういう時に思い出されるのは、あの火星の研究家蟻田博士のことだ!

 火星人の帝都侵入!

 それは、だまって許しておかれないことであった。およそ、地球の人間をばかにしたやり方であった。口では人間を助けてやるのだと言っているが、その実、このまま人間をほうっておけば、地球がモロー彗星と衝突の日に人間は皆死んでしまうであろうから、人間の死なない前に、その全部を火星へつれて帰り、これを火星の上で飼おうというのが、火星人の腹の中にあるほんとうの考えらしい。

 思っただけでも腹の立つことである。人間ともあろうものが、家畜と同じように飼われたりしてたまるものか。火星の上で、人間がさくの中につながれたり、首に鎖をつけて火星人に引張って歩かれたり、そんな目にあって平気でいられるであろうか。火星人は、地球の人間の弱みにつけこんでいるのだ。人道から見て、許しがたいことである。

 ある人々は、この際だから、火星人に助けを求めるより外なかろうと、弱音をはいていた。火星の外に、人間に近い生物のいる星はないのであるから……。

 だが、そう言う人々は、だんだん火星人の腹黒さがわかって来るとともに、口をつぐんでしまった。彼らもやはり火星人のため、人間が奴隷のように使われることが、いやだったのであろう。

 この、まことによくない火星人の心掛は、どうして起ったのであろうか。火星人は、みな悪者の生まれかわりであろうか。これから後、だんだんと、火星人の残忍な行いが、読者諸君の前にあらわれて来るであろうが、火星人こそ、人間の考えではとてもわかりっこないほどの奇怪な生物であったのだ。火星人が、なぜそれほど平気でむごたらしいことをやるか、その謎は、やがてはっきりするであろう。恐しい強盗殺人犯どころか、鬼畜にもまして、火星人は冷たい心の持主なのだ!

 下町の、とある横町の道ばたで、女の子が五、六人、チョークで白い輪をかいて、楽しそうに石けりをしていた。

 その時、向こうの辻に、黒い帽子に、黒い長マントを着、黒い眼鏡をかけた同じような姿の人が、五、六人あらわれた。

 長マントの連中は、辻のところで、こっちの方を見た。女の子たちが、楽しげに遊んでいるのを見ると、彼らは、何事か話し合っていたが、そのうち、あまり広くもない横町を、一列になって進んで来た。

 あいにく、ちょうどその時、この横町は、子供の外にだれも外に出ている者もなく、また通行人もなかった。だから、長マントの連中は、そのままずんずん歩いて子供の方に近づいた。

 女の子たちは、石けりに夢中になっていた。その時、長マントの一隊が近づいたことも知らないようであった。はっと気がついた時は、もう遅かった。

「あら、おじさん。線の上を通っちゃ、ひどいわ」

「あら、あたしの石をけとばしてさ。いやあよ」

 長マントの連中は、なにも言わなかった。そうして一列になったまま、そこを通って行った。

 彼らが通っていった後には、チョークでかいた石けりの白い輪はあった。石けりの石も、そのままそこにあった。しかし、どうしたわけか、今の今まで、そこに楽しそうに遊んでいた五、六人の女の子の姿は、どこにも見えなかったのである。

 長マント隊は、そ知らぬ顔をして、ずんずん向こうへ歩いて行く。だが、別に子供をつれている様子も見えない。ただ彼らのマントが、風もないのに、どうしたわけか、へんに波うつのであった。誰かそこへ行って、マントの下を見てやるとよかった。

 こうして、かわいい女の子たちが、火星人にさらわれてしまったのである。

 火星人の帝都侵入のことは、いち早く放送されもし、新聞でも注意するように大々的に書きたてたが、不幸にも、帝都の市民の多くは、そんなばかばかしいことがあるものかと、信じなかった。だから、火星人の人間狩は、案外うまくいったようである。

 こんなこともあった。

 或るお嬢さんが、駅の裏手のさびしいところで、立木を背にして、誰かを待っていた。すると、いつの間にか、その後へ、例の長マントの火星人が三人あらわれた。

 あたりは大変さびしかったので、待っている人のことで、心をうばわれていたこのお嬢さんだったが、きりきり、きったん、きったんと言う機械的な音が、じぶんの後に聞えたので、はっと気がついて振向いた。

「あれっ」

 お嬢さんは、とたんに悲鳴を上げた。そうでもあろう。同じ服装の三人の長マントの男が、すぐ自分の後に立っていたのだから。

 お嬢さんの悲鳴は、一ぺんきりで終った。それとともに、お嬢さんの姿は、かき消すようになくなっていた。

 お嬢さんの悲鳴は、かなり大きかったので、駅の建物から若い駅員が走り出た。そうして声のした方を、きょろきょろと見廻した。しかし、そこには女の姿はなかった。ただ三人の黒い長マントの紳士が、廻れ右をして、向こうへ歩いていくだけであった。

「もしもし、もしもし、お待ちなさい」

 駅員は、三人をあやしいと見てとって、後から呼びとめた。ところがあやしい三人は、それが耳にはいらないのか、ずんずん向こうへ歩いていく。

「もしもし、お待ちなさいと言ったら」

 若い駅員は、かけ足で三人の後に追いついた。三人は、一せいに後を振向いた。おやというようなかっこうをした。一つのマントが、ぱっとひるがえったように思われた。とたんに、若い駅員の姿も消えうせた。

 火星人の人間狩のことを書きつづけていくと、大変恐しくもあり、またおもしろいが、きりがない。

 人間狩をする火星人は、うっかりしている人間ばかりを襲ったので、かなりたくさんの人間が、さらわれていながら、その割に、被害報告が、すぐには警視庁へは集らなかった。それがますます火星人をして、人間狩に成功させ、彼らを喜ばせたのであった。

「火星人は誰にもそれとわかる、黒い帽子に、黒い長マントを着ています」

 と、拡声機からは、特別公示事項の放送が、ほとんど絶えまなく行われた。しかしそれは、もう午後になってからのことで、かなりたくさんの人間が、さらわれてしまってから後のことであった。

「でありますから、黒い帽子に黒い長マントに、黒い眼鏡の怪しい人物を見かけたら、すぐに、もよりの交番へ駆けつけるなり、大声でそれを知らせながら火星人と反対の方へ走り、なるべく狭い横町に駆込んで下さい」

 などと、妙な注意が、しきりに放送されたのであった。

 だが、中には、案外そんなことに注意していない人もあった。

 その夜のこと、或るさびしい町の電柱の下に、一人の紳士が、倒れていた。彼は、真赤な顔をしてわけのわからぬひとり言をぶつぶつしゃべっていたから、これは酒を飲んだ酔払であるに違いなかった。

 そこへ黒マントの紳士が三人、ひょっこりあらわれた。三人は酔払紳士のそばに、例のごとく近づいていった。

「あははは、くすぐったい!」

 と、かの紳士の声がしたかと思うと、もう次の瞬間には筋書通りに、紳士の姿は消えてなくなっていた。とうとう火星人にさらわれてしまったのだ。やれやれ気の毒、気の毒!

 そのよっぱらい紳士は、まことに、奇妙な目にあったと、後に人に語ったことであった。それは、彼が、火星人のためにさらわれて行った経験談であった。

 あの時、彼は、かなりよっぱらっていた。だけれど、まだいくぶんは気がしっかりしていた。彼は、かなりよっぱらっていたこともおぼえていたし、また、電柱のそばで電柱と話をしていたようにも、おぼろげながら思い出すのであった。

 ところが、そのうちに、どこからか、足でも引きずっているような音が聞え、それが自分のそばへ近づいて来ることも知っていたのだ。彼は後へふり向こうとしたが、体が言うことをきかなかった。何しろあまりよっぱらっているので……。

 その時、彼は急にからだを引きあげられたように思った。エレベーターが、こんなところにあったかななどと、へんなことを思った。

 ばさり! ぱたん!

 そんな音が聞えたように思う。

 すると彼は、にわかに息ぐるしくなった。が、彼の体は、ひとりでゆらゆらとゆれはじめた。何か乗物に乗っているような気がするのであった。

 その時へんなにおいがした。一体なんのにおいであろうかと彼は考えていた。

 しばらくすると、その乗物がぱたりととまった。すると、乗物の窓がぱたんとあいて、人の顔がのぞきこんだ。それは火星人の顔であったのだが、そんなことには気がつかなかった。

(こんな年よりはだめだ! どこかへ捨ててしまおう)

 と火星人が言ったことも、もちろんその紳士は知らなかった。そうして次に気がついた時、彼は、牛小屋の中に寝ていたのである。火星人のため、牛小屋へほうりこまれたことも知らぬ彼だった。



38 ころがる胴



 恐るべき人間狩!

 ラジオがどんなにか警報を発しても、火星人の襲来などと言う夢のようなことを信じない人々は、平気で町を歩いていたものだから、火星人は、ますます図に乗って、帝都を荒して歩いた。

 だが、その中には火星人の方が、人間のためにうまくしてやられた場合もないではなかったのである。

 ある小学校の六年生たちが、ラジオで人間狩のことを知って、だんぜん火星人と戦う決心を定めた。

 小学生たちは、十人ずつ組になって、方々へわなを作った。

 火星人の通りそうなさびしい町の辻をえらんで、そこに丈夫な綱で結び綱のわなを作って、夜のふけるのもかまわず待っていたのであった。

 大手がらを立てた組は、大変いいところへ、そのわなを作った。その小学生の五人は、陸橋の上に待っていた。残りの五人は、陸橋の下にわなを仕掛けた。

 こうして待っていると、やがて例の黒い長マントの火星人が、三人づれで通りかかった。

「ほう、来たぞ、来たぞ。あれはきっと、火星人だよ」

「うん、そうらしい。黒い長マントを着ている。橋の上にも知らせてやれ」

「しいっ! 騒いじゃだめじゃないか。火星人にさとられると、だめになっちゃうじゃないか」

 下の組は、橋の上へ石をほうり上げて、火星人の近づいたことを知らせた。上の組でもあやしい影が近づくのを、さっきから気づいていたのだった。

 それを知ってか知らないでか、火星人はしきりにあたりに人間がいないかと注意をしながら、ゆったりゆったり歩いて来る。そこを、待っていた小学生が、それというので上下からわなの綱を引いた。

 小学生と火星人との戦いだ。

 火星人は、大変あわてている様子である。何しろ、足の方を太い綱で作ったわなにしめつけられて走れないで困っているのに、陸橋の上からは、また別のわなが落ちて来て、火星人の胴中どうなかを、ぎゅっとしめつけているのだから……。

「ほら、もっと引け!」

「もっと引くんだ。火星人を生けどったよ」

「わあい、火星人の宙づりだ」

 上と下との十人組が、火星人を互にひっぱり合うものだから、かわいそうに、火星人は、陸橋の下に宙ぶらりんになってしまって、まるでくもの巣に、蝶々がひっかかったような有様となっていた。

 ひゅう、ひゅう、ひゅう。

 ぷく、ぷく、ぷく、ぷく。

 火星人のつれが二人いた。

 この二人は、仲間を助けたいと思って、何とかしようと手を出すのであるが、上の火星人があばれるのでどうにもならない。

 その中に、宙づりになっていた火星人の足が、つけ根のところからぽろりと落ちた。

「あっ、足がぬけたぞ」

 陸橋の上の小学生は、一生懸命に力を入れてひっぱっていたので、宙づりの火星人の足がぬけたと同時に、力があまって、どうんと後へ尻餅をついた。しかし、彼らは大事の綱だけは、手からはなさなかった。

 綱は、ぴんとはりきった。

 綱の先のわなは、足のない火星人の胴から上に動いて、首にひっかかった。ところが、あいにく、そこに橋桁があったものだから、火星人の首は、その下にはさまってしまった。小学生たちは、そんなこととは知らないで、とび起きると、力をあわせて、また綱をううんと引いたので、とたんに、火星人の首がぽろりともげ、胴だけが下に落ちてころげはじめた。

 火星人の足がもげ、首がもげ、そうして、もちろん帽子もマントも、どこかへ飛んでしまい、まるでドラム缶のような形をした火星人の胴だけが、ころころところげ出したのであった。

 陸橋の下はすべりのいい、アスファルトの斜面の道だった。だから、火星人の胴はその上をころころと坂下の方へころげ、だんだんと勢いが早くなって行った。

「うわあい。火星人待て!」

「火星人じゃないよ、火星人の胴中待て!」

「わっ、胴中め、ころがって行くので、早い早い。そら、もっとヘビーをかけて追いかけなくっちゃ……」

 と、小学生たちは、わなの綱をそこにほうり出すと、火星人の胴中を一生懸命に追いかけて行った。

 胴はゴムまりのようにはずみながら、坂を一気に下った。その時は、もう大変な勢いだった。大きな砲弾が飛んで行くようであった。

 坂下の十字路!

 そこを火星人の胴が、坂を下りて来た勢いで通り過ぎようとした時、それに交叉する他の道から重戦車が行進して来たので、あっと言う間に、火星人の胴は重戦車に、はね飛ばされてしまった。

 ぐわあん。

 ひどい音がした。重戦車もかなりの勢いで、そこを通過中だったので、火星人の胴は、一たまりもなくこわれて、戦車の下敷になってしまった。

 附近に居合わせた人々は、あまりの突発事件に息をとめて、戦車の下を見まもった。

 戦車は通り過ぎた。

 そのあとには、瓦のように厚い、そうして瓦のかけらのような青黒い破片が、ばらばらとあたりに散らばっていた。そうして、そこにもう一つの不思議なものがころがっていた。

 戦車が火星人の胴中をばらばらにこわしてしまって、その上を通り過ぎたあとに、瓦のような厚みを持ち、そうして瓦のように青黒い破片があたりに飛びちり、そうして、その外にもう一つの不思議なものがころがっていたと言うが、その不思議なものとは、一体何であったろうか。

 それは全くえたいの知れないゴム製のたこのようなものであった。しかし決して、たこではなかった。その色はへんに青く、その大きさは、大きなゆでだこぐらい──つまり、大きな猫か、中ぐらいの犬ほどの大きさしかなかった。

(ああ、何だろう、あそこにころがっているものは?)

 と、そばにいた人々は、不思議に思って、こわごわその方を見つめていると、そこへ一匹の白っぽい大きな犬が飛出して来て、あっと言う間に、その不思議なゴムだこ──とでも言う外言いようがないが、そのゴムだこに、ぐわっとかみつくと、口にくわえたまま、向こうへ走って行った。

「あっ、あの犬を、追いかけろ」

 やっと駈けつけた小学生の一団も、犬が不思議なものをくわえて行くのを見た。

「何かくわえて行ったぞ」

「へんなものが、火星人の胴から出たんだそうだ。あれは皆、ぼくたちのだから、あの犬からうばい返せ!」

 そこで、小学生の一団は、大きな犬──それは多分、グレートデーンと言う種類の犬だと思われた──その大きな犬のあとを追いかけた。だが、犬はどこへ逃げこんでしまったか、なかなか行方は知れなかった。犬のくわえて行ったあの不思議なゴムだこの正体も、結局、何が何だかわからなくなった。ただ、人々の記憶に残ったのは、火星人の胴がこわれたこと、そうして胴中から、へんなゴムだこみたいなものが飛出したこと──この二つだった。

 大きな犬がくわえていったゴムだこみたいなものは、その後どうなったか、誰も知らない。

 その時の小学生たちは、そのゴムだこのことなどがあきらめきれず、いつもそのことを話し合う。

「あのゴムだこは、どうしたんだろうね」

「ああ、あのゴムだこをくわえていったの、大きな犬だね」

「グレートデーンという犬だろう、あの犬は」

「うん。そんなことは、どうでもいいんだ。僕はあの犬をきのう見たよ」

「えっ、見たかい、それでどうしたの。ゴムだこをくわえていなかったかい」

「だめだめ。そんなにいつまでも、ゴムだこを、くわえてなんか、いるもんか。でも、どこかにくわえていって、埋めてあるのかも知れないと思ったからね。僕はあの犬のあとをしばらくつけてみたよ」

「そうかい。犬のあとをつけたのかい。そうして、どうだったい。ゴムだこを埋めてあるところが、わかったかい」

「いや、それもだめさ。あの犬はごみためばかりあさって歩いたが、ゴムだこを埋めてあるようなところへはいかなかったよ」

「へんだね」

「全くおかしいね。第一、あんなりっぱな犬が、ごみためばかりあさるのはおかしいよ。だって、あの犬は三、四百円もする高い犬なんだぜ。飼主が食べ物をやらないはずはない」

「そんなことは、わかりゃしない。モロー彗星が地球と衝突する日が近づいているんだ。どんなりっぱな犬でも、犬のことなんか、かまっていられないよ」

「なるほど、それもそうだね」

「それより、僕は、あのゴムだこについて不思議に思うことがあるんだ」

「えっ、不思議に思うって、何がさ。……」

 小学生たちの話は、なおもつづいた。

「だって、そうじゃないか。僕たちは、人間狩に出て来た火星人を生けどりにしたと言うんで、たいへんほめられたね。ところが、あの火星人という奴は、僕たちが投綱でひっくくってみれば、足はぬけるし、首もぬけちまうしさ、胴中ばかりみたいになって、ごろごろころげ出したろう」

「そうだ、そうだ。そうして戦車にぶつかって、火星人の胴は、こなごなにこわれてしまったんだ」

「うん、その時、あのゴムだこみたいなへんなものが、胴の中からころがり出したんだが、あれは一体何だろうねえ」

「あれは火星人のはらわただよ。きっとそうだ」

「おかしいなあ。はらわたなら、ぐにゃぐにゃしているはずじゃないか。僕は、はっきり、みたんだけれど、ゴムだこは干物みたいだったぜ。そうして、僕の目には、その干物みたいなものに、たしかに首がついていたように見えた。首だけではない、大きな目がついていたよ」

「そうかしら。そんなばかばかしいことはないだろう。はらわたに首があったり、目があったり……」

「でも、たしかにそうだったんだから仕方がないよ。だから、不思議だと言うんだ」

「そうかなあ。ほんとうかなあ。ほんとうだとすると、なるほど、これは不思議だ。胴中から首があるものが飛びだすなんて」

「ああ、わかった、わかった。じゃあ、それは、火星人の子供なんだよ。ひきころされた火星人の腹の中に、その子供がいたんだ」

「子供? 子供なら、やはりぐにゃぐにゃしていなきゃあならない。あれは、干物のようにこちこちだったよ。子供じゃないだろう」

「そんなことを言うと、ますますわけがわからなくなるじゃないか」



39 秘密とける日



 火星人の胴がばらばらになって、その中から飛びだした不思議なゴムだこのようなものの正体について、三人の小学生はたいへん知りたがったが、彼らの仲間では、ついにそれをとく力がなかった。

 その前に、新田先生たちが、火星人の首がぽろりと落ちることを発見している。これも全くわけのわからないことだ。

 一体火星人は、どんな体を持っているのであろうか。火星人は鉄の体を持ち、そうして首がはなれ、手足がはなれ、それから胴中がわれて、へんなゴムだこみたいなものが飛びだす。何ということであろう。人間の知識では、火星人の体の秘密について、いくら答えを出そうとしても、それを出す力がないのではなかろうか。

 まず、その通りであった。火星人は、地球の人間のことを、前からくわしく研究して知っていたけれど、人間の方では、火星人の研究をしているものが、ほとんどいなかったのであるから、仕方がないであろう。

 だが、ついに火星人の体の秘密が、すっかりわかる日がやって来たのである。実にすばらしいことだ!

 それは、一体誰が答えを出したのであろうか。それが、誰であったかをここで言ってしまうよりも、私は、その後の新田先生の一生懸命な働きについて、お話をするのがいいだろうと思う。

 新田先生が、火星人の変話機という機械をみやげに、東京へもどって来たことは、前に言った。そうして先生は大江山課長などに、火星人が人間狩をはじめるから、用心するようにと知らせた。そうして先生は、火星人からうばって来た変話機を用いて、しばしば思いがけない手柄を立てたのであった。何しろ火星人が、何かものを言うと、その意味がすぐさまこっちにわかるので、火星人はよく不意をうたれて追っぱらわれるようなことがあった。

 だが、火星人は、いつも大江山課長を隊長とする警察隊のために、追っぱらわれるだけで、ついぞつかまったことはない。何しろあの強力な火星人のことであるから、人間があたりまえに向かったのではとても相手にならないが、変話機のおかげで、東京における火星人の人間狩の計画は、夜のふけるにつれて、めちゃめちゃになってしまった。

 警視総監は、別に命令を出して、火星のボートがたくさん着陸している山梨県の山奥へも、討伐隊を向けたのであった。ところが、この方は大失敗に終った。数百名からの、警官隊は、火星兵団のため見事にやっつけられてしまったのである。

「とても、警官隊ではだめです。兵隊さんに出かけてもらわなくては、とても勝味がありません」

 と、心細い報告が大江山課長のもとへ、届いたのであった。

「ふうん、残念だ」

 と、課長はその報告文を手にして歯を食いしばった。

 新田先生はそのそばにいたものだから、悲しむべき警官隊の敗退を、すぐ知ることが出来た。

「ねえ、大江山さん、失礼ながら警官隊だけでは、火星兵団はどうにもなりませんよ。軍隊を向けるにしても、重砲か重爆撃機を持っていかなくては、とても攻略は出来ないでしょう」

 と、自分の思うところを述べた。

 課長はだまってうなずいた。

「だが、軍隊を出すということは、そうかんたんにいかないのだ。総監はどんな目にあおうとも、ぜひとも、警官隊でもって、火星兵団をつかまえるようにと厳命しておられるのだ」

「課長さん。それはどう考えても無理な話ですよ」

 と、新田先生は、正直に考えを言った。しかし、先生とて総監や課長の苦しい胸の中を察しないではなかった。

 火星兵団の先遣隊を討伐に向かった決死警官隊は、どれもこれも、ひどい損害をこうむり、本庁には次々に、全滅の報告が舞いこんだ。

 東京市内の警戒のため、夜通し町の辻に立って、任務をつづけている大江山課長は、その報告がやって来るたびに、さらに顔を暗くした。

 新田先生は、いつも課長のそばについていたが、課長の苦しそうな表情を見るにつけて、先生もまただんだん苦しくなって来た。

(これは、こんなことをしていたのではいけない。何とか、ここで我々がもりかえさなければ……)

 先生は、どうしたらよいかとそれを考えたが、すぐに名案も浮かんで来ない。

「ねえ、新田さん。せめて佐々刑事に連絡をとる方法がないものかねえ」

「さあ、困りましたな」

 と、先生は首を振って、

「もう佐々さんが、山から下りて来てもいいころなんですが、何をしているのでしょうね」

 新田先生は、佐々刑事が火星のボートに乗って、宇宙にとび出したことを知らない。先生が知らないくらいだから、大江山課長が知るはずがない。

「では、もう一度、私が山へ上ってみましょうか」

 と、先生は言出した。

「いや、それはいけない」

 と、大江山課長は強く言って、

「佐々は、火星人に殺されてしまったのかも知れないのだ。この上あんたが行って、またそれっきりになったら、どうして火星人を攻めて行ってよいか、見当がつかなくなる」

「だって、私などが……」

「いや、この上は、火星人のことを少しでも知っている者は、大事にしておかなければならない」

 先生は、その時、はっと気がついた。

 蟻田博士のことを。

「大江山さん。蟻田博士のその後の消息は、わかりましたか」

 大江山課長は、帽子のあごひもをしめ直しながら、

「その蟻田博士のことなんだが、我々も、一生懸命にさがしているんだが、手がかりなしでね、全く残念なんだ。博士が見つかれば、我々は、きっと何か火星人について、大切なことが聞出せると思うんだが……」

 と、ほんとうに残念そうに言った。

「大江山さん。あなたは、蟻田博士を、どう思っているのですか」

「どう思っているとは?」

「つまり、博士はいい人だとか、悪い人だとかいうことです」

「さあ、そんなことは、うっかり言えないがねえ」

 と、課長はつつしみ深い口ぶりで、

「ここだけの話だが、前には、蟻田博士は、おかしいと思っていたんです。しかし、こうして博士の予言通りに火星兵団が攻めて来た今日、私は博士はおかしいとばかり、きめてしまうわけにはいかんと思う」

 大江山課長は、前のことを思い出しながら、しんみりと、ただ今の気持を先生に話した。

「じゃあ、蟻田博士が、とうとい大学者であることを、大江山さんはみとめたわけですね」

「まあまあ、それに近いと思って下さい。だが、我々は博士について、全く気を許してしまうわけにはいかないと思っている」

「え、気が許せないというのですか。それはまた、なぜです」

「それはつまり、これもここだけの話だが、蟻田博士は、火星のスパイではないかと、そんな気もするのだ」

 大江山課長は、蟻田博士が火星人のことなどをよく知っているが、火星のスパイではないかと思うと言う。

 それを聞いていた新田先生も、実は、自分の先生である蟻田博士が、いい人であるか、それとも悪い人であるか、はっきりわからなかったのである。博士の日頃の行いは、あまりにとっぴである。人間ばなれがしている。博士から、教えを受けていた昔のことを思い出してみるのに、博士は、ただもう学問のことに、いつも夢中であって、学問のためなら、その外のどんなことでも、捨ててしまうというたちであった。だから、学問のためなら、大江山課長がうたがっているように、或は、火星のスパイとなって、地球人類を陥れるかも知れないと、そんな風に思われて来るのだった。

(もし、博士が、ほんとうに火星のスパイを働いているとすると、これは許しておけないことである。これはどうしても、博士を探し出し、ほんとうの気持をたしかめてみる必要がある。何しろ、火星の学問をおさめている学者として、博士以上のえらい人はいないのだから、ぜひとも、博士が火星の味方をしないように説きふせなければならない)

 と、新田先生は、ついに、はっきり自分の覚悟をきめたのだった。

「大江山さん。私は、これから行って、博士を探して来ます」

「何、博士を探しに行くというのですか」

 課長は、びっくりした。

「そうです。すぐ出かけます」

「それは、我々にとってもありがたいことだが、新田さん、あなたには、博士がどこにいるか、わかっているのかね」

 博士はどこにいるか?

 もちろん、新田先生は、博士の居るところを、はっきり知らなかった。だが、先生は、あるところへ見当をつけていた。



40 地底ちていの声



 行方不明の蟻田博士を探すために、新田先生は、ただ一人で出かけた。

 この夜更、しかも火星人が人間狩をはじめていて、往来のあぶない時にもかかわらず、先生は、だんぜん出かけたのである。

 大江山課長は、先生の強い決心を聞いて、ぜひとも警官を五、六人、連れて行くようにとすすめたのであるが、先生は、考えるところがあるから、一人で行くと言って、護衛の警官のついて来るのを断った。

 さて、新田先生はどこへ行くのであろうか。

 先生の足は、博士の研究所のあった麻布の高台へ向いた。夜の町を歩く先生は、度々、非常線にひっかかって、警官からきびしい取調を受けたが、その度に大江山課長から貰った通行証を差出して、そこを通して貰った。ついに、先生が博士の研究所跡にたどり着いたのは、真夜中の二時のことであった。

 研究所跡!

 あのりっぱな天文台の円い大きな屋根も今はない。あの日の大地震で、すっかり崩れてしまったのである。先生が勉強していた本館も、今は地上に崩れてしまって、石塊の間からは、雑草が芽を出していた。雲間をもれて来たうす明かるい月光が、蟻田博士の研究所跡を照らし出して、見るからに、はだ寒い荒涼たる風景の中に、新田先生は気もぼんやりして、たたずんだのである。

「ああ、これでは博士を見つけることなんか、思いもよらない!」

 新田先生は、深いため息とともにつぶやいた。ひょっとしたら、研究所跡のどこかに、博士が小屋がけでもして、がんばっているのではないかと思ったが、見渡したところ崩れた跡はそのままであって、博士の住んでいる様子はどこにもなかったのである。

 蟻田博士の天文台の崩れたあとに、月光は、ぼんやりと光をなげている。まるで墓場のような風景である。ただ一人そこにたたずんでいる新田先生の心には、言いあらわせないほど、いろいろの思いが、わいて来た。

 博士は、どうしているのであろうか。

 そうして、博士は一体いい人なのか悪い人なのか。そうして、また大江山課長の言うように、ほんとうに火星のスパイをはたらいているのであろうか。

 博士の研究所は、このように、めちゃめちゃにくずれている。だから、博士はどこへ行ったことやらわからない。とにかく、こんなところに博士がとどまっていないことは、たしかであろう。

 先生は、深夜にせっかくここまでやって来たが、こんなわけでかなり気を落した。こうなれば、どこか別のところを探しに行くより外に仕方がないと思った。が、しかし、何か博士の行方について、手がかりになるようなものが落ちていないかと、あたりを見まわした。

 その時、先生の目にとまったものがある。

「おや、これは、後から掘りおこした穴のようだ」

 先生の足もとには壁がくずれて、コンクリートの塊や木材が、ごたごたと折重なっていたが、そのコンクリートの塊の間に、人間がくぐれるくらいの穴があいていたのである。それは、ちょうどくずれおちた屋根の下になっていて、遠くから見たのでは、穴のあいていることがわからない。先生は俄に元気をとりもどした。

(ひょっとすると、この穴の中に誰かが、かくれているのではなかろうか)

 そう思って、新田先生は、からだをかがめると、穴の中の様子をうかがった。

(おや、何だか、穴の中で、かすかに人のこえがするようだ)

 先生は、耳をすました。

 穴の中からもれて来る話声は、たいへんかすかであった。新田先生は、全身の注意力を耳にあつめて、それを聞きとろうとつとめた。

 だが何を話しているのか、先生にはよく聞きとれなかった。ただ、その話声は、かなり深い地底から聞えてくるものであるらしく思えた。それにしても、不思議な話声ではある。

(どうも日本語ではないらしいぞ。一体誰が話をしているのであろうか)

 先生は、二重の不思議にぶつかった。

 穴の中へはいって行こうとは思ったが、中から聞えるのが、日本人の話声でないことがわかると、たいへん気味が悪くなって、はいる決心がつかなかった。

 その時、新田先生は、ふと心の中に思い浮かべたことがあった。

(まさかとは思うが、あるいは……?)

 と、持っていた変話機を耳にあててみたのである。すると、どうであろう、穴の中の話声が、たちまち日本語にかわったのである。

(あっ、やっぱりそうだった。中にいるのは火星人だったのだ!)

 先生のおどろきは、たとえようのないくらい大きかった。くずれた蟻田博士邸の下に、火星人の話声がしている!

 先生は、変話機をかたく、にぎりしめて、地下から聞えて来る話声を聞きとろうと、一生けんめいだ。

「……いやだなあ。これはいよいよくさって、落ちてしまうだろう」

「ふん、なるほど。だいぶんひどくなったねえ。何とか手当をしないといけない。博士は、このことを知っているのか」

「知っているよ。博士は、薬を作っているのだ。だが、それはいつになったら出来上るのか、見当がつかないんだ」

「困ったねえ」

 地底からは、火星人の言葉で、そんなことを話し合っているのが聞える。

(火星人が、この穴の中に、かくれているのだ!)

 新田先生は、大変な発見をしたのであった。そんなことがあろうとは、今の今まで夢にも考えていなかった。

 しかし、不思議なのは、火星人の話である。それによると、二人の火星人の中の一人が、何か病気にかかっているらしい。それは、体のくさる病気のようである。博士が、その病気をなおすために、薬をつくっていると言う。博士というのは、たぶん蟻田博士のことであろう。

 くわしいことはわからないが、博士がまだちゃんと生きていることと、そうしてこの附近に姿を現すことが、あきらかになったので、新田先生はますます元気を取りもどした。もう少し、しんぼうしておれば、蟻田博士にめぐりあうことが出来そうである。

(よし、では、中へ下りて行ってみよう)

 先生は決心した。どういうわけで火星人がこんなところへはいり込んでいるのか、そのわけはわからないが、とにかくひとつ、あたってくだけろである。

 先生は立上った。そうして、なるべく音のしないように気をつけながら、足を穴の中に入れた。

 こわれたコンクリートや石塊やが、ごつごつとつき出ていて、その上に足をふみしめ、手でつかまりながら、下りて行くのであるから、なかなか大変なことだった。だが、豆電灯がついているので助った。

 少し行くと、ちゃんとした階段のところへ出た。

(階段だ!)

 その階段には、先生は見覚えがあった。上から下りて来て、急に右へまがる階段である。それは博士が秘密にしていたあの部屋の階段であったのだ。

(ほう、こんなところにつづいていたのか)

 と、新田先生は、うれしいおどろきに、目をまるくした。階段の下には一体何がある?

 地下階段のまん中に立って、新田先生は、ずっと前のことを思い出した。

 それは、蟻田博士の留守の時、千二少年と二人して、この地下階段を下りて行ったことがあった。その時、この下で何だか、えたいの知れない生物を見たおぼえがある。

 その時、一しょにいた千二少年は、今はここにいない。

 どうなったであろう、千二少年は?

 少年はこの前、この同じところで怪人丸木のため、さらわれてしまったのであった。どうしたのだろう。千二少年は? 無事で生きておればいいが、死んだのではなかろうか。もし千二少年にめぐり会えれば、火星兵団の秘密が、もっといろいろとわかって都合がいいことであろうに。

 先生は階段のところでたたずんだまま、しばらく千二少年と一しょにここへ来た日の思出にふけって、胸がしめつけられるようであったが、やがて、ぽんと胸をたたき、

「いや、過ぎたことを、そんなにくよくよ考えていても、しかたがない。今は、地球の人間を救うため、そうして火星兵団の暴力に手向かうため、どんどん働かなければならないのだ。めめしいことを考えて、涙なんか出していてはならない時なのだ!」

 先生は、自分の心を自分ではげました。そうして、覚悟をきめると、階段をしずかに下りて行った。

 階段の下には何がある? 前に来た時と同じになっているのであろうか。

 下りながら先生は、はっと気がついた。大変重大なことを忘れていたのである。

「これは、うっかりしていた。この地下室から聞えて来る話声は、怪人丸木の声ではなかろうか。それだったら、大変だ」

 先生の足は階段の途中で、しぜんととまってしまった。

 新田先生は、ふたたび自分の心を鞭打った。

(私は、もっとしっかりしなければならない。こうなれば、怪人丸木であろうが、誰であろうが、ぶつかってみるほか、みちはないのだ。我々地球人類の幸福のために!)

 新田先生は、胸の中にそう叫ぶと、今度は決心もかたく、しずかではあるが、たしかな一歩一歩をふんで、地下へ下りていった。

 階段は、右の方へまがっていることも、前と同じだった。下へ下りていくうちに、ぷうんと妙なにおいが先生の鼻を打った。それも、この前かいだのと同じにおいであった。

 先生は、なおも下へ下りて行ったが、急にあかりがとどかない廊下へ出てしまった。

(これは足もとがあぶない!)

 と思ったものだから、先生はポケットに入れて来た懐中電灯を取出そうと思って、そこに立ちどまった。

 その時、先生の足もとが、ぐらぐらと動いた。

「あっ!」

 と叫んだ時は、もうおそい。先生の体はかたむいて、がらがらと土のくずれる音とともに、そのまま下へすべりおちていった。

 やがて、先生の体は、下にとまった。とたんに上から土や石ころが、ばらばらとおちて来て、先生の目といわず口といわず、さかんに飛込んで来た。

「ああっ──」

 先生は、いきぐるしくなって、土や石ころをかきわけて立上った。が、頭をしたたかに打たれたので、先生はしばらく、ぼうっとしていた。

 ひゅう、ひゅう、ひゅう。

 ぷく、ぷく、ぷく、ぷく。

 先生が、気がついた時、そういうあやしい叫び声が、すぐ間近に聞えた。


 先生が、気がついてみると、その前には、丈夫なおりがあった。

 檻の中には、不思議な生物がいた。それは犬ぐらいの大きさであったが、犬ではなく、形は、たこによく似ていた。──大きな頭に、ぎろぎろと動く大きな目玉、それから、胴中がほんのちょっぽりしかついていなくて、すぐ手足みたいなものが生えている。

「あっ、まだ生きていたな。この前、穴からのぞいた時に、下にうごめいていた怪物は、こいつらだ!」

 先生は、急には言うことをきかぬ体を、むりやりに動かして、檻からすこし後に下った。

 ひゅう、ひゅう、ひゅう。

 ぷく、ぷく、ぷく、ぷく。

 怪物は、二匹であった。その二匹の怪物が、檻の中から、しきりに、新田先生のかおをながめつつ口をとがらせて、何か叫んでいるのだ。

 先生は、はじめびっくりした。それは、あまりに気味のわるい怪物のそばへ、近よっていたからである。

 ところが、怪物は、檻の中で吠えたてているが、べつに先生に飛びかかろうという風ではなく、どうやら何か訴えているようだ。

 そこで、新田先生は、変話機があったことを思い出して、こころみにそれを耳にかけてみた。すると、はたして、

「もしもし、私たちを助けて下さい」

 と、はっきりした日本語が、変話機を通じて聞えたのであった。

「おお、こいつらも、火星語をはなすぞ。すると、やはり火星人なのかな」

 先生は、もう恐しさも何も忘れて、変話機のたいした力と、目の前にかわった姿をさらしている地底の怪物とに、たいへん心をひかれた。

「どうか、我々のために、力を貸して下さい。蟻田博士を見ませんでしたか」

 と、かの怪物は、先生になれなれしく話しかけるのであった。



41 謎! 謎!



「不思議な生物だ!」

 と、新田先生はつぶやいた。

 博士邸跡の地底にひそんでいるその檻の中の動物は、大きな、たこのようなかたちをしていて、火星語を話す。

(火星語を話すからには、火星にいるもののようであるが、しかし火星人とは、形がちがうようだ)

 新田先生は、怪人丸木を始め、山梨県の山中で見たたくさんの火星人の、あのいかめしい姿を思い浮かべた。

 丸木たちは、ずっと形が大きい。背も、人間とほとんど同じくらいだ。ところが、檻の中の怪物は、それよりずっと小さい。大体、半分ぐらいの大きさしかない。

 それから、まだ違うところがある。丸木たちは、まるでドラム缶のような、かたい胴をもっているが、それに引きかえ、この地底の怪物は、胴などはあるのかないのか、わからないくらい小さい。

 こう考えて来ると、先生には、この地底の怪物と丸木たちの火星人とは、全く別の生物のように思われて来るのだった。不思議な動物だ。蟻田博士は前からこの怪物を飼っていたらしいが、どうしてこんなものを生けどったのであろう。そうして、また、なぜこんなものを飼っているのだろうか。

 新田先生の頭の中には、いろいろと疑問が泉のように湧いて来て、とめようもなかった。が、先生は、ここで決心をかため、この怪物とよく話をしてみようと思った。

「私でよかったら、助けてあげようが、どうすればいいのかね」

 新田先生は、例の変話機を口にあてて、ものを言ってみた。

 怪物は驚いた。新田先生が、思いがけなく火星語を使ったので……。しかし、それは別に驚くことはない。先生は火星人から分捕った変話機を口にあてて、使ってみただけなのだから。

「ほんとうに、私たちを助けてくれますか」

 怪物は、新田先生の顔を見て、喜びの声をあげた。

 が、急にがっかりした様子で、

「いやいや、だめだ。蟻田博士でないと、私たちの取扱い方がわからない。せっかくだが、あなたでは、だめですよ」

 そう言って、怪物はしおれてしまった。

「何、わけがないじゃないか。私は、この檻を破って君たちを出してあげよう」

 そう言って先生は、そばに落ちていた鉄の棒を拾いあげると、檻の弱そうなところを打とうとした。

「ま、待った、待った」

 と、怪物は叫んだ。

「えっ」

「そんなもので打っては、減圧幕に穴があいて、こわれてしまう。減圧幕に穴があけば、私たちは、一ぺんに死んでしまう」

 と、怪物たちは、声をそろえて、新田先生が鉄の棒をふりおろすのをとめた。

「ええっ、その減圧幕とは、どんなもの?」

 いきなり減圧幕というのが、とび出して来たので、先生は面くらった。

「減圧幕というのは──つまり、私たちの体を、まもってくれているすきとおった幕だ。地球の空気は、たいへん濃いのだ。私たちは地球の空気の中に、そのままはいることは出来ない。強い空気の圧力のため押しつぶされて、小さくなって死んでしまうのだ」

 怪物は自分の体の秘密について、不思議なことを語り出した。先生は、それを聞いているうちに、重大なことに、気がついた。

「じゃあ、君たちの国では、もっと、うすい空気の中で暮しているのだね」

「そうだとも」

「君たちの国というのはどこだ。もしや、君たちの国は火星じゃないのかね」

 と、新田先生は、地底の怪物に尋ねた。

 地球にくらべると、ずっと、うすい空気の中に住んでいるというから、火星ではなかろうかと思ったのだ。

 すると怪物は、

「そうだとも。我々は、火星人なのだ。私はロロという名前だ。そばにいるのはルルだ」

 と、たいへんなことを白状してしまった。

 それを聞いた新田先生の驚きは、非常なものであった。

「ええっ、君たちは火星人か。あの、火星人……」

 と、先生は思わず大きな声で叫んだが、その後で首を左右に振り、

「うそだ、そんなことはうそだ。私は、これまでにたくさんの火星人を見たが、君たちのような、そんなぐにゃぐにゃの体をしてはいないし、またそんなに小さくはない。だから、うそだ」

 と言った。すると怪物は、たいへん不満らしい言葉つきで、

「私たちが火星人でなければ、どこにほんとうの火星人がいるものか。私たちは火星人だ」

「いや、違う。火星人は、大きな強い胴を持っていて、背も我々人間と同じくらいだ。それから、ちゃんと人間と同じような首を持っている。もっともその首は、よくころげ落ちるので、ちょっとへんだが……」

 と、そこまで言うと、先生の話を聞いていた火星人は、急にからからと笑い出した。

「何がおかしい」

「いや、それでわかった。あなたの言うのは、火星兵団の隊員のことだろう」

「君たちは、火星兵団を知っているのかね」

「もちろん知っているよ。しかし、人間なんて、ばかなものだね。私たちと火星兵団の隊員とが、同じ火星人だということに気がつかないのかしら。ほっ、ほっ、ほっ」

「君たちと火星兵団の隊員とは、同じ火星人だって?」

 新田先生は、どうしても信じられないと言う顔で、地底の怪物に問返した。

「ほっ、ほっ、ほっ。まあ文化の低い地球人類には、そのわけがわからないのも無理ではないがね。ほっ、ほっ、ほっ」

 怪物は、檻の中で、からだを奇妙にくねらせて笑うのであった。それは、まるで川岸に生えているあしが、風にゆれるようなかっこうであった。

「そのわけを話したまえ。でないと、私は君たちを助けるのを、やめてしまうかも知れないよ」

 と、先生は、わざと怪物をおどした。

「ま、待ってくれ。あなたでも蟻田博士でも、地球人類はすぐに怒り出すから嫌さ」

 と、怪物はぶつぶつ言って、

「じゃあ、そのわけを言うがね。たいしたことではないのだ。さっきも言ったように、私たちが、地球の上でちゃんと生きているのは、この檻の内側に、目には見えないが蟻田博士の発明した減圧幕を張ってあるためだ。ところが、火星兵団の連中は、こんな便利な減圧幕のあることを知らないために、あの大げさな入れ物の中に、はいっているのだ」

「入れ物?」

「そうだ。入れ物だよ。入れ物というのは、ほら、さっきあなたが言ったではないか。たいへんかたい胴! ドラム缶のような胴! あれがその入れ物なんだよ」

「火星人がはいっている入れ物? あのいかめしい胴中どうなかに火星人がはいっているのかね。地球の空気があんまり濃すぎるので、あの胴のような入れ物の中に、火星人がはいっているのかね。ほんとうかね。いや、ほんとうらしい。ふうん、それは驚いた。へええっ」

 新田先生は、驚きをかくそうともせず、しきりにため息をついた。

「ふうん、そうか、火星人の体に、そんな秘密があるとは気がつかなかった」

 と、新田先生は、地底にうごめく火星人の話を聞いて、感心のあまりひざを打った。

 そういうことが、ほんとうだとすると、いろいろなことがわかる。小学生たちが生けどった火星人がおしまいに胴中一つになってころげ廻るうち、折から行進して来た戦車にぶつかって、胴中が粉みじんに割れ、その時、中からゴムでこしらえたたこのようなものがころがり出て来たところを、大きな犬がくわえて行った謎のような事件があったが、今、火星人の話を聞いて、あの不思議な謎も、たちまちに、解けてしまう。つまり、火星人を、地球の濃い空気の圧力からまもっていた胴がこわれ、その中にいた火星人は、たちまち空気に押しつけられて、小さくちぢまってしまったのだ。だから、あのように小さな体になってしまったわけだ。

 頭のすぐれた火星人は、人間に近づくためには、そのままの、自分の姿を人間に見せては損だと思い、怪人丸木のように、また山梨県の山中に着陸した火星兵団の兵士たちのように、胴の上に、つくりものの首をつけたり、これもつくりものの手や足をつけたりして、ひたすら人間の形に似るようにつとめていたのであった。

「何という用意のいい火星人だろう」

 と、新田先生は三度感心の声を放った。

「さあ、あなた、感心ばかりしていないで、私たちを早く助けて下さいよ、ねえ」

 と、檻の中の火星人が、先生にさいそくをした。

「おお、そうだ。こうなる上は、善良な君たちを、ぜひ助けてあげたいが、一体蟻田博士は……」

 と言っている時、後で咳ばらいが聞えた。



42 人間ぎらい



「何だ、新田じゃないか。お前はけしからん奴だ」

 と、しわがれた声が、先生の背中の、すぐ後でした。

「あっ、蟻田博士!」

 いつの間に、ここへはいって来たのか、蟻田博士が、先生の後に、ぬっと立っていた。

「博士、どうしてここへ?」

「どうしてここへ? ふん、あたり前だ。ここは、わしの研究所なんだからな。他人のさしずを受けるものか」

 と、博士は相変らず、気みじかで、ずけずけした口をきく。

 その時、新田先生は、久方ぶりに見る博士の姿が、この前見た時とは違い、大へんやつれているのをいたましく思った。すなわち、腰はまがり、顔はさらにやせ、真白の頭髪はぼうぼうとのび、あのかっこうよくかりこんであったあごひげも、のびほうだいにのびて、すり切れた竹箒たけぼうきのようになっていた。

(どうしたのだろうか。博士のこのやつれようは?)

 博士は、鼻の頭にずり落ちそうになる眼鏡を押しあげながら、

「おい、新田。今、聞いておれば、お前はここにいるロロと、何か話をしていたじゃないか。お前はいつ、そのような勉強をしたのか、いやさ、どうして火星語を話せるようになったのか」

 博士は、不思議に思っているらしい。

 新田先生は、今はもう仕方がないと思い、変話機を出して、これまでのいきさつを、かいつまんで、博士に報告したのであった。

 博士はうなずきながら、おとなしく、先生の話を聞終った後、

「ふうん、お前にしては、お手柄じゃ。その手柄にめんじて、わしは、これまでのお前の罪を許して、もう一度、門下生として教えてやろう」

 博士は、横柄おうへいな口をきいた。

 蟻田博士のきげんが、大へんいいので、新田先生は、この時とばかり博士に聞いた。

「博士、モロー彗星が地球にぶつかる日が、いよいよ近づきましたが、どうにかして人類を助ける工夫はないでしょうか」

 博士は、ひげをふるわせ、新田先生の顔をじろりと睨み、

「助ける工夫はない。たとえ、助ける工夫があっても、今日のような、おろかな人間どもを助けることは無用だよ」

「そ、そんな、らんぼうな考えは、よくないと思います」

「わしは、今日の人類には、あいそがつきているのだ。そんな連中を助けてみたって、始らんではないか」

「博士、そんなことを言わないで、人類のために力を出してやって下さい。博士が本気になってやって下されば、モロー彗星衝突の惨禍から、かなりたくさんの人間が救われるのではないでしょうか。救われれば、どんなに心がけのわるい人間でも、心を入れかえるに違いありません」

「わしは、そんなことを信じない。助けを乞う時には、ちょっといい人間になるが、助けられてしまったあとは、またもとのように、だらしのない人間に戻ってしまう。ふだん自分勝手な、欲ばったことばかりをして、自分さえよければ、この地球がどうなってもいいなどと思っている、そんな心がけのよくない人間を、助けてみても一向つまらんよ」

 蟻田博士は、ずけずけと地球の人類をやっつける。先生も、これには、とりつくしまがなかった。

 そこで、話をかえて、

「博士、そこにいる火星人が、お帰りをまっていましたよ。何でも、体がわるいのだそうですね」

 と言うと、博士は、

「おお、そうじゃった。すぐさま、手あてをしてやらにゃ」

 と、檻の方へ近づいた。

「おお、かわいそうに。今すぐに、よくしてやるぞ」

 地球人類は大きらいという博士が、檻の中の火星人に対しては、たいへんやさしくするのは不思議であった。

 新田先生は、博士のすることを、じっと見まもっていた。

 博士は、鞄と小さな紙づつみとを持って、檻の中にはいった。二人の火星人はまるい頭をあげて、ひゅうひゅうぷくぷくと、喜びの声をあげた。

 博士は、奥の方に寝ていた火星人のそばによって、

「薬をやっと作って来た。何しろ火星の上とは違って、この地球の上には、なかなかいいのが見つからないのだ。わしは、日本アルプスの雪を掘りつづけて、やっとこれだけ取って来たのだ。ほら、この通り」

 博士は、小さい紙づつみを解いて、中から小さいガラスびんを取出した。びんの中には褐色の草の根のようなものが押しこんであった。そこで火星人は、また喜びの声をあげた。

 博士は鞄の中から小さなすり鉢を取出し、その中へ草の根を入れて、ごしごしとすった。すると褐色のねばねばした汁が、鉢の底にたまって来た。

 博士はその汁を筆の先につけ、苦しそうにあえいでいる病気の火星人の、手だか足だかわからないが、そのつけ根のところへ、ぬってやるのであった。

 火星人は、きいきいと声を立てた。

「どうじゃ、気持がよくなったろう。当分まあこれで、しんぼうしているんだ。もうあと、しばらくすれば、火星へつれて帰ってあげるから、元気を出しなさい」

 博士の言葉を、新田先生は、ふと聞きとがめた。博士はこの火星人をつれて、火星へ行くと言ったではないか。

「どうかね、薬をぬると、しみるかね」

 と、蟻田博士は、やさしく火星人にたずねた。地球の人間はきらいだが、火星人は好きであると見え、別人のように、やさしい声を出す博士であった。

「博士、だいぶんしみます。しかしわたしは、我慢していなければならないでしょう。そうでないと、いつまでも、もとの体になれませんからねえ」

 と、病気の火星人も、たいへん博士を信じて、たよっているらしいことが、その言葉つきからも、うかがわれた。

 そばでこの有様を見ていた新田先生は、全く不思議な気がした。

「博士、その薬は、よほどきく薬らしいですね。一体どういう病気にきく薬なのですか」

 と先生がたずねると、博士は、

「どういう病気といって、こういう病気にきくのだ。ほら、見ていたまえ。この通り火星人のくさりかかった体が、どんどんきれいに、なおっていく」

「なるほど、不思議ですなあ。そんなによくきく薬なら、わたしにも分けていただきたいですね。実は、わたしの……」

「だめだよ、新田君」

 と、博士が言った。

「この薬はね、君のような動物には、さっぱりきかないんだ」

「動物?」

 君のような動物と、博士に言われて、新田先生はむっとした。いくら弟子であると言っても、動物と呼ぶのはひどい。先生は、ここで蟻田博士の無礼をやっつけてやろうかとまで思いつめたが、しかし、今は重大な時である。ここで博士をおこらせてしまっては、人類のため大損である。先生は、一生けんめいにこらえたのだった。

 だが実は、博士は、悪気があって、先生を動物と呼んだのではなかったのだ。

 蟻田博士から、「動物」と呼ばれたことを、新田先生はいつまでも忘れることが出来なかった。が、それは博士から、「お前は動物だぞ!」と言われた時に腹が立ったという、それだけのことではなかった。それからずっと後になって、博士の言葉を、もう一度たいへんなおどろきと共に、思い出さなければならない大事件の日がやって来たからである。それはどんな大事件か、やがてわかる。

 博士は、病める火星人のために薬を塗終えた。

 火星人はたいへんに喜んだ。そうして全身をふるわせつつ、自分の体を博士の体にすりよせた。

「蟻田博士、ありがとう、ありがとう」

 よほど、うれしいらしい。

 博士は、にこにこ笑って、その病める火星人に、ゆっくり体を休ませるように言った。そうして、火星人が、そこに寝ると、その火星人の体の上に、きれをかけて暗くし、それから、どういうわけかその火星人の足を、水をいっぱい張った大きな洗面器のようなものの中に、つけさせたのであった。

 それを見ていた新田先生は、また不思議に思った。

「火星人の足を、水につけたりして、一体どうしたわけですか。おまじないなんですか」

 と、新田先生は尋ねた。

 すると博士は、首を左右に振って、

「いや、これはおまじないではない。こうすることによって、火星人はさらにいきいきとして来るのだ」

 と、博士は妙なことを言った。まるで、植物の根に水をあたえて、いきいきとさせるようなことを言った。

「え? 博士の言われることが、よくわかりませんが」

「わからないと言うのか。ふん、君にはそこまでわかるまい」



43 寄生藻きせいも



 蟻田博士の手当がうまくいったのか、病気の火星人は、その後すやすやと眠り出した。

 もう一人の仲間の火星人も、気づかれがしたものか、そのそばで大きな瞼を重そうにぱちぱちしていたが、これもまた、うつらうつらと眠りについてしまった。

 急にあたりは、しんとしてしまった。地底には、博士と新田先生とが、じっと向きあっていた。師と門下生とが、ひさかたぶりに水いらずで向きあっているのであった。博士の心はどうか知らないが、新田先生の胸中には、これまでのいろいろなことが思い出されて、いたいくらいだった。

 だが、先生はいつまでも、めめしくはなかった。地球の壊滅は、もう間近にせまっているのである。めめしく涙ぐんでいる時ではない。

「博士、この火星人たちは、どうしてここにいるのですか」

 と、先生は質問の矢を博士に向けて放った。

「ああ、この二人のことかね」

 博士は、長くのびて、額に落ちかかる白い髪をかき上げながら、先生の方を向いた。

「この二人は、ずっと前わしが火星に行った時、助けて連れて来てやった火星人なんだ」

「え? 博士は火星へ行かれたことがあるのですか」

 先生は、びっくりして尋ねた。

「おや、そのことはまだ話をしてなかったかね」

「それはうそです。博士は、人間の力では火星へ行けないと言われたことが、あったではありませんか」

 と、先生はつっこんだ。

「うむ、たしかにそれは言った。しかしそれは、一般の人間をさして言ったのじゃ。わしの力は人間以上だ!」

 と、蟻田博士は、いばって言った。

 人間以上!──という言葉には、二様の意味がある。わしは、すぐれた人間だというのか、それともわしは人間ではないぞというのか、どっちであろうか。

 新田先生には、そのどっちの意味か、わかりかねた。

 といって、まさか博士に、

(博士は、人間ではないのですか?)

 と、聞くわけにもいかない。だから先生は、この大きなうたがいを持ったまま、しばらく問題を先へ持ちこす外なかった。

「この二人を助けたとおっしゃったが、なぜ博士は助けられたのですか。一体この二人の素姓は何者ですか」

 と、先生は尋ねたのである。

「ああ、この二人の素姓かね。わしが助けた時は、二人とも子供だった。二人は、女王ラーラの子供なんだ。ラーラには、百人ばかりの子供があったが、今残っているのは、多分このロロとルルの二人だけだろうと思う」

 博士は、すこぶる奇妙な話をはじめた。先生は、博士がでたらめを言っているのではないかと思った。なぜかといって、そのラーラとかいう女王に、百人ばかりの子供があったという話であるが、そんなにたくさんの子供が生めるであろうか。

「博士、ほんとうですか、その話は。百人の子供を生むなんて、あまり不思議すぎますよ」

 博士は、仕方がないという顔で、首を左右にふった。

「ふん、お前にはそれが信じられないかも知れん。いや、むりもない。だが、それはほんとうのことなのだ。──その女王ラーラは、非常にすぐれた者じゃった。我々地球の生物のように、やさしい情ある心を持っていた。だから女王は、地球の人類と、たがいに手をとって、力になり合おうと考えた。それが、他の火星人どもの気に入らなかったのじゃ」

「火星国に、せっかく地球人類と手をにぎってやっていこうという女王ラーラが現れたのに、多くの火星人は大反対をして、とうとう女王を殺してしまった。女王だけではない。百人近い女王の子供たちも、ほとんど全部殺されてしまったのだ」

 と、蟻田博士の不思議な話は続く。

「ほう、ずいぶん残酷な話ですね」

「残酷は、元来、火星人の持って生まれた悪い性質なのだ。わしは、女王ラーラとその子供たちが死ぬところを見たが、いやもう気の毒なものじゃった。火星人は、女王たちを、森の中につくった大きな牢にぶちこんだ。その牢は、上から見ると、円形で、高い壁にかこまれ、そうして天井がなかった」

「ほほう」

「女王たちを、この天井のない牢にぶちこむと、火星人たちは、今度は水をそそぎ入れた」

「水の中に、おぼれさせるのですね」

「そうではない。水は、わずか十センチぐらいの浅いものだったが、その後で投げこんだものが、恐るべきものじゃ」

 と、博士は、その時のことを思い出してか、肩先をぶるぶるとふるわせた。

「何です、博士。そのおそるべきものと言いますと……」

 新田先生は、博士の答えをもどかしがった。

「それは、一種の藻じゃ。見たところは、たいしたことのない緑色の藻じゃが、その藻こそ、恐るべき繁殖力を持ったやつじゃ」

「繁殖力?」

「そうじゃ。つまり藻がふえるのじゃ。その藻は、水の中では大へんな勢いでふえるのじゃ。しかも、そばに他の生物がいると、それにとりつき、その生物の体から養分をすいとって、どんどん繁殖していくのじゃ。恐るべき寄生藻だ」

 と、蟻田博士は、そこでまた体をふるわせた。

「ああ、藻をつかって殺すなんて、始めて聞きました。火星の上には、とんでもない植物があるものですね」

 新田先生は、ため息をついた。蟻田博士の語り続ける女王ラーラと、その子供たちの最期ほど風がわりな、そうして気の毒なものは、ちょっと外になかろう。

 博士は、なおも語り続ける。

「──女王ラーラとその子供たちは、四日目には、その恐しい藻に包まれて、全く死んでしまったのだ」

「ああ、かわいそうに……」

「その時、わしは、森の中の一本の木の上にのぼって見ていたのだが、あまりかわいそうなので、何とかして、せめて子供だけでも助けてやりたいと思い、いろいろと助けてやる方法を考えたのじゃが、どうも、なかなかいい智慧が出ない。ところが、そのうち、ふと、思いついたことがあった」

「何です、その思いつかれたことは?」

「それはほかでもない、わしが持っていた長さ五十メートルの長い巻尺まきじゃくじゃ」

「巻尺? あのぐるぐるまいて、ケースにはいっているあの巻尺のことですか」

「そうじゃ、その巻尺じゃ。わしが火星へ持って行ったやつは特別につくらせたもので、丈夫な鋼鉄で出来ている。わしは、その巻尺の一端に、わしが護身用に持っていた猟銃をゆわいつけると、木の上から、やっと掛声をして、十メートルばかり離れた牢へなげこんだのじゃ」

「あはははは」

 と、新田先生は笑い出した。

「なぜ、お前は笑うのか」

「博士、ほら話はいけませんね。いくら博士がその時お若かったにしろ、そんな重いものを、十メートルも離れた遠いところへ、やすやすと投げられるものですか」

「お前こそ、何をたわけたことをいう。火星の上では、物の重さが約三分の一に減ることを、お前は知らないのか」

「火星の上では、物が軽くなる? なるほどそうでしたねえ。うっかりしていました」

 新田先生は、頭をかき、

「博士は、巻尺のさきに銃をつけ、牢の天井から投げこまれ、それからどうしたのですか」

 博士は、口をもぐもぐさせながら、

「うふふん。わしの計画は、うまく行ったのだよ。投げこんだ巻尺を、今度は手もとへたぐって、引上げてみると銃身に二つの青黒い塊がついていた。それは火星人の──いや、女王ラーラの子供だった。つまりここにいるロロとルルが、その時に巻尺を力にして、おそろしい寄生藻の牢獄をぬけ出た幸運な女王の遺児たちなのだ」

「な、なるほど。それはいいことをなさいました」

「わしが、ロロとルルとを引上げた時は、二人とも、頭から足まで寄生藻をかぶって真青だった。そのままでは、どんどん体がまいるから、わしは二人をかついで急いで木の上から下りると、二人を連れて、さらに森の中深く分入り、川の流れをさがして歩いた。小川が見つかった。わしはさっそく二人を流れにつけ、ごしごしと洗ってやったよ」

「そうでしたか。二人はよくも助かったものですね」

「ロロは割合に元気だったが、ルルの方はだいぶん弱っていた。その時は、かなりひどく寄生藻にやられていたのだ。でも、わしは出来るだけの手をつくした。その結果、ともかくも二人の体を、すっかり元のように、なおしてやった。わしは火星人に二人をうばいかえされることをおそれ、わしの宇宙艇の一室に二人をかくして、外へ出さなかったのだ。──こうして、ロロとルルの二人を、この地球へ連れて来ることが出来たのだ」

 と、蟻田博士は、深いため息とともに、不思議な話を語り終ったのだった。



44 時おそし



 火星人ロロとルルとを助けた蟻田博士の話は、新田先生をたいへん感心させた。博士を、つめたい心の持主だとばかり思っていたのに、これをみると、なかなかやさしい心がけであった。

「ねえ、博士。博士は、火星人ロロやルルにたいして、そんなにしんせつならば、人間にたいしてももっと思いやりを持って下さってもいいではありませんか。やがて四月四日、モロー彗星に衝突されて、むなしく死んでしまわねばならぬ地球人類にたいして、危難をまぬかれる何かいい方法を考えて下さいませんか」

「人間は大きらいじゃ」

 と、老博士は、にがにがしく言って、

「それに、もうすでに時おそしじゃ。何をやっても、もう間に合わないだろうよ」

「そこを、何とかならないものでしょうか。何千年・何万年という輝かしいわが人類の歴史を考えると、このまま人類を絶滅させるには、しのびないではありませんか」

「人間たちの心がけがよくないから、そんなことになるのだよ。今ごろになって言っても、もう始らないが、わしは三十年このかた、地球人類に警告をして来たのだ。近ごろになっても、あの『火星兵団』についての警告放送をやったりしたが、誰も本気になって、それを聞かないのだ。対策を考えようとしないのだ。万事、もうおそいよ。自業自得だ」

 と、博士はあいかわらず人間たちにたいして、ひややかな言葉をはいた。

(そうでもあろうが、ここで何とかして、博士の心に、人類愛・同胞愛を起させなければならない)

 と、新田先生は自分の心を自分でむち打った。

「すると博士はどうされるのですか。四月四日の前に、ロロとルルを連れて、火星へお帰りになるのですか」

「何をばかなことを! 火星へ行くのは、ロロとルルを処刑場へ連れて行くようなものだ」

(火星なんぞへ行くものか!)

 と、蟻田博士は、はっきり言った。

「じゃ博士は、どこへ行かれるのですか。まさか四月四日に、この地球の上にとどまっていて、地球人類と共に死滅せられるわけではないでしょう」

 と、新田先生はつっこんだ。

「ふん、わしの心はきまっている。しかしそれをお前に話をするわけにはいかん」

「なぜ、話して下さらないのですか」

 新田先生は不満であった。

「わしは、そのような大切な計画を、誰にも知られたり、じゃまされたりしたくないのだ。何しろ、四月四日の大危難を切りぬけるのは、なまやさしいことではないからのう」

 博士はため息をついた。

 蟻田博士にとっても、モロー彗星の衝突事件は、たいへん困ったことらしい。新田先生は、これ以上博士をときふせることが出来なくなって、口をつぐんで、少しうつ向いた。

「ほう、ほう、ほう」

 博士は、奇妙な笑い声を立てた。

「何だ、お前はいやにしょげてしまったじゃないか。若い者のくせに、そんなことでどうなるのか」

「ですが、博士。博士のお言葉は、私から元気をうばい取ってしまいます」

「誰でも、最後まで勇気が必要だ。わしを見ろ。この通りの老人だが、どんな時にも、勇気をうしなわないで、たたかって来た。──そうだ、お前にいいものを見せてやろう。こっちへお出で」

 博士は、新田先生を手招きすると、立上って、暗くてせまい地下のわれ目を奥のほうへと、はいって行った。

(何を見せてくれるのだろう?)

 新田先生は、好奇心にかられながら博士のあとを追った。

 しばらく行くと、急に地下道がひろびろとして、りっぱな廊下や階段があらわれたのには、先生はびっくりした。

(何を見せてくれるのだろうか!)

 と新田先生は、蟻田博士のうしろについて、不思議な長い地下道を、どこまでも下りて行った。

(全く不思議だ。こんなりっぱな地下道があるとは……)

 地上は、地震で見るかげもなく、くずれてしまったのに、地下はこの通りちゃんとしているのである。地震の害は、地上の方がひどく、地下は割合に害を受けないと聞いていたが、新田先生は今それを、この地下道において、この目で見て、はっきり知ることが出来た。

 それにしても、博士はいつの間にこのようなりっぱな地下道を作ったものであろうか。先生は、底知れない博士の力に、あきれる外なかった。

「この部屋にあるのだ。さあ、わしについて、はいって来い」

 博士は、一つの部屋の扉をあけると、中へはいって行った。電灯がぱっとついた。

 先生は、どんなものが、ならんでいる部屋であろうかと、中へはいって、あたりを見まわした。

 その部屋はたいへん広かった。そうしてわけのわからぬいろいろな機械がぎっしりならんでいた。町の工場の機械室でも、これほど機械や工具のととのった部屋はあるまいと思われた。

 その部屋で、先生が一番おどろいたのは、奥まった正面に、形は魚雷のお尻に似て、非常に大きいものが、壁の中から、にゅっと出ていることであった。そのかっこうは、まるで、大きな魚雷を壁に打ちこんだようだ──とでも言おうか。

 博士は、つかつかと、その魚雷のお尻のようなもののそばによると、その下にしゃがんで、しきりに金属音を立てていたが、やがて先生に、

「さあ、こっちへ来い。頭を打たないように気をつけて、ここからはいって来い」

 と言った。先生は、腰をひくくして、そこをのぞき込んだが、あっとおどろいた。

 形は魚雷のお尻のようであるが、大きさはとても魚雷どころの騒ぎではない。大きな舵器のように見えるが、その隣にぱっくりあいている穴には、上からはしごが下っている。

 蟻田博士は、そのはしごを上って、中にはいってしまった。新田先生はおどろいたが、博士におくれないようにと、はしごを上っていった。

「おお、これは……」

 新田先生は、又もおどろきの声をあげた。

 それもそのはず、博士についてはいりこんだ魚雷のお尻みたいなものの中は、たいへんに広いのであった。

 室内は、どこのかべも安楽椅子の背中のようにじょうぶにされ、ゆびでおしてみると、中には強い「ばね」がはいっていた。つまりかべ全体が──いや、かべだけではなく、天井もとびらも──安楽椅子の背中のようにつくられてあった。それから、やたらに電車のつり皮みたいなものがぶらさがっていた。それもかべだけではなく、天井にもついているし、床にもそれがついているのだった。

 床についているつり皮! 新田先生は、こんなところにつり皮がついているなんて、じつにへんだとその時は思った。だが、それにはわけがあったのである。いずれ後にわかるが、この魚雷のお尻のようなものが、一体何であるかがわかると、何もわかってしまうのだ。

「おい、新田。何をしとる。早く来ないと見えなくなるぞ」

 蟻田博士が呼ぶので先生は気がついてふりかえると、いつの間にか博士は、おくの壁についている丸窓のような形のとびらをあけ、もう一つおくの部屋にはいって、先生をさしまねいているのであった。はたしてそのおくの部屋には、何があったであろうか?

(早くしないと、もう見えなくなるぞ)

 と、蟻田博士は、奥の部屋から新田先生をよぶ。一体何が見えるというのであろうかと、先生は、丸窓のような形をした入口をくぐって、博士のそばへ近よった。

 室内は暗かった。暗室なのだ。

 ただ、標示灯のあかりが、ぼんやりと機械の一部を照らしていた。それはのぞき眼鏡のようなものであった。博士の手が、そのあかりの中にあらわれて、のぞき眼鏡のようなものを指す。

「おい、新田。この中をのぞいて見ろ」

 蟻田博士の声だ。姿は見えないが、声だけ聞える。うすきみがわるい。

 先生は、博士の手が指さすのぞき眼鏡のようなものに、目を近づけた。

「右の横につまみがある。それを廻して、焦点を合わせるのだ」

 先生は、そののぞき眼鏡の奥に、何だか、ななめになった光り物をみとめた。しかしそれは何であるかわからないので、右手の指でつまみをさぐって廻してみた。

 すると、その光り物はだんだんはっきりして来た。

「ほう、これは彗星だ!」

 と、先生は思わず、おどろきを声に出してさけんだ。

「そうだとも、もちろん彗星だ」

「すると、この彗星はもしや……」

「もしやも何もない。それがモロー彗星なのだ。おどろくべき快速度をもって、刻々地球に近づきつつあるモロー彗星なのだ」

 博士の声が、くら闇のかべにあたってひびいた。

 ああ、モロー彗星!

 これが、モロー彗星であったか。地球人類、いや地球上の全生物のいのちをうばっていこうとする魔の彗星はこれであるか! 新田先生は、真暗な空に異様なすがたを見せているこの彗星を、食いいるように見つめている。

「どうして、こんな地底からモロー彗星が見えるのでしょう。博士、これは、どうしたわけですか」

 新田先生は、博士にたずねた。

「よけいなことは聞かないがいい。それよりも、モロー彗星をよく見ておくがいい。間もなく、雲にさえぎられて見えなくなってしまうから……」

 博士は言った。

 新田先生は、博士に叱られながらも、地底から見えるこの望遠鏡の不思議について考えた。空が見えるからには、この望遠鏡のあたまは空へ向けて出ていなければならない。そこのところがどうなっているのか、先生は知りたいと思ったのである。だが、博士は、それについて、返事をしなかった。

 モロー彗星は、博士の言ったように、間もなく雲にかくれて見えなくなってしまった。先生は、そのことを言って望遠鏡から目をはなすと、博士は、

「これから、一日増しに、大きく見えて来るじゃろう。そうして、やがて地球に衝突する一週間ぐらい前になると、モロー彗星の一番太いところは満月ぐらいの大きさになるじゃろう。そのころには、人間のなかで、気の弱い奴らは、そろそろ妙なことを口走るようになるじゃろう」

 博士は、気味の悪いことを言った。

「何とかして、地球人類を助けてやる方法はないものですかねえ」

 先生は、むだなこととは知りながら、またしても、博士にそれを相談せずにはおられなかった。

「だめじゃ。よほどの奇蹟でもないかぎりは……」

 博士の返事は、先生の考えていた通りであった。

 二人が、話をしている時、暗中で、五つの赤い電球が、しきりについたり消えたりしはじめた。すると博士は、あわてて立上った。

 ぴかぴかぴかと、しきりについたり消えたりする赤い電球は、何を知らせているのであろうか。

 蟻田博士は、くらがりでもよく目が見えるらしく、立上ると、何かしきりに機械を廻している様子だ。

 がらがら、がらがら。

 高声器の中から、雑音が出て来た。空電がはいっているらしい。博士は、なぜ高声器を働かせているのか。

「博士、どうしたのですか」

 と、新田先生はたずねた。

 だが、博士はそれに答えなかった。その代りに、高声器の中からはげしい雑音に交って、何かしきりにわめきちらしているような人の声が聞える。

 その声は、はじめ、たいへん小さかったが、しばらくすると、雑音以上に大きくなって来た。しかもその声が、日本語でしゃべっていることがわかった。

(誰だろう?)

 先生は、くらやみの中で、きき耳を立てていた。その声は、大きくなったけれど、何を言っているのか、言葉の意味がはっきりしない。しかし、その中で、

「おい、聞いているか、日本人!」

 という言葉が、くりかえされたことがわかった。

 先生は、それを聞いている中に、言葉の調子から、一人の人物を、ふと、心の中に思い浮かべたのであった。それは外でもない。刑事の佐々さっさのことであった。

(佐々刑事の声によく似ているがなあ)

 と、先生が首をかしげている時、高声器からの声は、また一段と声をはり上げて、

「……火星のやつに、気を許すな。火星のやつは、どんなひどいことでも、平気でやるぞ。ゆだんするな。火星のやつは、ありゃ動物ではないんだ!」

 火星の人間は動物でない──などと、へんなことを言出した。

「おお、あれは佐々刑事の声に違いない!」

 と、新田先生は、すっかり興奮してしまった。

「何じゃ、佐々刑事? この、しおから声を出している人間は、あのがむしゃら刑事じゃったか」

 博士はちょっと驚いた様子だ。そうして、「ふん、おもしろくもない」とスイッチをぷつんと切ってしまった。とたんに、佐々の声は聞えなくなった。

「あっ、スイッチを切っちゃいけません。もっと私に、その先を聞かせて下さい」

 新田先生は、博士に迫って行った。

「こんなものを、聞くことはないよ。今さらこんな世まよいごとを聞いて、何のたしになる! モロー彗星は、もう間近に迫っているのじゃ」

 博士の口ぶりから考えると、佐々刑事の電話を新田先生に聞かせたくないらしい。博士は、切ってしまったスイッチを、再び入れようとはしないのだった。

 新田先生は、老いたる師の博士をつきのけてまでも、佐々刑事の宇宙電話を聞く気にはなれなかった。次の機会を待つよりほか仕方がないであろう。

 だが、このまま引っこんでしまうのは、たいへん惜しかったものだから、

「博士、今の電話は、火星から伝わって来たもののように思いますが、違いますか」

 博士は、そうだとは言わなかった。が、そうでないとも言わないところをみると、たしかに火星からの通信に違いないと、先生はさとってしまった。

「博士。火星人が動物でないと言うのは、ほんとうですか。動物でなければ、一体、何ですか」

「ふうん、そのことだ。が、人間には、とてもむずかしすぎる問題で、言ってもわかるまい」



45 おそろしい仮定かてい



 実に奇怪な話ではある。火星人は、動物でない──と、佐々刑事は言うのだった。

 蟻田博士は、それについて、いくら新田先生に説明してもわかるまいと言って、話をしようと言わない。

 新田先生は、ぜひともこの重大な、なぞの言葉を解いてしまいたいと思うのだった。これは博士の力を借らずに、自分の力で解いて、博士にぶっつけるより外はない。

 そこで新田先生は、自分で、このなぞの言葉にぶっつかった。

(火星人は動物でない──と言う。では、いったい何であろうか)

 動物でない──と言うと、植物か鉱物か二つのうちの一つであろう。しかしそれはあまりに変なことだ。

 なぜと言って、人間は動物であり、犬や猫も動物である。動物は、文字で書いても、動くものと書く。だから動物は、動けるのである。植物や鉱物は動けない。

 そうなると、佐々刑事の宇宙電話も、とりとめのないことをしゃべったとしか考えられない。動物でなければ動くことが出来ないのだから……。

 だが、待てよ。

 ここに一つ考えのこしたことがある。鉱物が全く動かないことはわかっているが、植物の方は、全く動かないものばかりとも言えない。たとえば、蟻地獄と言われる草や、蠅取草はえとりそうのようなものは、自分で動いて、蟻とか蠅とかを捕えるという話である。アミーバという下等植物は、自分で体の形をかえて水中を泳ぐ。

 またいつだか見た文化映画で、『植物の生長』というのがあったが、植物のつたが、まるでたこあしのようにぐらぐらと動きまわって、どこかにまきつく棒とか縄とかないかと、しきりにさがしもとめている有様がうつっていた。その映画を見ると、植物がまるで動物とおなじように見えた。

 そんなことをだんだん考えて来ると、植物は全く動かないものだとは言いきれなくなる。さあ、問題はそこだ!

(アミーバも動く、蠅取草も動く!)

 火星人の正体を、ほり出そうとして、新田先生の推理はつづく。

 動物でない火星人!

(では、火星人が、アミーバや蠅取草のような動く植物であったとしたら、どうであろうか?)

 先生は、考えをそこまで持って来た。そこには、恐しい大驚異の世界が開かれていた。そうだ! 動く植物! 火星人なるものは、進化した動く植物だと考えては、どうであろう!

「ああ、驚くべきことだ。ああ、恐しい世界だ」

 と、新田先生は、思わず口に出して叫んだ。

 そばで蟻田博士は眠れるロロとルルを見まもっていたが、とつぜん新田先生が声を出したので、後を向いて先生をにらみつけた。

「おい、静かにせんか」

 新田先生は顔をまっ青にして、興奮のためにふるえていた。

(わかる、わかる。火星人を、進化した動く植物だと仮定して考えると、これまでに疑問だったことが、大分うまく解ける!)

 蟻田博士は、火星人は動物でないと言った。だから植物であるというのは、答えになるではないか。

 それから又、そこの檻の中に病気で弱っている火星人ルルは、博士が日本アルプスの山中から掘出して来たという草の根を、くさりかけた体にぬって、たいへん気持がよくなったというが、この薬は動物にはきかないという。火星人は植物だからきいたのではないか。

 まだある! 火星人の残酷さだ!

 火星人は、情というものを全然知らないようである。情心なさけごころは、動物だけにあるもので、植物にはないのだ。この前火星人丸木は、銀座で平気で、人殺しをやったではないか。

(火星人は、植物にきまった!)

 新田先生は、長い歎息をした。

(全く情心というものを持合わさない植物なればこそ、火星人は、あの通り残酷なんだ! ああ何という恐しいことであろう!)

 新田先生は、たいへんな結論を引っぱり出したものである。

 火星は植物の世界だ! 植物が、火星を治めているのである。ちょうど、人間が地球を治めているように! 植物がいばっている星! 植物が高い文化をもっている星! それが火星なのだ。

 新田先生は、火星へ行ったこともなければ、火星の世界をくわしく研究したわけでもなかった。しかし、火星の上で植物が万物を支配している世界を想像してみることは出来た。ああ、それは何という風がわりな興味のつきない、恐しい世界であることか!

(ゆだんはならない! 火星は植物が治めているし、わが地球は人間が治めているのだ。この二つのものは、とても手を握ってつきあっては行けないであろう。火星人は、火星兵団を送って、もはや働きかけているのだ。ゆだんはならない!)

 ゆだんはならない。──とは、佐々刑事が宇宙電話でもって、地球に住む者どもに対して警告して来たことだった。恐らく佐々刑事は、火星へ上陸するか何かして、火星人がむごたらしいことを平気でやるのに驚いたのであろう! あの心臓の強い佐々刑事が驚くとは、よほど目に余ったことが、火星の上で行われているに違いない。

「ああ大変なことになった!」

 と、新田先生は、むごたらしい火星人の幻影を両手で払いのけつつ、うめきごえを発したのであった。ああ、怪また怪!

 新田先生が、火星人のおそろしい正体について、推理をくみ立てている間、蟻田博士は、向こうを向いて、しきりに火星人の兄弟ロロとルルの寝顔を見まもっていた。

 ところが、その中に、博士もだんだんねむ気をもよおしたらしく、こっくり、こっくりと、いねむりを始めた。

「ああ、博士!」

 先生は、うしろから声をかけた。

 しかし博士の返事はなかった。そうしてあい変らず、こっくりこっくりと、いねむりをつづけるのであった。

(しょうがないなあ。ぜひ、博士に、私の推理を聞いてもらいたいのだが……そうして私の考えが正しい……火星人は植物から進化したおそるべき生物だと言ってもらいたいのだが、これはどうもしようがない)

 新田先生は、博士を起せば、博士はきっと、怒り出し、御きげんを損じてしまって、あとあとのために悪いことを知っていたので、博士をゆり起すことはさしひかえた。

 さて、こうして地底において、火星人兄弟も眠り、博士も眠っているところを見ていると、先生はだんだんへんな気持になって来るのであった。何だか、ここは東京ではなくて、火星国の中のような気がするのであった。

 その時、先生の頭に、ひらめいたことがあった。

 それは外でもない。博士のねむっている中に、さっき宇宙電話をかけて来た佐々刑事をよび出し、話をしてみたい、ということであった。佐々は、きっと地球人類のためになることを、話してくれるにちがいない。

「そうだ、それがいい。そうして今の中だ」

 先生は、宇宙電話機の前へしのびよった。そうして、高声機を、耳にかける受話機の方に切りかえ、その受話機を、大急ぎで耳にかけてスイッチをひねったのであった。

 さあ、果してうまく佐々の声が聞えるかどうか。

 新田先生は、スイッチをひねってから機械がはたらき出すまでの数秒間を、たいへん待ちわびた。

 ところが、受話機の中から、ついに佐々の声がしたのであった。

「……おい、聞いているか、日本人。こっちは、警視庁の佐々刑事だ。今、火星から宇宙電話をかけているのだ……」

 ああ、それはまちがいなく佐々刑事の声であった。

 先生は、これに対して、何とかこちらからも話しかけたいと思った。そう思って、機械を見ると、つごうのよいことに、マイクがちゃんとついているではないか。

(うん、これはしめた。マイクのスイッチを入れさえすれば、佐々刑事と話が出来るにちがいない!)

 新田先生は、今はもう博士に気がねをしている時ではないと思い、マイクのスイッチをひねった。そうしておいて、

「ああもしもし、佐々刑事さん」

 と、先生はあたりをはばかりつつ、マイクに口をよせて、宇宙電話で佐々によびかけたのであった。

 蟻田博士は、この宇宙電話機をうまく合わせておいたものらしく、

「はいはい。佐々刑事は、ここにこうして聞いているが、私をよぶ君は、全体何者かね」

 と、まぎれもなく佐々の声で返事をして来たのである。

「あっ、しめた!」

 と、先生は喜びのあまり、今にもおどり出しそうである。

「おお、佐々さん。私の声が火星へ聞えたのですね。私は新田ですよ。おわかりですか。新田です」

「おう、新田先生か。やあ、いいところで返事をしてくれた。ああ、なつかしいねえ」

 と、佐々刑事は、うわずった声で、喜びをぶちまけた。

 さあ聞え出した。宇宙電話だ!

 新田先生は、うれしさのあまり、急に胸がどきどきして来た。

「ああ、うれしいです、佐々さん。あいさつはぬきにして、今ほろびんとする地球のために、必要なことだけを話し合うことにして下さい」

 先生は、ねっしんに呼びかけた。

「ああ、わかった、わかった。僕はさっきもこの宇宙電話で放送したんだが、火星人は、ゆだんが出来ないやつだよ」

「そのことですが、私は一つの推理を立てました。火星人というのは、植物の進化したやつで、動物のような情心を知らないです。だから生まれつき、たいへん残酷なんです。どうですか、その通りでしょう」

 と、先生が言えば、佐々は非常におどろいて、

「えっ、そうかね。火星人は、植物の進化したやつで、情知らずか。なるほど、そう言えば、いろいろ思いあたることがあるよ。この火星では道ばたなどで、仲間同志が殺し合うことを、平気でやっているよ。全くものすごいところだ」

 と、たいへんなことを言う。

「先をいそぎますよ。それについて佐々さん、火星人は、まだたくさん地球に攻めて来るのでしょうか」

 先生は、しんぱいなことをたずねた。

「そうとも、そうとも。火星兵団は、たいへんな人数だ。甲州の山奥で見た火星兵団なんか、ほんの一部分だ。兵団にいる兵士の総数はたいへんだ。何十億何百億人だ。何しろ火星人の子供は、一度にずいぶんたくさん生まれるのだ。子供のふえ方では、とても人間なんか、かなわないね。だから人間軍とたたかって負けるようなことはないと、火星兵団の連中は言っているよ」

 佐々刑事の言葉は、聞けば聞くほど恐しい意味を伝えて来るのであった。

 火星にいる佐々刑事と蟻田博士の地下室にいる新田先生とが交す宇宙電話は、なおも続いた。

「もしもし新田先生、聞いているかね」

「聞いていますよ、佐々さん。──で、どうなんですか、火星人の考えは? 我々地球の人間をどうするつもりなんでしょうか」

「それは、さっきもちょっと言ったが、地球の人間をひっぱって来て、飼って利用しようと思っているんだ。ちょうど、人間が豚や鶏を飼っているように、火星人は、人間を飼って、自分たちの勝手なことに使おうとしているのだ。そうなれば、地球人類の降服だ。火星人の奴隷になることだ。いや、奴隷以上のはずかしめを受けることになるだろう。だから、火星兵団に対しては、一歩もゆずってはいけない。彼等が、人間をすくってくれると思っていては大まちがいだ」

 佐々刑事の言葉は烈しい。

「でも、困ったですなあ。モロー彗星には衝突されるし、火星人にすくわれれば奴隷になるし、それじゃ地球の人間は助からない」

 と、新田先生は、ほんとうに困ってしまった。

「だから、だんぜん、火星兵団と戦うんだ」

「戦っても、どっちみち人間は助からないではないですか」

「助かるか助からないか、とにかくやってみなければわからない。戦ってたおれれば、もともとだ。もうだめだからと言って、負けるつもりになっていることがいけないんだ。せめて日本人は、建国精神によって、はなばなしく戦ってもらいたいなあ。火星兵団に降参してしまったなどという、ふがいない歴史なんか、残してもらいたくない」

 佐々刑事は、火星の上に、ただひとりがんばって、はるかに地球の人々を励ましたのであった。



46 彗星対策すいせいたいさく



 三月の十何日ごろから、肉眼でもモロー彗星が見えるようになった。

 モロー彗星の位置は、南東の地平線に近い空であった。太陽が西に沈んで、あたりがほのかに暗くなると、うっすりと青白い光の尾をひいたこの妖星は、急にかがやき始める。

 日が暮れかかると、誰も彼も言い合わせたように南東の空に首を向けた。家々の窓には家族中の顔がならび、道行く人は立ちどまり、あっちに一かたまり、こっちに一かたまりと、不安な面をそろえる。

 モロー彗星は、そういう地球の上の騒ぎを知ってか知らないでか、絵にかいたようにしずかに、低い空にかかっているのであった。無言の威圧だ。

「あれが、モロー彗星ですか」

「そうですよ。今にあれがどんどん大きくなって、月よりも大きくなるそうです」

「もしもし、月よりも大きくなるどころじゃありませんよ。彗星は自分で光っているんですから、太陽よりも明かるくなりますよ」

「ほんとうですか。あれは自分で光っているんですか」

「そうですとも。今に空いっぱいに彗星がひろがりますよ」

「ええっ、何ですって」

「つまり、空というものが見えなくなってしまうのです」

「えっ、よくわかりませんなあ」

「さあ、どう言ったらいいか。つまりですな、空が見えなくなって、その代り彗星の表面ばかりが見えるようになるでしょう。その時は、他の星は全く見えなくなりますよ」

「へええ、驚きましたなあ。太陽も月も見えなくなるのですか」

「そうですとも。太陽も月も、地球から言うと、モロー彗星の向こう側になってしまうのですからねえ」

 俄か天文学者が急にふえた。

 モロー彗星が肉眼で見え出すと、騒ぎは、いよいよ大きくなった。

『モロー彗星対策相談所』とか、『延寿相談所』などという珍妙な看板が、どこの都会にも、十や十五はあらわれた。

 人々の中に、何とかしてこの際、自分たちの命を全うしたいものと思い、この珍妙な看板をかけた家の門をくぐる者が少くなかった。いや、少くないどころか、その門前は、順番を待つ人々で、長い列を作っていた。

「さあ、お次は九十番、九十番のお方!」

 と、受附の男が呼ばわると、待っていた人は番号札をにぎって、その延寿相談所長室へはいって行くのであった。

「まず、相談料をいただきます。相談料は先払で百円です」

「百円? 高いですね」

「高いと思えばおよしなさい。何しろここで、あなたの家の御家族の命が助かるか、助からないかという場合ですからな。別に私どもは、こんなことでお金をもうけようとは思わないのです。ただ、この通りたくさんのお客さんに押寄せられ、門や家がこわれそうなので、その混雑を防ぐために、少しばかり高いお金を支払ってもらって、入場整理をやっているのです。気に入らなければおよしなさい。ただし、命のせとぎわですからな」

 と、へんなことを言って、困っている人を困らせたり、おどかしたり。

 それで客は、せっかく決心をしてここまで来たのでもあるし、百円はちょっとこたえるが、それで命が助かるなら、まあ安いものだと思ってその金を支払い、さて、モロー彗星の害からのがれる方法は? と相談所長にうかがいを立てると、

「それはいい方法があります。しかし、決して、ほかの人に洩らしてはいけませんよ。つまり鉱山──銅や石炭やそういう鉱物の出る山の坑道の、奥深く逃げこんでいるのです」

「鉱山の坑道にはいっておれば、かならず助かりますでしょうか」

 と、客はふに落ちない顔である。

「そりゃもう、たしかにうまく行きますよ」

 と、モロー彗星対策延寿相談所長は、大きくうなずいた。

「モロー彗星が、地球に衝突した時を考えてごらんなさい。地上なんかにおられやしませんよ。彗星が衝突したとたんに、地上は、一せいに火事になってしまいますよ。とても熱くて、おられるものではありません。おまけに彗星は地球をこわして行きますよ。ビルヂングであろうが、岡であろうが、山であろうが、ぶっかいて行きますよ。その時人間が地上におれば、一しょに持って行かれますよ。だから、今お教えしたように、坑道の底におれば、助かるわけです。つまり地球が一皮むけたくらいでは、坑道の底におれば、まず大丈夫ですからね。どうです、たしかな方法でしょう」

 と、相談所長はとくいである。

「なるほど、なるほど」と、客は感心してうなずいたが、

「しかし所長さん、地球が粉々にこわれるだろうという話ですが、その時は、坑道の底にいても地表にいても、やられることは同じことでしょう」

「いや、同じではありません。地表にいる人間がやられる時、坑道の底にいる人間は、まだ生きています」

「しかし、遅かれ早かれ、坑道の底にいても、やられるではありませんか」

「それは仕方がありませんよ。少しでも、いのちが長くのびれば、それでいいとしなければならんですぞ。まず五、六分は長くのびます。あまりよくばりなさるな」

 客は、あっけにとられた。百円は、ただどりをされたようなものだ。

 また別の相談所では、海中へ逃げる方法を売っていた。それは……。

「海へ逃げこむのが一ばんよろしゅうございますよ」

 と、別の相談所長は言うのであった。

「つまり、陸は安心がならないのです。陸はモロー彗星につきあたられると粉々に飛散ってしまうし、地上は、大地震の起ったように大ゆれにゆれるから、人間はつぶされてしまいますよ。そこへいくと、海の中にはいっておれば、ずっと安全ですな。どうです、おわかりかな」

 その相談所長は、そう言って鼻をうごめかすのであった。

「どうもわかりませんが、先を話して下さい。海の中に逃げこむと言っても、どうすればいいのですか」

 と、客は不思議がる。

「つまりその、潜水艦に乗っているのです。陸はいくらぐらぐらしようと、また海上にどんなに波が立とうと、海の中は、あんがい静かです。たとえぐらぐらしても、潜水艦なら、どんなにゆれても大丈夫です。上と下とがあべこべになっても、心配はありません。だから命が助かりたいと思ったら、ぜひ潜水艦の中へ、ひなんをなさるのですな」

「なるほど、潜水艦はなかなかいい思いつきですなあ」

 と、客は言ったが、

「しかし、わたしたちを乗せてくれる潜水艦は、どこにいますかねえ」

 と、たずねた。すると相談所長は、

「さあ、そこまでは知りませんよ。手前のところでは、命をのばす御相談にあずかるだけで、あなたを乗せてくれる潜水艦がどこにいるか、そんなことまで世話をやくわけにはいきませんよ」

 と、つっ放すように言った。

 人々が難儀をしている時に、ろくでもないことを言って金もうけをしようという、けしからん者がたくさん出て来た。

 モロー彗星の光は日とともにつよくなり、そうしてますます大きくなっていった。

 地球の人類の不安は、モロー彗星の大きさとともに増していった。町には気が狂った人が、だんだん人数を増していった。

 しかし、一部の人間はおちついていた。すっかり覚悟をきめてしまったのであろうと思われるが、いつものように平然として仕事をつづけていた。

 その人たちが言っている話を、横あいから聞いてみると、こんな風であった。

「どうです、モロー彗星も、だいぶん大きく見えるようになりましたね」

「そうですねえ。あなたは、どちらへ御ひなんなさいますか」

「いいえ、べつにひなんはいたしません。このままにしています」

「ははあ、どうして、ひなんなさらないのですか」

「いや、さわいでも、どうなることでもないのです。何しろ相手は彗星ですからねえ。我々に、彗星を動かす力があればともかくもですが、そんな力はないのですから、後はもう自然の成行にまかせておくよりほか仕方がありません」

「たいへんおちついておいでですね。しかし、死ぬことはおいやでしょう」

「べつにいやとも思いません。いやだと思っても、どうなることでもないのですから。それよりも、わたしは、たいへん楽しいことに思っています。つまり、地球は生まれてから八十億年もたっているのに、地球が崩壊するところが見られるのは、今日の時代の我々だけにかぎられているということは、なかなかすばらしいことではありませんか。わたしは、地球がどんなに崩壊し、そうして人間などが、どんな風に死んでいくか、ゆっくり見物しようと思っていますよ」

 と、その人は、口のあたりに微笑さえ浮かべて、そう言うのであった。



47 ピート大尉



 怪人丸木は、甲州の山中で、しきりに火星兵団を指揮していた。

 彼は、日本上陸兵団の指揮者であるとともに、地球遠征軍の隊長でもあった。だから、世界中から兵団のことや何かについて、知らせが集って来た。

「わが火星兵団は、たいへん優勢であります。この分ではモロー彗星に衝突する日までに、地球をすっかり占領してしまうことが出来ると思います」

 と、丸木は火星に向けて放送をした。彼はもう地球を、すっかり自分の手におさめてしまったつもりでいる。

「マルキ総兵団長!」

 と、アメリカ上陸兵団から、電話がかかって来る。

「どうしたのかね」

「ただ今、当地からロケットが一台飛出しました」

「ふん、それは人間が乗っているロケットかね」

「そうであります。アメリカ一流の飛行士ピート大尉が乗りこんでいるのです。そのロケットは、火星に向けてとんでいるものと思われますが、すでにもう成層圏を通り越して、ぐんぐんとまっくらな宇宙に光の尾を引いて走っていきます」

「そうか。では、こっちからも見えるじゃろう。よろしい」

 丸木は電話を切ると、火星の宇宙艇の中にはいって、ラジオの箱のようなものの前に腰をかけた。

 その機械には、たくさんの目盛盤めもりばんがついていたが、丸木はそれを器用な手つきでまわした。そのうちに、ぱっと緑色の電灯が光り出したと思うと、とたんにそのラジオの箱のようなものの真中に、映画のようなものがうつり出した。その中には一台のロケットの姿があった。丸木は言った。

「ふふん、こんなロケットなら一ひねりで片附くわ」

 怪人丸木は、箱の中に映っているロケットを睨んでいる。そのロケットは、アメリカのピート大尉の乗っているものであった。

「おい、宇宙艇司令所!」

 と、丸木は電話を、別のところへかけた。

「はい、宇宙艇司令所です」

 返事があった。

「すぐ一隻を、宇宙へ飛ばすのだ。そうして、ピート大尉のロケットを追撃するのだ。そのロケットの位置は……」

 と、怪人丸木は、訳のわからぬ符号をしゃべって、ロケットの位置を知らせ、

「すぐ、そのピート機をやっつけてしまえ!」

 火星へ飛ぶロケットを撃落うちおとせという命令である。もしもこのまま火星へ着かせたなら、それは丸木の手落ということになるのであった。だから、そういう人間のロケットは、すぐにやっつけてしまわねばならない。

 怪人丸木の命令一下、間もなく真暗な宇宙において、すさまじい惨劇が起った。ピート大尉のロケットが、白いガスを吐きながら、真一文字に、ぐんぐんと進んでいくところは、まことに勇ましいものがあったが、そのうち、後から、異様な形をした大きな宇宙艇が現れた。それはもちろん火星兵団の宇宙艇であった。

 火星兵団の宇宙艇は、前と後とに、大きな魚の目のような窓がまぶしく光っており、艇全体が、薄桃色の光の霧のようなものでおおわれていた。形から言っても、ピート大尉のロケットを金魚ぐらいにたとえると、火星兵団の宇宙艇は、一メートル以上もある大きな鯉のようで、とても、くらべものにならなかった。宇宙艇はどんどんロケットに追いせまり、やがて、

「あっ!」

 という間に、ピート大尉の乗ったロケットは、氷の塊が熱した鉄板の上に置かれた時のように、外がわからどろどろととけ出した。

 どろどろととけ出したロケット!

 全く不思議な光景だった。

 ピート大尉の乗ったロケットは、見る見るうちに、空間から消えてしまった。

 ロケットのあとをここまで追いかけた火星の宇宙艇は、任務を果したので、うしろへもどりながら、マルキ総兵団長のところへ電話で報告をして来た。

「ピート大尉のロケットは、完全にとけ終りたり」

 怪人丸木は、それを聞いて、

「ふん、そうか。それで一先ず片づいた。火星まで行かれてたまるものか」

 と、安心した。

 しかし、安心はまだ早かった。

 ピート大尉が火星兵団の宇宙艇にやられてしまったことが、まだ人間の世界には知れていないと見え、同じアメリカのところどころから、別のロケットが、火星の方に向いて出発した。その数は五箇であった。

 怪人丸木のところへ、この報告がとびこむと、彼はまたそのロケットの追撃を命じた。そうしてロケットは、いずれもピート大尉の時と同じく、不思議にも、どろどろとけてしまって宇宙から消えて行った。

「ほう、そうか。今度もまた片づいたか。あと、ゆだんがならないから、見かけたら、すぐ追いかけて、人間の乗っているロケットをとかしてしまえ」

 怪人丸木は、そう言って、部下にしかと言いつけた。

 こうして、ロケットは、いくつとなく、火星兵団のために怪しい最期をとげてしまった。

 地球の人々にも、ロケットの最期のことがだんだん知れて来た。そうしてついに、宇宙へとび出すことが、たいへんあぶない状態にあることがわかった。



48 なさけの先生



 さて、ある朝のことであった。

 怪人丸木は、まだ宇宙艇内の寝室の中で、しずかにねむっていた。

 火星人は、一体どうしてねむるのか、たぶん、人間はそれをよく知らないであろう。

 怪人丸木は、寝室の二重戸を下すと、大きな一つの袋の中にはいる。それは、蚊帳かやのように四角になっていた。だが、空気は、もれないような仕掛であった。

 その袋のすそにポンプがあった。

 そのポンプを動かすと、袋の中の空気がどんどん出ていく。そうして圧力が低くなる。圧力計の指針がぐっと左に動いて、赤いしるしのついているところまで来ると、そこでポンプは、しぜんにとまるのであった。

 それまで怪人丸木は、ぼんやりと立っていたが、ポンプがとまると、彼は急に元気になる。

 彼はまず例の長いマントを、するりとぬぐ。マントの下は例の通り、太いドラム缶の胴に、西瓜すいかのような頭がのっており、手や足と来たら、針金の少し太いやつを組立てて作ったような、妙に細いものであった。

 彼は、手を上にのばして、まず大きな頭をすっぽりとぬぎ、下におく。

 これがすむと、胴中どうなかに手をかけて、こそこそやっていたかと思うと、そのドラム缶のような胴が、真中から、たてに二つにわれる。

 すると中から、赤黒い異様な生物が、大きな目をぎょろりと光らせて、はい出して来る。まるでたこのようなかっこうだ。頭の下には、胴がほとんどなくて、たくさんの根のようなと言うか、触手しょくしゅのようなと言うか、へんにぐにゃぐにゃした触手が生えている。

 彼はそのぐにゃぐにゃした触手を、袋の底にいっぱいに広げる。その時頭は、もちろん敷物の上においたフットボールの球のような有様だ。そこで彼は目をあいたまま、ねむりはじめるのだった。そうして、今も彼はよく眠っているのである。

 怪人丸木は、蚊帳のような形をした減圧箱げんあつばこの中に、だらしなく眠っている。──

 朝日が、天井窓からさしこんで来た。何の音も聞えない。静かな朝であった。人間たちの、さわぎをよそに、丸木はすっかりいい気持で眠っているのだ。

 するとその時、天井からさしこんで来た光が動いた。

 朝日の光が動いたのではない。光の中に、別の人がはいって来たのである。

 影法師の人間が、減圧箱の上に影をなげかけた。大きな頭がうつった。その頭には、不思議にも鬼の角のようなものが生えていた。

 鬼か?

 鬼でもなさそうだ。角は、二本よりも、もっとたくさんあった。そうして束ねた髪の毛のように、ぶらんぶらんゆれていた。

 やがて一本の梯子が、上から下りて来た。そうして床の上についた。

 その梯子を、つたわって、下りて来る者があった。さっき影を見せていた、あの鬼のような人物だった。

 黒いマントを着ていたが、下に下立おりたったところを見ると、それは外でもない千二少年であった。

 ああ、千二少年!

 千二は、今までどこにいたのであろう? 今、千二はただ一人で下りて来た。だが、かわったすがたをしている。黒マントはまだいいとして、たいへんかわっているのは彼の頭部であった。

 角が生えているのかと思ったが、そうではなかった。千二は、妙なかぶとのようなものを、頭にかぶっているのだ。そのかぶとのようなものは、きっちり千二の頭にはまっていたが、そのかぶとの上には、あちらこちら螺旋らせんのようなものがぶらさがっていて、千二が歩く度にゆれた。

 とつぜん、あらわれた千二少年!

 妙な形のかぶとのようなものを、かぶっている千二少年!

 その千二は、少し様子がおかしかった。目と言えば、うすく半分だけあいている。歩くかっこうと言えば、頭の方が先に出る。操り人形みたいである。

 その千二少年は、よろよろとよろめきながら、怪人丸木の眠る減圧箱のそばによった。

「ねえ、隊長。もう起きる時間ですよ」

 と、千二は火星語ですらすらと言った。

 丸木は、それが聞えないのか、まだ、眠っている。

 千二は、もう一度同じような調子で言った。

 すると、眠っていた丸木は、ぶるぶると長い手足をふるわせた。と思うと間もなく、丸木は大きな頭を持ち上げて、ぐらぐらとふった。それは、まるで猫がひる寝から目がさめて、背のびをする時のかっこうに、よく似ていた。

「おお、もうそんな時間か」

 丸木はそう叫ぶより早く、体をぐっとちぢめると、床の上を目にもとまらぬ早さで這出した。そうして、あっと思う間もなく、かたわらにおいてあったドラム缶のような、胴の中にとびこんだ。胴はたちまち左右から寄って、ぱちんと、しまってしまった。

 すると、胴中に生えていた手足が、急に勢いよく、ばたばた動き出した。そうして、かたわらにおいてあった首の方へ手をのばすと、それをひょいと肩にのせたのであった。──とたんに、完全な丸木氏が出来あがってしまった。

 不思議な丸木の朝の日課であった。

 千二少年は、少しも驚く様子がなく、そばにじっと立っていた。

 不思議な日課を終えた丸木は、減圧箱の中から出て来た。

 そこで彼は、減圧箱を足でぽんと蹴った。

 すると減圧箱は、ゴム風船がちぢむ時のように見る見る小さくなった。そうして誰もさわらないのに、ポストぐらいの大きさのものになると、ことことと音を立て、ひとりで部屋のすみのところへいった。そこでは、どうしたわけか、かたりと音がして、その折りたたまれた減圧箱を、部屋の隅に、動かないようにくくりつけてしまったのであった。──火星人が持って来た宇宙艇には、このような不思議な働きをするものが、いくつもあった。

「おう、千二。きょうはきげんはどうかね」

 丸木はそう言って、千二のそばへ寄って来た。

「はい、上きげんであります」

 千二は、あざやかな火星語でそう答えた。

 丸木は、手足をばたばたと動かした。それは、うれしいという気持をあらわしているのだった。

 火星人は植物だから情心なさけごころなどはなかった。しかし丸木は、火星人の中でもすぐれた人物だったので、このごろ情心というものを自分の心にも植えてみようと思った。丸木はそのために、千二を使っているのであった。

 千二少年は、あれからずっと丸木のため、きびしく監禁されていたが、少年は一度は大きな悲しみに沈み、その後あきらめたのか、ほがらかになった。とにかく、このいつわりのない少年の心が、怪人丸木を、たいへん動かしたものらしい。

(自分も、この少年のように、情心を持ちたいものだ!)

 そう思った丸木は、それから後、いつも千二少年をそばにおいて、少年の悲しみや、笑いや、それからいきどおりや、かわいがることなどを手本にして、自分もそのような感情を湧かそうと、つとめたのだった。

 怪人丸木のため、情の心を教えている千二少年こそ、不思議な役割の人であった。

 丸木は植物であるから、植物には持合わせがなく、動物にかぎり持合わせている情の心がうらやましくてたまらないのである。だから丸木は、情の心を自分のものにして、更に高等な火星人となろうとしたのであった。

 火星の王様にペペというのがいた。彼は広い火星を自分一人の手でおさめているという、たいした王様だった。丸木はそのペペ王さえ持っていない情の心を、自分は持ちたかったのだ。そうすれば、丸木はペペ王よりも、高等な生物になれると考えたのであった。

 丸木は千二少年をそばにおいて、少年といろいろの話をしたり、それからまた少年をおこらせたり、悲しませたり、それから、ほんのちょっぴりではあるが、少年を喜ばせたり笑わせたりして楽しんでいるのであった。勉強のかいが、あったとでも言うのであろう。このごろでは丸木はだいぶん情の心が湧いて来るようになった。

「おい、千二。わしはお前に金でこしらえた、おもちゃをやろうと思うよ」

「ほんとう? ほんとうならうれしいなあ」

 千二は喜んだ。千二が、喜ぶと、

「千二、お前が喜ぶと、わしも、うれしくなるよ。うれしいという気持は、なかなか値打のあるものだな」

 と、そんなふうに丸木は言うのであった。

 そうかと思うと、丸木は、時には、とつぜん少年に、お前を殺してしまうぞ、などと言って悲しませて喜ぶこともあった。とにかく、丸木は情の心をもてあそんで喜んでいる。感情を持つようになった植物は、はたして幸福であろうか、それとも不幸であろうか。

「わしは、高等火星人になったぞ!」

 と、丸木ひとりは喜んでいるが……。



49 電気帽でんきぼう



 人間ではない植物の丸木のそばで使われて暮している千二少年は、決して楽しいはずがなかった。なぜ、千二は丸木のところから逃出さないのであろうか。

 見たところ、千二は、別にくさりでつながれているわけでもなく、また、番人がついているわけでもなかった。それなら、千二少年は、いくらでも逃出すことが出来るはずであった。

 しかし千二は、もうずいぶん長いこと怪人丸木につかまったまま、逃出しもしないで暮している。なぜ彼は逃げないのか。

 それには、わけがあった!

 そのわけというのは、千二少年が頭にかぶっているかぶとのようなものに、わけがあったのである。

 いや、彼は好きで、あのかぶとのようなものを、かぶっているのではなかった。怪人丸木が、あれを少年の頭にかぶせたのであった。

 あれは電気帽という。

 電気帽には、ふさのようなものが下っているが、あれはアンテナのようなもので、外から電波をかけると、その電波はアンテナに感ずる。丸木は、千二を逃さないために、千二にその電気帽をかぶせ、そうして、また宇宙艇の中にある電波機械から、ある不思議な電波を出している。その電波が電気帽に感じると、千二は逃げる気持がなくなってしまう。つまり、電気帽は千二の脳髄の働きを一部とめてしまうのだ。

 脳髄の働きは一種の電気作用だから、こんなことが出来るのであった。

 つまり、千二には、逃げたいという気が起らないように、し向けてあるのだった。千二の体には、鎖こそつないでなかったが、彼こそ電波でしばられた囚人しゅうじんであったのである。

 千二は、怪人丸木のもとから逃出す気は少しもなかった。それは丸木が、千二の頭にかぶせた電気帽の働きであった。千二の心には、まったくそういう気が起らないように仕掛けられてあったのだ。

 火星人という奴は、どこまで、ざんこくなことをするか、底が知れなかった。

 千二は電波囚人だから、今度は新田先生がいくらさがしても、待っていても、先生のもとへ戻って来ないのであった。千二は、いつまでこうして、電波囚人になって、こころの自由をしばられているのであろうか。

「ああ火星から無電がはいったようです。おお、ペペ王からの電話です」

 と、千二は急に壁のところへ、かけ出して行った。

「何だ、はやペペ王から電話か。はてな、いつもの通信時間とは違うようであるが……」

 と、丸木はふしん顔。

「そうです。特別通信です。何かペペ王の方で、急がれることがあるのでしょう」

 こういう話になると、千二の頭はあたり前に働いた。千二が今かぶっている電気帽は、ただ『ここを逃出す』という気だけを、ぜったいに千二に起させないように、機械を合わせてあったのである。

 千二は、壁のところに出ている小さなボタンを押した。

 すると、壁の上に、ぽこんと四角な窓があいた。窓ではない、一種のテレビジョンの幕だ。無電をかけて来た火星の景色が、うつっているのであった。

「おい、マルキよ」

 画面一ぱいに、いきなり、例のトマトに目をつけたような火星人の顔があらわれた。ペペ王だった。画面のペペ王が口を開くと、そこからペペ王の声が出て来るのであった。

 千二は、かくべつおどろいた様子もない。

「はい、ペペ王。何の御用ですか」

 丸木は、椅子に腰をかけて、落着いて言った。

「こら、マルキ。お前の監督はよろしくないぞ」

 と、とつぜんペペ王のおしかりだった。

「はて、何をしくじりましたかな」

 丸木は、口ほど驚いていない。

「きのうだったか、そっちから火星へ戻って来た宇宙艇があった」

「なるほど」

「お前も知っているのだな。──その宇宙艇は、着星したのはいいが、いつまでたっても誰も出て来ないのじゃ。入口の扉をどんどん叩いても、中からあけようともしない。仕方がないから、こっちから通信でもって、『おい、早く扉をあけて出て来んか。何をぐずぐずしているのか』と言っても、さらに答えなしじゃ」

「ほほう。それは、けしからん」

「通信が中へ聞えないかと思うと、そうでもない様子だ。中には、火がついたり消えたりもするし、それからまた中から電波を発射していることもわかっている。そのくせ扉をあけないのじゃ」

「逆乱軍でしょうかな」

「えっ、逆乱軍? おいほんとうか。そんなものが起るわけはないのだが……。とにかく宇宙艇の扉と来たら、内側からあけないかぎりは、外からはどんな事をしても、あかない仕掛になっている。全く困ってしまったよ」

「それは困りましたな」

「おいおい、マルキ。お前が涼しい顔をしていては困るじゃないか。お前の監督が悪いから、このような命令を聞かない者が出来るのじゃ。しかも、この宇宙艇は、たしかに、地球派遣軍の火星兵団に属している宇宙艇だから、お前が責任をとらなければならないぞ!」

 と、ペペ王はかんかんにおこっていた。

 でも、丸木は言った。

「なるほど、それは、私の責任かも知れません。しかし実際を考えてみて下さい。今地球と火星との間を連絡するために、火星兵団は、毎日のように宇宙艇を幾台も飛ばしているのです。中には、内側からあかない宇宙艇もあるかも知れません」

「何を言う、マルキ!」

 ペペ王は、大きな声を出した。

「わしがお前に言いたいことは、宇宙艇の警戒を怠って、むざむざ人間に取られてはならぬと言うことだ。人間とて、相当頭が進んだ生物だから、宇宙艇の中を知れば、同じものをまねしてつくるかも知れない。もしそんなことがあったら、我々は人間から、さらに強い手向かいを受けることになって、困るのじゃ」

「大丈夫です。そんなえらい人間はいませんよ」

「そうではない。むかし、この火星へアリタ博士というのがやって来たが、彼などは、なかなかすぐれた頭を持っていた。ああいう連中に見せたら、後がよくない」

「ですがペペ王、モロー彗星は、あと十日ぐらいして地球を粉々にこわしてしまうのですよ。ですから、たとえ宇宙艇を人間に見せたところで、あと十日では、そのうちの一台だって作り上げられませんよ。心配は御無用です」

 丸木は、落着き払って言った。

「ふん、まあ、せいぜい気をつけてくれ」

 と、ペペ王はようやく折れた。

「で、その占領された宇宙艇は、この後どうなさるのですか」

 と、今度は丸木がたずねた。

「うん、仕方がない。中にいる火星人には気の毒だが、宇宙艇ごと、粘液で、とかしてしまうつもりだ」

 と、ペペ王は放言した。



50 連合脱出隊



 中天にかかる恐怖の星モロー彗星は、日ごとに大きくなり、光力を強めていった。

 もうそのころには、夜間だけではなく白昼でさえも、モロー彗星が空に浮かんで見えるのだった。

 夜になると、モロー彗星は、にわかにらんらんと輝き出すのであった。その大きさは、もう月の半分ぐらいになった。月が空に二つ、かかっているようにも見える。全く怪しくも不思議な光景であった。地球の人々は、モロー彗星の光が強くなればなるほど、興奮の度をたかめた。

 半分おかしくなっている者や、道ばたで一日中泣きどおしの者が、だんだんふえて来た。そうかと思うと、盛にステッキや剣を空に向けてうちふり、

「モロー彗星なんか何者じゃ」

 と、見えすいた強がりを言っている者もあった。

 その一方において、科学者や技術者たちは、その大半が工場につめて、わきめもふらずに、地球脱出用のロケットを製造することに、一生けんめいであった。彼らは、時にモロー彗星のことを忘れているかのように、製造に熱中した。

 ドイツでは、いつの間に揃えたか、ロケット兵団をつくった。それは、百台の大ロケットで編成せられていた。このロケット兵団は、アルプス山脈地帯にかたまっている火星兵団を尻目に、空中高く飛出し、示威飛行しいひこうを始めた。

 ところが、その挑戦に応じて、アルプスの方角からは火星兵団の宇宙艇五台が飛出した。そこでロケット百台と宇宙艇五台の大空中戦が始ったが、気の毒にも、ロケットは見る見るうちに空中でとろりとろりと溶けだした。やがて四十台ほどのロケットは空中で溶けて散って、あとかたもなくなり残りの六十台のロケットは基地へ引きかえした。科学国ドイツの技術を総動員しても、火星人のつくった宇宙艇には、かなわなかった。

 モロー彗星は、いよいよ近づいた。

 地球から見ると彗星の頭は満月の二倍ぐらいに大きくなった。

 夜分だけしか見えなかったその彗星は、このごろでは、昼間も空中にうっすらと姿が見えるのであった。

 地上の人間は、日毎夜毎ひごとよごとにモロー彗星の怪奇な姿におびやかされ、神経衰弱にならない者はないと言っていいほどであり、おかしくなる者が平年の百倍千倍にもふえていった。

 モロー彗星の尾は気味のわるい青白い光を放った。天空を大きな川のように流れていたが、その形はいつも同じではなく、風にふかれる煙のように方向が変り、形が変った。それは太陽の影響によって、ふき飛ばされるのだと学者は説明した。

 このような、怪しげな天空の下に、地上の人々がだんだん望を失って来たのも、無理のないことであった。

 しかし、いつの世にもそうであるように、どんな悪い世の中のありさまの時にも、決して負けない人間もいた。いや、かえってそういう苦しい困った時に、元気や勇気が出て来る人間がいた。

 日本人とドイツ人とイタリヤ人とアメリカ人とは、なかなか勇敢な人種であった。

 ドイツでは、前にも言ったように、かなりすぐれたロケットを百台も空に飛ばしたけれど、火星兵団の宇宙艇のために、すっかりやっつけられてしまった。しかしそれにもこりず、ドイツでは、また二回目の地球脱出ロケット隊が編成せられ、またもや大空に飛出した。

 だが、気の毒にも彼らは、やはり火星兵団の敵ではなかった。最後は、この前と同じように、語るも悲惨なことになり終った。

 しかし、負けじ魂を持ったドイツ人は、さらに、次から次へと地球脱出隊を編成していったのである。もしや、ただの一機でも無事に地球外にのがれてくれるかと、彼らはそれを心待ちにしていたのだ。

 ドイツのすぐれたロケットによる地球脱出隊が、次から次へ悲惨な最期をとげている一方、イタリヤでも、アメリカでも、同じような脱出がこころみられた。が、その結果は似たりよったりで、ついに火星兵団に勝つことは出来なかったばかりか、地上における火星兵団の基地攻撃さえ、うまくいかず、大損害を受けた。

「どうにも手段がない。どんなことをしてみても、火星兵団を打破る見込は立たない」

「仕方がない。この上は世界同盟をつくり、各国の智慧者を集めて、火星兵団の暴力に手向かう方法を考え出すことにしようじゃないか」

「それがいい。それの外はない」

 その昔、地球の上で、互にはげしい戦争を交えた各国も、こうなっては、にらみ合ってもいられず何とかして手をにぎり合って地球総力戦の体制を作り、火星兵団に対抗するより外途のないことが、彼らにも、はっきりわかって来た。

「そんなことを言っても、今から寄合をして、いい考えを出したんじゃ、もうおそいよ。そんなことは、もっと早くから気がつかなければならなかったんだ」

「だって仕方がないよ。今になって、やっと地球総力戦の体制をつくることに気がついたんだ。それに、今まではお互に各国とも、にらみ合っていたんだから、そうかんたんに一しょにはなれないよ」

 各国の足並は、まだみだれがちであったが、とにかく、日一日と、地球総力戦の体制が、まとまって来た。

 その結果、あと二日後には各国のロケット隊が、連合の編隊をつくり、その数も五百台というたいへんな数で、一気に地球を飛出し、金星へ向けて飛行しようという相談がまとまった。そうして、この連合脱出隊のことは、火星兵団には、ぜったい洩れないように気をつけ合ったのである。

 連合脱出隊のことは、極力秘密を保たれてあった。

 いよいよその日、各国のよりすぐったロケット隊は、空中の某点に集合することを、あらかじめよくうちあわせておいて、めいめいその基地を出発したのであった。

 その基地といっても、一国に一箇所では目に立つからというので、方々に分けた。アメリカのごときは全国六十五箇所に基地を作り、そこから二台または三台ずつのロケットを、同時に飛出させたのであった。

 彼らは、無事に空中の某点に集合することが出来た。

「ふむ、うまくいったぞ」

 と、乗組員たちは、五百台からのロケットから成る堂々たる脱出隊の威容をながめて、にっこりと笑ったのであった。

 そこで、連合脱出隊は一せいに舵をとりなおして、金星を目あてに飛行を始めたのであった。

 ところが、それからものの五分もたたないうちに、

「ああ、あそこに見える黒いものは何だ」

「え、ああ、あの黒い点のようなものか。風船でもなさそうだが、事によると……」

 と、首をかしげているうちに、空中に浮かんでいる黒い風船のように見えた黒点は、見る見る大きく広がり出した。

「あっ、火星兵団だ!」

「うん、やっぱりそうだったか。おい、火星兵団の大襲来だ!」

 と言っているうちに、その大きく広がった黒い斑点の中には、さらに小さい粒々の黒点が、たくさん集っていることがわかり、襲来した火星兵団の宇宙艇の数は二、三百だということがわかった時には連合脱出隊のロケットは完全に針路をおさえられてしまった。そうして次の瞬間には、火星兵団の宇宙艇隊は、ロケット隊のまん中を刺貫つらぬくように飛込んで来た。勝ち負けは、その瞬間にきまってしまった。

 せっかく力を合わせて編成した連合脱出隊のロケット五百台は、火星兵団のため、空中に全滅してしまった。

 この悲報は、全世界を打震わせた。

「今度は、大丈夫だと思っていたのに……」

「あれでいけなかったら、われわれ地球人類は、絶対に火星人に降服する外はない」

「もっと早くから、対火星戦を、考えておくんだったな」

 と、各国の責任者たちは、無念の涙をはらはらと落しつつ、この惨敗のあとをふりかえった。

 ロケットに乗せて貰えない連中は、ロケットが、地上から飛出していくたびに、自分がいつまでたっても、地上に取残されていることを不満に思い、飛んでいくロケットのあとをうらめしそうに、そうしてうらやましそうに見送ったものである。ところが近頃になっては、彼らはもうそのような、うらめしそうな目附はしなかった。それは出ていくロケットというロケットが、ことごとく火星兵団のため空中でとけてしまったり、地上に追帰されたからである。彼らはニュースにより、うまく地球から脱出したロケットが、まだ、ただの一台もないことを、はっきり知ったからである。

 打続く火星兵団の勝利! そうして地球軍の惨敗。

 しかも、モロー彗星は、そんなことにはおかまいなく、刻一刻と地球に近くなって来た。

 地球の上には、こうして二重の苦難がおおいかぶさって来たのである。地球と地球人類とは、もはや、自分たちの『死』を覚悟しなければならない時が来たように見える。

 だれか、この大危難を救う者は出てこないであろうか。救世の英雄の足音は、まだ少しも聞えないようである。

 ああ、絶望の地球!



51 博士の大決心



 新田先生は、蟻田博士の地下研究室の中にあって、ただもういらいらしていた。何とかして心を落着けたいと思うが、今までのように心がしずまらない。そうでもあろう、モロー彗星との衝突の日まで、あとわずか一週間しか残っていないのであるから……。

 新田先生は、落着きはらって仕事をつづけている蟻田博士が、うらやましくもあり、腹が立っても来る。

「博士。もうあと一週間で、この地球が粉々にとびちってしまうというのに、博士は何をそんなに熱心に研究しておられるのですか」

 博士はしきりに電気火花をじいじい言わせて、ガラス管の中にある青黒い紐のようなものにあてていた。

「しずかにしていてくれ。わしの研究の、じゃまをしてはいかん」

 博士は、目盛を直しては、またじいじいと電気火花をとばし、ガラス管の中をのぞきこんでいる。

「しかし、博士。……」

「こら、だまっておれというのに……」

 博士は、新田先生が話しかけるごとに、きびしく叱りつけた。一体博士は、何をしているのであろうか。

 新田先生は、ついにだまってしまった。

 博士は実験をくりかえしていたが、そのうちに、たいへん驚いた様子で口を大きくあけ、手のひらを打った。

「うむ、やっと思うように行ったぞ!」

 博士は、ひとりごとを言った。

 新田先生は、博士のうしろから実験台をのぞきこんだ。

 博士はガラス管を指先につまみあげて中をのぞきこんだ。青黒い紐のようなものの一部が、赤く焼けたようになっている。

「これだ、これだ」

 博士は子供のようにおどり上った。博士は実験に成功したらしいが、それは一体どんなことであったろうか。

 蟻田博士が躍り上って喜ぶなんて、よくよくのことである。

 博士の研究は、ついに完成したらしい。

 一体、博士は、何を研究していたのであろうか。

 新田先生は、博士が喜んでいるそばへ、恐る恐る近づいた。

「博士、御研究が、うまくまいりましたか」

 と、先生が声をかけると、蟻田博士は後をふりかえって、

「ややっ、お前がいたのか……」

 と、急に不機嫌になった。博士は、自分の研究を他人に知られるのが、いやなのらしい。

 新田先生の心は、ちょっと重くなった。博士と自分とは師弟の間がらであるのに、なぜ、こう博士はいやな顔をするのであろうか。

 先生は、この間から、言いたいと思っていたことを、この際言ってみようと決心した。

「博士」

「何じゃ」

「博士は、私が、博士のおためにならないようなことをする人間だと思っておられますか」

「さあ、どうかな」

「さあ、どうかな──とは、おなさけないお言葉です。博士、あなたは、私にとっては尊い師です。師のためにならないようなことを何でしましょうか」

「そうかね」

「……私は、博士の冷たいお心をなおして、今死の直前に立っている地球人類のために、大いに力を貸していただこうと毎日つとめているのです。しかし博士は、一向、そういう気になって下さらない。博士、私は、そんなに信用出来ない人間でしょうか」

「人間には、もうこりごりだよ」

 と、蟻田博士はぶっきらぼうに言った。

 新田先生は、これ以上博士を動かすことは出来ないと知って、涙が出た。

 新田先生は、どうかして、蟻田博士の心を直し、地球人類のために博士のすぐれた智力を出してもらおうと、永らくつとめて来たのであるが、今度という今度は、先生も、さじをなげてしまった形であった。

(だめだ。蟻田博士こそ、人間の形はしているが、心は人間ではない。博士は、心を火星人などに売ってしまっているのであろう。すると、博士はまず鬼だと言ってよろしかろう。そういう博士の心を、自分の手で、何とかいい方へ直せると思っていたのは、たいへんばかだった!)

 新田先生は、そう思って、顔をつたって落ちるくやし涙を、とどめることが出来なかった。

「博士、私はいよいよ博士にお別れして、ここを出ていきます」

 先生は、ついにそう言った。もうこんな所にとどまることは出来ない。いくらここにいても、むだである。博士は、地球人類のために力を貸そうとはしないのである。

「今になって出ていくか。いよいよこの恩知らずめが!」

 博士は、口ぎたなく先生をののしった。先生は、すっくと立上った。一分間でも、こんなところにいては、身のけがれだと思った。

 ところが、その時、思いがけないことが起った。それは、何であったか?

 博士が、いきなり新田先生の手を、ぐっと握ったのである。

「あっ!」

 新田先生は、びっくりした。博士の心をはかりかねて……。

 その時、博士の唇が、先生の耳もと近くにあった。

「新田、だまって、わしについて来い!」

 博士は、聞取れないほどの小さい声で先生の耳にささやいた。

「えっ!」

 新田先生は、自分の耳をうたがった。

(新田、だまってついて来い!)

 と、博士は言って、先に立った。

 新田先生は、博士の言葉つきの中に、何かしら、いつもと違った感じを受取った。

 博士は、部屋の片隅にある犬のくぐり戸のようなまるい形の扉をあけて、次の部屋へいこんだ。先生も、そのあとに続いた。

 這いこんだところは、紫色の電灯がついていたが、実に奇妙なところであった。まるで、鉄管の中にはいったような感じがした。なぜまあ、このように変なところばかりが、あるのであろうか。

 先生の前には、博士が、ごそごそと音をさせて這っていく。後から声をかけたくて、しかたがなかったが、博士におこられてはたいへんと、先生はがまんして、あとからついていった。

 二メートルばかり、いったところで、小さな部屋に出た。部屋というよりは大きな樽の中にはいったという感じである。

 曲面をもった壁は、にぶい金属的な光をもっていた。この部屋の中にはバンドのついた腰かけと、天井から吊革のようなものが、ぶら下っているだけで、外に何もない。

 博士が、何かごそごそやっているうちに、先生の後で、ぎいっと音がした。ふりかえって見ると、今這いこんで来た鉄管の出口が、すっかりふさがれていた。全く妙な部屋であった。先生は博士の心をはかりかねた。

「うむ、これで安心だ。もう、大きな声を出してもいいよ」

 博士の声は、いつもとは違って、たいへんやわらかに響いた。

「博士、私をこんなところへ連れて来られて、何をなさろうというのですか」

 さっそく、先生はたずねた。

「おお新田。これからわしは、お前に、はじめて本心をうちあけるよ」

「えっ、本心?」

 先生は驚いて博士の顔を見つめた。

 本心を打明ける!──と、博士は言ったのである。

「どういうのが、博士の本心ですか」

 と、新田先生は、せきこむようにして問いかえさずにはおられなかった。そう言えば、さっきから博士の態度が、いつもとは、たいへん変っている。何か重大なわけがあるのだ。

「のう、新田」

 と、博士は両手をきちんと膝の上において語り出した。

「わしは、いよいよこれから火星兵団とたたかいをはじめるよ。いや、お前の驚くのももっともだ。わしは、いつも地球の人間のことを悪く言って、むしろ火星人の味方のようにさえ見えた。これにはわけがあるのだ」

 と、博士はそこで、これまでのことを思い出しながら、

「わしとて、お前と同じ地球の上で生まれた人間であることに変りはない。だから地球人類が栄えるように、ねがうことについても人後に落ちない。しかし、今までそのことを誰にも話をすることが出来なかったのだ。なぜかと言うのに、火星人は絶えずわしの身のまわりに、目には見えないが、きびしい監視の網をはっているのだ。火星人は、わしが何か言えば、かならずそれを聞いてしまっている。だから、うっかりしたことは言えない」

「博士、それは、ほんとうですか。私は、博士のおっしゃる火星のスパイを、見たことがありませんが……」

「今も言うとおり、お前などの目には見えないのだ。わしにも見えない。しかし、わしはそれを知っている。火星人は、わしの声の特徴をよくしらべている。わしが声を出すと、非常に精巧な検音受信機で、わしのしゃべることを向こうで録音してしまうらしい。何しろ火星人の智力と来たら、人間よりもすぐれているのだから、始末がわるい。わしは火星人に、自分のしゃべることをけっして聞かれないために、苦心の結果、この防音室をつくった」

 と、博士はまわりのかべを指さしながら、

「これだけ厚い金属のかべでとりかこみ、そうして、音も電気も磁気も、それから放射能も全然さえぎるような仕掛をつけてある。だから、多分この中では、何をしゃべり、何を考えても、火星人に知れることはないだろう」

 聞けば聞くほど、火星人の智力というものはおそろしい。

「何しろ、わしがこの前、火星からこっちへかえった当時から、火星人はわしの身のまわりを大警戒しているのだ。それはつまり、わしが火星の秘密を地球人類につたえて、火星を攻める準備をするのじゃないかと、うたがっているのだ。しかし正直な話が、地球人はとても火星人をうち破る智力を持っていない」

 博士は残念そうに言った。

「だが、わしは火星兵団のことについては、いち早く地球人に知らせておいた。地球人は、それに発憤して、何か新発明の兵器でもつくるかしらんと思ったが、やっぱり智力が足りなかった。わしは、どうせそんなことじゃろうと思い、火星人には、絶対に気がつかれないように注意を払いつつ、或る研究をつづけていたのだ。その研究は、やっと完成した。これさえ使えば、火星兵団をうち破ることはそうむずかしいことではないと思う。そこでわしは、お前だけに、ほんとうのことを、うちあける気になったのだ。これまで、お前にも、わざとつらい目に合わせて気の毒だった。今こそわしは、全力をあげて火星兵団とたたかうぞ」

「おお、博士!……」

 新田先生は、意外また大意外の博士の話を聞いて、喜びのあまり、後の言葉が出なかった。

 蟻田博士の様子が、すっかり変ってしまった。

 博士は、今まで怪しい人物だとばかり思っていたが、本心を明かせば、実にえらい人物であった。博士は、ほんとうに地球人類のことをしんぱいし、そうして火星人を追いはらうことを研究していたのだ。

「博士。今度みごとに出来あがった博士の或る研究とは、どんなものですか。ぜひ、私にも教えて下さい」

 と、新田先生が言えば、博士はひげの中から口をもぐもぐと動かして、

「その研究のことは、ぜったい秘密にしておかなければならないのだが、ここだけの話として、お前にも話をしておこう」

 と、博士は先生のそばに、すり寄って、

「いいかね。わしは火星人の着ているからをうちやぶる毒ガスを発明したのだ。この毒ガスを十号ガスと名附けた。十号ガスを火星人に浴びせかけると、火星人が着ているあのかたい殻が、見る見る中に蒸発して、影も形もなくなってしまうのだ」

 それが十号ガスの偉力であった。たいへんな力を持った毒ガスである。新田先生はこれを聞いて舌を巻いた。

「十号ガスというのですか。なかなかすごいものですねえ。その十号ガスのため、火星人の殻が蒸発して、なくなってしまうと、それから火星人はどうなります」

「どうなると言うのか。それはわかっているではないか。火星人は、はだかになってしまう。地球の上で、火星人がはだかになれば、彼等は、すぐに死んでしまわにゃならん。なぜって、地球の上では大気の圧力が強すぎて、火星人の体はもたないのだ。火星人の体を、地球の強い圧力の大気から守るために、火星人は殻をつけているのだからねえ。それを取られりゃ、一たまりもなく、火星人は死んでしまうはずじゃ」

 十号ガスのすばらしい力!

 蟻田博士は、たいへんなものを発明したものだ。これなら火星人は、かなり苦戦に陥るであろう。

「全く、驚きました。何というりっぱな発明でしょう。怪人丸木が、この十号ガスをあびてふうふうするところを、今から想像すると、とても嬉しいですな」

 新田先生は、嬉しさのあまり、子供のように手を叩いたり笑ったり。

 それを見ていた博士も、すこぶる満足らしかったが、

「そこで、新田。わしはこれからしばらくお前にもあわないよ」

 と、博士は、とつぜん妙なことを言いだした。

「えっ、私にあわないとおっしゃると……。博士はどこへ行かれるのですか」

 先生は意外に思った。

「わしは、これからひとりで閉籠とじこもって、十号ガスをうんとつくらにゃならんのじゃ。火星兵団をやっつけるには、十号ガスをよほど多量にもっていなければならんのでのう」

 博士は、研究を完成した十号ガスを、これから製造にかかるというのだ。

「博士、私にお手つだいをさせて下さい」

「いや、それは困る。これはわしひとりが、たましいをうちこんで、作らんことには、いいものが出来ないのだ。誰かがそばにいると、気が散っていいものが出来ない」

「しかし博士、地球最期の日は、もうあと一週間そこそこですよ。十号ガスの製造に、あまり長く日がかかると、もう間にあいませんよ」

「それは大丈夫だ。あと三日あればいいのだ。じゃ、あとを頼んでおくよ」

「ああ博士、どこへ行かれるのですか」

 博士は、それには答えず、出て行った。



52 しま天文台



 日毎夜毎ひごとよごとに、モロー彗星すいせいのすがたは怪しさを加えていった。

 今では、彗星の大きさは月をはるかにしのいでしまった。空を見上げると、まるで大きな光る飛行船を天に張りつけたようであった。

 モロー彗星の距離は、地球から月までの距離の何十倍ぐらいかのところまで近づいたのであった。あのすばらしい速さでもって、モロー彗星は間もなく月の側を通り越し、地球の正面へどうんとぶっつかるはずだった。

 人々は、もう殆ど全部が、おかしくなってしまった。もうあと七日足らずの生命だというので、変な遊びに熱中しているあさましい人間が町にあふれていた。そうかと思うと、中にはせっせと働いている者もあった。庭に一生けんめいに朝顔の種をまいている者があったり、町から投売の安い品物を買って来て、一生けんめいに納屋なやへしまいこんでいる者もあった。彼らはたいへん落着いて働いているようでありながら、その実は、やっぱりおかしくなっていたのだ。なぜと言って、朝顔の種をまいてみても、その花が咲くのは夏時分になる。夏までこの地球がもてばいいが、あと数日で崩壊してしまうのだから、彼のやっていることはどうもおかしい。安い品物を買集めている人にしても、やはり同じように、気がどうかしているのであった。

 たまに、まじめなことを言出す人があっても、誰もそれを本気で耳にとめる者はいなかった。モロー彗星は日毎夜毎にぐんぐんと大きくなり、それを見ていると、誰に説明を受けなくても、地球と正面衝突するであろうということが、誰にもわかりすぎるほど、わかったのである。

(もはや、さけることの出来ない悲しい運命だ!)

 誰も彼も、そう信じていた。

 天文台では、一日二十四時間、近づくモロー彗星の観測と記録とに、かかりきりであった。

 台員の数は、前に比べると五分の一に減ってしまった。非常に熱心な台員だけが、やがて自分の死も忘れ、それから今とっている記録もやがて灰になることさえ、あまり気にとめないで、手不足の中に観測をつづけていたのであった。

 天文台はじまって以来、これほどすばらしい観測材料がころがりこんだことは、前例がなかった。

 各国の天文台におけるモロー彗星観測の結果の中で、重要なものや、ひどく興味のあるものは、ラジオやテレビジョンでもって、ただちに天文台の名とともに放送された。

 しかし、その放送を聞いている者は、ほとんどなかった。どこの天文台でも台員は放送するばかりで、他人の放送を聞こうともしなかったし、また人手が足りないため聞いているひまもなかった。かえって、天文学者でもない素人の方が熱心に聞いていたのであった。その素人も、さっき言ったように、そのほとんど全部が気の毒なおかしくなった人であったわけだが……。

「矢ヶ島天文台発表」

 ぼそぼそした声で放送している者があった。

「矢ヶ島天文台? 聞いたことのない天文台だなあ」

 この放送を聞いていた病人が、にやり、気味の悪い笑いをうかべた。

「わが天文台は、一昨日から月に関する天文放送を始めていますから、今日以後の放送を、よく御注意下さい」

「なんじゃ、この放送者は、どうも頭がおかしいぞ。気がへんになったのじゃないかな」

 と、放送を聞いている病人が言った。モロー彗星のことで、世界は、ひっくりかえるような騒ぎをやっているのに、ひとり矢ヶ島天文台からは、月に関する観測を放送すると言うのであるから……。

 だが、月の南中の早い遅いは、果してばかばかしいことであろうか。

 矢ヶ島天文台では、それについて、こんなことを放送した。

「皆さん、月が怪しい運動を始めていますから、どうか御注意下さい。月がどうかしているのです。今は、たった百分の一秒とか、百分の二秒とかですが、この先、この異常運動がどういう風に変って行くか、注意していただきたいのです。もっと申し上げたいのですが、今は、このくらいにしておきます」

 矢ヶ島天文台は、たった百分の一秒の程度ながら、月が怪しい運動をしているから、注意をしてくれというのだ。

(モロー彗星・地球・火星と、この三つのものを考えなければならない地球人類にとって、この上、月のことまで心配させられてたまるものか)

 と、あざわらう人もあれば、おこる人もあった。

 人々のそういう声は、矢ヶ島天文台にも聞えぬはずはなかったが、この天文台長たる素人研究家の矢ヶ島君は、悪口には平気の平左で、月のことを熱心に研究して、人々の注意をうながしているのであった。

 また或る時、矢ヶ島天文台は、こんなことを言出した。

「皆さん、いよいよ月に注意していただきとうございます。月は、一日のうちに二度、異常運動をしていることがわかりました。そうして、異常運動はごくわずかですが、はげしくなって行くようです。明晩の月に特にご注意下さい。望遠鏡で月の面をごらん下さい。その時、月の面に、何か変ったことがあらわれるかも知れません。どうぞ、明晩の月を御注意下さい」

 矢ヶ島天文台は、すこぶる内気で、人々にこう呼びかけるのであった。

 明晩の月? 果してどういう月が眺められたであろうか。

 いくら矢ヶ島天文台の台長がおかしいにしろ、こう度々たびたび月のことばかりを言出すものだから、一度、その放送を聞いて気になり出した人は、そのあとも矢ヶ島天文台の放送を聞かないではおられなくなった。

 さて『明晩の月』と、昨日の放送で注意のあった月が、いよいよ夕刻から空に出たのであった。もういよいよ満月に近い明かるい月だった。

 空は雲もなかった。いやなモロー彗星の光の尾が、水平線から斜にぼうっと明かるく空を染めているが、これさえなければ、今宵は静かな美しい月の出よと、人々は楽しんだにちがいない。とにかく、その月が上ったのである。

 気にしていた連中は窓に寄ったり、屋根に上ったり、または望遠鏡を持出して、その月の面を眺めたのであった。

「なあんだ。別に、あのお月さまは少しもちがっていないじゃないか」

 いつも見る月と、月の面は少しもかわったことがない──と、そう思った人々は腹立たしさを感じた。いよいよ矢ヶ島天文台の台長のため、一ぱい食わされたかと思ったからである。

 ところがその中に、

「おやおや、どうもおかしいぞ!」

 と、首をひねった熱心な素人天文家が二、三いた。

「どうもおかしい。スミスの海が、すっかり見えなくなった。おやおや、これは今まで地球からは見えなかった月の面が、あそこのところへ見え出したぞ。そうだ、あの山なんか始めてお目にかかる山だ! これは不思議だ」

 不思議なことである。これがほんとうなら、月はこのところ急に地球に対して、少し軸をかえたらしいのである。

 果してそれにまちがいなければ、たしかに月は異常運動を始めたのである。一体それは、これからどんな影響を我が地球の上におよぼすのであろうか。

 矢ヶ島運動──と、後になって、この変な月の運動のことを呼ぶようになった。

(妖星モローが、一たび地球に襲いかかると、月さえ怪しげな運動を始める。何という歎かわしいことか!)

 そんな風に、矢ヶ島運動のことを歎く人もあった。

 さすがの蟻田博士も、このことには気がつかなかった。ちょうど博士は、地底深くはいって、例の十号ガスの製造に一生懸命になっていて、その他のことは、一切打棄ててあったのである。矢ヶ島運動が発見されたのは、その間の出来ごとであったのだ。素人天文家の大手がらであったのだが、その時は、誰もそれが大手がらであることに気がつかなかった。何しろ、もうあと数日後に地球が崩壊するという時のことだから、皆、かあっとのぼせていて、そんなことを静かに考えてみる人もなかったし、矢ヶ島その人は、ある予想はしていたものの、たいへん内気な人で、自分のような素人が言いだして、もしも間違っていたら申訳がないと、つまらぬ遠慮をしていたわけであった。

 矢ヶ島運動が、後にいかなる重大な事件をおこすか、それについては、今しばらく書くことをとどめていなければならない。

 新田先生も、この時は少しぼんやりしていたと言える。しかし、それも仕方がないことだった。先生は、蟻田博士が、人類のために断然立って、火星人と戦うと言ったので、嬉しさのあまり先生も、のぼせあがっていたきらいが、ないでもなかったのだ。

 それで先生は、その間何をしていたかと言うと、しきりに食料品を集めていたのである。これから宇宙へ飛出して、火星兵団と戦うことになれば、ずいぶん地球を離れることになろうから、その間、博士におなかをすかさせては、一大事だと思ったからである。……ある朝、突然、蟻田博士は部屋へ戻って来た。約束どおり、三日の後のことであった。



53 ガスピストル



 蟻田博士が帰って来た。

 それは、約束にたがわず、ちょうど三日目のことであった。

「あ、博士。うまくいきましたか」

 新田先生は、何よりもまず、そのことを聞かずにはおられなかった。

「ああ、まずうまくいったつもりだ。これから毎日、十トンずつの十号ガスの原液を作り出せることとなった。これだけあれば、火星人と戦っても、まず大丈夫だろう」

「ほう、そんなにたくさん出来ますか」

 と、新田先生は目を円くした。

 一体、どこまで蟻田博士はえらいのだか、そのえらさ加減は、底が知れない。知らない者から見れば、博士はまるで魔術師のように見える。しかし博士は魔術師ではない。六十年近くというものを、研究にささげたそのとうとい努力の結果である。

「その十号ガスの原液は、どこにあるのですか」

「水道のように、管から出るようになっているよ。原液製造機械が動くと原液が出来る。それを地下タンクにためる仕掛になっている。そのタンクには、別に圧搾空気を使うポンプがとりつけてあるから、管の栓をひねると、その原液は水のように、いくらでも出て来るのだ」

 博士は事もなげに言う。

「ははあ、驚きましたねえ。ところで、その原液は、私たち人間にかかるとどうなりますか。やっぱり体が蒸発してしまいますか」

「いや、そんなことはない。人間の体を蒸発させるような、そんなものではない。しかし、何か作用があると思われるが、そのことは試験をしているひまがなかった。何分にも、早くこれを使わないと、火星兵団のため、崩壊前の地球を、すっかり占領されてしまうことになるからのう」

 と、博士はささやくように低い声で言って、持っていた荷物を開くと、中からピストルに似たへんな器具を取出した。

「博士、それは何ですか。変った型のピストルみたいに見えますが……」

 と、新田先生は言った。博士が荷をといて取出したのは、まさにピストルとしか見えないものだった。ピストルの胴を、うんとふくらませて、ひだをつけ、握ると、こぶしをすっかりかくしてしまうようなものだった。

「これかな。一挺お前にわたしておく。これは十号ガスを発射するガスピストルだ。あまり遠くへはとばないよ。まず百メートルが関の山だ」

「百メートル? 百メートルなら使いものになりますよ」

 新田先生は嬉しそうな顔で、博士からもらったガスピストルを握って、しきりに胸のところへ持って行ったりして、早く一発撃ってみたそうである。

 それを見て博士は言った。

「だめだめ。こんなところで、そのピストルを撃ってみても、こわれるものは一つもありはしない。それよりも、これからわしと二人で、火星兵団の奴を追いかけて、ためしてみようではないか。支度をしたまえ」

「えっ、ためしに火星人を撃ってみるのですか」

 先生は、嬉しいような、こわいような気持になった。

 博士の方は、そんなことには一向お構いなしに見えた。

「さあ、すぐ出かけよう。ついて来たまえ」


 と言ったかと思うと、はや部屋をずんずんと出て行ってしまった。先生は驚いてその後を追いかけたが、博士の姿は見えない。地下から地上へ出る階段をかけ上って見たが、博士はどこに行ったか見えない。

 そこで先生は、もう一度階段を下りて、もとの部屋へ引返そうと後へふり向いた。とたんに「あっ」と叫んだ。

 驚くのも道理、いつの間に忍び寄ったか、そこには、黒装束の火星人が立っていたのだった。

 先生はぎょっとした。いつの間に、火星人がこんなところまで、はいって来たのであろうか。全く、ゆだんもすきもあったものではない。

「博士、火星人がここにいます」

 先生は、ぱっと身をひるがえして駈出しながら、博士のうしろを追いかけた。

「わ、は、は、は、は」

 と、火星人は大声で笑った。

 先生は、もうだめだと思った。そこで、博士からあずかった十号ガスのピストルを、火星人の方へ向けて、

「さあ、これをくらって往生しろ!」

 と言うなり、引金を引いた。

 ぱさっと音がして、ガスピストルはガスを撃出した。

 黄いろい煙があたりに広がった。

「わ、は、は、は、は」

 火星人は煙の中から笑う。

「しまった!」

 先生は、もう一度、ガスピストルの引金を引いた。

 ガスは、またばさっと音がして、火星人の方へ飛んで行って、もうもうと広がった。

「もうよせ、もうよいよ。わ、は、は、は、は」

 と、十号ガスの中で、火星人は苦しそうに笑いながら叫んだ。


 十号ガスでまいらない火星人だ!

 これではせっかく蟻田博士の発明した十号ガスも、さっぱり威力がないのだとわかると、先生はがっかりしてしまった。

「おい新田、お前はひどいことをするじゃないか」

 と、ガスの中から、火星人はおかしそうに言った。その声を聞いて、先生はおやっと思った。その声は、たしかに聞きぼおえがある!

「はてな?」

 と、先生は言った。

「はてなも何もないよ。わしじゃないか」

 と、黄いろいガスの中から出て来たのは、外ならぬ蟻田博士の顔だった。

「ああ、博士。やっぱり博士だったのですか」

「そうだ、わしだよ」

「でも、わたしは、たしかに火星人の姿を見かけたのですが……」

「わははは、まだまじめくさって、そんなことを言っているのか。あれはわしじゃよ。火星人の姿をしていただけじゃ。ほら、ここに衣裳があるのだ」

 と、博士は、黒いマントや黒い帽子を手でさし上げた。

「どうしたのですか、博士。なぜ火星人の姿などをなさるのですか」

「お前もずいぶん血のめぐりの悪い男だなあ。火星兵団のそばへいくには、こっちもやはり火星人の姿をしていかなくちゃ、向こうはゆだんをしないではないか」

「なるほど」

「さあ、お前も早くこの衣裳をつけて、火星人に化けるのだ。ほら、ここにある」

 と、博士は別の衣裳を先生の方にさし出した。

「ああ、そうでしたか。いや、よくわかりました。これはどうも、わたしがのぼせ上っていて大失敗をしました。あははは」

 と、先生は師の前で頭をかいたことであった。

 博士と新田先生とは、穴から外へ出た。外は、まっくらであった。

「おい、新田。ちょうどいい。いっしょに下の方へ下りていってみよう。赤羽橋あたりへ出れば、火星人に出会うかも知れない」

「はい」

 先生は、博士と並んで歩き出した。月が空にかかっていて、二人の影を地上にはっきりうつした。

 また別の方からは、モロー彗星が強い光を放って、二人に別の影をつけていた。先生は、火星人そっくりの自分の姿を見て、苦笑いをした。



54 危機せまる



 ガスピストルを持っての初試験だ。

 蟻田博士と新田先生とは、火星兵団の者そっくりの姿をして、深夜の町をそろそろと赤羽橋の方へ歩いていった。

 町は、死んだように静かであった。

「博士、町は、たいへん静かですよ。この様子では、火星人は、引上げていったのかも知れません」

「そうだなあ、ちと静かすぎるのう」

 博士と先生とは、そんなことを言いながら芝公園の横をぬけ、電灯がぽつんとついている赤羽橋の方へ足を向けたのであった。

 その時、とつぜん、奇妙な声を二人は聞いた。声の方角は芝の山内だ。

 何を叫んでいるのかわからないが、たしかに何か重大なことが起ったらしく、金切声をあげている。それは一人や二人ではなく、かなりの人数だった。しかし人間の声かどうか、それがはっきりしないほど怪しいひびきを持っていた。

「おお、あの騒ぎは、たしかに火星兵団の者と人間とが、衝突したんだ。さあ、いって見よう」

 博士は、先生をうながして、赤羽橋を目の前に左へ曲り、芝公園の深い森の中へはいっていった。博士は、老人とも見えない元気であった。

 森の中をしばらく走っていくと、果して森の中の幅の広い自動車路の上で、入乱れて盛に格闘している一団のあるのを見つけた。

「あそこだ。おい、新田、そっとあそこへ近づくのだ。ガスピストルは、わしがうつまではお前もうってはならないぞ」

「はい、承知しました」

 二人がそっと近づくと、格闘している一団というのは、一人の火星人と、こっちの警官隊とであった。火星人を真中にして、警官隊はそのまわりを取巻いている。

 形においては、火星人を、警官隊が取巻いているのであったけれど、火星人の勢いはものすごく、警官隊は、むしろじりじりと押されていた。

「……この上は皆で、こいつにとびつくのだ。失敗したら、次は体あたりだ。とびついたら放すな」

 と、先頭に立ってさけんでいる声に、新田先生は聞きおぼえがあった。

「おい、いいか。突撃用意! 一、二、三! 突込め!」

 号令一下、わあっと、警官隊は剣や棒をふりかざして、火星人をめがけてうちこんでいった。

 ぷくぷく、ぷくぷく。

 火星人は妙なうなり声をあげて、一歩うしろへさがる。そこへ警官隊は、どっと、とびこんでいったのだ。

 それがはじまりで、あとは、ものすごい格闘がはじまった。あっと言う間に、警官の一人は、空中たかくほうり上げられた。他の一人は立木に、いやと言うほどたたきつけられた。勇敢にも火星人にとびついていった警官たちは、ことごとく火星人のために、あべこべにやっつけられてしまった。全く、おどろくべき火星人の大力であった。

 火星人の大力! それは警官隊もよく知っていたのだ。しかし警官隊は、市民たちを守るその職責のため、死を覚悟してこの大敵に向かって、とびこんでいったのだ。

「おい、がんばれ。死んでも一歩も引くな!」

 警官隊長らしいのが、金切声で叫んでいる。しかし部下の多くは深い傷を受けて、地上に倒れてしまった。隊長はそれを見ると、剣をとりなおして、みずから大力の火星人にぶつかっていった。

「あっ、あれは大江山さんだ、捜査課長だ!」

 と、新田先生がさけんで、思わず前へ、とびだした。

 大江山捜査課長だ!

 課長は、怪人にとびついた。

 火星人は、おこったような声を出して、課長をどうんと、つきかえした。

 課長は地上にひっくりかえった。体をひどく打ったらしく、課長はしばらく地上に体をくの字なりに曲げていた。──何しろ火星人の力ときたら、人間の十人力ぐらいのは、ざらにいる。

「くせ者! まだ降参せぬか!」

 課長は、やにわに起上ると、また火星兵団の怪人にとびついていった。

 火星人は、目を光らしたかと思うと、とびついて来る課長を、横あいから触手で強くはらった。

「あっ!」

 課長は、顔を押さえて、その場にどうと倒れてしまった。

 その時突然、木陰から五、六人の火星人が現れた。

 新田先生は気が気でない。早くガスピストルで火星人を撃ってやりたいと思ったが、博士がピストルを撃つまでは、決して撃ってはならないということになっているので、こまってしまった。

「博士、早くピストルを……。今、倒れたのは大江山課長ですよ」

 と、博士の耳もとで早口に言った。

「博士、課長や警官を見ごろしにするのですか。私はもう、がまんが出来ません。ガスピストルを撃ちますが、いいですか」

「待て、ガスピストルを撃つには、いい折がある。火星人のゆだんするまで待て」

 と、博士は先生の手をしっかりとにぎって放さない。

 その中に、課長も動かなくなる。他の警官たちも、火星人にかなわず、みんな長くのびてしまう。立っているのは火星人だけになった。それを見た博士は、

「今だ!」

 とさけんで、黒マントの下から、ガスピストルの口を出して引金をひいた。

 ついに蟻田博士の手によって、ガスピストルから第一弾が撃出された。

 ごうん。

 ぱかっというような音がして、その弾丸は一番いばっていた火星人の横腹に見事命中して、黄いろいけむりが、弾丸のあたったあたりから、もうもうとたちのぼった。

 火星人たちは、思いがけない出来事にあって、その場に茫然と立っていた。気をのまれたかたちである。

 弾丸が腹に命中したその火星人は、

(おや、へんだぞ!)

 というような身ぶりをして、黄いろいけむりがたちのぼる自分の腹を、触手でしきりに撫でまわしていた。この火星人こそ、大江山課長をやっつけた火星人だったのだ。

 そのうちに、ひどく大きな音で、

 しゅうっ!

 と、へんな音がした。

 とたんに、その火星人の体は、ふらふらと前後にゆれたかと思うと、積重ねてあった樽をたおすように、どすんと横たおしに、たおれてしまった。

 それを見て、他の火星人はまたびっくりしなおしたらしかった。彼らは、たおれた火星人のそばへ駈けよった。

 すると彼らは、そこで不思議な有様を見た。それはたおれた火星人の大きを腹の上から、黒いけむりがもやもやと盛に立ちのぼりつつ広がっていくと見ているうちに、あの丈夫なドラム缶のような胴が、どんどん湯気のように蒸発していって、やがてその下から、みにくい火星人の体が、小さくちぢこまって、あらわれたのであった。

 胴が蒸発して、なくなってしまったのである。さあたいへんである。どうしてこうなったのか、訳がわからないが、火星人たちは、びっくりしてそこをとびのいた。

「撃て! 今だ!」

 博士の声だ。ごうん、ごうんと、博士と先生とは、残る火星人めがけてガスピストルを撃出した。

 十号ガスのききめはものすごかった。

 蟻田博士と新田先生とは、のこりの火星人めがけて、ガスピストルを、どんどんぶっぱなした。

 ごうん、ごうん、ごうん。

 ぱかっ、ぱかっ。

 弾丸は、おもしろいほど火星人の胴中どうなかにあたる。そうして黄いろいけむりがむくむくと出て来る。

 火星人はそのけむりにおどろく。

 ひゅう、ひゅう、ひゅう。

 ぷく、ぷく、ぷく。

 妙な声を出して、火星人たちがさわいでいるうちに、あっちでもこっちでも、しゅうっ、しゅうっと音がして、火星人のかぶっている固い胴が、湯気のようにとけてしまうのであった。

 どたり、どたりと火星人たちは、黄いろいけむりに包まれ、大地の上にころがる。

 けむりが少し消えて来ると、その下に、火星人は、たこのひもののように、赤黒い体を小さくちぢめて、固くなっているのであった。

 火星人のかぶっていたあの固い胴は、地球の空気の圧力に対して、よわい体を持った火星人が、その圧力を防ぐためだった。その防圧胴が、蟻田博士発見の十号ガスのため、とろとろととけて、湯気のように蒸発してしまうものだから、火星人は赤はだかの上に、地球の空気の強い圧力を受けて、一たまりもなく押しつぶされてしまうのであった。

 何という痛快な出来事であろうか。

「博士、すばらしいですなあ。これこの通りに火星人のやつ、みんな死んでしまいました」

 と新田先生は、喜びに声をふるわせて言った。

「うん、これなら、まず使いものになるわい」

 蟻田博士は、死んだ火星人の体を、前かがみになって、よく見ながら言った。

「蟻田博士、そのあたりに、もっと火星人がおればいいのですがねえ」

 と、新田先生は、ガスピストルを手にして、ものたりない顔で、あたりを見まわした。たった二、三発撃ったくらいでは、あまりにもの足りない。

「火星人よりも、そこに倒れている大江山課長を助けてやれ」

 博士は地上を指さした。

「そうだ、大江山捜査課長が、火星人にやられていたのでしたね。ガスピストルが、あまりよくきくものだから、つい忘れていました。失敗失敗」

 と、新田先生は赤い顔をした。

 そこで二人はまず第一に、気をうしなって倒れている勇敢な大江山課長をだきおこし、背中をさすって、えいと活を入れた。

「ううん、ああ、さあ来い!」

 課長は、きかない体をむりに動かして立とうとする。

 新田先生は、それを押さえて、

「大江山さん、そう興奮しないで気をたしかにもって下さい」

 と言えば、課長は先生を見るより、さらに強く興奮して、

「いや、放せ。火星人などに負けてたまるものか。よくもおおぜいの部下を殺したな。日本人は、最後の一人となっても戦うぞ」

 と、なおも先生に、つかみかかろうとする。

「大江山さん。そんなに興奮しちゃいかん。わたしだ、新田ですぞ」

「新田だ? 新田の声のまねをしても、きさまは火星人だ」

「ちがう、ちがう」

 蟻田博士が、ふと気がつき、

「おい、新田、火星人とまちがえられるのは、その服装がいけないのだ。もう火星人はいないから、服装をぬいだがいい」

「ああ、なるほど。どうも今日はあわてていけない」

 と、新田先生はあわてて帽子をぬいだ。

 帽子をぬげば、ははあ新田先生だなと、誰でもわかる。大江山課長も、そこではじめて、ほんものの新田先生に、かいほうされていたことに気がついた。

 そこへ、先生と博士が寄って来て、傷口に、マントを破って、かりの繃帯をする。

「これは新田先生、たいへんめずらしいが、どうしたのかね」

「いや、お話をすれば長い話があるのです。しかし、短く言えば、課長、喜んで下さい。蟻田博士が、火星兵団の奴らをやっつける、すばらしい熔解ガスを発明されたのです。そこらにころがっている赤黒い怪物は、みんな蟻田博士の発明された十号ガスのため、やっつけられてしまったんです。どうか喜んで下さい」

 新田先生が、早口で説明すると、課長は、

「なに、蟻田博士が発明したって? あの博士がかね」

 新田先生は驚いて、そばにいる博士の顔を見た。

 博士は、ただ笑っている。

「ねえ、課長。わたしたちは思いちがいをしていたのです。博士はりっぱな人物です。そうして人類の大恩人ですぞ」

「それは、どうかな」

 博士は、にが笑いをして、やむなく課長に声をかけた。

「おい、大江山さん。そのおかしな博士は、ここにいて、あんたの手に繃帯を巻いておるよ。わしのことは後でゆっくり新田から聞くがいい」

「やあ、あなたは蟻田博士……」

「驚くことはないよ。それよりも、いよいよ明日から全国の火星人征伐をやりなさい。十号ガスはたくさん用意があるから、いくらでもあげる。今夜は休んで、明日突撃隊でも作って、その先頭に立つがいい」

 と言って、博士はすたすた引返した。

 ああ、十号ガスのすばらしいききめ!

 ガスピストルやガス銃を持った突撃隊が、警視庁に勢ぞろいをしたのは、翌日のおひる近くであった。

 ガス弾の原料は、博士の屋敷あとへいくと、いくらでも出て来る。博士は地下の原料タンクから地上まで鉛管を何本も出して、ポンプで吸出すように仕掛を作っておいたから、雷管のついた薬莢やっきょうさえあれば、いくらでもガス弾は作れるのであった。

「突撃隊、集れっ」

 勇ましい号令をかけているのは、大江山課長だ。

 昨夜課長は何事ももうこれまでと思い、部下のとむらい合戦のつもりで火星人の中に斬込み、死力を尽くしてはなばなしく戦い、そこで死んでしまうつもりだった。そんな悲壮な決心を固めた課長は一夜明けるとたちまち元気を取返し、さっそく博士にすすめられた通り突撃隊を編成し、これに博士の発明したガス弾を持たせ、火星兵団に大逆襲をこころみようということとなった。そうして今や一切の用意は出来上ったのだ。

「今からまず帝都附近一帯に出動して、火星人と見たら、今一同の手に渡したガス弾でやっつけてしまうのだ。火星人を見つけたら、決して見逃さないようにすること。ここで一人の火星人を逃せば、十人、二十人の尊い日本人の生命を犠牲にする上、もしも火星にまで逃帰られたら、それこそどんな新兵器を持った新手の火星兵団が、この地球へ攻寄せて来るかわからないのである。だからわが突撃隊員は、火星人を見たら仕損じなく、そうしてすばしこく火星人を倒すよう心がけることだ。わかったか、わかったろうな」

「はい、わかりました」

「よろしい、各隊、出発!」

 突撃隊長大江山課長は、ついに前進の号令を発した。



55 突撃隊とつげきたい



 突撃隊の出発だ。

 めあては、まず甲州の山奥にかまえている、火星兵団だ。

 そこには怪人丸木が隊長として、幾十幾百とも知れぬ火星の宇宙艇を、さしずしているのである。

 地球がモロー彗星にこわされる前に、この宇宙艇の中につみこんで火星へさらっていこうというあわれな捕虜たちが、附近の穴の中にたくさん押しこめられていた。人間もおれば、馬や牛や豚や猫や犬もいる。すべて火星では見られない、まことに不思議な生物なのである。

 火星人は、人間や馬や牛を火星へ連れていって、家畜とするつもりである。馬や牛が家畜とされるのはまだいいとして、人間たちが、火星人のため家畜とされて、たまるものではない。

 大江山捜査課長を隊長とする突撃隊は、火星兵団の手から、捕虜になっている人間をとりかえそうと、甲州の山奥をさして押しかけたのであった。

「ははあ、また麓の方から人間隊がやって来たぞ」

「おお、また来たか。人間というやつは、なかなかしぶといやつだな」

 火星人が二人、山のいただきに監視兵として立っていたが、突撃隊が下からのぼって来るのを見て、ばかにした。

 そうでもあろう。これまでにこの山をめざして攻めのぼって来た警官隊や青年団などの数は、じつにおびただしい。しかし、彼らはいつも火星人の敵ではなかった。いつも、こっぴどく火星人のために撃退されてしまったのである。今度も、きっと人間隊は、山の斜面をころがって、逃出すであろうと、火星人は、ばかにしきっていた。

 火星人は、おいおいと山のいただきに、すがたを見せはじめた。突撃隊は静かにのぼって来る。さて、どんな戦いがはじまるのであろうか。

 静かに、だまりこくって、じりじりと山道をのぼって来る大江山突撃隊であった。

 これを上から見ている火星兵たちは、がやがやさわぎたてている。

「また性こりもなく、人間どもが攻めて来やがった。見ろ、たたかわない前から元気がないや」

「そのようだな。負けるとわかっておれば、攻めて来なければいいのに、人間は、頭がわるいね」

「みな殺しにされるまで、ああやって攻めて来るつもりなんだろう。さあ、今日は人間を何人やっつけてやるかなあ。十四、五人を手だまにとって、谷底へ投げこんでやるかな」

「おれは、火星へみやげに連れて帰るのだから、よく働きそうな奴をよって捕えるつもりだ。そして奴らの体に、おれの名前を焼きつけておこうと思う」

 などと、火星兵は、ずいぶん勝手なことを言合っていた。

 実のところ、このごろ火星兵たちは、人間があまり弱いので、本気になってたたかう気がしなくなった。

 宇宙の中で、火星人が一番えらいのだという考えが、一そう彼らの心をおごらせ、そうして、ゆだんをさせた。

 だから、山のいただき附近には、まるで蟻のけんかでも見るような気で、たくさんの火星兵が集って来た。彼らはいずれも、かっこうのわるい、あの太い胴をゆすぶり、そうして針金のように細い手足を振りまわして大きな頭をぐらぐらさせながら、楽しそうに下をのぞいている。──まことに失敬きわまる火星兵どもであった。

 ちょうどその時、彼らのそばへ、黒い帽子に黒マントの火星人が二人、近寄って来た。黒い帽子に黒マントのすがたをしているのは、火星人の中でも、幹部級の者とか、とくべつ任務の者であった。だから、火星兵たちは、この二人を見ると、手をあげて敬礼をするのであった。

「あいつ、いやな奴だなあ。敬礼をしてやっても礼を返さないよ」

「ふん、きっと地球の空気を吸いすぎて、おかしくなっているのじゃないか」

 火星兵たちが、こんなうわさをして、黒い帽子に黒いマントの二人づれのあとを見送っている。

 このいやな奴と言われた二人こそ、じつは蟻田博士と新田先生とであったのだ。二人は、突撃隊よりも一足先にこの山中にまぎれこみ、大胆にも、今こうして火星兵のいるまん中を、のっしのっしと歩いているのだった。もちろん二人ともだまって歩いている。黒い目がねの下から、二人の目があやしくぎらぎらと光っている。二人は何をしようというのであろう。

(もう、このへんでよかろう。おい、新田、一、二、三で、例のことをはじめるぜ)

 と目くばせをしたのは、蟻田博士であった。

 新田先生はうなずいて、早くもマントの下のガスピストルをにぎりしめた。

(それ、一、二、三。そら、はじめ!)

 博士は、ピストルをマントの下から出すと、新田先生の方に手を上げて合図をした。それと同時に、博士はガスピストルの引金を引いた。

 今日はピストルの音がしなかった。今日博士は、消音のしかけをピストルにつけ加えたのであった。

 ガス弾は、無音のうちに火星兵の胴中どうなかに命中していく。火星兵どもは、はじめのうちは何にも気がつかない。そのうちに自分の胴から黄いろい煙が出たなと思ったとたんに、

 しゅうっ、しゅうっ。

 と、大きな音がして、全身が破れそうに痛くなる。そうしてあとは、気がとおくなってしまう。その時には、彼はもう地上に倒れているのであった。

 火星兵は、次々に倒れていく……。

 火星人にばけた蟻田博士と新田先生とは、ガスピストルを、さかんにぶっぱなしている。

 山のいただきに集り、近づく大江山突撃隊を見おろして、がやがやおしゃべりをしていた火星兵どもは、かたっぱしから怪音を発して、ぶったおれる。あたりは、十号ガスの煙がもうもうとたちこめて、まるで煙幕をひいたようである。

 そのうちに、火星兵の方でも気がついた。

「どうも、おかしいぞ。あやしい奴が、はいりこんだらしい。おいみんな、気をつけろ」

「気をつけるどころじゃないぞ。これを見ろ、たいへんだ。いつの間にか防圧の壁がとけてしまって、みんな、はだかになって死んでいくぞ。どうもへんだ。わしもやられたらしいぞ。た、助けてくれ」

「この煙がおかしい。おや、あそこにいる二人の火星兵めが妙なものを手に持って、わしらの仲間の胴中に、何かしきりに撃ちこんでいるぞ。こら、お前たちは何をしているのか。おい待て」

「うん、さっきから、その二人は、あやしい奴だと思っていた。やい、手に持っているものを、こっちへわたせ」

 蟻田博士と新田先生とは、ついに火星兵のため、ばけの皮をはがされてしまった。

「博士、どうやら、こっちの正体を見やぶられたようですよ。どうしましょうか」

「なあに、かまわん。今のうちに、手あたりしだい、ぶっぱなしておけ。こいつらをたおしておけば、向こうにいる本隊の火星兵どもは、まだ当分、気がつかないでいるだろう。そら、そこにいる火星先生にも一発……」

 と、博士は楽しそうにピストルを音もなく撃ちまくる。そのうちに、火星兵の誰かが、これを知らせたものと見え、宇宙艇が林立する本隊の方から、火星兵部隊がどっと押しだして来た。

 ちょうどその時、大江山捜査課長のひきいる突撃隊の先頭が、ついに山のいただきに顔を出した。さあ、大合戦だ!

 火星兵と人間突撃隊との大合戦の幕は切って落された。

 大江山隊長は、こんどこそこの山にしかばねをさらすつもりで、自ら突撃隊の先頭に立って、おどり上って来た。

「突撃隊、つっこめ! 恐れてはならん、おちついて、一発ずつ正確な射撃をしろ! 第一隊は正面、第二隊・第三隊は左へいって、横合から攻めろ。第四隊以下は、我らにかまわず、敵の本隊へ突入せよ!」

「うわあっ、うわあっ」

 のどもはりさけよとばかり、突撃隊は、ときの声をあげて、火星兵の中におどりこんでいった。

 ひゅう、ひゅう、ひゅう。

 ぷく、ぷく、ぷく。

 火星兵部隊の方でも、何だかわからないが、しきりに怪しい声をあげ、人間突撃隊を踏みにじろうと、押出して来る。まるで人間タンクの大群が、どんどん前へ出て来たようである。

 ごうん、ごうん。

 突撃隊の持っているガスピストルやガス銃は、消音式になっていないから、さかんに大きな音を立てる。

 ぱかっ、ぱかっ、ぱかぱかっ。

 あちらでもこちらでも、火星兵の胴中が破裂する。しゅうっ、しゅうっと、えらい響である。

 たちまち、あたりは黄いろい煙に閉じこめられて、まるで先が見えなくなった。

 しかし、ガスピストルの音と、火星兵のかぶっている胴がとけて爆裂する響と、それに交って、双方の死物ぐるいの叫び声が、ものすごく山々をゆすぶった。一体、どっちが勝っているのか負けているのか、さっぱり見当がつかなかった。

 そのうちに、ピストルの音が、はたとやんだ。しきりに聞えていた火星兵の胴の爆裂音も、にわかにとまった。はて?

 珍しい大合戦だ。

 火星人と人間との、追いつ追われつの合戦だった。いつも人間隊が、みじめにやっつけられていたが、今度という今度は、人間隊は、強きをほこる火星人隊を向こうにまわして、かなり有利にたたかった。

 急に静かになったのは、どういうわけであるか。

 大江山隊長、蟻田博士、新田先生の三人は、一つところに集って来た。

「博士、新田さん。何だか火星兵の様子がおかしいですぞ」

「おお、大江山さん。にわかに静かになりましたね。博士、これはどういうわけでしょうか」

「さあ、わしにもよくわからん。だが、とにかく今度は、人間部隊の勝ったことには間違なしだ。ひとつ、ここらで威勢よくときの声をあげろ」

「いいでしょう。おい、突撃隊! 大勝利を祝って、大声で、ばんざい三唱だ。それ、ばんざあい」

 ばんざい、ばんざあいと、突撃隊の一同は声をそろえて、ばんざいをさけんだ。

 そのうちに、もうもうとたちこめていた十号ガスのかたまりが、風に吹かれて、だんだん谷あいの方へすべっていった。そうして、そのあとから、大合戦のあとの血なまぐさい戦場が、あらわれ出たのである。

 ああ、何という奇妙な光景であろう。

 褐色がかった火星兵の、あかはだかの死体が、あたり一面に、ごろごろころがっている。味方にも多少傷ついた者はあったが、火星兵のため、殺された者はいない。

「おお、あれを見よ。火星兵はみんな宇宙艇の中に逃げこんだのだ!」

 博士がさけんだ。

 なるほど、火星兵は、もうすっかり宇宙艇の中に逃げこんでしまって、窓からのぞいている。もはや地上には一人の火星兵もいない。かくして、ぶきみな、にらみあいがはじまった。

 火星兵団と大江山突撃隊とが向きあって、気味の悪いにらみあいを続けている。

 火星兵は、一人残らず林立する火星の宇宙艇の中にはいってしまった。そうして窓から、こっちをのぞいている。

 突撃隊のほうでも、これ以上ちょっと進みかねている。

「蟻田博士」

 と、大江山隊長が博士をよんだ。

「なんじゃの」

「火星兵どもは、すっかり、宇宙艇の中に逃込んでしまいました。この上は、宇宙艇の中へ攻込んで、火星兵を残らずやっつけたいのですが、何かいい方法はありますまいか」

 大江山隊長は、あくまで火星兵団をやっつける気である。これまでに、火星兵団がした悪いことのかずかずは、そのまま許しておけなかったし、この上、ほうっておけば、どんなことになるかわからない。

「そうだのう。わしは、火星兵が思いのほか、あっさりと引きこんでしまったので、あてがはずれたところじゃ。はてな、どうしてやろうか」

 そう言っている時、林立している火星宇宙艇の上の方がぴかりと光った。それが、合図ででもあるかのように、並ぶ宇宙艇から、ぴかぴかぴかと、目もくらむような光が、いなずまのように、烈しくきらめきだしたのであった。

 何事が始ったのか?

「あ、こいつは、いかんぞ。大江山隊長、残念ながら、早いところ山を下りたがいい。火星兵団に何か、たくらみがあるぞ!」

 博士が、いつになく、あわてて注意した。

「え、一度引上げるのですか」

「うん、早くせい」

 そう言っている時、突撃隊の中に変なことが起った。

 火星の宇宙艇が、ぴかぴかやっているうちに、突撃隊の中に、へんなことがおこった。──とは、どんなことだったか?

「隊長、ピストルがぐにゃぐにゃになってしまいました」

「わたしのもそうです。いやそればかりではない。腰についていた剣がどろどろにとけて、地面に落ちてしまいましたぞ」

「わたしのも、とけてしまった。これはどうも、へんなことになったものだ」

 と、隊員たちは、さわぎ出した。全く不思議な出来事であった。かたい金属で出来たものが、いずれも、ぐにゃぐにゃになって、とけて流れるのであった。

「博士、えらいことになりました。一体、どうしたのでしょう」

 と、新田先生が、横から心配そうにたずねた。

「うん、察するところ、火星兵団では、金属をとかす怪力線を使っているらしい。あのぴかぴか光るのがくせものだ。とにかく、ここにいては、きけんだから、ひき上げたがよい。おい、大江山隊長ざんねんだろうが、ここはひとまず、ひき上げたがいいぞ」

「そうですか。ひき上げなければなりませんか。ここまで攻めたてたのに、ざんねんだなあ」

 そうこうするうちに、ありとあらゆる金属がぐにゃぐにゃになり出した。十号ガスのピストルは、ことごとく地上に落ち、帽子のきしょうも、金ボタンも、みんなとけて落ちるのであった。

「こいつはひどい」

「これでは、火星兵をなぐりつけることも出来ない」

 そこで大江山隊長は、ついに心を決し、

「総員、いそぎひき上げろ!」

 と、命令を出した。

 一同は、その命令にしたがって、ひき上げをはじめた。すべるように、山の斜面を下りていく。蟻田博士も新田先生も大江山隊長も……。すると、火星兵どもは、あやしげな声をあげて、はやしたてるのであった。

 ざんねんながら、大江山突撃隊は、一たんひきあげる外なかった。

 火星兵団が、あやしい光線を出して金属をとかすということは、これまでにも、外国の例にあったことでもある。しかし、日本において、これがはっきり見られたのは、今度がはじめてであった。

 大江山隊長以下、まず、たいした損害もなく、山のふもとまでひきあげることが出来た。しかし隊長をはじめ、突撃隊の一同は、ざんねんでたまらない。そこで隊長は、蟻田博士にこのことを相談した。

「蟻田博士、火星兵団の怪力線をふせぐ方法はないものですかなあ」

「それは、わしも道々考えて来たことだが、大きな反射鏡をつくるか、それとも、電気か磁気をうまく使って、怪力線を途中でまげるかだな」

「それはいいですね。さっそく、つくっていただきたいものです」

「そう君の言うように、かんたんにつくれるものか。いくら早くつくっても、二週間や三週間はかかる。それでは、モロー彗星に衝突されたあとのことになるから、もう間にあわんよ」

「いけませんか。外に方法は……」

「博士、十号ガスを爆弾の中に入れ、飛行機を使って空中から火星兵団を爆撃してはどうでしょうか」

 と、新田先生が横から口をはさんだ。

「おお、それはいい考えだ」

 と大江山隊長は喜んだが、博士は、かぶりを振って、

「だめだ、そんなことは。なぜって、飛行機がとんでいっても、火星兵団が怪力線を出せば、飛行機がとけてしまうではないか」

「ああ、なるほど。困りましたね」

「ただ一つ、わりあいに早くやれる方法がある。多分、うまくいくじゃろう」

 と、蟻田博士が、眉をあげて言った。

 一度は十号ガスのピストルで火星兵団を退却させた。

 ところが、火星兵団は怪力線を使って、あべこべに大江山突撃隊を逆襲した。そこで残念ながら、一同は、蟻田博士のすすめで、いそぎ山を下りるしかなかったのである。

 残念がる大江山隊長を、博士はなぐさめて、明日を待てと言った。博士には、怪力線を使ってあばれる火星兵団にたいし、後にただ一つの攻めかける方法が残っているから、その用意を明日までにしようというのであった。

 さて、そのあくる日となった。

 ここは、宇宙艇が林立している火星兵団の基地の朝であった。

 火星兵どもは、宇宙艇の扉をあけて、地上を蟻の大群のように、思い思いの方向に歩きまわっている。

「いないよ。全くいないよ」

「みんな、逃げてしまったらしいね。不意打に怪力線をひっかけてやったので、人間どもの持っていた金属製のものが、みんなぐにゃぐにゃになっちまって、きもをつぶしたのだろう。人間のくせに、我々高等生物をやっつけようなどとは、ふらちな奴どもじゃ」

 何が、ふらちであろう。地球へ攻めて来て、人もなげな振舞をする火星兵の方が、よほど、ふらち千万である。

 しかし世の中は実力がものを言う。いくら、相手がけしからんと口でおこってみても、相手が実力で攻めて来れば、こっちに実力がなければ、むざんにふみにじられる。実力を持っていないもの、実力を用意することを忘れていたものは、いつの世にも、あまりにみじめである。

 しかし、地球人類は、火星兵団の怪力線のために、全く手も足も出なくなったわけではない。少くとも、ここにわが蟻田博士がいる。

 一夜のうちに、博士は火星兵団をやっつける新しい用意をととのえ終ったのであった。さて、何が出て来るであろうか?



56 いくさ



 その朝、火星兵団長の丸木は、例の通り千二少年に起された。

 丸木は、いつになくきげんがよかった。それはきのう大江山突撃隊のため、あやうくやっつけられそうになったが、怪力線を使ってそれをうまく撃退したので、それで、きげんがよいのであった。

(ふん、きのうは人間隊のために、すっかりやられてしまったかと思ったよ。あのまま、こっちへ人間隊に来られると、こっちも、かなり苦戦におちいったかも知れん。人間隊が退却してくれて、幸いだった)

 と、丸木は、きのうのことを思い出して、ふふふふと、うす笑いをした。

 千二少年は、丸木の身のまわりを、かたづけて出ていこうとした。それを見ていた丸木は、

「おい千二、ちょっと待て」

「はい、兵団長」

 千二少年は、あいかわらず、丸木のため電気帽をかぶらされ、電波囚人となっているから、何でも丸木の命令にしたがう外ない。

「お前、きょうは顔色が悪いが、どうかしやしないか」

 丸木は、めずらしく少年に、やさしい言葉をかけた。

「はい。けさから頭が、われるように痛いので、こまっています」

「なに、頭がわれるように痛いか」

 丸木は、何か考えていたが、やがてうなずき、

「電気帽で、あまりきつく、この少年の脳をしばったせいかも知れん。千二に今死なれては、おれは困る。じゃあ、すこしゆるめてやるかな」

 とひとりごとを言って、千二のそばへ近づくと、電気帽に手をかけた。

「あ、痛っ、痛い痛い」

 千二が飛上った。

「いま、痛みをとめてやるから、がまんしろ」

 と、丸木は、千二のかぶっている電気帽のねじを、ゆるめにかかった。

「あれっ! これは、ねじがさびている。なかなかうまく、まわらないぞ。うん、うん」

 丸木は、うなりながら力いっぱい触手でもって、ねじをゆるめたのであった。ところが、あまり力を入れすぎたものだから、ねじの一つが、ぽろんともげ、こつんと音を立てて下に落ちた。

「ああっ、痛っ!」

 千二が、悲鳴を上げた。

「おお、かわいそうに……」

 丸木はあわてた。

 千二は、もだえながら、ぱたりと下に倒れてしまった。

「しまった。千二よ、死んじゃいかんぞ」

 丸木が、少年のそばへ、かけよろうとした時、この室にとりつけてあった警報のベルが、けたたましく鳴り出した。

 じゃん、じゃん、じゃん、じゃん。

「おお、警報ベルだ。どうしたのかな」

 丸木はびっくりして立ちすくんだ。

 その時、かべにしかけてあった高声器から、大きな声で火星語が鳴り出した。

「兵団長、たいへんです。わが兵団は、ただ今大損害を受けつつあります。すぐお出でを願います」

「大損害とは、どうしたんだ。何事がはじまったのか」

「たいへんです。宇宙艇がぽかぽかこわれていくのです。どんどんかけて、煙のように消えていくのです」

「なんじゃ、宇宙艇が煙に……。そうか、それはたいへんだ。今、そっちへいくから、みんなに、しっかりしろと言え」

 兵団長丸木は、びっくりして部屋をとび出していった。あとには、千二一人が、床の上に長くなっている。

 たいへんだ!

 原因はわからないが、火星兵団の乗って来た宇宙艇が、今一大事である。しゅっしゅっと宇宙艇が、はしから煙になって、くずれていくという報告であった。

 火星兵団長の丸木も、これを聞いておどろいた。彼は、あわてて外へ飛出した。

「おお、こいつはゆゆしい一大事だ!」

 丸木は、ぼんやりしてしまって、煙を上げている宇宙艇を不思議そうにながめている。

「兵団長、あのとおりです。あっ、こっちの宇宙艇からも煙が出て来ました。やられた宇宙艇は、これで、もう六隻か七隻になります。どうしましょう、兵団長」

 参謀とも見える火星人が、あわてくさって丸木の肩をたたくのであった。

「おおこいつは、ゆゆしい一大事だ!」

 と、丸木はまるで夢を見ている人のように、ひとりごとをくりかえした。

「兵団長、命令を出して下さい。急ぎ地球から引上げろ! とでも、おっしゃって下さい。このままでは、我々の火星まで乗って帰る宇宙艇が、全滅してしまいます」

 参謀の声は恐しさにふるえていた。

「うーん、こいつはよわった。敵のやつ、蒸発ガスを砲弾にこめて砲撃して来たんだな。こっちにゆだんがあった。おい、逃出すことよりは、敵の砲兵陣地を探しあてることだ。早くいって、この砲弾を撃出している陣地を探して来い」

「敵の砲兵陣地ですか。へーい」

 一度言出したら引かない丸木だった。それを心得ているから、参謀の一人は駈出していった。観測台のある宇宙艇のところへいって、人間隊の砲兵陣地を探させるためだった。

「参謀、よくわかりません。山のかげになっていて、陣地など見えはしません」

「そうか、山のかげになっとるか。それは困ったなあ。なんとかして知る方法はないか」

「さあ、困りましたな」

 火星兵団は、めずらしく負け色である。

 観測台のある宇宙艇の下で、参謀と観測兵とが押問答をしている時、ばたばたと音がして、また二名の火星人がかけつけて来た。

「おい、兵団長が返事を待っておられるではないか。どうしたんだ。人間隊の砲兵陣地がある場所は?」

「おい、早くしろということだ。ぐずぐずしているから、また宇宙艇が三隻ばかり煙になってしまったぞ。これでは約束が違う。こっちの命があぶない」

 参謀は、ううんと、うなっていたが、

「よし、仕方がない。この上は兵団長に言って、少しも早く宇宙艇を全部、空に舞上らせることだ。それしか助かる方法は考えられない」

「じゃ、早く兵団長にそう言って下さい」

 そこで三名は、一かたまりになって、丸木の待っているところへ、もどって来た。

 参謀がそれを言うと、丸木はきげんを悪くして、

「なんだ、たったこれだけのことで兵団全体が引上げるなんて、そんな弱いことを言っちゃいかん。第一、今全部の宇宙艇が飛出せば、せっかくあそこに捕虜にしてある人間や家畜なんかが、みんな逃げてしまうじゃないか。よろしい、観測をするために、二隻だけ空中へ飛出せ」

 二隻だけ飛出せ!

 そういう命令だったけれど、やがて空中へ飛出した宇宙艇は二隻ではなかった。その数は、およそ三、四十隻、いずれも逃足のついた臆病連中ばかりであった。

 そうでもあろう。命と頼む宇宙艇が煙となってしまい、その時、自分たちも一しょに、しゅっしゅっと煙をはいて、死んでしまったのではやりきれない。

 十号ガスを砲弾につめて、火星兵団を射撃する作戦は、蟻田博士が考えついたものであったが、そこまでは大成功だった。

 空中に飛上った火星の宇宙艇は、その数三、四十隻であった。

 高い山々にせばめられたせまい空を、この宇宙艇は、怪音を立てて飛びかうのであった。

 その中の二隻は、火星兵団長の丸木から、偵察を命ぜられた宇宙艇だった。

「どこにいる? 人間隊は? そうしてガス砲隊は?」

 偵察の艇は、山を一つ飛越えて、しきりにその向こうを探しまわっていた。

 ところが、空中に舞上ったほかの宇宙艇は、ごうん、ごうんと、ものすごいひびきを立てて、どんどん高空へ上っていった。

 これを見て、突撃隊は、さっと喜びの声をあげた。

「ああ、宇宙艇の一部が、逃出したのじゃないかな」

「おお、逃げていく。鬼のような火星兵団が、そろそろおじけづいたぞ」

 ところが、偵察任務にある二隻の宇宙艇は、勇敢にもだんだん低空に舞下りて来て、どこまでも人間隊のガス砲陣地を、さぐろうという様子が見えた。

「どうしたのだろうか。人間隊は、どこにも見えないようだが……」

 偵察艇の火星兵には、人間隊が見えなかった。見渡すと山には木がしげり、白い道がくねくねまわっているのと、それから、はるかに下の方に、畠が見えるばかりであった。

「おかしい。どうもわからぬ。もっと下って見よう」

 ちょうど山のふもとに、こんもりした森があった。宇宙艇はだんだん舞下り、千メートルぐらいの高度をとってこの森の上まで来た時、にわかに森の中から、まぶしい火光がつづけざまに走ったと思ったら、どどどどん、どどどんと大きな音を立てて、高射砲弾が宇宙艇のまわりに炸裂した。

「あっ、しまった!」

 と、火星兵たちはびっくり!

「ああ、しまった!」

 と言ったのは、偵察艇に乗っていた、火星兵であった。

 ちょうど森の真上まで来た時、下から不意打に、もうれつなガス弾の砲撃を受けたのであった。

 蟻田博士の作戦にもとづき、突撃隊はこの森に放列をしき、ここから砲撃していたのであった。そこへ偵察艇が飛んで来たものであるから、しばらく鳴りをしずめていたのである。しかもこの時偵察艇はたいへん高く飛んでいて、とても森からガス弾を飛ばしても、とどかないことがわかっていた。だから今も言ったように、鳴りをしずめていた方がよかったのだ。

 そのうちに何も知らない火星の偵察艇は、大砲のありかを探すため、だんだん下へ舞下りて来た。これはちょうど、おあつらえむきだと思っているうちに、偵察艇はどんどん高度を下げ、ついにガス砲の射程内にはいったのである。

(そら、しめた! 今だ、撃て、撃て!)

 というわけで、森の中から、はげしい砲撃が、火星の偵察艇に向けて始ったのであった。

 大江山突撃隊は、おどり上って喜んだ。

 森の上へ舞下りて来た二隻の偵察艇は、いずれもこっちが放ったガス弾が命中して、あのかたい外壁が、黄色い煙を上げてとけ出した様子である。

「そら、もっと撃て!」

 突撃隊は元気づいて、さらに巨弾の雨を二隻の偵察艇に集めた。

「もういけない。非常信号を丸木兵団長に!」

 消えゆく偵察艇から無電が放たれた。それは丸木兵団長のところへ、もちろん聞えた。兵団長はそれを聞くと、たいへんおこり出した。

「よし、今度は、おれが出かけるぞ」

 丸木は、司令艇の中で、はげしくおこっている。

「兵団長、お待ち下さい。人間隊のガス弾は、なかなかつよいききめをもっていますから、おいでにならぬ方が……」

 と、幕僚が言えば、丸木は、またもやおこり出して、

「だまれ。こっちの偵察艇はゆだんをして低空におりたから、ガス弾のために、あんなむざんな最期をとげたのだ。うんと高空から、怪力線をおとせばいいのだ」

「しかし、万一のことがありましては、火星へもどりました時に、われわれは……」

「われわれはおもく罰せられると言うのだろう。いや、とめるな。ここで、わが火星兵団が人間隊に負けたとあっては、火星軍の恥である。どうせ地球人はもう永いことはないのだから、きっと、こっちが勝つにちがいない。全艇に出動命令を出せ」

 丸木は、なんと言っても聞かない。

「それに、困ったことが起ると思います」

「困ったこととは……」

「宇宙艇がとびあがると、中にはたたかうどころか、さっさと、また火星へにげてかえる艇が出るにちがいありません」

「そういう艇兵は、あとできびしく罰するから、ほうっておけ。とにかく高空へのぼり、全艇同時に敵の砲兵陣地へ向けて、怪力線を出せば、きっとこっちの勝だ。おい、早く命令しないか」

「はい」

 丸木の決心はかたかった。

 そこで仕方なく、幕僚は全艇出動の号令をつたえた。全艇出動と言っても、捕虜の番をするため、十名ばかりの火星兵が、あとにのこることとなった。

 こうして、ついに火星兵団の全艇は、ものすごい音をたてて、一時に空中にまいあがったのであった。

 丸木はぷりぷりおこっている!



57 大空艇だいくうてい



 大江山突撃隊長は、ガス砲陣地のあるところから、すこし離れた小高い岡の上に立って、数名の観測員などを、さしずしていた。隊長をはじめ、いずれもみんな草や木の枝をあたまからかぶって、擬装していたものだから、空からは、これが人間だとは、見えなかった。

 観測員の一人が、しきりに、空を見上げている。彼の目の前には、一本のつながたれていた。そのつなを、下から上へ見ていくと、二百メートルばかり上に、一羽のとびのような形をした鳥が、つばさをひろげて、とんでいる。──いや空中に、ほとんど、じっとして、うごかないのであった。

 それは、もちろん、ほんものの鳶ではなかった。それは、たいへんにかるい気体をつめた一種の風船であって、その風船には、光電眼こうでんがんがついていた。

 光電眼は、テレビジョンと同じような、はたらきをもっている。球形のレンズに、外の景色はみんなおさめられる。すると、内側で、これが電気になって、つなの中をつたわって地上の観測員のところまでおくられる。あとは、テレビジョンと同じに、再び物の形にして、景色が見える。これも蟻田博士の発明品だった。

 この光電眼をつけた鳶は、二百メートルの高さのところから、火星の宇宙艇の基地をにらんでいた。宇宙艇の全部がとびだしたところが、この光電眼を通じて、観測員に、よく見えた。

「隊長、いよいよ全艇そろって、まい上りました。あとに、宇宙艇は、一つも、のこっていません」

「そうか。よろしい。どうも、蟻田博士の予言したことが、いちいちそのとおりになるねえ」

「はあ、そうですかねえ」

「いまに、全艇が、高空から、われわれめがけて、まい下りて来るだろう。これも博士の予言だ」

「ははあ、博士は、そんなことまで、見とおしていられるのですか」

 どこまで、えらい蟻田博士であろう。

 このように、えらい博士を、おかしいと思っていた大江山課長は、ときどき、それを思い出して今でも冷汗が出る。

「ああ、博士ですか。全艇そろって、ただ今、高度一千メートルのところを、急上昇中です。よろしいですか」

 大江山は、とびあがった火星の宇宙艇の様子を、刻々に、博士のところへ、電話でつたえるのであった。

 博士は、どこにいるのであろうか。

 博士は今、例のせまい研究室の中に、新田先生と一しょにいる。

 博士は、そのせまい室内にある操縦席みたいな椅子に、ふかく腰を下している。博士の前には、たくさんの計器が並んでいる。

 新田先生は、その隣の座席に、腰を下している。

 大江山隊からの電話は、博士の頭の上の高声機から、ひびいて来る。

「大丈夫だよ、大江山君。やがて火星兵団が、君の陣地を攻撃するだろう。しばらく、がんばっていてくれたまえ。あとは、こっちでいいようにやるから……」

 蟻田博士は、座席の下から、ぬっと、口のところまでのびている送話機の中に、声をふきこんだ。

「じゃあ、博士、どうかお願いします」

「よろしい。引きうけました」

 博士は、たのもしい言葉を、もらした。電話は、そこで切れた。

「博士、ほんとうに、大丈夫ですか」

「うん、自信はあるのだ。まあ、見ているがいい」

「この部屋に、いつまでも、こうしているのですか」

「そうじゃ。じゃが、間もなく、この部屋もろとも、出発じゃ」

「え?」

 先生は、ふしぎそうに、聞きかえした。

(この部屋もろとも、出発じゃ!)

 博士のいったことは、新田先生には、わけがわからなかった。そこで、えっと、ききかえしたわけであった。

「新田、この部屋が、かわった作りかたをしてあるのが、お前にはわからないか」

「えっ、かわった作りかたといいますと……」

「なぜ、こんなにせまいのだろうかと、考えなかったかね。また、なぜ、こんなにトンネルのように、奥行ばかりふかいのだろうかと、うたがわなかったかね」

 博士は、そういって、新田先生のけげんなかおを、たのしそうに眺めた。

「博士、わかりませんなあ」

「わからんか。よほど、お前は血のめぐりが悪い。じゃあ。これを見よ」

 博士は、そういって、前の計器盤の下についている押ボタンの一つを、指さきで押した。

 すると、にわかに、大きなエンジンが、まわりだしたような音がした。そうして部屋全体が、こまかくふるえているのだった。

 新田先生は、耳をすました。そうして、ふしぎそうに、あたりを見まわした。

 博士は、第二のボタンを押した。エンジンらしいものの廻転が、また一段と、早くなったようである。

「まだ、わからんか。──新田、お前の坐っているところの正面に、やがて窓があくから、よく気をつけていろ」

「はあ、窓ですか」

 そのとき、博士は、第三のボタンを押した。

 とたんに、新田先生は、ひどい力で、ぐうんとうしろへ、引かれたと思った。あたまが、ふらふらとした。なんだか、部屋が、走りだしたようである。ここは、ふかい地下だというのに、ふしぎなことである。

「ほら、外を見ろ」

「えっ!」

 先生の前のかべに、円い窓のようなものがあらわれ、明かるい光が外からはいってきた。先生は、その窓をのぞいて、あっとおどろいた。

 ゆれる部屋だ!

 新田先生は、窓から外を見て、びっくりしてしまった。というわけは、窓の外に、いきなり、市街が見えたからである。

 いや、走る市街であった。

「博士、これは、どうしたのでしょうか」

 それに対して、博士はおちついたこえで答えた。

「わからないかねえ。われわれは今、大空艇にのっているのだ」

「大空艇? 大空艇というと……」

「これは、わしが、かねてこしらえておいた新式の飛行艇だ。麻布の高台の下に、うずめておいたが、トンネルのような長い部屋と見せて、実は、魚雷を大きくしたような形の飛行艇なのだ」

「そんなりっぱなものが、地底にうずめてあったのですか」

「そうだ。しかしこの大空飛行艇は、飛行機ともちがうし、ロケットともちがう。わしが、苦心をして作った原子弾エンジンをつかっている世界無比──いや、ことによると、外の遊星にも、あまり類のない飛行艇じゃ。小型のくせに、今までのロケットなどの速度よりも、十倍でも二十倍でも早くなる。空気のないところへ出れば、もっと桁ちがいの快速度が出る」

「それが、どこから、とび出したのですか」

「研究所の横に、崖があったね。あの崖をつきぬけて、とびだしたのだ」

「じゃあ、今、窓の下にみえる市街は、東京市なのですか」

「そうじゃ。もう今は通りすぎて見えないが、あれは東京市じゃった。──そんなことは、おどろくに足りないが、この大空艇のすばらしい性能は、地球の引力圏外にとびだしてみれば、はっきりわかるのだ」

「え、引力圏外へ? すると、火星までも、とべるわけですか」

 新田先生は、目をまるくして、このおどろくべき新飛行艇の中を見まわした。

 新田先生は、感心している。なんというすばらしいこの大空艇であろうか。

 そういえば思いだしたが、このまえ、地底に変な長細い部屋が、しきってあると思った。あの時見た魚雷のしっぽのようなものは、実に、この大空艇の尾部だったのか。

 だんだん見ているうちに、これが空飛ぶ大空艇であることが、はっきりしてきた。

 博士のすわっているところは、たしかに操縦席であった。その前に、たくさんならんでいる計器は、空を飛ぶ時、ぜひとも、よく見ていなければならない速度計やコンパスや、そうして原子弾弁や加速度計などであったのである。

「おや、こいつは困ったぞ」

 新田先生が、おどろいてふりむくと、博士は、にがい顔をして、しきりに、ボタンを押したり、スイッチを開いたり閉じたりしている。

「どうしました、博士」

「どうも、変だ。せっかくの原子弾エンジンが、ちょっと工合が悪いのだ」

「そうですか。困りましたね。どこが悪いのでしょうか」

「おお、ここがいけないのじゃな。冷却用の水が、うまくまわらないのだ。冷却管れいきゃくかんのいい材料がなくて、仕方なしに、つなぎ目に、ゴム管を使ってある。そのゴム管が、どうかしたのじゃないかと思う。ゴム管というやつは、折れたり、または上から重いものがのると、平ったくなってしまって、穴がふさがってしまう」

「博士、私が見てきましょう」

「お前に、わかるかなあ。しかし、わしは、ここをちょっと離れられないから、とにかくお前にたのもう。となりの部屋に、あかりをつけて、見てくれないか。ここに図面がある。ここのところだ」

 先生は、図面を持って、操縦室よりも先の方にある部屋を開いた。

(冷却管の故障だ)

 と、蟻田博士は、言うのであった。

 新田先生は、ほんとうに、そうかしらと、うたがいながら、図面を片手に機械室の中をのぞいた。そこは、せまいところへ、ごてごてと機械がならんでいて、電線やパイプが、まるではらわたのように壁や天井を、いっぱいにはいまわっていた。

 新田先生は、冷却管は、どこであろうかと、機械の間を見廻した。

 そのとき、先生は、

「おやっ」

 と、さけんだ。

「だれか、寝ている。人間だ!」

 先生は、機械のうしろに、せなかを円くして、たおれている人間を発見して驚いた。

 だれであろう? 何者であろうか?

 先生はちょっと尻ごみしたが、やがて、勇気を出して、その寝ている男をひきおこしてみた。

「ああ、千二くんじゃないか!」

 先生は、びっくりして大きな声を出した。意外にも意外!

 この思いがけない大空艇の客は、彼の教え子の千二だったのである。

 千二少年といえば、彼は、火星兵団の丸木につかまって、ながいこと捕虜になっていた。丸木は、少年が逃出さないようにと、電気帽をかぶせておいた。

 この電気帽というのは、電気のしかけで、人間の脳のはたらきをしばる。これは、脳のはたらきというものが、電気作用であるということをつきとめた火星人の学者がつくったものであった。千二は、これをかぶされていたために、丸木のところを逃出そうなどという考えが出ないように、しばられていたのである。

 その千二が、どうして、丸木のそばを逃出し、こんなところにもぐりこんで、寝ていたのであろうか。

 千二は、一体、どうして丸木のところを逃出せたのであろうか。

 そのわけは、すでに気がついておいでの読者もあろうが、ある朝、千二のかぶっていた電気帽のねじが、ゆるんで下に落ちたのが、その原因であった。

 電気帽のねじが落ちたことを、丸木は知らなかったのである。もし知っておれば、すぐさま千二のそばへよって、ねじを固くしめなおしたであろう。

 千二は、電気帽が落ちたとたんに、夢からさめたように気がはっとした。そうしてすべてをさとったのである。──電気帽みたいなものが発明されるかもしれないことは、この前、新田先生から教えられたことがあった。

 千二は、それから、丸木の目をのがれ、逃出したのであった。丸木は、そのときちょうど、警報におどろいて、外へ飛出したのであった。千二は、

(今だ。逃げるのは今だ!)

 と思い、裏口から、逃出したのである。

 少年の足は速い。どんどん山を下っていった。

 すると、ちょうど、幸いにも、一台のオートバイが、走って来た。千二は、それを見ると、神のたすけと思い、手を上げた。

 オートバイは、千二の前にとまった。操縦していたのは、一人の陸軍の下士官であった。

 千二は、手みじかにわけを言って、その下士官の車に、のせてもらったのである。

 東京まで、全速力で来た。

 下士官は、丸ノ内の方に、急用があったので、千二は、芝公園のところで下された。それから千二は、おぼえのある博士邸あとへやって来て、地底にはいる入口をみつけ、そうしてずんずんいくうちに、とうとうこの大空艇のおくまで来てしまったが、博士も先生にもあわず、そのうちに、疲れはてて、冷却管のうえに倒れて、寝込んでしまったのであった。

 千二は、こうして新田先生のところへ、もどって来たのである。

「ふうん、そうだったのか。先生は、千二君が、どうしているかと思って、いつもいつも、心配していたよ」

 と、新田先生は、千二の手をとって、ためいきをついた。

「先生、ありがとうございます」

 千二も、胸が、いっぱいになった。

「おうい、新田。何をしとる。用がすんだら、さっさとこっちへこんか。何をぺちゃくちゃ、ひとりごとを言っとるのじゃ」

 博士が、隣の部屋でどなった。

 新田先生は、千二がもどってきた嬉しさで一ぱいで、博士から言いつけられたことを忘れていた。これは大変なことをした。

「はい、ただ今。──冷却管を今調べます」

「冷却管はもういいんだ。何を間がぬけたことを言っとる」

「はあ、冷却管は、もういいのですか」

「ちゃんと、なおったよ。お前が、なおしたから、なおったのじゃないか」

「ははあ、そうですか」

 先生はとんちんかんな返事をして、なおも冷却管のところを、のぞきこんでいる。

 千二が、それを見て、

「先生、冷却管がどうかしたのですか」

「うむ、冷却管に、水が通らなくなって、さわいでいたのだ。そこに見える冷却管がねえ……」

 と、先生は言ったが、その時、気がついて、笑い出した。

「あ、わかった。冷却管の上に、千二君が寝ていたんだ。だから、からだの重味で、冷却管がぺちゃんこになって水が通らなかったんだ。なあんだ、そんなことだったか」



58 遮蔽網しゃへいもう



 冷却管は、いつのまにか、うまくなおっていた。博士は、それで、やっとあんしんした。今や大空艇は、音たかく甲州の空をめがけてとんでいく。

「博士、冷却管の故障を見つけにいったところ、そこに、この少年がいたのです」

「なんじゃ、その少年がいたというのか。どこかで、見かけたような子供じゃが、だれだったかな」

「千二少年ですよ」

「千二少年? そうか、そうか。おもいだしたよ。天狗岩で、火星のボートを見つけたのは、この少年だったな」

「そうです」

「それから、火星人を見たのも、わしをのけると、この千二少年がはじめてじゃ。しかし、なぜ、となりにいたのかね」

 そこで先生は、千二にかわって、千二の身の上を話した。

 千二が、丸木につかまり、それから電気帽をかぶせられて、情心なさけごころの先生をしているうち、電気帽のねじがゆるんで、下に落ちたため、われにもどり、ここまで、にげもどったいきさつを、話していると、

「もういい、話はそのくらいにしておけ。火星兵団の宇宙艇が、向こうに見えて来たわ」

「えっ、見えましたか」

「いるわ、いるわ。わが突撃隊のいる森の上に群れている。まるでとびが喧嘩しているように見える。おお、森をめがけて、なにか怪しい光線をかけている。あれは、鉄がとける怪力線にちがいない。お前たちも、そこにある望遠鏡をのぞいて見なさい」

 新田先生と千二は、博士に言われて、望遠鏡に目をあてた。なるほど、見える。博士の言ったとおりだ。

 そのとき博士が、こまったようなこえで言った。

「はて、あの中で、どれが丸木ののっている宇宙艇かしらん」

「丸木の乗っている宇宙艇ですか。それなら、ぼくがよく知っていますよ」

 千二が、前へすすみ出た。

「知っているか。知っているなら、おしえてくれ」

「望遠鏡でよく見ると、わかるんです。丸木の宇宙艇には、背中のところに、赤い三角の旗が立っていますよ。それが司令艇です」

「ほう、赤い三角の旗が立っているか。うむ見えた。あれじゃな。わかった、わかった」

「丸木の宇宙艇を、まっ先にやっつけるのですか」

 と、千二少年は、ちょっと気の毒になって、博士にたずねた。

「悪いやつは、えんりょなく、どしどしやっつけなければならん」

 すると千二が、

「博士。丸木は悪いやつかもしれませんが、ぼくは、丸木に情心をおこすことをおしえたので、ぼくは、言わば、丸木の先生です。そうなりますねえ」

「それはそうだ」

「ぼくは、丸木を、いい火星人になおしてやりたいのです」

「だめだよ。火星の生物は、植物の進化したやつなんだから、生まれつき、ざんこくだ。どんな、むごたらしいことでもやってのける。少しくらい、情の心をおしえても、たぶん、それはだめだよ」

「でも、ぼくは、きっと、それが出来るとおもうのです。しかし、丸木はあばれん坊です。ですから博士、丸木をうまく捕虜にすることは出来ませんか。そうしたら、ぼくが……」

 と、千二が、ねっしんに、博士をといているうちに、博士は、はっとした顔になった。

「ああ、とうとう火星兵団は、わしたちを見つけたようじゃ。おお、方向をかえて、こっちへ向かって来るぞ。おい、新田、ガス砲の発射準備だ。その席について、ねらいをさだめるのじゃ」

 丸木を兵団長とする火星の宇宙艇は、ついに蟻田博士の、大空艇の姿を見つけたようである。

 さかんに、大江山ガス砲隊陣地を、怪力線で攻撃していた宇宙艇隊のなかから五箇艇ばかりが、艇の首を、こっちへ向きかえた。

「来るぞ。新田、いよいよ来たぞ」

 博士は、さけんだ。老人とも見えない元気をみせた博士であった。

 新田先生は、ガス砲の引金に指をかけ、敵影めがけて、ねらいをさだめた。

「博士、大丈夫です。用意は出来ました」

「そうか。まっ先にとんでくるやつから、うちおとそう」

 博士は、おちつきをみせた。

 千二少年は、望遠鏡に、ぴたりと目をあて、敵のようすが、どうなるかと、汗をかきながら、みている。

「博士、今、前からこっちへむかってくる艇の中には、丸木ののっている宇宙艇はまじっていないですよ」

「そうかね。お前は、そこで、そうして、丸木ののっている艇をみつけてくれ。わかったら、すぐ知らせるのだよ」

「博士、さっき、ぼくがおねがいしたことは、どうなるのですか」

「ああ、丸木を捕虜にすることか。まあ、考えておく。──そら、来たぞ」

「博士、敵は、なんだか、あやしい光線を出しました。あれは、怪力線じゃないのですか」

 と、新田先生がさけぶ。

「そうだ、あれは怪力線だ」

「では、わたしたちが今のっている大空艇は、やっつけられるのではありませんか。つまり、鉄のかべが、怪力線のため、どろどろととけてしまって、墜落するのではありませんか」

「なあに、大丈夫じゃ。わしは、そんなことは、ちゃんと、かんがえてあるのじゃ」

 そうしているうちに、火星兵団の怪力線は、ものすごく、大空艇にあつまってきた。

 火星の宇宙艇がはなつ怪力線は、きみのわるい光をあげて、蟻田博士たちののっている大空艇に、あつまってきた。

 さあ、たいへん。

 怪力線は、大空艇にあたって、金属でできた胴を、とろとろと、とかしてしまうであろう。そうなったら、たいへんではないか。

 しかし、博士は、大丈夫だという。

「ほんとうに、大丈夫ですか」

「まあ、見ておれ」

 博士は、大空艇を操縦して、おそれげもなく、火星の宇宙艇のまっただ中にとびこんでいく。

 敵の方では、おどろいた。ぱっと、四方に、とびのいて、みちをあけた。

 博士は、操縦桿をひいて、飛行機のように、あざやかに、宙がえりをうった。

「新田、撃て!」

 博士は、つよく、命令した。

「は」

 新田は、ねらいの中に、ちょうどはいってきた宇宙艇を、これさいわいと、うでに力を入れて、引金をひいた。

 ごうん、ごうん。

 機関砲からは、ガス弾が、うなりをあげて、とびだしていく。

 たちまち、火星の宇宙艇の胴中に、ミシンで穴をあけたような穴があいた。そうして、その穴からは、黄いろい煙が、すうっとでてきた。

 それが、その宇宙艇の致命傷であった。

 宇宙艇の巨体は、まもなく、胴のまん中から、ぱくりと二つにわれた。そうして、あわてふためき、空中にほうりだされる火星人が、黒豆を、ふりまいたように見えた。こんな痛快なことはない。

「撃て、撃て! 新田!」

 博士は、はげました。

「やります!」

 と、さけんで、先生は、ねらいを次へうつした。

「撃て、撃て!」

 博士は、叫ぶ。

「やりますっ!」

 新田先生は、敵の二番艇にねらいをつけて、引金をひいた。

 ごうん、ごうん、ごうん。

 ガス弾は、大空艇のへさきから、たてつづけに、撃ちだされる。

 敵の二番艇は、たちまち、黄いろいけむりにつつまれてしまった。

「ああ、先生、あぶない。うしろから、やってくるのがいますよ」

 千二少年が、叫んだ。

「なに、うしろから?」

 先生は、博士の方を見る。

「うしろは、ほうっておけ。うしろから来てもかまわん」

「大丈夫ですか、博士」

「大丈夫だ」

 と、言っているとき、大空艇は、突然烈しい震動をはじめた。

 がらがらがら、がたがたがた──と、今にも、大空艇が、ばらばらになってしまいそうに、烈しく震動する。

「博士、あの音は……」

「あの音か。あれは、うしろから来た火星の宇宙艇が、怪力線を、わが大空艇に、あびせかけたのだ」

「えっ、この艇に、怪力線が命中したのですか。そいつは、たいへんだ。艇はこわれてしまうのではありませんか」

「大丈夫だと、いくども言っているではないか」

「しかし博士、怪力線という奴は……」

「心配するな。そんなこともあろうかと、わしは、わが大空艇の外に、怪力線よけの遮蔽網をはっておいた。あの音は、その遮蔽網が怪力線を吸いとる時に出る音だ」

「ああ、そうですか。それは、よかった」

「おい、撃て、新田。あと三台の敵艇を、はやいところ、片づけろ」

 今、かれとわれとの戦闘は、火のように熱している。

 二台はうちおとされ、のこる三台の火星の宇宙艇は、にげるかと思いのほか、さらにはげしく蟻田艇におそいかかった。怪力線は、まるで大雷雨の中の電光のように、蟻田艇をつつんだ。艇を、やいてしまおうと、火星人はやっきとなっている。

 しかし、博士が、あらかじめこのことを考えて、艇をつつんでおいた遮蔽網は、よく怪力線をもちこたえている。

 時に怪力線は、はげしく艇の外を金づちで乱打するようにきこえる。そうして今にもこわれそうに、ものすごく震動する。そのたびに、

(もう、いけないのじゃないか)

 と、新田先生は気が気でない。

 だが、いつも、蟻田博士の用意しておいた遮蔽網は、怪力線をくいとめる。

「新田、どうした、早く撃てというのに……」

 博士のさいそくだ。

 先生は、

「ただ今……」

 と、こたえる。

 が、引金を引くいい時が、なかなかやってこない。敵の艇と、あまり近くによって、ぐるぐる空中戦をやっているため、敵の艇が狙いにはいって、さあ撃とうと思うとたんにれてしまうのである。

「ガス砲は、撃放しにせよ。味方は一機だけ、敵は多い。どれにでも当ればいいのだ」

 博士のことばに、はげまされて、先生は思い切って引金を引放しにしていると、当るわ当るわ、たちまち敵の二台は煙をあげてふらふらとおちだす。

 そうなると、のこりの一台は、さすがに気おくれしてか、火星兵団の本隊のいる方へ、かじをとってにげだそうとした。

「待て、にがすものか」

 小気味よい追撃で、その一台もとうとう黄いろい煙をふきだして下界へ……。



59 命中また命中



 火星の宇宙艇五台は、蟻田博士のため、みんな撃墜されてしまった。

 新田先生も、千二も、ともに大よろこびであった。

「博士、うまくいきましたね。ばんざいです」

「すごいなあ、この大空艇は」

 博士は、べつに、それほどうれしそうな顔をしなかった。

「これくらい、なんでもない。目ざす相手は火星兵団長の丸木だ。たたかいは、これからだよ」

 博士は、気をゆるめなかった。

 そのとき、千二少年が、おどろきのこえをあげた。

「あっ、きました、きました。新手の宇宙艇が、こっちへとんできます」

「うむ。森の中の大江山隊を攻めていた火星兵団が、われわれに気がついたのじゃ。そうじゃろう、宇宙艇が五台ともやっつけられたので、これはたいへんというわけじゃろう」

「こっちへきます。みんなきます」

「千二、丸木ののっている宇宙艇は、まだみつからないか」

「ああ、博士、いました!」

「え、いたか。どこに」

「先頭から三番目の宇宙艇です。左からかぞえて、三番目になります」

「うむ、あれか。なるほど、赤い三角旗のようなものが見える。──おい、新田、ガス砲の用意を! こんどは、なかなか骨が折れるから、そのつもりで……」

「はい、しっかりやります」

「千二も、しっかり見張をしているんじゃぞ」

「博士、ぼくのことなら、心配いりませんよ」

「よろしい。みんな、それでよろしい。今ここで、火星兵団を叩きつぶさないと、地球人類は、かれらの奴隷とならなければならんのじゃ。しっかりいこう」

 ふしぎなのは、蟻田博士という人であった。おかしな学者といわれた人物でありながら、こうして、火星兵団とたたかっているところをみると、どうみても、千軍万馬をひきいる無敵の老将軍のおもかげがある。たのもしいかぎりである。

 かんがえてみるのに、蟻田博士は、たいへん、かわった学者であった。博士は、あたりまえの学者とは、全くちがう道をとおってきた大学者であった。

 博士は、ずいぶん前から、地球人類が、地球外の生物から、このように、はげしい攻撃をうけることをしっていたのである。そうして博士は、そのことを、世の人々に、それとなく注意したのであるが、だれもそれに耳をかす者がいなかった。やむなく博士は、他人をたのみにせず、自分ひとりで外敵にあたろうと、決心したのであった。

 博士のながいあいだの苦労が、今ここに実をむすんで、うまく外敵をけちらすか、それとも、外敵のため、博士も、他の人間とおなじように、こっぴどくやっつけられるか、二つのうちの一つが、今きまるところなのだ。

 たまたま、新田先生と千二少年とは、はからずも、博士をたすけることになった。それは、そのようになったともおもわれるが、しかし、よくかんがえてみると、それは、おもいがけない出来ごとではなかった。

 なぜならば、新田先生は蟻田博士の門下であり、千二少年は、新田先生の生徒であった。博士からいうと、新田先生は、弟子であり、千二は孫弟子にあたるわけだ。師弟のえんは、このように、ふかいのであった。

 なんとかして、蟻田博士隊に、凱歌がいかをあげさせたいが、はたして、うまくいくか、どうか。火星兵団長丸木は、今や、かんかんにおこって、全宇宙艇をひっさげ、ただ一台の大空艇めがけて、おそいかかったのである。

 火星人対最後の人間の空中死闘だ!

 火星人が勝つか、地球人類が勝つか。

 空中において、いよいよ最後の運命をかけた一大決戦の火ぶたは切られたのである。

 ああしかし、こっちは蟻田艇ただ一台、それにたいし敵の宇宙艇は、かぞえられないほど、どっと蟻田艇めがけて攻めてきた。

「博士、大丈夫ですか」

 と、新田先生の顔色もかわった。

「博士、勝ってくださあい」

 と、千二も一生けんめいなこえで、博士をはげました。

「勝ち負けはわからん。ただ、各員大いにふんとうするだけだ。──そら来たぞ! 新田、撃て!」

 蟻田艇めがけて、火星の宇宙艇は、束になってやってきた。いつのまにか、丸木ののった司令艇は、うしろにかくれてしまった。ずるいやりかただ。

 新田先生は、このところ射撃手である。先生は、なかなか責任がおもい。

「撃ちます」

 引金をひいた。ごんごんごんと音がして、ガス弾は白いあとをひいて、砲門をはなれていく。

 みるみるうちに、先頭の敵艇は、ま正面をひきさかれて、火をふきながら下におちていった。なにかもえやすいものが、正面のところにあったらしい。

「やった!」

 先生は、さけんだ。だが、おちていく敵艇の最後を、たしかめているひまはなかった。また次なる敵艇が、もうすぐまぢかにせまっていたのである。

「きさまも、煙になれ!」

 先生は、ねらいをさだめて撃つ。

 見事に命中だ!

 それからは、先生は、もう無我夢中で、引金をひきつづけた。今は全く火星の宇宙艇群の中にとびこんでしまったのだから。

 千二は、おどろいた。蟻田艇から、どっちを見ても敵艇ばかりである。すっかり敵艇にとりかこまれてしまったのである。

「これで、よくまあ空中衝突をしないものだなあ」

 千二は、蟻田博士の操縦のうまいのにおどろいた。

 しかし、これは博士の操縦のうまいだけではなく、大空艇には、引力を利用した衝突をさける装置がつけてあったのだ。

 これはつまり、自分のそばへ他のものが近づいて来ると、ごくわずかであるが、二つのものの間に引力がはたらいて来る、すると、装置はその引力の方向を感じ、自動的に舵を安全な方角に向けなおすのであった。

 この衝突自動防止装置のおかげで、大空艇が、どんなに相手に近づいても、けっして、衝突はおこらない仕掛になっていた。だから、この装置のおかげで、大空艇は、どんなことがあっても、衝突はしないのである。

 このように、引力をうまく利用した安全な自動器械は、やはり蟻田博士の考案したものだった。博士の考えでは、別に、宇宙艇相手の場合でなくとも、これからますます空中をとぶ飛行機やロケットなどの数がふえて来ると、空中衝突事件が、ますますふえて来ることを心配し、あらかじめ、このような装置をつくっておいたのである。

 だが、火星の宇宙艇の方には、そんな便利な装置はなかったのである。だから、蟻田艇のまわりを、とりかこんだのはいいが、それから先、たいへんなことになった。それは、丸木の、どなっているこえを聞いていると、よくわかる。

「──やっ、また、同志うちだ。ややっ、あそこでも、宇宙艇と宇宙艇とが衝突した。あっ、あぶない。今あたまのうえを、飛びこえていったのは、誰が操縦している宇宙艇か。もうすこしで、本艇に、ぶつかるところだったじゃないか」

 火星の宇宙艇群と、博士の大空艇とのたたかいは、今たけなわである。

 博士の命令によって、新田先生は、ここを先途せんどと、ガス弾を、あとからあとへと撃ちつづける。

 こうして、空中の死闘は十五、六分もつづいたが、その間に、火星兵団は、宇宙艇の半分ぐらいを失った。そうして、これはかなわんと、ようやく浮足立った。

「おお、火星兵団は、にげ腰になったぞ。そこをねらって撃ちはらえ」

 博士は、いよいよ元気に、新田先生に撃方うちかたの号令を下す。そうして、大空艇は、横転・逆転と、あらゆる秘術をつくして、敵の宇宙艇をおいかければ、必ずその宇宙艇は、黄いろい煙をあげて撃墜される。すさまじい大空艇の奮戦のありさまは、まるで鬼神のようであった。

「おい千二、丸木艇は見えないか」

 博士の声だ。

「丸木艇ですか。丸木艇は、まだどこにいるか、見えませんよ」

 と言っている時、千二の目に赤い旗が、ちらりとうつった。

 見ると、やっぱりそれは丸木艇であった。逃げる宇宙艇のため、うしろにいた丸木艇は、だんだんあとにとりのこされ、前の方に現れて来たのであった。

「いました、博士。丸木艇が、ちょうど正面にいます」

「なに、正面に……。ああ、あれか。わしにも見えたぞ」

「丸木艇は、うろうろしていますねえ」

「うん、そのとおりだ。よろしい、これから丸木艇と一騎打をやるぞ。新田も千二も、この際がんばってくれ」

「わかりました」

「やります」

「では、突進するぞ」

 博士は、にわかに大空艇の速度をあげた。大急追である!

「おお、丸木艇め、へんなうごき方をしているぞ」

 蟻田博士は、丸木艇をレンズの中にとらえて、こんどは、はなすまいと一生けんめいである。

 丸木艇は、宇宙艇群のそとにとりのこされ、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、逃げようか、それとも、攻めようかと、考えに苦しんでいる様子だ。

 博士は、そこをすかさず、大空艇をとばして、一直線にすすんでいく。

 すると、丸木艇は、ついに決心したものとみえ、軸をたてなおすと、もうぜんと蟻田艇めがけて向かって来た。

「うむ、とうとう決戦をするかくごだな。新田、ガス砲をしっかりたのむぞ」

「大丈夫です、博士」

 両艇は、だんだんと近づいた。

 丸木艇のものすごいうなりが、大空艇の中まで聞えて来た。千二少年はおもわず手に汗をにぎる。

 ついに、両艇は正面衝突か?

 大空艇の中では、このところ、自動操縦装置を切りはなし、博士自身が操縦桿をにぎっているが、ここは、機械にまかせられない重大な瀬戸際である。

 博士は、操縦桿を両手でぐっとにぎり、両脚をふんばったまま、化石の人のようであった。この際、針路をびくともかえまいと決心しているのであった。

 正面衝突らしい。正面衝突をしたら、どんなことになるのであろう。

 新田先生は、ここぞとガス弾をとばせば、向こうの丸木艇では、怪力線をうちかけて、ガス弾をたたきおとす。そのもうもうたる煙の中に、両艇はついに衝突かと思ったが、間一髪のところで、丸木艇は、舳をぐっと上に向けて、ひらりとかわした。すぐその下を、蟻田艇が、砲弾のように通りぬけた。



60 追撃ついげき



 丸木艇と蟻田艇の一騎打はつづいた。

 だが、勝負はなかなかつかない。

 丸木艇が、怪力線をうちかけると、蟻田艇は、遮蔽網しゃへいもうでふせぐ。また、蟻田艇が、ガス砲弾をぶっぱなすと、丸木艇は、たくみにこれをかわして逃げてしまう。

 まるでともえのように、敵味方は、ぐるぐると、うちつ、うたれつ、上になり下になり、追いつ、追われつ、死闘をくりかえした。だが、勝負はつかない。

「博士、丸木艇に、一つもガス弾が、あたらないのですが……」

 と、新田先生が、ついに悲鳴に似たような声をあげた。

「あたらぬとはおかしい。おちついて、一発必中と、よくねらえ」

「はい」

 大空艇は、またもや空中に反転して、丸木ののった宇宙艇を追う。

「あっ、丸木が、窓からのぞいて、こっちを見ていますよ」

 千二が叫んだ。

「え、どこに。どの窓か」

 博士は、テレビジョンをつけた。配電盤上に、雑誌をひろげたくらいの四角な映写幕が、みどり色に光り出し、丸木艇をうつし出す。

「一ばん、あたまのところです。うす桃色に光っている窓から、丸木がのぞいています」

 博士は、テレビジョンの倍率をたかめて、しきりに映写幕にうつる像を大きくしていく。

「ああ、これか」

 博士は、うなずいた。円い窓に、一つの奇妙な顔がのぞいている。それは、丸木のほんとうの顔だった。つまり耐圧服をぬいで、素顔をみせているのであった。奇妙な火星人の顔であった。

 眼は大きく、くちばしのようなものがとび出し、ひたいのところからは、触角のようなものがぶらさがっている。丸木は火星人としては、かなりの年寄だ。

 宇宙艇の窓から、丸木の目が、あやしくうごく。くちばしが、ぶるぶると、ふるえるところまでが、よく見える。

「なにか、しゃべっているのだな」

 と、博士は、宇宙艇の丸窓を大うつしにうつし出しているテレビジョンを見て、言うのであった。

 博士は手をのばして、配電盤上のスイッチを、ぴちんと入れた。

 すると、天井につってある高声器から、いきなり異様な声がとび出した。

「おい、蟻田。やっと、受信をはじめたか。あいかわらず、あたまのわるい奴だ」

 どくづいているその声は、丸木の声であった。

 博士も、負けてはいない。

「おい、丸木。われわれ地球人類が、いかにつよいかということを、もう十分、さとったであろう。このへんで降参したがいい」

「なにを、蟻田め、それは、こっちで言うことだ。モロー彗星に衝突されれば、地球人類は、みな死んでしまうのだぞ。それを助けてやろうとしているのに、恩を仇でかえすなんてことがあるか。この上は、ゆるせない。その血祭に、まず、貴様ののっているそのロケットを、うちおとして、息の根をとめてやるぞ」

「丸木。こっちは、平気じゃよ。それに反して、わがガス弾が、一発『ドーン』と、お前ののりものにあたれば、たちまち煙となって、おしまいになるぞ。つまり、空中葬になってしまうのだ。このへんで、降参したがいい」

「ばかを言え。おれは、もう、貴様のような人間は、相手にしないことにする」

 丸木のことばは、あやしくふるえていた。

「博士、丸木艇は、速力をはやめていますよ。にげ出すのじゃないかしら」

 千二少年が、さけんだ。

 丸木艇は、とつぜん、長くのびたように見えた。そうして艇全体が、にわかに赤みをましたようであった。丸木艇は、速力をました。

「おや、丸木艇は、あんな方向へ行くぞ。うむ、にげるつもりだな」

 と、蟻田博士が、叫んだ。

「あれあれ、あんなに、丸木艇は小さくなってしまいましたよ。ぐずぐずしていると、見失ってしまいますよ」

 と、千二は、気が気でない。

「うむ、たしかに、にげるつもりだ。──おい、新田、撃方うちかたやめ。今よりわが大空艇は、丸木艇を追いかける。速度をあげるから、すこし気もちがわるくなるかもしれん。みな、しんぼうするのだぜ」

「はい。しんぼうします」

 先生と千二は声を合わせて、答えたのであった。

「よろしいな。では追撃にうつる」

 博士は、そう言うと、エンジンの速度をあげた。ぐぐうっと、三人のからだは、うしろへ吹きとばされるように感じた。そうして気味がわるい頭痛がして、汗が出た。大空艇は、急に速度をはやめたのである。

「にげる、にげる。丸木艇は、だんだん地球からとおざかっていくぞ」

 博士は、丸木艇の航跡を測りながら、宇宙図のうえに、鉛筆でしるしをつけていく。

「地球から、とおざかっていくと言いますと、火星へ戻るつもりですかな」

 と、先生が尋ねた。

「さあ。もうすこし、丸木艇の行方を見ていなければ、たしかなことは言えないが……」

「博士、さっき丸木艇が、だいぶん大きく見えだしましたが、今また、ずんずん小さくなって行きますよ」

 千二が、注意した。

「うむ、そうか。丸木艇は、またにげ足を、はやめたんだな。いや、負けてはいないぞ」

 博士は、また速度をあげた。エンジンの音が、にわかに大きくなった。

 そのとき、空が急に暗くなってきた。星がダイヤモンドのようにきらめきだした。

「先生、どうしたのでしょうか。日が暮れだしたのか、急に真暗になりましたよ」

 千二が、驚いて、叫んだ。

「ふん、おかしいね。日が暮れたのにしては、おかしい。下を見ると、あのとおり、地球は、まぶしく太陽の下に光っている。なにしろ太陽も、ちゃんと、ああして空に輝いているのだからねえ」

「先生、どうしたのでしょうか、これは……」

「さあ、おかしいねえ。ここは太陽の下にいながら日が暮れ、地球の上は、ぎらぎら光って、真昼なんだ」

 二人が、そんなことを言いあっていると、博士が、

「お前たちは、なにを、ばかなことを言っているのか」

「は、あまり、ふしぎですから……。まさか、まだ成層圏せいそうけんへ来たわけでもないでしょうと思いますから……」

「なにを言っとるか。もう、われわれは成層圏の中にいるのだ。成層圏にはいったればこそ、夕暮みたいな景色になったのだ」

「えっ、もう成層圏へ来ていたのですか。たいへん早いですなあ」

 先生は、びっくりした。

「先生、成層圏て、なんのことですか」

 千二が、おどおどして、きいた。

「成層圏というのはね、千二君、地上からはかって、大体二十キロぐらいから上の空のことだ。そのあたりには、空気が非常にうすくなるから、太陽の光が、ちらばらない。だから、空は暗く見えるのだ」

「太陽の光が、散らばらないとは、なんのことですか」

「つまりたくさんのガラス玉をとおして、光を見ると、どこから見てもぎらぎら光って見えるだろう。空気はガラス玉と同じはたらきをするのだ。太陽の光を、空気の粒がちらばらせるので、空気のある空は、明かるいのだ。空気のないところでは、太陽の光がちらばらないから、空は暗く見えるのだ」



61 火星行かせいこう



 新田先生が、千二少年に、成層圏のはなしをしている間に、大空艇は、どんどんすすんで、あたりは、いよいよ暗さをくわえていった。空気が、いよいようすくなったのである。

 先生は、千二少年のため、はなしをしてやるのに、つい夢中になっていたが、このとき、はっと気がつき、操縦席にいる蟻田博士の方を、ふりかえった。

 博士は、じっと映写幕をみつめていた。博士の手は、いつの間にか、操縦桿を放れていた。再び自動操縦に戻っていたのである。

「博士、丸木艇はどうしましたですか」

 先生は、それをたずねた。

「丸木艇は、さかんに逃げていくわい」

「逃げていきますか。どこへいくのでしょうか」

「さあ、今のところでは、なんともわからないが、多分、火星へ戻るかもしれないよ。君は無電を注意していてくれ」

「はい。どこの無電を……」

「丸木艇が、やがて、火星と通信するかもしれない。それを、こっちでも、ききとってくれ。何か、参考になることがあろうからなあ」

「はい、わかりました」

 博士は、先生をガス砲から無電機の方へ、うつしたのであった。

 千二の顔が、博士の方へ向いた。

「博士、ぼくは、どうしますか」

 蟻田博士は、千二の方をみて、にっこり笑い、

「千二。お前、髪床やさんになってくれぬか」

「えっ、髪床やさん」

「そうじゃ。丸木艇においつくまでには、まだちょっと時間があるから、お前、わしの後へ廻って、髪をつんでくれ」

 博士は、妙なことをいいだした。

「博士、おしゃれをするのですか。ぼくには、髪床やさんは、できません」

「なあに、わけなしじゃ。ここに便利な電気鋏でんきばさみがあるから、これでぐるぐるとやってくれればいい」

 成層圏のとこやさん──千二は、このへんな仕事を言いつかって、博士のうしろに廻った。

「待て待て。とこやさんがやるように、肩のところへ、白い布をかけてくれ」

「博士。ぜいたくを言っては困りますよ。ここは、成層圏ですからね」

「成層圏はわかっているが、とこやさんを、やってもらうには、やっぱり、白い布をかけた方がいいよ。そこにある機械おおいを取って、肩にかけてくれ」

「へい。これですか、機械おおいは……」

 千二少年は、機械の上にかけてあった油くさいきれをとって、いい気な博士の肩にかけてやった。

「ふん、なかなかいいぞ。うまくはさみをつかって、こののびた髪を、わしが言うように、切ってくれ」

 千二は、博士があまりのんきなので、おどろいた。そうして、鋏をしきりにつかって、長くのび切った髪を、つんでいった。

 博士は、いろいろと口やかましく、千二の鋏のつかいかたに、文句を言った。しかし、そのうちに博士の髪かたちは、ととのっていった。

 博士は、やがて一変して、若々しくなった。

「博士、ずいぶん、若くなられましたねえ。十歳ぐらいも、若くなりましたよ」

 と、となりの座席にいる新田先生が言った。

「そうじゃろう。なあに、もう、おかしくなったまねをしている必要も、なくなったからのう」

 千二は、すっかり仕事をなしおえた。成層圏で髪を刈ったのは、わが蟻田博士ぐらいのものであろう。

 このとこやさわぎが、先生や千二の心を、大へんやわらげた。博士は、ほんとうのところは、髪を刈りたかったのではなく、二人の気持を、らくにするために、むりに髪を刈れと言ったのかもしれない。……

 大空艇は、いま暗黒の空間を、ひたむきに飛んでいる。

 博士は、髪のかたちをととのえ、すっかり若くなって、座席についた。先生も千二も、それを見てにこにこしている。いよいよ一同の意気は高い。

 映写幕には、外がうつっている。まっくらな中に、うす桃いろの丸木艇が、うつっている。博士は、目盛盤を動かして、ピントを合わせた。

 丸木艇が、くっきりと、映写幕の上にうつった。

「丸木艇は、いよいよ、火星へにげてかえるつもりだな」

 と、博士は、うめくように言った。

「博士、どうなさいます」

「どうするとは?」

「丸木艇に、おいつけますか。おいつけないときは、地球へ戻るのですか、それとも、あくまでも、丸木艇をおいかけていくのですか」

「どこまでも、追いかけていくのだ」

 博士は、はっきり言った。

「え、すると、火星までいくのですか」

「そういうことになるかもしれない、もしこっちが、追いつけなければ……」

「はあ」

 先生は、おどろいて、博士の顔を見直した。

「博士、火星へいくのですか。おもしろいですねえ。一度、いってみたいと思ってたんです」

 千二は、にこにこ顔であった。

 先生は、笑う気持になれなかった。火星旅行は、地球の上の飛行機の旅のように、かんたんにはいかない。第一、火星の気候は、たいへんちがっている。それから、すんでいるのは人間ではない。植物の進化した生物だ。彼らは、丸木みたいに、すぐれた知識をもっている。そういう火星人のたくさんすんでいる中へ、三人でいって、どうするのであろう。いわんや、丸木は、自分たちを恨んでいるのではないか。そう思うと、火星行は、いやな気がする。

「博士、火星までいって、大丈夫ですか」

 と、先生は、それを聞かないではおられなかった。

「大丈夫かどうか、わからない。しかし、今となっては、火星であろうが、どこであろうが、丸木艇を追いかけていくしか、方法がないのだ」

「そうでしょうか」

「丸木は、地球に対して、はじめて戦いをいどんだ敵だ。この宇宙の侵入者を、ここで撃ちおとしておかなければ、地球人類の大恥である。わしは、あくまで、丸木艇を撃墜し、丸木を、やっつけてしまうのだ」

 博士の決心は、岩よりもかたい。火星人と戦って、どちらが勝つか負けるか、わからないのである。しかも、博士は、丸木艇を追って、進撃するのであった。

「博士、火星へでも、どこへでも、いきましょう。先生もいきましょう」

 千二は、新田先生を、はげますように言った。そう言われて、先生も、いやとは言えなくなった。

「もちろんですとも。どこへでも、いきますよ。われわれは、大宇宙にある第一線部隊ですね」

「うむ、そうだ。だから、どんなことがあっても、負けられんのじゃ」

 博士は、拳をふりあげて、言いはなった。

 千二は、この時、望遠鏡のプリズムをうごかして、大空艇の後方を見わたした。

「ああ、見える。地球が見える」

 千二は、思わず、ため息をついた。

 見える見える、地球が、大きな球のかたちをして、雲にとりまかれつつ、宙に浮いている。雲の間から地表が見える。地表は、まぶしいまでに、明かるく光っている。アメリカ大陸らしいものが見える。なんという壮観であろう。

 雲が、ぱっと光ったように見えた。とたんに、雲のさけ目から、へんな青白い光りものが見えた。それはモロー彗星だった。

 丸木艇を追って、大空艇は、なおも、まっくらな空間を、まっしぐらに飛んでいく。

「博士、こんなに追いかけているのに、一向追いつきませんねえ」

 と、先生が言えば、蟻田博士は、

「うむ、困ったものじゃ。実を言えば、これぐらいの速度を出すエンジンで、十分だろうと思っていたが、今となっては、不十分だとわかった。今さら言っても仕方がない」

 博士は、設計に不十分な点があったことを、すなおに認めた。

「じゃ、いくら追いかけても、だめでしょうか」

「いや、そうともかぎらない。丸木艇が、もし故障でもおこしてくれれば、しめたものだが……」

「なるほど、そうですか。しかし、丸木艇も、なかなか調子よく、にげていくじゃありませんか」

「うむ、敵ながら、感心していたところだ。もうあと百キロばかり間をつめることができれば、ガス弾がとどくんだがなあ」

「ほう、あと百キロですか」

 すると、千二が、測距機で、彼と我との間を読んで、

「ええ、丸木艇は、百三十キロのところをとんでいますよ」

「ふふん、そうか。あと百キロぐらい、宇宙の大きさにくらべると、何でもないがなあ」

 と、先生はくやしがった。

 その時、博士は、めずらしく座席から、立上った。

「博士、どこへいかれます」

「おお、わしは、ちょっとここを留守にするよ。新田、お前、しばらくここをあずかっていてくれ。すぐに戻ってくるから」

「承知しました。しかし博士は、どちらへ……」

「ちょっとした用事じゃ。すぐ戻る」

 博士は、行先を言わないで出ていった。



62 怪しい影



 博士が、出ていって、部屋には、新田先生と千二との二人きりになった。

「先生、博士は、どこへいかれたんですか」

「さあ、どこだかなあ。博士は、ことさら返答をさけたようだ」

「髪をつんだり、座席を立ってどこかへいったり、なんだか博士の様子が、へんですねえ」

「そうだね。へんだと言えば、へんだが、まさか、まちがいはあるまいと思うが……」

 先生は、そう言うよりほかなかった。

 二人は、しばらくだまっていた。

「ねえ、先生」

「なんだ、千二君」

「博士は、はじめから火星へいくつもりでは、なかったのでしょうか」

「はじめから、火星へいくつもり? どうしてだい」

「つまりですね、地球は、あと二、三日したら、モロー彗星に衝突されて、こわれてしまうでしょう。だから、博士は、粉々になる地球の上にいて死んでしまうのはいやだから、その前にこの大空艇にのって地球をはなれ、火星へいくつもりじゃなかったのでしょうか」

「なるほどねえ、それは、ちょっと理窟になっているねえ。ははあ、博士は、そういうつもりで、地球をはなれたのかしらん」

 先生は首をかしげて考えこんだ。

 すると、しばらくして、また千二が言った。

「先生は、火星へいったことがありますか」

「いや、いったことなんかないよ。第一、人間が火星へいけるなんて、よっぽど先のことだと思っていた。そうして、たとえ人間が火星へついたにしろ、大空艇から出て、火星の表面をあるくのは、なかなかむずかしいことじゃないかねえ」

「そうですか。火星と地球とは、気候やなんかが、ちがうのですね」

「ああ、たいへんちがうのだ。空気はあるけれど、非常にうすい。一日のうちに、たいへん寒くなったり暑くなったりするのだ」

「それじゃ万一火星へついても、だめですね。ぼくたち人間は、火星におりても、いきがくるしくて、死んじまいますね」

 千二少年は、こまったような顔をして、新田先生を見た。

「そういうわけだね。丸木など火星人たちは、地球へくるについて、たいへん用意して来た。ドラム缶のような固いいれもののなかにはいり、地球のつよい大気の圧力が、自分たちのからだに、じかにあたらないようにしているのだ。それほどの用心をしてこそ、あのように、地球の上を、らくに歩いたり、平気でくらしていたのだ。だから、逆に、われわれが、火星の上におりて、安全に生きているためには、やはり用意がいるわけだね」

「用意というと、やはり何か着るのですか」

「もちろん、着る必要もあろうし、第一、空気がうすいのだから、酸素のはいったタンクのようなものを、持っていく必要があるとおもうね」

「先生、ぼくは、そんなものを持っていませんが、じゃあ、火星へおりられませんね」

「持っていないのは、千二君だけじゃないよ。先生だって、持っていない」

「じゃあ、博士は持っているでしょうか」

「ああ、博士かね。そうだなあ、博士は、火星にいたことがあるというから、きっと持っているとおもうが、はっきりしたことはしらない」

「先生、こんなことは、ないでしょうか。火星へついて、博士だけが下へおりて、いってしまう。あとに、先生とぼくとは、いきがくるしくなって、死んでしまう……」

「そんなことがあっては、たまらないね」

 と、先生は、ちょっと顔をくもらせたが、

「あ、そうだ。わたしたちの前にもう一人、火星へいっている男がいるのだよ。あの男はどうしたかしらん」

「へえ、ぼくたちの前に、火星へいっている人があるのですか。だれです、その人は……」

 と、千二少年は、おどろいた。

「それはね、佐々刑事だよ。警視庁にいた元気のいい刑事さんだ」

 と、新田先生は、説明した。

「ああ、あの人ですか。山梨県の山中で、火星の宇宙艇をうばって、逃げた人でしょう」

「そうだ、あの人だ。一時は、佐々刑事の無電がはいったものだが、このごろしばらく佐々刑事から、たよりをきかない。今どうしているのだろうか。おお、そうだ。この受信機で、佐々刑事の電波をさがしてみよう」

「それがいいですね」

 と、千二も、さんせいした。

 そこで、新田先生は、受話機を頭にかけ、受信機をはたらかせてみた。そうして、この前うけた時におぼえた波長のところへ、目盛盤をまわしてみた。

「どうですか。はいりますか」

「いや、きこえないね。このへんで、たしかにきこえたはずだが、今日は、ぴいっという、うなりの音も出ない」

 新田先生は、さらに、増幅器を加えたりしたが、空間は、寝しずまったようにしずかであった。

「だめだねえ。とにかく、佐々刑事の電波は今出ていない」

 先生は、ちょっと、がっかりしたかたちであった。

 ちょうど、その時、扉がひらいて、博士がかえって来た。

「博士、異状はありません。ひきつづき丸木艇のあとを追っています」

 と、先生は、すぐ報告をした。そうして、席を博士にゆずった。

 博士は、どうしたわけか、のぼせたように、頬を赤くしていた。そうして席につくと、すぐさま二人の方へ顔をむけて、

「まだまだ、道中はながいから、お前たち、こっちの寝室へいって、ねてきなさい」

 と早口で言った。

 蟻田博士は、千二と新田先生とに、寝室へ引取って、寝てこいというのだ。

 二人は、博士の言葉がだしぬけだったので思わず、目と目を見合わせた。だが、火星まで、丸木艇を追っていくときまれば、まだまだ先はとおい。ここらで休息をしておくことは、いいことであろうと思ったので、新田先生は、

「じゃあ千二君、あとを博士におねがいして、しばらく、寝てこようではないか」

 と、千二をさそった。

 もちろん、千二は、先生の言葉にしたがった。二人は、寝台のついている別室にはいった。

 その寝台というのは、ちょっと風がわりな形をしていた。それは、ちょうど列車の網棚を、もっと深くしたようなかっこうになっていて、体を入れると、すっぽりとはいり、下に垂れさがる。しかも取附けられたその寝具の蒲団は、体を入れたあとで、蒲団の合わせ目をそろえ、内部から、チャックという金具を引くと、まるで袋のようになってしまうのであった。

「先生、この蒲団は、おもしろいですね。なぜ、こんなことになっているのでしょう」

 と、千二が言うと、先生は、

「これかね。これは、つまり天井と床とが、逆になっても、ちゃんと寝ていられるように、つくってあるのさ。そうだろう。逆になれば、反対に、ぶらりと、さがるのだよ」

 と、説明をこころみた。

「なるほど、おもしろい寝台だなあ」

 千二は、目から上を、蒲団の外に出して、笑っていたが、そのうちに、つかれが出て、ぐっすり寝こんでしまった。

 それからあと、どのくらい、眠ったのか、千二は、よくおぼえていない。ふたたび気がついたときは、千二は、だれかに、しきりに名をよばれていた。

「おい千二君。へんなことがあるから、ちょっと起きたまえ」

 千二は、ねむい目をこすって、寝台の中から、首を出した。

「あ、先生。どうしたのですか」

 と、先生の顔を見ると、先生の顔色は、まっ青であった。ただごとではないらしい。

「おい、千二君。博士のようすが、へんなのだ。われわれは、かくごをしなければならないぞ」

 先生は、そう言って、いたましい顔をした。

「どうしたのですか。くわしく、話をして下さい」

 千二には、わけがわからなかった。とにかく千二は、ふとんを開いて下へおりた。

「いいか、千二君。おどろいてはいけない。この大空艇には、いつの間にか火星兵団のやつが、しのびこんでいたのだ。しかも、二人だ」

「えっ。火星兵団のやつばらが、ここにいるのですか」

「そうだ。しかも、その二人は、博士を両方からかこんでいる。博士は、なれなれしく、二人と話をしている。何を言っているのか、話はあついガラスにへだてられて、わからないがね。とにかく、博士は、火星兵団のやつと、一しょに組んでいるらしい。いや、それにちがいない」

「そうですか。博士は、また、気がかわったのかしら」

「われわれを、控室へひきとらせたのも、われわれが、操縦室にいては、都合がわるいからだ。もう、こうなれば、かくごをきめて、たたかうだけたたかって、たおれるばかりだ」

「そうかなあ。博士は、なぜそんなに、急に気がかわったんだろうなあ」

 と、千二は、いつまでも小首をかしげている。

「千二君。君は博士の変心が、信じられないらしいね。では、あそこまで来て、あの部屋をのぞいてごらん。すると、それがわかるから……」

「じゃあ、火星兵と博士が話をしているのが見えるところまで、つれていってください」

 と、千二は、先生に言った。

「よろしい。しずかに、足音をしのばせて、こっちへ来たまえ」

 先生は、せまい廊下を、先に立った。

 まったく、困ったことだ。この大空艇に、火星兵がのりこんでいるなんて。

 これが、地上でおこったことなら、博士と火星兵とをそこへのこして、一時にげだす手もあったが、このように、空中での出来ごとである。しかも、空中といっても、あたり前の空中ではない。このあたりは、もう空気がない空間である。外へにげだすことは出来ない。空気がないから、死んでしまうだろう。それに、第一、代りのロケットも、なんにもないのである。

 千二は、先生のあとから、ついていった。そうして足音をしのばせつつ、ようやく操縦室の次の部屋まで来た。

 先生は、扉の上についている小さいのぞき窓のふたを、そっと、よこにうごかした。

「ほら、まだ、三人とも、話に夢中だ。さあ、ここから、のぞいてみたまえ」

 千二の背のたかさでは、その窓が、すこし高すぎた。爪さきで、のび上ってみても、目の高さが、窓にとどかなかった。そこで千二は、そこにあった木箱をつんで、その上にのって、はじめて窓に目をあてることが出来た。

「あっ、ほんとうだ。あっ、火星兵だ。火星兵が二人、博士と話をしている」

 千二は、おどろいて、口の中で叫んだ。

 博士のそばに立っている二人の火星兵は、例のとおり、大きいあたまを、ふとい胴の上にのせていた。つまり、その胴は、地球の気圧にたえるように、つくられてあったのだ。火星兵は、しきりに、例の細い手足を、いそがしく、うごかしていた。

 なにを話しているのか、さっぱりきこえない。しかし博士は、二人の火星兵を、たいへん、ていねいにとりあつかっているようすだ。

 蟻田博士は、二人の火星兵と向きあって、しきりに話をつづけている。

(博士は、火星兵団と、ひそかに手をにぎり合っているのだ)

 と、新田先生は、そう思いこんでいた。だから、寝ていた千二少年を、ゆりおこして、博士のこのけしからぬ有様を見せ、さいごのかくごを、きめるようにすすめたのである。

 千二も、まさかと思ったが、窓の中をのぞいて見ておどろいた。

「ほんとですね。あれは、たしかに、火星兵です」

「君にも、そう見えるだろう。さあ、これから、われわれは、どうしてあの火星兵をやっつけるかという問題だが……」

「先生、ガス砲弾を、あの火星兵に、ぶっつけてやればいいではありませんか。手榴弾てりゅうだんをなげつけるような工合にねえ」

「さあ、そいつは、どうかな。手榴弾をなげつけるようにはいくまい。なにしろ、ガス砲というやつは、外を飛んでいるやつをうつには都合がいいが、こうして、敵が艇内にいるのでは、ガス砲の向けようがない。どうも工合がわるいね」

 先生と千二が、顔をよせて、そんなことを言っているとき、いきなり、扉があいて、蟻田博士が顔を出した。

「お前たち、そこでなにをしているのか。一体、どうしたわけじゃ」

 と、博士は聞いた。

 先生と千二とは、困ってしまった。

 なにしろ、だしぬけに扉があいたものだから……。

 先生は、もう仕方がないと、かくごして、

「博士。私たちが、ここでなにをしていたかというよりも、博士、あなたこそ、その部屋で、なにをしておられたのですか。あそこにいる二人の火星兵は、一体どうして、ここへはいって来たのですか」

 それを聞くと、博士は、

「なんだ、あの火星人のことか」

 と、意外にも、にっこり笑った。



63 ロロとルル



 新田先生が、蟻田博士を、するどく問いつめると、意外にも、博士はにこにこしているのだ。

「博士、わたしは、まじめに申しているのですよ」

 先生は、しんけんな顔で言った。

「いや、わしもまじめだよ。まあ、こっちへはいれ。ここにおられる二人の火星人のことなら、そんな心配は無用じゃ」

 博士はそう言って、先生と千二との顔を、おだやかな目つきでながめた。

(一体、これはどうしたんだろう?)

 と、千二少年は、先生のうしろで目をぱちくり。

 博士と話をしていた二人の火星人は、さっきから、何か頭をよせて、ひそひそと語りあっていたが、この時二人して、博士のそばへやって来た。

 二人は、博士に何かしゃべった。それは火星語であった。何かたずねたようすである。

 博士はうなずいた。そうして、火星語でこたえた。

 すると、二人の火星人は、一しょに、頭をふって、うなずいた。それは、安心しましたという風に見えた。

 博士は、先生と千二の方に向かい、

「いま、こちらが心配して、わしにあいさつがあった。『この二人の人間は、何かおこっているようだが、どうしたのですか』と、言われるのだ。わしは、『どうぞ、ご心配のないように。この二人は、わしの子供と孫みたいなものですから、べつに、けんかをしているのでも、なんでもないのです』と、言ったのだ」

「なに者ですか。博士が、そんな、ていねいなことばをつかう火星兵は……」

 と、先生が言うと、博士は、

「火星兵ではないよ、火星人ではあるけれども……」

「では、なに者……」

「ロロ公爵とルル公爵だ。火星から、地球へ亡命して来ておられる方だ」

「ああ、ロロとルル……」

 新田先生は、気がついた。

 博士は、ロロ公爵とルル公爵と言ったが、この二人の火星人は、先ごろまで火星をおさめていた女王さまの二人の子供であった。この二人が、博士邸の地下室で、うごめいていたところを、新田先生は、見たことがあった。あのとき、ロロの方は、丈夫であったけれど、ルルの方は、大けがをしていた。博士はルルをなおすために、アルプスまで、くすりになる草をとりにいったことがあった。

「ああ、あのロロさんとルルさんなら、私は、お話をしたことがあります。ああ、そうでしたか」

 と、先生は、はじめて、安心のいろをうかべた。

 しかし千二には、なんのことやら、わけがわからない。千二は、先生のそでをひいた。

「先生、どうしたのですか。なにが、安心なんですか」

「ああ千二君。ロロさんとルルさんなら、こういうわけだ」

 と、そのときのことを、かいつまんで千二に説明した。

「そうですか。博士はこの前、火星へいったとき、この二人の遺児をたすけて、地球へつれてきたのですか。すると、博士は、この二人の火星人には、大恩人なんですね」

「そうだ。だから、火星兵とは、ちがうのだ。安心していいよ」

「でも、このロロさんとルルさんは、火星兵と同じすがたを、しているではありませんか。なぜでしょう」

「なるほど、これはどういうわけかな。ひとつ、博士にうかがってみよう」

 先生が、このことを博士にききただすと、博士は、

「いや、地球と同じ空気の中では、こうしたものを着ていないと、からだにさわるのだ。わしは、火星兵が着ているのに似せて、特別製のを作ってさしあげたのだ」

 と言った。

 大空艇の中は、だいぶん、にぎやかになった。博士と先生と、ほかに千二が加わり、今またロロ公爵とルル公爵という二人の火星人があらわれて、一行は五名となった。

 はじめは、ちょっと気まずい思いをしたけれど、よく考えてみれば、おたがいに、火星兵団の丸木を敵にまわしている身の上だから、やがて、まもなく仲よしになった。

 ふしぎな光景の晩餐会が、この大空艇でひらかれた。そこは、天文に関係のある写真額が四方の壁にかかっている部屋で、この大空艇の中で、一番ひろい部屋であった。まるいテーブルが、真中にあって、五名は、これをかこんだ。

 博士が正面、その右に先生、左に千二少年。そのお向かいに、ロロとルルの二人の火星人が座をしめた。

 はじめ、テーブルの上には何もなかった。

(これは、どうなるのかなあ。天井から、お料理の皿が、降ってくるのかしら。へんな宴会だ)

 と、千二はふしぎに思って天井を見上げたり、博士の顔を、よこ目でみたり。

 すると、博士が、

「では、これから始めます。今日は、とくべつに、とっておきのいいお料理を出して、ロロ公爵とルル公爵の御健康を祝すことにいたします」

「どうもありがとう」

 ロロ公爵とルル公爵とは、おぼつかない日本語で、あいさつをした。

(へんだなあ。いいお料理というが、なんにも出てこないじゃないか)

 千二は、先生の顔を見た。そのとき、先生は目顔で、しっと叱った。それで、千二は、しまったと思った。手をきちんと膝の上におき、顔を前に向けた。ところが、おどろいたことに、いつの間にか千二の前には、お料理をもった大きな鉢がある。

「うわあっ、いつのまに、こんなごちそうが、出てきたのだろう」

 と、千二は、自分のまえに、とつぜんあらわれたごちそうの鉢をながめて、目をぱちくり。

「千二。それほど、驚くことはないよ。ほら、テーブルの真中を見ているがいい。ごちそうの鉢が、どんなふうに出てくるか、よくわかるじゃろう」

「え、テーブルの真中ですか」

 博士に言われて、千二は、テーブルの真中を見た。

 テーブルの真中に、とつぜん、ぽかりと穴があいた。それは、大きな丸いおぼんが、はいるくらいの大きな穴であった。

 すると、下から、ごちそうの鉢が、せりあがってきた。

「おやおや、出てきたぞ」

 鉢が、テーブルのうえまであがると、こんどはその鉢は、すうっと走りだして、新田先生のまえへいって、ぴたりととまった。

「やあ、このごちそうの鉢は、化物の一種だな。鉢が、ひとりで、テーブルのうえを走るんだもの」

 千二は、驚いて言った。

「なあに、鉢が走るのじゃない。テーブルのうえに張ってある耐水セロファンの帯が、鉢をのせたまま、うごくのじゃ。つまり、工場でつかっているベルトコンベヤーみたいな仕掛じゃ」

「ベルトコンベヤーって、なんですか」

「それを知らんかね。工場へいけば、どこでも使っているよ。たくさんの職工さんが並んでいる仕事机のよこを、はばのひろい帯が、たえずうごいているのじゃ。一人の職工さんが、自分の加工した製品を、このベルトの上にのせると、ベルトは、たえずうごいているから、その製品をのせて先の方へはこんでいく。ベルトの端には別の職工さんがまっていて、ベルトではこばれた製品をおろすといったわけじゃ」

「ああ、名は知らなかったけれど、その仕掛なら、知っていますよ」

 千二は、ベルトコンベヤーのことを、一つおぼえた。

 つまり、このベルトコンベヤーと同じことに、テーブルの真中からあらわれたごちそう入りの鉢が、それをたべる人の前まで、はこんでくれるのであった。動く帯と、テーブルの地の色とが、同じ黄色であったから、その帯が動いていることが、千二にはわからなかったのである。

「博士、やっと、わかりました。そういう仕掛のあることを知らないと、まるで魔術をみているようですね」

「そうだ。科学知識のない人や、勉強の足りない人は、なんでも魔術だと思うのだよ。百年も前に死んだ人を、今の世の中に、もう一度息をふきかえさせてみると、この大空艇などはもちろんのこと、ロケットでも飛行機でもテレビジョンでも、みんな魔術としか、見えないだろう」

 と、蟻田博士は、しみじみ言った。

 その間に、ごちそうは、順番に、みんなの前に並んだ。あとからあとへと、いろいろなごちそうが、穴の中から、せりあがってきた。いずれもみな深い器の中にはいっていた。これは大空艇が、ときどき左右にゆれるせいであった。

「さあ、始めましょう。ではロロ公爵とルル公爵の御健康を祝して、乾杯します。おめでとう」

「おめでとう」

「おめでとうございます」

「ありがとうございます」

 一同は、杯をあげた。

 そのとき、ロロ公爵が立ちあがり、

「ちょっと、ごあいさついたします。わたくしと弟ルルとは、すでに命のあやういところを、蟻田博士に、助けていただき、地球へつれてこられました。それからこっち、五年という長い月日を、いろいろと力づけてくださったり、ことに弟の病気をなおしてくださって、まことにありがたいことです」

 と、ロロ公爵は、頭を下げた。

 ロロ公爵のあいさつは、なおもつづいた。

「わが火星には、生物がいます。地球にも、人間というりっぱな生物がいます。このひろびろとした宇宙をみわたしますと、ずいぶんたくさんの星が見える。何億か何十億か、ほんとうのところは、とてもかぞえきれないでしょう。しかるに、そのうえに、生物がすんでいることがわかっているのは、わが火星と地球だけである。しかも、火星と地球とは、きわめて近くにいる。現在の距離は、たった五千六百万キロである」

 ロロ公爵は、たった五千六百万キロだと言った。

(五千六百万キロが、たったかしら)

 と、千二は、目をぱちぱち。

 公爵は、ことばをつづけて、

「そういうわけで、火星と地球とは隣組同志であります。もし宇宙に隣組とか隣保班とかをつくるのだったら、わが火星と地球とは、同じ組にはいるべきはずです。助けられたり助けたりの、そういうお隣同志でありながら、両方がけんかをしているのは、よくないことです」

「なるほど」

 と、新田先生が言った。すると、ロロ公爵は、先生の方へ、ちょっと頭を下げて、

「地球の方には、火星をくるしめようと思っている人はないらしいが、火星の方には、地球をくるしめようと思っている者がいます。むかしから、そういう者がいたのです。ことに今、地球がたいへんな災難にあって、くるしんでいるその足もとにつけこんで、火星の生物は、わるいことをしようとしている。火星兵団などというものが、それです。ちょっと聞くと、しんせつのようですが、ほんとうのところは地球の人間や馬、牛などを、自分のところへもっていって、それを家畜として、かずをふやし、そのうえで、ぱくぱくたべてしまうつもりである。じつにおそろしい火星の生物どもです」

 と、ロロ公爵は、こえはわるいが、なかなかうまくしゃべるのであった。



64 地球よ、さようなら



 大空艇の宴会は、たいへん、うまくいった。

 博士をはじめ、新田先生に千二、それからロロとルルの二人の火星人公爵とは、すっかり仲よしになってしまった。

『宇宙の隣組』──という考えで、ロロ公爵は、地球と火星とは、おたがいに、手をにぎりあって行きたいと言ったが、それはなかなかいいことばであった。

 そう言ううちにも、大空艇は、ずんずんと宇宙を飛んで、火星に近づいて行った。

 前方を行く火星兵団長丸木の乗った宇宙艇の針路は、もうちゃんとわかっていた。彼は火星へにげもどるのである。そのことは、丸木艇の針路をしらべていくことによって、蟻田博士には、もうはっきり、わかっていたのである。

 丸木艇が、火星に行くものとすれば、別に、こっちも、いつも操縦席についていなくともよろしい。ジャイロスコープを利用した自動操縦器に、万事をまかせておけば、大空艇は、どんどんと宇宙を走り、火星に近づいて行くのである。

 なにしろ大空艇の速力が、もっと早くなるようだと、どこかで丸木艇に追いつけたのであるが、ここへ来て、丸木艇の方が、大空艇よりもすこし速度が速いことがわかった。そういうことになれば、あとは、自動操縦器にまかせて、火星へつく日をまつより外はない。

 火星へは、いつになればつくのであろう。

 宴会がはてたのち、千二は、新田先生と一しょに大空艇の望遠鏡に目をあてて、丸木艇の姿をうしろから、ながめていた。

「先生、丸木艇は、あいかわらず、全速力で飛んで行くようですね」

「そうだねえ。だいぶん小さくなったような気がする。丸木艇は、なかなかスピードが出るなあ」

「先生、佐々刑事はどうしたのでしょうか」

 と千二は、ふと、佐々刑事のことを思い出した。

「ああ、佐々刑事か。あの人は、どうしたろうな」

 と、新田先生も、佐々刑事のことを思い出して、望遠鏡から、目を放した。

 いつだか、佐々刑事あてに無電を打ったけれど、一向へんじがなかった。

「先生、あの人は火星の宇宙艇にのっているはずですが、べつに用意もしていないから、火星についても外に出られないでしょうね」

 千二は、前からそのことを心配していたのだ。

「さあ、そのことだよ。火星は、空気がうすいから、そのままでは外に出られないわけだ。成層圏をとぶ時のように、酸素吸入器をつけて、下におりるより、仕方がないだろうね。そのままでは、酸素が足りなくなって、たおれてしまうだろう」

「そうなると、佐々刑事は、いよいよ気の毒ですね。きっと困っているのでしょうね」

 ひょっとしたら、佐々刑事は、火星へついたはいいが、そこで一命をおとしたのではないかと、千二は、そこまで思ったけれど、それは言うのをひかえた。新田先生が、また心配をするといけないと思ったからであった。

「先生、地球はどうなったでしょうね。それから、大江山隊は、どうしたでしょうね」

「おお、そのことだよ。火星へいくことばかりに気をとられていて、地球のことは、わすれていた。大江山隊は、どうしたろうなあ」

 そこへ、博士がはいって来た。

「なにを話しているのか」

「大江山隊のことを思い出して、心配していたところです」

「ああ、大江山突撃隊のことか。あれなら心配なしだ」

「はあ、心配なしですか。どうなったのか、博士は、ご存じですか」

「大江山隊は、とうとうがんばって、火星の宇宙艇群を撃退したよ。わしはちゃんと、それを見て知っている」

「博士はいつ、それをごらんになったのですか」

 大江山突撃隊が、火星兵団を撃退したのを、博士が見たというので、新田先生がふしぎがった。

「わしは、そういう大切なものは、けっして見おとさないよ。君のように、いつもびくびくはらはらしていたのでは、すぐ目の前に起きていることさえ、気がつかんだろう」

 博士は、先生にとって、いたいところをついた。だが博士と先生とを、一しょにして言うことは、先生がかわいそうである。博士はなにもかも知って知りぬいているし、新田先生は、知らないことばかりにぶつかるので、平気にとりすましてはいられないのである。千二となると、この少年は、なまじなんにも知らぬだけに、かえって先生よりも、ずっと楽な気持でいた。

 だから、三人の中で、このところ一番やつれの見えるのは、新田先生であった。それも、やむを得ないことで、先生にたいして同情しなくてはならない。

「博士、地球とモロー彗星の関係は、そののち、どうなったでしょうか」

 おお、モロー彗星のことか! 先生も千二も、ともに丸木艇を追うのにいそがしく、モロー彗星のことさえ、すっかり忘れていたのであった。さっきの晩餐会が、先生の気持をゆるめ、そうして今まで忘れていた大切なことを、一度に思い出させたのであった。

 先生が、それを口にすると、千二少年も、にわかにそれに気がつき、

「ああ、そうだ。モロー彗星は、もう地球に衝突するところでしたね。ああ、たいへん。どうなったでしょうね」

 と言って、先生の顔と博士の顔を、見くらべた。

「ああ、モロー彗星のことか」

 と、博士は、なにごとかを考えるかのように、顔をあげて天井の隅を見つめた。

「わしの記憶に、まちがいがなければ……」

 と、蟻田博士は、大きく息をして、

「モロー彗星が地球と衝突するのは、あと二十四時間後の出来事だ」

 と言って、新田先生と千二との顔を見まわした。

「えっ、あと、二十四時間後ですか。もうそんなに、さしせまりましたか。もっとも我々は、丸木艇とたたかうことに夢中になっていて、時間のたつのを、すっかり忘れていました」

「多分、それにまちがいがない。なお、くわしいことは計算表を見てもいいし、望遠鏡で測って見てもいい」

 すると、千二が、

「博士、我々が火星につくのと、モロー彗星が地球に衝突するのと、どっちが先ですか」

 と、たずねた。

「さあ、それは、だいたい、同じ時刻になろう。いや、火星につく時刻の方が、すこし、早いかもしれない」

「ここから、地球へ引きかえすと、モロー彗星の衝突する前に、地球にもどれますか」

 博士は、首を左右にふった。

「あ、もう、間に合わないのですか」

「そうじゃ。もうおそい。地球のことは、あきらめなければならない」

「えっ。もう、どうしても、地球の上にすんでいる人たちは、すくえないのですか」

「どうも、しかたがない。残念だけれど」

「ぼくだけが、大空艇に乗るんじゃなかったなあ」

 千二は、そう言って、下を向いた。少年は、きっと父親のことを思い出したのであろう。

「博士」

 と、新田先生は、博士の腕をつかんで、

「すると、あと二十四時間後には、生きのこった地球の人間は、わたしたち三人だけということになってしまうのでしょうか」

 と、しんけんな顔で言った。

「そうだ。われわれ三人は、地球の最後の生きのこり者となるかも知れないのだ」

 蟻田博士は、新田先生の問いに答えて、そう言った。

「はーあっ、そうですか」

「ふうん」

 千二少年は、先生と顔を見合わせて、大きなためいきをついた。

 あれほど多い地球の上の人間が、蟻田博士と新田先生と千二少年との、たった三人になってしまうとは、何というさびしいことであろうか。いや、さびしいなどということは、後まわしとすると、実に驚くべき大事件である。地球が生まれて二十億年になる。そうして人間の祖先があらわれて八十万年になる。このかがやかしい歴史をもつ地球がくだけて、たった三人の人間しか生きのこらないとすれば、一体、何と言っていいかわからないが、のこる三人の上に、たいへんな重荷を背負うことになる。そうではないか。生きているうちに、この三人は二十億年の地球の歴史を書きのこしておかねばならないのだ。三人が死んでしまえば、地球のことは、全くだれも知った者がいなくなるのである。ことごとく地球の歴史を書くなんて、そんなことは、とても三人の力で、出来そうもない。

 ああ、地球はついに、空中で火花が消え去るように、消えてしまうのであろうか。

 蟻田博士は、どういうものか、前からこの地球の崩壊ということについて、あまり気にかけていないが、新田先生はそうはいかなかった。先生は千二をうながすと、地球のよく見える下の部屋の窓のところへいった。

「おお、見える。あれが、地球だ。もうお月さまよりも小さくなった。ああ、こっちに、斜に金のほうきをたおしたように見えるのが、にくいモロー彗星だ」

 千二も、まっくらな空に、気味わるくにらみあっている二つの星をながめて、ぞうっとした。

「あと、二十四時間で、ふたたび、あの美しい地球が見られなくなるのか」

 窓のところに、千二少年の手をひいて立つ新田先生は、そぞろに悲しかった。今まで忘れたり、がまんをしていたのが、ここで、急に先生の胸の中に、悲しいものをなげちらしたのだ。

 千二も、さっきから、さびしい思いにとざされていた。

 しかし、ここで新田先生のひどく悲しんでいる様子を見ると、少年は、この上自分が悲しがってはならないと思った。そうして、出来るなら先生をなぐさめてさしあげたい。もっと元気にしてあげたいと思ったのである。

「ねえ、先生。地球のことは、もう、僕たちの力でどうにもならないんですから、あきらめましょうよ。先生のお父さんやお母さんや、それから、しんるいの方もお友だちも、たくさんいらっしゃるのでしょうが、もう、こうなっては、しかたがないではありませんか」

「うむ。──千二君に慰めてもらおうとは、思っていなかったよ」

 と、新田先生は、顔をあげて、のどを、ごくりと鳴らした。

「いや、もう、悲しまないよ。今、もう地球のために悲しみじまいだと思って、最後の悲しみを味わっただけさ」

 と、先生は、涙をはらい、

「しかし、今にして私たちは、日頃勉強の足りなかったことを、しみじみと感じる。地球の上に、蟻田博士のような学者がもう一万人──いや一千人でも五百人でもいい、それだけの学者がそろっていて、そうして思う研究がやれたら、わが地球は、火星に襲撃されたり、モロー彗星につきあたられたりしないで、よかったんだ。きっと、それを防ぐ手があったに違いない」

 あと二十四時間後に崩壊し去るであろうところの地球の姿を、新田先生と千二少年とは、しばし無言のまま眺めつくした。

 あの美しいまん丸なすがたも、今しばらくのことである。また、今この大空艇からは、光る地球の面に、アジヤ大陸の一部が、ぼんやりとした輪郭を雲間から見せているが、あのあたりに、祖国日本の国があるのだ。それも、もう間もなく見られなくなるのである。

 千二少年は、新田先生をはげますため強いことを言ったが、こうして、最期に近い地球の顔を見ていると、やっぱり胸がふさがり、あつい涙がこみあげてくる。

(お父さん!)

 と、千二は心の中で呼んでみた。

(お父さんは、今どうしているだろうなあ。お父さんは、地球がこわれることを知っているのだろうか。それを知っているとしたら、今、どんな気持でいるだろうか。もしや、『千二や、千二や』と、ぼくの名を呼びつづけているのではないかしらん)

 千二もやはり人の子であった。強くなくてはいけないと思いながらも、やはり父親とのわかれは、つらかった。

 なんとかして、彼の父親を助ける工夫はないものか。いや、地球人類の命をすくう法はないものであろうか。

 二十億年の年月を経た地球が、宇宙のぶらつき者のモロー彗星にうちあたられ、目にもとまらぬ速さで、一団の炎となり果てるとは、まことに夢のような話である。

「おお、お前たち、そこで、何をしているのか」

 とつぜん、うしろに蟻田博士のこえがした。千二は、博士がうらやましかった。地球が、やがてこわれるというのに、涙一滴こぼすどころか、平気なのである。

「なあんだ、二人ともめそめそして……」

 博士は叱りつけるように言った。

 博士に叱られて、新田先生と千二とは、涙をふいた。

「なあんだ、お前たちのその顔は……」

「博士、あなたは、地球に家族もなければ、なんの心のこりもないのでしょう。だから、地球の最期が来ても、涙一滴出さずにいられるのです。私や千二君などは……」

「おい新田、待て。そういうとわしは、なんだか鬼みたいな人間に聞えるではないか。わしにも家族はある」

「え、博士に家族がおありですか。それは失礼ですが、ほんとうですか」

「全く失礼なことをいう奴じゃ。家族のない人間は、未完成というか、感心出来ないよ。わしには家族があって、ちゃんと地球の上に住んでいる」

「そうでしたか。しかし博士は、その家族の方のために、一滴の涙もこぼされないのは、どういうわけですか」

 先生は、不思議そうにたずねた。

「ここで、いくらたくさんの涙をこぼしてみても、どうにもならないではないか。ええ、そうだろう」

「しかし……」

「まあ、お聞き。わしに言わせれば、人間が悲しんだり、それからまた体を楽にしたりすることは、死んでからあとのことにすればいいのだ」

「えっ、なんでしょう、今おっしゃったことは?……」

「これが通じないかなあ。つまり、人間は死んでしまえば、そのあとにはもう用事もなくなるし、たずねてくる者もない。そこで、死んでからゆっくり悲しめばいいし、また休んだり楽をしたりすればいい。生きている間に、悲しんだり楽をしようとしたりするのは、大まちがいというものだ。生きている間は、そんなことは後まわしにして、どんどん働くのだ。生きているうちにやる仕事は、たくさん残っている」

 と、博士は、青年のような元気で言った。



65 二つの月



 大空艇は、ついに火星の領空に達した。

「着陸の用意だ」

 と、博士はひとりでいそがしい。

 火星のロロ公爵とルル公爵は、にわかに元気づいたようである。

「おい、新田と千二君。お前たちに、これをわたしておく」

 と、博士は二人を呼んだ。

 二人が博士の側へいってみると、そこには、潜水服についている潜水かぶとのような形のものが三個、床の上におかれてあった。

「博士、これは何ですか」

 と、千二は、不思議な顔。

「これを頭にかぶるのじゃ。いや、まだ今からかぶらなくてもいいが、大空艇が火星に着陸し、いよいよ火星の地面の上を歩く時には、これをかぶるのじゃ。そうしないと、われわれ地球の人間は息が苦しくなる。火星の表面では、空気が少いのだからなあ」

「ああ、すると、これは酸素を出すマスクですね」

「そうだ。このかぶとの横に、耳のような筒が左右にぶらさがっているが、この中には固形酸素がはいっているのだ。その上にある弁を動かせば、かぶとの中に出てくる酸素の量がかわるから、好きなようにやってみるがいい」

 博士はそれから、かぶとを二人にかぶらせて、かぶりかたを教えたり、弁の動かしかたを教えたりした。

「どうだ、わかったか」

「ええ、わかりました。しかし、この重いかぶとをかぶると、僕は歩けないなあ。子供用のかぶとはないのですか。これは大人用でしょう」

 と、千二は困った顔だ。

「いや、子供用というのはない。用意してなかったのだ。しかし、見かけは重いが、火星の上ではそんなに重くはないよ」

 大空艇は、流星のように火星の表面へ落ちていった。

「あと三時間で着陸だ」

 と、博士は言った。

 火星は、いつの間にかどんどん大きくなり、そのころには、もう、たらいぐらいの大きさになっていた。実に、どんどん早く大きくなる。

 大空艇は、かなりものすごい落下速度を出しているが、速度の変りかたがうまくいっているので、からだには、あまりこたえない。

 千二は、火星に近づいたので、何だか、急に嬉しくなった。彼は、火星の見える窓にのびあがって、しきりに眺めている。

 だが、変なことに、火星のおもては、地球のようにはっきりしない。何となく、どんよりと曇っている感じだ。

 ちょうど、こけのついた古い金魚ばちの中へ、地球儀をほうりこんで、それを外から見ているような感じだ。

 千二は、そのことを新田先生に話した。すると先生は、

「それはね、火星の外側は、ちりのようなものが、たいへんたくさん集っていると、ある学者が発表したことがある。だから、その火星塵かせいじんの、あつい層を下へつきぬけなければ、火星の表面は、はっきり見えないわけだ」

「火星塵の、あつい層ですか。地球にはないものが火星にはあるのですね」

「そうだ。地球と火星とは、形こそ似ているが、違うことはいろいろたくさんあるよ。ほら、あそこをごらん。火星のお月さまが見える」

「えっ、どこですか」

「あそこだ」

 先生の指さすところをよく見ると、なるほど、月らしいものが浮いている。

「ああ、あれが火星の月か」

 と言ったが、千二は、へんな顔をして、

「先生、あれはなんでしょうか。こっちの方からも、月のようなものが出て来ましたよ」

 と、左の方を指さした。

 見たところ、ちゃんと月の形をしている。それが、はじめの月と反対の方向に、ぐんぐんとまわりだしたのである。

「ああ、あれも、火星の月だ。小さい方の月だ」

「えっ、小さい方の月? すると、火星には、大きい方の月もあるのですか」

 千二は、ますます不思議そうな顔であった。

「そうなんだ、千二君。君は、火星に二つの月が、ついてまわっていることを、知らなかったのかねえ」

「二つの月ですって。お月さまは、一つだけのものだと思っていました。火星には、月が二つもあるのですか」

「そうだよ。小さい月がデイモス、大きい方の月がホボス、そういう名なんだ」

「へんな名前ですね。一度じゃあ、おぼえられないや」

 と、千二は、首をふった。

「デイモスにホボスだよ」

「あっ、先生、こっちの大きいお月さまは早いですね。もう、あんなに動きましたよ」

「そうだ。ホボスの方は、たいへん早くまわるのだ。一日のうちに、火星のまわりを三回ぐらいまわるのだ。デイモスの方は、一日では火星のまわりを、まわりきらないのだ。三十時間しないと、一回分まわらないのだよ」

「火星って、実に不思議な国ですね。お月さまが二つあったり、それがたがいに反対にまわったり、それから一方のがのろのろしていて、他方のがかけ足で三回もまわったり、ああ、ぼくらの地球とは、まるで違うのですねえ」

 千二が、目をまるくして火星の月をみていると、その二つの月は、ぐんぐん近づいて衝突しそうに見えた。

「あっ、お月さまの衝突だ!」

 千二は、思わず、そう叫んだ。火星の二つの月が、反対の方向からだんだん近づいて、衝突するかのように見えたのである。

「大丈夫。衝突なんかしないよ。地球とモロー彗星の場合とちがうのだ」

 新田先生はそう言ったが、千二が見ていると、たしかにその通り、衝突すると見えた二つの月は、いつの間にか左右にわかれ、今度は、少しずつ離れだした。

「なるほど、衝突はしなかったですね」

 千二は、かんしんして言った。

「地球とモロー彗星も、あのように、うまく衝突しないで、すれちがえばいいのだが……」

 と、新田先生は、しみじみと言った。どうも先生の頭には、いつも地球のことが、こびりついているようであった。

 操縦室では、蟻田博士が、ロロ公爵とルル公爵に対し、熱心に話を続けている。

「……それじゃ、やっぱり、カリンの岬に大空艇を着けますかね」

 と、博士が言えば、

「それがいいですよ。カリンの岬なら、丸木なんかが攻めて来ようとしても、ちょっと手間がとれますからねえ」

 と、ロロ公爵が賛成した。

「あそこには、水底に洞窟どうくつがありましたね」

 と、蟻田博士がたずねた。

「そうです。カリン下の洞窟のことですね。あそこは、かくれるのに持って来いのところです」

「洞窟と岬との間には、抜道のようなものがありましたね」

「ああ、ありますとも。五つの扉をあけないと通れませんが、階段がついていますよ」

「その扉は、どうすればあくのでしたかねえ」

「呪文を唱えればいいのです」

「その呪文は」

「ロラロラロラ、リリリルロ、ロルロルレと言えばいいのです」

「むずかしい呪文ですなあ。ロラロラロラ、リリリルロ、ロルロルレか」

 蟻田博士は、口をもぐもぐさせて、この言いにくい呪文をくりかえした。

「そこでロロ公爵、あなたは、火星へ帰られると、すぐ旗あげをせられますか」

「ええ、やりますとも。ルルが、ぜひともやると言って、意気ごんでいるのです」

 と、ロロ公爵は言って、側にひかえたルル公爵をふりかえった。

 ルル公爵は、いつも、だまっているのが好きであった。この間の病気以来、ルルは、前よりも一そう口かずが少くなった。何かしゃべるのは、いつもロロばかりであった。

 火星の王子であるこのロロ・ルルの兄弟は、蟻田博士のため危ういところを救われ、地球の上で大きくなったのであるが、こんどいよいよ火星へ帰ると、すぐさま旗あげをして、もとの王家をさかんにしたい考えだった。

「旗あげをするには、どこを本城とするのですか」

 蟻田博士は、しんぱいのあまり、なんでもかんでも、今のうちに、聞いておかねばならぬと思っている。

「本城は、クイクイ運河地帯を目の前に見渡すペペ山におくつもりです」

「なるほど、ペペ山ですか。ペペ山なら、なかなかいいところです。あの切りたったような断崖は、まことにりっぱですね。わしもこの前火星へいったときには、ペペ山へは時々いってみましたよ」

「ペペ山は、私たちの祖先たちが、かならず大事にしていたところです。祖先のたましいが、あの山いっぱいに、こもっているのです。そうして何か大変な時には不思議なことがあって、私たちをまもってくれる霊山です。この前は、あの山を敵のため、すぐ奪われたので、いけなかったのです」

 ロロ公爵は、しんみりと言った。

 千二少年は、新田先生とならんで、窓の外を見ていた。はんたいの方向にまわる火星の二つの月はだんだんと両方へ離れていく。見れば見るほど、不思議な月であった。

「先生、ぼくは、なんだか夢を見ているような気がします。いま、ぼくは、ほんとに火星のそばまで来たのでしょうか」

「そう思うのは、もっともだ。わたしも、火星へ来たのは、はじめてだ。やっぱり夢を見ているような気がするよ」

 先生もおなじようなことを言った。

 そのうちに、どうしたわけか、あたりが急に暗くなった。

「おや、暗くなったぞ」

 千二少年は、ガラスが、どうかしたのかと思って、服の袖でしきりにガラスをふいた。

 だが、そんなことは、一向ききめがなく、だんだんと暗さがました。

「おやおや、火星が見えなくなってしまった。いままで、あのように美しくかがやいていた火星が、急にすがたを、けしてしまった。先生、これは一体どうしたわけですか」

 すると、新田先生は、しずかにうなずき、

「千二君。窓ガラスをよく見たまえ」

「え、窓ガラスですか」

「ガラスの上に、何か見えないかね」

「さあ。──」

 と言ったが、千二が見ると、外からガラスの上を、なんだか黒い粉のようなものが、ふきつけている。

「ああ、この黒い粉みたいなものは、何でしょう」

「わかったかね。それは火星塵だ。つまり、火星のまわりを、こまかい塵の層がつつんでいるのだ。それを火星塵の層といっているが、いまわれわれは、その塵の層のまん中に、はいったのだよ。だから、まっ暗なんだ」

「ああ、そうですか」

 千二は、なんだか、たいへん心ぼそくなった。まっ暗な井戸の中へ、おちこんだような気がしたからである。

 まっくらなんて、嫌なものである。大空艇の外は、なんにも見えない。

「さっきまで見えていた火星が、急に見えなくなるなんて、へんだなあ。火星に近づいたから、もっと見えなければならないわけだがなあ」

 千二は、顔をしかめている。

「それはね、土けむりの中に、はいっていると向こうが見えないが、土けむりの外からだと、土けむりをとおして、向こうが見えるのと同じだよ」

「へえ、そうですか」

「だから、いまに火星塵を通りぬけると明かるくなる。火星の表面がはっきり見えるようになる」

「そうですかね」

 と言っているうちに、あたりは急に明かるくなったような気がした。

「あっ、火星がまた見えだした。ああ、きれいだなあ」

 千二は、驚きと喜びとが一しょになった。

 火星は、もう大きな鏡のようになり、そうして、まぶしいほど明かるかった。それは火星塵を通り越したからであった。始めて、すきとおった空をとおして、火星を見るのであった。

 ああ火星のすがた!

 火星は、地球と同じように海らしいものもあるし、また陸のようなところもあった。ただ不思議なのは、真白に光る、かなり広い円形のところがあった。

「ああ、あれかね。あれは、火星の極だよ。大変寒いところで、あの白いところは雪と氷がつもっているのだ。そこへ太陽の光が照りつけて、あんなに美しく光っているのだ」

 ああわが太陽! このはるかな火星に来てみても、あの太陽だけは、この地球と同じ太陽が照りつけているのだと思えば、何だか急に、太陽がなつかしくなった。



66 ふき矢



「おお、お前たち、どこへいったのかと思って、さがしていた」

 そう言って、はいって来たのは、蟻田博士であった。

 新田先生と千二が、ふりむいて博士を見るとともに、おうと声をのんだ。

「博士、ものものしい、おすがたですね」

 博士は、まるでサンタクロースかエスキモー人のように、厚い毛皮の服に、ズボンに長靴といういでたちだった。しかも、そのうえに、例の大きな酸素かぶとを、かぶっているのであった。

「さあさあ、もうすぐ火星につくぞ。お前たちも、このとおりのかっこうをしなければならないのじゃ。服やなにかも、むこうに出しておいた。酸素かぶとは先に教えたとおり、かぶり方がむずかしいから、気をつけてやれよ。服やズボンや靴は、あたりまえにつければよろしい。さあ、いそいで、やりなさい」

「はいはい」

 先生と千二とは、博士にいそがされて、別室へいった。

「博士、服と酸素かぶとと、どっちを先につけるのですか」

 と、千二がたずねた。

「それは、わかっているじゃないか。先にズボンをはき、それから服を着、そのうえから、酸素かぶとをかぶるのじゃ」

「靴は、いつはくのですか」

「わかっているじゃないか。靴は、ズボンをはいてから、はけばよいのじゃ。酸素かぶとをかぶってからでもよいぞ。なかなかせわのやける奴じゃ」

 博士は、千二をしかりつけながらも、にこにこしている。博士にとっては、二度目の火星訪問だが、たとえこれから、たいへんな戦闘がはじまろうとも、大空艇で宇宙の旅をつつがなく終え、ついに目的地の火星までやって来たことが、うれしくてしかたがないらしい。

 先生と千二は、博士にならって、ものものしいすがたになった。

(こんな重いものを着て、どうなるであろうか。重すぎて歩けないであろう。これで千メートルも歩けばへとへとになるであろう)

 千二は、はじめ、そう思っていた。

 ところが、不思議なことに、それを着てみると、思いのほか軽かった。

「おや、不思議だ。これは、みんな紙で出来ているのかしら」

 まさか、紙で出来ているとは思わなかったけれど、思いのほか、たいへん軽いのであった。それをからだにつけて歩いてみても、平気であった。

 博士は、千二が感心しているのを聞いて、

「それは、軽いのがあたりまえだ」

「へえ、なぜかしら」

「それは、つまり、重力というものが、火星の上では減るからじゃ。地球の重力よりも、火星の重力の方が軽いのじゃ。だから、火星の上では、ものが軽くなったような気がするのじゃ」

「はあ、そうですか」

 すると、新田先生が、

「そういえば、このごろなんだか、からだが軽くなって、ふわりと飛べそうな気持がすることがあるのですが、重力が軽くなったせいですね。うっかりしていて、それを忘れていましたよ」

 と言った。

「今ごろ気がつくようでは、たよりがないねえ」

 と、博士が、かぶとの中で、にやにや笑った。ところが、それと反対に、火星人のロロ公爵とルル公爵とは、着ていたものを、ぬぐ話をしている。

「やれやれ、やがてこれをぬいで、はだかになれると思うと、ありがたいなあ」

「僕はからだが弱いから、よけいに、そうなる日が待ちどおしい」


「あははは、丸木艇は、やっと火星に着いたようじゃ」

 博士はテレビジョンの幕を指しながら笑った。

「さあ、丸木先生、これから何と言って火星王に報告することじゃろうか。さだめて、大きなほらを吹くことじゃろう」

「火星には、火星王というのが、いるのですか。丸木が、火星で一番いばっているのでは、ないのですか」

 千二は尋ねた。

「いや、別に火星王というのがいるのじゃ。その火星王は、たいへん悪い奴で、ロロ公爵とルル公爵の母にあたる前火星女王をほろぼし、位を奪ったのじゃ。丸木は、その軍部大臣の役をしているのじゃ」

「では、これからロロ公爵とルル公爵は火星へ帰ると、火星王のために捕えられはしませんか」

「もちろん、両公爵が帰って来たことを知ったら、捕えに来るのであろうなあ。だが、ロロ公爵もルル公爵も、今は、りっぱな大人になった。そうして、わしのところでいろいろと勉強もした。だから、火星王が攻めて来ても、そうかんたんに、やっつけられないよ。わしも今度は出来るだけのお力になり、ロロ公爵やルル公爵が、ふたたび火星をおさめるようにしてあげたいと思っているのじゃ」

「それはいいことですね。僕もそうなる日を祈っています」

 日本語がよくわかる二人の公爵は、それを聞いて大変喜んだ。

「まあ、見ていて下さい。僕たちはやりますよ。そうして火星を、りっぱな国にしたいと思っているのです。今までの火星は、文化こそ進んでいるが実に恐しい国です。悪いことをする者がえらいのだと考えている。早く言えば、丸木などは、どろぼうをするために、地球へ攻めていったようなものですからね」

 大空艇は、針路を左へ曲げた。

 火星の大地は、それとあべこべに右へまわっていく。

 しばらくすると、火星の端が、黒くふちをとったように、見えはじめた。それは火星の夜の部分であった。

 大空艇は、どんどん左へまわる。

 火星の表面から、明かるい部分が、どんどん小さくなる。そうして、やがて、全く暗くなった。

「このへんでいいだろう。消音装置を働かして下りていこう」

 蟻田博士は、目盛盤のつまみを動かした。すると、大空艇は、ほとんど垂直に下りはじめた。

「わざわざ暗いところへ、下りるのですか」

 と、千二が、博士に尋ねた。

「それはそうだ。明かるいところを下りていくと、丸木たちがうるさいからね」

「では、火星の夜のところへ大空艇を着けるのですね」

「そうだ、カリン岬に着けるよ」

「博士、丸木は、僕たちが後を追いかけて来たことを、知っているでしょうね」

「もちろん、知っているよ。だから、火星へ上陸しても、なかなかゆだんはならないよ」

「そうですね。僕たちも、丸木と戦わなくてはならないのですね」

「それくらいの覚悟はしている必要があるね。もっとも、ロロ公爵の旗の下へ集って来る兵も少くないであろうが、とにかく、はじめのうちは、あぶないぞ」

「博士、火星兵と戦うには、何をつかうのですか。もう、ガス弾などは役にたたないのでしょうねえ」

「ああ、ガス弾か。ガス弾をつかえば、火星兵はやっぱり死んでしまうよ。しかし、味方の兵まで殺してしまっては、なんにもならないから、今度は、また別の兵器をつかうのだ」

「別の兵器? それは、どんなものですか」

「火星の上で使う新兵器は、ここにあるこれだよ」

 そういうと、博士は、うしろの壁にかけてあった長さ一メートル半ほどの黒いくだのようなものをとり、千二に見せた。

「これは何ですか。中に穴が通っていて、こっちの太い端には、ゴムの口あてのようなものがついていますね」

「わからないかね。君たちの得意なものだろうと思うが……」

「僕たちの得意なものですって。ははあ、そういえば、思い出した。これ、ふき矢をいれる管みたいですね」

「そうだ。あたったよ。そのとおりだ」

「博士、ふき矢をいれる管を、どうするのですか」

「やっぱり、ふき矢をいれて、ふくのだよ。火星人にあてるためだ」

 千二は、なあんだという顔で、

「ふき矢ぐらいで、火星人がまいるかしらん。だいいち、遠くから攻めて来た時に、こっちは、ふき矢をふいたのでは、届かないじゃありませんか」

 すると博士は、軽く笑って、

「千二君は、大事なことを忘れているよ。火星の上でふき矢をふくと、ずいぶん遠くまでいくのだ。地球の上で機関銃を撃った時よりも、もっと遠くまでいくのだ」

「そんなことはないでしょう。人間のいきは、そんなに強くありませんからね」

「わからん子供じゃなあ。千二、火星の上では重力が小さいのじゃ。ぷっと上にふけば、かなり長らく落ちてこないのだ。だから、ふき矢だとて、ばかにならない。遠くへ飛ぶのだ」

 言われて、千二はやっと気がついた。先生からも聞いたが、火星の上では重力が小さいから、上へ放りあげたものは、なかなか落ちて来ないのであろう。すると地球の上では、つまらないふき矢も、ここでは強い兵器だ。

 ふき矢問答はつづく。

「博士、ふき矢が火星の上では、なかなかつよい兵器だということは、わかりました。しかし、どうして、このふき矢を使えばいいのでしょうか」

 と、千二は、ふしぎそうに言った。

「なんでもない。口でぷうとふけばいいのさ。お前たち、とくいのふき矢ではないか」

 千二は、そこが問題だという顔で、

「だって、博士。こんな酸素かぶとを、かぶっていたんでは、ふき矢を口にあてようとしても、あてられないではありませんか」

 博士は、なるほどとうなずき、

「ああ、そのことかね。それは、しんぱいなしさ。かぶったままでも、らくにふけるのだよ。かぶとの中に、口のあたるところがある。そこへ口をつけるのさ。それから、ふき矢の口は、かぶとの外に穴がある。ほら、ここのところだ。口よりすこし下のところに、へそみたいなものがあるだろう。この穴にあてればいい。そうして、口で、ぷうとふけば、ふき矢は、ちゃんとあたりまえに、とんでいくのだ。わけなしのことだよ」

「ああ、そうですか。なるほど、この穴ですね」

 と、千二は、かぶとの下についている、へそのような穴に、さわってみた。

「しかし、博士。こんなところに、穴があいていると、かぶとの中の酸素が、みんな外にもれてしまいませんか。また、外から、火星の空気がはいって来ませんか」

「それは大丈夫だ。人間の心臓に、べんというものがついている。そのべんは、一方からは通るけれども、その反対の方向からは、通らないのだ。これをべんといって、心臓だけではなく、世の中にある機械にも、べんのはたらきをするものが、よくつかわれている。このかぶとの中につけてあるのは、つよい特殊ゴムでできたべんである。だから、お前のいうしんぱいはないよ」

 と、博士は、べんのしかけを説いた。



67 出陣



「カリン岬が見えました」

 と、ロロ公爵が、博士のところへ知らせて来た。

「もう見えますか。おい、新田、操縦室へ来い」

「はい」

 千二も、あとからついていった。

「そこにあるハンドルを、しっかりにぎっておれ」

「はい、これですね」

「そうだ。わしが命令したら、その盤の上にかいてある数字を見ながら、左へまわしてくれ」

「はい、わかりました。このハンドルをうごかすと、どうなります」

「それは、いよいよ火星へ上陸した時、この大空艇の扉をあけるためだ。扉をうまくあけないと、大空艇の内部と外部との空気の圧力がちがうから、大事な機械がこわれるおそれがあるからだ。だから、わしの言うとおり、うまくハンドルをうごかしてくれ」

「はい、わかりました。どうぞ……」

 博士は操縦席について、しきりに計器類のおもてを見まわしながら、たくみにスイッチを切ったり、目盛盤をうごかしていたが、大空艇はだんだんと速度をゆるめ、ふわりふわりと、しずかに下へおりていくのであった。

 白く光るのは、海面であろうか。そうして、その中に、象の鼻のように、ながくのびている、くろいものがある。それこそカリン岬であった。

「おい新田、はじめるぞ。用意はいいか」

「はい、大丈夫です」

 大空艇は、そのあいだにも、どんどんさがっていた。大地だ。まっくろな大地であった。その大地が、もり上って来る。

 そのうちに機関は、ぱったり止った。大空艇はたくみな滑走をつづけながら、岬の上を低くとんでいく。そうして、やがて、ごうんという音とともに、砂浜の上に着いた。

 いよいよ火星に着いたのだ!

 砂のうえに着陸した大空艇は、そのまま、じっとうごかない。

 いきおいよくまわっていたエンジンも、今やぴたりととまった。死のようなしずけさである。

 そのとき、蟻田博士は、

「おい、新田、ハンドルを二十一へ!」

「はい、二十一」

 いよいよ扉をあけるときが来たのである。

「ハンドルを十九へ」

「はい、十九!」

 どこかで、しゅうしゅうと、空気のもれるような音がきこえる。

「ハンドルを十七へ!」

「はい十七」

 千二は、目を見はって、博士と新田先生の二人を見つめていた。

「ハンドルを十三へ」

「はい十三」

「ハンドルを、あとしずかに零までまわせ」

「はい、しずかにまわします」

 しゅうしゅうといっていた音は、もう消えてしまった。

 そのとき、千二のうしろで、かたんかたんと、金属のすれ合うような、ひびきがきこえた。なんの音だろうかと、千二が、うしろをふりかえって見ると、そこには、異常な光景があった。

「あっ、ロロ公爵とルル公爵が!」

 と、千二は、おどろきのこえをあげた。

 ロロとルルとが、床のうえに、たおれているのだった。ああ、せっかく火星までもどって来たのにこの二人の貴族は、そのよろこびにもあわずに、気ぜつをしてしまったのか──と、びっくりしたが、ほんとうは、そうではなかった。そのとき千二の目のまえで、ロロとルルの胴中どうなかがぱっくり、たてに二つにわれたのだった。

「おや」

 と、千二がまた目をみはるとたんに、その中からむくむくと立ちあがった二人の怪物の姿!

 おお、その姿!

 千二は、目をみはった。

 ロロ公爵とルル公爵の死骸の上に立上った、二つの怪しい影!

「千二君、なにを、そんなに、おどろいているのですか」

 と、その怪しい影の一つが言った。

「えっ」

 と、千二は、胸をどきどきさせた。彼は、まだ気がつかないのだ。

 すると、その怪しい影は、千二の方へ手をあげて、

「千二君。君は、わたしが誰であるか、まだわからないらしいね。わたしは、ロロ公爵だよ。そうして、こちらはルル公爵だ」

 と言って、その怪しい影は、となりに立っているもう一つの怪しい影をゆびさした。

「えっ、ロロ公爵とルル公爵? ああ、そうだった。そう言えば、いつだか見た火星人のほんとうのすがたを、今やっと思い出しました。どうも、しつれいしました」

 千二は、やっと、ロロ公爵とルル公爵とを思い出した。

「いや、わからなかったのは、むりはありませんよ。火星へ着いたというので、あなたがたは防寒服を着たり、酸素かぶとをつけたりしました。ところが、それと反対に、われわれは今まで着ていたきゅうくつな耐圧缶をぬいで、もとの、はだかになりました。たいへんらくになったので、よろこんでいますよ」

「なるほど、なるほど。あなた方と僕たちは、ちょうど、あべこべですね」

 と、千二は、笑い出した。

 火星人の背は、千二少年よりややひくいので、ロロ公爵と話をしていると、年下のこどもと話をしているような気がする。

 そのあいだ、ルル公爵の方は、あいかわらず、だまっていたが、その時扉があいて、風がはいって来たので、ルル公爵は、ロロ公爵をふりかえって、言った。

「さあ、出かけましょうぜ」

 ロロ公爵とルル公爵は、蟻田博士のところへ、わかれのあいさつにやって来た。

「蟻田博士、いろいろおせわになりましたが、それでは、これから出かけます」

「おお、いよいよお出かけかな。では、どうぞ、おげんきにな。大勝利を、いのっていますぞ」

 と、博士は、ロロ公爵とルル公爵の手をにぎってはげました。

 いつも無口のルル公爵も、

「蟻田博士、ご恩のほどはわすれません。たとえ、これでうち死しましても、私はもう思いのこすことがありません」

 と、かんげきの言葉で、あいさつをした。

「あなたは、からだがよわいのだから、くれぐれも気をつけて下さい」

 博士の言葉は、みじかいうちにも、あたたかい情心なさけごころがこもっていた。

「じゃあ、新田先生も千二君も、さようなら」

「どうぞ、しっかりやって下さい」

「ロロ公爵、ルル公爵、ばんざあい」

「ありがとう、ありがとう」

 二人の公爵は、思出多い大空艇からたち出でた。足の下にふんだのは、ひさかたぶりの火星の大地であった。

「じゃあ、いって来ます」

「いってらっしゃい、お元気で……」

 二人の公爵は、ついにくらやみの中にすがたをけしてしまった。大空艇の中には、今はもう地球から来た蟻田博士と新田先生と、そうして千二との三人きりとなってしまった。

「博士、これからあの二人の公爵は、どうするのですか」

 と、先生がたずねると、博士は、

「いよいよ旗あげをするのだ。二人はペペ山へ、いったはずじゃが、そこには二人のために、火星国を元にもどそうと考えている三角軍という、ひみつの兵がいるそうじゃ。二人の公爵がペペ山へもどったことがわかると、同志の者も、おいおい集って来ることじゃろう」

「博士、ぼくたちは、これからどうするのですか。このふき矢をもって、すぐ火星兵団の方へ、せめていくのですか」

 と、千二がたずねた。

 博士はそれを聞くと、くびをふって、

「いや、火星兵団をせめると言っても、たったわれわれ三人では、どうにもならない。結局、ロロ公爵とルル公爵の成功をまって、火星兵団へ、はなしをつけるほかない」

「おやおや、戦争をするのじゃなかったのですか。このふき矢をつかって、火星兵団をやっつけるのだと思っていましたが……」

 と、千二はすこし不満の様子だ。

「いや、それはちがう。ふき矢は万一のときに、われわれが身をふせぐ道具なのじゃ」

「じゃあ、ぼくたちは、これからどうするのですか」

「ロロ公爵とルル公爵の旗あげが、うまくいくかどうかわかるまで、まっているのさ。いや、こんどは多分うまくいくだろうと思っている」

 と話をしていると、新田先生が、とつぜんおどろきの声を発した。

「博士、いま向こうのやみの中で、なんだか、きらきらと光るものが、よこにとびました。流星のようでもありますが、よこにとびました」

 すると、博士はうなずき、

「そうか、どのへんかね」

「あのへんです」

 と、先生が窓から外をゆびさした。

「よろしい。暗視テレビジョンで、のぞいて見れば、すぐわかる」

 博士は機械室の暗視テレビジョンをかけた。すると、その映写幕の上に、まっくらな外のありさまが、まるでひるまのように、ありありと写った。

 見よ、岩山のかげから、しきりにぎょろぎょろと目を光らせている怪物がある。それも一つや二つでなく、かなりかずが多い。光っているのは彼等の目であった。

 カリン岬の岩山のかげから、こっちをのぞいている気味のわるいたくさんの目!

「ふん、やっぱり、丸木のやつ、わしたちを見つけたな」

 と、博士は、暗視テレビジョンを、うごかしながら言った。

「ああ、やっぱり火星兵団でしたか」

 と新田先生は、こぶしをにぎる。

「それでは、やっぱり、僕たちは戦争をしなければならないわけですね」

 千二は、さっきから、しきりと、ふき矢をいじっている。早く、ぷうとふいてみたくて、たまらないらしい。

 博士は、岩山のあいだから、目をぎょろつかせている火星兵団の様子を、くわしく見ていたが、

「うむ、一つ、丸木を呼出してやろう」

 と言って、マイクを手にとると、配電盤のスイッチを切りかえた。こうすると、高声機が、外にあらわれるのであった。

「おい千二、この映写幕を見ておいで。わしが今しゃべると、この岩山のかげにいる連中が、どんなことを始めるか。おもしろいから見ておいで」

 そう言って博士は、マイクに口をつけると、火星語でしゃべり出した。

「おれは蟻田だ。丸木にここへ来いと言え。いま十分のうちに来なかったら、おれは、丸木の体を水のように、とかしてしまうとそう言え」

 博士の言葉は、火星兵のあたまの上に、大きな声となってふりかかった。

 火星兵は、びっくりして、じぶんのあたまの上を見た。なんだか、丸木をつれて来いなどと、けしからんことをいう怪物が、じぶんのすぐ頭の上にいるような気がしたのである。しかし、そこには、くらやみがあるばかりで、生き物のすがたも見えなかったので、火星兵は、いよいよ気味わるがって、岩山のかげからとび出した。そうして、にげるわ、にげるわ、その奇怪な体をむき出しにして、岩山づたいに、にげ出した。

 岩山のかげからとびだした火星兵のむれは、ぴょんぴょんとカンガルーのように軽く、そうして早くとんでいく。

「おい、お前たち、逃げるのはいいが、さっきわしが言った通り、丸木に伝えるのだぞ。丸木が来なければ、こっちから丸木のところへ出かけるからそう思え」

 博士は、盛に火星兵をおどしつけた。火星兵は、いよいよ驚いて、それこそ雲を霞と逃げていく。

「あははは、逃げちまった。火星兵って、いくじがないんだなあ」

 と、千二少年は、嬉しそうに笑った。

 そばにいた新田先生は、博士に向かい、

「博士。われわれは見つけられたのです。今にここへ火星兵団の大軍が、押しよせて来るでしょう。ですから、またガス砲をうつ用意をしては、いかがでしょうか」

 と言えば、博士は首を左右にふり、

「それはそうだが、火星国へ来たら、なるべく彼等を殺さないのがいい。なるべく彼等を降参させるのがいいのだ。ガス砲をうつと、火星兵は、みんな死んでしまう。それとともに、いい火星人まで死んでしまう。わしが大勝利をいのっているロロ公爵とルル公爵も、今は出かけて、彼等の中にまじっているかも知れないから、ガス砲をうって、二人を殺すようなことがあっては、たいへんだ。だから、ガス砲は使ってはいけないのだ」

 と、博士は先生をいましめた。

「でも、やがて、こっちへ火星兵の大軍が、攻めて来ましたら……」

「まあ、心配するな。わしに、まかせておきなさい」

 と、博士は、どこまでも落ちついている。

 千二は、たえずテレビジョンの映写幕に気をつけていた。火星兵のすがたは、すっかり消えてしまった。残るは岩山ばかりであった。見るからに気味のわるい、火星の風景であった。



68 いばる丸木



 千二は博士のすることを見ていたので、テレビジョンをうごかして、他の場所を映写幕のうえに、うつして見ようと思い、ハンドルをぐるぐるまわしてみた。

 岩山は、映写幕の中でうごきだした。そうして、林のようなものが映写幕の中にはいって来た。

 林といっても、千二の目には見なれない木ばかりであった。松やかえでの木などを見なれた目には火星の木は珍しい。そこに見えている木は、どこか、つくしんぼうを思わせた。つまりつくしんぼうのような大木なのであった。木はふしがついていて、すぎなのような葉が出ている。それから、もう一つは苔があった。たいへん大きな苔だ。それが地面の上をはいまわっている。

「気味のわるいところだなあ」

 と、千二が、なおもかんしんして、その林の中をのぞいていると、その時、へんなものが目にはいった。

 林のおくの方から、むぎわら帽子が、ゆらゆらと宙をとんで、こっちへ来るのであった。

「あ、博士。へんなものが林の中にいます」

 と、千二は思わず声を立てた。

「へんなものって、どれかね。どれだ」

 千二は、宙をとんで来る、むぎわら帽子をゆびさした。

「ああ、これか。これは丸木じゃないか。丸木がとうとうやって来たぞ」

「どうして、このむぎわら帽子が丸木なんですか」

「だって、帽子の下をごらん。目が光っているじゃないか。丸木のからだが、みどり色だから、みどりの林の中では、帽子だけしか見えないんだよ」

「ああ、そうか」

 博士に言われて、千二は林の中を、もう一度よく見直した。とたんに千二は、あっとおどろきの声をあげた。林の中には何があったのであろうか。

 蟻田博士と新田先生と、そうして千二少年とが、いかめしい服を着て立っている前に、とつぜん、ぬっと顔を出したむぎわら帽の火星人は、これこそ丸木であったのである。

「おい、丸木。きさまよく逃げおったな」

 博士は叱りつけるように言った。

 すると丸木は、ふてぶてしく、むぎわら帽子をゆすりあげて、

「逃げたわけではない。この火星に、もどって来た方が得だということが、わかったからだ」

「ふん、負けおしみを言うな」

 と、博士がやりかえした。

「負けおしみではない。げんに、おれは、こうして博士よりは、得な立場に立っているのだ。ふふふふ」

「得な立場だって。なにが得な立場だ。きさまを、やっつけようとすれば、すぐにも、やっつけられるのだ。大きなことを言うまいぞ」

 博士は、丸木をたしなめた。

「なに、大きなことを言うなだって。ふん、それはこっちで言うことだ。地球の人間がこの火星にやって来て、大きな顔をしているやつがあるかい。お前たち三人を、やっつけるなんて、それこそ一ひねりでいいのだ」

 丸木も、なかなか負けていない。

 だが、蟻田博士は、そんなおどかしに、びくともせず、

「おい、丸木よ。からいばりは、もうよして心をあらためてはどうか。一体、火星の生物が、地球の人類よりもえらいと思っていることが、あやまりだったと、はっきりわかったはずだ。きさまは、地球の上でわしたちのために、さんざんな目にあったではないか。一つここで心を入れかえ、前の火星女王の遺児であるロロとルルの味方となるつもりはないか。もしお前がそうするつもりがあれば、わしからよく話をしてやろう。それが、きさまの身のためだぞ」

 博士は、丸木を、なんとかして、正しいみちへもどしてやりたい考えだった。

 また、そうすることによって、博士はロロとルルの二人の王子に、大きな兵力をつけることが出来ると思ったのだった。丸木は地球へ攻めて来たわるいやつだが、しかし彼は、なかなかの武将であった。そのことは博士もよく知っていた。だから丸木に心を入れかえさせると、たいへんロロとルルとは助かる。いや、ほんとうのところを言えば、ロロとルルの力だけでは、とても今の火星王を敵にまわして、これを征服することはむずかしいのだ。

 だから、博士は丸木を味方に入れたかったのである。

「えへへん。笑わせるなよ、蟻田博士」

 と、丸木は心をあらためるどころか、いよいよたけだけしいようすになって、

「おい、博士。ここを一体、どこと思っているのか。ここは火星の上だぜ。あの地球の上とはちがうぜ」

「それが、どうしたというのか」

「あれっ。まだわからないのか。いいかね。おれは地球へでかけていって、お前などとたたかい、まず五分五分の勝負で引上げた。おれたちは火星人だから、地球の上でたたかっては、たいへん勝手がわるいのだ。それでも五分五分の勝負だった。ところがここは火星の上だ。わかるだろう」

「火星の上だから、きさまは、わしたちに勝てると思っているのか」

「そうだよ。火星人は火星の上でたたかうのには不自由をしない。お前たちはどうか。まず自分のからだを見ろ。そんな不便のものをつけているし、人数は少いし、われわれに勝つ見込はないじゃないか。早く降参した方がいいぞ」

 丸木は、いばり散らしている。それを聞いた博士は決心の色を浮かべ、

「よし、まだ目がさめないようじゃから、言葉で言うよりは腕前を見せてやろう」

 博士は、丸木を改心させたいとつとめたが、とうとうさじをなげだしてしまった。このうえは、丸木をいたい目にあわせるほかない。

 丸木の方は、あいかわらず、いばりくさっている。

「なに、腕前で来いと言うのか。ふん、ここは火星の上じゃ。腕前なら、こっちがつよいことが、わかっている」

 丸木はそう言って、手をあげて、あいずをした。

「おい、みんなかかれ」

 丸木のあいずで、彼のうしろに、ぎょろぎょろと目をひからせていた火星兵は、にわかに、うごきだした。

「なにをぐずぐずしている。早くかかれと言うのに……」

 丸木は部下を、しかりつけた。

 火星兵は、かねがねこの蟻田博士の手なみを知っているし、それに地球へいって、人間からひどい目にあっているところだから、少々しりごみをしていたところであった。しかし丸木に、しかりつけられては、もうしりごみをしておられない。

 ひゅう、ひゅう、ひゆう、ひゅう。

 ぷく、ぷく、ぷく、ぷく。

 火星兵は、へんな声をあげて博士たちにせまって来た。

 そこで博士は大声でしかりとばした。

「来るか。来るならいつでも、あいてになってやるぞ。おい、新田、千二、ふき矢をふけ」

 新田先生と千二は、さっきから、ふき矢をもって、いつ命令がくだるかと待っていたところだから、すぐさま例の酸素かぶとの下にある口にあてて、ぴゅう、ぴゅう、ぴゅうと矢をふきだした。

 そのとき、博士が言った。

「丸木は、わしがひき受けた。丸木にはあてないがいいぞ。ほかの火星兵はみんなやっつけてしまえ」

 博士はなかなか元気であった。

 蟻田隊と丸木隊とのたたかいははじまった。

 火星兵は、どこにかくしもっていたか、先の太いこんぼうのようなものを、ほそながい手に、にぎって、蟻田博士たちをめがけて、おしよせて来た。

「おちついて、ふき矢を放て!」

 博士は、新田先生と千二少年とを、はげまして言った。

 先生と千二とはさっきから、ふき矢を、おしよせる火星兵のむれを目がけて、ふきつけているが、なれないこととて、なかなか思うように、ふき矢があたらない。

「しまった、また、はずれた」

「おい千二君。ふき矢のくだを、あまりかたくにぎっていると、いけないよ。そうして、こういうぐあいに、ふうっとふくといい」

 やっぱり先生の方が上手であった。

「なるほど。そうやると、うまくいくんですねえ。僕たちがいつも作って、あそんでいたふき矢とは、やりかたが、ちがうんだな」

 千二は先生におしえられ、そのとおりにやってみると、なるほど、ふき矢はぴゅんととんで、林のはしから顔をだしたばかりの火星兵のむなもとに、ぷすりとつきたった。

 すると、火星兵はねずみが、ねずみおとしのわなにかかったように、ぴょんとはねて、どたんと下にたおれた。そうして手だか足だかわからないが、首の下についている細いものを、にゅうっと四方へのばした。と思うと、こんどは急にその手足をくるくるっと短い胴の下へまいた。そうして、まるで青い南瓜かぼちゃを二つかさねたようなかっこうになって、うごかなくなった。千二は、それがあまりふしぎであったので、あとのふき矢をふくこともわすれて、見とれていた。

「おい千二君。火星兵がだいぶん、たくさん来たよ。早くふき矢をとばすのだ」

 と、新田先生は千二にちゅういをした。

「はい。ふき矢を飛ばしますよ」

 千二は、先生にさいそくされて我にかえると、こんどは、つづけざまに、ふき矢を飛ばしはじめた。

 しゅうっ、しゅうっ、しゅうっ。

 こんどは、よくあたる。調子さえわかれば、千二の方が先生よりも上手であった。なにしろ千二はふき矢をこしらえて、森の中で小鳥をとるのが、なかなか自慢であったのだから……。

 火星兵は、わめきながら、こっちへ向かって来る。こんぼうみたいなものを、ふりあげて来るところは、なかなかすさまじいものであった。

 そこへ、ふき矢が飛んでいって、ぴしりぴしりとあたる。おもしろいほど、よくあたる。あっちでもこっちでも、火星兵がからだをちぢめて、ごろごろころがっている。

 ふき矢があまりよくあたるので、火星兵は少しおそれをなしたようすであった。今まで勢いよく突撃して来たのが、いつとなく足もとがみだれ、そのうちに、森の中から一歩も出て来なくなった。そうして、木の幹の間や岩のかげから、あたまだけを出して、こっちをじろじろと見ている。

「先生、こっちが勝ったようですね」

 と、千二は、先生に声をかけた。

 ところが、先生のへんじがない。

「先生。おや、先生は、どこへいったかな」

 千二は、びっくりして、あたりを、きょろきょろとみまわした。

 さあたいへん。先生の姿は、そこになかった。先生の姿だけではなく、博士の姿もないのだ。見えるのは、前面からこっちをにらんでいる十数人の火星兵のあたまばっかり……。

「あれっ、先生も博士も、どこへいってしまったんだろうな」

 千二は、急に心ぼそくなってしまった。これは一体どうしたというんだろう。



69 まきつく触手



 千二は、わすれられたように、ひとりぼっちになってしまったが、博士と先生とは、どうしたのであろうか。

 新田先生は、ふき矢をもって火星兵とたたかうことに一生けんめいだった。

 なにしろ、火星兵は、新田先生が一等つよい敵だと思ったので、これをたおせばいいと思い、先生をめがけて、さかんにせめたてたのである。

 そこで先生は、千二のことを気づかっているひまがなくなった。

 ふき矢をこめてはふき、こめてはふき、いきのつづくかぎり向かって来る火星兵をなぎたおした。もし、ただの一人でも近づけたら、たいへんなことになるであろう。それというのが、火星兵のもっているこんぼうみたいな武器は、先生の酸素かぶとを、上から、うちくだいてしまうだろう。火星兵は小さいくせに人間よりも、ずっと力がつよいのであった。

 ひゅう、ひゅう、ぷく、ぷく、ぷく。

 火星兵はますますいらだって、先生めがけておしよせて来る。

「まだ来るか。来るならいく人でもやって来い」

 先生は、そう言って自分をはげましながら、どんどん前へ出ていった。少しでも、こっちがひるんだようすを見せると、火星兵はそこをつけこんで、一度に、わあっとせめて来そうである。だから先生は、あくまでつよ気を見せ、むしろこっちから、すすんでいくのがいいと思った。

 それはたしかにききめがあった。火星兵どもは、とおくから奇声をあげてさわぎながら、だんだん森の中へあとずさりをはじめた。

「うむ、ここだぞ。火星兵どもが二度と出て来ないように、こっちから、おしていってやれ」

 新田先生は、なおもぐんぐんと前に出ていった。そうしているうちに、しぜん千二のいるところから、へだたってしまったのである。

 蟻田博士はどうしたのであろうか。

 博士は、丸木と向かいあっていた。

 どっちも口をきかないで、にらみあっていた。聞えるのは博士の息づかいと、そうして丸木のからだのどこからか、しゅうしゅうと響いて来る怪しいもの音だけだった。

 丸木の目は、へんにとびだしている。一体丸木の顔というのがでこぼこしている。松の木の根もとを掘ると松露しょうろというまるいきのこが出て来ることがあるが、それを、もう一そうでこぼこしたような感じの顔であった。目は三つあったが、正面から見ると二つしか見えないから、これは人間の顔とそっくりであった。もう一つの目は顔の後にあった。だから、後を見ようと思えば見える。

 目のついているところは、河馬かばの目のように、ふくれあがっている。そうして目玉が大きく、ぐりぐりとよく動く。どっちの方角もよく見える。

 あたまの上には長い毛のようなものが生えているが、これは毛ではなさそうだ。毛よりももっと太い。そうして、たこの足のようにどっちへでもよく動き、のびたりちぢんだりする。いつもは、この先が蔓のようにくるくるとまいている。これは一種の触角であるらしい。麦わら帽子の下からこの動く蔓が出て、にょろにょろしていて、気味がわるい。

 目の下には、人間のように鼻がない。そうしてすぐ口のようなものがある。口というよりは、くちばしといった方がいいかも知れない。形はたこの口に似ている。しかし、かなり長くてのびちぢみする。よく見るとそのとびだした口吻こうふんには、ねぎについているような短い白い根のようなものが生えていて、ひげのように見える。だが、これはよく見ないとわからない。

 これが、丸木の、いつわりのない顔である。その下に短い胴があって、その下には長い根のような足だの、手だのがある。

 蟻田博士は、おそれげもなく、丸木の方へじりじりとせまっていく。

 はじめは、たいしたいきおいであった丸木も、博士のえらさを知っているから、博士に出てこられると、すこし、おじけづいた。博士が一歩すすめば、丸木は一歩しりぞく。

「おい、丸木。なぜ、にげる」

「うむ。にげるわけじゃない。これも、作戦のうちだ」

 いいわけをしながら、さがっていく丸木であった。勝ち負けはもう、はっきりしているようであった。

「丸木。にげるな。一騎討でこい。くるのが、おそろしければ、降服しろ。そうして、ロロとルルの旗のもとにはいれ」

「だれが、そんな、はなしにのるものか」

 と、丸木は、大きな目をぎょろぎょろとうごかし、

「おい博士。きさまは、火星のうえで、たいへん、いばりちらしているようだが、地球のことを考えたことがあるのか」

 と、丸木は逆襲してきた。

「ああ、地球のことか」

 博士は、平然といい放った。

「博士。地球は、あと二、三時間のうちにモロー彗星にぶつかって、こなごなにこわれてしまうんだぞ。そうなると地球上の人間はみなごろしだ。きさまたち、たった三人が、地球のいきのこり人間となる。たった三人の地球人類だ。なんと、さびしいことではないか。それでも、きさまは強そうなことを、いっておられるのか。わははは」

 丸木は、これこそ博士たちの一等よわいところだと、にらんでおどかした。そんなことをいって、博士たちの元気をなくしてしまい、そのすきに、博士にとびかかろうという作戦だった。

「なにをいうか。地球のことをしんぱいするよりも、自分のことをしんぱいしろ。うぬっ」

 博士は、大喝一声、丸木にとびかかった。丸木はおどろいて、ばらばらと逃げだした。博士はそれを追った。

 丸木は森の中ににげこむ。博士はそれをおいかける。

 丸木は火星兵の方へ、にげようと思ったらしいが、そっちには新田先生がさかんに奮戦しているので、これはたいへんだと、方向をかえて、岩がそび立つ海岸の方へにげていった。

 博士はなおもそれをおいかけた。博士はオリンピックの選手もそこのけという風に、大きな幅とびでどんどんおいかけていく。地球の人間がこれを見ていたら、びっくりすることであろう。老人の博士が、若者のように宙を飛んでいくのである。

 しかし、これも火星の上では、重力が小さいから、このように軽快な運動が出来るのであった。老人の博士が、ぴょんぴょんとんでいくところを地球の子供たちに見せたら、ぼくもあのように宙をとんでみたいと、さぞ火星へいきたがることであろう。

「おい、丸木、まて」

 博士はうしろからさけぶ。

「まっていられるか。くやしかったら、ここまで来い」

 と、丸木は博士をからかう。丸木はどうやら何かたくらみを考えついたらしいのであった。

「にげると、きさまもふき矢をはなって、ねむらしてしまうぞ」

「そんなものが、おれにあたってたまるか」

 丸木は岩の上を、りすのようにしきりにとんで、少しもじっとしていなかった。博士は、これではとてもあたるまいと思ったのか、それとも、はじめからふき矢をはなたないつもりだったのか、ただそのまま岩の上をつたって丸木をおいかけた。

 丸木は、いよいよとんだりはねたりしながら、とおくへにげていったが、そのうちに、どこへいったか、すがたが見えなくなった。

「はて、丸木め。どこへ、はいってしまったのか」

 と、蟻田博士は言いながら腰をたたいた。

 こっちは、千二少年であった。

 いつの間にか、ひとりぼっちになってしまった。

 前面の森の入口には、十数名の火星兵がこっちをにらんでいたが、それも千二のもっているふき矢におそれをなしたものか、いつとはなしに、かずがへって、やがて一人残らず、どこかへ、すがたをかくしてしまった。

 こうして、千二は全く、ひとりぼっちになってしまった。

「困ったなあ。火星の上で、まよい子になるなんて、いやなことだなあ」

 地球の上のまよい子ならどうにかなるが、勝手もわからなければ、まるで生まれがちがう火星人国で、まよい子になってしまっては大困りだ。

「先生はどこへいったのかしら。それから博士も見えない」

 千二は途方にくれてしまった。

 これから、どうしようかと考えているところへ、ぱたぱたと足音のようなものを耳にした。

「だれ?」

 千二がうしろをふりかえるのと、火星人の触手のようなものが、彼の腕にくるくるとまきつくのと同時であった。

「あっ」

 千二は、おどろきのあまり立ちすくんだ。

 彼をつかまえたのは、ほかのだれでもない。それは、むぎわら帽子をかぶった丸木だった。

「おい、千二。おれだよ。おれは丸木だ」

「ああ、丸木さんですか」

「久しぶりじゃないか。さっき、お前を見かけたから、ぜひあいたいと思っていた。どうだ、おれと一しょに来ないか。おれはお前のために、この火星国をすっかり案内するよ」

「ええ、案内もしてもらいたいけれど、蟻田博士や新田先生が僕を待っていますから、また、あとにして下さい」

「なにっ。いやだというのか」

 丸木は、千二をとらえて離そうとはしない。

「いやだも何もないよ。ここは火星国だ。おれは、火星兵団長であり、また戦争大臣だ。おとなしくおれの言うことを聞いた方がとくだぞ」

 千二は、はじめちょっとおどろいたけれども、だんだん気がおちついて来た。

「丸木さん。いやだと言っているわけじゃないんです。博士と先生に、ひとこと話をしていきたいと思ったんだが、あなたがそういうのなら、つれていって下さい」

「おおそうか。なかなかよろしい。そう来なくちゃいけないよ。これで、あらたまって言うようでおかしいが、おれは、君が大好きなんだ」

 丸木に好かれるとは、めいわくな話であった。

「丸木さん。僕をどこへつれていってくれるのですか」

「まず、おれの屋敷へいこう」

「あなたの屋敷ですか。何かおもしろいものがありますか」

「おもしろいものならいくらでもある。第一、おれが地球に関するいろいろなものを、どのくらいたくさん、あつめているか、地球博物館というのを見せてやろう」

 千二は、これを聞くと、首をふって、

「ああ、そんなものは、もうたくさんです」

「なぜだ。何がたくさんだ」

「だって、丸木さん。僕は地球の人間だから、地球博物館なんか、ちっともおもしろいことはありませんよ」

「ああ、そうだったな。じゃあ、土星から逃げて来た動物を見せてやろう。そいつはもう数万年も飼ってあるのだ」

「えっ、土星の動物ですって」

 そう言っているとき、どこからあらわれたか数人の火星兵が、丸木のそばへとんで来た。

「ああ、兵団長。わが軍は苦戦ですぞ。すぐクイクイ岬へおいで下さい」



70 地底戦車



 火星兵団長の丸木のところへ、三人の部下が伝令にやって来て、クイクイ岬でわが軍は苦戦をしているというのだった。

 丸木は、目をぐるぐる動かして、おどろきの表情を示し、

「わが軍が苦戦だというが、一体、何者とたたかっているのか」

「さあ、それが、よくわからないんですが、敵の立てている旗を見ると、むらさきの地に、まん中のところに白い四角をくりぬいてあります」

「なに、むらさきの地に、まんなかのところが白い四角形にぬいてある旗? はてな、どこかで、見たような旗だが……」

「なにしろ、クイクイ岬のわが兵営が、いきなり、焼きうちにあったのです。兵営は全滅です。そこへ、いまの旗を立てた軍ぜいが切りこんで来たのです」

「むこうの兵は、どんな、かたちをしていたか」

「それが、みんな胸のところと背とに、いま申した白四角形のむらさき旗をぶらさげているのです」

「はてな。むらさきに白い四角形の旗というと」

 丸木は、じっと考えている。

 千二はそばにいたが、その白四角軍がどこの兵であるか、ちゃんと知っていた。それは、ペペ山にたてこもって兵をあげたロロ公爵とルル公爵の軍ぜいに違いない。

 丸木は、そこまで気がつかないから、首をぐらぐらとふって、

「どうもよくわからん。しかし、わが兵営を焼きうちにするなどとは、ふとどきな奴ばらだ。火星の兵力を、一手ににぎっているおれの力を知らないらしいな。よろしい、おれがいって、そのあやしい敵をみなごろしにしてくれるぞ。さあ、あんないしろ」

 火星兵団長の丸木は、千二の手をしっかりとって、宙を走り出した。

 火星兵団長の丸木のめざすところは、クイクイ岬であった。

 丸木は、まるで軽飛行機のように走って行く。丸木の足や触手が、風に吹かれる凧の尾のように、うしろへなびく。

 千二は、その丸木に手をとられて、おなじく宙を飛んで行くのであった。

「丸木さん。もうすこし、ゆっくり走って下さいよ」

 千二は、いつもおくれがちで、そのために、途中、木にぶつかったり岩石にあたったりして、大事な服やかぶとが、今にもこわれそうで、心配であった。

「ぐずぐず言うな。早く、おれが行ってやらんと、味方が敵にやられてしまうではないか。しんぼうしろ」

 そう言って、丸木は、どんどん走る。

 そのうちに、前面に、海が青白く光っているのが見えだした。そうして、長い岬がつきだしている。クイクイ岬であった。このクイクイ岬は、まるで戦艦の檣楼しょうろうのような形をしていた。つまり、細長い要塞だと思えばいいのだ。しきりに、硝煙のようなものが、あがっている。

「ああ、やっているな。おい千二、あれがクイクイ岬だ」

 千二は息を、はあはあ切らせつつ、クイクイ岬の様子に、ひとみを定めた。

 どがどがどが。

 どがどがどが。

 奇妙な音が、しきりに聞える。

「おお、なるほど。ペペ山に、敵のやつがたてこもっている。ものすごい砲撃戦の真最中だ。ふん、なるほど。敵は、いつあのような大砲を手に入れたか。けしからん話じゃ」

 高いペペ山と、その下に入江をへだてて向きあうクイクイ岬要塞との間に、今や、撃ちつ撃たれつの砲撃戦がくりひろげられている。

 どがどがどが。

 どがどがどが。

 砲弾は白い尾をひいて、上へ下へと飛交う。

 どがどがどが、どがどが。

 ペペ山にたてこもったのは、ロロ公爵軍であった。その前のクイクイ岬要塞を死守しているのは、火星兵団であった。そこへ丸木がとんで来た。

「おい、どうした。みんな元気がないじゃないか。撃て、撃て」

 そこへ、クイクイ岬要塞の司令官があらわれた。司令官は、胸のところへ、湯たんぽを横にしたようなものをぶらさげている。それにはたくさんのボタンがついている。その釦をおせば、どことでも話が出来るし、またどこでも見えるという機械であった。彼の大きな頭には、小さい円錐型の帽子がのっている。それが司令官であることを示す帽子であった。

 司令官は、丸木戦争大臣のところへやって来ると、すべての触手を、孔雀が羽をひろげたように左右にひろげた。それは、兵団長に対する挨拶だった。

「丸木大臣閣下、相手がいけません」

「相手がいけないとは……」

「ペペ山にこもっているのは、火星の前の女王の王子たちです。ロロ公爵とルル公爵です」

「ほう、ロロとルルか。あの死にぞこないめが、もうそんなところに立てこもって、いばりちらしているのか」

「丸木閣下、相手は、なかなかすごいいきおいで、こっちへ攻めかけて来ます。この分では……」

「おれが来たからには、もう大丈夫だ。うむ、ちょうどいい。ペペ山をぐるっととりまいて、ロロとルルをここで完全にやっつけてしまおう。あいつら二人さえいなければ、火星の上は、だれも苦情を言うものがなくて静かなんだ。それから蟻田博士なども、きっと、おとなしくなるだろう」

 そう言っている時にも、彼我ひがの砲弾は盛にとびかい、その爆発音は天地をふるわせ、硝煙はますますこくなって、おたがいの陣地をかくしてしまう。

 丸木戦争大臣は、司令塔にのぼって、明かるい映写幕を見ている。

 彼と我との戦争のもようが、ちょうどその真上から見下したように、うつっている。

「なんだ、こっちも、どしどし撃っているのに、こっちが負けているなんて、へんなことじゃないか。おい、司令官。これは、どうしたわけだ」

「それなんです、丸木閣下。こっちの撃っているのは破壊弾なんですが、ロロ軍が撃って来るのは、奇妙な砲弾なんです」

「奇妙な砲弾とは」

「一種の溶解砲弾です。しゅうと飛んで来て、ぽかんと破裂すると、白っぽい汁をあたりへまき散らすのです。そこからガスみたいのものが、もうもうと出て来ます。こっちの兵が、それにあたると、からだが、とろとろにとけてしまうのです」

「ああ、そうか、なるほどなるほど」

「丸木閣下、かんしんなさっていては困ります」

「いや、その砲弾なら、われわれ火星兵団が地球へ攻めていった時、ふりかけられて弱ったやつだ。うむ。察するところ、ロロとルルの奴、蟻田博士からそのような砲弾のつくり方を教えられ、それをひそかにつくってペペ山にかくしておいたものにちがいない」

 丸木は、そう言って、少しおじけづいたようであった。

「とにかく、わが軍の死者すでに何千という、たいへんな損害です。どうしましょう」

「弱ったなあ。まさか、そのようなものを持っているとは、考えていなかった。よろしい。それでは、こっちは地下をもぐっていく戦車隊をくりだそう。そうしてペペ山を、その真下から根こそぎ爆発させてしまおう。それなら、相手のもっている溶解砲弾はペペ山とともに爆発するから、ペペ山にこもっているはんらん軍は、全滅になるはずだ。ふん、これなら大丈夫うまくいくぞ」

 ペペ山にたてこもる王子ロロ公爵軍を一どきにやっつけてしまおうと、火星兵団長の丸木は、地底戦車隊に出動を命じた。

 そばにいた千二は、これを知ってたいへんだと思った。ペペ山の下が、地底戦車のためくりぬかれ、下から爆破されると、ロロ公爵も一しょに、こなごなになってしまうであろう。

「丸木さん。折角かえって来たロロ公爵を、そんなひどい目にあわせないで下さい」

 と、千二は忠告をこころみた。

「いや、いいんだよ。これが戦争なんだ。第一、おれにそむく奴なんか、一刻も、生かしておけないよ」

「丸木さん、あなたは自分のことばかり考えて、火星国全体のことを考えないから、いけないと思うなあ」

「いや、いずれはおれが火星国を、おさめるようになるのさ。おれが一度号令すると、火星兵団は手足のように、うごくのだ。だから、今の火星王よりは、ほんとうは、おれの方がえらいのさ」

 丸木は、たいへん思いあがっているようである。

「丸木さん、それはよくない考えだよ。きっと、今に自分で自分がわるかったと、さとるときが来るだろう。僕は、ほんとうの力もないのに、からいばりをしたり、むちゃをする者は大きらいだ」

「なにを。千二、なまいきな口をきくと、ただではおかないぞ」

 そう言っているとき、はるかのかなたから、ごうごうと大きな音が近づいて来た。

 丸木兵団長は、その音を聞きつけると、とびあがってよろこんだ。

「ああ、来たぞ。地底戦車隊だ。さあ今にみろ。ロロ公爵も、元の王子も、これで灰になって空へまいあがるだろう。どりゃ、一つゆるゆる見物するかな」

 と丸木は、にやりと笑って、ペペ山の方にむきなおった。



71 硝煙の岡



 千二少年は、ペペ山がこれからどうなるかについて、しんぱいであった。

 しかし、丸木のようすを見ていると、丸木はペペ山の爆破に夢中になっていて、千二のいることをわすれている。

(あ、今だ。にげだすのは……)

 ペペ山のこともしんぱいだが、千二は、早く蟻田博士や新田先生のもとへ、かえりたかった。それで千二は、丸木のすきをうかがって、そこをにげだした。

 にげだしたはいいが、どっちの方へいっていいのか、わけがわからなかった。

「困ったなあ。さっきは、こっちの方からやって来たように思うが……」

 千二は足にまかせてどんどん走った。

 わずかの心おぼえが、彼をうまくみちびいて、どうやら元の海岸が見えだしたときには、おどりあがってよろこんだ。

「ああ、よかった」

 千二はカリン岬を前にして、海岸に立ってあたりを見まわした。

「おや、博士は? 先生は? どこへいったか、まだ見えない」

 浜はがらんとしていた。

 博士のすがたも見えなければ、新田先生もいない。そればかりか、大空艇さえ見えないのであった。

「先生! 博士!」

 千二は大きなこえをだして、いくどもよんでみた。

 だが、千二のこえは、こだまとなって、かえって来るばかり。

 千二はちょっとよわった。

「どうしたらいいだろう」

 そのとき、千二のあたまに思いうかんだことがあった。このカリン岬の下に、秘密の洞窟があることを思い出したのであった。

「ひょっとすると、博士たちは、そこにいるのではなかろうか」

 そう思った千二は、なんとかしてそこへはいってみようと思い、洞窟への入口をさがしはじめた。

 カリン岬の下の洞窟へは、どこから、はいったらいいのであろうか。

 千二少年は、岩山のあたりをあっちこっちとさがしまわった。だが、その入口はなかなか見つからなかった。

「ああ困ったな。どうしたらいいだろうか」

 千二は、だんだん心ぼそくなって来た。

 だが、こんなところでよわい気を出しては、いよいよ死を早めるばかりだと思ったので、彼は胸を叩いて、なにくそと一生けんめいに自ら元気をふるいおこした。なんべんも胸を叩いているうちに、どうやら元気づきもし、気もおちついて来た。そこで彼はもう一度砂浜の方へおりていった。なにか手がかりはないかと、それを見つけるつもりで……。

 すると、彼はついに、うれしい手がかりを発見した。砂浜の上に、大きい矢印が書いてあるのであった。

「千二ヨ、タズネルモノハ、コノサキニアル。ワレワレハ、ナカデマツ」

 たずねるものはこの先にある、われわれは中で待つ──と、砂の上に片仮名で書いてあったのだ。

 たずねるものというのは、洞窟への入口のことであろう。中とは、洞窟の中のことにちがいない。われわれとは、蟻田博士と新田先生のことであろう。

「さっき、二度も三度も、このへんを歩いたんだがな。さっきは、これが見えなかった。やっぱり、あわてていたせいだろう。あわてるのは、そんだなあ」

 千二は、はずかしくなって、ひとりでに顔が赤くなった。

 矢の方向へずんずん歩いていくと、一つの大きな岩山にぶつかった。しかし入口はまだ見えない。千二は、もっと向こうかも知れないと思って、その岩山をよじのぼったが、

「おや、もうこの先は海だ」

 と叫んで、がっかりした。

 海へ出ては、いきすぎだ。

 千二少年は、岩山をまた下りて後もどりした。その途中、岩山のどこかに割目でもありはしまいかと念入にさがしたのであるが、割目などは一向に目にはいらない。そうして、そのうちにとうとうもとの砂原におりてしまった。

「これはおかしい。どうしても、この大きな岩山の、どこかに入口がなければならないのだが……。はて、困ったなあ」

 千二は、しばらく岩山をじっと見上げていたが、そのうちに思い出したことがあった。

「ああ、そうだ。博士から聞いたところでは、このカリン岬の下の洞窟内には五つの扉があって、それを開くには呪文を言えばいいのだ。そうだ、あの呪文をどなって歩いたら、どこかの地の底で、扉があく音が聞えるかもしれない」

 千二は、呪文をとなえるなんて昔話のようで、ばかばかしいことだと思ったが、ともかくそれをやってみることにした。

 あの呪文はどういうのであったかしら。

 千二は、はじめてそれを聞いた時、たいへんむずかしい呪文だと思ったが、博士から、いくどもそれを聞いているうちに、なんだかおもしろい口調なものだから、口の中でくりかえしているうちに、おぼえてしまったのである。

 ロラロラロラ、リリリルロ、ロルロルレ。

 たしか、この通りであった。

 千二は砂浜に立ち、岩に向かって、

「ええと、ロラロラロラ、リリリルロ、ロルロルレ」

 と、叫んだ。

 さあ、岩山の入口が開くかと、千二は目を皿のようにして岩山をながめまわしたが、あてがはずれて、岩山はもとのままであった。

「だめだねえ」

 と千二は言ったが、まだ失望するのは早いと思い、またその岩山をのぼりはじめた。

 千二は、岩山のてっぺんにのぼって、そこでもう一度呪文をとなえてみた。

「ロラロラロラ、リリリルロ、ロルロルレ。さあ、どうだ」

 呪文のききめはあったかどうかと、千二は耳をすました。すると、岩の中から、ごうごうという機械がまわるような音が聞えだしたではないか。

「あ、何かはじまったぞ」

 と、千二は、岩の上に腹ばいとなり、岩の中から聞える音が一体何の音であるか、それをたしかめにかかった。

 ところが物音の正体がわかる前に、別のおどろきがやって来た。それは、千二のからだが、ぐっと横に動きだしたのであった。まるで大きい、じしんのようであった。

「あっ、岩が動きだした」

 岩山のてっぺんが割れて来た。そうして大きな穴があく。階段が見えだした。

「しめた。とうとう呪文がきいて岩が割れたぞ。ここをおりていけば、洞窟へいけるにちがいない」

 千二は、からだを起すと岩穴の中にとびこんだ。中は、思いの外広かった。そうして千二がとびこむと、岩はまた元のようにぴたりと閉じてしまった。そうして、地下から聞えていたごうごうという音が、ぴたりと、とまってしまった。

 千二は、階段を下りていった。

 すると、その下は第二の扉で行きどまりになった。

 千二は、もうおどろかない。さっそく扉に向かって、また例の呪文をとなえた。

 すると、また機械のまわるような音がして、第二の扉はすべるように岩の中へはいった。内部は、どこから光が来るのか昼のように明かるい。そうして机や椅子や機械が見える。そればかりではない。蟻田博士と新田先生が、こっちを向いて立っていたので、千二は夢かとばかり喜んだ。

「おう、千二君じゃないか。どこへ、いっていたんだ。しんぱいしていたよ」

 新田先生が、かけだして来て、千二の手をぐっとにぎった。

「ああ、先生」

 と言ったまま、千二は、そのあとを言うことが出来なかった。火星の上でまよい子になり、これからどうしようかと思いながら、きみのわるい洞窟へはいっていったところ、そこで思いがけなく、新田先生たちに、あえたのであった。こんなうれしいことはなかった。

 博士も、奥から千二の方を見て、にこにことわらっていた。

 千二は、手みじかに彼が丸木にさらわれたことや、その丸木が、いまペペ山を地底から、ばくはつさせるために、じまんの地底戦車隊へ出動命令を出したことなどを話したのであった。

 それを聞いていた新田先生は、いみありげに、蟻田博士の方へ顔を向けた。

 すると博士は、千二のそばへやって来て、その肩へ手をかけながら、

「千二君。お前は、その地底戦車隊が、いよいよペペ山の下を、ほりはじめたところを見たかね」

 と聞いた。千二は首をふって、

「いや、僕は、そこまで見ていなかったのです。丸木が、近づく戦車隊の方に夢中になっているすきをうかがって、僕はにげだしたのです」

 それを聞いて博士は、大きくうなずき、

「ふむ、いい時に、お前は、にげだしたものだ」

「そうですか。なぜです」

「いや、その地底戦車隊は、丸木の号令にしたがわなくなったのだ。そうして丸木たちを、ぐるっととりかこんで、降服せよと言った。もちろん丸木は聞かない。そこで今丸木たちは、あたまの上から砲弾の雨をくらっているところだ」


 火星兵団長の丸木は、おもいがけなく地底戦車隊のためにとりかこまれ、非常にうろたえている。

 彼は、陣地の小高い岡のうえに立ちあがり、いのちがけで地底戦車隊によびかけた。

「地底戦車隊の司令官はどこにいる。なぜ、おれの命令どおりしないのか。ペペ山を攻撃しろというのに、それをしないで、おれのまわりをとりまくとは、一体どういうことだ」

 すると、地底戦車の一つから、高声器をつかって、司令官アグラスのこえがひびいた。

「ああ丸木兵団長──いや、あなたは、もはや兵団長でもなく、戦争大臣でもない。あなたの職はすべて、はぎとられましたぞ」

 丸木は、それをきいて、ますますおどろいた。

「えっ、それはほんとうか。おれの職を、そんなにやすやすと、うばわれてたまるものか。誰がおれの職をはぎとったのだ。そうしてまた、なぜおれを、そのようなひどい目にあわせるのか」

「おだまりなさい。国王の命令です」

「そんなはずはない。国王は、おれと相談のうえでなければ、すべての火星兵団員の任命や免職は、できないことになっているのだ。ましてや、このおれを免職するなんて、そんな不都合なことはないぞ」

 丸木は、顔色をかえてどなる。

 すると、司令官アグラスがいった。

「丸木どののいわれる国王は、前の国王のことです。わが火星国には、ここ十五分ほど前に、新しい国王が位につかれたのですぞ」

「なんだ。国王がかわった? そんなことがあるものか。誰が国王になったのか」

「ロロ公爵です。それからルル公爵が、副王となられました。前の国王は、火星兵団を地球へむけて、大負けに負けてしまったその責任をとって、位をしりぞき、ロロ新王に忠誠をちかわれましたぞ。あなたも、忠誠をちかわれたがいい」

 丸木は、すっかりおどろいてしまった。いつの間にか、ロロ公爵が国王になってしまったのだ。彼は、合点がいかぬ様子で、

「そんなことはうそだ。現にロロ公爵は、ここから見えるあのペペ山にこもって、われわれの攻撃をうけているのだ。王城へいく、ひまなんかはない。だから今われわれがペペ山を攻めたてれば、なんなくロロ公爵をやっつけてしまえるのだ。おいアグラス。うまくいったら、うんと褒美をやるから、お前は、早くその地底戦車隊に号令をかけて、ペペ山を、ばくはせよ」

 と、丸木は、ここぞとばかり、わめきたてるのであった。

 しかし司令官アグラスは、丸木のいいつけに従おうとはしなかった。

「丸木どの。それは、だめです。いまペペ山にいられるのは、ルル公爵の方です。ロロ公爵、いやロロ新王は、ずっと前に王城へ、はいっていられます。私はロロ新王に拝謁したあとで、こっちへやって来たのです。もう、おあきらめなさい。お身のためですぞ」

 司令官は丸木をなだめたが、丸木はいよいよ、叫ぶのであった。

「そんなばかな話はない。ロロであろうがルルであろうが、そんな子供くさい者に、この火星国をにぎられてたまるものか。火星国で一等えらい者が国王になればいいのだ。火星兵団をひきいて地球までいった英雄は、このおれだぞ。おれは、只今、火星王の位につくぞ。他に、国王をなのるものがあれば、それは、にせ国王だ」

「だめです、そんなことは、だめです」

「いや、おれは火星王だ。そうしてこの大宇宙をおさめるのだ。地球なんかこわれてしまえ。わしは金星を攻略し、木星を従え、水星も土星も、わが領土とするぞ。そうしておれは、更に他の太陽系の星をめがけて、突進するのだ」

 丸木は、いよいよ大きなことを言って、いばりちらした。

 丸木は気がへんになったようになって、いくらアグラスがすすめても、新王ロロにしたがうとは言わないのであった。

 アグラスも、もうこれまでだと思った。

「やむを得ん。射撃用意。目標、逆賊丸木……」

 アグラスの命令は、高声器によって、丸木の耳にも、つよくひびいた。

「なんだ、なんだ。おれを撃つというのか。撃てるものなら、撃ってみろ。どうして撃てるものか」

 丸木は、まだ、つよがりを言っている。

 その時、地底戦車隊長のアグラスは、ついにさけんだ。

「撃て!」

 隊長の命令一下、戦車砲は、天地もくずれるような大音をあげて、一せいに砲弾を撃出した。

 砲弾は、丸木が腕ぐみをして立っていた小高い岡に命中し、ぱぱぱぱっと、ものすごいいきおいで炸裂し、もうもうたる硝煙は、たちまちその岡をおおいかくしてしまった。

 丸木のからだは、どうなったであろうか。

 やがて硝煙は、風にふかれて、ペペ山の方へ、うごいていった。

 煙のはれ間から、岡が見えて来た。岡の形は、全くかわっていた。

 岡の上には、何があったか。

 そこには、見るもむざんに掘りかえされた、弾のあとがあるだけであった。もちろん丸木のすがたは、どこにも見えなかったし、彼の大きなむぎわら帽子の焼けこげのきれ一つおちてはいなかった。

 丸木のからだ全体が、消えてなくなったのである。大英雄と自らうぬぼれ、我こそは火星王であるぞと、大きなことを言った彼、丸木も、ついに煙となりはてて、あとには、何のしるしものこさなかったようであった。

 アグラスは、そこで全軍に命じて、どっと、ときのこえをあげさせた。



72 大団円



 丸木が、ついに、あわれな最期をとげたことは、火星国の王城にも、すぐわかった。新王ロロは、そのありさまを、テレビジョンで、すっかり見ていたのだ。

 そこで、ロロ王のつかいが、洞窟へ来た。

 そのつかいの者は言った。

「丸木は、とうとうあわれな最期をとげてしまいました。そうして火星国は、新王ロロのもとに、すっかりおさまりました。どうか、御安心のうえ、これからすぐさま、王城へおいで下さい。新王ロロが、お待ちかねでございます」

 博士は、それを聞いて、たいへんよろこび、

「ああ、それは、おめでたい。それでこそ、わたしたちの骨おりがいが、あったというものです。さあ新田、千二、新王ロロに、おめでとうを言いにいこうではないか」

「はい、おともしましょう。千二君も、いくだろうね」

「ええ、先生、いきますとも。火星国の王城というのは、どんなところだか、早く見たいですね」

 そこで三人は、新王ロロのつかいの者に、あんないをたのんで、そのうしろから、ついていった。

 洞窟の外には、うつくしい色にぬられた小舟のようなロケットが、待っていた。

 三人は、それにのりこんだ。

 するすると音がして、波形の大きなふたがひきだされ、千二たちのあたまの上を、おおった。なんだか、さやえんどうのような形になった。

 ロケットは、たいへんのりごこちがよく、見る見る空中にとびあがり、雪をかぶっている山の上をとびこし、それから、緑のもうせんを、きちんと、ごばん目にしきつめたような緑地帯の上をはしりぬける。すると、その向こうに、こんもりとしげった、たいへん大きな森林が見えて来た。つかいの者は、その森をゆびさし、

「あそこに大きな森が見えますね。あれが王城です。新王ロロは、あそこでお待ちかねです」

 ロケットは、王城の森の入口に、しずかに着陸した。

 そこには、蟻田博士たちを出むかえの、えらい役人や軍人が、ならんでまっていた。彼等は、すきとおった長いころものようなものを着ている。

 千二から見れば、だれもかれも、みな、おなじような顔に見えた。

 首相モンモンが、まえにすすみ出て、博士にあいさつをした。

「蟻田博士でいらっしゃいますね。ロロ王が、おまちかねです。どうぞ、こちらへ……」

 森の中の、ふしぎな景色は、千二をおどろかした。上から見れば地球の森とおなじであるが、こうして、地上から森の中にはいって見ると、地球の森とは全然ちがっている。なんという木か知らぬが、左右から大きな根をはり、それがくみあい、まるで、籠をふせたような形になっている。その正面に、門のような入口があいている。蜜蜂の巣箱の下に、蜂の出入する穴があるが、それによく似ている。

「どうぞ、こっちへ、おはいりください」

 首相モンモンは、先に立って、その門の中へはいっていった。千二も、蟻田博士や新田先生のうしろから、ついていった。

 入口をはいると、はばのひろい大きな階段が地下へつづいている。地底に、りっぱな宮殿があるのであった。きらきらと、うつくしい灯火が、その中でうごいている。

「おおロロ王が、あそこにおられる」

 蟻田博士は、そう言って、うしろにつづく先生と千二に、注意した。

 階段の下には、王冠をかぶり、黄金でこしらえたうすいころもを着た、りっぱな火星人が立っていて、博士の方へ、手をのばした。

「ああ蟻田博士。よくおいでくださいましたね。おかげさまで、ごらんのとおり、火星国は、りっぱにおさまりました。お礼を申しますよ」

「おお、ロロ王。ごりっぱです」

 博士は、ロロ王の手をしっかりとにぎった。

 森の王城では、この夜、新王ロロと副王ルルとが、蟻田博士たちに、お礼をする意味で、たいへんな大宴会を開くことになった。

 そのときは、もう太陽が沈んで、夜になっていた。あと一時間もたてば、大宴会場は開かれることになっていた。

 千二も、王城内の火星人たちから、ちやほやされるので、わるい気もちはしなかった。はじめは火星人がきみがわるくてしかたがなかったが、王城内の火星人は、なかなか礼儀もこころえており、また新王や副王からの言いつけもあって、千二たちに対し、たいへん、ていねいにしていた。

 千二は、このとき、ふと、たいへんなことを思い出したのであった。彼は、新田先生のそばへよると、小さいこえで、

「あのう、先生。もう時刻は、すぎたのではないでしょうか」

「なんだね、時刻がすぎたとは」

「先生、わすれているのですか。モロー彗星が地球に衝突する時刻は、もうすぎたのでしょう。地球は、どうなったでしょうか。こなごなになって、それから……」

 千二は、そのあとが言えなかった。そうして悲しくなって、思わず先生の胸に、あたまをうずめてしまった。

「そうだねえ、地球は……」

 先生も、そのあとが、言えなかった。

 すると、蟻田博士が、この有様を見て、二人のそばへ、よって来た。

「お前たちは、なにをめそめそやっているのかね。ロロ新王に、おめでとうを言う日が来ているのに、泣いたりして……」

 先生は博士に言った。

「千二君も私も、地球のことを思い出して、悲しくなったのです。今ごろは、地球はモロー彗星のために、粉々になって、宇宙に飛んでしまったろうというので……」

 すると博士は、はたと手をうち、

「おお、そのことか。わしは、君たちに、言うのを忘れていたよ」

 地球は、一体どうなったか。

「博士は、私たちに、なにを言われるつもりだったのですか。なにを言うのを、わすれていられたのですか」

 新田先生と千二とは、蟻田博士に、息をはずませてたずねた。

「ああ、そのことだ。よし、わしが言うよりも、ロロ新王にねがって、王城の天文台へのぼらせてもらって、地球がどうなったか、それを見せてあげよう」

 博士は、心得顔で、すぐさま、ロロ新王に、そのことを言った。ロロ新王はもちろん、それを承知した。

「じゃあ、天文台へ、のぼらせていただこう。まあ、それまでは、だまって、ついて来たまえ」

 博士は、なかなか地球の最期について、二人に話をしてくれない。

 千二たちが、博士について、天文台の方へいくために、王城の広間を横ぎって、歩いていこうとしたとき、博士の前に、とつぜんとび出して来たものがあった。

「蟻田博士の大うそつき」

 大きなこえで、その怪漢は、どなった。

 見ると、それは、めずらしや、佐々刑事であった。彼は、とつぜん王城の中へ、走りこんだものと見える。それはいいが、防寒服も着ていなければ、酸素かぶとも着ていないのだった。むちゃな話である。

「おお、佐々刑事だ」

「ほう、これが佐々刑事か」

「蟻田博士、あなたは地球が……」

 と、再び佐々刑事が、ことばをつごうとした時、彼はにわかに、まっ青になって、よろよろと、よろめいた。そうして先生と千二が、かけよるよりも先に、王城の床の上に、どうと、たおれてしまった。

 蟻田博士は、すぐに床にひざをつき、佐々刑事の手をにぎった。その時、火星人の医師がかけつけ、博士にかわって、すぐ手当をすると言った。

 博士は、あとのことを頼んで、先生と千二の方へ目配めくばせをした。

 千二は、博士が目くばせをするので、たおれた佐々刑事のこともしんぱいだったが、博士のあとにしたがって、天文台の方へ階段をのぼっていった。

 そのとき、千二は、そばの新田先生に、

「どうしたのでしょうね、あの佐々刑事は……」

 すると先生が言った。

「佐々刑事は、火星のボートを分捕ったと放送していたが、今まで、そのボートの中にがんばっていたのだろうね。そうして蟻田博士が来たという話を聞いたので、ボートの扉をひらいて、とびだして来たわけだろう。ずいぶん、がんばりやさんだなあ」

「なるほど。元気がいい人ですね」

「いずれ、あとで、おもしろい話を、たくさん、聞かせてくれるだろう」

 階段をのぼりつめると、りっぱな円形の広間へ出た。すばらしい高い天井、うつくしいかべ、そうして、見事な望遠鏡が、天蓋てんがいの間から、夜の大空へ向いている。

「千二、新田、望遠鏡で見なくても、肉眼でよく見えるから、外廊下へ出よう」

 博士は、扉をあけて、外廊下に出た。

 火星には、今、夜の幕が下りているのであった。この天文台は、森のうえから、わずかばかり、首をのぞかせているのだった。だから、この外廊下からは、森の高い梢越しに、荒涼たる火星の夜景が見える。

「ほら、あれを見なさい」

 博士が、そう言って、天空にきらきらと輝く星をゆびさした。

「ええあれは、何という星ですか」

「あれは地球じゃ」

「えっ、地球ですか。地球は、モロー彗星に衝突されて、まだ、あそこに、かけらでもが、のこっているのですか」

 千二は、ふしぎそうに聞いた。

「いや、あれは地球のかけらではない。かけらどころか、地球は、ちゃんとしているのだ」

「えっ、地球は、ちゃんとしているのですか。モロー彗星は、地球に衝突しなかったのですか」

 千二は、とどろく胸をおさえて聞いた。

 四月四日の十三時十三分十三秒に、モロー彗星は地球に衝突するはずだった。ところが、今は、その時刻をすぎているのに、地球はあいかわらず、きらきらと天空に輝いているのであった。

 なんという意外な出来事であろう!

「ああ、ゆめを見ているのじゃないかなあ」

 新田先生は、うめくように言った。

 千二も、地球はかならずこわれるものと思っていたので、こうして地球が、ちゃんとしているのを見ると、ゆめのような気がしてならなかった。そのとき、蟻田博士が、しんみりとしたこえで言った。

「非常な幸運であったといえる。モロー彗星は、当然地球に正面衝突するはずだったのだ。ところが、思いがけないことがおこった。それは、モロー彗星が地球に衝突する前に、月がモロー彗星の方へ近づき、両方で引張りっこをはじめたのだ。だから、モロー彗星は、地球のそばまで来て、もうすこしでぶつかるというところで、月のために軌道が曲ってしまったんだ。だから、地球は、あやういところで、モロー彗星に衝突されないですんだのだ。どうだ、わかったかね」

「なるほど、なるほど。そんなうまいことがあったのですか」

「ははあ、それはおどろいたなあ」

 月が、地球をまもったといえるではないか。

「じゃあ、博士。地球に住んでいる人には、異状がなかったでしょうね」

「さあ、それは、どうかなあ。多分月の軌道もちがったことだろうし、モロー彗星とすれちがうときに、颱風たいふうの何十倍かも大きいような大風雨なども起ったり、地球磁気の影響で、思いがけないことがあったり、また、そのようなことが、相当地球の人類をおどろかしたことだろうが、とにかく、外から見たところでは、あのように地球は、あいかわらずきらきらと光っているのだから、そう、しんぱいしなくてもいいと思う」

 月が、地球をモロー彗星からすくったとは、なんという、うつくしいことであろう。まるで戦場で、愛馬が主人の兵士を、敵弾からすくったようなものではないか。

 蟻田博士を中に、千二と新田先生とは、きらきら輝く地球の方をじっと見つめたまま、うごこうともしなかった。

 そのとき、千二が、

「博士は、地球があやうい目からすくわれたことを、前から知っていられたんですね」

 と、すこし、うらめしそうにたずねた。すると、蟻田博士は首をふって、

「いや、地球が大丈夫だと、はっきり知ったのは、たった今地球のすがたを、夜の大空に仰いで、はじめて知って安心したんだ」

「でも、さっき博士は、前からそれを知っていられるような口ぶりでしたよ」

「ああ、あれかね。あれは、こういうわけだ。もし、地球とモロー彗星とが、宇宙で衝突すれば、火星のうえにいるわれわれにも、なにか大きな振動を感じるはずだし、また大きな光が宇宙にひろがるから、火星のうえでも、大さわぎがはじまるわけだ。だが、衝突の時刻をすぎても、すこしもそんなことがなく、たいへんしずかだったので、わしは、かねて月がすこし異状をおこしかけていたことを思いあわせ、ははあ、これは、地球がうまく、あやうい目をのがれたんだなと、さとったんだよ。それだけのことじゃ」

 蟻田博士の予想は、ほとんどあたっていたが、月の影響がはいって来るところが、すこし予想がはずれたのである。しかし、地球があやうい目をのがれたことは、神のおまもりと、いうほかはあるまい。

「……地球は衝突からすくわれた。しかしこれからは、火星人と競争することになるから、われわれ地球の人類は、これまでよりも、勉強をしなければ、大宇宙の指導者の地位を、火星人にとられてしまうよ。勉強だ、大勉強だ」

 蟻田博士は、拳をふりながら言った。千二も先生も、つよくうなずいた。

底本:「海野十三全集 第8巻 火星兵団」三一書房

   1989(平成元)年1231日第1版第1刷発行

初出:「大毎小学生新聞」大阪毎日新聞社

   1939(昭和14)年924日~1940(昭和15)年1231

   「東日小学生新聞」東京日日新聞社

   1939(昭和14)年924日~1940(昭和15)年1230

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:tatsuki

校正:kazuishi

2007年14日作成

2012年1015日修正

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