四次元漂流
海野十三
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この「四次元漂流」という妙な題名が、読者諸君を今なやましているだろうことは、作者もよく知っている。
だが作者は、この妙な題名について、今何よりも先に、それを説明することはしない。だから読者諸君は、ここしばらくの間、この妙な題名についてなやまされるであろう。読者諸君が、さようになやんでいるのを、作者は意地わるい微笑をうかべて、悪魔じみた楽しさを只一人味わいたいつもりではない。いや、それとは反対に、読者諸君の興味を最も大きくしたいために、今はわざと何も説明しないのだ。
この小説が先へ進むに従って、「四次元漂流」という題名の謎は、おいおいと明らかになってくるであろう。そしてその時こそ、諸君はこれまでに聞いたことのない不思議な世界にふみ入っている御自分を発見することであろう。大きなおどろきと、すばらしい魅力とが、科学真理の車体に諸君を乗せ科学推理の車輪をつけて、まっしぐらに神秘の世界へ向って走っているのに気づかれるであろう。それはともかく、この神秘な物語も、その発端は一見平凡な木見雪子学士の行方不明事件から始まる。
中学二年生の三田道夫は、その日の午後、学校から帰ってきたが、自分の家の近所までくると、何かただならぬ空気のただよっているのに気がついた。
緑あざやかな葉桜の並木、白い小石を敷きつめた鋪道、両側にうちつづいた思い思いの塀、いつもは人影とてほとんど見られない静かな住宅区の通りであったが、今日ばかりはそうでなかった。顔なじみの近所のお手伝いさんが、ほとんど総出の形で、どの家かの勝手口の門の前に三四人ずつかたまって、何かひそひそ話をしながら、通りへ眼をくばっていた。中には、娘さんや奥様の姿もあった。そうかと思うと、この町では全く見なれない人物が、塀の蔭や横丁の曲り角に立っていた。洋服男もあり、和服の人もあり、いずれも鋭い眼付をして、道夫の方をじろじろと見るのだった。
あまりきれいでない自動車が二台、道夫の家の前に停っていた。いや、道夫の家の前ではない。お隣の木見さんの家の前らしい。そのそばに、警官の姿を発見したとき、道夫ははっきりと何か事があるなとさとった。
「あ、何かかわった出来事が起ったんだな」
それは一体どんな出来事であろうか。誰かが伝染病にでもかかったのであろうか。それとも火事でもだしたのであろうか。いや、火事ではなさそうだ。消防署の自動車の姿もなければ、道も水にぬれていない。
「ひょっとしたら、強盗事件かな。まさか……」
もし強盗が木見さんの家をおそったものなら、夜中に叫び声が聞えそうなものだ。それとも強盗が明け方までがんばったのだろうか。それなら道夫が今朝学校にでかける頃には、もうたいへんなさわぎになって近所へ知れていなければならない。ところが、そんなこともなかった。では、どうしたのであろうか。道夫は自分の家の勝手口へ通ずる小門までくると、それを開いて入った。そのとき、お隣の前に停っている二台の自動車の一方に、警視庁の文字があり、他の車には警察署の文字があるのを見た。
道夫は、植込の間をぬけて内玄関へ急いだが、往来にはどの家でも誰か顔をだしているのに、道夫の家だけは誰もでていないことに気がつき、何だか異変は自分の家にもありそうな気がして、胸がわくわくしてきた。
「只今。お母さん……」
格子戸を明けるが早いか、道夫は悲鳴に近い声で、母を呼んだ。
「あ、道夫かい。おかえりなさい」
母の声がすぐ聞えた。それは別に取乱した声ではなかった。それで道夫は、ふうっと大きな溜息をついて、(まあよかった)と思った。事件は我家に起ったのではないらしい。
道夫は靴をぬぐのももどかしく、中にむかって声をかけた。
「お母さん。どうしたの、お隣の木見さんの前に、警視庁なんかの自動車がとまっていますよ」
「ああ、そうかい。さっき自動車の音がしたと思ったが、そうだったのね」
「どうしたのよ、お母さん。木見さんのお家では……」
道夫は、鞄を肩からとって、手にさげたまま、茶の間からでてきた母親にむかいあった。
「それがね、よく分らないけれど、木見さんの雪子さんが、どこへいかれたか、行方不明なんですってよ」
「へえ、雪子姉さんが……」
道夫は大きく目を見はった。道夫の勉強のめんどうをよく見てくれる雪子姉さん、弟のように道夫をかわいがってくれる雪子姉さん、背の高い色の白い上品なすがたの雪子姉さん。──婦人ながら医学士と理学士であり、自分の家にかなりりっぱな研究室をもっている木見雪子嬢、年齢は二十五歳だがそれより二つぐらいふけてみえる木見学士、高い鼻の上に八角形の縁なし眼鏡をかけている美しい若い研究者──その木見雪子が突然行方不明になったというのである。道夫の驚きは大きかった。彼が心の中でひそかに予想したうちでの最も大きい不幸な事件であったではないか。
「雪子姉さんは、いつから行方不明になったの。いつお家をでていったの」
道夫は、母親を茶の間へ追っていきながらたずねた。
「さあ、それがね道夫さん、どうも変てこなのよ」
「変てこって」
「つまり、雪子さんはお家からでていったように思われないんですって、お家には、雪子さんの靴を始め履物全部がちゃんとしているの。だのに、家中どこを探しても雪子さんの姿が見えないの。変てこでしょう」
母親は道夫のために小箪笥からおやつの果物をとりだして、紫檀の四角いテーブルのうえへならべながらいった。
「じゃあ、雪子姉さんは、はだしで家をでたんでしょう」
「ところが、そうとも思われないのよ。なぜってね、雪子さんは昨夜おそくまで自分の研究室で仕事をしていらしたの。そして研究室には内側からちゃんと鍵がかかっていたんですって、今朝木見さんのお父さんが雪子さんの部屋をおしらべになったときにはね。だから雪子さんは、研究室の中に必ずいなさらなければならないはずなのに、実際は、扉をうち破って調べてみても、雪子さんの姿がないのですってよ」
「へえ、それはふしぎだなあ」
内側から鍵をかけた密室の中から、雪子姉さんの姿が完全に消えてしまうなんて、そんなことがあっていいであろうか。
「ああ分った。窓からでていったんでしょう」
「いいえ、窓も皆、内側から錠が下りていたのよ」
「じゃあ、研究室の外から鍵をかけて、でていったんじゃないかしら」
「ところがね、研究室の扉の鍵は、内側からさしこんだまんまになっているんだから、外から別の鍵をつかうわけにはいかないんですって」
「ふうん。それじゃ雪子さんは、煙になって煙突からでていったとしか思われませんね」
道夫は、ついにわけがわからなくなって、そんな無茶なことをいってみるしかなかった。
「さあ、煙突のことは、まだ聞かなかったけれどね、まさかあの煙突からはね……」
茶の間から植込と塀越しに、お隣の古風な煉瓦造りの赤いがっちりした煙突が見える。しかしあの煙突から雪子姉さんがでられるとは思われなかった。冬、石炭をもやすと煙が二条になってでてくるところから考えて、あの煙突の上は、あまり太くない土管が二つ平行に煙の道をあけているのに違いない。そうだとすれば、その土管は鼠か猫ならばともかく、人間が通り抜けることはできないであろうに。考えれば考えるほど、ふしぎな雪子学士の行方不明だった。
道夫にとっては、雪子学士が行方不明になったことは、この上もなく悲しく心配であった。
どうかして雪子姉さんが早く帰ってきてくれればいい。もしすぐ帰れないのだとしても、どうか生命は無事で生きていてくれるといいといのらずにはいられなかった。
だがよく考えてみると、雪子姉さんの運命については、よくないことばかりしか耳にしない。
あの日、警視庁などの人がきて、木見さんの屋敷を全部のこるくまなく調べていったそうであるが、その結果として、雪子姉さんの両親へ、係官が話していってくれたところによると、この事件は、よほどの難事件であるということである。もちろん今のところ、この事件の解決について何の手がかりも見つからないのだそうである。
係官の説に三つあった。
一つは、雪子学士が非常にたくみな方法によって、この家からでていったとするものである。たとえば、何かのからくりを使って、部屋の外側より、部屋の内側の扉にさしこんである鍵をまわして扉に錠を下ろし、それからそのからくりを手もとへ取りもどして、家出をしたというようなやり方である。或いは、窓に工夫があるのかも知れない。または本棚のうしろや、機械台の下に、ぽっかりあく秘密の出入口があるのかもしれないともいわれた。
第二は、偶然、その扉の錠が下りたのだという説である。
第三は、雪子学士は家出をしたのではなく、その研究室又は邸内のどこかにいるのではないかというのである。それは、雪子学士が自分の考えによって、わざとかくれているのかもしれないし、或いは、そういう秘密の小屋か地下室かがあり、その中へ用事のため雪子が入ったところ、戸がしまってでてこられなくなったのではないかともいう。
しかしこの三つの説は、今のところ、どれも皆、本当のように思われなかった。
というのは、第一の、部屋の外側より部屋の内側の扉にさしこんである鍵をまわして錠を下ろすという方法は、この研究室ではできないことだった。外国で、それに成功した話はないでもないが、それは糸を使ってやる方法で、扉と床または鴨居の間に、まっすぐに通した隙間がなければできないことだった。雪子学士の研究室の場合は、その隙間がなかったのだ。すなわち扉は外側から額縁みたいな壁体によってぴしゃりと接し、扉の上下左右にはまっすぐな隙間ができないから駄目であると分った。
また相当厳重な家探しをした結果、秘密の部屋は発見されなかった。
第二の、偶然に錠が下りたと考えるのは、あまりに実際に遠い。そんなことは千に一つも万に一つもあろうはずがない。係官が錠を調べたところ、その錠は完全なもので、決して偶然に錠が下りるような、そんながたがたのものではないと分った。
では第三の説はどうだろう。これも前に述べたように、隠れ部屋も見つからないし、また内側の錠を外からかけることも困難なので、そういう状況の下では雪子学士が、研究室または他の部屋にかくれているとは思えない。
こんなわけで、係官の間にでた三つの説は、どれもあたらないということが一応たしかめられた。煙突からぬけでることは、もちろん駄目であった。煙のでる土管は、内径が二十糎くらいしかなかったのだ。
ただ次のような説が、係官の間に、なんとなくただよっていた。それは雪子学士は誰かの助けを借りて、うまく家をでたのではないか。そして雪子を助けた者として、雪子の両親にまず有力な疑いをかけたい気持があった。しかしそれにしても、密室と思われる中から一体どうして雪子学士は姿を消したか。それはやっぱりできないことではないか。
しかも係官がそれとなくたずねたところでは、この木見家の中に、娘の雪子学士を秘密に家出させなければならないわけはなさそうであった。近所で聞いてみても、木見家では一回も親子喧嘩らしいものが起った話はない。そして親子三人、いずれもしとやかないい人達であるという評判であったから、係官の方でもやっぱりこれは思いちがいかなと考える方が有力となった。
こんなわけで、木見雪子学士の行方不明の謎はとけず、事件はついに迷宮入りの形となった。
係官は、あれほど毎日つづけていた雪子の研究室の捜査をやめてしまった。
そのかわり、雪子の友達や知合いなどの調べを始めるほか、この附近一帯に、何か怪しい出来事があったとか、或いは怪しい人物がうろついていなかったか、というような外部の探偵に移ったのであった。
道夫は、あれ以来、くやしさに煮えかえるような胸をいだいていた。
本当の姉のように思うあの雪子姉さんが、もう一週間も姿を消してしまい、たしかに大事件であるにもかかわらず、係官の捜査が少しも成績をあげず、そればかりかこの頃では、係官たちは雪子姉さんの失踪事件にすっかり熱を失ってしまったように見える。まことにくやしいことだ。
(何とかして、この事件の真相を探しあてたいものだ。そして雪子姉さんを無事にとりかえしたいものだ)
道夫は、いつもそう思っていた。それには一体どうしたらいいのであろう。中学の二年生にできることといったら、大したことではない、おそらく刑事の半人前の仕事もできないであろう。しかし熱心に一生けんめいにやるなら、熱心でない大人よりはいい結果をあげるかもしれないと思った。そこで道夫は、事件についてのいろいろなことをノートに書きつけ、図面も描き、それを見て大人たちの見落し考え落している事件の鍵を発見しようと、小さい頭をひねり始めたのである。
この小探偵の事件研究は、あまりはかどらなかったが、あの事件があってちょうど二週間後の頃から、この事件について新しい一つの話が、この界隈の人の口にのぼるようになった。それは、事件の少し前まで、毎日のようにこの近所をうろついていた老人の浮浪者が、どういうものかあの頃以来さっぱり姿を見せないといううわさだった。
その老浮浪者は、実に風がわりな浮浪者だった。眼が悪いらしく、いつもこい大きな黒眼鏡をかけていた。そんなことよりも風がわりだというわけは、この老浮浪者は、別に貧乏でもないらしいのに、各家庭の裏口へ入りこんで、食をねだることだった。貧乏でもないらしいというわけは、この老浮浪者は、頭には色こそきたなく形こそくずれているが灰色の大きな中折帽子をかぶって、そのつばを下げ、額から耳のあたりから頸のうしろまですっぽりかぶっていた。服は、長いだぶだぶのレーンコートを着ていたが、質はよいと見え、破れている箇所は一つもなかった。そしてコートの奥にはカーキ色の服ともシャツともつかぬものを着ているらしく、はでな赤いネクタイをむすんでいた。靴も、大きなゴム長をはいていて、雨であろうと天気であろうとぬがなかった。彼はポケットから、大きな懐中時計をだしてみることもあり、また時には店へ入りこんで、大きな皮手袋をはめた手の上に十円紙幣などを乗せて塩を買ったり酢を買ったりする。そういうところは、けっして浮浪者ではないように見えた。
「そういえば、あの年寄りの浮浪者は、いつだか、木見さんのお邸のまわりをうろついていたわね」
塀のかげで、三人のお手伝いがこの話をしている。
「そうよ。裏手へまわって、あの空地のあたりから、雪子さんの研究室の方を、のびあがって見ていたわ」
「怪しい浮浪者だわね。そうそうあの人はよくあの裏手の空地にある大きな銀杏の樹の上にのぼって昼寝していることがあったわよ。あたし、それを見て、きゃっといって飛んで帰ったことがあるわ」
「いよいよ怪しいわね。あの浮浪者、どこへいってしまったんでしょうか。雪子さんの事件以来、二度と姿を見かけないわね」
「どこへいってしまったんでしょう。まさか雪子さんをつれて逃げたんじゃないでしょうね」
「まさか、あんな年寄りに」
「でも、分らないわよ。変に気味のわるい人なんですものね」
「ひょっとしたら、あの浮浪者、そのへんにかくれているんじゃない」
「いやあ、そ、そんなことをいっておどかしては……」
こんなふうな会話が、附近一帯でさかんにとりかわされた。誰の考えも、あの気味のわるい高等浮浪者(と町の或る人はうまい名をつけた)が少くとも雪子がきえた頃以来、姿を見せないことに不審の根拠を置いていた。
道夫少年も、この噂は耳にしていた。ひょっとしたら、自分に疑いがかかることを恐れるか何かしてそしてその浮浪者が、昼間だけは姿をかくしているのではないか、そして夜中には近所をうろついているのではないかと思った。それで或る夜、道夫は時計が十二時をうつと、そっと雨戸をあけて外へでた。家のまわりを見まわるためだった。
しかし道夫は、家のまわりにかわったことがないことをたしかめた。もちろんあの老浮浪者の姿もなかった。明るい探険電灯で、高い銀杏の梢をてらしてもみたが、老浮浪者の姿はなく、あるのは雁のような形をした葉ばかりだった。
「大したことはなかった。じゃあ、もう家へもどろう」
と、彼は探険電灯の灯を消し、一ぺん表通りへでるため木見家の裏手を通りかかった。
そのとき道夫は、何気なく、木立越しに、雪子姉さんの研究室の方を見た。
と、その研究室の中に、ぼんやりしたうすあかい灯がついているように思った。
「誰だろう、今頃、あの部屋の中を調べているのは……」
刑事たちではなかろう。では誰か家の人だろうか。雪子姉さんのお父さんかお母さんに違いない。
そうは思ったが、道夫は何だかその灯のことが気になって仕方がなかった。それで彼は思い切って、くぐり戸を開くと、お隣の庭へすべりこんだ。そして研究室の方へ近づいていった。
研究室の窓は高かったので、中を全部見ることはできなかったが、庭石の上に乗ってやっとガラス窓から部屋の一部を見ることができた。その刹那、
「あっ、あれは……」
と、道夫はその場に立ちすくんだ。彼は何を見たか。暗い部屋の中に、宙にうかんでいる女の首を見たのであった。
道夫は、おどろきのあまり、その場に化石のようになってしまった。
しかし道夫の眼だけは生きていた。彼の眼は、おそろしいものの影をおっていた。闇の研究室の中に、そのおそろしい女の首だけが見えている。宙にうかんでいる女の首。ぼんやりと赤い光に照らされているようなその首だけが見えるのだ。
(なぜ、あんなところに、女の首が宙にうかんでいるのだろう?)
道夫は、そのわけを早く知りたかった。が、そのわけはさっぱりわからない。
(おや、あの首は、雪子姉さんに似ている……)
道夫は、ふとそのことに気がついた。
(雪子姉さんが、家にもどってきたのだろうか)
それなら、こんな喜びはない。──雪子姉さんが戻ってきて研究室へ入ったのだ。室内の灯が、雪子姉さんの首だけを照らしているのだ。だから、姉さんの首だけが見えるのだ。
「ああ、何という僕はあわて者だったろう」
道夫は、おかしいやらはずかしいやら、そしてまたうれしいやらで庭石の上から芝生へ下りようとした。
だが、そのとき彼はふたたび全身を硬直させなければならなかった。
「あっ、あの顔!」
雪子姉さんの顔が、どういうわけか、急に馬の面のように長くなった、そうすると、もう雪子姉さんの顔だといっていられなくなった。それは妖怪変化の類である。
が、おどろきはそれでとまらなかった。その怪しい顔はにわかに表情をかえた。眼が、筆箱のように上下にのびた。口を開いた。それがまるで短冊のようだ。顔がずんずんのびて、やがてスキーほどに上下へ引きのばされたかと思うと、突然ふっと、かき消すようにその長い顔は消えた。後に残るは、暗黒だけだった。
道夫は、しきりに手の甲で、自分の眼をこすっては、研究室内を見直した。だが、もう宙に浮ぶ女の首は見られなかった。五分たち十分たちしたが、怪しい首は遂に再び現われなかった。
「ああ、今見たのは夢だったかしら……」
道夫は、われに返って、そう呟いた。
いや、夢ではない。自分は、足場のわるい庭石の上で、身体を動かさないようにする為、けんめいに努力していたことも現実であるし、近くの空を夜間飛行の一機が飛びすぎる音を耳にしたのもまた現実だった。
だが、今のが現実だとしたら、いったいあれを何とといたらいいだろうか。この世ながらの幽霊の首を見たといったらいいであろうか。それとも妖怪変化が研究室の中に現われたといった方がいいか。とにかくどっちにしたところで、自分の話を本当にとってくれる人は先ずいないだろう──と、道夫はもう今から当惑した。
三十分待ったが、ついに何の怪しいことも起らないので、道夫は木見家の庭をぬけだし、くるっと廻り道をして、やがて自分の家へもどった。そして戸にかけ金をかけて寝床へ入った。
もちろん目が冴えて、睡れなかった。解き難い謎が、巴まんじになって道夫の頭の中を回転する。
(あの怪しい女の首と、雪子姉さんの行方不明との間には、いったいどんな関係があるのだろう?)
何か関係があるような気がしてならぬ。しかしそれはどんな関係か、道夫には見当もつかない。
(あの怪しい女の首は、はたして雪子姉さんの顔だったろうか)
そうであるようにも思うが、はっきりそうだとはいい切れない。雪子姉さんの研究室で見たのだから雪子姉さんに見えたのかもしれないし、また雪子姉さんのことばかり考えていたので、そう思ったのかもしれない。
(どうして、あの首が俄かに上下に馬の顔のように伸びたんでしょう)
わからない、全くわからない。
考えつかれて、道夫はとろとろと少しねむった。と、やがて悪夢におそわれた。地獄の中で大捕物があって、結局自分がおそろしい鬼や化け物に追いまわされている夢だった。うなされているところを、誰かに起された。
起したのは、道夫の母だった。もう朝になったと見え、ガラス戸に陽がさしていた。
道夫は、昨夜のことを母に話さなかった。それは、そんなことを話して母が気味わるがるにちがいないと思ったからだ。
朝飯がすんで、道夫は学校へいくために家をでたが、すぐ駅の方へはいかず、お隣へよった。昨夜の怪事を、木見家の人々が知っているかどうか、それを知りたかったので。雪子の母親は、いつに変らぬ調子で現われて、道夫がいつもなぐさめにきてくれることを感謝した。
(ふうん、すると小母さんは昨夜の怪しい首のことを、まだ知らないのだな)
と道夫はそう思った。知らなければ、今いわないでもよいであろう。
が、一つ聞きたいことがあった。
「小母さん。昨夜、研究室の入口の扉は、しめてありましたか」
雪子の母親は、なぜそんなことを聞くのかといぶかりながら、答えてくれた。
「あの入口の扉は、いつもちゃんとしめてありますの。なんだか気味がわるくてね」
「はあ、そうですか。そして、鍵はどうでしょう。昨夜研究室の扉の鍵はかけてありましたか。どうなんですか」
「鍵? ええ鍵はちゃんとかけてありましたよ。まあ、なぜそんなことをお聞きなさるの」
「ええ、それは……それはちょっと考えてみたいことがあったからです」
道夫は、そこで話を切って、外へでた。
不思議だ、不思議だ。研究室の扉に錠が下りていたのなら、外からあの部屋へは誰も入れないはずだ。すると昨夜見たあの女は、いったいどこからあの部屋へ入りこんだのであろうか。いよいよわけがわからなくなった。
「おい三田君。君は何か心配事でもあるの。近頃みょうにふさぎこんでいるじゃないか」
学校でのお昼休みの時間、運動場のすみの木柵によりかかって、ぼんやり考えこんでいる、道夫の肩を、そういってたたいた者があった。
「あ、川北先生……」
主任の川北先生が、眼鏡の奥から小さい眼をぱちぱちさせて、道夫の方へ深い同情の色を示しておられた。川北先生は文理科大学を卒業したばかりの若い先生で、数学と物理を担任しておられる。そして文学の素養も深くその方の話も熱情をこめて生徒たちにして下さるので、生徒たちは先生が大好きであった。
「はい、先生。僕の力ではとけない問題があって困っているんです」
道夫は、川北先生に話をする決心をして、こういいだした。
「君の力では解けない問題だって、代数かね、それとも力学の問題かね」
「いえ、そうじゃないんです。行方不明事件とお化け問題なんです」
「えっ、何だって。行方不明事件にお化けだって」
「そうなんです。先生も新聞でごらんになってご存じかと思いますが……」
と、道夫はそれから、お隣の木見雪子学士の行方不明事件と、昨夜雪子の研究室をのぞいて怪しい女の首を見た話をくわしくした。
「……お化けを見たなんていうと、先生はお笑いになるでしょうが、ほんとうに僕は昨夜この眼で見たのですよ」
道夫は、気がさすか、妖怪事件については特にそういって弁明しないではおられなかった。
「いや、私はお化けの話を聞いても軽蔑しないよ。お化けというからおかしく聞えるが、それを超自然現象といえば一向おかしくないし、大いに研究する価値のある問題だからね。何しろ現代の人類は自然科学についても、まだほんのちょっぴりの知識しか持っていないんだ。だからわれわれがまだ知らない自然現象はたくさんあるはずだ。お化けとか幽霊とかいうものも、いちがいに荒唐無稽といって片づけられないのだと思う。イギリスの有名な科学者オリバー・ロッジ卿も、そういう超自然現象殊に霊魂の問題について深く考えていたし、また名探偵シャーロック・ホームズの物語で有名な探偵小説家コーナン・ドイル氏も、晩年を心霊学研究に捧げ、たくさんの興味ある報告をしている。そういうわけで、妖怪現象もここで科学的に検討をしてみる必要があるんだ。もっとも世間には、トリックを使った詐術師もかなり多いことだから、これに対しては十分警戒すべきだがね」
若き川北先生は、川北先生たるところを発揮して、道夫のために、科学から見た妖怪論をひとくさりこころみた上で、
「しかし、それはそれとして、その木見さんのお嬢さんの行方不明事件は気の毒だね。係官は相当の捜査をした上で、どうも分らないと事件をなげだしたわけだろうが、まあ私の感じでは、この事件はかなりの難事件だと思うね。よほどの名探偵が登場して、徹底的に事件を調べないかぎり、事件の謎はとけないだろうという気がする」
そういって先生は、深い溜息をついた。
「そうですか。そういう名探偵がいるでしょうか。うまくたのめましょうか。そして雪子姉さん──いや木見学士をうまく取りもどして下さるでしょうか」
「さあ、そのことだがね。……心当りの人がひとりないでもないのだが、あいにく不在なんだ。よく旅行にでかける人でね」
「じゃあ今お頼みできないわけですね。困ったなあ」
「まあ三田君。そう悲観しないでもいいよ」
先生はなぐさめ顔にいった。
「ですが先生、僕のような力のない者がひとりで事件の解決に当って見ても、とても駄目だと分ったんですからね」
「ああ、それはそうだが……」
川北先生はすこしためらって見えたが、やがて道夫の肩に手をおいて、
「よし、三田君、じゃあ私ができるだけ君に力をかそうじゃないか。もちろん二人だけの力ではだめだと思うが、君ひとりよりもましだし、それに私は君の話によって、ある特別の興味もおこったので、私の方からむしろ君の仕事に参加させてもらおうや。そのうちに私の心当りの人が帰ってくるだろうと思うんだ」
「先生、どうも有難う。僕は千人力をえた気持です」
「そうでもないが……」
「で、その心当りの人というのは、誰方なんですか」
「それはね、私の同郷の先輩でね、蜂矢十六という人なんだ」
「蜂矢十六? ああ、するとあの有名な大探偵蜂矢十六氏のことですね。空魔事件、宝石環事件、百万円金塊事件などを迷宮の中から解決したあの大探偵のことですね」
道夫はその有名な大探偵のことを、人から聞いたり新聞で読んだりしてよく知っていた。あの大探偵に川北先生がよく頼んで下さるなら、これこそほんとうに万人力だと思った。ただ、その蜂矢大探偵が、今旅行で留守だとは、くれぐれも残念だった。
次の日の午後、道夫は川北先生を、木見家の両親に紹介することに成功した。
「そのように御親切にいって下さるのはたいへん有難いです。厚くお礼を申します。なにしろ娘の失踪事件の捜査は、当局でも事実上すっかり打切った形ですからね。親としてまことに情なく思う次第です」
雪子の父親の木見武平は、そういって川北先生と道夫の訪問に礼をのべたが、しかし、禍が先生と道夫の上に降りかかるようなことがあっては心苦しいからと武平は灰色の頭をふって、辞退の意をもらした。
しかし川北先生は、それは心配無用と答え、とにかく当局とは違った考えがでるかもしれないから、ぜひお嬢さんの研究室を見せてくれるようにたのんだ。
これには武平も応じないわけにはいかなかった。それで二人をそちらへ連れていった。暗い長廊下を通って、別棟になっている研究室の扉までくると、武平は懐中から鍵をだしてそれを開いた。ぷーんと、薬品の匂いが、入口に立つ三人の鼻を打った。
「暗いですね、電灯をつけましょう。はてどこにあったかな、スイッチは……」
「小父さん、ここにありますよ」
道夫は、この研究室へよくきたことがあるので、案内には明るかった。彼は入口の戸棚の裏になっている壁スイッチをぴちんと上げた。と、室内は夜が明けたように明るくなった。
「ほう、これは……」
川北先生が、思わず歓声を発した。先生はこの研究室の豪華さにおどろいたのであった。部屋の広さは十坪以上もあろうか、天井も壁も良質の白亜で塗装せられ、天井には大きなグローブが三つもついていて、部屋に蔭を生じないようになっていた。大きな実験台が、入口と対頂角をなしたところにすえてあり、電気の器具がならび、その向う側には薬品の小戸棚を越えてレトルトや試験管台や硝子製の蛇管などが頭をだしていた。その左側には工作台があり、工作道具や計器の入った大きな戸棚に対していた。壁という壁は、戸棚をひかえていたが、大きな事務机が、部屋の右手の窓に向っておかれてあり、その右には書類戸棚が、左側には長椅子があった。また部屋の中央には、丸卓子があってその上には本や書類や小器具などが雑然と置いてあった。大理石の手洗器が、実験台の向うの隅にあり、壁には電線の入った鉛管が並んで走っていた。個人の研究室としては実に豪華なものであった。
「こっちに図書室があります」
武平は、部屋の東側の壁にかかっている藤色のカーテンをかかげて、その中へ入っていった。そのときであった。川北先生が道夫の身体をついて、ひくい早口で話しかけた。
「道夫君、君はこの部屋で女の首を見たといったね。その女の首は、どのへんに浮んでいたと思うのかね」
道夫は、ぞっとして首をちぢめたが、
「そのへんです」
といって実験台と丸卓子との中間を指さした。
「ここかね」
川北先生は、そこまでいってみた。
「いえ、もっと丸卓子の方へよっているように思いました」
「するとここらだね」
川北先生は、手を伸ばして丸卓子の上に大きな獅子のブックエンドにはさんである大きな帳簿をなでた。その帳簿は皮革の背表紙で「研究ノート」とあり第一冊から始まって第九冊まであった。
「どうぞこちらへ」
図書室から武平が顔をだしたので、川北先生と道夫とは、そっちへいった。図書室には学術雑誌や洋書が棚にぎっちり並び、その外に器械もほうりこんであった。
「もう一つあちらに寝室がついています。それも見て頂きましょう」
武平は図書室をでて再び広間に出、南側の壁にはめこんである扉の前に立った。扉には錠が下りていたので、武平は鍵をだして腰をかがめて、あけに懸った。が、鍵が違ったらしく、すぐにはあかなかった。道夫は武平の傍へいって手助けをしようとした。川北先生はその間、部屋をぐるぐる見廻していた。そのとき先生が入口の扉の方へ眼をやったとき、暗い廊下からこっちを覗きこんでいる背の低い洋装の少女があった。
(誰だろう。お手伝いかな。それとも親類の人かな)と思っているとき、寝室の扉があく音がした。
「あきました。どうぞこちらへ……」
武平の声に、川北先生はそっちを見ると、武平と道夫は中へずんずん入っていく。
川北先生は、それを追い駆けるようにして寝室へ入った。そこはくすぐったいような匂いと色調とを持った高雅な女性の寝室であった。ベッドは右奥の壁に──。
「ゆ、雪子、雪子……」
突然昂奮した女の声がして、研究室の中へ駆け込んできた者がある。武平が、さっと顔色をかえて寝室を飛びだした。
「おい、どうしたんだ、そんな頓狂な声をあげて。……おい、落着きなさい」
「ああ貴郎。雪子ですよ、雪子が今、ここへ入ってきたでしょう」
「なに、雪子が……」
武平の声がふるえた。
「さあ、わしは見なかったが……もっとくわしく話をなさい」
道夫も、川北先生もすぐかけつけたが、昂奮している主は、雪子の母親だった。その母親のいうことに、たしかに雪子と思われる後姿の人影が、こっちの離家へ向って廊下を歩いていくのを見かけたので、すぐ声をかけながら後を追ってきたのだという。
この話は一同をおどろかせた。そこで声をかけながら皆は其処此処を懸命に探したが、雪子の姿はどこにもなかった。どこからかでていったのではないですかと川北先生が聞いたが、武平夫妻の話では、この離家は出口がないのででていける筈はないし、窓も皆しまっているという。まことに変な話だ。
「お前、気の迷いじゃないか」
武平はきいた。すると母親は首を強く左右へふって、
「いえ、たしかに見ましたですよ。廊下をこっちへ歩いていくのを……」
「変だね。でもたしかに入ってこないよ」
「じゃあ、あれは幽霊だったでしょうか」
「幽霊? そんなものが今時あるものか」
「いや、幽霊ですよ。幽霊にちがいないと思うわけは、後姿は雪子に違いないんですが、背がね、いやに低いんですよ」
そういって武平夫妻がいいあらそっているとき、川北先生が突然大きな声をあげた。
「これは変だ。いつの間にか『研究ノート』の第九冊がなくなっているぞ。さっきまでたしかに第一冊から第九冊までそろっていたのに……」
先生は丸卓子の上にならんだ「研究ノート」の列を指しながら唇をぶるぶるふるわせていた。
怪また怪。果してそれは雪子の幽霊だけだろうか。引抜かれた「研究ノート」第九冊は誰が持っていったか。木見雪子学士の研究室には深い異変がこもっているように見える。
道夫のおどろきはその絶頂に達した。
雪子の幽霊が廊下を歩いてこっちへきたというのに、その影も形もない。そして室内にさっきまではたしかにあった研究ノート第九冊がなくなっているというのだ。なんという不思議なことの連続だろうか。
が、道夫は大きなおどろきにあうと同時に勇気が百倍した。それは、今こそ一つの機会が到来しているのだと思った。雪子姉さんはかならずどこかこの付近にいるのに違いない。そういう気がした。そしてもっと熱心に、もっと機敏に探すならば、今にも雪子姉さんを発見できるのではないか。雪子姉さんはかならず生きている。でなければ、さっきまでこの部屋にたしかにあった研究ノートが突然紛失するなどということがあってたまるものではない。この廊下、この別棟にはほかに出入口はない行停りとは聞いたがどこかに誰も知らない抜け道があるのでなかろうかという気がした道夫は、いきなり研究室の北側の窓のところへかけよって外を見た。そこは庭園になっているのであるが、
「あっ、あいつだ」
と、思わず大きな声で叫んだ。
道夫の目が捕えたのは、今しも庭園の木蔭をくぐって足早に立去ろうとする老浮浪者の姿であった。
「誰?」
川北先生が道夫の傍へ飛んできた。
「あの怪しい老浮浪者です。あいつを捕えましょう。あいつは、この窓の下から中の様子を見ていたか、それともこの部屋へ出入したかもしれないんです」
「この部屋へ出入りができるとも思われんが、とにかく捕えて詰問しよう。家宅侵入をおかしたことは確かだろう」
川北先生と道夫は玄関へとびだした。そこで老浮浪者の先まわりをして、表の塀の西の方へ廻り、裏道へでた。
「やっ」
「いたぞ」
細い道で、双方はぱったり出会った。川北先生と道夫は、相手をにらめつけながら、じりじりと傍へ寄った。老浮浪者の目にはちょっと狼狽の気色が見えたが、すぐ平静な態度になって、二人の横をすり抜けて通ろうとした。
「待ちたまえ。ちょっと聞きたいことがある」
と川北先生がいった。
すると老浮浪者はかぶりをふって、そのまま強引に通り過ぎようとした。
「待ちたまえというのに……」
と、先生はとうとう老浮浪者の長い外套の腕をつかんで引きもどした。すると老浮浪者は足を停めてのっそりと立停った。
「何をしていたのかね、君は。さっき木見さんの庭へ入りこんで怪しい振るまいをしていたが……」
老浮浪者は、それを聞いても知らんふりをしていた。
「聞こえないのか、君は……」
と、先生はもう一度、同じことを繰返した。すると老浮浪者は、ごそごそする髯面を左右にふった。道夫はそれを見ると、さっきからこらえていた憤慨を一時に爆発させて、
「僕はちゃんと見ましたよ。あんたが窓の下から逃げだしたところをね。木見さんのお嬢さんをかどわかしたのはあんたでしょう」
それでも老浮浪者は、頭を左右にふるばかりであった。その質問を否定するのか、自分は耳が聞えず、二人のいうことが聞き取れないというのか、どっちだか分らなかった。
川北先生は、相手が一通りの手段ではいかないことを知ると、態度を改めて、
「ねえ君。雪子さんの行方が知れないで木見さんのお宅ではほんとうにお気の毒にも歎き悲しんでいられるのです。前後の事情から考えると、君はそれについて何かを知っていられるように思う。どうかわれわれなり、木見さんの家の人を助けると思って、君が知っていることを話して下さらんか。どんなにか感謝しますがねえ」
川北先生の話をしている間に老浮浪者の面には、何か感情が動いた瞬間があった。
「ねえ、分るでしょう。そうだ、これについて教えて下さい。さっきあの廊下を伝わって研究室の方へきた若い洋装の女の人は庭園の方へでてこなかったですか」
老浮浪者は、一つだけ頭を横に振った。見なかったという返事らしい。
「ああ、ありがとう。次に……そうだ、君は窓から、今の話の若い洋装の女が部屋にいたのを見ましたか」
老浮浪者は、かるく一つうなずいた。──道夫は老浮浪者が返事をしていると知って、新しい希望に心を躍らせた。
「ありがとう。もう一つ──研究室から研究ノート第九冊が見えなくなったが、誰が持っていったんだか、君は知っていますか」
川北先生は重大な質問を発した。老浮浪者はどんな答をするかと、道夫は固唾をのんで、相手の髯面を見つめた。
すると老浮浪者は、大きな手袋をはめた両手を、自分の頭のところへあげ、長い髪の毛を示すらしい手つきをし、それから片手で女の身体らしい形を作ってみせた。
「なに、するとあの研究ノートは、あの若い女が持っていったというのですか」
先生は、さっと顔を硬ばらせて聞いた。そんな奇怪なことがあっていいだろうか。いつの間にかあの生ける幽霊は研究室へ入って、あの研究ノートを持っていったものらしい。
老浮浪者は、また一つうなずいたが、そのあとで大口をぱくぱく開いて、声なき笑いをしてみせた。
「じゃあもう一つ。あの若い洋装の女はどこからあの部屋をでていったですか」
老浮浪者は大きく首をかしげたが、それには答えようともせず、すたすたと歩きだした。川北先生があわてて老浮浪者の袖をとってとどめた。が老浮浪者はその袖を払って川北先生を押し返した。よほどの力だったと見え、川北先生はどーんと後へ引っくり返って土にまみれた。道夫がおどろいて老浮浪者にとびついたが、たちまち彼も、はげしく突き飛ばされた。なんという怪力であろう、老人のくせに……。
老浮浪者は、さっさと立去った。
その次の日は土曜日であったので、お昼がすむと、川北先生は道夫といっしょに木見邸を訪ねた。
雪子の母親は寝込んでいた。昨日雪子の幽霊をみてからすっかり気を落してしまったのである。
娘は死んだものに違いないと考えるようになったからだ。
川北先生と道夫とは、まだそう決めるのは早すぎることを交る交る説いた。そして先生よりも道夫の方がそれを熱心にいいはったのだった。
雪子の父親は不在だった。川北先生と道夫は、雪子の母親の許しを得て、研究室をもう一度調べさせてもらうことにした。
例のうす暗い長廊下を渡って、別棟の研究室へいった。扉の錠を外して、再び室内へ入った。
「ほら、やっぱり無い」
川北先生は、部屋の中央に近い卓子のところへいって、本立の間に並べて立ててある、研究ノートの列を指した。前日同様、研究ノート第九冊は見えず、それがあったところだけが、歯が抜けたようになっていた。道夫少年は背中が急に寒くなった。
「ほんとうに、なぜ無くなったんでしょうね。幽霊がもっていってしまったんでしょうか」
道夫には解けない謎だった。川北先生も首をひねって当惑顔だった。
「幽霊なら、物を持っていく力はないだろうと思うがね。物を持っていくかぎりそれは幽霊ではなく、生きてる人間だと思う」
先生はそういった。
そこで、どこかこの部屋から外へ抜ける秘密の通路があるに違いないという見込みをたてて、二人は部屋を今日こそ徹底的に調べにかかった。
研究室だけではなく、それに続いた図書室や寝室も調べてみた。壁も叩いて、調べ、天井は棒でつきあげてみたし、床はリノリウムのつぎ目をはがしてまで調べた。戸棚類はみんな動かした。積上げてあった本の山は、いちいちおろしたし、重い器械は動かした。
そんなに念入りに調べてみたが、その結果は見込みはずれであった。
「どこにも出入りできるところはないと断定しなければならなくなったわけだね」
先生は三時間に近い力仕事と緊張とにすっかり疲れて、椅子の一つに身体をなげかけていった。
「ほんとうに秘密の出入口はないのですね。すると昨日現われたという雪子姉さんの姿は、やっぱり幽霊だったのでしょうか。それとも、気の迷いで、見たように思ったのでしょうか」
「いや、気の迷いなんてことはないよ。お母さんが見たばかりでなく、実は先生も雪子さんらしい姿が廊下から、この部屋をのぞきこんでいるところを、実際に見たんだからね」と、川北先生は、あの話をした。
「それにあの怪しい老人の浮浪者も見たらしいからね。しかもあの研究ノート第九冊を、雪子さんが持去るところを見たといったようだ。とにかく三人も見た人があるんだから、昨日ここへ雪子さんが姿を現わしたことは間違いなしだと思う」
「じゃあ、やっぱりそれは雪子姉さんの幽霊ですね」
「問題はそこだ。果して幽霊かどうか。もう一度現われてくれれば、きっとそれをはっきり確めることができると思うんだが……」
そういって川北先生は、深刻な表情をした。日はもう暮れ方に近づき、それに雨がきたらしく雲が急に重く垂れこめて、室内は暗くなった。道夫は壁のスイッチをひねって電灯をつけた。川北先生も椅子から立上がった。
「さあ、これからどうするかな」
そういって先生は、次の捜査方針をどうたてたものかと、室内をぐるっと見渡した。
「おやッ。あ、あ……」
先生が異様な声をだした。道夫はそのとき戸棚の中の薬品を見ていたのだが、先生の声におどろいて、その方をふりかえった。すると先生は蒼白にして、塑像のように硬直していた。そして先生の眼は戸口へ釘づけになっている!
「あっ!」
こんどは道夫が叫んだ。ふりかえった彼の前をすれすれに、朦朧たる人影が、音もなく通り過ぎて部屋の中へ入ってきた。何であろう。何者であろう。
道夫は全身を電気に撃たれたように感じ、怪しい影の後姿を見つめたままその場に立ちすくんだ。
「木見さんのお嬢さんですね。お話があります。お待ちなさい」
川北先生は、あえぎながら、これだけの言葉をやっと咽喉からしぼりだした。
(そうだ、雪子姉さんだ)
朦朧たる人影は後姿ながら、それは道夫に見覚えのある服をきた雪子に違いない。
怪しい人影は、図書室の入口の前あたりをしずかにあるいていた。川北先生と道夫の位置は、この怪しい影をはさんでいる関係にあった。
が、怪しい影は、川北先生に返事をしようともせずそのまま図書室の中へ消えた。
「お待ちなさい、お嬢さん」
川北先生は、勇気をふるいおこして、怪しい影の後から図書室へ飛びこんだ。道夫もそれに続いた。あれが雪子の幽霊か幽霊でないか、たしかめるには絶好の機会だ。そう思うと、さきほどの恐怖と戦慄が、幾分へった。
と、雪子の怪影は、図書室の真中にたたずんでいた。川北先生は腕をのばして、怪影の腕をつかもうとした。
すると怪影は、風のようにすうっと前へ移動し、先生の手は空しく空気をつかんだ。
「しばらく、しばらく、お母さまが心配していられるのです。しばらく待って下さい」
川北先生は哀願するように、怪影の後から呼びかけた。だが怪影の耳には、その言葉が入らないのか、そのままつつうと前に進んだ。
「あ、外へでる。壁を通りぬけて……」
と叫んで、道夫はわれとわが眼を疑った。が、それは事実だった。怪影は、図書室の奥の壁につきあたると、そのまま壁の中に姿を消していったのである。
「ああ!」
川北先生もそれを見て取って、今や壁の中に消えんとする怪影を引きとめようと突進したのであるが、それは僅かに時おそく、先生は壁にいやというほどぶつかったばかりだった。
「失敗った。どうしよう」
川北先生の顔は、子供の泣顔のようにゆがんでいた。
「窓をあけて、追いかけましょう。間にあうかもしれないです」
「そうだ、窓をあけろ」
身の軽い道夫は、大急ぎで図書室をでて研究室に入ると雪子の大机の上へとびあがり窓をあけた。と彼の横をすりぬけて川北先生が猟犬のように窓からぽいと外へ飛びだした。
道夫もそれに続いて、窓を飛び越え、庭園へ下りた。
「あ、痛……」
道夫の飛び下りたところには、生憎石があったために、彼は足首をぎゅっとねじり、関節をどうかした。身体の中心を失った道夫はその場に横たおしとなった。
「ああっ、痛い……」
起上ろうとするが、右足首の関節が痛いので力がはいらない。残念である。彼は川北先生の方が心配になり、足首を手でおさえて、芝生の上に半身を起した。
「おお……」
先生は、見事に雪子をとらえていた。松の木と八つ手のしげっている暗い木蔭の下で、先生は雪子の後から組みついていた。このとき雪子の姿が、さっきよりもずっと明瞭に見えた。道夫は、先生に力を貸さなければと、起上ろうとした。が、やっぱり駄目だった。
「先生、……雪子姉さん……」
道夫は芝生の上をはいながら、二人の方へ一糎でも近づこうと努力しながら雪子と川北先生のようすを凝視した。
そのとき彼は、雪子がもがきながら、後へ上半身をねじって、川北先生を突きはなそうと懸命に力をだしているのを見てとった。雪子姉さんは何かを誤解しているのであろう。そんなことをしないで、おとなしく川北先生の腕の中に引き留められていればいいのにと道夫は思った。
川北先生は、雪子の懸命の反抗にも、忍耐づよくこらえている様子だった。彼は雪子を後から抱きすくめたまま、金輪際はなそうとはしなかった。
が、そのときである。道夫はにわかに、予期しなかった不安に襲われた。というのは、互いに搦みついている二人の姿が急にぼんやりしてきたからである。
「先生、どうしたんです……」
そういう間にも、揉み合った先生と雪子の姿は、ますますぼんやりしてきて、やがて道夫の眼には見えなくなった。彼は息のとまるほどおどろいた。
彼は、それでもまだその異変がそれほどおそるべきこととは気がつかず、或いは眼の見まちがえかと思いながら、無理に芝生に立上り、よろめきながら、現場に近寄った。
二人の姿は、完全になかった。
するとどこかの木蔭へかくれたのかと思い、庭園のあちらこちらを探したが、雪子姉さんの姿はもちろん川北先生の姿さえ、どこにもなかった。生垣をこして、路へでてしまったが、そこにも姿はなかった。
このとき道夫の叫び声を聞きつけて、隣組の人々がばらばらとかけつけてきた。そして道夫にわけをたずねたので彼はそのわけを一通り話をした。だが誰も生きている幽霊のことや、川北先生が急に消えてしまったことについては信ずる者はなかったが、とにかくどこかにその二人がいるのであろうと、一同は手わけしてそのあたりをくまなく探してくれることになった。
その間道夫は、格闘のあった元の木蔭に戻ってきて、なおよく調べた。彼はその途中、ふと気がついて、八つ手の下に入り乱れてついている、川北先生の足跡をたどってみた。すると不思議な事実が判明した。先生の足跡は、現場以外のどこへも伸びていないのであった。そしてもう一つ不思議なことに、雪子の足跡の方はただの一つも見当らなかった。
隣組の人たちは、さんざんそこらあたりを探したが、やっぱり見当らないと報告した。怪また怪。雪子の生ける幽霊と川北先生とはどこへいってしまったのだろうか。
雪子学士の幽霊が再び現われたこと、そして川北先生が幽霊と取組んだまま姿を消したこと──この二つの怪奇きわまる事件は、目撃者である道夫少年の話によって、そこら界隈に驚愕と戦慄の大きな波紋をひろがらせていった。
「ふしぎですなあ。やっぱりこの世に幽霊というものがあるんですかねえ」
隣組の、ある銀行の支店長は、帽子のあご紐をかけながら、顔をこわばらせた。
「この前は、うちの家内の神経のせいじゃろうと、あまり問題にもしないでいましたが、こうたびたび現われるようだと、あれは本当に幽霊かもしれんですなあ」
外出先から帰ってきた雪子の父親武平がさわぎの仲間に加わって、こんな感想をのべた。
「もっとふしぎなことは川北先生の姿が消えてしまったことなんです。あの松の木で完全に姿が見えなくなったんです。一体どういうわけでしょう」
目撃者の道夫は、川北先生のことを問題としてだした。
「どういうわけでしょうね。幽霊が消えるのはわかっているが、生きている人間まで消えてなくなるというのは、さっぱり訳がわからない」
「その川北先生は、幽霊を追いかけて、遠くまでいってしまったんじゃないですか。そのうち先生は、ふうふういいながら、ここへもどってこられるのではないですかな」
いろいろな説がでる。
「いや、川北先生は遠くへいくはずがないんです。先生の足跡は、松の木の下で消えているのです。遠くへいったものなら、先生の足跡がそっちへ続いていなければなりません」
道夫は、遠走り説をうち消した。
「でも、それはあまりにふしぎ過ぎるからねえ。松の下から垣根へぬけて往来へでれば、往来は土がかたいから、そこにはもう足跡がつかないわけでしょう。だから足跡が松の木の下で消えているように見えるのではないですか」
そういったのは、某省につとめる技術者であった。
「いや、そうではないのです。先生の足跡の最後のものがついている地点から、垣根を越えて往来までの距離は、約十メートルもありますよ。その十メートルの間に、どこにも足跡がついていないんです。すると小父さんのお話が本当だとすると、川北先生はこの十メートルの距離を、一度も地上に足をつかないで飛び越えたことになります。十メートルも跳躍することは人間業じゃできないことだと思います」
道夫少年のこの推理の正しいことが、誰にも了解された。が、そうなると、川北先生の失踪の説明は一層つかなくなる。ただふしぎふしぎというばかりであった。
「われわれの手に負えませんなあ。どうです。やっぱりできるだけ早くその筋へ申告して、警視庁の手で調べて貰うことにしてはどうですか」
「そうだ。そうする外、道がありませんねえ」
これで方針が一応おさまるところへおさまったようである。その証拠には、隣組の人たちはもう誰も発言せず、夕暗の迫る中にじっと塑像のように立ちつくしていた。
が、そのときであった。突然、金切り声が一同の鼓膜をつんざいた。女の声らしい。その声の起ったのは、どうやら木見さんの家の中のように思われた。一同ははっとおどろいて互いの顔を見合わせた。
「あ、あれはうちの家内の声のようだ」
武平はそういってかけだした。
「ああ、木見さんの奥さんの声……」
「さあ、皆いってみましょう」
一同は武平のあとを追い、庭をぐるっと廻って、木見邸の表座敷の方へかけだした。
かけつけてみると、それは果して雪子の母親の発した叫び声だとわかった。
「何を見たって、やっぱり雪子の幽霊かッ」
武平は、座敷へ飛び上って、夫人をかかえ起しながら、息せき切ってきいている。
「わたしは、お父さんが外から家へ上って廊下を歩いていなさるのだと思っていたんです。でも、何だか変だから、立っていって廊下の方をすかして見たんですの。廊下はうすぐらくて、よく見分けがつかなかったんですけれど、たしかに黒い人影が向うへ動いていきます。背の低い、熊のようにまっくろな者が離家の方へ。……ああ、こわかった」
「雪子の幽霊なのか、幽霊じゃないのか」
「さあ、どうでしょうか、でも雪子の幽霊なら、その後姿はありありと見える筈なんですがね、ところが今見たのはただまっくろでしたよ」
「よし、そうか。離れの方へいったんだな。皆さん、手を貸して頂きましょう」
武平の言葉に、隣組の人たちはもじもじしながら、それでも上へあがった。そして武平を先にして廊下に一かたまりになって、たがいの身体を押しあいながら、雪子の研究室の方へ忍び足で近づいていったのである。
誰も彼も、息をのみ、全神経を耳と目に集めて、もし怪奇があらば、真先に自分がそれを見つけて声をあげるつもりだった。全身の毛穴がぞくぞくしてくる。足がだんだんと重くなって、先へ進みかねる。
と、研究室の中と思われるところから、ざらざらと硬い物のすれ合うような音がしそれに続いて、何だか溜息のようなものが聞えた。
「おッ……」
研究室を目指す一同の足は、もう一歩も前には進まなくなった。
(あれは何物だろう? あれは何の音か?)
そのとき、研究室の中で、第二の物音が聞えた。それは前回よりもずっと大きいはっきりした物音で、何か物がぶっつかったようで、それにぴいんと硝子の響くような音もまじっていた。
「早くいってみましょう。研究室へ……」
道夫が叫んだ。
「よし、いこう」
互いに相手を前へ押しやるようにして、一同はどやどやと研究室へなだれこんだ。
電灯がついた。道夫がそうしたのだ。
室内は明るくなった。一同は拳を固く握って、きょろきょろと各自のまわりを見廻した。
だが、何にも異状を発見することができなかった。
「いないぞ、どうしたんだろう」
「たしかに誰かこの部屋にいたんだが……」
いないとなると、一同は少しく元気を取り戻した。いない、誰もいない。研究室に隣合った寝室にも図書室にも、机の下にも戸棚の蔭にも、猫一匹ひそんでいなかった。
「いないぞ、変だなあ」
「でも、この部屋でたしかに人のいる気配と物音がした」
「あれはすぐ消えて見えなくなるのじゃないですか」
幽霊は──というのをさけて、あれはといった。
「あれが、あんな大きな物音をたてるというのはふしぎだ。あれは元来静かなもので、ただ自分がかぼそい声をだして、『恨めしや』とかなんとか……」
「よしたまえ、そんな変な声をだすのは」
といっているとき、道夫が大声をあげた。
「わかった。これだ」
道夫は硝子窓を指している。
「えっ。わかったとは何が……」
「この硝子窓があいているのです」
「硝子窓は閉っているじゃないか」
「いや、この窓は一旦あけられた上で閉められたんです」
「どういうのですって」
「つまり、何物かがこの部屋にいて、この窓を明けたんです。ああ、そうだ。それから彼は外へ飛び下りた、庭へですよ。そして外からこの硝子戸を元のように閉めた。だからこの硝子戸には、内側にかけ金がありながら、ほらこのようにかけ金が外れているのです。ねえ、木見さんの小父さん。この窓のかけ金は、いつもちゃんとかけてあるんですね」
「そうだ。いつもかけてある。厳重に戸締りしてありました」
「すると、その窓を明けて、誰か外へ逃げだしたんだな」
「幽霊が外へ逃げだしたんですか」
「幽霊じゃないですよ。これはかけ金を外すくらいだから、生きている人間ですよ。まだその辺に隠れているかもしれない。皆さん、早く外へでて、見つけて下さい」
道夫がいった。
「そうだ。皆さん。半数は廊下を通って、庭へでてください。その頃、残りの半分はこの窓から庭へ飛び下りますから」
隣組の人たちは、まだ事情がはっきり呑みこめないが、とにかく二組にわかれ、一組は廊下から表座敷を通りぬけて庭へ廻った。研究室に残った一組は硝子窓の下に飛びだす機会を待っていた。と、庭の方から叫び声が聞えた。
「いたぞ」
「こら、待てッ」
「逃がすな。皆、こい」
この声に、研究室にいた一組も、窓を開いて、薄暗い庭へ飛び下りた。そのとき、庭から廻った一組は、松の木の下をもぐって往来へ向かっている気配であった。
道夫は、一番後から窓を越して庭へ下りた。道夫の手には、携帯電灯が光っていた。それは研究室の雪子の机の上にあったもので、これ幸いと持ってでたのであった。
往来へでてみると、人々はがやがやいいながら、だんだん戻ってきた。
「暗いものだからね、とうとう見失ってしまった」
「相手が幽霊じゃ、もともとぼんやりしか見えないものですからねえ」
「やっぱり幽霊ですかね。私は、足音を聞いたように思いますよ。幽霊に足音はおかしいですからねえ。かねて幽霊には足がないと聞いていますからねえ」
「いや、私は足音を聞かなかった。そして幽霊を今田さんの塀のところまで追いつめたんだが、とたんに私は足を滑らせて、はっとしたんですがね、それでおしまいでした。もう幽霊の姿はどこにも見えなかった」
「この眼鏡は、どなたの眼鏡でしょうか」
そういって、黒っぽい硝子の入った枠の重い眼鏡を一同の上に出してみせたのは道夫だった。彼はそれを松の木の下で拾ったのである。
誰もその眼鏡を、自分のものだとこたえる者はなかった。道夫は、その眼鏡の落し主のことを心の中に問題にしていたが、一同はそんな事を問題にとりあげてはいなかった。そして幽霊か生きている人間かの議論が、いつまでも賑かに続いた。
道夫はもう一度研究室へ引返したが、そのとき彼は一つの重大なる発見をした。それは部屋の中央の丸卓子の上に立てて並べてあった雪子学士の研究ノート八冊が紛失していることだった。道夫はあれやこれやを考え合わせ、ある一つの推定を心の中に思いついたのだった。
彼はもう一度庭にでて、携帯電灯を照らしながら、やわらかい土の上を熱心に探しまわった。そして例の松の木の下へきたとき、
「うわあ、大事な足跡がめちゃめちゃになった」
と、歎きの声をあげた。
が、彼はしばらくして何か新発見をしたらしく、ポケットから紐をだして、地上にあてた。そこには一つの大きな新しい足跡がついていた。彼はその寸法を綿密にはかった上で、周囲に木の枝を刺して目印にした。おそらく明日あかるくなったら、その足形を紙の上にうつしとるつもりなのであろう。
その翌日、木見邸は係官一行を迎えた。
研究室や廊下や庭や往来などの現場が隣組総出の説明と共に、一応念入りに調べられた。
その結果、係官は木見武平を始め一同に対し、さらに気をつけるように命令した上で、
「しかし幽霊説は問題にしませんよ。そういう荒唐無稽なことの捜査は、本庁ではやりませんよ。だから、お嬢さんの失踪先をなお一層探すことと、川北という教師の行方及びその素行調査をすること。この二つの現実なる事件について、できるだけのことをします。あなた方も、今後は気をしずめて、もっと冷静に物を見、そして具体的な証拠をおさえて、報告するようにして下さい」
と、さとした。
隣組の中には、この訓戒を納得した者もいたが、また反対に不満に感じた者が少くなかった。係官の口ぶりでは、この隣組の一同が、さも迷信家の集まりであって、この世にありもしない幽霊の幻影を見て、愚かにもさわぎたてているという風に聞えたからである。とにかく係官のこのような態度から推して考えると、係官はあまりこの事件について熱心ではないらしい。
雪子の両親の失望、隣組の人々の不満、そして道夫の憤激──道夫の憤激は、彼が拾った色眼鏡を係官に示す機会を遂に失ってしまった。もちろん、彼が胸に今抱いているある推定についても、口を開かせはしなかった。道夫が、現場から拾った物件について、係官へ報告しなかったことは、彼が義務をおこたったことには違いなかったけれども、道夫をして進んで義務を果させなかったほど悪い印象を与えた側には責任がないとはいえないであろう。
とにかく道夫の憤激は大きく、
(よし。こうなったら、僕はきっとこの真相をさがしてみせる。係官を成程といわせてみせるぞ)
と、胸にかたくちかったのであった。
それから後の道夫は、まったく気の毒なほど淋しい立場にあった。
川北先生は、何日たっても、自分の住居にも帰らず、学校にも姿を見せなかった。先生の素行についてある疑いを持ったらしいその筋では、二三日先生の住居と学校とに刑事を張込ませたが、先生がいつまでたっても戻ってこないとわかると、その警戒をといた。
学校には、道夫の同情者が多かった。校長先生を始め諸先生は何回も道夫について同じことをたずねた。が、格別いい手段も考えつかなかったように見える。道夫の級友たちこそ、真剣に道夫に同情した。そして道夫のために共同の捜査を開始することになった。だがこれも、事実はあまり具体的に進行しなかった。というのは、生徒たちにはあまりに手ごわすぎる事件内容であったので、どうすることもできなかった。
こうして事件は、八方ふさがりの迷宮入りをしたかに思われるに至った。
それは川北先生の失踪からちょうど七日目の午後のことであるが、道夫は学校から帰ると、例の重い心と事件解決への惻心とを抱いて、ひとりで広い多摩川べりを歩いていた。彼の胸の中には、一つの具体的な懸案があった。それはいつだか川北先生と共に、家の裏でふんづかまえたことのある怪しい浮浪者の老人に出会いたいことだった。
あの怪老人は今となって考えると、雪子学士の失踪について何事かを知っている有力なる人物だった。気味のわるいそして危険な相手だが、何とか話しこめばこの事件について道夫の知らない手がかりがえられるかもしれないと思う。しかも道夫はその老人に対して新しい問題を持っているのだった。それはあのさわぎの日、松の木の下で拾った色眼鏡は、この老人の持ち物ではないかという疑いだ。万一それが当っていたら、あのどさくさまぎれに研究室にしのび入り、雪子学士の研究ノート八冊をうばい窓から逃げだした人物こそ、この怪老人に違いないという結論になるはずだった。
そんなことを考えながら、道夫は堤の上をぶらぶら歩いていた。そのとき彼が、ふと堤の下から一条の煙があがっているのに目をとめ、その煙をつたわって何気なく、その煙の源を見ると、一人の男が焚火をして、何か物を煮ているのだった。道夫は、いきなり堤下へ飛び下りた。
「おじいさん。しばらくだったね」
相手は、ぎょっとして道夫の顔を仰いだ。道夫はそのとき老人が髯面に色眼鏡をかけているのを見て取った。だがその色眼鏡は、かねて見覚えのあるものとは違い、枠の細いものであることに気がついた。さてはと道夫の胸はおどった。
老人はつと立って、例の不恰好な厚着をした身体をぶるんとふるわせると、物もいわずに逃げだした。
「話があるんだ。待ちなさい。おじいさん」
道夫は後から追いかけた。が老人の足は意外に速く、道夫の方は堤の雑草に足を取られそうで、気が気ではなかった。そのうちに道夫はあっと声をあげた。思いがけなく穴ぼこに落ちこんだのである。その穴は意外に深く、彼は落ち込む途中でいやというほど頭を打った。どこかで老人のあざけり笑うらしい声が聞えた。と、道夫は気が遠くなってしまった。
道夫は、ふっと悪夢から目ざめた。
いじ悪い数頭の犬にとりかこまれて、自分はあっちへ引張られ、こっちへおわれて、はてしない乱闘をつづけているうちに、ふとこの悪夢がさめたのだった。全身におぼえるけだるさ、そしてずきんずきんと頭のしんが痛む。
「おお、気がついたようだよ。道夫君、元気をだしたまえ。そしてまずこれをのむのだ。気持がよくなるよ」
しっかりした男の声だ。道夫は、まだ夢心地で声のする方へ、ものうい眼を向けた。
(川北先生かしらん)
と思ったが、道夫の目にうつった声の主の姿は、川北先生ではなかった。先生よりはだいぶん年上の人で、こい緑色の背広を着た面長の背の高い紳士だった。その紳士は、左手を道夫の背中に入れて長椅子から抱きおこし、そして右手にコップをもって道夫の口へ近づけた。
道夫はひじょうにのどがかわいていたので、いわれるままにそのコップから、中の液体をのんだ。甘ずっぱい、そしてさわやかな、刺戟のあるすばらしい飲料だった。
「ああ、おいしい……」
道夫は、思わずそういった。
「あと五分間もすれば、すっかり元気になるよ。その間に、僕は君のため、何か食べるものを作ってこよう」
そういって紳士は、道夫を長椅子へそっとねかすと、部屋をでていった。
道夫が元気をとりもどすまでには五分間もかからなかった。彼は間もなく起上った。身体のだるさが消え、頭痛もかるくなった。なんというすばらしい飲料だったことか。もう一ぱい呑ませてくれるといいんだがと、道夫は舌をだして唇のまわりをなめた。
そのとき、ぽっぽっと、鳩時計が時をうちはじめた。八時であった。八時! すると午前八時か、今は。……いつの間にか一夜は明け放れてしまったと見える。家では心配しているだろう。いったいどうしてこんなところへきたのか。そうだ多摩川の堤の下に、例の老人の浮浪者を見つけて追いかけていくうちに、あっと思う間もなくおとし穴へ落ちて……それから先の記憶がない。
はて、いったいこの家はどこの家だろうか。そしてさっきでてきて、おいしい飲料を呑ませてくれた紳士は、いったい何者であろうか。道夫は、そこであらためて部屋の中をものめずらしげにぐるぐる見まわした。
りっぱな洋間だ。電気ストーブをはめこんだ壁、しぶい蔦の模様の壁紙、牧場の朝を画いてあるうつくしい油絵の大きな額縁、暖炉の上の大理石の棚の上には、黄金の台の上に、奈良朝時代のものらしい木彫の観世音菩薩が立っている。
そういう調和のとれた隙のないこの洋間に、ただ一つ不調和に見えるものがあった。それは、部屋の奥にふかく垂れ下っている、紫色の重いカーテンだった。そのカーテンは、どうやらその奥にある別の部屋の入口をかくしているものらしい。
と、部屋に人の気配がした。紫のカーテンに目を釘づけにしていた道夫は、はっとして、後をふりむいた。例の紳士が、銀色の盆の上に、焼いたパンと、卵の目玉焼きと、それから大きなコップに入った牛乳とをならべたものを持って道夫の方へ近づき、小卓子の上においた。
「さあおあがり、お腹がすいたろう」
「あなたは、いったいどなたですか。そしてここはどこです。僕はどうしてこんなところへきたのでしょうか」
道夫は、食欲をひどく感じたけれど、その前にたしかめておくべきことをたしかめないでは、盆の方へ手をだすつもりはなかった。すると紳士はにっこり笑って、
「穴の中で、君がうなっていたから、引っぱりあげて、家へつれてきたのさ。くわしいことはゆっくり話そう。まず食事をしたまえ」
といって、自分はポケットから煙草をだしてライターでかちりと火をつけた。
道夫は、もっとがんばろうかとも思ったが、なにしろお腹はぺこぺこで、そして目の前の卓上にはおいしそうな卵の目玉焼きが、道夫の大好きなハムの上にゆうゆうと湯気をあげているので、もうがまんができなくて、思い切っていただいてしまうことにした。毒が入っていはしまいかとも心配になったがまあそんなことは多分ないであろうとおもって、フォークとナイフとを手にとった。
実においしい。しばらく道夫は半ば夢中でたべていたがそのうちふと気がついて、ひそかに自分の左に座って煙草をふかしているかの紳士の方へ注意を向けた。
その紳士は、ねむったようにしずかに椅子に身体をうずめていた。が、もちろん彼はねむっているのではなかった。煙草の煙は、さかんにたちのぼっていたし、それにかの紳士は膝の上に本をひろげて読みふけっているのであった。どんな本? 道夫は好奇心をつのらせて、その本の頁の上を見た。すると、それは文字を印刷した本ではなく、ペンでもってこまかい外国の文字が、ぎっちり書きこんであった。それと同時に道夫は、はっと気がついた。
(ああ、あれは雪子姉さんの研究ノートじゃないんだろうか?)
もしそうだとしたら、問題の研究ノートを所有しているこの怪紳士は一体何物であろうか。フォークもナイフも、いつの間にか道夫の手にしっかり握られたまま動かなくなっていた。
「ははは、びっくりしているね、道夫君。僕が木見さんのお嬢さんの研究ノートをひろげて見ているものだから……」
怪紳士は、そういってにやりと笑った。道夫は声もでなかった。背中がぞっと寒くなった。
「元気になったところで、われわれの仕事を急ごうね」
「……」
「道夫君。この際つまらんことは一切考えたり、迷ったりしないことだ。われわれは一直線に木見学士を救いだすことに進まねばならない。君は僕のさしずするとおりにやってくれるね」
「はあ、でも……」
「でもそれがよくない。疑ったり迷ったりしていると、もう間に合わないかもしれない」
と怪紳士は鳩時計の方をちらりと見て「さあすぐ始めるのだ。こっちの部屋へきてくれたまえ」
怪紳士は道夫に文句をいう隙をあたえずに、先へ立って、さっさと紫のカーテンの奥に消えた。
「道夫君。早くきたまえ」
紫のカーテンの奥に何があるのだろうか、と、うす気味わるく足をはこびかねている道夫の耳に、怪紳士の強い声が聞えた。もう仕方がないと、道夫は覚悟をきめてカーテンをかき分けた。
それは意外なる光景であった。その奥部屋は四坪ほどの狭いものだったが、部屋はがらんとして中央に机が一つ、それに向き合った椅子が二個、たったそれだけであった。そして右の方に窓が一つそこから眩しいほどの光線が入っている。
「君は、こっちの椅子へかけたまえ」
怪紳士は、手前の椅子を道夫に指した。道夫はいわれるとおり腰を下ろした。椅子は板敷きのもので、道夫の足の先はぶらんと宙に浮いた。怪紳士はさっきから読んでいた雪子学士の研究ノートをひろげたまま机の上においた。それは道夫に対して文字があべこべになるように反対におかれた。
「それではカーテンをしめるよ」
「待って下さい。どうするのですか、僕は……」
道夫は不安にたえきれなくなって、遂に爆発するように叫んだ。
「君は何にも考えないのがいいのだ。カーテンを引けばこの部屋は暗黒になる。君はそのままじっと椅子に腰をかけていればいいのだ。なにごとも予期してはいけない。しかしなにごとかが起ったら君はおどろかずさわがず、つとめて心を平静に保って、向き合っていればよい。君から決して自分から働きかけては駄目だ。相手が何かいったら、それにこたえればいいのだ」
「相手というと誰ですか。あなたですか」
「いや、なにごとも予期してはいけないのだ……そしてもういい頃になったら、僕がもういいというからね、それまでは君は椅子から立上ってはいけないよ。分ったね」
「分りました。でも、いや、やりましょう」
道夫ははらをきめて、この怪紳士のいうことをきくことにした。今いやだといってみたところで、この怪紳士は道夫をゆるしてはなしてはくれないだろう。一見やさしそうに見えて、その実この怪紳士は一から十まで道夫の行動をしばっているのだ。この怪紳士の手からぬけだすのは容易なことでないと分った。
カーテンは、明るい窓に引かれ、室内はまったくの暗闇と化した。聞えるのは怪紳士の靴がかすかに床をする音ばかりであった。
道夫は、机の向うの空席の椅子に、かの怪紳士が腰をかけるのだろうと予期していた。ところが彼の靴音はその椅子の方へはいかず、道夫の背後を忍び足で通りすぎた。やがて紫のカーテンの金具が小さく鳴った。足音はそれっきり聞えなくなった。怪紳士はこの暗室からでていってしまったのだった。ぞっとする寒気が再び道夫の背筋をおそった。
(僕ひとりをこの部屋において、どうしようというのだろう)
不安が入道雲のように膨張していった。動悸がはげしくうちだした。のどがしめつけられ、息がつまりそうである。道夫は一声わめいた上でこの部屋から逃げだしたい衝動にかられたが、なぜか足も腰もすくんでしまって自由がきかなかった。彼は催眠術をかけられた人のように、そのままじっとしているより外なかった。
五分、十分。……何事も起らない。部屋は完全なる暗黒である。五感に感ずるものは、ほのかなる香料の匂いと、そして大きくひびく道夫自身の心臓の音だけだった。
十五分……そして多分二十分も経た。道夫が椅子の上で身体をちょっと動かすと、ぎいっと椅子が鳴った。それはびっくりするほどの高い音をたてた。
三十分……もうたえられない。我慢ができない!
と、そのときだった。隣室の鳩時計がぽうっぽうっと、九時をうった。まだ九時かといぶかる折しも続いてどこかの部屋で、じりじりと電話の呼びだしのベルが鳴りだした。道夫はそれを聞くとすくわれたように思った。
受話器を取上げたらしく、返事をする声が聞えた。
その声はまぎれもなく例の怪紳士の声である。
「えっ、本当? もっとはっきりいって……うむ、それは重大だ。場所はどこ?……えっ、そうか。そうか。……よろしい、すぐでかけます……」
何事か重大なことがらの知らせが怪紳士のところへ届いた様子である。何事であろうか?
ちょっと間を置いて、道夫の背後のカーテンが開かれ、部屋がすこし明るくなった。と道夫は怪紳士から、こっちの部屋へくるようにと呼ばれた。
放免だ。暗室の怪業から放免されたのだ。道夫は大よろこびで椅子から下りて、元の明るい洋間へ移った。
怪紳士の顔を道夫がそっと盗見すると、たしかに心がいらいらしているらしく見えた。しかし彼はそこを一所けんめいにこらえている様子だ。
「どうしたんですか。僕の仕事はもうすんだのですか」
道夫は、すこし皮肉がいいたくなってそういった。
「うむ、失敗だッ」
怪紳士は、かんではきだすようにいったが、そのときしまった、そんなことをいうんじゃなかったという顔つきになり、道夫の方に鋭い目を走らせ、
「いや、一度や二度じゃうまくいかないだろう。それはそうと……」
と怪紳士はいいかけて、更に自分の感情を殺しながら、
「僕はこれからちょっとでかけなければならんが、詳しい話は帰ってきてからにするとして……、道夫君も疲れたことだろう。ちょうどコーヒーが沸いたから、甘くしてごちそうしようね」
そういって怪紳士は、卓子の上に置いてある湯気の立っているコーヒー沸しを持上げ、銀の盆の上に並んでいた空のコーヒー茶碗の一つを道夫の前に置き、その中にこげ茶色の香の高い液体をついだ。
「砂糖とミルクはそこにあるから、好きなほど入れておあがり」
そういって怪紳士は、もう一つのコーヒー茶碗にコーヒーをついで、自分の椅子の方に引寄せた。そして角砂糖を一つ入れると、がらがらと匙でかきまわして、うまそうにのんだ。
「どうぞ、遠慮しないで……」
道夫はすすめられるままに、自分の前のコーヒー茶碗に角砂糖を三つ入れ、それにミルクをたっぷり入れた上で、それをのんだ。たいへん甘い。道夫はつづけて、がぶがぶとのんだ。
道夫は、自分がそれからコーヒー茶碗を下に置いたことを記憶していない。急に頭がぼうっとしてきたと思ったら、非常に睡くなった。これはいけないと思って叫ぼうとしたが、果して声がでたかどうか疑問である。
道夫の気がつかないことが、それから後のその洋間においておこなわれた。怪紳士が呼鈴を押すと、二人の男が戸口から入ってきた。そして眠りこけている道夫の頭の方と足の方を持って、室外へ搬びだしてしまった。
後には怪紳士ひとりが残ったが、腕時計をちょっと見て何か考えていた。が、すぐ決心がついたと見え、紫色のカーテンとは反対の側の小さい扉をあけて、その奥に消えた。
紳士はすぐ洋間へ引返してきた。そのとき彼は、薄い鼠色のコートを着、頭には同じ色の形のよい中折帽子をのせていた。部屋のまん中で立停ると、上着の内ポケットへ手を入れ、何物かを引きだしたと思ったらそれは一挺のピストルで二つに折って、中の弾丸の様子を調べた。調べ終ると、ピストルを元のように直して内ポケットにしまった。それから彼は部屋をでていった。扉の鍵のまわる音がした。やがて彼の足音が、廊下を遠ざかっていった。そしてあたりは静かになった。
玄関の方へ下りていったこの怪紳士の知らない或る出来事が、このかぎのかかった静かな部屋の中でおこなわれた。それは空虚になった暗の中であった。部屋のまん中の、机の面よりやや高い空間に、ぼんやりした光があらわれた。
それは一秒一秒と弱いながら明るさを増していった。そして光の面積が次第にひろがっていった。四十五秒たつと、その光りものは、一つの物の形となった。正面を向いて、身体をかたくして、じっと立っている洋装の若い女性の姿になっていたのだ。
木見雪子の幽霊だ!
まぎれもなく彼女の幻影である。ふしぎだ、ふしぎだ。生きているように見えながら、しかもはっきりしないその姿。これを誰しも幽霊といわないで何を幽霊と呼ぶべきであろうか。何故に雪子学士の幽霊がこの部屋にあらわれたのか、そのわけは分らないが、もしもこの部屋に誰かがいて、雪子学士の幽霊を落ちついて見たとしたら、その人はきっと一つの興味あることを彼女の姿の上に発見したであろう。それは雪子学士の着ているワンピースの服が、あっちもこっちも引裂け、甚だしい箇所ではその裂目から雪子の青白い皮膚があらわに見えることだった。
雪子学士の幽霊は、約二分の後に、つと両手を机の上にのばした。二本の白い手は、しばらく机の上をさぐっているように見えたが、やがてその手は、机上にひろげられた研究ノートをつかみ、そのまま持上げて自分の胸に抱きしめた。
それから幽霊はそろそろと後じさりを始めた。やがて幽霊の身体は壁につきあたった。と思ったらその輪廓が急に崩れだした。身体が輪廓の方から内部へ向って溶けだしたように見えたが、最後に顔面だけが残った。が、やがてそれも崩れ溶けてしまい、雪子学士の幽霊は完全にこの部屋から消え失せた、彼女の研究ノート第八冊と共に……。
怪紳士の留守宅に、おいて、このような奇怪な出来事が誰人にも知られずおこなわれている折も折、警視庁の捜査第一課はその主力をあげて三台の自動車に詰められ甲州街道をまっしぐらに西へ西へと飛ばしていた。いかなる事件が突発したのであろうか。それは外でもない。不可解の失踪をとげた道夫の先生の川北順に違いない人物が、平井村の赤松山の下の谿間で発見されたというのであった。
果してそれが川北先生ならば、先生はいかに奇怪を極めたその体験について物語るであろうか。
やっぱり川北先生だった。
赤松山の谿間に横たわっていた川北先生は、洗濯にきた農家の娘さんに発見され、大さわぎの一幕があったのち、附近の農業会の建物の二階へ収容せられた。
駐在所の警官から警視庁へ連絡があってそこで捜査第一課の出動となったわけであるが、今日は田山課長が一行をひきいて、これまでにない力の入れ方だった。
一行は農業会の建物へ入った。
「ああ課長。お待ちしていました。平井村の駐在所の成宗巡査です」
駐在所の警官が出迎えて、そういった。
「やあ成宗君か。早く手配をしてくれてありがとう。で、当人の様子はどうだね」
お角力さんのように肥った田山課長は靴をぬいで上りながら聞いた。
「はい。それがどうも……生きているというだけのことで、重態ですな」
「負傷しているのかね」
「いや、大した負傷ではありませんが、なにぶんにも意識が回復しません。こんこんとねむっているかと思うと、ときどき大きいこえでうわごとをいうのです。よほどここの所をやられているようですな」
と、成宗は自分の頭を指した。
「そうか。そのようなこともあろうかと思って、警察医の黒川君をつれてきたから、さっそく診察して手当をさせよう。おい黒川君。頼むぞ」
課長はそういうと、成宗巡査をうながして川北先生のねている二階へと階段をのぼっていった。
「さっきからハチヤさんという方が見えていますが……」
と、先へ階段をのぼる成宗巡査があとに続く田山課長へいった。
「なに、ハチヤ!」
「ええハチヤさん。課長とご懇意だということでしたが」
「わしは──」
わしは知らんといいかけたときには、課長は既に階段をのぼり切っていた。
「やあ、お先へ」
課長はいきなり声をかけられた。こげ茶の服を着た長身面長の三十五六歳の人だった。ウルトラジンの色眼鏡が彼の目をかくしている。
「なあんだ蜂矢探偵どのか。例によって早いところ、だし抜いて天晴だな」
課長の言葉には、すこしく皮肉のひびきがこもっていた。だが蜂矢探偵と呼ばれた長身の男はそれを気にとめない風で課長と肩を並べ、
「あの川北君は、僕と同郷の者で古くから親しくしていたのです。この間中から、しきりに僕に会いたがっていましたが、まさかこうなるとは思わず、もっと早く連絡をしてやればよかったですよ」
「本人はここで、君に何かしゃべったかね」
課長は話題を転じて叩きつけるようにきいた。
「いいえ、何にも……」と蜂矢は首を左右に振り「非常に体力を消耗していますよ。それに精神がすっかりさく乱している。正気にもどすにはちょっと手数がかかりそうですね」
「ふうん、厄介だな」
課長は警察医の黒川を手招きして、隅に寝ている川北先生の方を指した。医師は心得て川北先生の枕頭に腰をおろした。村の青年二人がていねいに礼をした。
「おい君」と課長は成宗巡査を呼び「一切誰にも会わしちゃいかん。厳命だ」
「は、はい」
成宗は身体を縮めて、ちらりと蜂矢の方を見た。蜂矢は知らん顔をして、彼の助手のためにライターの火を貸してやっている。
「かべだ。かべだ。かべの中へぬりこまれちまった。あああッ……」
とつぜん川北先生がうわごとをいった。目をつぶっている。青い顔には玉のような汗がうき、長い頭髪がべっとりぬれて眉の方までのびている。黒川医師は目を大きくむくと川北先生の眼をみた。
「かべか。かべがどうしたというんだ」
課長と課員が、川北先生の枕頭をぐるっと囲んだ。川北先生の唇がぴくぴくとふるえるだけでもう声はでなかった。
「この病人はうわごとをさかんにいうのかね。ねえ君たち」
と課長は、村の青年にきいた。
「は。ときどきいいます」
「蜂矢さんが手帳に書きとめて居られましたです。蜂矢さんをお呼びしましょうか」
「いや、よろしい」
課長は首をかたくしていった。
「……流れる、流れる、流れる」
又もや川北先生がうわごとを始めた。
「うっ、苦しいとめてくれ、誰かとめてくれ。黄いろいスープのような……」
声はしゃがれて、あとは紫にそまった唇だけがわななく。
「黄いろいスープがどうしたんだ。これ川北君」
課長が先生の方へかがみこんで、先生の左手をとって振った。その手は生きている人とは思われないほど冷たかった。
「……道夫君、道夫君、……あははは、君は心配せんでよろしい。先生が、先生が……」
川北先生はうわごとをつづけた。
「これは駄目じゃね。ねえ黒川君」
「重態ですな。注射と滋養浣腸をやってみましょう。明日の朝までに勝負がつくでしょうな」
「どっちだい、君の見込みは……」
課長の問に対して黒川医師は口でこたえず、首を左右へふってみせた。
「どうです。課長さん。その道夫君というのをすぐここへ呼んでやったらどうでしょうかね」
「なに、道夫を呼ぶ」
課長は気色のわるそうな顔をしたが、眼を転じて部下の一人へ眼配せした。
川北先生の生死が賭けられたその翌朝となった。
先生はやっぱり苦しそうな呼吸をつづけていた。だが先生の心臓はとまらなかった。
「黒川君。あの川北は危機をとおりぬけたのかね」
前夜から、川北先生と共に農業会で一夜を送った田山課長が黒川警察医にたずねた。
「これならすぐ死ぬようなことはありますまい」
と、警察医は川北先生の脈をとりつづけながらこたえた。
「正気に戻るのはいつのことかね」
「さあ、それは全く不明です。もっと経過をみませんことには何ともいえませんな」
「ふうん」課長は不満の色を見せた。「とにかくこの男を絶対に死なせないように手当をしてくれ。ここじゃ困るから、すぐ東京へ移せないものかね」
「二三日様子を見てからにしましょう。すぐ動かすのは危険です」
「二三日後だね。よろしい。適当に宿直員をふやして懸命に保護を加えてくれたまえ。そしてもし変ったことがあったら、すぐわしのところへ報告するように」
「は、わかりました。で、課長は今日はお引きあげですか」
「うん、こんなところにいつまでも居るわけにいかん。それに、昨日ここへ呼んだ少年の話も興味があるから、この事件は従来の方針を改めて徹底的にしらべることにする。幽霊事件なんてものが、今どきこの東京にひろがっては困るからね。あの川北が発見されたのがきっかけとなって、昨日の夕刊今朝の朝刊、新聞社は大々的文字でこの事件を書きたてているじゃないか。幽霊が今どきこの世の中を大手をふって歩きまわるなんてことを本気になって都民が信ずるようになっては困るからなあ」
「それはそうですな。そういえば幽霊の存在を信ぜざる者は、この怪事件を解く資格なしなどという社説をだしている新聞もありましたね」
「けしからん記事だ。あの社説内容のでどころは、わしにはちゃんと分っている。誰があんな社説を流布したか、わしは知っている」
「あははは。あの蜂矢探偵のことですか」
課長はそれにはこたえず不快な色を見せただけで黙っていた。
「実際蜂矢氏はすこしでしゃばりすぎますね。しかし仲々頭のいい人で、私立探偵にしておくのはもったいないほどだ。うちの課にもせめてあれくらいの人物が二三人……」
課長が吸いかけた煙草を灰皿の中にぎゅっと押しつけたので、黒川医は課長がかんしゃくを起したかとおどろいて言葉をとめた。
「幽霊を信ぜよなどという悪説を流布する者は、いくら頭がよくても、うちの課員にすることはできない」
課長はこの言葉を後に残して、部下たちをひきつれて本庁へ帰っていった。
幽霊説を蛇蝎のように嫌う一本気の田山課長が爆発させたかんしゃく玉はそれからこの事件の捜査を、以前とはうってかわった真剣なものにした。
木見邸にはいつも数人の警官が詰めることとなった。
その隣家の道夫の家まで、厳重に見張られることとなった。
道夫といえば、この少年は川北先生の発見以来ずっと川北先生のそばについている。それは同時にその筋から監視と保護とを加えられて居り、道夫の自由行動は許されない状態にあった。
道夫の両親、ことに、その母親はいつまでも道夫が戻されないので、非常な不安な気持になり、この頃ではよく寝こむ始末であった。
それからもう一つ書いておかねばならぬことは、多摩川べりが連日にわたって厳重に捜索せられたことである。これは道夫ののべた話により、奇怪なる老浮浪者の行方を探しもとめることと、その川べりにあるはずの大きなおとし穴や、その老浮浪者の住んでいる場所をつきとめることにあった。
だがこの方は成功しなかった。あれ以来老浮浪者の姿はこの界隈には全く見あたらなくなった。また、大きな落し穴も見つからなかった。怪老人の住んでいたと思われる地点は分ったが、しかしそこには茶碗のかけら一つ発見されず、ただ草がすこしすり切れて、赤い地はだがでている箇所や、竹か棒をたててあったらしい跡が見つかっただけであった。
雪子学士の幽霊も、その後さっぱり現われないという報告であった。
川北先生の容態も、あいかわらず意識不明のままで、今は帝都の中心にある官立の某病院の生ける屍同様のからだを横たえつづけている。
こうして一週間ばかりの日がたった。
「やあ、課長さん」
きちんとした身なりの長身の紳士が、のっそりと田山課長の机の前に立った。
課長は何か書類を見ていたが、呼びかけられて顔をあげると、見る見る顔が朱盆のようにまっ赤になった。
「こんなところへ君が入ってきては困るね。おい本郷、松倉、いったい何のために戸口をかためているのか」
課長は部下を叱りつけた。
「いや、僕は総監室からこっちへきたものですからね、貴官の部下には失策はないのですよ」
「総監だって誰だって、君をのこのこ、この部屋へ入らせることはできない。さあ、あっちの応接室へきたまえ」
雲行は、はじめっから険悪だったが、応接室へ入ると同時にいっそう険悪さを加えた。
「なぜ君は、早く出頭しなかったのかね。その間に都下の新聞はこぞって、あのとおり幽霊の説、幽霊の研究、幽霊の事件の欄までできて騒いでいる。それにあおられて都民たちがすっかり幽霊病患者になっちまった。それについての都民からの投書が毎日机の上に山をなしている。みんな君のおかげだよ。なぜもっと早く出頭しない」
課長はかんかんになって探偵蜂矢十六を睨みすえた。
「あいにく東京にいなかったもんで、失礼しました」
蜂矢は煙草に火をつけて、こわれた椅子の一つにやんわりと腰を下ろした。
「連絡はすぐとるようにと、注意をしおいたのに、なぜ君の旅行先へ連絡しなかったのか」
「留守の者には、僕の行先を知らせておかなかったものですからね。もっとも短波放送で貴官が僕に御用のあることは了解したのですが、何分にも遠いところにいたものですから、ちょっくらかんたんに帰ってこられなくて」
「どこに居たのかね、君は」
「ロンドンですよ」
「なに、ロンドン? イギリスのロンドンのことかね」
「そうです」
「何用あって……」
「幽霊の研究のために……」
「よさんか。わしを馬鹿にする気か」
「そうお思いになれば仕方がありませんから、そういうことにして置きましょう。しかしですな、御参考のために申上げますと、幽霊の研究はイギリスが本場なんです。殊にケンブリッジ大学のオリバー・ロッジ研究室が大したものですね。それからこれは法人ですがコーナン・ドイル財団の心霊研究所もなかなかやっていますがね」
「もうたくさんだ。君のかんちがいで見当ちがいを調べるのは勝手だが、わしの担任している木見、川北事件は幽霊なんかに関係はありゃしない。純粋の刑事事件だ」
「それは失礼ながら違うですぞ。もっとも幽霊がでる刑事事件もないではないでしょうが」
「わしは断言する。この事件に幽霊なんてものは関係なしだ。幽霊をかつぎだすのは世間をさわがせて、何かをたくらんでいる者の仕業だ。わしは確証をつかんでいる」
「困りましたね。僕の考えは課長さんのお考えと正反対です。この事件において、幽霊の真相を解かないかぎり、事件は解決しません」
「君はずいぶん強情だね。ここのところはたしかなのかい」
課長は指をだして、蜂矢の頭をついた。蜂矢は怒りもしないで笑っている。
「ねえ、課長さん。貴官はまだ幽霊をごらんになったことがないからそうおっしゃるのでしょう。だから一度ごらんになったら、そんな風にはおっしゃらないでしょう」
「とんだことをいう、君は……」
「いや、ほんとうですよ。では貴官に幽霊を見せる機会をつくりやしょう」
「なんて馬鹿げたことを君はいうのか」
「よろしい。そのことは引受けやした。多分成功するでしょう。しかしかなり忍耐もしていただきたくそれに僕のいう条件をまもっていただかねばなりません。そして幽霊は、さしあたりこの警視庁の中へだすことにしましょう。それも貴官の課の部屋へでてもらいましょう」
「君は冗談をいってるんだ。もう帰ってもらおう」
「いや、僕はまちがいなく本気です」
「阿呆は、きっとそういうものだ、自分は阿呆じゃないとね」
あまり蜂矢がまじめくさって幽霊の話をし、しかも所もあろうに捜査課の中へ幽霊をだそうと確信あり気にいうので課長はあまりのばかばかしさに、さきほどの怒りも消えてしまい、蜂矢をもてあまし気味となった。蜂矢はそんなことにはかまわずしばらく考えていた末に、こういった。
「魚を釣るにはえさが要るように、幽霊をつりだすにも、やはりえさが必要なのです。僕は今日の午後そのえさを持ってきて貴官の机の上に置きます。但しこのえさは絶対に貴官たちの手によって没収しないようにねがいます。たとえそれがどんなに貴官たちをほしがらせても。約束して下さいますか」
「約束はいくらでもするがね、だが……」
「幽霊のでる時刻は夕方になってあたりが薄暗くなりかけてから始まり翌日の夜明けまでの間です。こんなことは御存じでしょうが……」
「そんな講義はもうたくさんだよ」
「うまくいけば今夜のうちにもでるでしょう、うまくいかなくても二三日中にはきっとでます」
「もしでなかったときは、どうする」
「そのときは僕を逮捕なさるもいいでしょう。木見雪子学士殺害の容疑者としてでも何でもいいですがね」
「よし、その言葉を忘れるな」
「忘れるものですか」
蜂矢は自信にみちた声とともに椅子から立上って、課長に別れをつげたが、ふと思いだしたように課長にいった。
「道夫君をかわいそうな母親のところへすぐ帰してやって下さい。あんなに病気にまでさせては人道問題ですよ」
蜂矢の眼に涙が光っていた。
なんという大胆な賭事であろう。
蜂矢探偵は、かならず捜査課の室に雪子学士の幽霊を出現させてみせると、田山課長に約束したのであったが、蜂矢探偵は果して正気であろうか。課長を始め、課員の多くは、蜂矢探偵が一時かっとなって、そんな無茶な放言をしたのだろうと見ていた。だからその翌日になったら、探偵から取消と謝罪の電話があるだろうと予想していた。
だがその予想に反して、その翌朝、捜査課の扉を押して、蜂矢探偵が大きな包を小脇にかかえて入ってきたのには、課長以下眼を丸くしておどろいた。
「やあお早うござんす。幽霊を釣りだす餌をもってきましたよ」
蜂矢探偵は血色のいい顔を課長の方へ向けて笑うと、包をぽんぽんとたたいてみせた。
「朝から人をかつぐのかね。いい加減にして貰おう。これでも気は弱い方だから……」
田山課長は、挨拶に困ったらしくて、こんなことをいった。
「今日は大変な御謙遜で。……ところでこの幽霊の餌を、課長の机の上におく事にしたいですね。まちがうといけないから、他の書類は引出へでもしまって頂いて、机の上はこの餌だけをおくことにしたいですね」
と、蜂矢はどしどしと説明をすすめた。
「仕事を妨害しては困るね」
課長はにがにがしく顔をしかめた。
「仕事を妨害? とんでもない。木見雪子事件を解くことは、あなたがたにとって最も重要な仕事じゃありませんか。少くとも都民はこの事件の解決ぶりを非常に熱心に注目しているのですからね。なんなら今朝の新聞をごらんにいれましょうか、そこには都民の声として……」
「それは知っているよ。しかしこの部屋へ幽霊を招く?そんな非科学的なばかばかしい興行に関係している暇はないからね」
「その問題はすでに昨日解決している。今日になって改めてむしかえすのは面白くない。僕はちゃんと賭けているのですからね。賭けている限り僕はこの試合場に準備を施す権利がある。そうでしょう。──もっとも幽霊学士を迎えるのは夕刻から早暁までの暗い時刻に限るわけだから、僕の註文する仕度は、今日の夕刻までに完成して頂けばいいのです。窓のカーテンは皆おろしてもらいましょう。電灯はつけないこと。諸官はこの部屋にいてもよろしいが、なるべく静粛にしていて、さわがないこと。いいですね、覚えていて下さい」
「おい古島刑事、お前に幽霊係を命ずるから、蜂矢君のいうだんどりをよく覚えていて、まちがいなく舞台装置の手配をたのむよ」
課長はついにそういって、老人の刑事に目くばせをした。
「はっ。だけど課長さん。これは一つ、誰か他へ命じて貰いたいですね。わしは昔からなめくじと幽霊は鬼門なんで……」
「笑わせるなよ、古島君。お前の年齢で幽霊がこわいもなにもあるものかね」
「いえ。それが駄目なんです。はっきり駄目なんで。……課長が無理やりにわしにおしつけるのはいいが、さあ幽霊が花道へ現われたら、とたんに幽霊接待係のわしが白眼をむいてひっくりかえったじゃ、ごめいわくはわしよりも課長さんの方に大きく響きますぜ。願い下げです。全くの話が、こればかりは……」
古島老刑事はひどく尻込をする。蜂矢探偵はにやにや笑ってみている。田山課長の顔がだんだんにがにがしさを増してきた。
「私が命令した以上、ぜいたくをいうことは許されない。ひっくりかえろうと何をしようと幽霊係を命ずる」
「わしの職掌は犯人と取組あいをすることで、幽霊の世話をすることは職掌にないですぞ」
「あってもなくても幽霊係をつとめるんだ。もっとももう一人補助者として金庫番の山形君をつけてやろう」
「課長。よろこんで引受けます」
柔道四段の猛者の山形巡査が、奥の方から手をあげて悦ぶ。古島老刑事は、
「おい山形君。そんなことをいうが、大丈夫かい」
とそっちを睨んだが、係が二人にふえたのにやや気をとりなおしたか、ほっと軽い吐息を一つ。
「じゃあ、これで手筈はきまったですね」
と蜂矢探偵は椅子から立上った。
「それではよろしく用意をととのえておいて頂くとして、僕はいったん引揚げ、夕刻にまたやってきます。それから課長さん。僕がここに持ってきた『幽霊の餌』は大切な品物ですから、盗難にかからないように保管しておいて下さい」
「盗難にかからないようにだって? 冗談じゃないよ、ここは捜査課長室だよ、君……」
課長が眼をむいて破顔した。
「あ、これは失言しました。あははは、とんだ失礼を……」
そういって蜂矢探偵は軽く会釈すると、部屋をでていった。
「課長さん。幽霊を本気でこの部屋へ呼びこむんですかね」
古島老刑事は、蜂矢探偵の姿が消えると、さっそく課長の机の前へいって詰問した。
「もちろん幽霊なんてものを捜査課長が信ずるものかい。そんなことをすれば、たちまち権威がなくなってしまう。しかし蜂矢と約束した以上、一応その幽霊実験をやらねばならない。どうせ幽霊はでやせんよ。その上で蜂矢を一つぎゅっとしぼってやるのだ、ちょうどいい機会だからな」
「すると、やっぱり幽霊をこの部屋へ案内しなけりゃならないのですね。いやだねえ」
「でやしないというのに……」
「いや、わしは幽霊がでてくるような気がしてなりませんや。課長、その気味の悪い紙包の中には一体何が入っているんですか」
「さあ何が入っているかな、調べてみよう」
課長は、蜂矢がおいていった紙包の紐をほどいて、机の上にひろげてみた。するとでてきたのは数冊から成る木見雪子学士の研究ノートであった。これは、木見邸に幽霊が現われるようになってから後に、誰が持去ったのか、研究室の卓子の上から消えてしまったものであった。しかし田山課長は、今そのことを思いだしてはいなかった。
「なんだかむずかしい数式をいっぱい書きこんであるね。これは何だろう。おやキミユキコと署名があるぞ。ふふん、するとこれは例の木見雪子の書いたものかな。一体何の研究をしていたんだろう。さっぱり分らんね、このややこしい数式、それから意味のわからない符号と外国語……」
課長は、雪子の研究ノートを前にして、すっかり当惑してしまったかたちだった。
が、しばらくして課長は気をとりなおして部厚い雪子学士の研究ノートの頁を、ていねいに一頁ずつめくりはじめた。
そこにならんでいる文章がいかに難解であろうと、頁をめくっているうちにはたまには課長に分る文句の一つや二つはあってもよさそうなものだと思ったので……。
その課長の労は、ついにむくいられたといっていいであろう。というわけは、彼はその研究ノートの頁と頁との間にはさまっている、別冊の黄表紙のパンフレットを見つけたからである。そのパンフレットの表紙には、めずらしく日本語で表題が書いてあった。それは『消身術に於ける復元の研究文献抄』と読まれた。
「ふうん──」
課長はうなって、その表題に見入った。消身術に於ける復元──というのは何だろう。消身術とは身体を消して見えなくする術の事ではなかろうか。それは一種の忍術だ。妖術である。こんなパンフレットを秘蔵しているところから考えると、木見雪子はそんな妖術の研究にふけったあげく、姿を現わしたり、隠したりしてあのふざけた幽霊さわぎをひきおこしたものではあるまいか。課長の眼はそのパンフレットの各頁の上を走りだした。
文献の内容は、消身術に関するものではなくて、いったん人間が消身術をおこなってから後、もとのように人間が姿をあらわすにはどうすればいいか──つまりそれが復元ということであるが、その復元の研究について、古から最近のものまでの文献が、番号をうってずらりと並べてあり、そして各項について読後の簡単な批評と要点とが書きこんであった。もしも課長が大学理科の卒業生だったら、そこに集められている文献が、この事件の謎を解く鍵の役目を果すものであることを見破ったはずであるが、課長はそうでなかったので、それほど昂奮はしなかった。しかしさすがに犯罪捜査の陣頭に立つ人だけあって、この黄表紙のパンフレットを重要資料とにらんで、それを研究ノートから引き放し、服のポケットへ入れたのであった。
それからも課長の仕事はしばらく続いたが、やがて研究ノートの最後の一冊を見終ると、両手を頭の上にあげて背伸びをした。
「おい古島君。この書類を元のように包んでくれ。ひろげて中を見たということが分らないようにね」
課長はむりな註文をつけて、幽霊係の古島老人に命じた。
「ああ、それから山形君」といって金庫番の柔道四段の青年を呼んでポケットから黄表紙をだした。
「このパンフレットを金庫の中にしまってくれ。他の重要証拠品といっしょにしてね、奥へ入れておくんだ」
「はい。金庫の一番奥へ入れておきます。三つ鍵を使わなければあかない引出へ入れます」
課長は椅子から立上った。と同時に、もう幽霊事件のことは忘れてしまって、彼の注意力は他の捜査事件の方へ振向けられた。
だが、課長が黄表紙のパンフレットを紙包から別にはなして、部屋の隅の大金庫へしまいこませたことは、せっかく蜂矢探偵が持ちこんだ大切な「幽霊の餌」を課長が勝手に処分したわけであり、そういうことは蜂矢探偵への信義を裏切ることにもなり、またやがて夕刻からおこなわれる雪子学士の幽霊招待の実験にも支障をおこすことになりはしないかと危ぶまれるのであった。
古島老刑事は、さっきから、銀ぐさりのついた大型懐中時計の指針ばかりを見ている。
もう夕刻であった。折柄、空は雨雲を呼んで急にあたりの暗さを増した。ここ捜査課はいつもとちがい、この日は電灯をつける事が厳禁されていたので、夕暗は遠慮なく書類机のかげに、それから鉄筋コンクリートを包んだ白い壁の上に広がっていった。
課長の机の上には、雪子学士の研究ノートが数冊、積みかさねられてある。課長の椅子はあいている。課長の椅子の左横の席に、幽霊係の古島老刑事が、幽霊の餌の方を向いて腰をかけ、今も述べたように懐中時計の文字盤をしきりに気にしてびくついているのだった。その隣に、幽霊助手を拝命した猛者山形巡査が、これは古島老刑事とは反対に、大入道であれモモンガアであれ何でもでてこい取押えてくれるぞと、肩をいからし肘をはって課長の机をにらんでいる。
その他の席には、課員が十四五名、おとなしく席についている。しかし彼等は書類を見ているように見せかけてはいるが、実はそうではなく、いつでも課長の命令一下、その場にとびだせるように待機しているのだった。その中に課長の顔と蜂矢探偵の顔がまじっていた。隅っこの給仕席に二人は腰を下ろしているのだった。
「ほう、だいぶん暗くなって幽霊のでるにはそろそろ持ってこいの舞台になりましたよ」
蜂矢探偵が、じろじろとあたりを見まわし、すぐ前にいる課長にいった。
「そんなことは無意味さ。原子力時代の世の中に非科学きわまる幽霊などにでられてたまるものか」
課長は失笑した。しかしその声はいくぶん上ずっているように思われた。
「いや、とつぜん原子力時代がきてわれわれをおどろかせた如く、今日こそ幽霊というものを科学的に見直す必要があると──或る人がいっているんですがね」
「そんなことをいう奴は、よろしく箱根山を駕籠で越す時代へかえれだよ。蜂矢君、もし幽霊がでなかったら、君にはいいたいことがたくさんあるよ」
「そのときつつしんで拝聴しましょう。しかしその反対に幽霊がこの部屋にでてきたら、賭は僕の勝ですよ。そのときは課長ご秘蔵の河童の煙管を頂きたいものですがね」
河童の煙管というのは、課長が引出に入れて愛用している河童の模様をほりつけた、江戸時代の煙管のことであった。
「河童の煙管でも何でもあげるよ、君が勝ったときにはね」
「それは有難い。課長あなたの河童の煙管の雁首のあたりまでがもう僕の所有物にかわったですよ」
「なに、煙管の雁首がどうしたと……」
「しッ」と蜂矢が田山課長に警告をあたえた。「しずかに、そしてあなたの机の前の空間をよく見てごらんなさい」
「えっ!」
課長の目は、蜂矢から教えられたとおりに部屋の中央に据えてある自分の大机の方へ向けられた。と、彼の眼は大きく見はられた。そして顔が赤くなり、それからさっと青くなり息がはずんできた。額からは玉の汗がたらたらとこぼれおちた。
見よ、大机の上に、ぼんやりしてはいるが、見なれない女人の姿がおっかぶさっている。若い女人のようだ。服はぼろぼろに破れてみえる。
部屋のうちは、水をうったように静かであった。が、それは何人も少しの時間をおいてほとんど同時に雪子学士の幽霊の姿を認め、そして同様なる戦慄におそわれて硬直したためだった。
その幽霊に対し最も近い距離に席をとっていた古島老刑事は最も幽霊の発見がおそかったようである。その証拠に彼は大きな懐中時計を掌にのせて指針の動きに見とれ、首を亀の子のようにちぢめていたが、そのとき隣にいた山形巡査が古島の袖をひいて注意をしたので、それで始めて首をのばし顔をあげて指さされる空間へ視線を送ったが、
「あっ、でた、幽霊が……」
と叫ぶなり、老刑事の顔色はたちまち紙のように白くなり、そして彼の身体はそのままずるずると椅子からずり落ちて、彼の頭は机の下にかくれてしまった。それをきっかけのように、部屋のあちこちで、驚愕と恐怖の悲鳴が起った。
そのうちに、雪子学士の姿はだんだん明瞭度を加えた。そして彼女のしなやかな手が課長の卓上にのびて研究ノートの頁をぱらぱらと音をさせて開いた。それは急いでなされた。全部の研究ノートが二三度くりかえし開かれたが、彼女の硬い顔はいよいよ硬さを加えた。彼女はついにノートの表紙を手にもって強くふった。それは何か彼女のさがしもとめているものが見つからないので、じれているという風に見えた。
彼女はついに手を研究ノートからはなした。そして困り切ったという表情で、机上に立ちつくしていた。
そのときだった。室内に靴音がひびいた。
と、田山課長の姿が走った。彼は自分の席に戻って、雪子学士に向きあった。
「あなたは木見雪子さんですか」
課長は、いささかふるえをおびた声でぼんやりした雪子の姿に呼びかけた。
それに対して、雪子は返事をしなかった。課長のいっている言葉が聞えないのか、それとも聞えても知らないふりをしているのか、そのどっちか分らなかった。──が、雪子学士は課長を睨みすえると、研究ノートの山を指しそして両手を前につきだした。何かを催促しているようだった。
課長は胸をぎくりとさせたが、強いて平気をよそおい、首を左右にふった。
すると雪子学士の面に焦燥の色があらわれた。彼女は大きく眼を見開き、室内をぐるっと一めぐり見わたした。と、彼女は課長の机の前をはなれて、すたすたと室内を歩きだした。その行手に大金庫があった。──一同は固唾をのんで、雪子の行動に注目した。
雪子学士は、果して大金庫の前でぴたりと足をとめた。彼女の顔が心持ち喜びにゆがんだようであった。それから次に、意外な事が起こった。雪子学士は、その大金庫のハンドルに手をかけると、その大金庫をかるがると引っぱりだしたのであった。約四百キロはあるはずの大金庫が、雪子学士の手にかかると、まるで紙ではりまわした籠のように動きだした。そして雪子の姿と大金庫とは、窓の向うに滑りだしたのであった。
「待てッ」
呆然とこの場の怪奇をながめつくしていた幽霊係の助手の山形四段が、雪子の姿を追って後から組みつこうとしたが、それは失敗し、彼はいやというほど窓際の壁にぶつかって鼻血をたらたらとだした。
そのさわぎのうちに、雪子の幽霊と大金庫はゆうゆうとこの部屋から姿を消し去った。
「あっ、しまった。大切な証拠物件を何もかもみな持っていかれた。うむ」
と課長はようやく一大事に気がついたが、もうどうしようもなかった。
幽霊の賭は、遂に課長の負となり、蜂矢探偵が勝ったわけである。その蜂矢探偵の姿はいつの間にかこの部屋から消え失せていた。
「おい、何をしとる。早く金庫をとりもどさんか」
田山課長は、室内をあっちへ走りこっちへ走り、両手をうちふってわめきたてる。
「ところが、とりもどしたいにも、大金庫はどこへいったか分らんのです」
「そこの壁の中へ、すうっと入っていったがねえ。幽霊が、こんな手つきをして引っぱっていったが……」
「ばかなッ」課長は怒りにもえて課員をどなりつけた。
「そんなばかばかしいことがあってたまるか、大金庫は硬くて大きいんだぞ。それが壁の中へ入るなんて、そんなことは考えられん」
「いや、課長、たしかにすっと壁の中へ入っていったです。私はそれを追いかけていって、このとおり壁で鼻をいやというほどつぶしてしまいました」
金庫番の山形は、鼻血をだして赤く腫れあがった自分の鼻を指した。
「そんなことはない。君たちは、そろいもそろって眼がどうかしているんだ。もっとよくそのへんをさがしてみるんだ」
課長はますますいきりたった。
「ですが課長。あの重い大金庫がそうやすやすと動くはずがないんです。移動するにはいつも十人ぐらいの手がかかるんですからね。──ところが、ごらんのとおり、大金庫のあったところはぽっかりと空いています。わけが分らんですなあ」
「なるほど、たしかにさっきまでここに大金庫があったわけだが、今は無い!」
「課長! 重要なことを思いだしました」
といって課長の腕をとった課員がいた。
「なんだ。早くいえ」
「この前、木見の家の研究室で私が聞いたことですが、あの女の幽霊は、あつい壁でも塀でも平気ですうすう通りぬけていったそうですぞ。だから今もあの幽霊は、この壁を通りぬけて外へでていったのじゃないかと思うんです」
「しかしあの大金庫が壁を通るかよ」
「通るかもしれませんよ。この前のときは、あの幽霊は本をさらって小脇に抱えこんだまま、壁をすうっと向うへ通りぬけましたからね。だから、あの幽霊の手にかかった物は何でも壁を通りぬけちまうんではないでしょうかね」
と、その課員はなかなか観察の深いところを見せた。
「本当かな」
課長は半信半疑であったが、外にいい手がかりがちょっと見あたらないものだから、彼は部下に命じて外をあらためさせた。
気の強い課員が先頭に立って、扉をあけて外へでてみた。そこには非常用の梯子がついていて、この三階から中庭にまで通じていた。下を見まわしたが何にも見えない。
それでは上かなと思って、念のために上を向いてみたが、暮れゆく空には、高いところに断雲がゆっくり動いているだけで、やはり何も見当らなかった。
「どうだ。見つかったか」
課長も、課員と共に外へでてきた。
「だめです。幽霊のゆの字も見えません」
「壁を通りぬければたしかにこっちへでてこなければならんのですがね」
さっきの課員が、そういって首をかしげた。
「幽霊も大金庫も壁の中に入ったまま、まだ外へでてこないんじゃないかな」
「おい気味のわるいことをいうな。そんなら僕の立っている壁ぎわから幽霊のお嬢さんが顔をだすという段取になるぜ」
急いで壁のそばからとびのく者があった。
外をしらべ切ったが、手がかりは全くないと分ると、課長の心には、大金庫を重要書類と共に失ったことが大痛手としてひびきつづけるのであった。
(万事休した。一体どうすればいいのか)
さすがの田山課長も、にわかに自分の目が奥へ引っこんだように感じ、力なく課長室へ引きかえした。
室内はがらんとしていた。課員はみんな外へでているからである。しかしただ一人課長の机の前でのんきそうに煙草をふかしている者があった。誰だ、その男は? あいにく室内は暗くて顔を見さだめにくい。
「課長さん。賭は僕の勝ですね。あなたの秘蔵の河童のきせるは僕がもらいましたよ」
そういった声は、蜂矢探偵に違いなかった。課長は舌打ちをした。
「おい蜂矢君、君が幽霊なんか引っぱりこむもんだから、たいへんなさわぎになったよ。大金庫まで持っていっちまったよ、あの幽霊に役所の重要物件まで持っていかせては困るじゃないか、君」
「待って下さい課長さん。お話をうかがっていると、まるで僕が幽霊使いのように聞えるじゃないですか」
蜂矢探偵はにが笑いと共にいった。
「正に君は幽霊使いだとみとめる。君のお膳立にしたがって、あのとおりちゃんと現われた幽霊だからね。なぜ君は幽霊を使って役所の大切な大金庫を盗ませたのか」
「冗談じゃありませんよ、課長さん。幽霊使いなんてものがあってたまるものですか。はははは」
と蜂矢は笑ったが、そこで言葉をあらためて、
「木見学士が大金庫を持ちだしたわけは、課長さんがよくご存じなんでしょう。あの大金庫の中には、木見学士が非常にほしがっているものが入っていたのです。あなたは、僕に相談なしに、まずいことをしました。だから原因はあなたにあるのです」
この蜂矢のことばに、課長は何もいうことができなかった。正にそのとおりだ。
蜂矢は椅子から立上ると課長の机上から木見学士の研究ノートの包をとり、さよならを告げた。
「大金庫はやがてかえってくるでしょうから、心配はいらないでしょう」
蜂矢は、こんなことばをのこしていった。
捜査課で保管していた重要物件が入っている大金庫を奪われてしまったので、田山課長はその善後処置に苦しんだ。
課員たちも、家へかえるどころか、そのまま課長の机のまわりに集り、これからどうして大金庫を取りもどすか、総監へはどう報告をするか、捜査にさしつかえがおこるがそれをどうしたらよいかなどと、むずかしい問題について会議をつづけねばならなかった。
「とにかく壁をぶちぬいてみるんですね」
「いやそれはだめだ。それより全国へ手配してあの大金庫を探しださせるのがいい」
「そんなことよりも、さっき幽霊が大金庫を持ってどっちへいったか、その目撃者はないか、それを大急ぎで調べる事ですよ」
「そんなものを見たという者は、ただ一人も現われないよ、怪しげな雲をつかむような話だから、頼みにはならないよ」
「困ったねえ。これじゃ全く手のつけようがありゃしない」
一同は顔をあつめて、吐息をもらしあう外なかった。
と、そのときであった。突然室内に大音響が起った。がらがらとガラスが破れ器物がくだける音! すわ一大事件だ。爆弾がなげこまれたのであろうか。
一同は、反射的に、その大音響がした方へふりかえってみた。すると、東に面した硝子窓が大きく破れ、そこから冷たい夜気が流れこんでいる。その窓の下のところに並べてあった事務机や椅子がひっくりかえり、その中に見覚えのない大きな箱が、稜線を斜にしてあぶない位置をとっている。
「おや。へんなものがあるぞ」
「あっ、そうだ。窓から飛びこんできたんだ」
「窓からとびこんできたって、ああそうか。あの通り硝子窓が破れているからねえ」
こわごわその大きな箱の方へ近づいて、目をぱちぱちやっていた刑事の一人が、このとき大きな声でさけんだ。
「あっ、大金庫だ。うちの課の大金庫だ。大金庫が戻ってきたんだ」
大金庫が戻ってきた?
「えっ、本当かな」
これを聞いた課長以下が、そこへとんでいってみると、なるほどさっき失った大金庫に違いない。
「やっぱり、うちの課の大金庫だ」
「ふうん。蜂矢のいったとおりだったね。蜂矢は大金庫がきっと戻ってくるといっていたが……」
よく調べてみると、金庫はほとんどさかさまになり、そして床を大きくへこませていた。厄介なことではあるが、とにかく大金庫が戻ってきたことは何よりありがたいというので、課員総出で力をあわせて、その大金庫をようやくまっすぐにおきなおすことができた。
「さあ、こんどは中身をしらべることだ。重要物件はどうなったかな」
「課長。大金庫の鍵はちゃんとかかっていますよ。この分なら大丈夫です」
「そうか。なるほど、ちゃんと鍵がかかっているな。よし、あけてみよう」
暗号錠と、そうでない錠でひらく鍵と二種類の錠前がつけてあったが、課長の手で試みると、どっちも正しくかかっていた。そこで大金庫の鍵は、順序どおりに、錠をはずしていって、やがて扉はうまく開いた。
金庫の中には、更に錠がいくつもついた小さい扉があったが、それらもまたちゃんとしていた。そしていよいよ重要書類と木見学士の研究ノートの間から抜いた『復元文献抄』の入れてある引出が、課長の手によってぬきだされ、中が改められた。
「あっ、入れてあったものが無い!」
課長の顔はおどろきのために、赤くなり、そして次に青くなった。
無い。たしかに入れてあったものがない。その引出に入れてあったはずの重要書類と文献抄とが見えないのだ。
でも、まことにふしぎである。この大金庫はちゃんと錠が下りていたのに。……するとあの幽霊はこの大金庫をあけるための鍵を持ち、暗号錠の暗号を知っていたのであろうか。
課長は、もしや外に入れ忘れたのではないか、大金庫内の棚の引出などを念入りにしらべてみた。だがその結果はやっぱり同じことであった。重要書類も文献抄も、この大金庫内には全く見えないのだ。
「困った。困った」
課長はがっかりして、椅子に腰を下ろした。他の課員たちも、長時間にわたる奮闘の疲れが急にでてきて、大事なものを抜き去られた大金庫のまわりへ、みんなへたばってしまった。
「幽霊が相手じゃ、全くやりきれないよ」
「仕方がない。われわれのやり方を、このへんでかえるんだな、今の調子じゃ、この事件はいつまでたっても解決しない」
「やり方を変えるというと、どうするんだ」
「幽霊の存在を認めて、それが何故に存在するかという研究から出発するんだ」
「そんなむずかしいことができるもんか」
「そうでもないよ。蜂矢探偵を講師によんで、彼から教わるんだ。彼はなかなか幽霊学にはくわしいらしい」
「われわれとしては、蜂矢に教えをこうなんてことはできないよ」
「でもそれではいつまでたっても解決の日がこない。どうしたら幽霊を逮捕することができるだろうか、誰か大学へいって相談してきたらどうだろうかね」
課員たちのこんな会話を、田山課長はただにがにがしく聞いていた。
雪子学士の幽霊は、大金庫事件以来、ひどくきげんを悪くしたらしい。
そのわけは、あれ以来、雪子学士の幽霊が町へしばしば現われて都民をおどろかせるのであった。
女幽霊の現われたところには、かならず器物の破壊がおこり、何か物がぬすまれ、そしてあつまってきた弥次馬がけがをするのであった。
銀座の薬局がおそわれたことがあった。それは白昼のことであった。
女幽霊は、きわめてぼんやりした姿を薬局の中に現わした。始め店の者はそれに気がつかず、お客の方で気がついた。もっともそのお客さんは、硝子張の調剤室の中で動いている女幽霊を幽霊とは思わないで、それはこの薬局の婦人薬剤師だと思ったので、外から声をかけたのであった。
だが、女幽霊のこととて、返事もしないでいたので、気の短いお客さんは憤慨して、奥からでてきた店主に向い、かの女薬剤師の無礼なことをなじったのであった。
そこで店主は、一体お客さんを怒らせているのは誰だろうと思い、いわれるままに調剤室の中をのぞきこんでみるとそこには店主の見もしらない婦人が薬品棚の前をあちこち見てまわっているので驚いた。
「もしもしあなたは一体どなたですか。私にことわりなしに調剤室へお入りになっては困りますね。そこには劇薬もあり、毒薬もあることですからねえ」
そういって店主は相手に近づいていった。ところが彼の足は、調剤室の中へ二三歩踏みこんだばかりで、釘づけになってしまった。それは、彼が今とがめた相手の婦人の姿が、まるで影のようにもうろうとしているばかりか、その顔がぞうっとするほどの苦悶にみちていたからである。店主はそのけわしい幽霊の顔に見すえられて、息の根がとまるほどにおどろいた。
がらがらがらと音をたてて薬の壜が棚から落ちはじめたので、店主はようやくわれにかえり大声で救いをもとめた。それから大さわぎになった。店の中も店頭もめちゃめちゃになって、警官隊のかけつけたときには、足のふみ入れようもなかった。もっとも店頭がそんなにめちゃめちゃに壊されたのは、女幽霊が手を下したのではなく、このさわぎに乗じて、たちのよくない群衆がなだれこみ勝手なふるまいをした結果であった。
捜査課員の出張があって、この事件が、女幽霊の仕業だと分ったときには、さらに大きなさわぎとなった。
こんな事件が、つぎつぎと発生した。
恐怖と戦慄が、都下全体へひろがった。
女幽霊が、いつ侵入してくるかもしれない! 女幽霊はどんな厳重な戸締でも平気で入ってくる! 女幽霊をいくら追いかけても追いつけるものではない、なぜなら女幽霊は鉄の塀でも石の壁でもすうすうと向うへ抜けていってしまうからだ! 女幽霊に入られると、家の中がひっくりかえされる!
女幽霊の顔ときたら、般若よりもおそろしかった! 口が耳のところまで裂けていたそうな! すごい眼付で睨んで、のろいのことばをなげつけた! のろわれた者は、それから三日目に高熱を発して死んでしまった。
こんな風に、女幽霊についてあること無いことが入れ換って、噂となってとんだ。
それとともに、捜査課に対する非難の声が高まっていった。捜査課は一体なにをしているのか。こうたびたび都下にあらわれて、みんなに迷惑をかける幽霊を、なぜ逮捕することができないのか。一体あの女幽霊はどういう筋合いのものか、分っているだけのことでも早く都民へ知らせてくれたがいいではないか。幽霊の侵入を防ぐ最も有効な方法を至急研究して知らせてくれないと困るなど。
田山課長の顔は、ますます苦り切ってゆく。何日たっても、女幽霊に対して、これぞという解決も報告もできないのだ。しかるに新聞社の写真班が、女幽霊をうつそうとして競争で追いかけまわす、放送局では女幽霊の呻り声を録音して、実況中継放送をしますなどといいだすものだから、女幽霊の妙な人気は日毎に高くなる。それとともに捜査課はますますごうごうたる非難をあびることになり、田山課長以下の立場は今や極度に悪化した。
ちょうどその頃、女幽霊は何と思ったものか、突然或る夜更、道夫の枕許へあらわれた。
当時道夫は、あれからずっと意識がもとへもどらない川北先生のつきそいをして、警察病院に足どめされていた。いわゆる軟禁というあれだ。道夫には、自分の両親との通信も許されていなかった。これは、川北先生を一日も早く正気にもどるように、道夫に努力をさせるためであった。川北先生がよくなれば、道夫はこの病院から解放されて家へ帰れる約束になっていた。
道夫は、寝台の中によく睡っていたが、突然胸苦しさを感じて目がさめた。すると枕許に誰か立っているのだった。
「道夫さん。起きて下さい。ぜひあなたの力を借りたいのよ」
道夫は、そんな風に話しかけられたように思った。そこで彼はがばとはね起きた。
「道夫さん。あたしといっしょにいっていただきたいところがあるの」
もうろうたる雪子学士は、そういって青白い手を道夫の方へのばした。
なつかしい雪子姉さん──木見雪子学士の声だと気がついた道夫は寝台からむくむくと起上った。
すると道夫の眼に、雪子の姿がうつった。それははっきりした姿であった。雪子はやつれた顔を道夫に向けて、にんまり笑いかけた。
「雪子姉さん。どうしてここへこられたの。いつ帰ってきたの」
道夫はそういって、寝台からすべり下りると、雪子の方へかけよった。
「道夫さん、しばらくあたしにさわらないで……」
と、雪子はいって、横にとびのいた。
「え、どうして、なぜさわっちゃいけないの」
道夫は不満であった。
「そのことは、今に分るわ。とにかく気をおちつけて、あたしのいうことを聞き分けて下さいね。一生のお願いよ」
雪子の眼は大きく開かれ、悲しみの色をうかべて道夫を見つめた。
「あたしのことでみなさんがさわいでいるのでしょう」
「ええ、そうですよ。雪子姉さんの幽霊がでるといっています。ほんとうに雪子姉さんは幽霊なんですか。それとも生きているんですか」
「道夫さんはどっちと思いますか」
「ぼくは……ぼくは、雪子姉さんは幽霊じゃない。ちゃんと生きていると思うんだけれど……」
と、道夫はそういって、手をのばして雪子の身体にさわろうとした。
「いけません。道夫さん」雪子はきびしく叱って後へさがった。
「あたしが生きているかどうか、幽霊か幽霊でないか、そのことは今に道夫さんにくわしくお話をしますわ。それよりも今はとても大事なことがあるのよ。道夫さん。あたしをたすけて下さらない。あたしのお願いするところへいって、お願いすることをして下さらない」
「なんでもしますよ、雪子姉さんのためなら。……それに姉さんがそんなに困っているんなら、ほくの生命をなげだしても助けますよ」
道夫は、そう答えた。雪子の話を聞いているうちに道夫は胸がしめつけられるように感じたのだ。かわいそうな雪子姉さんに、あらゆる力をさしだす決心がついた。
「ありがたいわ、道夫さん」雪子は手を口にあてて泣きじゃくった。「……で、急がねばならないのよ、道夫さん、いっしょにきて下さい。しかしすこし苦しい目をしなければならないのよ。いいかしら」
「いいですよ。大丈夫。苦しくても、ぼく泣かないよ。しかしどこへいくの」
「いけば分るの。そしてお願いだけれど、これからあたしと行動を共にすると、ずいぶんふしぎなことが次々に起るんだけれど、なるべくそれについて、いちいちわけをきかないようにしてね。でないと、いちいちそれをあたしが説明していると、かんじんの仕事ができなくなるんですものね。くわしいことは、あたしが救われて安全になった上で十分お話することにして、それまでだまって、あたしのさしずに従って下さいね。いいこと」
雪子の話によると、ふしぎなことがあっても何も聞いてくれるなというのだ。
「むずかしいんだね」
道夫はにが笑いをした。
「さあ、それではいきましょう。道夫さん、目をつぶっていて。そしてちょっとの間、苦しいでしょうけれど、がまんしていてね、あんまり苦しければ、そういってもいいことよ。でもなるべくがまんして下さるのよ。そして眼をあけていいわといったら、眼をお開きなさいね」
「分ったよ」
「そしてその間、あたしは道夫さんの身体を抱えているんだけれど、おどろいちゃだめよ。なんだか気味のわるい振動を感じるかもしれないけれど。……それからもう一つ、道夫さんの方から、あたしの身体にすがりついてはだめよ。これはきっと守ってね」
「面倒くさいんだなあ。ぼく、いちいちそんなことおぼえていられないや」
道夫はそういった。雪子には大切な注意事項なんだろうが、道夫にはただうるさいばかりである。
「そうよ。ですから、道夫さんは、ただあたしの命令にしたがってさえいればいいの、分るでしょう」
「はあん」
「じゃあ、眼をとじていますね。これからでかけるのよ。ちょっとの間、苦しいでしょうが、がまんしてね」
道夫は、もう覚悟をして、おとなしくしていた。そのときふと気がついたのは、自分は今、川北先生のそばについているんだが、先生をほっておいて、また看護婦さんにもだれにもいいのこさないで、でかけてもいいのかどうかと反省した。
だが、そのときはもうおそかった。道夫の身体は後から抱きすくめられた。異様な気持になった。
そのときの身体の痛みも、ずいぶんたえ切れないものであったけれど、それよりも道夫を苦しめたものは、全身の骨に受けたなんともたとえようのない気持のわるい振動であった。
ふだんは、自分の身体の中に骨があることは殆んど感じないのであるが、そのとき道夫は全身をつらぬく、自分の骨が一せいにおどりだすように感じた。その骨は、一本ではなく、二百あまりの骨片が組立てられたものであるが、その二百あまりの骨片が、それぞれひとりでにおどりだしたのである。それとともに全身がへんな気持におそわれて、眼がまわった。それから胸がむかむかして、げろげろとやってしまった。
その苦しさに、道夫は大きな声をだそうとしたが、なぜかでなかった。また、ちょっと身体をうごかしても、反射的にはげしい痛みが起った。それはまるで自分の身体を、刃物にこすりつけて引き斬るようであった。
道夫は、低くうなりながら(それがせい一ぱいであった)その苦しみと痛みを相手にたたかった。一秒、二秒、三秒。道夫は、これは死ぬんじゃないかと思った。
と、とつぜんすうっと身体が軽くなった。今までおどり狂っていた全身の骨片がぴたりとしずまった。あやしげな不気味が、夕立の後で雲が風に吹きとばされてしまったように、なくなった。身体が急に軽くなった。
「ああ、苦しかった」
道夫は、ぱっと眼を開いた。
「あらあら、あたしが命令しないのに、眼をあいてしまったのね」
と、雪子がいった。雪子は道夫のうしろからあらわれ、前にきた。
「雪子姉さんは、後からぼくをかかえていたんでしょう」
「ほら、きいてはいけないといったでしょう。そんなことは……」雪子はそういって、やさしく道夫をにらんだ。
「さあ、お話があるから、その椅子に腰をおかけなさい」
そういわれて、道夫は気がつき、あたりをじろじろ見まわした。彼の顔に、大きなおどろきの色があらわれた。
「おや、どこだと思ったら、ここは雪子姉さんの研究室だ」
いつの間にか、雪子の研究室へきていたのだ。病院からここまで、最短距離でいっても二十キロメートル近くあろう。その間を道夫は、どうしてここまできたのであろうか。どの道を通ってきたのであろうか。時間にしてものの十秒とかからなかったと思うのである。ふしぎなことだ。
「また、何かききたいんでしょう。今はいけませんよ」先を越して雪子が道夫にいった。「それよりもこれから重大なお話をします。それは四次元世界のことです」
「なに? それは……」
「四次元の世界のことよ。知っていますか、道夫さんは、四次元世界がどんなものであるかということを」
「ぼく、知らない」
道夫は、なぜ四次元などというへんな名前のものを大事そうにかつぎだしたのか、気がしれなかった。それよりも今の問題、二十キロをどうして十秒ぐらいで走ったかその説明の方が聞きたかった。
「四次元世界のことから説いていくのが順序なのよ」雪子はそういった。「この話が分れば、幽霊というものが科学的に説明がつくんです」
「へえ、幽霊? 幽霊と四次元世界とかいうものとの間に関係があるの」
幽霊と聞いて、道夫はひじょうに興味をわかした。幽霊問題は、このごろたいへんやかましい。そしてその幽霊の御本尊というのが、外でもない、かれ道夫の前に、卓子をはさんで椅子に腰をかけている雪子姉さんなのである。
雪子姉さんは、はたして生きているのであろうか、それとも幽霊なのであろうか。その謎をとくには今がいちばんいいときだと感じた道夫は、それとなく雪子の身体に注目の目をくばった。
(おやッ!)
道夫は、心の中で、おどろきの声をあげた。それは、こうして眼の前に、椅子に腰をかけている雪子の姿は見えていて、たしかにそこに生きている雪子がいることが感ぜられるのにもかかわらず、よく気をつけていると、ときどき──それはほんのまたたきをするほどのわずかの時間ではあるが──ふいに雪子の姿が消えてなくなり、卓子のむこうにはただ椅子の背中だけが道夫に向いあっていることがあるのだった。道夫はそれに気がついてぞっとした。なんという気味のわるいことだろうか。
ところがしばらくすると、その椅子に、前のとおりに雪子がちゃんと腰を下ろし、道夫へ向いて、さっきと同じような姿でいるのであった。しかも、そうして雪子が椅子の上にもどってきても、音一つするのではないし、雪子の表情もかわらず、まことにふしぎなことだった。
しばらくすると、また雪子の姿が、道夫の眼の前からぱっと消えて、椅子の背中だけになってしまう。とまた雪子の姿があらわれるのであった。
こんな奇怪なことがくりかえされるので、道夫は自分の神経がどうかしたのではないかと疑った。だが神経のせいではないらしい。雪子の姿がしきりに消えるときには、眼の残像現象の理により、雪子の姿と、雪子のかけている椅子の背中とが重なり合って、まるで雪子の身体がガラスのようにすいて見えるように感じられた。
「道夫さん。へんな顔をしているのね。分っているわ。あたしの姿がへんにぼやけて見えるからでしょう」
ぼやけているというのでもない──と道夫がいおうとしたとき、雪子はいきなり立上って、隅の机の方へ歩いていった。そしてすぐこっちへもどってきたが、手には紙と鉛筆とを持っていた。
何事かを説明するに、紙の上に書くつもりらしい。幽霊に文字が書けるであろうか。
「道夫さんたちの住んでいる世界は三次元の世界よ。分って」
雪子は道夫にきいた。
「分らないね」
「だって三次元よ。つまり、その世界にあるあらゆる物は、横と縦と高さがある。たとえばマッチの箱をとって考えると、横が五センチ、縦が四センチ、高さが二センチ位ね。つまり横、縦、高さという三つの寸法ではかられるものでしょう。人間でもそうだわ。横も縦も高さもあるわね。つまり三次元というと、立体のことなの。道夫さんの住んでいる世界は立体の世界なの。わかります?」
「わかるような気がするけれど……」
「まあ、わかるような気がするなんて、心細いのね。──二次元世界というとこれは平面の世界なの。そこには高さというものがなくて、横と縦とだけがあるの。ちょうど、紙の表面がそれね。これが二次元世界」
「立体が三次元、平面が二次元というわけだね。じゃあ一次元というのがあるかしら」
「もちろん有るわよ。それは長さだけがある世界のこと。高さはないし、横、縦の区別がなく、ただ長さだけがある世界。これが一次元世界。──そこで四次元世界というものを考えることができるでしょう」
「ああ、四次元世界!」
と、道夫はわけのわからない四次元というものを思いだして、ためいきをついた。
「一次元世界は長さだけの世界なの。二次元世界では横の長さと縦の長さがある世界ですから平面の世界。その次は三次元世界となって、平面の世界に高さが加わり、横と縦と高さのある世界、つまり立体の世界だわね。分るでしょう」
「さっきから同じことばかりいっているよ」
「では四次元の世界はどんなものでしょうか。今まで考えたことから、次元が一つ増すごとに、新しい軸が加わっていく。立体の世界に、もし一つの軸が加われば、すなわち四次元世界となるわけ。さあ考えて下さい。想像して下さい。四次元の世界は、どんな形をもった世界でしょう」
「そんなむつかしいこと、わからないや」
と、道夫はなげだしてしまった。
「そういわないで、よく考えてみてよ」
雪子は、鉛筆のお尻で、卓子の上をこつこついわせながら、道夫の顔を見つめている。紙の上にはいつ書いたとも知らず、線と平面と、マッチ箱らしい立体との三つが書いてある。
道夫は、雪子からきかれて困ってしまった。
「四次元世界なんて、どんな形だか、てんでわからないや」
「そうなのね。四次元世界はどんな形のところだか、それをいいあらわすことはちょっとむずかしいわけね。なぜむずかしいかというと、人間は三次元の世界に住んでいるからなの。三次元世界の者には、それよりも一つ上の次元の世界のことはわからないわけですものね。たとえば、いま平面の世界があったとして、それに住んでいる生物は、どう考えても立体世界というものが分りかねるの。それは平面世界には、高さというものがないから──高さがあれば平面ではなくなりますものね──だから立体というものを想像することができないの。無理はないわね」
道夫は、すこし頭が痛くなった。紙の表面だけを考えると、これは平面世界だ。その世界に生物が住んでいるとする。
その生物には、高さというものが分らない。なぜなら平面世界には、横と縦とがあっても、高さというものがないんだから。
なるほど、よく考えると、わかる。
「それと同じように、立体世界、すなわち三次元世界に住んでいる者は、それより一つ高次の四次元世界を考えることができないわけなのね。どこまでかけだしていっても、要するに横と縦の高さの三つでできている世界であって、その上にもう一つの軸を考えることができないんですものね。別のことばでいうと、三次元世界の者は、三次元世界からぬけだすことができないために、もう一つの元がどんなものであるか、それを感ずることができない」
「もういいよ、その話は……」
「しかし、一次元世界があり、二次元世界があり、三次元世界があるものなら、四次元世界があってもいいし、さらに五次元、六次元もあっていい。つまり算数の理からいえば、そういえるわけね」
「算数は、考えるだけのことでしょう。それより、ほんとうにその四次元世界というのがあるのかどうか、それを知りたいなあ」
「それはあるのよ。ちゃんとあるのよ、四次元世界というものがね。それについてあたしは、ぜひ幽霊のお話をしなければならないの。あの幽霊というものは、四次元世界の者が、三次元世界に重なって、そしてできるところの『切口』であるという結論をお話しなければならないの。その方が、早わかりがしますからね」
「むずかしいお話はごめんだ。ぼくは雪子姉さんのように勉強もしていないし、あたまもよくないんだからね」
道夫が悲鳴をあげた。
「まず、幽霊を科学的に証明しておかないと、あたしが今どんな危険なところに立っているか、それが道夫さんにわかってもらえないと思うわ。道夫さん、実はあたしは、その幽霊なのよ。今あたしは、四次元世界を漂流している身なのよ。助けて下さい。ぜび力を貸してあたしを助けだして下さい。一生のお願いですから……」
と、雪子は姿もおぼろとなり、悲痛な声をはなって泣いて訴えるのだった。ああなぜ雪子学士は、四次元世界などに踏みこんで漂流するような身の上になったのか。
しずまりかえった真夜中のことだった。
光もおぼろの下弦の月が、中天にしずかにねむっていて風も死んでいた。
ぼろぼろの服に身体を包んだ雪子学士のあやしい影が、机のむこうから、悲痛な顔つきでもって、一所けんめいに道夫少年をかきくどいているのだ。
「幽霊を見るのは気のまよいだといわれているでしょう。この世の中に幽霊なんてありはしないといわれているわねえ。でも、幽霊というものは、ないわけではないのよ。道夫さんは今あたしをたしかに見ているでしょう。気のまよいじゃないわねえ。ところがあたしは、一種の幽霊なのよ。この世の人ではないのよ。うそだと思ったらあたしの身体にさわってごらんなさい。さあ、さわってみてよ。道夫さん」
そういわれて道夫は、気味がわるかったけれど、雪子のことばにしたがわないわけにもいかないので、椅子から立上ると、手をのばして机越しに雪子の腕をつかんでみた──いや、つかんだつもりだったが、実際は手ごたえがまるでなく、何にもない空間をかきまわしているのと同じだった。しかも眼で見ると、そこにはちゃんと雪子の身体がある。道夫は冷水を頭からあびたようにぞっとして、手を引込めた。
「ほほほほ、そんなおっかない顔をするものじゃなくてよ」
雪子は顔をゆがめて笑った。さびしい笑いであった。
「分ったでしょう。あたしの姿はちゃんと見えているのにあたしの身体は手にさわれないということを。……しかし、今のは、あたしがわざと道夫さんの手にさわらないように、ある行動をとったためなの。そこでもう一度さわってごらんなさい。あたしの手首に……」
そういって雪子学士は、道夫の方へ手をさしだした。
道夫は困った顔をした。あのような気味のわるいことは一度経験すればそれで十分だと思った。だが雪子学士のあやしい影がさあ早くさわってごらんとさいそくするので、それをしないわけにはいかなくなった。彼はおそるおそる手をのばして、雪子の手と見えるあたりをさぐってみた。
「あ!」
道夫は思わずおどろきの声をあげた。さっきとは違い、そこにはちゃんと雪子の手があったからだ。氷のように冷たい手ではあったけれど。……道夫は両手で雪子の手を握った。と、たちまち気味がわるくなった。さっき経験したことのある気持のわるさ。そうだ、雪子に手をとられて、川北先生の病室から脱けだしたときのあのいやな気持と全く同じだ。
「そこで道夫さん、あたしの手首のもっと上の方をさわってごらんなさい。手首から胸の方へ、あなたの手を移動していってごらんなさい」
雪子に命ぜられると、なぜか道夫はそれにしたがわないではいられなかった。気持の悪いのを一所けんめいにこらえて、道夫は雪子の手首をそろそろと腕の方へとなであげていった。するとまもなく道夫は大きなおどろきにぶつかって気が遠くなりかけた。というわけは、雪子の手首がそのすぐ上のところで手ざわりがなくなっているのだった。
そのくせ、眼で見ると、雪子の手は、手首から腕へ、腕から肩へとちゃんと続いていたのである。さわってみて、手首しかない。眼で見ると手首から上はちゃんとしている。なんという気味のわるいことであろう。気味わるさは、その切りはなされたような手首が、道夫の両手の中でもぞもぞ動きだしたときには絶頂に達した。道夫はとうとう本当に気絶してしまった。
それからどのくらいの時間がたったか分らないが、道夫が気がついたときには、彼は机にうつ伏せになり、そして雪子の幽霊が彼のまわりをうろうろ走りまわっているのを発見した。
道夫が気がついたのを見た雪子の幽霊は、たいへんよろこんだ。
「道夫さん。しっかりしてよ。そんなに気が弱くてはだめね」
「だって、仕方がないや」
「幽霊なんかこわがっていてはだめよ、何でもないんだから……」
「だって……」
「さあ、これをごらんなさい」
雪子は道夫の前へ一枚の紙を持ってきてその上に鉛筆で図をひいた。
「これは平面、すなわち二次元の世界よ。それはしずかな水の表面だと仮定しましょう。今その上からお芋をおとしたとしましょう。お芋はもちろん三次元の物体です。すると二次元世界の生物は、それをどんな風に感じるでしょうか」
雪子は熱心に語りだした。道夫はだまって聞いている。
「お芋の尻尾が、はじめて水の表面についたときは、二次元世界では、お芋を小さな点と感じます。分るわねえ。──お芋はだんだん下におち、小さな点だと思ったものはだんだんひろがってきます。つまりお芋と水の交わったところを考えればいいのよ。──別なことばでいえばお芋がはじめて水にぬれた部分のことを考えればいいのよ──二次元の世界の生物は大きくなる円を感じます。お芋の一番胴中の太いところが水の表面についたとき、二次元世界では、最も大きくなった円を感じるわけね。それから先は、お芋のまわりはでこぼこしているので、その円が妙にうごくように感じます。そうでしょう」
「うん」
道夫はうなずいた。
「そうだわねえ。そのうちにお芋は大部分が水につかり、だんだん細い方になるもんだから、二次元世界では、円がだんだん小さくなっていくことに気がつく。そして最後に、お芋がすっかり水につかってしまうと、小さな点も消えてしまって、何にも見えなくなる。さあそこでこのお芋の通りすぎたことを、二次元世界ではどう感じたか、もちろんお芋という立体が通りすぎたとは感ずる力はない。感じたのは、はじめ小さな点がだんだん大きくなってゆき、やがてその極限に達しさまざまに形が動いて変り、びっくりしておどろいている間にその円味をおびたものはだんだん小さくちぢんでいって、やがて消えてしまった──と、こういう風に二次元世界では感ずるのです。分るでしょう。そしていったい今のは何であったろうと、ふしぎがることでしょう。いくら考えても分らない。そこで二次元世界の生物は、『ああ、そうか、あれは幽霊というものだったんだ。それにちがいない』と結論をつけてしまうというわけ。これが幽霊の科学なのよ。分るでしょう、道夫さん」
二次元世界を三次元の物体が通過したとき、二次元世界では、三次元物体の交点を見る。そしてその交点は始めいきなりあらわれ、そして動き、やがて消えうせる。このふしぎな現象を、二次元世界では幽霊を見たんだと結論する、──雪子学士は、こういう意味のことを図解によって道夫に話をして聞かせたのであった。
「ねえ、道夫さん。今のお話がわかると、こんどは次元を一つあげて考えてみたいのよ。今あたしたち三次元世界をつらぬいて四次元世界の物体が通過したとすると、あたしたち三次元世界の生物は、それをどんな風に感じるでしょうか」
「さあ!」
「四次元の物体はどんな形のものだか、あたしたち三次元生物には、どんなに首をひねったってわかりっこないんです。しかしその四次元の物体が、あたしたちの三次元世界に交わると、その切口はあたしたちにも見えるわけね。ちょうど前のお話で、水の平面の世界にすんでいる生物が、お芋を一つの円と見たと同じように。──だからあたしたち三次元世界においては、四次元物体の切口が立体に見えるわけなのよ。ここが重要な点ですよ」
「何もない空間に、とつぜんあらわれたぼんやりした影のような形。それがだんだんはっきりしてきて、やがて人形か何かになる。が、それがいつしかぼんやりかすんでいって、おしまいにはふっと消えてなくなる。そういうものを、この世の人は幽霊だといっています。ところが、今のべた理屈でそれを説くならば、幽霊トハ四次元世界ノ物体ガ三次元世界ニ交ワリタルトキニ生ズル立体的切口ナリといえるわけでしょう。このお話がわかって、道夫さん」
そう問われて、道夫はようやく雪子のいっていることがわかりかけたように思った。
「じゃあ、僕たちが幽霊だと思っているものは、死んだ人の魂でもなんでもなく、四次元世界のものが、僕たち三次元世界にひっかかって、その切口が見える──その切口を幽霊と呼んでいるんだ。そういうんでしょう」
「まあ、大体そうですわ。道夫さんのことばをすこし訂正するなら、幽霊の中にはそういう幽霊もあるといった方が正しいでしょう」
「すると雪子姉さんはいったいどうしたわけなの。雪子姉さんは今幽霊でしょう。すると雪子姉さんは四次元世界の生物ですか。そんなはずはないや。僕たちは三次元世界の生物なんだから、四次元生物ではない。そうでしょう」
道夫はたいへんするどい質問を、雪子学士になげつけた。
雪子学士の顔が、急に赤くなったようである。雪子は何と返事をするであろうか。
「そうですわ。あたしは三次元世界の生物であって、決して四次元世界の生物ではありませんわ。でもあたしは、今、四次元世界に住んでいるんです」
「でも、三次元世界の僕にも、雪子姉さんの姿がちゃんと見えますよ」
「それは見えるでしょう。あたしは四次元世界を漂流している身の上だけれど、一生けんめいに三次元世界の方へ泳ぎついて、今それにつかまっているところなのよ」
「ああ、それで僕たちの眼に雪子姉さんの姿──いや姉さんの幽霊の姿が時々ぼやけながらも見えているわけね」
「そうなの。そしてあたしは三次元世界につかまっているんだけれど、とても苦しくて、この上いつまでもつかまっていられそうもないわ。あたしの体力がつきてしまったら、ああそのときはあたしは完全に四次元世界の中へ吹き流されてしまって、再び三次元世界に近づくことはできなくなるでしょう。道夫さん、どうかこの哀れなあたしを救ってよ」
雪子は涙と共に、悲しい声をふりしぼった。
「ええ、僕にできることなら、何でもしますよ。どうしたら雪子姉さんを救えるのでしょうか」
「ありがたいわ、道夫さん。ようやく薬品の配合比も計算したし、その薬品を集めることもできたの。あとはそれを使って、貴重な薬品を合成すればいいの。あたしは早速この部屋でその仕事を始めたいのよ。さあ、手伝ってちょうだい」
「どうすればいいの」
「そのブンゼン灯に火をつけてみてよ」
「はい。つけましたよ。それから……」
「ああ、とうとう火がついた。まあ、よかった。四次元世界に漂う者にとっては、どうしてみても三次元世界に火をつけることができなかったのよ。道夫さんあなたはその大困難を解決して下さった。あたしの生命の恩人だわ。ああブンゼン灯に火がついた。こっちのブンゼン灯にも火をつけてよ。ああ、救われる。貴重な薬が今こそ作られるのだ」
雪子学士の幽霊は、まるで火取虫のようにブンゼン灯のまわりをぐるぐると踊りまわって喜ぶのであった。
道夫はそれからも雪子のさしずによって、いろいろな仕事を手伝ってやった。棚からレトルトをおろして金網をおいた架台の上にのせたり、でてくるガスから湿気を取るために硫酸乾燥器のトラップをこしらえたり、沈殿した薬物を濾紙でこしたりした。そういう操作はほとんど全部道夫がした。雪子は命令したり、測定したり、判定したりするばかりだった。
深夜のこの作業は、誰にも邪魔をされないで進んでいった。
雪子はだんだんと昂奮の色を示し、じっとしていることができなくて部屋の中を歩きまわる。
「ああ、もうすこしだ、もうすこしだ」といって蛇管の中をのぞいてみたり、「これならきっと夜明けまでに元の世界へもどれるわ」などとつぶやいたり、その他わけのわからぬことをぶつぶついったりした。
「できた薬を姉さんは呑むんですか」
道夫が聞いた。
「そうなのよ」
「のむとどうなるの。四次元世界をはなれて三次元世界へもどれるというの」
「ええ、そうなの」
「すると今こしらえている薬は、いったいどんな働きをするの」
それには雪子は答えなかった。
「話してくれないのだね。じゃあ雪子姉さん。姉さんはどういう方法で、四次元世界へはいっていったの」
「あたしが三次元世界へもどったら、何もかもくわしくお話をしてあげるわ。それはあたしがたいへんな苦労をして見つけた方法なのよ」
「要点をいえば、どんなこと?」
「いやいや。今はいわないの。あとでゆっくりお話をしてあげる」
「四次元の第四の軸って、時間の軸じゃない」
「そんなもんではなくてよ。……ほら道夫さん。液がなくなったわ。新しい液を注がなくては……」
雪子の求める薬物ができ上ったのは、もう暁に近かった。
雪子はその薬物をコップへ移して水を加えてかきまわした。その上へ、別の薬品をいくつも投げこんだ。薬液の色はいくたびか変り、最後には薬がかかった色の液が白い泡をたてて沸騰し、もうもうと白煙が天井の方まで立昇った。雪子はそれを見ると狂喜してコップを眼よりも上に高くさしあげ、
「ああ、ついにあたしは、元の世界へかえれるんだわ。そしてあたしの研究の勝利が確認されるんだわ。ああ、なんというすばらしい喜び、すばらしい感激でしょう」
といってから、貴重な薬液の入った泡立つコップをもう一度高くさし上げ、それからコップを自分の唇のところへ持っていって、一気にそれを呑みほしたのだった。
からとなったコップが、雪子の唇をはなれ、しずかに台の上におかれた。が、次の瞬間、コップは横にとんではっしと壁にあたり、粉々に砕けた。雪子が腕を大きく振ったからであった。腕だけではない。雪子は腰から上の上半身をゼンマイ仕掛けの乗馬人形のように踊らせて振りまわした。髪がくずれて焔のように逆だち、両眼は皿のようにかっと見開き、口は今にも裂けそうになったが、とたんにはげしい痙攣と共に口から真黒い汁をだらだらと吐きはじめた。と、雪子の容貌はたちまち一変して、目の前に黒い隈ができ頬はこけ、顔面にはおびただしい皺があらわれたと思ったら、彼女はばったり実験台の上に倒れてしまった。そして全く動かなくなってしまったのである。
あまりのことに、道夫もまたその場に気を失って倒れてしまった。
道夫が気がついてみると、彼は同じ部屋で、浮浪者姿の老人に抱かれていた。あの怪しい老人がいつこんなところへ入りこんだものか、ふしぎであった。その外に、雪子の両親がいた。
「道夫君、しっかりしたまえ」
老いたる浮浪者の声は、意外にも若々しい響を持っていた。そして道夫は、それをどこかで聞いたことのある声に思った。
それも道理、道夫がもう大丈夫ですと答えると、その老人は帽子を脱ぎ、それから白髪頭を脱いで机上に置き、頬につけていた髯をむしりとった。すると老人の顔はなくなって、なんと名探偵蜂矢十六の若々しい顔がでて来たではないか。
「雪子姉さんは?」
道夫が、おどろきの中に叫んだ。
「あっちの部屋へ遺骸をうつしてある。やっぱりだめだったよ。雪子さんにはあの薬が強すぎたと見える。あの薬を呑むことが最後の機会だったんだがねえ。惜しいことにそれは失敗に終った。われわれはすばらしい天才を失ってしまった」
すすり泣く声が聞えた。雪子の両親が、手を握りあって泣いているのだった。
この事件について、始めから隠れたる探究をつづけていた蜂矢探偵は、この日も雪子の家のまわりを監視中であったところ、室内に雪子と道夫があらわれたので早速家人に知らせ、そして成行をそっと別室から窺っていたのだった。
雪子が死んでしまったので、三次元世界と四次元世界との間の交通がどうした方法によってできるのか、ついに謎のまま残されることになった。蜂矢十六は、それは多分身体にある特殊の振動を加えることではないかと思うと道夫にちょっと語ったが、息たえた雪子の死体が明らかに三次元世界へもどりえたこと、それまでは雪子の身体にふれたものは気持わるい振動を感じたことから思いあわせて、それは本当かもしれない。
川北先生はその後、六十日目にようやく意識を回復したが、先生の話によると、雪子学士とともに四次元漂流中の記憶といえば、苦しさの外になにもおぼえていないそうである。三次元世界と四次元世界との交通を、これから誰が開こうとするのか。道夫少年が大きくなったらそれを進めるかもしれない。そのときは蜂矢探偵と川北先生とがよい相談相手になることであろう。
底本:「海野十三全集 第11巻 四次元漂流」三一書房
1988(昭和63)年12月15日第1版第1刷発行
初出:「子供の科学」
1946(昭和21)年3月~1947(昭和22)年2月
入力:tatsuki
校正:浅原庸子
2005年1月16日作成
2014年11月24日修正
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