英本土上陸戦の前夜
海野十三
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英蘭西岸の名港リバプールの北郊に、ブルートという町がある。
このブルートには、監獄があった。
或朝、この監獄の表門が、ぎしぎしと左右に開かれ、中から頭に包帯した一人の東洋人らしい男が送り出された。
彼に随いて、この門まで足を運んだ背の高い看守が、釈放囚の肩をぽんと叩き、
「じゃあミスター・F。気をつけていくがいい。娑婆じゃ、いくら空襲警報が鳴ろうと、これまでのように、君を地下防空室へ連れこんでくれるわしのような世話役はついていないのだからよく考えて、自分の躯をまもることだ」
「……」
「おう、それから、君の元首蒋将軍に逢ったら、わしがよろしくいったと伝えてくれ。じゃあ、気をつけていくがいい」
「……」
ミスター・Fと呼ばれたその釈放囚は、新聞紙にくるんだ小さい包を小脇にかかえて、無言のままで、門を出ていった。
それからは、やけに速足になって、監獄通りの舗道を、百ヤードほども、息せききって歩いていったが、そこで、なんと思ったか、急に足を停め、くるりと後をふりかえった。
彼の、どんよりした眼は、今しも出てきた厳しい監獄の大鉄門のうえに、しばし釘づけになった。
そのうちに、彼の表情に、困惑の色が浮んできた。小首をかしげると、呻くようなこえで、
「……わからない。何のことやら、全然わけがわからない」
と、英語でいった。
溜息とともに、彼は、監獄の門に尻をむけて、舗道のうえを、また歩きだした。もう別に、速駆けをする気も起らなくなったらしく、その足どりは、むしろ重かった。
「……わからない」
彼は、つぶやきながら、歩いていった。どういうわけか、約一週間前から過去の記憶が、全然ないのであった。なんのため、監獄に入れられていたのか、そしてまた、自分がどういう経歴の人物やら、さっぱり分らないのであった。全く、気持がわるいといったらない。
警笛が、後の方で、しきりに鳴っていた。彼の思考をさまたげるのが憎くてならないその警笛だった。
なにか、やかましく怒号をしている。そして警笛は、気が違ったように吠えている。
彼は、うしろを振り向いた。
と、大きな函のトラックが、隊列をなして、彼のうしろに迫っていた。
彼は、轢殺される危険を感じて、よろめきながら、舗道の端によった。
とたんに一陣の突風と共に、先頭のトラックが、側を駆けぬけた。
「危い!」
彼は畦をとびこえて、舗道から逃げた。
濛々たる砂塵をあげて、トラック隊は、ひきもきらず、呆然たる彼の前を通りぬけていった。
〝気球第百六十九部隊〟
と、そういう文字が、トラックの函のうしろに記されてあった。それは、リバプール港へいそぐ阻塞気球隊だったが、彼は、そんなことを知る由もなかった。
山火事のように渦をまく砂塵の中に、ただひとり取り残されていた彼だった。
砂塵は、いつまでたっても、治まる模様がないので、彼は再び舗道へのぼり、気球隊の通りすぎた後を、ぼつぼつと歩きだした。
「イギリスは、いまドイツと闘っていると看守がいったが、このことだな。危険、危険」
それから半マイルばかり歩いた。
彼は、とうとう疲れてしまって、道傍に腰を下ろした。リバプールの市街の塔や高層建築が、もう目の前にあった。空には、夢のように、阻塞気球が、ぷかりぷかりと浮んでいた。
「ああ、綺麗だなあ」
と、彼は見当ちがいの賛辞をのべた。
道ゆく人が、探るような目で、彼の顔を覗きこんでいった。
(ミスター・F──と、あの看守は呼んでいたな。すると、おれは、ミスター・Fという人間か。そして、お前の元首蒋将軍へよろしく──といったが、蒋といえば、中国人の名前じゃないか)
現在のことは、考え出せる力があった。しかし一週間前のこととなると、全く思い出せないふしぎさ。彼は、自分自身が、一体何者であるかを知ろうとして、焦った。
「おれは、中国人かな。どうも、おかしい」
そのとき、彼は、ふと自分の足許に転がっている紙包に気がついた。それは、監獄を出るとき、看守から渡されたものであった。
どうやら、これは、自分の所持品らしいが、一体中には、何が入っているのであろうか。その中にこそ、彼の素姓を語る貴重な資料があるのに違いない。彼は一大発見をしたように思い、声をあげて、大急ぎでその新聞紙包の紐を解いてみた。
中から、出て来たものは、一体何であったろうか?
一着の、長い中国服だ!
中から出てきたものは、裾も手も長い、まっ黒な地色の中国服であった。そのほかになにもない。
「中国服か、やっぱり……」
彼は、首を左右にふりながら、服の裏をかえしてみた。すると、そこに白い糸で、仏天青と、漢字が縫つけてあった。
「仏天青? はてな、これが、おれの名前かな」
仏天青といえば、中国人の名前のようである。するとやっぱり、自分は、中国人なのであろうか。
看守が君の元首蒋将軍によろしくといったことが思いあわされる。
「中国人だったのか、おれは……」
仏天青──と今後彼をそう呼ぼう──は、まだぴったりしないような顔付で、ひとりごとをいった。
それから仏は、ふと、今自分が着ている服に目をうつした。それは中国服ではなく、タキシードであった。しかしひどく汚れていた。上も下も胸も、泥まみれになっていたうえ、肘のところは破れ、ズボンにも、かぎ裂きのような箇所があり、見れば見る程、見られたざまではなかった。
「ふーん、これはどうしたんだ」
どこで、こんなに土まみれとなり、かぎ裂きをこしらえたのであろうか。彼は、急に恥ずかしさがこみあげて来た。そこで、彼は下に落ちていた中国服をとりあげると、埃をはらって、タキシードの上から着た。そして、あわてて襟を合わせた。
彼は、それからまた歩きだしたが、何思ったか、また引返した。そして舗道のうえを風にあおられて匐っていく、包紙の新聞紙を、靴の先で踏まえた。彼は、その新聞紙をとりあげて見ていたが、そのまま畳んで、タキシードのポケットにねじこんだ。
ところが、そのとき彼は、また大発見をしたのだ。タキシードのポケットに手を入れてみると、何か硬い表紙をもった帳面のようなものが手に触れたのである。なんだろうと、引張り出してみて愕いた。それは、銀行の預金帳であった。二冊もあった。
彼は、ますます愕いて、二つの預金帳の頁を開いて、しらべた。一冊は英蘭銀行のもので在高は五万ポンド、もう一冊はフランスのパリ銀行のもので七百十七万フランばかりの在高が記入してあった。そして、どっちの帳面にも、この預金主の名として「ミスター・F」とのみ記されてあった。
これは、ミスター・Fの財産だ。相当の金だ。
彼は、ほっと安心していいのか、それとも他人の金を握ったことを気味わるく感じるべきかについて迷った。
だが、結局、ミスター・Fというのは、中国人仏天青の略称であろうと気がついたので、ようやく心は一時落着いた。
「この分なら、ポケットから、もっといろいろなものが飛び出して来やしないかなあ」
そう思った彼は、また中国服の前を開き、タキシードのポケットというポケットを探した。
ズボンの右のポケットに、ロールしたパンがぺちゃんこになって入っていた。口のところへ持っていくと、ぷーんと黴くさい臭いがしたので、舗道のうえへ叩きつけた。そのほかには、油に汚れたよれよれのハンカチーフが出てきただけであった。手帳もなければ、紙幣入れもない。銀貨銅貨一つさえ見当らなかった。
「タキシード一着、中国服一着、預金帳二冊、ハンカチーフにパン──これだけが仏天青氏の素姓を語る材料なんだ。ふふん」
不安の中に戦いていた彼は、そこで思いがけないパズルの題を渡されたような気がして、なんだか楽しくなってきた。そして、また舗道のうえを、リバプールに向けて歩きだしたが、彼の足どりは、以前にも増して、元気をつけ加えたようであった。
空は、どんより曇っていた。しかし、風が相当吹いていたから、やがて晴天になるであろう。
(さて、これから自分は、いかにして、わが家に戻るべきであろうか)
阻塞気球は風に揺れていた。
(おれは旅人らしい。わが家は、きっと、遠い広東省かどこかにあるのであろう)
中国と思えば、ふと「広東省」という地名が、頭脳の中から飛び出してきた。だが、それ以上に発展しなかった。
(この土地は、たしかにイギリスにちがいないが、自分は何用あってこんなところへ来たのであろう)
赤十字のマークをつけた病院の自動車が三台、町の方からやってきて、彼の傍を通り過ぎていった。
(おれは一体、幾歳ぐらいの男なんだろう)
彼は、ふと立ち停って、あたりを見まわした。目についたのは、畦道の傍を流れる小川だった。
彼は、そこまで歩いていって、恐る恐る、しずかな流れに顔をうつした。
「や、おれは、頭に怪我をしていたんだ。そうそう二三日前に気がついたんだが。何の怪我かしらん。おう、あ痛ッ」
彼は、痛々しい自分の頭の包帯にびっくりしてしまって、とうとう自分の顔から自分の若さを読みとる余裕がなかった。
そのところへ、サイレンが、けたたましく鳴り出した。
「あ、空襲警報だ!」
彼は、畦道をすっとんで、舗道の上へおどりあがった。きょろきょろ四周を見まわしたが、防空壕らしいものはなかった。
「どうしよう?」
彼は途方に暮れて、なおもうろうろしていた。するとそこへ走ってきた一台のトラックが、傍へぴたりと停った。
「早く乗れ」
トラックの上から、手が出ると、やっという懸けごえと共に、彼は車上に引き揚げられた。
トラックの上には、いろいろな種類の人間が乗っていた。いずれも皆、そのあたりを歩いていた町の人々らしかった。
トラックは、それから暫く走ったが、やがて「防空壕アリ」と建札のあるビルディングのところまで来ると、ぴたりと停った。
「さあ、防空壕へはいった。しずかに、そして早く……」
指導員らしいのが叫んだ。
仏天青も、人々のうしろから、柵の中にはいった。狭い下り坂を、ついていくと、やがて、電灯のついただだっ広い部屋が見えた。ぷーんと饐えくさい空気が、彼の鼻をうった。
彼の頭は、急に、ずきんずきんと痛みだした。よほど廻れ右をしようかと思ったが、あとからまた押してくる人で、それは不可能だった。
婦人の金切声と、子供の泣き叫ぶ声とで、壕の中は、さらに息ぐるしかった。天井は、角材を格子に組んであったが、非常に低かった。換気もよろしくない。監獄の防空室にくらべると、たいへん劣る。
「おい、立ち停らんで、もっと奥へはいってくれ」
「そう押しても、駄目だよ。前には、子供がいるんだ」
「おい、煙草の火を消せ。消さないと、つまみ出すぞ」
人気は荒かった。彼は押されているうちに斜面を滑って、避難の市民の頭のうえに墜ちそうになった。
すると、下から、彼の服を引張った者がある。
「おい、乱暴するな。墜ちるじゃないか」
彼は、眩しい電灯の下にあったので、顔をしかめて、下を見た。
「あなたァ、ここよ。早く早く」
「え」
見ると、見も知らぬ若い白人の女が、しきりに、彼の中国服の裾を引張っているのであった。
「誰です、君は。人違いでしょう」
彼は、そう叫びかえしたが、その女には、すこしも聞こえないらしい。
「あなたァ、そっちへいっちゃ駄目よ。いいから、そこを滑り下りて……」
そのときには、彼の躯は、早くも斜面の端からはみ出し、ずるずると下に落ちていった。
「あなたァ、どうなさったかと思っていたわ。まあ、よかった。おお神さま」
見ると女は、口先だけで、神の名を称え、そしてその眼は、仏天青の眼に、じっと注がれていた。
「君は……」
といおうとすると、
「あなたァ……」
といって、いきなり女の両の腕が、仏の首にまきついた。後は、何もいうことが出来なかった。彼の口は、女の唇で、ぴたりと蓋をされてしまったのである。彼は、気が遠くなる想いで、躯の自由をうしなってしまった。
ただそのとき覚えているのは、やや、しばらくして、女が、はげしい息づかいとともに、彼の耳に、いくども囁いた言葉だった。
「……なんにも言わないで……なんにも考えないで……そしてもうあたしを捨てていかないでよゥ」
彼は、名状すべからざる困惑を感じた。しかし遂に、彼は女の躯から手を放そうとはしなかった。自分の胸の中で、嗚咽するその女が、ただもういじらしくて仕方がなかったし、それに、
(うむ、ひょっとすると、この女は、自分の女房であるかもしれない)
と思ったのである。
彼は、女の髪をやさしく撫でてやった。
女は、また更に大きな声をあげて、彼の胸の上で泣きだした。
(……おれは、女房にめぐり合ったんだ。どうも、それに違いない。女房のやつ、おれがもう監獄から出てくるかと思って、今日もこのへんをうろうろしていたんだ。そこへ空襲警報が鳴り響き、この防空壕へとびこんだ。そして神の名を呼んでいると、その前へ、いきなりおれの顔が電灯の光の中に現れた。そこで必死になって、おれの服をもって引き下ろしたのだ。どうも、そうらしい。いや、それに違いない)
彼は、女の髪の上に、そっと唇を押しつけた。
(……おれの女房は、空襲が終ったら、おれを自分の家へ連れていってくれるだろう。そして、おれが知りたいと願っていたおれの過去について、すっかり説明をしてくれるだろう)
彼は、女の背に、手をまわした。
「おう、可愛い私の……」
彼は、その先の言葉につまった。
「私のアン……」
女が、そういった。
「そうだ。可愛い可愛い私のアン。私はもう、どこへもいきはしないよ」
彼は、そういうと、唇をかんだ。頬を、止め度もなく、熱い涙がほろほろと、滾れ落ちた。
仏天青は、アンと抱きあっていた。
それから暫くして、彼は、アンの腰のあたりに、変に硬いものが当るので、ふしぎに思って、そこを見た。
「おや、アン。これはどうしたのかね」
彼は、アンの腰に、丈夫な綱がふた巻もしてあるのを発見した。しかもその綱の先は、防空壕の肋材の一本に、堅く結んであった。まるで囚人をつないであるような有様であった。
「いいのよ、あなた」
「よかないよ。説明をおし。これじゃ、まるで……おや、手も、そうじゃないか」
アンの手首は、いつの間にか綱でしばられていた。
「大丈夫。手首はぬけるのよ」
といって、アンは、綱のくくり目から、手首をぬいてみせた。しかし腰の紐までは、ぬいてみせなかった。もちろん、それは抜けないように二重に縛ってあった。
「アン。なにもかもお話し。一体……」
「しっ」
そのとき、仏天青のうしろから、どら声を張りあげたものがあった。
「こら、女。逃げると承知しないぞ」
仏は、むっとして、うしろを振り向いた。胸に徽章を輝かした私服警官が立っていた。
アンは、綱でしばられたまま手首をつと動かして、仏の服をおさえた。
「あなた、黙ってて……」
アンは、彼に注意を与えると、私服警官の方へ仰向き、
「あたしの夫が、帰って来てくれました。このとおり、あたしを抱いていてくれます。人違いだとお分りでしょう。このいましめの綱を、解いてくださいませ」
「なんじゃ。お前の亭主が帰って来たと。なるほど、中国人らしい面じゃ……だが、本当かどうか信用できるものか」
「そんなことは、ありません。ねえ、あなた。この警官は、なにか大へん勘ちがいをしていらっしゃるのですよ。結婚のとき取交わしたあたしの名前を彫った指環を見せてあげてください……」
「指環? 指環どころか一切の所持品は……」
盗られてしまったと、仏はいいかけたのを、アンは素早く引取って、話題を転じた。
「けさのことよ。リバプールの桟橋から、海へ飛びこんだ男があったのよ。そのとき、たいへんな騒ぎが起ったんですけれど、この警官たち、あたしが、その自殺男の妻君にちがいないとおきめになって、とうとうこんな目に……」
「自殺男じゃない」と、私服警官は、アンを怒鳴りつけたが「まあ、もう少し温和しくして待っていろ、空襲が終り次第、どっちが、お前の本当の亭主だか、よく調べてやる」
仏は、黙りこくって、唇を噛んだ。
そのとき、とつぜん、飛行機の爆音を耳にした。
「ひえーッ、敵機が……」
「ああ神よ、われらを護り給わんことを」
防空壕の人々の中からは、一せいに悲鳴と祈りとが起った。と、あまり遠くないところで、轟然たる爆発音が聞え、大地はびしびしと鳴った。
「墜ちた、近いぞ」
わァと喚いて、逃げ腰になる。それを、叱りつける者がある。
仏とアンとの傍に立っていた私服警官は、二人を睨みつけておいて、そのまま身を翻すと、防空壕の入口の方へ駈け上っていった。
また、爆音が聞えた。今度は、よほど近い。ばらばらと、天井から砂が落ちて来た。大地は、地震のように鳴動した。
「マスクは、出してお置きなさい。マスクのない人は、奥へいってください」
あっちでもこっちでも、お祈りの声だ。
「今度は、あぶない」
「おい、もっと奥へいこう」
揉みあっている一団があった。
「騒いじゃ、駄目だ、敵機の音が聞えやしない」
「あたしゃ、昨日の空爆で、両親と夫を、失ったんだ。こんどは、あたしの番だよ。自分がこれから殺されるというのに、黙っていられるかい」
「まだ子供がいるだろう。年をとった別嬪さん」
「なにをいうんだね。子供なんか、初めから一人もないよ」
「そうかい。だからイギリスは、兵隊が少くて、戦争に負けるんだ」
「なにィ……」
そのときだった。
天地もひっくりかえるような大音響が起った。入口の方からは、目もくらむような閃光が、ぱぱぱぱッと連続して光った。防空壕は、船のように揺れた。そして異様な香りのある煙が、侵入してきた。がらがらと壁が崩れる音、電灯は、今にも消えそうに点滅した。避難の市民たちは一どきに立ち上って、喚いた。
「逃げろ。爆弾が、こんどはこの防空壕をこわすぞ」
「貴様、うちの子供の上に……」
「あ、毒瓦斯。マスクだ、マスクだ」
「国歌を歌おう」
「毒瓦斯だ。そう来るだろうと思ったんだ、ナチ奴!」
だが、それは毒瓦斯ではなく、単に硝煙であった。破甲爆弾が、この防空壕の、すぐ傍に墜ちたのだった。
入口から、ばらばらと数人の者が駆けこんで来た。何か長いものを持ちこんで来たと思ったら、それは負傷者だった。
「胸だ、胸だ。シャツを裂け」
「こっちへ寄せろ。電灯の方へ……」
胸を真赤に染めた男の顔が、電灯の光に、ぱっと照らし出された。その男は、紙のように、真白な顔色をしていて、目が引きつっていた。よく見ると、それは、さっき、アンを咎めた私服警官であった。
「あなた、逃げましょう」
「えっ」
「綱を切ってよ。ナイフは、ここにあるわ」
「よし、こっちへ貸せ」
どこから出したものか、アンの手にはジャック・ナイフがあった。仏天青は、刃を出すと、ぷすっと綱を切った。
「ああ、助かった。さあ、逃げるのです」
「アン、どこへいく。あ、今、外へいっちゃ、危い。入口でやられた人があるじゃないか」
「いいのよ。こうなれば、どこにいても同じことよ。さあ一緒に逃げてよ」
アンは、ぐいぐいと仏天青の手を引張った。
「危い。もうすこしの間、待て」
「いいえ、待てないわ。じゃ、あたしひとりでいきますわ」
アンは、入口の方へ上っていった。
「おい、アン、待て。おれも出る」
仏は、そういうと、中国服の裾を摘んで、アンの後を追った。
防空壕を飛び出してみると、外は、今爆撃の真最中だった。
頭上には、ドイツ機が、縦横に飛んでいた。爆弾は、ひっきりなしに落ちて、黒い煙の柱をたてた。大地は、しきりに震う。
「おーい、アン」
仏は、精一杯の声をあげて、アンを呼んだ。
「あたし、ここよ」
うしろで声がした。見ると、アンは、そこに跼んで、腰の周りについていた綱を、解いているところだった。
「呑気だね、今、そんなことをして……」
「もう解けたの。大丈夫ですわ。さあ、あなた、この車にしましょう」
「えっ」
アンは、防空壕の入口に乗り捨てられてあった自動車の一台に駆けよると、運転台の扉をあけて、とびこんだ。
「早く、さあ、あなた」
仏は、アンの心を解しかねたが、ぐずぐずしているわけにもいかず、つづいて、運転台にとびのった。
「あら、あなたと反対だったわね」
アンは、ハンドルのことをいっているらしかった。
「よし、こっちへ替れ。おれが、運転する」
「そんな暇はないわ。あたしが動かします」
そういうと、アンは、ためらうことなく、エンジンを掛けた。そしてアクセルを踏んで、車を出した。
それからのちの、アンの働きぶりは、驚嘆に値するものがあった。
彼女は、その子供らしい顔に似合わず、非常に巧みに操縦をした。そして爆撃に震う舗道のうえを全速力でもって、リバプールの町の方へ飛ばしていった。
いつ、爆弾が、上から降ってくるかしれなかった。アンは、それでも、平気なものであった。彼女の目は、いつも前方を見つめていた。
一度は、丁度さしかかった町辻の郵便局へ、爆弾が落ちた。
「あ──」
と、アンは叫んだが、そのまま速力をゆるめないで驀進した。その辻のところでは、半壊の建物から、また、ばらばらと石塊がふってきた。アンは、ハンドルの上に首を縮めながらも、急カーブを切って崩れて落ちた石塊の充満する辻を、右へ折れた。車は、ゴム毬のように、はずんだ。
「アン、どこへいくのか」
と、仏は、ほれぼれと、ハンドルをとるアンを眺めた。
「どこって、あなた、リベッツの宿に荷物が置いてあるじゃありませんか」
「荷物が……」
「ああ、失礼。あたし、あなたにお話ししてなかったけれど、宿をかえたのよ。だって、いつお出になるかわからなかったんですものねえ」
「え、出るって……」
仏は、ふしぎそうな顔をした。
彼は、アンに初めて逢ったときには、アンを、まことの自分の妻だと思った。ところが私服の警官が現われて、アンが、リバプールの桟橋から飛び込んで死んだ男の妻君であって、何かの事情のため、自分に助けを求めたものじゃないかと思った。だが、これは断言するだけの証拠が集っていなかった。アンが、防空壕を出ていくといったとき、彼はいよいよこの女の亭主の代役が終ったのかと思って、憂鬱になった。が、アンがいよいよ空爆下の防空壕の外へ飛び出していくと、もうじっとしていられなくなって、アンの後を追いかけたわけだった。
そのうちにも、彼は、
(こうして、もうしばらくアンの傍にいれば、本当に自分が彼女の亭主であるか、それとも防空壕の中で、臨時に捉えられた偽装亭主であるかが判明するだろう)
と、思っていたのであった。
しかるに今、アンは、彼が、さきほど監獄から出たことを承知しているような口ぶりであった。
「そうなのよ。けさ、急に、あなたが、ブルートの監獄をお出になるって、知らせがあったもんだから、早く宿を出たんですの。そして海岸通りを桟橋の傍まで歩いて、そこで自動車を待っていると、あの身投げ騒ぎがあったのよ。そして、あたしは附近にいたというだけのへんな理由で、私服警官のため、その身投げ男の妻と見られて、捕縛されちまったの。そして、ブルートの未決監房へひいていかれるうちに、あの空襲警報に出遭ったのですわ」
アンは、息をはずませながら、早口にそういった。
「ああ、そうだったか。おれはこの頃、神経衰弱になったのか、妙に、なにもかも、忘れてしまうんでね」
仏は弁解らしくいった。そして胸の中はうれしさで一杯になった。
(アンは、やっぱり、おれの妻だった。おれは幸運にも、自分の家庭へ戻ることが出来たのだ)
しかし彼は、アンを心配させないために、過去の記憶のなくなったことを、なるべく急には言うまいと思った。そのうちに、何かの拍子で、恰も緞帳が切って落されたように、一ぺんに自分の過去が思い出されるかもしれないと、そこにはかない望みを残したのであった。
リベッツの宿というのは、海岸にあった。
アンが、自動車を、リベッツの宿につけたとき、空襲警報は、はじめて解除となった。アンは、仏の手をとらんばかりにして、宿の中へ誘った。下宿の老婦人は、アンを見ると、驚愕に近い表情になって、彼女のところへ飛んできたが、傍に仏が立っているのに気がつくと、俄に平静に戻ろうと努力し、
「おや、まあ、これは……」
と、どっちつかずの挨拶をすれば、アンはそれを途中から引取って、
「おばさま。これ、この通り、夫にうまく行き逢いましたのよ。警官に行手を拒まれた時は、どうなるかと思いました。幸いにその途中で夫に逢えたもんですから、こんな幸運て、ちょっとありませんわ」
「まあ、それはそれは、御運のよかったことで……で、すぐロンドンへいらっしゃるでしょう。ねえ、アン」
「え、ええ、そうしましょう。荷物をとりに来たのも、そのためよ」
「午前九時十五分発の列車がいいですわよ」
「そうですか、午前九時十五分発ですね」
「気をつけていらっしゃい。こういうとき、あたしなら十三号車に乗りますわ。こういう時節のわるいときには、わるい番号の車に乗ると反って魔よけになるのよ」
「十三号車? ええ、ぜひそうしましょう」
仏は、二人の会話を傍で聞いていたが、アンが、この下宿のかみさんドロレス夫人を、母親のように信頼しているのを知った。アンは、ドロレス夫人のいうとおり、なんでも従うつもりに見えた。車室まで、かみさんのいったとおりにするなんて、いやらしいほどの信頼ぶりだと、彼は思ったことだった。
二人は、荷物をとるために、奥へ入っていった。仏だけは、そこに置かれた一ぱいの熱いコーヒーを味わっていてくれるよう、ということだった。
二人の女は、なかなか出て来なかった。一体、奥で、なにをしているのであろうかと、仏が立ち上ったとき、やっと声がして、二人の女は出て来た。
「あなた、これよ。このバッグを二つ、持ってくださらない。あたしは、この小さいのを二つ持ちますわ」
仏は、そこへ並べられたバッグを見たが、一向見覚えがないものだった。記憶の消滅の情けなさ。
二人は、下宿を出た。
駅の方へ歩きながら、仏が、ふと思い出したようにいった。
「ねえ、アン。おれは懐中無一文なんだがねえ、リバプールの英蘭銀行支店で、預金帳から金を引出していく暇はないだろうか」
「否。そんなことをしていれば、列車に乗り遅れてしまいます」
「じゃあ、一列車遅らせてはどうだ」
「それは駄目。あの列車に、ぜひとも乗らなくては。だって、いつまたドイツ機の空襲で、列車が停ってしまうか分らないんですもの」
そういったアンの顔は、仏が始めて見る真剣な顔付であった。空襲を要慎してということだったけれど、それにしても、それほど深刻な顔をしなくてもいいだろうにと、仏は思ったことである。
ロンドン行の切符をアンが買った。そのとき切符売場で駅員とアンの間になにかごたごた押問答の場面があったが、アンが旅券みたいなものを示し、そして仏天青を呼びつけて、彼の顔を駅員に見せることによって、二枚の切符は、ようやく窓から差し出されたのであった。
「いやに、うるさいのですね」
と、仏が、鉄格子の中を覗きこみながら、いうと、
「おう、若い中国の方。今朝から、特別の警戒なんですよ。桟橋附近で、夫婦連れのスパイを見かけたが、一人は海へ飛びこむし、他の一人は行方不明になるし、それで、この騒ぎですよ」
「それは、どこの国のスパイですかね」
「もちろん、ドイツ側のスパイですよ」
「ああ、ドイツですか。けしからんですなあ。しっかり、気をつけていてください」
アンが、しきりに服を引張るので、仏は、そのくらいにして、出札口を離れたが、そのとき、駅員の前に、「要監視人通告書」という紙が載っていて、そこに、「間諜フン大尉の件」という見出しのついていたのを、目敏く読みとった。
(フン大尉か)と、仏は口の中で間諜の名をくりかえした。
アンは、不機嫌だった。
「あなた。さっきの防空壕のこともあるんですから、あまりあたしたちにとって不利な発言は、なさらないようにね」
「不利な発言? おれがいま駅員と話をしたことが、それだというんだね」
アンは、黙ってうなずいた。
「なあに、大丈夫さ。でも君が心配するなら、以後は、口を慎もう」
「それがいいわ。お互のためですもの」
アンは、機嫌をなおして、甘えるように、仏の腕にすがりついた。
列車はホームについていた。大時計を見ると、今発車という間際だった。仏は愕いて、アンを抱えるようにして十三号車に飛びのった。
リバプールからロンドンまでは、四百数十キロの道程があった。特別急行列車は、この間を十時間で走ることになっていた。だから、午後七時ごろには、ロンドン着の筈であるが、今は、ドイツ機の空襲が頻繁なので、いつどこで停車するかわからず、ひょっとすると、ロンドン入りは、翌朝になるかもしれないという車掌の談であった。
アンと仏とは、十三号車の中の、一つのコンパートメントを仲良く占領することが出来た。
この十三号車は、わりあいすいていたようである。誰も、この空襲下に、わざと縁起のよくない座席を選ぶ者もなかったからであった。
「あなたは、黙っていらしてよ。女が出る方がすらすらといきますからね」
アンが、そういったのは、車内に於ける乗客取調べのことであろう。もちろん、仏にとっては、そんな煩わしいことに、頭を使いたくなかったので、万事アンに委せることに同意した。
列車憲兵が、廻ってきた。
「ロンドンへは、どういう用件でいかれますかね」
憲兵は、記名の切符を、アンへ戻しながら、油断のない目で、アンを見つめた。
「夫が、このとおり、空襲で頭部に負傷いたしまして、なかなか快くならないんですの。早く名医の手にかけないと、悪くなるという話ですから、これからロンドンへ急行するんです」
「ほう、それは、お気の毒ですね。負傷は、どのあたりですか」
「ちょうど、このあたりです」
と、アンは、前額のすこし左へよったところを指し、
「見たところ、傷は殆どなおっているんですけれど、爆弾の小さい破片が、まだ脳の附近に残っているらしいのです。レントゲン──いえ、エックス線の硬いのをかけて、拡大写真を撮らないと、その小破片の在所がわからないのですって。ですけれど、こうしていつも傍についているあたしの感じでは、その小破片は、もうすこしで、脳に傷をつけようとしているんだと思います」
「ああ、よくわかりました。奥さんも、御心配でしょう。御主人の御本復を祈ります。じゃあ、ロンドンの中国大使館へは、私の方から取調べ票を送って置きますから」
「はい、どうもありがとうございました」
「じゃあ御大事に。蒋将軍にお会いになったら、どうぞよろしく」
憲兵は、最後に、仏天青に挨拶すると、次のコンパートメントへ移っていった。
アンと憲兵との会話を、傍で聞いている間に、仏は、異常な興奮を覚えた。
(まだ、アンを疑っていたが、とんでもないことだった。アンは、たしかに、自分の妻にちがいないんだ。なぜって、自分さえ知らない頭部の負傷のことを、その始めっから、現状まで、くわしく心得ているのだ。妻を疑ってすまなかった。もう妻を疑うのは、この辺で、はっきりお仕舞にしよう)
彼は、アンに対し、それを口に出して、謝りたくて仕方がなかった。しかし、そんなことをすれば、アンの軽蔑をうけるばかりで、何の益にもならないと思ったので、それはやめることにして、只心の中で、アンに詫びた。
アンと憲兵との話によって、仏は、かねて知りたいと思っていた頭部の負傷の謎が解けたことを、たいへんうれしく思った。
これは、空爆で、爆弾の破片によってうけた傷であったのか。前額の左のところに、その気味のわるい前途を持った傷口があったのか。そんなことを考えると、その傷口のことが、俄に心配になった。そこで、そっと手をあげて、包帯のうえから、傷口を抑えようとした。
「およしなさい、あなた。触っちゃ、いけません。脳の傷は恐しいのです。刺戟を与えることは、大禁物ですわ」
そういって、アンは、仏の手をおさえて、彼の膝へ戻した。
「おい、アン」
「なあに、あなた」
「お願いだ、おれが、この頭部に負傷したときのことを、もっと詳しく話してくれないか」
「ああ、そのことなの」アンは、仏の顔を見上げ、「いつでも、話をしてあげますわ。でも、今はよしましょう。あなた、昂奮していらっしゃるようね。すこしおやすみになったらどうです。あたしも、なんだか、列車にのって安心したせいか、急に睡くなって、ほらこのとおり眼がしょぼしょぼなのよ。ほほほほ」
なるほど、アンの眼は睡そうであった。仏は、見れば見るほど、子供のように可愛いところのあるアンを、これ以上、彼の我儘のため疲らせることは気がすすまなかったので、
「アンよ、おやすみ。そのうち、おれも睡くなるだろうよ」
そういって、仏は、アンの額に、軽く唇をつけた。アンは、早やもう目をとじていた。
あと、十時間だ。
仏は、アンに睡られてしまって、俄に退屈になった。窓外を見ると、空は相変らず、どんよりと曇っている。畠には、小麦の芽が、ようやく三、四吋伸びている。ようやく春になったのである。
仏天青は、またアンの方を見た。アンは、本当に寝込んでしまったらしい。すうすうと、安らかな鼾をかいている。そして、弾力のある小さい唇の間から、白い歯が、ちらりと覗いていた。
仏は、立ち上ると、アンのオーバーの前をあわせ、そしてその襟を立ててやり、席に戻った。
色のぬけるように白い、鳶色の髪をもった彼の妻!
(おれは中国人だが、アンは中国人じゃなくて、白人だ。白人にもいろいろある。伊国人だろうか、イギリス人だろうか。いや、イギリス人には、こんな美人はいない。躯の小さいところといい、相当肉づきのいいところといい、ひょっとしたらフランス人じゃないかなあ)
彼は、そんなことを考えながら、妻君の寝顔を、飽かず眺めていた。
列車の窓から、マンチェスター市の空を蔽う煤煙が、そろそろ見えてきた。
アンは、まだ眠っている。
仏天青は、まだ眠る気になれなかった。そのとき彼は、ポケットの中に、新聞紙があったのを思い出した。それは彼が今着ている中国服を包んであったものだった。彼は、いそいで、それを出して展げた。
新聞は、ロンドン・タイムスだった。日附を見ると、八月十日とある。かなり古い日附の新聞だった。七八ヶ月も前の新聞だ。
わがイギリス軍と独伊枢軸側との戦闘は、フランス戦線をめぐって猛烈を極めているとの記事で充満していた。フランス遠征のわがイギリス軍は、ついに総引揚を決行した。ドイツ機必死の猛爆にも拘らず実に巧妙に、そして整然と、わがイギリス兵は本国へ帰還したと、写真入りで報道してあった。
(なあんだ、イギリス軍は負けているじゃないか。そして、フランスは、ドイツ軍の靴の下に、踏み躙られようとしているではないか。これは重大なる戦局だ──現在はどうなっているのだろうか)
他の記事によると、イギリス軍のフランス撤退について、多数のフランス人が、汽船や飛行機にのって、イギリス本土へ避難して来たことをも報じていた。
〝今やイギリス本土は国際避難所の如き感がある!〟
などという記事も見える。
〝必要ならば、フランス政府も、一時ロンドンに移転するかもしれない〟
そういう記事もあった。また、
〝ドイツ軍の長距離砲敢えて恐るるに足らず、われまた、更に一歩進んだ新長距離砲をもって酬いん!〟
という記事もあって、いよいよ近く英独は、ドーヴァ海峡を距てて対戦するであろうことを示唆しているものもあった。
「そうすると、中国は、この欧州の戦局に対して、どういう役割をしているのかな」
仏天青は、そういう疑問にぶつかった。
そこで彼は、新聞紙をいくたびか畳かえして、そういう記事のある欄を探した。
〝東洋〟という欄が、ようやくにして、見つかった。わが中国は、安心なことに、まず、イギリス側に立っているようであった。イギリスからは、また新借款を許したそうであり、兵器弾薬は、更に活発に、中国へ向けて積み出されていることが分った。
「このようなイギリス側の援助をうけて、わが中国は、東洋で、ドイツ軍を迎えるのであろうか」
彼は、また奇妙な疑問にぶつかった。
だがむさぼるように、その先の記事を拾っていくと、終りの方に、彼を愕かせるに足る記事があった。
〝首都重慶は、昨夜、また日本空軍のため、猛爆をうけた。損害は重大である。火災は、まだ已まない。これまでの日本空軍の爆撃により市街の三分の二は壊滅し、完全なる焦土と化した。しかも、蒋委員長は、あくまで重慶に踏み留まって抗戦する決意を披瀝した〟
日本が中国を攻撃している! あの小さい日本が、大きな中国を攻撃しているのだ。なんというおかしなことであろう。一体、中国の空軍は、なにをしているのであろう。中国の空軍の活躍については、生憎ニュースがなかったのか、なにも記載がなかった。
「日本軍は、敵ながら、なかなか天晴なものだ」
仏天青は、ひどく日本軍の勇敢さに、ひき入れられた。敵国が好きになるとは、困ったことであった。
彼は、新聞紙を、また折りかえして、次なる頁に目をやった。
「おや、こんなところに、アンダーラインしてあるぞ」
今まで気がつかなかったが、下欄の小さい活字のところが、数行に亙って、黒い鉛筆でアンダーラインしてあった。そこを読むと、こんなことが書いてあった。
〝パリ発──日本大使館附フクシ大尉は、ダンケルク方面に於いて、行方不明となりたり。氏は英仏連合軍の中に在りて、自ら偵察機を操縦して参戦中なりしが、ダンケルクの陥落二日前、フランス軍の負傷者等を搭載しパリに向け離陸後消息を絶ちしものなり。勇敢なる大尉及び同乗者等の安否は、極めて憂慮さる〟
それを読んだ仏は、舌を捲いた。
「ふーん、日本軍人は、ここでも勇敢なことをやっている。勇敢なる中国軍人のニュースは、一体どこに出ているのだろうか」
生憎と、その日は、中国軍人が活躍しなかったものと見え、他をしらべても、中国軍人の勇敢さについては一行半句も出て居らず、ただ、列強の対中援助のことだけが、くどくどと書いてあるばかりだった。
「あら、あなた、なにを読んでいらっしゃるの」
眠っているとばかり思っていたアンが、いきなりむくむくと起き上って、仏の持っていた新聞をひったくった。
アンは、なぜか、険しい目をして、新聞の面を大急ぎで見ていたが、
「あら、これ、ずいぶん古い新聞なのね」
と、溜息と共にいった。
「こんな古新聞紙を、どこでお拾いになったんですの」
「おれのポケットに入っていたんだ。その前には、この中国服を包んであった。ブルートの監獄を出るとき、看守が渡してくれた」
「え、ブルートの監獄ですって」
アンは、なにを思いだしたか、恐しそうに、体をすくめた。
「アン。これごらんよ。こんな記事に、鉛筆でアンダーラインがしてあるんだが、誰が、これを引いたんだろうね」
そういって、仏天青は、例の日本将校フクシ大尉の失踪に関するパリ電信の記事を見せた。
アンは、その記事を読んで、仏の顔を見たが、首を左右に振った。
「誰がつけたのか、あたしは知らないわ。看守さんが引いたのじゃないかしら」
彼も、それを聞いて、首を振った。
「アン。この記事を見て、なにか感想はないかね」
「感想? べつにないわ」
と、アンは、突放すように言って、
「あなたの方に感想がありそうね」
「この記事の日本将校はフクシ大尉だろう。それから、リバプールで、君の目の前で、桟橋から海へ飛び込んだ男は、フン大尉というんだろう。フクシ大尉にフン大尉、どこか、似ているじゃないか」
仏天青は、前に自分の心に誓ったことなどはもう忘れて、アンの顔色を、鋭い眼で見つめた。
アンは、ちょっと周章てているようであった。
「あれはフン大尉という人なんですか。知らなかったわ。フン大尉とフクシ大尉、名前の頭と、そして大尉とは似ているけれど、全く別人じゃない? 第一、フクシ大尉は日本将校だし、フン大尉というのは、白人なんでしょう」
「フクシ大尉は日本人で、フン大尉は白人か。なるほど、そいつは大きな違いだ」
そんなことを言っているときに、列車は、ストークの駅についた。
アンは、お腹がすいたから、サンドウィッチがたべたいといった。それからレモン水も欲しいし、序にチョコレートと南京豆とを買ってちょうだいなと、彼に金を渡した。
仏は、その金を握って、プラットホームに下りた。そしてアンにいわれた品物を、買い集めているうちに、列車は、ぽーっと鳴って動きだした。彼はもちっとで、ホームに置き去りにされるところだったが、いそいで駈けつけたので、やっと最後の車に飛び乗ることが出来た。
仏は、そのたくさんの買物を抱えて、十三号車まで辿りつくのに、人や荷物を分けていくため、たいへん骨が折れた。
やっと十三号車に辿りついて、アンの待っているコンパートメントに入ろうとしたとき、内側で、ひそひそと話声がしているので、彼は、はっと思って、足を停めた。
廊下に立って、そっと耳を澄ましてみると話しているのは、アンと、そしてもう一人は男の声だった。言葉は、フランス語だった。男の声は、いやに疳高い。アンが、もうすこし低く喋ってはと注意したが、その男の声は地声とみえて一向低くならなかった。
「……桟橋から飛びこんだときは、後悔したよ。なぜって、海の水は、冷え切っているのだからねえ」
「もっと小さい声で……」
「とにかく、そんなわけで、もぐれるだけもぐっていたが、モーターボートの追跡陣は、厳重だ。もう駄目かと思ったときに、空襲警報が鳴った。これが、天の助けだ。そうでなければ、ボジャック氏は、今ごろは縄目の恥をうけていたわけだ」
「よかったのねえ」
「だが、どうにも腑に落ちないのは、あのものものしい騒ぎの一件だよ。われわれフランスからの避難民を、イギリスの奴等は、いやに犯罪人あつかいするじゃないか。フランスは、あんなにイギリスのために、ドイツの奴等を喰い止め、血を流してまでも働いてやったのに」
「仕方がないよ。いまに、誤解がとけるだろうよ」
「しかし当分は、小さくなって隠れていなくてはね」
仏天青は、廊下に立ってこの会話を盗み聴きしていたが、それ以上、聞くにたえなかった。ボジャック氏とかいう男は、リバプールの港へ飛び込んだ人物であり、そしてアンの連れであった。すると、アンの亭主ではないか。アンを自分の妻君だと信じていた仏天青は、全身、血が一時に逆流を始めたような気がした。
(このまま、列車から飛び下りてしまおうか?)
と、仏天青は、思った。
だが、彼は、遂に、そうはしなかった。そして、コンパートメントへ入っていったのであった。
彼は、初めて声の主ボジャック氏の姿に接した。長身の、目の落ちこんだ、鼻の高い男であった。言葉つきから想像したよりも、若くて逞しい青年だった。ボジャック氏は、驚いて、座席から、ぴょんととびあがった。
「そ、そのままで、どうぞ」
そういった仏天青は、両腕に抱えていたサンドウィッチだの南京豆だのを、座席のうえに置いた。それから、アンの方へ向いて、
「私は、さよならを言いに来たのですよ。アン! そしてフン大尉?」
そういうと、男は、怪訝な顔をして、自分の頬へ手をやった。
「あなた。なにを言っていらっしゃるの、どうも変ね」
アンは、立ち上って、仏の腕に縋りついた。
仏は、アンの身体を、ふり放そうとしたが、それはうまくいかなかった。アンの力というよりも彼の方に、新しい疑惑が湧いてきたが故だった。
(フン大尉と本名を呼んでやったのに、ボジャック氏は、変な顔をしたが、べつに愕きはしなかったぞ)
彼の当は外れたのだった。ボジャック氏は、フン大尉ではないらしい。果して、そうかどうかは、まだはっきりしないが……
「あなた、なに仰有るのよ。ボジャック氏に笑われますわよ。うちの人は、監獄にいる間に、頭がすこしどうかしてしまったのよ。御免なさい、ボジャックさん」
「わたしは、べつに何でもありませんがね。御亭主さん、気が立っているようだな」
相手の二人の間には、今もまだ芝居めいたものが感じられたが、そうまで言われて、仏天青は、これ以上、すね者扱いされるのがいやだった。それは、彼の短気というか、潔癖のせいであったろう。とにかく、彼は機嫌を直したことにして、座席に座った。ボジャック氏は、どうか彼の素姓については内密に願うと、くどくどと歎願したのち、ずっと後方にあるという彼の座席へ帰っていった。
「あの方、フランスにいたとき、パン屋の店を出していた人よ。リバプールで、行き逢ったんですけれど、警官に何かと間違えられて、桟橋から飛びこんだところまで、実はあたしが見ていたのよ。でも、可哀そうでしょう。あたしは、何も喋りたくはなかったから、何も関係ないと、いっただけなのよ」
アンは、そういって弁解したのち、いろいろと、仏の機嫌をとった。
「さあ、機嫌をお直しになって、買ってきていただいたもの、二人で喰べましょうよ」
アンは喰べながらも、ひとりで、くどくどと同じことを喋った。仏は、サンドウィッチを喰べたり南京豆を噛んだりしているうちに、こんどは彼の方が眠くなった。そして、いつしか時間を忘れてしまった。
仏天青が、目を覚ましたときには、列車はごとんと大きな音をたてて、立派な駅についたとこだった。ホームを見ると、バーミンガムと書いてあった。
「ああ、バーミンガムか。なにか、ありそうだな。アン、お金をお出し。おいしいものを見つけてくるから」
仏は、アンの機嫌をとるつもりで、金を握ると、ホームへ下りていった。
ホームは、ひどく雑閙していた。何を買おうかなと思っていると、改札口の向こうで、新聞売子が、新聞を高くさし上げて、何か喚いていた。彼は、これを買う気になってそこまでいった。
新聞は、なによりの常識読本だ。新聞を見ていると、忘れてしまった昔のことを、なにか思い出すよすがになるような気がする。
彼が、新聞を買っているとき、不意にうしろから抱きついた者があった。
「ああ、やっと掴まえた」
女の声だ。そしてフランス語だった。しかしアンの声ではない。
「誰!」
仏が、ふりかえってみると、彼に抱きついていたのは、一人の中国人らしい若い女だった。
「あなた。あたし、どんなにか探していたわ。もう放れちゃ、いやよ」
「誰だ、君は」
「あなたの妻じゃありませんか。いやだわ、うちの人は。あたしを忘れてしまうなんて」
「人ちがいだ。放してくれ」
仏は、女の様子に、変なところがあるので、彼女の手をふりほどいた。
「仏天青。あたしを捨てていくつもり。ねえ、仏天青」
「仏天青。おれの名前を知っているのか」
「仏天青。あたしは、妻の金蓮じゃありませんか」
仏は、おどろいた。全く、寝耳に水の愕きであった。彼の名前をいいあてたばかりか、その金蓮という女は、自分は妻だというのである。
「おれの妻はアンだ。それに、今また仏天青の妻の金蓮だと名乗る女が現れた。一体、これは、どういうわけだろう。どっちが本当かしら」
彼の頭は、こんがらがった麻糸のように乱れた。どうすればいいのやら、わけがわからなくなった。
困惑しきっている間に、時間がたってしまった。ふと気がついてみると、列車は、動いていた。しかも最終の車両が、もうホームの真中あたりへ来て、相当のスピードを出していた。
「おい、列車、待て。ああ、アン!」
だが、金蓮は、放さなかった。まるで、子供が母親の躯に縋りついて放れないように、金蓮は、ますます強く、彼の躯をしめつけた。
「こらこら、また始めたな。困るね。さあ、放した放した」
駅員が来て、放そうとしたが、金蓮は、頑張っている。
「この女、困っちまうな。中国の男の方を見れば、すぐこのとおりなんですよ」
と駅員はいった。そのとき列車は、ホームを出ていってしまった。
「おい、放せというのに。金蓮さん、よく見てみなさい。君の主人だかどうだか、分るでしょう。ほら違う人だろう」
「あ──」
「どうだ、人違いだろう」
「ああ、違う。違うんだ、今、ここにいた仏天青は、どうした。あ、仏天青を、戻しておくれ。仏天青は、こんな顔じゃない。もっと顔が長くてりっぱないい男だ。こんな若僧じゃない。早く、返しておくれ」
女は、前とはうってかわって、彼をつき飛ばした。
「おい、金蓮。君の探している仏天青とは、どんな字を書くのかね」
こんどは、彼が逆に金蓮の腕をつかんだ。
「どんな字を書くって。こういう字だよ。あれっ、あたしは、忘れちまったよ。あそこに、書いたものを落して来た。ああ、誰かに拾われると、たいへんだ。仏天青を拾っちゃいけないよォ」
金蓮は、彼をはげしく突き飛ばすと、駅の入口の方へ走り出した。
仏は、おどろいて、その後を追おうとした。すると駅員が、彼の腕を抑えて留めた。
「およしなさい。あの女は、頭が変なんです。誰にでも、ああするのです。構わない方がいいですよ」
「しかし仏天青というのは……」
「仏天青という名前は、私たちも、耳にたこの出来るほど聞いていますよ。あの女のいうところに従えば、その御亭主は、大使館参事官で、そして世界一の美男子だそうです」
「大使館参事官?」
「どうも、あてにはなりませんがね」
駅員の話を聞いていると、あの女は、現在こそ変になっているが過去の事柄については、かなり正確な記憶を持っているように思われた。彼女のいう仏天青は、大使館参事官であって、彼よりも年配の者であり、そして美男子である──と、これだけのことが、ようやくはっきりしたのであった。
すると、彼女のいう〝仏天青〟と、彼自身とは、一体どんな関係に置かれているのだろうか。
発音が同じで、文字が違う同発音異人という者もないではないが、仏天青という文字以外に、常識的に使われる文字は、そうないのであった。この上のことは、彼女に会って聞くより仕方がない。が、金蓮は、いつまでたってもかえって来なかった。彼はぼんやり、ホームの長いベンチのうえに腰を下ろして、考えつづけていた。しかし結局、金蓮のいう〝仏天青〟と彼自身とは容貌に於いて別個の人間だと思われ、また彼自身も、いきなりホームで抱きつかれた金蓮に対する印象が淡く、どうしようかと考えているうちに、そこへロンドン急行の別の列車がホームへ入ってきたので、彼は金蓮を待つことをやめて、その列車に乗り込んだのだった。
列車は、間もなく動きだした。思いがけない情痴事件の駅を後にして……。
彼は、無切符であった。
切符は、アンが持っているのだ。
彼は、バーミンガム駅のホームで、喰べ物を買い込むために、アンから貰ったすこしばかりのお金を握っているだけだった。とても、これでロンドンまでの切符を買うことは出来なかった。
彼は、すぐさま車掌に申告するとか、バーミンガムの駅で証明をとって置けばよかったのだ。だが、彼はそんなことに気がつかなかった。只考えたのは、何とかして、検札や旅客訊問の網に引懸るまいとして、こそこそ逃げ込むことばかりにこれ努めた。
その結果は、甚だよろしくなかった。彼は、とうとう無賃乗車の怪しい乗客として、車掌に捕えられた。それから憲兵の前へ引き出された。
彼は、陳弁に努めた。だが、彼等は、なかなか信用しなかった。彼は、思い出して、二冊の貯金帳を出して見せた。
「ほう」
と、彼等は、目を丸くしたが、
「この貯金帳には、大金を預けていることになっているが、この列車の中では、通用しない。このごろは、敵国のスパイが、よくそういうものを偽造してもっているからだ。本当に君は、中国人であろうか。われ等は、君を日本人の密偵だと睨んでいるのだが……」
仏天青は、その然らざる所以を滔々と述べた。そして、一列車前の十三号車に乗っている彼の妻君アンに連絡してくれれば、万事明白になるからと、しきりにその事を申し述べたのであるが、車掌と憲兵とは、それを実行しようとも何とも言わずに、彼を三等車の隅っこに押しこんで、附近の乗客に、彼を監視しているように命じた。
こうして、彼の不愉快な列車旅行が始まったのであった。
幸いに、彼を監視の乗客たちは、この顔色の黄いろい中国人をむしろ気味わるくおもっていたので、ときどき彼を睨みつける位のことで、手を出して迫害せられるようなことはなかったので、この点は大いに助かった。
彼は、不愉快のうちに、これまでの突拍子もない事件のあとを、静かにふりかえる時間を持った。
(一体、おれは、仏天青氏なのか、それとも他人なのか?)
アンは、自分が仏天青であることに異存はなかった。ブルート監獄の看守も「ミスター・F」と呼んでくれた。アンと一緒に乗り込んだ前の列車の憲兵も、同じく彼を仏天青と認めてくれた。それに、彼は仏天青名義の二冊の貯金帳を持っているではないか。
彼が〝仏天青〟ではないと言われたのは、バーミンガム駅にいた女だけだった。いや、それから、この列車の憲兵と車掌も、彼に対し幾分疑惑を持っているのだ。
これらを差引きして考えると、彼が仏天青であることの方が、そうでないことよりも、有力であると考えられる。あの女に逢うまでは、このような疑惑は、殆ど起らなかったのだ。あのバーミンガムの女こそは、懐疑の陰鬼みたいなものであった。
(おれは、仏天青に違いないのだ!)
そう思いながらも、彼は、あの女の残していった科白、
〝こんな若僧じゃない!〟
という言葉が、いつまでも無気味に思い出されるのであった。
彼のもう一つの当惑は、妻君のことだった。バーミンガムの駅で、あの女に取り縋られたときには、妻が二人出来たかと思って、すくなからず愕いたのだった。つまり、列車の中に待っている可愛いアンと、そしてこの塩漬けになったような中国女であった。
(女房を二人も持ってしまうなんて……)
と、そのときは、当惑したものであるが、しかるに只今、彼の身辺には、二人妻どころか、只の一人も、妻がついていないのであった。彼は、全く変な気がした。……
そんなことを考えつづけているとき、さっきから、彼をこっぴどい目にあわせた車掌が、彼の前を通りかかった。
「もし、車掌さん。前の列車にいるアンと、連絡がつきましたかね」
彼は、胸を躍らせて、車掌の返事を待った。
「そんな乗客は、いなかった。尤も、私は、始めから、君の言葉を信用していなかったが……」
「そんなことは嘘だ。アンは待っている」
「嘘ですよ。中国人は、見え透いた嘘を、平気でつくものだ。日本人は、そんなことをしない」
車掌は、そういって、彼の手をすげなく振り切って、向こうへ行ってしまった。
「そんな筈はない……」
彼は、拳を固めて、自分の膝のうえを、とんとんと叩いた。
「そんな筈はない。あの車掌め、中国人を侮辱する怪しからん奴だ」
彼は、爆発点に達しようとする憤懣をおさえるのに、骨を折った、孤立無援の彼は……。
列車旅行は、ますます不愉快さを高めていった。列車が、駅へつくたびに、彼は、車窓から顔を出して、もしやアンの乗っている列車が、同じホームについて、待っていないかと、一生けんめいに探したのであった。
そのうちに、こんな考えが、ふと頭の中に浮んだ。
(アンは、おれを捨てていったのではあるまいか。そうでなければ、バーミンガムの次の駅で下りて後から遅れて来るおれの列車を、待っている筈じゃないか)
アンは、彼を捨ててしまったのであろうか。とにかく、彼のために親切でないことだけは確かである。
(すると、やっぱり、あのボジャック氏というのが、アンの亭主であったのか。そしてボジャック氏、すなわちフン大尉という筋書か!)
彼は、胸糞がわるくなって、ぺっと、床に唾を吐いた。すると、隣りにいたイギリス人が、こっぴどい言葉で、彼の公徳心のないことを叱りつけた。
彼は、なんだか、もう生きているのが味気なくなった。
その味気なさは、列車がロンドンに着いてから、更に深刻味を加えた。
なぜといって、彼が最後の頼みとしていたところに反して、ホームの上には、彼を待っているアンの姿が、見当らなかったのであった。
車掌は、彼を、駅の会計室へ引張っていこうとした。彼は、それを後にしてくれと拒んだ。そして暴れた。車掌は仕方なく、彼のあとについて、彼と共に、改札口の外に出、それから駅の中をぐるぐると廻り、そして、掲示板という掲示板の前を巡礼させられた。その揚句の果に、仏天青は、遂に病人のように元気を失ってしまった。そして車掌に言った。
「おれのする事は、もう終った。さあ、今度は、どこなりと、君が好きなところへ、引張っていきたまえ。あーあ」
彼は、空襲警報と爆撃の音とを子守唄として、三日間を、ホテルの中で、眠ってばかりいた……
ロンドン駅についてから、彼は一旦警視庁の手に渡り、それからものものしい借用証書に署名して、やっと放免された。
それから彼は、乗車賃の借りをかえすためにも又生活をするためにも、金が必要だったので、英蘭銀行へいって払出書を書いた。ところが、銀行からは、体よく断られてしまった。どうも、サインが前のものと違っているから、帳簿に乗っているとおりのものを思い出してくれというのであった。
彼は、かーっとなったが、それでも、虫を殺して、一旦銀行を出た。
銀行を出ようとして、彼が、掲示板の中に、パリ銀行のロンドンに移転してきた告知ポスターを見落したとしたら、彼の上には、もっと深刻なるものが降ってきたことであろう。幸いにも、彼は、それに気がついたので、その足で、パリ銀行の臨時本店へいってみた。そこで彼は、十万フランの払出請求書を書いた。すると行員は、気の毒そうな顔をした。また、駄目かと、彼は苦い顔をしたが、行員は、
「誰方にも、只今、一日五千フラン限りとなっていますので、事情御諒承ねがいます」
といった。彼は、それならばというので、請求書を五千フランに書き改めると、銀行では、それに相当する英貨で、払ってくれた。彼は、やっと大安堵の息をついた。これで、乾干しにもならないで済む。
それから、彼は、このホテルに逗留することとなったのである。
休養だ! そして睡眠だ!
彼は、ただもう昏々と眠った。空襲警報が鳴っても、ボーイが、よほど喧しくいわないと、彼は、防空地下室へ下りようとはしなかった。地下室の中でも、彼は、遠方から地響の伝わってくる爆撃も夢うつつに、傍から羨ましがられるほど、ぐうぐうと鼾をかいて睡った。
三日間の休養が、彼を非常に元気づけた。彼は、アンに捨てられたことを自覚し、そしてアンのことを思い切ろうと決心した。そんなことが、一層彼の頭の中から、苦悩を取り去ったものらしい。
四日目、五日目は、ドイツ機の空襲が、ようやく気に懸るようになった。彼はようやく常人化したのであった。
六日目は、朝から市中へ出て、爆撃の惨禍などを見物して廻った。爆撃されているところは、煉瓦などが、ボールほどの大きさに砕かれ、天井裏を露出し、火焔に焦げ、地獄のような形相を呈していたが、その他の町では、土嚢の山と防空壕の建札と高射砲陣地がものものしいだけで、あとは閉った店がすこし目立つぐらいで、街はやっぱり華美であった。
防毒面こそ、肩から斜めに下げているが、行きずりの女事務員たちは、あいかわらず溌剌として元気な声をたてて笑っていたし、牝牛のように肥えたマダムは御主人にたくさんの買物を持たせて、のっしのっしと歩いていた。彼らは、ロンドンの空一杯に打ちあげられた阻塞気球を、ひどく信頼しているのか、それとも、自分だけには、ドイツ軍の爆弾が命中しないと信じているか、どっちかであるように見えた。
その日、半日の散歩で、彼は自分が、世の中から忘れられた人であることに気がついて、それがどうも気になってたまらなかった。やっぱり彼は、何を置いても、自分の素姓を知ることが先決問題であると、そこに気がついた。
今や元気と常識とを取り戻した彼は、勇躍して、その仕事についた。また新たに、生きている張合いといったものが感じはじめられた。彼は、ふしぎに自分の体が、軽くなったように思った。
彼は、まず手始めに、中国大使館へ出向いた。そして、自分は仏天青であるが、自分の素姓は、どういうものであるか、果して、大使館参事官であるか、どうかと、たずねた。そして記憶を失ったことや、記憶恢復後において身近に起った事件を、差支えない範囲で、受附の前にくどくどと説明したのであった。
「大使閣下は、御不在です。そしてわが大使館には、あなたのような名前の参事官はいません。御返事は、これだけです」
と、木で鼻をくくるような挨拶だった。
「本当ですか。本当のことを教えてもらいたいものです。私は気が変ではありませんよ」
「誰でも、そういうよ」
と、受附子の言葉が、急に乱暴になって、
「わしは、ロンドンに二十年も在勤しているが、ついぞ、仏天青などというおかしな名前の参事官があった話を聞かないね。家へかえって、内儀さんによく相談してみたらいいでしょう」
折角いい機嫌になった彼は、大使館に於けるこの押し問答によって、また憂鬱を取り戻した。なんという頭の悪い、そして礼儀知らずの館員だろう。彼は憤然、大使館の門を後にした。そしてもう、こんなところへ二度と来るものかと思った。
彼が、門を出ていってしまった後で、受附子は、にがにがしい顔をして、
「どうも、空爆のせいで、気が変な人間が殖えて来るよ。わしは、この頃、世話ばかりやっているが、あいつが大使館参事官なんて、とんでもない奴だ」
といいながら、ふと気がついて、書棚から在外使臣名簿を取り出して、頁をくった。そのうちに、彼は、びっくりしたような声を出した。
「あっ、仏天青、駐仏大使館参事官! あっ、ここにあったぞ。この頃は、新任の連中が殖えて、一々名前を憶えていられないや。しまったなあ。このまま放って置けば、この次に来たとき、こっぴどい目に会うぞ。よし、追駆けてみよう」
受附子は、ちょっと顔色をかえると、あわてて、外へ飛びだした。
だが、このときには、もう彼の姿は、どこにも見当らなかった。
仏天青は、列車にのって、リバプールに急ぎつつあった。
駐英大使館では、彼は、大きな侮辱をうけた。そして朗かな気持がまた崩れてしまったのだ。
この上は、リバプールを通って、ブルートの監獄へいき、そこに残っている彼の素姓調書を見るより外なしと考えた。
十時間の後、彼はリバプールにいった。その夜は、ドロレス夫人の宿に泊めてもらうつもりで、この前の淡い記憶を辿って、見覚えのある露地へ入りこんでいった。
だが、ドロレス夫人の宿は、見当らなかった。ただ、一軒、入口の硝子が、めちゃめちゃに壊れている空家が目についた。どうもその家が、ドロレス夫人の宿だったように思うのであるが、入口の壁には、
〝立入るを許さず。リバプール防諜指揮官ライト大佐〟
と、厳かな告示が貼りつけてあった。
彼は、妙な気持になって、他所に宿を求めたのであった。
一夜は明けた。
その日こそ、彼は遂に楽しさにめぐり逢える日が来たと思った。
監獄生活をしていたなどということは、人に聞かれても、自分に省みても、甚だ結構でないことだったけれど、今日こそは、その監獄に保存してある調書の中から、知りたいと思っていた彼の素姓を押しだすことが出来るのかと思えば、こんな嬉しいことはなかったのである。
彼は、車を頼んで、ブルートの町へ急がせた。
「旦那、ブルートの町へ来ましたが、どこへいらっしゃいますね」
「もうすこし先だ。左手に、くるみの森のあるところで下ろしてくれたまえ」
「へい。すると、監獄道のところですね」
「ああ、そうだよ」
彼は、運転手に、心の中を看破られたような気がした。
「ドイツの飛行機は、監獄なんか狙って、どうするつもりですかね」
「えっ」
「いや、つまり、ブルートの監獄を爆撃して、あんなに土台骨からひっくりかえしてしまって、どうする気だろうということですよ」
「なに、ブルートの監獄は、爆弾でやられたのかね」
「おや、旦那、御存知ないのですかい。もう四日も前のことでしたよ。尤も、聞いてみれば、監獄の中で、砲弾を拵えていたんだとはいいますがね」
「ふーん、そうか。やっちまったのかい」
彼は、天を恨むより外、なかった。車を下りてみると、森の向うは、まるで地獄のように、引繰りかえっていた。あの広壮な建物という建物は一つとして影をとどめず、壁は、歯のぬけた歯茎のようになっていた。彼は、これより内へ入るべからずという縄張のところまで出て、すっかり見ちがえるような監獄跡に佇んで、しばし動こうともしなかった。
運転手が、彼の耳に囁いた。
「旦那、あのへんで、三千五百名の囚人と、それから七百名の監獄役人とが、崩れた建物の下で、一ぺんに、蒸し焼きになってしまったんですよ。そして、このとおり綺麗なものでさ。残っているのは、煉瓦とコンクリートばかりだ。いや、それから、あの鉄の門と……」
仏天青は、なぜ天は、こう意地悪なのであろうかと、深い溜息をついた。第二のプランも、ついに駄目だった。
第三の、そしてこれが最終のプラン──というので、仏天青は、リバプールの町にある精神科病院の門をくぐった。
院長ドクター・ヒルは、五十を過ぎた学者らしい人物だったが、甚だ丁重に、仏天青を扱った。
「そういう病気は、今次の戦争において、極めて例が多いのですよ。今拝見しましたところによると、やはり、爆弾の小破片が、脳髄の一部へ喰い込んでいるようですな」
「じゃあ、手術をして、その小破片を取出せばいいわけですね」
「さあ、それは専門外科医に御相談なさるがいいでしょうが、私の経験では、そういう脳外科の手術の成功率は、残念ながら、まだ低いものです。よほど考えておやりなることを御注意いたします」
すると、手術は、よほど考えなくてはならぬことになる。
「院長、私の記憶を恢復する他の方法はありませんでしょうか」
「そうですねえ。私の経験によれば、あなたのような場合、脳が健康さを取戻していても、神経と連絡がついていないことがよくあります」
「それは、どういうのですな」
「つまり、障害をうけたとき、患部附近に、充血とか腫脹が起って、神経細胞に生理的な歪みが残っていることがある。この歪みを、うまく取去ることが出来ると、ぱっと、目が覚めるように過去の記憶を呼び戻すことが出来るのですがね」
「なるほど、歪みを取去る方法ですか。それは、どうすればいいのですか」
「歪みといっても、生理的神経的なものですから、それと同じ方法によらねばならない。生理的神経的に、或る強い刺戟を受ければいいということはわかっているが、さて、その刺戟は、一体どんな刺戟であるかということになると、さっぱり分らない」
「なぜ、分らないのですか」
「それは、つまり、こうでしょう。仮りに、あなたが、一婦人と非常に争っていた。そのとき、婦人がピストルの引金を引いて、あなたの頭へ、弾丸の破片を撃ちこんでしまった、これは仮定ですよ。もしもこういう場合に、あなたのような記憶亡失の障害が起って、脳が健康を取戻しても、尚且つ記憶が恢復しない。そういうときに、癒った実例があるのです。もう一度、その婦人と、ひどい争いをした。婦人は、またピストルを撃った。そして今度は、彼の前額を僅かに傷つけた。すると、とたんに、彼の記憶が戻った。彼は、戦闘を中止して、その婦人を生命の恩人だといって抱きあげた──という例があるのです」
「それは、興味ふかい話ですね。それを私の場合に活用する途はないでしょうか。まず無理でしょうね」
「そうです。無理という外ありますまい。今申した例は、偶然の機会が、それを癒したのです。医師が計画した治療法ではない」
「なるほど」
「ですから、あなたの場合でも、もし運がおよろしくて、その障害を起した当時と同じ事件の中に置かれ、同じような負傷でもなされば、或はそれがうまくいって、記憶の恢復が起るかもしれません。しかし何分にも、これは計画的にやって見ることの出来ないことなので、困りますなあ」
「ほう、生理的神経的の歪みですか。そしてこれを復習する極めて稀な幸運ですか。いや、お蔭さまで、諦めがついてきました」
「それから、あなたが記憶亡失前に持っていられた所持品についてはもっと詳しく、科学的調査をおやりになるがいいでしょうね。これは一種の探偵術ですが、従来の例に徴しても、所持品からの推理によって昔、あなたが住んでいられた世界や職業や、それから家族のことなどを、立派に探しだすことに成功した例があるのです」
それを聞くと、仏天青は、俄に目を輝かせて、室の隅に置いてあった手提鞄を、卓子のうえに置いた。
「院長、では、これを見て、判断していただきましょう。当時、私が身につけていたものは、大切に、皆ここに蔵ってあるのです」
そういって、彼は、鞄を開くと、中から、長い中国服を出し、それから汚れきった破れ目だらけの服を出し、ぺちゃんこになったパンに新聞紙に、それから異臭を放つ皺くちゃのハンカチーフ迄、すっかり卓子のうえに取出した。
「その外に、この貯金帳が二冊あるのです。院長、お分りになりますか」
「さあ、私では駄目なんですがねえ」
といいながらも、ドクター・ヒルは、そこに並べられた品物を、一つ一つ、念入りに拡大鏡の下に見ていたが、やがて腰を伸ばし、
「私の拝見したところで、最も興味を惹かれるものが二点あります。それは、この汚れ切って破れ目だらけの服と、それからもう一つは、油じみたハンカチーフです」
「はあ、そうですか。そんなものが、私の素姓について、一体なにを語っていましょうか」
「さあ、それは、私の力では、はっきり解いてお話することが出来ないのです。こういう方面にすこぶる明るい私の友人を御紹介しましょう。アーガス博士といいますが、クリムスビーに住んで鑑識研究所を開いています。そこへいらっしゃるがいいでしょう。このズボンについている泥だとか、ハンカチーフについている血や油などについて、彼はきっと、あなたをびっくりさせるに充分な鑑定をなすことでしょう」
「あ、そうですか。それは、実にありがたい。アーガス博士でしたね」
「そうです。博士は、ひところ、警視庁でも活躍していた人ですが、今は、自分の研究所に立て籠っています」
「クリムスビーですか。どこでしょうか、その、クリムスビーというのは」
「クリムスビーというと、北海へ注ぐハンバー河口を入って、すぐ南側にある小さい町です。河口は、なかなかいい港になっています」
「はあ。北海に面した良港の中にあるのですね。じゃあ、私はすぐ、そのクリムスビーへいって、アーガス博士にお願いしてみましょう」
「いま、紹介状を書いてさし上げます、ミスター・F!」
午後遅くクリムスビーの駅に下りて、仏天青はおどろいた。こんなものものしい警戒は、はじめて見た。
〝中国大使館参事官仏天青氏を御紹介す。アーガス博士殿〟
というドクター・ヒルの紹介状が、とんだところで効き目をあらわして、仏は、無事に駅の階段を、町へ降りることが出来た。
「アーガス博士の鑑識研究所へやってくれないかね」
駅の前に待っているタクシーの運転手に話しかけると、黙って、隣りを指した。
タクシーの隣りには、馬車があった。老人の馭者が、この喧噪の中に、こっくりこっくり居眠りをしていた。馬車とは愕いたが、
「アーガス博士の鑑識研究所へいってくれるかね」
と、仏が大きい声で怒鳴ると、馭者の老人は、やっと目を覚ました。そして二三度、丁寧に聞き返した後で、さあ乗って下さいといった。
馬車は、雑閙する町を後にして、山道にかかった。
「爺さん、鑑識研究所だよ」
「わかっていますよ。鑑識研究所は、この山のうえだ。あと三十分かかるよ」
「なあんだ、山の上に在るのか」
馬車にゆられていくほどに、仏天青は、眼下に開けるハンバー湾のものものしい光景に、異常な興味を覚えた。
河口には、たしかに防潜網を吊っているらしい浮標が、夥しく浮び、河口を出ていく数隻の商船群の前には、赤い旗をたてた水先案内らしい船が見えるが、これは機雷原を避けていくためであろう。またはるかに港外には駆逐艦隊が活発に走っていた。
(ドイツ軍の上陸作戦を、極度に恐れているのだな)
仏は、河口の異風景に気を取られているうちに、馬車は、いつの間にか、小さい山を一つ登って、鑑識研究所の前についた。
仏は、門衛に、刺を通じた。
門衛は、紹介状の表を見て、本館へ電話をかけた。
「所長は、生憎出張中ですが、今夜あたり、ここへお戻りです。副長からのお話ですが、明朝、もう一度、御出で願うか、それとも御急ぎなら、所に附属している宿泊所で、お待ちになってはということでございますが、どっちになさいますか」
「そうですか。では……では、宿泊所へ案内して頂きましょうか。私は、早く博士にお目に懸りたいのでしてね」
「よろしゅうございます」
門衛は、別なところへ、電話をかけた。そして、副長の命令により客人のため室を用意するようにいった。
「今、宿泊所の女が迎えに参りますから、ちょっとお待ちを」
仏天青は、礼をいって、鞄を下に置いた。
「なかなかここは眺望もいいし、そして広大ですね」
「そうです。ここは王立になっているのですからなあ」
そのうちに、だんだんあたりは薄暗くなった。
「どうしたのか、宿泊所の者は……」
門衛は、窓から伸びあがって、奥の方を見ていたが、
「あ、来ました。さあ、どうぞ」
砂利を踏む音が聞えた。エプロンをかけた若い女が、迎えに来た。仏は、その女の顔を見たとき、もちっとで呀っと叫ぶところだった。その女も、愕いて、思わず足を停めた。
「おい、ネラ。ドクター・ヒルの紹介の方だから、さっきいったように、丁重にナ」
「は、はい」
ネラ? ネラは、門衛から、仏の鞄を受取った。
「どうぞ、こちらへ……」
仏は、ネラと呼ばれる女と、藍色ようやく濃い研究所の庭を、砂利をふみつつ、奥の方へ歩いていった。
「アン」
「はい」
「君は……いや、もうなにもいうまい」
仏天青を迎えに出たネラは、アンであったのである。彼のふしぎな妻であったのである。
「あたくし、愕きました。どうなさいます、あなたは……。復仇をなさいますか?」
「……」
仏は、嵐のような激情の中に、やっと躯を支えていた。それが、せい一杯だった。
「なぜ、御返事がありませんの」
「アン、お前は、ここで何をしているのか」
「あなた。この前のように、あたくしを愛していてくださいません?」
アンは、別なことをいった。
「……もし、愛していたら……」
仏は、やっとそれだけいった。
「ああ、あたくしを愛していてくださるんですね、お叱りもなく……。一生のお願いがありますわ。聞いてくださる?」
「……聞かないとはいわない」
「ほほ、消極的な御返事ね。お願いしたいというのは……どうか明朝まで、あたくしがここにいるという事を忘れていてくださいまし」
「なに。なぜ、そんな……」
「さあ、それなのよ。なにも聞かないで、明朝まで……。お約束してくださる?」
アンは、仏の傍へすりよって、彼の明快な返事を求めた。
「お前がそれを欲するなら……」
仏は苦しそうに、応えた。
「だが……」
「だが?」
「また、おれを……ここへ残して、逃げていくのではあるまいね」
「いいえ、明朝、きっとお目に掛るわ。約束を聞いてくだすってありがとう。それまで、どんなことがあっても、どんなものを見ても、あたしに何も訊かないでね、きっと明朝まで、あたしというものを忘れていてくださるのよ。ああ、うれしい。あなたは、きっとこの秘密を守ってくださるでしょうね」
「うむ、男らしく、おれは約束を守ろう。しかしアン。その前に、ただ一言、教えてくれ。お前は、本当に、おれの妻か」
「明朝まで、お待ちになって!」
「じゃあ、おれは、本当に仏天青か」
「それも明朝までお待ちになって。男らしくお待ちになるものよ」
「……」
仏は、拳を握って、自分の胸を、とんとんと叩いた。
アンは、マネキン人形のような白々しさにかえって、彼を階上の部屋へ案内した。
「では、どうぞ。防空壕は、第二階段をお下りください。窓の遮蔽は、おさわりになりませんように。失礼いたしました」
「君の部屋の電話番号は……」
「構内四百六十九番です。しかしあたくしはたいてい外を廻っておりますので、不在勝ちでございます」
「明朝、きっと、ですよ」
仏は、アンの手を取ろうとしたが、アンはそれを振り払って、風のように部屋を出ていってしまった。
それから暫くして、食事を告げに来た女は、アンではなかった。それっきり、アンの姿は、仏の目にとまらなかった。
仏は、自室に戻ったが、落着いていられなかった。アーガス博士が帰って来たという知らせは、いつまで経っても、かかって来なかった。彼は仕方なく、寝床に入ることに決めた。彼は、いつもよりは多量の睡眠剤をとることによって、希望の朝をすこしでも早く迎える用意をした。
寝床に入ると、彼は、すぐ電灯のスイッチをひねった。彼は、間もなく、泥のような眠りに落ちていった。
午前三時半。
突如として、空襲警報を伝えて、サイレンが鳴りだした。
部屋部屋が、急にさわがしくなった。
(ふん、また空襲警報か)
このごろ、毎日のごとく夜半から暁にかけて空襲警報が鳴る。しかし多くは、空襲警報だけに終って、敵機の投弾は、殆どなかった。たまに、ドイツ機らしいのが入って来ても、その数は二三機で時間だけは相当ねばって、三四時間に亙って、市民は避難をしていなければならなかった。今夜も、きっとそのようなことであろうと思っていた。
仏天青は、一つには睡眠剤を呑みすぎたせいもあり、また一つには、日暮に宿についた臨時の客であったせいもあり、彼は起きないままに、部屋の中に放置されていた。
気がついたときには、爆弾が、しきりに落ちて炸裂していた。
彼は、起き上った。電灯をつけようと、スイッチを探していると、ばっと、突き刺すような閃光が、窓の隙間から入ってきた。そして轟然たる爆音がつづけさまに、鳴りひびき、そして、じンじンじンと建物は震えた。
彼は、くらがりの中で手に当った服をすばやく、身につけた。
室から飛びだすと、ネオンの常置灯が、うすぼんやり廊下を照らしていた。
(防空室は、どの階段を下りるのかな)
彼は、アンから教わった階段を忘れてしまった。そのときまた、つづけさまに、爆音が轟いた。ひゆーンという飛行機の呻りが聞える。どうもドイツ機らしい。廊下のつきあたりのカーテンが、ぴかっと光った。外の爆発の閃光が、カーテンを通すのであった。建物は、今にも裂けとびそうに、鳴動する。
そのとき、爆弾の音を聞きながら、彼は、なにかこう、男性的な快感を覚えた。
「そうだ。屋上へ上って、一つ、戸外の様子を見てやれ」
こういう山の上の建物だから、よもや大して爆撃されることもあるまいとも思ったのである。彼は、廊下の突き当りの扉をあけて、非常梯子づたいに屋上の方へ上っていった。
壮観であった。思いがけない大壮観であった。眼下に見えるクリムスビーの町の上には、照明弾が、およそ二三百個も、煌々と燃えていた。この屋上にいても、新聞の文字が読めそうな明るさである。彼は、非常梯子を上へのぼり切って、屋上へ出たものか、それとも、この非常梯子にとりついてそっと首を出していた方がいいのか、ちょっと迷った。
そのときであった。彼は、屋上に、二つの人影が動いているのを発見して、おやと思った。
(何をしているのだろう?)
空襲見物では、あまりに物好きである。彼は、自分のことは棚に上げて、そう思った。
その二つの人影は、屋上から躯をのりださんばかりにして、何か、映画に使うような移動照明器のようなものを、動かしている。
(おかしい。防空隊の照明班にしては、あまりに小規模だし……)
彼は、爆撃中の危険も忘れて、その二つの人影の行動に、好奇心を沸かした。そして、その傍へ行って見る気になったのである。
彼は、梯子を登り切って、その人影の方へ歩いていった。向うでは、彼が近づいてくるのに全然気がつかないようであった。
「ああ、あれは、アンじゃないか」
彼の心臓は、どきんと鳴った。
「何をしているのですか」
彼は、二人の傍へいって、声を懸けた。
「ああッ」
二つの顔が、一せいに彼の方へ向いて、そして歪んだ。アンと、もう一人は、ボジャック氏だった。
「お待ち、ボジャック!」
アンが、ボジャックに飛びかかって、腕をおさえた。ボジャックの手には、ピストルが握られていた。そして、喰いつきそうな顔で仏を睨みつけている。
仏は、刹那に、一切を悟った。
(そうだったか。二人とも、ドイツ側のスパイだったんだな)
そう感じたが、なぜか、彼は、それほど愕かなかった。
「あなた。さっきのお約束をお破りになる?」
アンが、ボジャックの腕を必死になって、抑えながらいった。
「……約束は、守るよ。だが、説明をしてもらいたいものだ」
「なにを……こいつを、やっつけたが、早道だ」
「お待ち。命令だ、撃ってはならない。それよりも、早く赤外線標識灯を、沖合へ!」
アンは、上官のような厳かな態度で叫んだ。
「私は、皆さんの邪魔をしまい。私は、傍観者だ」
「あたしは、あなたを信じます。あたしたちは、祖国ドイツを光栄あらしめるために、生命を捧げて、今最後の職場につくのです。邪魔をしないでください」
「よし、わかった。おれは約束を守るぞ」
「ありがとう──ボジャック、早く光源を……」
「おお」
ボジャックは、再び台の上の機械にとりついた。スイッチが入ったのか、遂に点火した。しかし外へは、光がすこしも出ない。赤外線灯の特徴である。それは、遥かの海上及び空中に待機する五万にのぼるドイツ軍のための生命の目標だった。この目標によって、彼等ドイツ軍は、この払暁、このハンバー河口の機雷原と高射砲弾幕とを突破して、この地に上陸作戦を敢行する手筈だった──仏天青も、ようやくそれを悟った。
この赤外線標識灯が点火したのが合図のように、上陸作戦軍を援護する猛烈なる砲撃戦が始まった。更に空中よりは、ものすごい数量にのぼる巨大爆弾が、釣瓶打ちに投下され、天地も崩れんばかりの爆音が、耳を聞えなくし、そして網膜の底を焼いた。
砲撃は、ますます熾烈さを加え、これに応酬するかのように、イギリス軍の陣地や砲台よりは、高射砲弾が、附近の空一面に、煙花よりも豪華な空中の祭典を展開した。
「大丈夫、ボジャック」
「大丈夫!」
二人の戦士は、脇目もふらず、標識灯を守りつづけている。
砲撃目標が、だんだん山の方に近づいて来た。それと諜し合わせたように、空中からの爆撃も、急に山の方に移動してきた。
「ほう、来るな」
仏天青は、身の危険を感じた。しかし、ふしぎとその場を放れる気がしなかった。アンたちも、最後の職場を死守しているのだ。しかし、これは、えらいことになるぞ!
果して、それから五分間ばかり経つと、砲撃目標は、俄然跳躍した。砲弾は、この研究所の前方に落ち、それから、彼等の頭上をとび越えて、後の山上に落ちて、ものすごい音響と閃光とそして吹き倒すような爆風とを齎した。
「あぶない」仏は、屋上に腹匍った。
とたんに、どどどどーンと、ぶっつづけに大爆音が聞え、耳はガーンとなってしまった。そして、あたりは火の海となったかと思われた。それをきっかけのように、ひっきりなしに砲弾と爆弾とが降って来た。身を避けるものは何もない。彼は灼鉄炎々と立ちのぼる坩堝の中に身を投じたように感じた──が、そのあとは、意識を失ってしまった。
不図、気がついたときには、あたりの風景は一変していた。附近一帯は、炎々たる火焔に包まれていた。屋上は、半分ばかり、どこかへ持っていかれてしまっている。
彼は、むくむくと起きあがって、空を見上げた。高射砲弾は、盛んに頭上で炸裂していた。照空灯と照明弾とが、空中で噛み合っていた。その中に、真白な無数の茸がふわりふわりと浮いていた。落下傘部隊であった。ドイツ軍の上陸は、遂に開始せられたのであった!
「おお、落下傘部隊が下りる。ああ、ダンケルク戦線そっくりだ!」
ああダンケルク戦線! 彼は全身に、電撃をうけたように感じた。
「ああ、ダンケルク! おお、そうだ。思い出したぞ!」
その瞬間に、彼は、今の今迄喪失していた一切の過去の記憶を取り戻した。
おお、覚醒! 記憶は蘇った。奇蹟だ、大奇蹟だ!
彼は、灼鉄と硝煙と閃光と鳴動との中に包まれたまま、爆発するような歓喜を感じた。その瞬間に、彼から、仏天青なる中国人の霊魂と性格とが、白煙のように飛び去った。それに代って、駐仏日本大使館付武官福士大尉の烈々たる気魄が蘇って来た。
「おッ、俺は、今まで、何を莫迦な夢を見ていたのだろうなあ!」
アーガス博士の治療を待つまでもなかった。彼──福士大尉の、喪われたる記憶は、その一瞬の間に、完全に恢復したのだった──ドクター・ヒルが示唆したところと、ぴたりと一致する経過をとって……。
輝かしい福士大尉の復帰!
「アンは、どうした」
大尉は、目を瞠って、アンを探した。赤外線標識灯は、台ばかりになっていた。アンは、その下に倒れていた。ボジャックも亦……
「アン、どうした。しっかりせい」
大尉は、アンを抱え起してみると、胸一面の血だった。胸をやられている! 大尉の声が通じたものか、アンは、薄目を開いた。
「ボジャックは?」
「ボジャックは、ここにいる。ああ、気の毒だが、とうの昔に……」
「そう。あたしも、もう……」
「これ、しっかりしろ。アン」
「あなた。アンは、あなたに感謝します。われわれ第五列部隊は、監獄にまで手を伸ばして、あなたを利用しましたが、許してください。祖国ドイツは……」
「そんなことは、わかっとる。アン、死んじゃ駄目だぞ」
「あなたは、ご存知ないが、あなたは、日本の将校なんです」
「それは知っている。おれは、福士大尉だ。爆撃の嵐の中に、おれは記憶を恢復したのだ。悦んでくれ」
「ああ、そうだったの。道理で、お元気な声だと思ったわ」
「アン、なにもかも、思い出したよ。あの油に汚れたハンカチも、ぼろぼろの服も、みんなダンケルクの戦闘の中にいたせいだ。おれは、飛行機を操縦してドーヴァを越えて、この英国に飛んだのだ。そのとき、既に負傷していた。同乗させてやった中国人仏天青は機上で死んだが、おれは、いつの間にか、その先生の服を持っていたんだ。おれは飛行機を、夜間着陸させるのに苦しんだが、遂に飛行場が見つからず、その後は憶えていない。それ以後、おれの記憶が消えてしまったんだ。何をして監獄へ入れられたか、そいつは知らない。おい、アン──アン、どうした」
「あなた、最後のお願い……あたしのために、こういってよ……」
「アン、しっかりしろ。何というのか」
「……こう、いうのよ。ヒ、ヒットラーに代りて、第五列部隊のフン大尉に告ぐ」
「えっ、第五列部隊のフン大尉に?」
「そう、そうなの、あたしのことよ。……汝は、大ドイツのため、忠実に職務を……あなた……」
「しっかりせんか、アン──いや、フン大尉。君の壮烈なる戦死のことは、きっとおれが、お前の敬愛するヒットラー総統に伝達してやるぞッ!」
福士大尉は、アンの耳に口をつけて、肺腑をしぼるような声で、最後の言葉を送った。
そのとき、夜は、ほのぼのと、明け放れた。頭上には、精鋭なるドイツ機隊の翼の輝き、そして海岸には、平舟の舷をのり越えて、黒き洪水のような戦車部隊が!
ドイツ軍大勝利の閧の声と共に、上陸作戦の夜は、明け放れたのであった。
福士大尉は、情報報告のため、直ちにこのクリムスビーを発足すべく、アンの亡骸をそっと下に置いて、立ち上った。
底本:「海野十三全集 第10巻 宇宙戦隊」三一書房
1991(平成3)年5月31日第1版第1刷発行
初出:「新青年」
1941(昭和16)年2月
入力:tatsuki
校正:土屋隆
2003年12月7日作成
2014年8月28日修正
青空文庫作成ファイル:
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