囲碁雑考
幸田露伴
|
棊は支那に起る。博物志に、尭囲棊を造り、丹朱これを善くすといひ、晋中興書に、陶侃荊州の任に在る時、佐史の博奕の戯具を見て之を江に投じて曰く、囲棊は尭舜以て愚子に教へ、博は殷紂の造る所なり、諸君は並に国器なり、何ぞ以て為さん、といへるを以て、夙に棊は尭舜時代に起るとの説ありしを知る。然れども棊の果して尭の手に創造せられしや否やは明らかならず、猶博物志の老子の胡に入つて樗蒲を造り、説文の古は島曹博を作れりといふが如し、此を古伝説と云ふ可きのみ。
但棊の甚だ早く支那に起りしは疑ふ可からず。論語に博奕といふ者有らずやの語あり、孟子に奕秋の事あり、左伝に太叔文子の君を視る奕棊に如かず、其れ何を以て免れん乎の語あり。特に既に奕秋の如き、技を以て時に鳴る者ありしに依れば、奕の道の当時に発達したるを察知するに足る。仮令尭の手に成らずとするも、奕は少くも周若くは其前に世に出でたるものなること知る可し。
棊の由つて来ること是の如く久しきを以て、若し棊に関するの文献を索めんには、厖然たる大冊を為すべし。史上に有名なる人物の棊に関する談は、費褘と来敏との羽檄交〻馳する間に於て対局したるが如き、王粲が一局の棊を記して誤らざりし如き、王中郎が棊を座隠といひ、支公が手談と為せる如き、袁羗が棊を囲みながら、殷仲堪の易の義を問ふに答へて、応答流るゝが如くなりし如き、班固に奕旨の論あり、馬融に囲棊の賦あるが如き、晋の曹攄、蔡洪、梁の武帝、宣帝に賦あるが如き、魏の応瑒に奕勢の言あり、梁の沈約に棊品の序あるが如き、唐より以下に至つては、詩賦の類、数ふるに暇あらざらんとす。然れども梁に棊品あるのみ、猶多く専書有る無し。宋の南渡の時に当つて、晏天章元〻棋経を撰し、劉仲甫棋訣を撰す、是より専書漸く出づ。明の王穉登奕史一巻を著はして、奕の史始めて成る。明の嘉靖年間、林応竜適情録二十巻を編す、中に日本僧虚中の伝ふる所の奕譜三百八十四図を載すといふ。其の棋品の高下を知らずと雖も、吾が邦人の棋技の彼に伝はりて確徴を遺すもの、まさに此を以て嚆矢とすべし。予の奕に於ける、局外の人たり、故に聞知する少しと雖も、秋仙遺譜以下、奕譜の世に出づる者蓋し甚だ多からん。吾が邦随唐に往来するより、奕を伝へて此を善くする者また少からず。伝ふるところの談、雑書に散見するもの亦多し。本因坊あつて偃武の世に出づるに及び、蔚然一家を為し、太平三百年間、雋異の才、相継で起り、今則ち禹域を圧すといふ。奕譜も亦甚だ多し。然れども其図譜以外の撰述に於ては甚だ寥〻、彼と我とを併せて、棋経十三篇に及ぶもの無し。十三篇は蓋し孫子に擬する也。中に名言多きは、前人既にこれを言ふ。棊有つてより以来、言を立て道を論ずる、これに過ぐる者有る無し、目して棋家の孫子と為すも、誰か敢て当らずとせんや。棋は十三篇に尽くといふも可ならん。杜夫子、王積薪の輩、技一時に秀づと雖も、今にして其の観る可き無きを憾む。棊の大概、是の如きなり。
一 棋経妙旨
○古より今に及ぶまで、奕者同局無し。伝に曰く、日〻に新なりと。故に宜しく意を用ゐる深くして而して慮を存する精に、以て其の勝負の由るところを求めば、則ち其の未だ至らざる所に至らん。
○棋者正を以て其勢を合し、権を以て其敵を制す。戦未だ合せずして而して算す。戦つて勝つ者は、算を得る多き也。戦つて勝たざる者は算を得る少き也。戦已に合して而して勝負を知らざる者は算無き也。兵法に曰く、算多きは勝ち、算少きは勝たずと。
○近きも必ずしも比せず、遠きも必ずしも乖かず。
○博奕の道、謹厳を貴ぶ。高き者は腹に在り、下き者は辺に在り、中なる者は角に在り。法に曰く、寧ろ一子を輸くるも、一先を失ふ勿れ。左を撃たんとすれば則ち右を視、後を攻めんとすれば則ち前を瞻る。先んじて後るゝ有り、後れて先んずる有り。両つながら生けるは断つ勿れ、皆活けるは連なる勿れ。闊きも太だ疎なる可からず、密なるも太だ促るべからず、其の子を恋ひて以て生を求めんよりは、之を棄てゝ勝を取るに若かず。其の事無くして而して強ひて行かんよりは、之に因りて而して自から補はんに若かず。彼衆くして我寡くば、先づ其生を謀り、我衆くして彼寡くば、努めて其勢を張る。善く勝つ者は争はず、善く陣する者は戦はず、善く戦ふ者は敗れず、善く敗るゝ者は乱れず。夫れ棋は始は正を以て合し、終は奇を以て勝つ。凡そ敵事無くして自から補ふ者は、侵絶の意有る也。小を棄てゝ救はざる者は、大を図るの心有る也。手に随つて下す者は、無謀の人也。思はずして応ずる者は、敗を取るの道也。
○夫れ奕棋は、緒多ければ則ち勢分る、勢分るれば則ち救ひ難し。棋を救ふには逼る勿れ、逼れば則ち彼実して而して我虚す。虚しければ則ち攻められ易く、実すれば則ち破り難し。時に臨みて変通せよ、宜しく執一なる勿れ。
○夫れ智者は未だ萌さゞるに見、愚者は成事を睹る。故に己の害を知りて、而して彼の利を図る者は勝つ。以て戦ふべきと、以て戦ふ可からざるとを知る者は勝つ。衆寡の用を識る者は勝つ。虞を以て不虞を待つ者は勝つ。逸を以て労を待つ者は勝つ。戦はずして人を屈する者は勝つ。
○夫れ奕棋の勢を布くは、相接連するを務む。始より終に至るまで、着〻先を求めよ。局に臨み交〻争ひ、雌雄未だ決せずば、毫釐も以て差ふ可からず。局勢已に羸れなば、精を専にして生を求めよ。局勢已に弱くば、意を鋭くして侵し綽けよ。辺に沿ひて而して走れば、其の生を得る者と雖も敗る。弱くして而して伏せざる者は愈屈し、躁いで而して勝を求むる者は多く敗る。両勢相囲まば、先づ其外に促れ。勢孤にして授寡ければ、即ち走る勿れ。是故に棋に走らざるの走有り、下さゞるの下有り。人を誤る者は多方にして、功を成す者は一路のみ。能く局を審にする者は則ち多く勝つ。
○棋の勝負は、得て先づ験す可し。曰く、夫れ持重して而して廉なる者は多く得、軽易にして而して貪る者は多く喪ふ。争はずして自から保つ者は多く勝ち、殺すを務めて顧みざる者は多く敗る。敗れたるに因つて而して思ふ者は、其勢進み、戦勝つて而して驕る者は、其勢退く。己の弊を求めて人の弊を求めざる者は益す、其敵を攻めて而して敵の己を攻むるを知らざる者は損す。目一局に凝る者は、其思周く、心他事に役せらるゝ者は、其慮散ず。行遠くして而して正しき者は吉、機浅くして而して詐る者は凶。能く自ら敵を畏るゝ者は強く、人を己に若く莫しと謂ふ者は亡ぶ。意旁通する者は高く、心執一する者は卑し。語黙常有れば、敵を使て量り難からしめ、動静度無ければ、人に悪まるゝを招く。
○兵は本詐謀を尚ばず。譎道を言ふ者は、乃ち戦国縦横の説なり。棋は小道と雖も、実に兵と合す。故に棋の品甚だ繁くして、奕の旨一ならず。品の下なる者は、挙に思慮無く、動には則ち変詐す。或は手を用ゐて以て其勢を影にし、或は下さんと欲して而して復止み、或は去らんと欲して去らず、或は言を発して以て其機を洩す。品の上を得る者は、則ち是に異なり。皆沈思して而して遠慮し、神は局の内に遊び、意は子の先に在り、勝を無朕に図り、行を未然に滅す。豈言辞の喋〻と手勢の翩〻とを仮らんや。
○凡そ棋は之を益して而して損する者有り、之を損して而して益する者あり。之を侵して而して利ある者有り、之を侵して而して害ある者有り。左に投ずべきもの有り、右に投ずべきもの有り。先着すべき者有り、後着すべき者有り。緊㠔すべき者あり、慢行すべき者あり。子を粘ぐは前なる勿れ、子を棄てば後を思へ。始近くして而して終遠き者有り、始少くして而して終多き者有り。外を強くせんと欲すれば先づ内を攻め、東を実せんと欲すれば先づ西を撃つ。路虚しくして眼無ければ、則ち先づ覰ひ、他棋に害無ければ則ち劫を做す。路饒ければ則ち疏すべく、路を受くれば則ち戦ふ勿れ。地を択んで而して侵し、碍無ければ則ち進む。此皆棋家の幽微、知らざる可からざる也。
○奕は数〻するを欲せず、数〻すれば則ち怠る、怠れば則ち精ならず。奕は疎なるを欲せず、疎なれば則ち忘る、忘るれば則ち失多し。
○勝つて言はず、敗れて語らず、謙譲を崇ぶ者は君子也、怨怒を起す者は小人也。高き者も亢ぶる勿れ、卑き者も怯なる勿れ。気和して而して意舒ぶる者は、其の将に勝たんとするを喜ぶ也。心動いて而して色変ずる者は、其の将に敗れんとするを憂ふる也。赧は易ふるより赧なるは莫く、恥は盗より恥なるは莫し。妙は鬆を用ゐるより妙なるは莫く、昏は劫を覆すより昏なるは莫し。
二 奕旨 後漢 班固
○北方の人、碁を謂つて奕と為す。之を弘め之を説いて、大略を挙げん。
○局必ず方正なるは、地則に象どる也。道必ず正直なるは、明徳を神にする也。
○棊に白黒有るは、陰陽分る也。駢羅列布するは天文に効ふ也。
○四象既に陳す、之を行ふは人に在り。蓋し王政也。
○或は虚しく設け予め置き、以て自から衛護す。蓋し庖犠網罟の制に象どる。
○隄防周起し、障塞漏決す。夏后治水の勢に似たるなり。
○一孔閼むる有るも、壊頽振はず。瓠子汎濫の敗に似たる有り。
○伏を作し詐を設け、囲を突いて横行す。田単の奇。
○厄を要して相刦かし、地を割かしめて賞を取る。蘇張の姿。
○参分勝る有つて、而して誅せず。周文の徳。
○逡巡儒行し、角を保ち旁に依り、却て自から補続す、敗るゝと雖も亡びず。繆公の智、中庸の方なり。
○上に天地の象有り、次に帝王の治あり、中に五覇の権有り、下に戦国の事有り。其の得失を覧れば、古今略備はる。
三 囲棊賦 後漢 馬融
○略囲棊を観るに、兵を用ゐるに法る。
○三尺の局を、戦闘の場と為す。士卒を陳し聚めて、両敵相当る。
○怯者は功無く、貪者は先づ亡ぶ。
○先づ四道に拠り、角を保ち傍に依り、辺に縁り列を遮り、往〻相望む。
○離〻たる馬目、連〻たる雁行。踔度間置し、徘徊中央す。
○死卒を収取し、相迎へ使むる無し。食む当くして食まざれば、反つて其殃を受く。
○雑乱交錯し、更に相度越す。
○規を守る固からざれば、唐突する所と為る。
○深く入りて地を貪れば、士卒を殺亡す。
○狂攘して相救へば、先後并に没す。
○功を計りて相除し、時を以て早く訖る。
○事留まれば変生ず、棊を拾ふ疾かならんことを欲す。
○営或は窘乏するも、詐をして出でしむる無かれ。
○深く念ひ遠く慮れば、勝乃ち必す可し。
底本:「日本の名随筆 別巻1・囲碁」作品社
1991(平成3)年3月25日第1刷発行
1992(平成4)年4月20日第5刷発行
底本の親本:「露伴全集 第十九巻」岩波書店
1951(昭和26)年12月
入力:渡邉つよし
校正:門田裕志
2001年7月26日公開
2009年2月26日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。