「女らしさ」とは何か
与謝野晶子
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日本人は早く仏教に由って「無常迅速の世の中」と教えられ、儒教に由って「日に新たにしてまた日に新たなり」ということを学びながら、それを小乗的悲観の意味にばかり解釈して来たために、「万法流転」が人生の「常住の相」であるという大乗的楽観に立つことが出来ず、現代に入って、舶載の学問芸術のお蔭で「流動進化」の思想と触れるに到っても、動もすれば、新しい現代の生活を呪詛して、黴の生えた因習思想を維持しようとする人たちを見受けます。たとえていうなら、その人たちは後ろばかりを見ている人たちで、現実を正視することに怠惰であると共に、未来を透察することにも臆病であるのです。そういう人たちは保守主義者の中にもあれば、似非進歩主義者の中にもあるかと思います。
私のおりおり顰蹙することは、その人たちがしばしば「女子の中性化」というような言葉を用いて現代の重要問題の一つである女子解放運動を善くないことのように論じることです。それはその人たちが女子の人間的進化を嫌う偏見を先入的に持っていると共に、人生を一つの法則、一つの様式の中に固定すべきものと考える静態的な因習思想を維持するために、わざわざ、人の厭がる言葉を掲げて、一方には女子を威嚇してその新しい擡頭を抑えようとし、一方には社会の聡明な判断を掻き乱して、女子解放運動に同情を失わしめようとする卑劣千万な論法であるように、私には感じられます。私はそれについて、少しばかり抗議を書こうと思います。
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その人たちの言う所をかいつまんで述べますと、女子が男子と同じ程度の高い教育を受けたり、男子と同じ範囲の広い職業に就いたりすると、女子特有の美くしい性情である「女らしさ」というものを失って、女とも附かず、男とも附かない中間性の変態的な人間が出来上るから宜しくないというのです。
私は第一に問いたい。その人たちのいわれるような結論は何を前提にして生じるのですか。一般の女子に中学程度の学校教育をすら授けないでいる日本において、また市町村会議員となる資格さえ女子に許していない日本において、どうして、男子と同等の教育とか職業とかいうことが軽々しく口にされるのですか。女子に対してまだ何事も男子と同等の自由を与えないで置いて、早くもその結果を否定するのは臆断も甚だしいではありませんか。
それよりも、論者に対して、もっと肉迫して私の問いたいことは、女子が果して論者のいうような最上の価値を持った「女らしさ」というものを特有しているでしょうか。私にはそれが疑問です。
論者は、「女らしさ」というものを、女子の性情の第一位に置き、その下にすべての性情を隷属させようとしています。女子に、どのような優れた多くの他の性情があっても、唯だ一つの「女らしさ」を欠けば、それがために人間的価値は零となり、女子は独立した人格者でなくなるというのが論者の意見らしいのです。私は疑います、「女らしさ」というものが果してそんなに最高最善の標準として女子の人格を支配するものでしょうか。
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そもそも、その「女らしさ」という物の正体は何でしょう。我国では女子が外輪に歩くと「女らしくない」といって批難されます。また女子が活溌な遊戯でもすると「女らしくない」といって笑われます。そうすると、内輪に歩くということ、人形のように温順しくしているということなどが「女らしさ」の一つの条件であることは確かです。しかし日本ではそうでしょうけれども、欧米の女子は悉く外輪で歩いています。また我国でも多くの女学生が唯今は靴を穿いて外輪に歩きます。また欧米では、戦後に一層女子の体育が盛んになり、女学生の帽や服装に男子と同じものを用いてまで、活溌な運動に適するように努力しています。そうして、それがために「女らしさ」を失ったという批難が欧米において起らないのを見ると、論者の有難がる「女らしさ」というものは、全人類に通用しない、日本人だけのものであるように思われますがどうでしょうか。
論者は、「男子のすることを女子がすると、女らしさを失う」というのですが、人間の活動に、男子のする事、女子のする事という風に、先天的に決定して賦課されているものがあるでしょうか。私は女子が「妊娠する」という一事を除けば、男女の性別に由って宿命的に課せられている分業というものを見出すことが出来ません。
紫式部の日記を読むと、この稀有の女流文豪が儕輩の批難を怖れて、平生は「一」という文字すらどうして書くか知らないような風を装い、中宮のために楽府を講じるにも人目を避けてそっと秘密に講じています。女子の学問著述が男子の領分を侵している事のように、その同性の間においてさえ誤解されていて、紫式部がそれを憚ったのは、生意気だとして憎まれるからであったのですが、しかしこれがために紫式部を「女らしさ」を欠いた人間であるとは昔も今も言わないようです。
政治や軍事は昔から男子の専任のように思っていますけれども、我国の歴史を見ただけでも、女帝があり、女子の政治家があり、女兵があり、幕末の勤王婦人等があって、それが「女子の中性化」の実例として批難されていないのみならず、神功皇后は神として奉祀され、その他の女子も倫理的の価値を以て、それぞれ国民の尊敬を受けています。また現在の世界には、女子の代議士、知事、市長、学者、芸術家、社会改良家、教師、評論家、新聞雑誌記者、飛行家、運転手、車掌、官公吏、事務員等があって、従来は男子の領域であるとされていた活動に多数の女子が従事しています。殊に最近の世界大戦には、英国の軍需省附属の工場だけでも二百万の女子が家庭を離れて、戦時のあらゆる勤務に服し、戦場で用いられた弾丸の九分までを女子の手で製造するような空前の活動を示して、平和克復の日に軍需大臣が議会において女子に対する感謝演説を試みた中に、「英国が勝利を得た原因の半は女子にあることを拒むことが出来ない」と述べたほどでした。
して見ると、男子のする事を女子もするからといって、「女らしさ」を失うという批難は当らないことになります。もし男女の性別に由って歴史的に定まった分業の領域が永久に封鎖されているものなら、男子が裁縫師となり、料理人となり、洗濯業者となり、紡績工となることは、女子の領域を侵すものとして、「男子の中性化」が論じられなければならないはずです。「女のする日記というもの」を書いた紀貫之も、同じ理由から、その「男らしさ」を失った人間として批難されねばなりませんが、歌人として、また国語を以て文章を書いた先覚者として尊敬されているのはどうした訳でしょうか。
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論者はまた、「女らしさ」とは愛と、優雅と、つつましやかさとを備えていることをいうのである。その反対に「女らしくない」ということは、無情、冷酷、生意気、半可通、不作法、粗野、軽佻等を意味するのであるといわれるでしょう。しかし愛と、優雅と、つつましやかさとは男子にも必要な性情であると私は思います。それは特に女子にのみ期待すべきものでなくて、人間全体に共通して欠くことの出来ない人間性そのものです。それを備えていることは「女らしさ」でもなければ「男らしさ」でもなく「人間らしさ」というべきものであると思います。人間性は男女の性別に由って差異を生ずる性質のものでないのですから、もしこれを失う者があれば「人間らしくない」として、男女にかかわらず批難して宜しい。しかるに従来は男子に対してそれが寛仮され、女子に対してのみ「女らしくない」という言葉を以て峻厳に批難されて来たのは偏頗極まることだと思います。
我国の男子の中には、まだこの点を反省しない人たちがあって、いわゆる豪傑風を気取った前代の男子の悪習を保存し、自分自身は粗野な言動を慎まないのみならず、その醜さをかえって得意としながら、唯だ女子にばかり、愛と、優雅と、つつましやかさとを要求します。しかし無情、冷酷、生意気、半可通、不作法、粗野、軽佻等の欠点は、男子においても許しがたい欠点であることを思わねばなりません。これを女にばかり責めるのは、性的玩弄物として、炊事器械として、都合の好いように、女子を柔順無気力な位地に退化せしめて置く男子の我儘からであるといわれても仕方がないでしょう。
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以上のように考察してくると、論者のいうように、女子に特有して、それが人間的価値の最高標準となるべき「女らしさ」というものは終に存在しないことになります。論者が「女らしさ」といっているものは、或物は、一地方的のものであり、時に由って変化するものであって、決して私たちの生活を支配するような権威を持っているものでなく、また或物は、女子特有のものでなくて、人間全体に一貫して備っている人間性そのものであることが明白になりました。
人間性の内容は愛と、優雅と、つつましやかさとに限らず、創造力と、鑑賞力と、なおその他の重要な文化能力をも含んでいます。そうしてこの人間性は何人にも備っているのですが、これを出来るだけ円満に引出すものは教育と労働です。そのためには、一般の人間に高等教育を受けることの自由と、併せてあらゆる職業の中から、自己に適した職業を選んだ労働に就くことの自由とを享有せしめねばなりません。
しかるに、論者が、女子に対して高等教育を拒み、労働区域の制限を固守しようとするのは、全く理由のないことだと思います。男子においては人間性の啓発となる教育と労働とが、女子においては反対に「人間らしさ」を失わしめる結果になろうとは考えられないことです。
論者はこれに対して、現在の女教師や、女学生や、女流文人や、職業婦人やに共通する半可通的な、軽佻な、生意気な、あるいは粗野な習気を挙げて、その自説を弁護しようとするかも知れませんが、私は、かえってそれこそ論者の意見を顛覆させるものだと思います。現在のそれらの女子に人間性の不足していると見えるのは、私も同感ですが、それは畢竟それらの女子に人間らしい教育が余りに尠くしか授けてなく、またそれらの女子に人間らしい労働が余りに狭くしか許してないからです。男子と同じ程度の教育を授けると共に、男子と同じ位の責任ある位地に立たせて、その手腕を振えるだけの職業に就くことの自由を女子に許して御覧なさい。そうして、少くとも明治以来男子に与えて来ただけの激励と設備と年月とを女子に与えて御覧なさい。日本の女子がその内に潜在する人間性を発揚して驚くべき飛躍を示すことは、決して欧米の女子に劣るものでなかろうと思います。男子にしても中学時代が一番生意気盛りのものである通り、今日の婦人に軽佻とも粗野とも見える言動のあるのは、男子の中学卒業にも当らないような貧しい程度の教育で、その人間性の陶冶が打切ってあるからです。女子の職業範囲が少しずつ広がって行くといっても、まだ女子は小学の校長にさえなれないのです。何処へ行っても、女性であるという理由だけで男子の隷属者となり、実力の優れている場合にも、詰らない男子の下風に立たせられているという有様ですから、女子自らその人間性を鍛え出す機会をも失っているのです。
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論者はまた言うでしょう、子供を生みかつ育てることは女子でなくては出来ない。従って「女らしさ」の主要条件は母となることである。しかるに女子解放運動は、女子をしてその母性を失わしめるから宜くない。新しい女子は母たることを回避すると。
私はこれに対しても、その母となるということが「女らしさ」という言葉で尽すべきものでないことを述べて、第一に訂正したいと思います。
如何にも、女子でなければ妊娠することの出来ないのは事実ですが、これがために生殖のことは女子の独占であると思っては間違いです。妊娠ということが男子の協力に待たねばならないのを初めとして、子供を養育するにも、教育するにも、父と母との両者の愛、両者の聡明、両者の労力を合せることが必要です。従来は余りに父性が等閑にされていましたから、母性に不当の重荷を課して、生殖生活は女子のみの任務のように誤解して来ましたが、この事もまた男女に共通した「人間的活動」です。形に現れた所の相異を見て、男子には軽微で、女子には重大な任務であると速断してなりません。人の親になることは、両者に取って共に重大な任務であるのです。
従って生殖の生活を母性にのみ帰してしまって、「女らしさ」の主要条件とするのは不当です、形と作用の上において父と母とに分れていても、親としての精神は男女同一であって、ひとしく人間性の表現ですから、一方に偏した「女らしさ」という言葉を以て評価すべきでなく、両者を統一した「人間性の表現」もしくは「人間的活動」という言葉を以て称すべきものと思います。
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次に女子解放運動が、女子をして、その母性を失わしめると論じるのも理由のないことで、事実を離れた、一種の杞憂です。それは女子が数千年来の奴隷的位地を脱して、独立した一個の人格として、あらゆる「人間的活動」を完成しようとする自己改革の運動ですから、生殖の生活に対しても、これを回避するどころか、反対に、愛と聡明と勇気とに満ちた、より完全な母となることを熱望しているのです。
論者は「母性を失う」というような言葉を無思慮に用いられるようですけれども、親となることの欲求は、固より人間の内部に備っている最も強烈な本能の一つです。即ち人間性の内容として重要な位地を占めているものです。それがどうして人間の力で失われよう。教育の進歩に由って、唯だ益々それが動物的の親性から人間的の親性へ醇化されて行くばかりです。現代の父母が如何に前代に比べて、その子に対する愛が進化しているかは、何人にも領解されることであろうと思います。
しかもまた、論者に注意したいことは、人間は必ずしも人の親になるとも定まっていないということです。また、大多数の男女が親になるとしても、その子供を必ず育て得るものとも定まらねば、その子供が必ず育ち得るものと限っていないということです。もし女子が母とならないために「女らしさ」を失うというなら、男子も父とならないため「男らしさ」を失うといわねばならないでしょう。世間には先天的もしくは後天的のいろいろの事情に由って、結婚をせず、結婚をしても子供を生まない男女があります。
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既に述べましたように、人間性の中には親となることの熱烈な本能を所蔵しています。高度の教育に由って人間性を精錬された男女は、最も理想的な父母となることを意欲しないで置きません。これを抑制し、または回避するような不良な傾向があるなら、それは唯だ一つの理由、即ち社会の経済的分配が法外な不公平を示して、過度の労働の下に生産した物質価値の大部分を資本階級に由って搾取されてしまった後の私たち無産階級の生活が、子供を育てるどころか、結婚をするにも甚だしく不適当であるという理由に帰する外はありません。現に結婚難は都鄙の別なく年を追うて我国にも増大して行きます。病人と不具者とでない限り、誰も好んで老嬢となる者はありませんが、今日は多数の男子が一身の物質生活にさえ欠乏していて、そのうえ妻子を扶養する経済的負担の苦痛を重ねるのに忍びないで、やむをえず結婚を回避している有様ですから、女子解放運動が母性を失わしめるというような批難は全く見当違いです。
また万人に結婚の可能な新社会が出現したからといって、人間は必ずしも結婚して親とならねばならないという事はなかろうと思います。「人間的活動」の領域は濶大され、それに参加する自由と機会とを万人が保障されている社会に、男も女も、適材を以て適処に就くのが宜しい。殊に私たちの期待している新社会では、恋愛が結婚の基礎になりますから、恋愛の対象を発見しない限り生殖生活から遠ざかる男女を生じるのも当然です。しかし男女交際の自由な新社会では、恋愛の対象を慎重に選択する機会も多く、実際の生殖生活から遠ざかる男女は極めて尠いことであろうと想像します。
社会にはまた、昔から、或種の活動に専心して、わざと家庭を作らない男女もあります。何事も個人の自由意志に任すべきものですから、そういう人たちに生殖生活を強要することも出来ません。その人たちは、家庭の楽み以上に、自己の専門的生活を評価しているのです。それでこそ、その人たちの人間性が完全に表現されもするのです。世界人類の中に、そういう人たちの貢献があるので、昔も今も、どれだけ文化行程の飛躍を示したか知れません。私は、人類の中にそういう人たちのまじっていることを例外とせず、望ましい配剤として、肯定したいと思います。
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以上は甚だ粗雑な考察ながら、私はこれによって、論者のいうような「女らしさ」というものが特に女子の上に存在しないということを突き詰めて知ることが出来ました。「女らしさ」というものは、要するに私のいわゆる「人間性」に吸収し還元されてしまうものです。女子に特有して、女子を男子から分化し、女子のみの生活というものを基礎づける第一原理となり、最高の価値標準となるものでないことが明白になりました。「女らしさ」という言葉から解放されることは、女子が機械性から人間性に目覚めることです。人形から人間に帰ることです。もしこれを論者が「女子の中性化」と呼ぶなら、私たちはむしろそれを名誉として甘受しても好いと思います。
「女らしくない」という一語が、昔から、どれだけ女子の活動を圧制して来たか知れません。習慣というものは根強いもので、今でも「女らしくない」といわれると、一部の女子は蛇でも投げつけられたようにぎょっとして身を縮めます。しかし現代の女子の大多数は最早「女らしくない」という言葉くらいに恐れません。それはもっと恐ろしい言葉のあることを直感しているからです。即ち「人間らしくない」という言葉に由って表現される人間性の破滅が、何よりも現代人に取って恐ろしいものであることを思わずにいられないからです。(一九二一年一月)
底本:「与謝野晶子評論集」岩波文庫、岩波書店
1985(昭和60)年8月16日初版発行
1994(平成6年)年6月6日10刷発行
底本の親本:「人間礼拝」天佑社
1921(大正10)年3月初版発行
初出:「婦人倶楽部」
1921(大正10)年2月
入力:Nana ohbe
校正:門田裕志
2002年5月14日作成
2012年9月16日修正
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