平塚さんと私の論争
与謝野晶子



 私は女子の生活が精神的にも経済的にも独立することの理想に対して、若い婦人の中の識者から反対説が出ようとは想像しませんでした。それは、この理想の実現が人生に真の幸福を築き初める第一の基礎であることが余りに明白なことだからです。しかるに平塚雷鳥ひらつからいちょうさんが最近に私の主張する女子の経済的独立に抗議を寄せられたのは非常に意外の感に打たれました。

 平塚さんは、私が『婦人公論』誌上に載せた断片的な感想の中で「男子の財力をあてにして結婚し、及び分娩する女子は、たといそれが恋愛関係の成立している男女の仲であっても、経済的には依頼主義を取って男子の奴隷となり、もしくは男子の労働の成果を侵害し盗用している者だと思います。男女相互の経済上の独立を顧慮しない恋愛結婚は不備な結婚であって、今後の結婚の理想とすることが出来ません」と述べ、従って、妊娠分娩等の時期にある婦人が国家に向って経済上の特殊な保護を要求しようという欧米の女権論者の主張が私たちの理想と背馳はいちすることを思って、「既に生殖的奉仕に由って婦人が男子に寄食することを奴隷道徳であるとする私たちは、同一の理由から国家に寄食することをも辞さなければなりません」と述べたのがお気に入らなかったのです。

 これに対して、平塚さんは「母は生命の源泉であって、婦人は母たることに由って個人的存在の域を脱して、社会的な、国家的な存在者となるのでありますから、母を保護することは婦人一個の幸福のために必要なばかりでなく、その子供を通じて、全社会の幸福のため、全人類の将来のために必要なことなのであります」という理由から、「母体に妊娠、分娩、育児期における生活の安定を与えるよう、国庫に由って補助すること」を主張されております。これに由って見ると、平塚さんは母性を過大に尊重しておられることが解ります。私は人間生活の高度な価値を父たり母たることに偏倚へんいさせて考えることを欲しません。私が賢母良妻主義に反対するのも一つは同じ理由からです。勿論父たり母たることに人生の重要な内容の一つとして相対的の価値を認めることは何人なんぴとにも譲らないつもりでおります。しかし必ずしも「婦人が母たることに由って」特に最上の幸福を実現し得るものとは決して考えておりません。人間はその素質と境遇とそれらを改造する努力とに由ってし得る限りの道徳生活を建設することが最上の幸福であると信じております。もし平塚さんの主張の通りにすれば、エレン・ケイ女史が人の妻ともならず、人の母ともならずに、著述家を以て一生を送りつつある如きことは、平塚さんのいわゆる「個人的存在の域」を脱しない不幸な婦人といわねばならないことになるでしょう。

 私は平塚さんとは異った立場から、もとより正当に母性を尊重します。さればこそ、女性の尊厳を維持しつつ、出来るだけ順当な母性の実現を期するためにも、私は女子の経済的に独立することが必要であると述べているのです。これについては一条忠衛いちじょうただえさんが近刊の『六合りくごう雑誌』で「夫婦の扶養義務について」と題して書かれた所と全く同感です。一条さんは学者としての研究的態度から、その議論が周到深切を極めております。その一節に「けだし人間が男女に分れているのは分業であって、その第一の目的は生殖的個性の発揮であり、第二の目的は精神的個性の発揮であって、この二つを兼ねて、男子は男子として、女子は女子として、その特殊的境遇の中に普遍的な人格を完成しなければならぬ者である。而して夫婦なる者は、実にこの分業を道徳的に誓約した至誠的和合であるから、その経済的生活に関しては協同的のものであって、主従の関係でなく、相本位的に同一の目的の下に、婚姻より生ずる一切の経済的費用を相互で自弁しなければならぬ関係者である。夫が妻を養うのでもなく、妻が夫を養うのでもなく、自ら自己を養いながら互に互を養う自他一体の有機的な経済的生活者である。……要するに、経済に関する夫婦間の生活費用は、扶養義務の形式において夫婦の共同生活を完成するための諸費であるから、その共同生活に必要なだけの費用を得ることに関しては夫婦はともに生産者となり、労働者となってそれを負担すべき義務者であり、一方にのみこの重荷を負わせる訳には行かない」といわれたのは、今後の夫婦生活の理想として、まことに合理的だと考えます。こういう風に経済の保障が確立している夫婦生活の中でなければ、母性の順当な実現は覚束おぼつかないことだと思います。

 平塚さんが「母の職能を尽し得ないほど貧困な者」に対して国家の保護を要求せられることには勿論私も賛成します。しかしその事を以て、私が「老衰者や癈人が養育院の世話になるのと同一である」といったことを、平塚さんが「間違っている」といわれるのは合点が行きません。老衰者や癈人の不幸はあるいは不可抗力的な運命に由ってその境遇に追い入れられるとも考えられるのですが、貧困にして母の職能を尽し得ない婦人の不幸は、私たちの主張するように、経済的に独立する自覚と努力とさえ人間にあればその境遇に沈淪ちんりんすることをあらかじめ避けることの出来る性質の不幸だと思います。私たちはその不幸を避けるために、女子の経済上の独立を主張し、「今後の生活の原則としては、男も女も自分たち夫婦の物質的生活は勿論、未来に生るべき我子の哺育と教育とを持続し完成し得るだけの経済上の保障が、相互の労働に由って得られる確信があり、それだけの財力が既に男女のいずれにも貯えられているのを待って結婚しかつ分娩すべきものであって、たとい男子にその経済上の保障があっても、女子にまだその保障がない間は、結婚及び分娩を避くべきものだと思います」と述べているのです。そうして、これは一条さんもいわれたように、「生活費用の計算において、夫婦は月末に同額を支出すべしというような乱暴な意味ではなく、ただ夫婦は各自の実力に従って自己の家庭のためには自弁者たるべしという意味である」のです。

 平塚さんは「現にあること」と「まさにあるべきこと」とを混同しておられます。現在の多数の婦人が経済的に独立していないからといって、未来の婦人が何時いつまでも同様の生活過程を取るものとは決っておりません。私たちは一つの理想に向って未来の生活を照準し転向しようとするのです。妊娠、分娩、育児等の期間において国家の保護を求めねばならぬような経済的に無力な不幸な婦人とならないようにという自覚を以て、女子が自ら訓練し努力しようとするのです。従って、国家の特殊な保護は決して一般の婦人に取って望ましいことではなく、或種の不幸な婦人のためにのみやむをえず要求さるべき性質のものであると思っています。この事を平塚さんが識別されるなら、私たちの主張に賛成して、私たちの議論の形式的に不備な点を補修されることはあっても、私たちの根本思想に反対される訳はないはずです。それとも平塚さんは、すべての母は国家に保護される権利を持っているから、必ずしも経済的に夫婦相互の独立を計る必要はない。妊娠、分娩、育児の期間は良人おっとに妻子の扶養を要求し、良人が無力であれば国家にそれを要求すれば好い。従って経済上の無力から生ずる不幸が十分に予見されていても構わず、恋愛さえ成立すれば結婚して、養育の見込の立たない子女を続々と挙げるのが今後の世界に認容される夫婦生活の公準であると主張されるのでしょうか。

 平塚さんは「十分な言葉の意味で、母の経済的独立ということは、よほど特殊な労働力ある者の外は全然不可能なことだとしか私には考えられません」といわれ、併せて私の主張のように経済的に無力な婦人は結婚を避くべきものだとすれば「まず現代大多数の婦人は生涯結婚し分娩し得る時は来ないものと観念していなければなりますまい。……如此かくのごとく今日の社会においては所詮実行不可能な理想を要求し、結婚年齢にある婦人を、健康な子供を産み得る婦人を、生涯もしくは長期間、独身者として労働市場に置こうとすることは、婦人自身の不幸はいうまでもありませんが、国家にとっても種種なる意味で大損失でなければなりません」といわれました。私は平塚さんが現実のみを──殊にその一面のみを──固定的に眺めておられるのを歯痒はがゆく思います。現在の労働制度が我々人間の力で改造されないものと決っているならともかく、男子も女子も心的に体的に何らかの労働に従事することを以て物質生活を持続することが普通の状態となるに到れば、今に幾倍する摯実しじつと熱心と勇気とを以て、一般の労働制度を我我に最も適応したものに鋳直いなおさずには置きません。そうなれば、勤勉な労働婦人は、その妊娠、分娩、育児に要する或時期だけ労働を休んでも、平生と同じ物質的の報酬を得ることも出来、また平生の報酬の剰余を貯蓄して置くことに由って、その期間だけ労働を休んでも、夫婦相互の扶養と子供の哺育及び教育に当てるだけの物質に不足しないでいることが出来るに違いありません。こういう労働制度の改造も男女相互の経済的独立心が旺盛にさえなれば実現され得べき事実です。平塚さんのように、「大多数の婦人は生涯結婚し分娩し得る時は来ないものと観念」するにも当りません。反対に、大多数の労働婦人が安全に結婚し分娩し得る幸福な時代は、富の分配を公平にする制度さえ人間が作れば容易に実現され得るものであることが予想されます。

 現実の一面が固定的に膠着こうちゃくした状態にあるからといって、私たちの主張を「所詮実行不可能の理想」といわれるのは平塚さんにも似合わない臆断です。理想は現実を改造することを常に予想しています。そうして、現実の大部分は常に多少とも変動しつつあるものです。それに正当な方向の指導を与えて統一した推移を計るものが理想です。固定的に見える現実の一面ばかりを注視するなら、平塚さんも唱えられ、私たちも要求している恋愛結婚にしても、「今日の社会においては所詮実行不可能な理想」といわねばならないでしょう。この理由からして、平塚さんがその恋愛結婚の理想の主張を抛棄ほうきされたとも聞きません。むしろ一面に媒妁結婚が頑強な勢力を持っていればこそ、他面には恋愛結婚に対する憧憬が鬱然うつぜんとして盛んな機運を作ろうとしつつあり、従って平塚さんのような先覚者がこの機運の順当な開展のために最善の指導を与えようと努力される必要があるのではないでしょうか。

 平塚さんは、私の主張の中に独身者の増加の予想されることを婦人自身の不幸、国家の大損失だといわれましたが、現在のように、経済的に無力な大多数の女子が、それらのことを殆ど顧慮しないで同栖どうせいを急いでしまう軽率放縦な結婚が、媒妁結婚にせよ、恋愛結婚にせよ、どれだけ婦人自身は勿論、良人及び子供の不幸となり、それから生じる種々の道徳上及び物質上の欠陥がどれだけ社会の迷惑となり損失となっていることでしょう。平塚さんは此方の不幸と損失とを独身者の一時的増加に由る損失よりはちいさいものとして、この経済的に無力な女子の軽率放縦な結婚をこのままに肯定し、かつ持続させて置こうとされるのでしょうか。

 私たちは現在の女子が経済上の方面にも一つの自覚を起して、労働を常則として独立する積極的の実行に取掛り、これに由って現在及び将来の不幸から自ら解き放つことを主張するものですが、もし平塚さんのように、私たちの主張を拒まれるとすれば、現状のままに放置された無理想、無解決の大多数の女子は、益〻男子の寄生者として屈従の生活、一種の売淫生活を送る者の増加すると共に、男子に寄生し得ないで、平塚さんにおいては正当なる権利の主張として、私に取っては養育院の世話になる老衰者や癈人と同じ不幸な依頼主義者として、国家の特殊なる保護を要求する者が層一層繁殖して行く結果となるでしょう。

 さなきだに、私は、近頃の都会において、売笑を職業とする婦人以外に、普通の家庭にある女子で、男子の注意を引くことの意志を最も露骨に示した、厚化粧と、過度な派手好みの服装と、厭うべき媚態とを備えた、娼婦型の女子の目立って増加したことについて、ひそかに顰蹙ひんしゅくしている一人です。それらの女子は精神的には勿論、経済的に無力なために、労働を以て独立しようとはせずに、廉恥も名誉も忘れて、唯だ身を以て男子に売ろうとしつつある者としか考えられません。これは男子の成金気質に附随して発生した一時的現象かも知れませんが、不完全ながらも現代の教育を受けた女子が、こういう風に頽廃した傾向を示すことは怖ろしいことだと思います。時代遅れの寄生的気分に満ちた、こういう懶惰らんだな遊民的女子の将来が如何に不幸であるかは平塚さんも認められるでしょう。彼らが他日「母の職能を尽し得ないほどの貧困」に陥る危険が予想されているにかかわらず、その危険の時が来たら国家が彼らを保護する義務を当然持っているからと云って、現状のままに放擲ほうてきして置いて好いでしょうか。

 平塚さんは「国家」というものに多大の期待をかけておられるようですが、この点も私と多少一致しがたいように考えます。平塚さんのいわれる「国家」は現状のままの国家ではなくて、勿論理想的に改造された国家の意味でしょう。それなら、個人の改造が第一の急務でなければなりません。改造された個人の力を集めなければ改造された国家は実現されないはずです。平塚さんは私への抗議の中で、なぜ「国家」を多く説いて、一言も個人の尊厳と可能性とに及ばれなかったのでしょうか。平塚さんの見識がもし個人の改造を首位に置かれたなら、女子を警醒して経済的に独立の精神を訓練させることが私たち各自の人格改造に最も急要な事実の一つであることを、私たちと共に同感されたであろうと思います。

 「国家」の場合にだけ改造された国家を予想しながら、未来の女子と社会状態については改造されたそれらを全く顧慮しないで「我国の如く婦人の労働範囲の狭い、その上、終日駄馬の如く働いても、自分ひとり食べて行くだけの費用しか得られないような、婦人の賃銀や給料の安い国」や「生涯を通じて働いてもなお老後の生活の安全が保証されない、またはそれだけの貯蓄をし得るほどの賃銀が得られないような経済状態にある現社会」が何時いつまでも人間の力で改造されずに固定して存続する物のように平塚さんの考えておられるのが何よりの誤解だと思います。恋愛の自由を主張される時にはエレン・ケイ女史と同じような立場から、自由思想家として理想主義的な議論をされる平塚さんが、私たちのいう意味の婦人の経済的独立に反対される時には、どうしてこうまで運命論的、自然主義的な行詰った消極論を述べられるのでしょうか。

 また平塚さんは、私が現代の理想として、こうした婦人の経済的独立を尊重しかつ要求するなら、それに先だって「婦人の職業教育奨励、職業範囲の拡張、賃銀値上問題等」になぜ大に努力しないかという風にいわれましたが、これなどは私の素養と、境遇と、精力とに対して甚だ思いりのない、いわゆる「かたきを人にうる」註文だと思います。人は分業的に協力して社会生活に寄与するものです。平塚さんのような註文が正当なら人はことごとく万能を完備しなければなりません。私とても平塚さんが挙げられたような問題について、微力の及ぶ限り注意もし研究もしております。それらについて「大に努力」こそしませんが、心では大に努力したい希望を持っていて、機会があれば文筆の上でも述べております。平塚さんが私の書いたものに対して、「観察があまりに狭隘きょうあいであるばかりか、ややもすれば事実その物の観察に出発せず、かつ事物の広くして深い関係を無視し、単独に一つの事件なり現象なりに対して是非の結論を急ぐ傾向が見えます。この欠点は氏が社会問題を論ぜられる場合に殊に著しく目立つところで、複雑な関係の上に置かれている社会問題も、氏によっては単独孤立的なものであるかの如く取扱われ、甚だしきは現社会の事実を全く無視して、自分ひとりを標準として極めて主観的な判断を大胆にも下しておられます」といわれたのは、虚礼的謙遜を避けて私がいえば、それはかえって平塚さん御自身に適用すべき非難であろうと思います。少くも私への抗議に現れた平塚さんの態度にはこの非難を下し得る遺憾が明かにあります。

 平塚さんは、私が『婦人公論』に載せた、あの一篇の短い感想だけを読んで、私という個人全体の欠点を非難されました。これが「事実その物の観察」に出発して「事物の広くして深い関係」を考え、一つの事件を、「単独孤立的」に取扱わず、慎重な観察を以て「社会の事実を無視」しない人の為すべきことでしょうか。私は今はばからずにいう必要を感じます。この七、八年間の私が乏しい時間の中で最も親んでいる所の、かつ出来るだけ広く読もうと心掛けている所のものは、文学の書物よりも、むしろ政治、経済、教育、労働問題等のそれであることや、それと同時に私が男女のあらゆる職業に対して実際にどれだけ注意し、踏査し、かつ他人の経験に聞きつつあることやは、私の日常の実際行為として平塚さんの耳目に触れないのは当然ですが、平生文筆に由って私の公開しているものについて、もし平塚さんが通読の煩をいとわれなかったなら、たとい結果は一知半解の独断的意見が多くなっているにもせよ、私の取扱っている題目の範囲のかなりに広い上に、私の態度が私の微力の能う限りにおいて社会事実の有機的関係を広く深く観察すると共に、その全体と核心と部分との統一と本末軽重を無視するどころか、常にそれを顧慮し高調していることにお気が附かねばならないはずです。私の書いたものから特に欠点のみ拾って揚足あげあしを取ろうとする悪戯いたずら的気分や小人的敵意に満ちた人はともかく、私に多少の愛を持って私の長所を発見し、それを助成しよう、補導しようとする人ならば、私が凡庸な素質と、迂遠な独修的教育と、乏しい経験と、狭い知識とから出来る限り固陋ころうな自己を破って、正大自由な理想と苦行的な実行との中に自分の生活を建てよう、更にこの理想を述べることに由って私たちの同性の自奮自発を促す万一の貢献をしたいと焦心していることに一顧を払われるであろうと思います。平塚さんが私の幾冊もない詩集と文集とのいずれをも読まれることなしに、私が「事実の観察に出発せず」加之おまけに「事実の関係を全く無視して極めて主観的な判断を下す」といって私の文筆生活に現れた私の人格全体を非難されたのは、それこそ余りに主観的な、大胆きわまる判断だと思います。

 平塚さんの私に対する抗議が以上のようなものであって見れば、これは最早第三者の位地にある人たちの公平な批判に一任して置いて好い性質のものだと思います。それでここに私の述べた所は、平塚さんに寄せる私の答弁では全くなくて、第三者たる人たちの裁定の資料として述べたのに過ぎません。平塚さんと私との考えのいずれが間違まちがっているかはそれらの人たちが教えて下さるであろうと思います。(一九一八年五月)

(『太陽』一九一八年六月)

底本:「与謝野晶子評論集」岩波文庫、岩波書店

   1985(昭和60)年816日初版発行

   1994(平成6年)年6610刷発行

底本の親本:「心頭雑草」天佑社

   1919(大正8)年1月初版発行

初出:「太陽」

   1918(大正7)年6

入力:Nana ohbe

校正:門田裕志

2002年514日作成

2012年916日修正

青空文庫作成ファイル:

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