三面一体の生活へ
与謝野晶子
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私たちは個人として、国民として、世界人としてという三つの面を持ちながら、それが一体であるという生活を意識的に実現したい。誰も無意識的には、また偶然的にはこの三面一体の生活の中に出つ入りつしているのですが、それを明らかに意識すると共に、出来るだけ完全にその三面が一体である生活を築いて行きたいと思うのです。
どうしてこういうことを思うかというと、私たちにはあくまでも幸福な生活を建てようとする要求があります。この要求は強力な一つの本能である上に、今一つの強力な本能である理性がこれを支持し助長しようとします。全く私たちの人生の内部から発した所のこの要求ほど確かな真実はありません。私はこれが絶対に合理的であることを信じます。
あくまでも幸福な生活を建てたいとするのは、従来の生活が十分に幸福なものでないということが不満を感じさせるからで、そうしてその理由は個人、国民、世界人という三つの面が矛盾し、衝突し、破裂しているからだということを今は私たち婦人も知る時機が来ました。即ち個人生活に利のあることは国民生活に害があり、国民生活に利のあることは世界生活に害があるという矛盾した状態に置かれているからだと思います。例えば戦争という人生の事実が縦まに個人を殺傷して個人生活の安全を害すると共に世界の平和をも乱すことは何人にも明白なることであるのですが、世界の文化の進歩したといわれる今日にかえって現在のような狂暴な大戦争が数年にわたって継続されているということは、今日もなお国民生活を特に偏重して、国民の自治的代表機関である国家が国民生活としての利害の前に他の二つの生活を犠牲にして顧みないという旧式な思想に原因していると思います。
私たちの本能はどの生活をも享楽することを要求します。三つの生活のどの一つをも欠こうとは思いません。私たちは現に一日の中にも個人本位の生活をして他の二つの生活を藐視している幾刹那もしくは幾時間があります。食事も、睡眠も、読書も、労働も立派に個人本位の生活内容であって、私たちはそれらの場合に必ずしも国民としての生活や世界人としての生活を意識してはおりません。また私たちが租税を納めたり、女子に政治上の投票権を与えられることを望んだりする場合には国民本位の生活をしている時であって、その時にあるいは個人生活の意識を背景としている場合はあるにしても、必ずしも世界人としての生活を意識してはおりません。また私たちが学問芸術を研究し鑑賞する場合には人種と国境と国民的歴史とを超越した世界人類本位の生活の中に生きているのであって、その当面の幾刹那もしくは幾時間には、個人生活の利害や国民生活の利害などを眼中に置いてはおりません。これは誰にも明瞭な共通の実感です。こういう場合には三つの生活が自然に融和流動していて、必要に応じてあるいは個人本位の面を生活の中心とし、あるいは国民本位の面を、あるいは世界本位の面を生活の中心として濃く彩っているだけのことで、一つが他の二つを藐視したり、意識していなかったり、超越していたりするように見えるのは、決して三つの生活が分裂しているのでなくて、かえってそう見えるまでに三つの生活の差が自然に塗り消され融かされて一体となっているのであると思います。
右のような場合には、個人生活という中に他の二つの生活が自然に包容され、国民生活という中に個人生活も世界生活も摂取され、世界生活という中に同じく他の二つの生活が内含されていて、何の扞格も凝滞も発見されず、極めて平和であるのです。私は誰にも明瞭なこの共通の実感と同じ状態の中に、如何なる場合でも三つの生活を融合させた一体のものとして経験したく思います。そうして、この要求が意識的なものであるだけ、その融合をも意識的に企画し努力せねばなりません。
例えば戦争というような場合は、国民と国民とが──その代表である国家と国家とが──戦争するので、それが個人及び世界人類の幸福となる結果は既往にも甚だ稀にしかなかったのです。殊に今日は腕力の延長である戦争、野蛮時代の遺習である戦争に由って国民生活の利益を計る事の不法に何人も目の覚めない時代ではありません。そして戦争が最早国民生活の利益になるのでないこともこの度の大戦争で明白になりました。個人生活を虐げ、世界生活の平和を攪乱して置いて、ひとり国民生活が幸福に成長し得るものでないことも明白になりました。この三つの生活が協同し、連関し、融和して、初めて人間の生活はその全体の完成を期待することが出来るということを知る時代が来たのです。
これまで分裂しやすく矛盾しやすかった三つの生活の融合をどう意識的に企画すれば好いでしょうか。私は私自身の必要からこれをこう考えております。その扞格と矛盾とを除き、その分裂と衝突とを避ける方法としては三つの生活を貫いて共通の幸福となる性質を持った生活事実を全生活の価値標準とし、これに背馳する生活事実をすべて排除する外はないということです。具体的にいえば、共通の幸福となるものは愛を第一とし、経済、学問、芸術、科学等は悉く国境を超えて平等に世界人類の幸福となる性質を持っております。これらは個人をも利し、国民をも利するものでありながら、或個人または一の国民の利益のために独占して、他の個人や他の国民との間にこれがために衝突するようなことを許されない性質のものであることはいうまでもありません。
この方法を実現しようとすれば、第一に愛の世界的協同が必要になります。博愛的世界主義というか、人道的世界主義というか、名はいずれにもせよ、人類が相互に愛し合い扶助し合う実行が起らねばなりません。今度の戦争で、協商国側にも連合国側にも或国民との相互扶助が行われました。それを今一段進めて世界人類の相互扶助を実現せねばなりません。西部の戦線においては敵味方の間にさえ、独仏の兵士同志は攻撃のない日に塹壕から出て語り合いながら、世界人類的の親愛を感じて、何がために国民の名においてお互世界の同胞が殺し合わねばならぬかを考え、その不合理と矛盾とを痛切に悲むような例が尠くないといいます。露西亜の過激派の行動は一見して非常識であり、その手段において極端不法であることは勿論ですが、しかしその精神は全人類的の愛から出発していることを否むことは出来ません。ケレンスキイ一派の第一革命にしても、過激派の今回の暴挙にしても、昔の仏蘭西革命が酸鼻の跡の多いのに反して出来るだけ流血の悲劇を示さずに目的を達することに一致しております。人をより幸福に生かすことが彼らの目的である以上、如何なる名の下にも手段として人を殺すことの矛盾を避けるのが至当です。罪人に対してさえ死刑を廃止するのが正義であると認める時代に、政治上の反対者に対し、その他の良民に対して武器の脅威を以て臨むことの野蛮行為であることは何人にも承認されるはずです。私は露西亜のあれほどの騒乱が人命を愛重して、今日まで殆ど何ばかりの血をも犠牲として流していないことに目を瞠らずにいられません。
国民と国民、国家と国家の名に由って軍事上、政治上にのみ同盟し扶助し合っていることは、結局、世界の上に二大強国、もしくは三大強国を作り、それらが互いに対峙し啀み合って世界人類の平和と個人の平和とを破ることになります。物は最も広大にして鞏固なる容器の中に収めて置くことが最も安全です。一斗の水を一升桝に入れようとすれば必ず溢れます。一斗桝に入れてこそ初めて安全であるように、人類生活の目的を専ら個人生活の中に収め、国家生活の中に入れようとして如何に圧搾しても、圧搾すればするほど溢れ出さずに置きません。その無理なことは解っております。人類生活は最も拡大された容器である博愛的人道的世界主義の中に入れてこそ初めて安全を得ることが出来ます。
私たちは歴史的、地理的、生産的、政治的の差別の自然的必要から、国民としての協同自治機関である国家を尊重し擁護します。しかし人種的の差別は最早国民の協同生活の上に何の条件にもならない事を認めます。私たちは世界いずれの人種の帰化をも拒まず、現に朝鮮人の全部と支那人の一部とを包容した国民生活を営んでおります。私たちの愛する国家は、他の国家と他の国民を峻拒しもしくは敵視するような排他的の目的を少しも持たず、歴史的、地理的、生産的、政治的の特殊な差別関係によって集団生活を持続している日本国民のために専らその自治改造の確実な機関たる外に何の目的もないものでありたいと思います。国民生活がこの目的の範囲を越えて排他的征服的の目的を国家の上に加え、他の国民と国家との生活を危くして顧みず、この第二の目的のために国民自身の他の二つの生活──個人的及び世界的生活──をも犠牲にする事になれば、それは愚かにも国民生活を偏重して唯一絶対の価値あるものとし、それが或限定された正当な目的を持った容器であることを忘れて、その中に一切の人間生活を収めよう、圧搾しようとする無理な仕方である以上、世界の平和は勿論、結局、国民自身の平和をも破らずには置きません。私はこの意味から、純正個人主義と世界人類主義とを背景としない国家主義、言い換れば個人の愛(個人の道徳)と世界人類の愛(世界人類の道徳)とを裏切った国家主義に反対します。
愛の世界的協同と共に必要なことは経済の世界的協同であると思います。この事の必要は今度の戦争において現に暗示されております。協商国側も連合国側も軍事上政治上の協同だけでは戦争の出来ないことを知りました。米国が戦争に参加して連合国側に偉大な強味を与えたことも、その兵力よりは、その豊富な財力に恃む所があるからです。好戦尚武の国として知られた日本が、よく自制して今度の戦争に大兵を動かさないのも、その重要な原因は米国と反対に財力の不足にあります。またこの度の戦争に由る財力の集中偏依が世界の隅々まで影響し、私たちの日常生活の第一の必要品である食物までを法外に暴騰させているのを見ると、如何なる名義の下にも、財力の集中と濫費が人類生活を危険にする事が想われ、同時にそれらの公平な分配と正当な支出が人類生活を幸福にすることが想われます。全人類の共通な幸福を円滑にし保障するものとして、相互に財力を扶助し合う経済の世界的協同が成立するなら、どんなに私たちの生活が安全になることでしょう。
愛と経済との世界的協同さえ主として成立すれば、その他の学問、芸術、科学等は固より人類的なものですから、特に世界的協同を主張しなくても、今日よりも一層人類生活の共通な幸福の動力となることは明白です。国民生活が偏重されている今日ではすべてが国家に隷属する不公平な状態となり、世界人類的なるべき愛が一国民の間、もしくは同盟国民の間にのみ限局せられて、国家の名の下に英国人は独逸人と憎み合い、終に戦争を開くような野蛮な光景を呈します。経済においても、国家が軍備拡張や戦争行為にそれを濫用して、かえって世界人類の幸福を破壊する動力となり、また学問科学も国家と国家との軍事的施設に悪用せられ、学者までも国家の奴隷として戦争を弁護し助長するような倒錯的陋態を誘致し、芸術も仏蘭西や白耳義の名高い大寺の建物のように、国家と国家の狂暴な戦争行為のために凌辱の憂目を見る外はありません。
以上述べたような、人類生活の内容として最も幸福な共通の標準として世界の連帯協同生活を建設することが出来れば、人は最も健全にして最も雄大な第一義生活──世界的生活の上に安座しているのです。これを基礎とし背景として必要な範囲で国民生活を営み併せて個人生活を営む事は、これまでの矛盾の一切を撤去することが出来て私のいわゆる三面一体の生活が完成されるものであろうと思います。人生は個人生活、国民生活、世界生活のいずれに偏しても幸福でありません。一体の生活の中にこの三つの生活が流動し融合して、少しも矛盾のないものであることが最上の生活の理想です。
今度の戦争は、この人道的な生活理想の覚悟を、敵味方いずれの国民にも、その抽象的知識的の考案からばかりでなくて、幾百万の同胞の霊と血とを犠牲にし、幾百万の財力を濫費したことの絶大な悲痛の中の実験から促進しつつあります。彼らはなお、古風な名誉と外面的体裁の行掛りのためとで悲壮なる戦争を継続しているだけで、彼らの内心は敵味方とも戦争の愚かさと悲惨と罪悪とについて明白に悔悟しているに違いありません。私は新たに戦争に加入した米国が欧洲の戦場で恐らくその百万の兵士の幾万人をも殺さないで済ますであろうと想像します。最も遅く加入しただけに、戦争の害毒に対して最も冷静な判断がウィルソン大統領以下の米国識者階級に徹底しているはずです。前年の海牙における万国平和会議のように形式的なものでなくて、人道的平和運動の実際的要求が欧洲の戦場とその背後の交戦国民との間に血に染りながら動いていると思います。恐らくこの戦争は過去のどの戦争が経験したよりも最も悲惨なる歴史を遺すだけで、その敵味方の国家と国家との間に何らの新らしい名誉をも附け加えずに早晩その終りを告げるでしょうが、しかしこの戦争によって空前の大勝を博するものが他にあります。それは敵も味方も包容した世界の全人類です。彼らは戦争と極端な国家主義とから解放せられて、愛、経済、学問、芸術等の世界的協同の中に、今よりも幾倍か堅実な個人生活、国民生活、世界生活を建設しようとするでしょう。この戦争が長引いてその戦慄すべき災禍が加重されるほど、戦後におけるそれらの平和運動は深められ、促進され、その事実化を早くするだろうと思います。
露西亜人はどの国よりも逸早くこの点に覚醒して平和の解決を望んだので、その目的は極めて善いのですが、惜しいことに適当な指導者を持たなかったために、無知と短気とから不自然な過程を取って、過激派のような暴状を現出するに至りました。露西亜人の性情と境遇からはああした無茶苦茶な、間違った過程を取らねばならなかったのかも知れませんが、それに由って世界の人間は反対な教訓を受取り、どの国民も決してあの暴状を摸ねようとは考えないのですから、露西亜人は世界人類のために前車の覆轍を示したことになります。また露西亜人とても何時まで今日のような無紀律な状態が続けられるものでもありません。きっとこの颶風が過ぎたら、その善良な平和の目的を温健に貫徹するための手腕ある代表者が現れて、世界の期待を空しくしないでしょう。
翻って我々日本人の現状を見ると、露西亜の過激派のような常規を逸した狂的平和主義者の現れそうな国柄でないのは結構であるとして、その代りに、この世界思潮の急激な転機に対して弾力ある積極的な反応を示す所が殆ど見当りません。人々は戦争以前に比べて何らの旺盛な生活欲も加えず、何らの向上的な生活理想も建てず、何らの進歩した実際生活も開展している様子はないようです。社会の儀表たるべき人々が多数は見苦しい利己主義に専心し、その少数の尊敬に値する人々にしても纔に善い意味の個人主義生活に停滞しているに過ぎません。人々はなお戦前の思想を以て生きているのです。これを戦争以来の欧米諸国に漲る急激な思想の推移に比べると日本人の生活は甚だしく微温な、退屈な、現状維持的な、日和見的な、弛緩した外貌を呈しております。あるいは文壇と思想界の一部に人道主義や民主主義が唱えられております。それはきっとそれらの主張者である少数の青年学徒たちやそれを共鳴する一部の青年たちの真実の要求であるでしょうが、それが社会の各部門における代表者たちの生活に何ほどの刺戟と利益とを与えているかと思うと、思想家の主張は実際に活動している社会と今なお概ね没交渉であって、如何に熱心と真理とを以て叫ばれた事でも、それが改革運動となって実現されるに非常に縁の遠いものであることを知って憮然たらざるを得ません。この事は毎月毎日の新聞雑誌へ真面目に筆を執っている人たちの斉しく実感せられる所であろうと思います。
私は弛緩した日本人の生活の一例に、現代の世界的大勢に刺戟せられて特に倫理的に緊張したという様子のないのを挙げたく思います。最近に三宅雄次郎博士は『東京朝日』紙上で故乃木将軍の遺書が伯爵寺内正毅氏に由って書き替えられたと公言せられ、また同時に男爵後藤新平氏の私有財産は二千万円に達している、それは後藤氏の労働から収得した正当な報酬であるかと詰問されております。これらの事件が欧米の社会で公言されたならば、二氏の人格は破滅してその首相たり内相たる地位から永久に失脚するか、あべこべに摘発者の三宅博士が裁判沙汰によって公人の生活から放逐せられるかして、いずれかの一方が由々しき倫理的制裁を受けずには已まないでしょう。しかし寺内、後藤二氏はこの致命的事件に対して全く知らぬふりをし、同僚の閣臣も、貴衆両議院も、政党も、教育界も一般社会も平然としてこれを看過しております。寺内、後藤二氏非なるか、三宅博士是なるか、それを明らかにすることなくして、この一国の風教に関係ある重大なる問題は、軽々に取扱われてしまうのです。しかし人の母たる私たちに取っては、こういう事実が新聞紙上に現れるごとに、言い知らぬ不快と公憤とを感じます。母の心にも、子供たちの心にも、大官となるに従って、あくまでも利己的生活を遂げるために、如何なる非倫不徳の行為を重ねても──それは一般人に対しては小学の修身読本においてすら厳禁されてある事でありながら──彼らの特権として道徳的にも法律的にも制裁されないものであるということの疑惑が保留されるのを、白日の下に何人も裁決してはくれないのです。これを思うと、しばしば内閣議長となった政界の名士のカイヨウ氏を現に売国的行為の嫌疑によって厳格な審判を加えつつある仏蘭西人の倫理的敏感を羨まないでいられません。
今一つ日本人の生活の弛緩している例には日本人の直接の指導に当る教育界の無気力無精神を挙げたく思います。この事は教育者自身に早く気の附いている所であって、その証拠には、この三、四年間の各教育雑誌ほど不平不満の文字の満載されたものはないのです。教育者たちの中の進歩主義者は、私たちが想像している以上に我国の教育と教育界とを極端に弊害の多いものとして痛論しているのです。それらの文字だけを読んでいると、これだけ多数の不平家が教育界に集っている以上、教育の改革は今にも教育界の内部から爆発しそうに頼もしく思われるのですが、それは纔に文字に表現するまでの不平不満であり、改革的意気であることを知るに至って、その志士的口吻の溢れた文字も、唯だ日比谷の議院における喧囂と一般の感を惹くに過ぎなくなります。私はそれらの実行的勇気を欠いた教育者の例に教育界の如何なる名家を引証することをも辞しません。かの人たちは皆利己主義的生活または個人主義的生活に余りに忠実であって、それ以上の高級な生活への飛躍に卑怯であるのです。
各種の教育雑誌に現れる議論において教育の統一と独立とを主張するのに勇気ある教育者たちが、どうして、現代教育の本義に考えてお門違いな陸軍的精神の掣肘を受ける兵式体操を拒絶しないのでしょうか。私は軍人のためにこそ兵式体操の必要を認めます。しかし普通教育には正当な目的があります。小学や中学において(大学においては勿論)軍人という一部の特殊な公職に就くための専門教育を施すことは肯定されません。普通教育において施すべきものは、体育のための体操の範囲に終始すべきものであると思います。山川帝大総長の如き教育者の頭目が極端な国民皆兵主義の実現と、今一つは、奉公、節制、柔順、細心というような美徳を養成する目的とで兵式体操の採用を奨励し、現役軍人をしてこれが教授の任に当らしめようとせられるのは、老人の非常識でなければ軍閥に対する気兼とでもいうものでしょうか。近世において国民皆兵主義を極端に実行したのは独逸の官僚政治家です。独逸はこれがために俄かに腕力の強者となりました。そうして平和主義的な文明諸国から嫉視された通り、その武力の過度な膨脹は果して世界の危険を馴致してこの度の大戦争となりました。今や世界の生活理想の方向は一転しています。国民皆兵主義の根本思想である軍閥主義や侵略主義はウィルソン大統領の宣言を待たずして、世界の反対する所です。これに気が附かないのは非常識であり、なおそれを知りながら田中参謀次長らに由って唱えられる国民皆兵主義に呼応されるのは奇体だと思います。大元帥を兼ねさせられた明治天皇の御製を拝見しても、世界人類を一視同仁の中に包容し給う御聖旨をしばしば示されているにかかわらず、侵略主義征服主義の覇王的な御精神は少しも窺うことが出来ません。日本の軍人の目的は正大です。文明諸国から独逸の国民皆兵主義と混同されるような危険な施設を、特に好んで今後の教育に添加する必要はありません。
臨時教育会議というものが内閣に直属して現に開催されております。これなどは戦後経営の予備行動として計画されたのだといいますから、私は母たる義務としても最初からこれに注意を払おうとしたのですが、その議員の多数の顔触を一見しただけで既に莫迦々々しいという気がするのでした。小松原氏平田氏という風な老人の官僚たちに、戦争以来の急激な推移を看破する一隻眼があり、それを受容する敏捷な神経があり、それに対して、日本人の生活の照準を合せ得る溌剌たる見識が十分に備っているという信用を、持ち得る者が果して幾人あるでしょうか。私はこの顔触を見て、戦時の英露二国に、ロイド・ジョオジとケレンスキイとが出現した当時の百分の一の緊張をも感じることが出来ませんでした。今日は真に戦後の生活を、世界の大勢と呼応して改造しようとするなら、どの方面においても新らしい青壮年の実力ある偉材を英断に抜擢して、第一に日本人の耳目を刺戟し、気分の刷新、心情の緊張を計って、ふやけた、保守的妥協的の悪気風を一掃して掛かる意気込が必要です。抜擢しようとすれば、教育界にもその他の社会にもそれだけの実力を抱きながら、空しく雌伏している人材は無数にあります。私の考えをいえば、臨時教育会議は今のような顔触を一切廃して、東西両大学、各高等学校、男女各高等師範、私立大学、中学、高等女学校等の俊秀な青壮年教授を主として抜擢し、それに教育界以外の同じく青壮年の識者をあらゆる社会から代表的に選択して組織すべきであって、その議題は少数の時代遅れな老政治家、老教育家達に由って決定されるほどの閑問題でないのですから、その討議も今のように秘密主義で通すことなく、一々これを国民の前に公表すべきものであると思います。私は一人の婦人教育家をも加えない教育会議というものは全く世界の趨勢を透察せず、日本の女子を蔑視した不親切極る組織だと考えます。
果して私の想像していた通り、あの顔触で出来上った臨時教育会議からは、今日まで、一九一七年の春に英国の議院でなされた彼国の新文部大臣フィッシャア氏の大演説が異邦の我々さえも襟を正さしめたような、時代と国情とに痛切な、合理的勇断的な教育上の改革意見を聴く事が出来ません。世界の尊敬に価するような教育上の対現代的見識も持たずに──即ち基礎となる正大な見識も持たずに──高等学校を甲と乙と二種設ける程度の、姑息な学制の改変に留まるような教育会議に、私たちは大した信頼が払われましょうか。これに対して実力ある抗議が教育界から起らないのを見ても、教育者たちの平生の不平や改革意見が甚だ頼もしくない、微温な、物蔭の泣言や大言壮語に過ぎなくなってしまいます。(一九一八年一月)
底本:「与謝野晶子評論集」岩波文庫、岩波書店
1985(昭和60)年8月16日初版発行
1994(平成6年)年6月6日10刷発行
底本の親本:「若き友へ」白水社
1918(大正7)年5月初版発行
初出:「太陽」
1918(大正7)年1月
入力:Nana ohbe
校正:門田裕志
2002年5月14日作成
2012年9月16日修正
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