赤い玉
楠山正雄
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一
これも大国主命が、八千矛をつえについて、国々をめぐって歩いておいでになる時のことでした。ある時摂津国の難波の津までおいでになりますと、見慣れない神さまが、海を渡って向こうからやって来ました。命が、
「あなたはだれです。」
とお聞きになりますと、その神さまは、
「わたしは新羅の国からはるばる渡って来た天日矛命というものです。どうぞこの国の中で、わたしの住む土地を貸して頂きたい。」
と頼みました。命はしばらく考えておいでになりましたが、
「この国はわたしの治めている土地で、あなたに貸して上げる場所といって、ほかにありません。では海の中を貸しましょう。」
とおっしゃいました。
こういわれて、天日矛命は、困って帰って行くかと思いのほか、
「では海を拝借いたします。」
といって、腰につるした剣を抜いて、海の水をかき回しますと、みるみるそこへりっぱな御殿が出来上がりました。大国主命はそれをごらんになると、
「これはなかなかえらい神だ。用心をしなければならない。」
と思って、家来にいいつけて摂津国を固くお守らせになりました。
二
さてこの天日矛命というのは、もと新羅の国の王子でした。それがどうして日本へ渡って来て、こちらに住むようになったか、それにはこういうお話があります。
新羅の国の阿具沼という沼のそばで、ある日一人の女が昼寝をしておりました。するとふしぎにも日の光が虹のようになって、寝ている女の体にさし込みました。
すると間もなく女は身持ちになって、やがて赤い玉を一つ生み落としました。ちょうど女の寝ていた時、そばを通りかかって様子を見ていた一人の百姓が、はじめからふしぎに思って、どうなるかと気をつけていましたが、女が赤い玉を生んだのを見て、それをもらって帰りました。
この百姓は谷の間に田を作っていました。ある日そこで働いている男たちの食べ物を牛に背負わせて運んで行きますと、ふと王子の天日矛に途中で出会いました。王子は百姓が人通りのない谷奥へ牛を引いて行くのを妙に思って、
「これこれ、牛を引いてどこへ行くのだ。谷底の人のいない所で、殺して食べるつもりだろう。」
といいながら、百姓をつかまえて、牢屋へ連れて行こうとしました。
「いいえ、わたくしはこの牛に、百姓たちの食べ物を積んで引いて行くだけで、けっして殺して食べるのではありません。」
といいました。けれども王子はうそだといって、なかなか聴いてくれませんので、百姓はしかたなしに、もらった赤い玉を出して、王子にやって、やっと放してもらいました。
王子がその玉をうちへ持って帰って、床の間に飾っておきますと、その晩、赤い玉が急に一人の美しい娘になりました。王子はその娘を自分のお嫁にもらいました。
そのお嫁さんは、毎日いろいろとめずらしいごちそうをこしらえて、王子に食べさせていました。そのうち王子はだんだんわがままをいうようになって、しまいにはお嫁さんをひどくしかりとばしたりしました。
するとお嫁さんも、とうとうがまんができなくなって、
「わたしはもうこれぎり生まれた国へ帰ってしまいます。もともとわたしはあなたのような人のお嫁になって、ばかにされるために生まれた女ではないのです。」
といって、おこって一人ずんずん小舟に乗って、日本の国へ逃げて行きました。そして摂津の難波の津まで来てそこに住みました。それが後に、阿加流姫の神という神さまにまつられました。
新羅の王子の天日矛は、このお嫁さんの後を追って、日本の国へ渡って来たのでした。けれども摂津国まで来ると、大国主命に止められて、陸へ上がることができないので、しばらくは海の上に住んでいました。けれどそこの海からは、どうしても日本の国へ入る望みがないので、ぐるりと外を回って、但馬国から上がりました。そしてしばらく暮らしているうちに、土地の人をお嫁にもらって、とうとうそこに居ついてしまいました。
この天日矛の八代めの孫に当たる人が、後に神功皇后のお母君になった方です。それから垂仁天皇のおいいつけで、はるかな海を渡って、常世の国までたちばなの実を取りに行った田道間守は、天日矛には五代めの孫でした。
また天日矛はこちらへ渡って来るときに、りっぱな玉や鏡などのいろいろの宝を八品持っていましたが、この宝は、後に但馬国の出石の大神とまつられました。
底本:「日本の諸国物語」講談社学術文庫、講談社
1983(昭和58)年4月10日第1刷発行
入力:鈴木厚司
校正:佳代子
2004年12月14日作成
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