正義の花の環
──一九四八年のメーデー──
宮本百合子



 三度めのメーデーが来る。ことしのメーデーはどんなメーデーになるだろう。お天気のよい日であることをのぞみたのしいメーデーの歌と行進とを期待する。去年は職場職場でなかなか趣向のこったプラカードや飾りものをもち出した。ブラス・バンドが先に立って行進した組合もあった。ことしのメーデーに自立合唱団や劇団はどんな自分たちの催しものを、全勤労者のメーデーの賑わいに交える計画だろう。日本でもメーデーには勤労階級が自分たちのなかから芽ばえはじめた歌や踊りを行進のよろこびに加える段階に進んで来た。

 今年もわたしたちは、去年うたった親しみのある明るい新メーデー歌をうたって何十万人の行進を行うのだが、三度めぐって来るメーデーについて、誰しもその胸の下にはいろいろな感想がある。

 一九四六年の第一回メーデーの、あの勤労階級の意義を示威するよろこびにさえみんながまだ馴れていなかったような内気なところのあるメーデー。それから、メーデーに勤労者は自分たちの意志と希望とを表現するものであるということを、その歌声の響のなかにもはっきり示した去年のメーデーの雰囲気。今年五月一日に、私たちみんなはどんなこころで、町から村から工場から、と歌うのだろう。

 真面目な、いくつもの思いがある。第一、おととしのメーデーのスローガンであり、去年のメーデーにも主要なスローガンの一つであった働けるだけ食べられるように、という切実な要求は、今年のメーデーに、どんな新しい表現をもってあらわされるのだろう。

 何故なら三年の間に最も重要なこの生活問題は解決されなかった。

 インフレーションはとめどがなくて、千八百円ベースは、現実の生活で規準にも何にもならなくなって来た。そこで、春さむい三月下旬のいま、新しく二千九百二十円の水準に向って、全勤労階級が種々な方法でその新給与の実現をもとめている。二千九百二十円で、二千四百カロリーはとれない。去年十二月下旬日本銀行の紙幣発行高は、凡そ二〇〇〇億円であった。この二千億という紙幣を百円札で八割、十円札二割とすると、面積六六万平方キロ。長さ八二万キロで地球のまわりの長さの二十倍。高さ富士山の百二十倍。この二千億を日本の総人口七千万と仮定すると一人が三千円ずつもっていられるはずである。ところが、実際にはどこへ金が吸いこまれてしまっているのだろう。正業にしたがっているものは、税、税の苦しみで、片山首相が「間借り」で都民税一二〇円ですましていられたことを羨んだ。

 こういう状態であってみれば、今日のメーデーに叫ばれる生活安定の要求は、この前二度の五月一日よりも痛切である。

 税と云えば、東芝のような大企業が、所得税の滞納のため財産の一部を公売にふされた。外聞がわるそうな公売で、東芝の生産した不合格品のストックや、会社として負担になっていたけれども潰してしまえなかった下請け工場の整理が出来て──労働者をクビにすることが出来て──或る意味では悪くなかったというのが現実である。大資本は、税の滞納に対する処分にさえも利益をひき出す。このことを思えば勤労所得税の廃止は、当然すぎる。まして、きょうの新聞によると、日本には西ドイツと同じように、経済集中排除法を緩和して資本家の復活を可能にしようという案が示されている。

「極東委員会の、ソヴィエト、中国、フィリッピン等の各国代表から猛烈な反対を受けることは十分承知し」ながら、「アメリカが日本に対し寛大な政策で臨もうとしている」のである。(三・一七、読売)

 集中排除法がきまったとき、日本の資本家によってそれは勤労階級に対しては、整理の理由としてつかわれた。集中排除が緩和され「第一義的軍事施設以外は日本から極く僅かな施設しか賠償として撤去しないよう」にと、ストライク委員会の報告が示しているという記事をよむと(三・一七、読売)日本の勤労階級すべての人々は男も女も、日本の軍国主義の残滓はどこまで払拭され得るだろうかと、空おそろしい気がしないではいられない。今日、日本人民の生活をここまでボロボロにした戦争も、日本の半封建的な天皇制が近代のファシズムと等しいものになったからであるし、軍人たちがファシズムを押しとおすことが出来たのは、金を出すものがあったからにほかならない。人民を犠牲とする戦争に金を出すことで一層儲かった者が日本人の中にいて、その利益に立ってことが運ばれたからにほかならない。新興財閥はすべて軍需企業家であった。集中排除法は、そういう企業とその経済力に向けられたものであった。それが緩和されるときいて、安心のため息をつき、案ずるがものはなかったのさ、と云っているのは、決して決して日本の人口の九割五分をしめる勤労階級ではない。資本は資本と結びつく、という原則にしたがって、儲けておいては昨日までの超国家主義のうらがえしで結合する人たちの安心なのである。

 今日のこの情勢の動きを眺めれば、ことしのメーデーの意義は、去年にもまし、おととしにもまして、深刻であると思う。一九一四─一九一八年の第一次世界大戦、それから二十五年たって起った第二次世界大戦を経験し、いくら戦争をやったところで、現在のままの法式では経済矛盾、社会矛盾を解決しないことを痛感しているヨーロッパ、アメリカ及び東洋の勤労階級は、ほんとに、世界歴史の上で一歩前進したやりかたを見出して、人類の平和と多数者の幸福をうちたてて行こうと努力している。世界労働組合連合の遠大な目的と献身的な努力はここに向けられている。

 一九四五年に組織された国際婦人民主連盟に世界の四十四ヵ国の婦人八千百万人が結集しているのは何のためだろう。ここにこそ、死をとおし涙をとおしての女性の決意がある。二度の戦争は、世界婦人に、しんから戦争挑発者たちに対する憎悪を教えた。戦争の無惨と無意義な破壊の犠牲はいつも人民に、女と子供と老人に無限にのしかかるものであることを血の涙をとおして自覚した。八千百万の彼女たちは平和と人類の幸福のための生産復興を主張している。

 わたしたち日本の女性は、もっともっと自分たちの置かれている無力に憤ることを知らなければならないと思う。日本の女性がこんどの侵略行為のために払わされている犠牲の大きさについて、真剣に、自覚しなければならないと思う。私たちの欲しいのが平和と生活の安定であるならば、自分たちの欲しいものに近づいてゆくためのあらゆる手段、あらゆる智慧、あらゆる国際協力が、わたしたちの毎日の実行となって行かなければならない。

 永年あまりおさえつけられて来たために日本の人の感情にはまだまだ沈着で粘りづよいはずみというものが不足している。はっきりと自分たちの求めているものを見きわめて、その目的を実現させるためには決してへこむことない忍耐づよさで、よいバネのように働いてゆくはずみが足りない。弱いあきらめや、浅はかな見越しをすて真実の世界をつなぐ花の環の一環として、平和を守る世界正義の下へ日本の勤労階級の正義をも結び合わしてゆかなければならない。これこそ、今年のメーデーに期待される重大な一つの歩み出しであると信じる。

〔一九四八年五月〕

底本:「宮本百合子全集 第十五巻」新日本出版社

   1980(昭和55)年520日初版発行

   1986(昭和61)年320日第4刷発行

底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房

   1952(昭和27)年1月発行

初出:「働く婦人」

   1948(昭和23)年5月号

入力:柴田卓治

校正:米田進

2003年64日作成

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