人間の結婚
──結婚のモラル──
宮本百合子
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きょう私たちが、結婚や家庭というものについて持っている大変複雑な感情や問題の本質はどういうところにあるだろうか。一言にいえば、これらのいきさつの総ては第一次世界大戦後の二十五年間に世界のあらゆる国々で、婦人もだんだん、男子と同じような角度から結婚や家庭の問題について理解しはじめたということだと思う。昔から結婚をして家庭をもって数人の子供の父親になるということだけを、男子一生の天職と思った男はなかった。そう教育される男の子たちもなかった。最も卑俗な親たちでさえも、男の子に向っては「世の中の役に立つ人間」になるようにと教えたし、何かの形で親の生涯よりも発展した、男としての一生を期待した。その場合、よい妻を持ち、よい子を持つということは男の一生の自然におこる事情への希望として語られた。よほど卑劣で妻の親の財産や地位を自分を養うために利用しようと思うもののほかは、社会的に活動する男の生涯の一面として結婚と家庭が考えられてきている。
今日の少しものをかんがえる若い女性たちの心の中に、結婚と家庭というものが何時の間にか女性の生涯の解決ではなくて、それが彼女の夫になるべき青年たちの感覚の中にとらえられているとおり、彼女たちにとってもやっぱり女としての社会生活の一面であるというふうに思われてきている。よしんばそれが、彼女たちの人生の十分の八迄の部分を占めるとしても、後の二分は疑いもなく結婚をして家庭をもって母ともなり、それらの経験で成熟して行く女性としての人間性からこの社会に何かを貢献したいと思いはじめている。これは当然なそして自然な女性の社会的感覚の発展である。それだのにこの当然さ自然さのために、今日総ての未婚と既婚の真面目な女性たちが、言い尽せない複雑広範な問題を日々の中に感じている。これはどういう訳だろう。
人間が極く原始な集団生活を営んでいた頃、そこにどんな恋愛と結婚のモラルがあり、家庭のしきたりという考えが存在していたろう。女も男も獣の皮か木の葉をかけて、極く短い綴りの言葉を合図にして穴居生活を営んでいる時代に、原始男女の世界は彼等の遠目のきく肉眼で見渡せる地平線が世界というものの限界であった。人類によって理解され征服されていなかった自然の中には、様々のおそろしい、美しい、そしてうち勝ち難い力が存在していて、嵐も雹も虹もそこに神として現れたし、彼等の体を温めたり獣の肉をあぶったりする火さえもその火が怒れば人間を焼き亡す力を持っている意味で、やはり神であった。神や魔力は水の中にさえもあった。あんなに静かに流れ、手ですくっておいしく飲めるその水が、天からどうどうと降りそそげば、彼等の穴ぐらは時々くずれたり狩に行けないために飢えなければならない時さえあった。未開な暗さのあらゆる隅々に溢れる自然の創造力の豊かさを驚き崇拝した原始の人類にとって、自分たちに性の別があってその結合の欲望は押え難く彼等を狂気にし、その狂気への時期が過ぎてある時がたつと、女の体は木の実のように丸くなってそこから人間そっくりの形をした小さな人間が現れて来るという神秘について、彼等は絶対の驚きをもっていた。太陽や月のように、人間を支配する性の力を崇拝した。原始社会に広く行われた信仰の一つである性器の崇拝は、人間創造の自然力に驚嘆した我々の祖先の率直な感情表現であった。
こういう時代には人類の男女は生物的に自然に従えられていただけであった。だから山の獣が自然の魅力で異性を見出し、それに引きつけられて行く限りでは、そこには人間の雌である女があり、人間の雄である男が存在するばかりであった。家族関係というふうのものも近代の意味では確立していなかったから、互いにとって親族的な縦横の関係は無視されていた。いいかえれば、母、姉、妹の関係が明瞭でなくて、そこには若さの差別のある女が存在したばかりだったし、それらの女にとって父、兄、弟という存在はやっぱり若さの違う男の存在として現れた。今日、私どもが考えているよりも遙かに長い歴史の時間に渡って人類のこういう原始的な性関係があったらしい。こういう関係の中では、性格とか気質とかいう問題はあり得なかった。人間そのものが性格を持つまでに分化発展していなかったのだから。
ひき続いて母系の時代が現れたことは周知のとおりである。続いて人類社会の生産の様式が発達し、奴隷が出現し、財産というものが社会に存在するようになるにつれて、そのふやし手であり護り手である男の父系制度が確立してきた。最近までの日本のように強い封建性の影響の残っている国では、父権は悲劇的な威力をふるって一家を支配した。父権につれて尊重され始めた家系というものがその利害や体面のため、同族の女性をどれほど犠牲にして来たかということは、日本の武家時代のあわれな物語の到る所に現れている。ヨーロッパでも家門の名誉ということを、その財産の問題とからめて極端に重大に視る習慣のあったスペインやローマの貴族の間でどんなに悲劇があったかということは、「ローミオとジュリエット」一つを見てもよくわかる。スタンダールが書いている「カストロの尼」のおそろしい物語は、結局はローマ貴族の家門の悲劇であった。同じスタンダールの「パリアノ公爵夫人」という美しくもの凄いロマンスは十六世紀のイタリヤ法王領内で起った悲劇であった。これらの中世のおそろしい情熱の物語、情熱の悲劇は、当時絶対の父権──天主・父・夫の権力のもとに神に従うと同じように従わなければならなかったスペインやイタリヤの女性たちの胸の中に、もう「人間」が目覚めはじめてきていた証拠である。教会と父権とが彼女たちに与えた現世の主である夫に対して、彼女たちは厳しくしつけられていた通りに貞潔の誓を立てながらも、もう唯の雌ではなく人間の女性となってペトラルカの詩も歌うようになっている。彼女たちは自分たちの生涯にとって不幸にして幸福な瞬間として、良人以外の男性に好もしさを感じることを押えきれなかった。近松門左衛門は彼の横溢的な浄瑠璃の中で、日本の徳川時代の社会の枷にせかれて身を亡す人間らしい男女の愛の悲劇を歌った。カルメンの物語でばかりスペインを知っている人々にとって、またダンテとベアトリチェの物語だけでイタリヤの心を知ったと思う人は、これらの国々で不幸な愛人たちが自分たちの幸福への願望と共に流した血潮の多量なことに心から驚かずにいられないだろう。こういう事情の中では結婚も家庭も母となることさえも天主の定め給うた「運命」として受けとられた。人間らしい自発的な選択や愛の歓喜や母の喜びなどというものが、万一「家門」の必要と一致するようなことがあれば、若い女性はその意外さに寧ろおののいたであろう。
封建社会は徐々に近代の資本主義の社会に発展してきた。新しい社会のエネルギーに対して、その経済的活動の上にも、政治生活の上にも絶対の権力をふるってきた僧侶貴族一家一門の首領たちの権威は、彼等のやり方と共に若い時代にとって重荷になってきた。発展を阻むものになってきた。近代の歴史の担当者として現れたブルジョアジーは、王権を否定して市民(ブルジョア)の権利を確立すると共に、ルーテルを先頭に立てて、法王に統率され経済的政治的に専制勢力の柱である天主教の仕組を否定した。そして、市民一人一人の精神の内に在る神としてのキリスト教新教を組織した。そして権力のために犠牲にされることのない市民の個々の家庭の尊厳を主張しはじめた。同時に両性の清らかな愛による互いの選択と、その神の嘉し給う結合の形としての結婚を主張した。
ところでこの「神聖なる結婚」「純潔なる家庭」といいながら、資本主義社会の冷酷な利害関係と、持つ者持たない者との関係によって、現実にはどんな矛盾がそこにあらわれたかということは、夏目漱石が深い知識と研究で物語っているイギリスの十八世紀の文学史を見るとよくわかる。世界で最も早く産業革命を行い、市民の権利を確立させたイギリスは、新教の本場となった。従ってイギリスでは、特別にこの神聖な結婚と純潔な家庭生活という観念が流布して、偏見にまで高まった。その「神聖な結婚」はどんなに多くの場合男女双方からの打算を基礎にした選び合いであり、時には「買いとられた花嫁」を教会が「神聖な結婚式」で祝福していたかということはイギリスの有名な諷刺画家ホーガースの作品に辛辣に示されている。中流的なイギリス人の家庭で体面と打算とを両立させた「ちゃんとした結婚」をするためにどんな滑稽なひそひそ騒ぎが演じられるかということは、ジェン・オースティンの作品を見てもわかる。彼女の書いた「誇と偏見」は彼女のような所謂ちゃんとした「淑女」でさえもどんなに「ちゃんとした結婚」への騒ぎに対しては皮肉と憐憫とを感じていたかを語っている。またイギリスの最も傑出した作家の一人、サッカレーの作品はその傑作「虚栄の市」の中で、光彩陸離と、なり上り結婚のために友情も信義もけちらかして我利をたくらむやり手な美しい女性を描いた。家庭の純潔が言われても、社会がこれらの家庭の純潔を全うさせるだけの条件を一つも備えていなかったことはオルゼシュコの「寡婦マルタ」の哀れな生涯がまざまざとしめしている。それどころか近代文学の殆んど総てはこの近代の神聖な結婚と純潔な家庭生活等をひっくり返した側から取り上げているのは何故だろうか。
結婚と家庭について、そして女性について、近代には二つの考え方が出来た。その一つは、所謂「神聖な結婚」「純潔な家庭」というものを承認しようとしながら、資本主義の現実社会が齎す醜悪さと偽善とに反撥して、ロマンティックに両性問題を考えようとした傾向である。私たちは聞いていないだろうか。人類は初め男女共分れていない一対の者であったが、それが或る時男と女とに分れてこの世に生れなければならない廻り合せになった。それだから男も女も互いに本当の自分の半身を見つけ出そうとして、完全な愛を求めて果もなく彷徨う悲しい宿命がそこから生じているのだと。
こういうロマンティシズムに対して、近代精神の特長である現実に対する追求力リアリスティックな探求心は驚くべき熱中と執拗さをもって、恋愛と結婚と家庭の「神聖」の仮面をはいだ。モーパッサンのほとんど唯一の傑作である「女の一生」を読んだ人は、その昔騎士道が栄え優雅な感情を誇ったと云われているフランスでも、「女の一生」はあんまり日本の無数の女の一生と同じなのに驚くだろう。トルストイは「結婚の幸福」その他で結婚生活の無目的性と生物的な本質を、きびしい自分への批評をこめて描いている。「戦争と平和」の中であの特徴のある敏感な可愛いナターシャが、当時(十九世紀)のロシアの上級階級のいざこざの間に幾つかの恋愛を経験しながら最後はピエールの妻となって、だんだん鈍感になり、ふとり、次から次へと子供を持って歌いもせず考えもしない客間と子供部屋だけの存在となって行く過程を、トルストイは何と鮮かに追跡しているであろう。「アンナ・カレーニナ」が偽善的な上流社会の結婚の枷と上流婦人の無為な生活の中で、彼女の豊かな活力と可能性を受け止めるだけの人間としての力を欠いたウロンスキーへの情熱にばかり生存の意味をより縋らそうとして、遂に幻滅から死をえらんだ成りゆきも、トルストイは決して単純に良人以外の男を愛した妻の悲劇として書いたのではなかった。もっと突込んで、痛烈に、愛の無い冷酷な社会的偽善としての結婚の形態の内幕と、無方向に迸る激しい愛の渇望の悲劇を描いたものであった。トルストイが彼の貴族地主としての生活環境の中で、結婚と家庭生活の実体を厳しく省察したとき、人道主義的な立場からそれを懐疑したのは当然であった。彼は一組の男女が人類的な奉仕のためにどんな努力をしようともしないで、一つの巣の中にからまりあって、安逸と些末な家事的習慣と慢性的な性生活をダラダラと送っている状態を堕落としておそれ憎んだ。そして本当の真面目な結婚生活というものがあり得るならば、それは決して現在の常識がうけいれて習慣としているようなものではなく、夫婦の性的な交渉もまたちがって、はっきり子供を持とうとする責任をもった心の上に立って行わるべきであると考えた。
こういう宗教的トルストイの考え方と、自然主義の人々或いは二十世紀初期のある種の唯物論者、たとえばイギリスの作家バーナード・ショウなどは、恋愛、結婚、家庭生活などにつきものの、ベールをすっかり剥ぎ取って、全く生物学的な解釈だけに立った。これらの見解の中心点は、恋愛にしろ結婚にしろロマンティックな花飾で飾られたこれらの人間行事は、窮極のところ人間の生物的な種の保存という自然の目的に従ったものであるに過ぎないというところにある。女性は、あらゆる時代を通じてこの「生の力」の盲目的な遂行者で、男性はその自然の目的のために生捕られてしまう。そして本当に自由な人間としての創造的能力の大部分を、巧みで無邪気でしかも自然の悪計に満ちた女性と、彼女の営む家庭、育児室のために浪費させられると考えた。一九〇三年にバーナード・ショウの書いた「人と超人」はそういう思想に立っている。日本でも初期の田山花袋や徳田秋声のような自然主義作家は、両性の複雑な交渉の底に赤裸々な生物的本能だけを発見している。
資本主義社会の現実が、両性関係に齎しているあらゆる偽善、恋愛と結婚の「神聖」論に対して加えられた唯物論者達の打撃は、決して無意味ではなかった。恋愛と結婚の問題はそれらの論争の時代に、やっと小説と詩と伝説の枠から離れて社会科学の対象となり始めた。そしてこのことは同時に婦人自身の間に、婦人の社会的立場についての反省、省察と、客観的な研究の必要とを自覚させた。このことは婦人が自分達の手で「女の一生」をより人間らしく生きる値うちのある女の一生に変えて行こうとする方向をとった。ブルジョア婦人解放問題はこうして十八世紀末のヨーロッパに擡頭した。
日本では両性の問題は実に不運な取扱いを受けつづけてきた。社会のあらゆる生活の隅々まで深く封建性の沁み通っている日本では、総ての人が今日寧ろ驚きをもって理解した通り、民法でさえ婦人をおそろしい差別待遇においていた。社会の現実の進み方と、これらの民法はどんなに喰い違っていただろう。今日民法が改正されて婦人の差別待遇が取り除かれたといっても、それでもまだ実際の社会情勢・日常生活の現実にはたちおくれている。今日改正されたような民法は明治三十年の初め、日本が未だ資本主義興隆期に向っていた時代に、ブルジョア民法として福沢諭吉が強く主張していた折に改正されれば、いくらかは社会生活の現実で女性の実際の助力となり得たろう。きょうではあまりおそまきな、結婚の自由、男女平等の財産権、平等の親権、その他いまになって改正された条件は、昔の民法からみれば婦人の解放のモメントをなして出ている。今日長いおそろしい戦争の結果これ程の未亡人と、浮浪児が何んの人間らしい生活へ進む可能性も国家から保証されないで、おそろしいインフレーションの街に放り出されているとき、平等の親権は、何をなし得るだろう。男女平等の財産権が、どこにその基礎になる人民の財産をもっているだろう。もし民法で新しくきめられた婦人の社会的平等、人間らしい対等の権利を具体的なものにするなら、もうきょうの社会のなかで民法の条項が改正されただけでは意味がない。男と女とがその勤労によって生きなければならない労働に関係あるすべての法律で、男女は平等になり女が女であるという意味での母性保護が実現しなければならない。だから、労働組合が、口ぐせのように勤労条件の要求の中に男女平等と母性保護をくりかえしているのは、深刻な現実をてりかえした真実の声である。この要求は、直接職場をもっている婦人ばかりでなく、勤労者の妻、母、娘すべてにかかわる問題である。結婚と家庭の問題にじかにつながっている。何故なら、きょう改正されたブルジョア民法としての新民法を、きょうの現実のなかで一般婦人に実効のあるものとするには、実際の勤労条件の改善に裏づけられなければ、殆ど偽瞞に終らなければならないのだから。
私たちの今日の生活は破壊と建設の形容出来ない混乱と、それに加えて、民主的推進のきわめて複雑な道の上にある。憲法を見ても新しい「民主憲法」は不思議な矛盾をはらんでいる。天皇というものの全く特殊な規定が、この主権在民といわれる憲法の中にある日本の封建的な尾は、伝統の中に巨龍の尾のようにのこっている。そしてこの尾のうろこのかげにかくれて今日なお国民を破滅させた軍閥ののこりと反動の力がうごめいている。
そして近頃広く読まれている作家坂口安吾氏は、彼の人気あるデカダンスに封建性への反抗という理論づけをしている。偽善的な、形式的な、人の思惑ばかりを気にしている日本の封建的な社会風習に対して、この作家は「雄々しく堕落せよ」と叫んでいる。様々の、情熱を失った道義観やきれいごとの底を割って人間のぎりぎりの姿を露呈させよ、という。そして肉体の経験、その中でも性的経験だけが信じることの出来る人間性のよりどころ、実在感の基点であるとされている。
たしかに日本の過去の、そして今日の両性生活は不自然な状態におかれている。不必要なきがねや、くだらない体裁、いやしい常識、そういうものに毒されて掛引と臆測と打算なしの恋愛も結婚も本当に少いように見える。さもなければ住宅問題からはじまるインフレーションの諸悪があらゆる若々しい愛を結実させない。こういう社会の眺めは、よく生きたいと思っているすべての男女の精神を苦しめているし、実現しにくい愛に悶えさせている。この時の、爆発的に言われる堕落せよという声は、多くの人を物見高い心持から引きつける。
ところで私達は、性的経験の中にだけ人間性の実在感があるという観念について、一つの、まったく単純な質問を出したいと思う。もし坂口安吾氏がいうように、ぎりぎりの人間的存在が性的交渉の中にだけ実感されるならば、何故坂口氏自身、こんなにたくさんの紙とインクを使って、それを小説として表現しなければならないのだろうか。この質問は、単純だけれど深い意味を持っている。何故ならこの文章の始めで私たちが見てきたように、我々の祖先の男女たちは、全く生物的に男と女のからまり合いの中に生命の最頂点の自覚をもってきた。然し、こういう生物的な人々は、小説は書かなかった。唯満腹の後の満足の叫び声としての歌、雌としての女の廻りに近よったり遠のいたり飛び上ったりする一種の踊り、そして最後に彼等の生活の核心であった性的祝典がおかれる。彼等は実際性的行為の中に実在したのだ。坂口安吾氏がそれ程熱中して性的生活の中にだけ人間的実在を捕えると言いながら、その経験に負けない熱中をもって、或いは性的行為の幾倍かの人間的エネルギーを傾けて、それを文学という様式を通じて、仮にも文学作品とよばれるものにして行かなければいられない、その必然はどこにあるのだろう。
あんまりはっきり現れているこの矛盾について、作家自身はかつて一度も説明を与えていない。作家が答えられないとしても第三者である私達には答えられる。つまり私たち人類は、もう穴居人ではないということである。それが良いにしろ悪いにしろ人類の社会の歴史は数千年経過していて、人類という生物には他の生物にない複雑で綜合的な生活機能が発展してきているという事実である。有名な生理学者パブロフが人間の生理の反射機能の実験を犬によって行い、条件反射という重大な発見を、生物的人間の理解に加えた。パブロフは、犬の実験を通して、人間も犬と同じように一定の条件に対して一定の生理的反射を行うことを見出した。それは生理学の一つの革命であった。パブロフが死んでから何年か経った。そして今日パブロフの偉大な発見の継承者たちは、人間という生物の発展に於ける独特な機能として、パブロフが発見した犬と等しい第一次命令体と共に、もっと深くもっと微妙に人間生活に影響する第二命令体(セコンド・オーダ・システム)のあることを証明した。犬はその餌を持って来る人が何人であろうとも、実験上習慣となっている一定の時間に餌を見れば盛んに反射作用を起して胃液を分泌した。人間にも食慾がある。食べたい時に食物を見れば、反射作用を起して口の中は湿っぽくなる。けれども忘れてならないことは、犬が決して「これは畜生の食い物だ」という感情を知らないことである。犬は食い物の与えられ方によって決して食いたくないと思う程の屈辱と憤りとを感じることがない。人間が人類という生物ではあっても、地面に投げ与えられたものを何でもがつがつ食べる生物ではなくて、人間ばかりが社会生活の発展から生物的な要求としての餌に対する悲しみも、憤りも、誤りも、自覚しているのである。資本主義社会は一日一日と個人の中に人間的自覚を目覚めさせた。犬とは違う餌についての諸感情と判断を目覚めさせている。餌は資本主義社会の諸条件のもとにあって、実に複雑極まるセコンド・オーダ・システムの対象となっている。食糧問題は、今日国際問題であり、政治の問題である。坂口安吾氏の性的経験の中に実在を自覚するという論についても同じことが云える。人間坂口は単に雄であるばかりでは実在しきれない。雄であることだけに実在を包括しきれない。だからこそ、小説として書く。小説は文字標式による精神活動の高度な表現である。近代小説はやっと十八世紀になってその一歩を踏み出したのである。
日本の婦人は様々の形で非人間的なモラルに縛られてきた。恋愛とか結婚とかいう問題について受身であったばかりでなく、性生活そのものについての理解がほとんど暗黒のまま封鎖されていた。今日一時に扉が開いて、性的な問題は公然と取り上げられ始めたけれども、今日の青春がおかれている事情を見れば、そこにはそれぞれの形での春の目覚の悲劇があるように思われる。用意された知識も分別も無いままに、戦争中のあの楽しさを全く奪われた生活の檻から離され、青春はドッとばかりに溢れ出した。何に向って? どういう喜び? 何をどういう風に建設しようとして? ところがここでも、崩潰された生活安定と楽しさを喜ぼうとする激しい欲望がぶつかっている。はしゃぐことをふざけることをいつも禁じられてきた日本の娘が、今日町で、公園で種々の生活の隅々で、ひたすら笑うことをはしゃぐこと(有閑に楽しむこと)を渇望している姿は、その明暗さの錯綜によって深い問題を提出している。こういう今日の一部の生活感情にとっては「有閑に楽しむ」ことと「堕落を恐れない」こととは自然に結びついている。過去の恋愛だの結婚についての辛辣な罵倒はなぜ彼女たちにとって心よいかといえば、第一目前にそんな美しい恋愛だの結婚だの家庭生活だのがないことを知りぬいてそのことを悲しく思う心を、ふてくされて、居直ってしまっているから。それは親や兄の云いなりに否応なし形ばかり「神聖」な性的生活の、本質には同じような堕落に突き入れられるくらいなら、女も男と同じ感情で、自分から選んだ堕落の道に進む方がまだ痛快なだけましだとする点にあるだろう。
ところがこの感情の自主的ということにやはり一つの疑問がある。坂口氏のデカダンス世界観の中では、女というものは唯男に対する性器的な存在だけであって、人間としてまた社会生活者としてもっている他の種々の条件や問題は存在しないとされている。もしかりに自主的な堕落の辛辣さを心から感じようとするなら、彼女はこの点で非常に迷惑な堕落論者の独断にぶつかるだろうと思う。何故なら、少くともその女性は人間としての自主的な選択、自主的な好みによって堕落の道をえらび、性的にも結ばれて行こうとしているのだろうのに。堕落において彼女は性器の機能を問われるばかりで、人間の感情としての、特にこれ迄抑圧されていた日本の女としての解放を求める気持からの堕落の適用を問題の外におかれるならば、それは肯定して進める道であろうか。ましてや、性的欲望は、その機能が食慾と同じように、それよりももっと強く人間の社会的な反応であるセコンド・オーダ・システムの影響を受ける。好き嫌いをぬきにしては少くとも自主的な性的機能は発揮されない。好き嫌いの感情を否定した性的交渉というものは売笑にしかない。坂口氏が性的経験の中にだけ実在を把握するといいながら、縷々とそれについて小説を書かずにはいられない矛盾、撞着が女性を性器においてだけ見るという考えの中にそっくり映っている。そしてそれを発見した時、雄々しく堕落しようとする娘たちは、案外自分たちが極めて古くさい在来りな女の動物扱いにおかれていたことにおどろくのである。
今日、人間の自然な感情とその開花として恋愛や結婚の問題を社会的に考え、判断し、生きようとしている総ての落着いた男女の心は、ここにふれたような現代の矛盾、その暗さ混沌のすべてを知っている。第二次ヨーロッパ大戦の前まで、少くとも日本では、よい恋愛、人間らしい結婚について思っていた人々はいつもこの問題を明るい面からだけ希望し期待していた。つまり理想をもち、憧れも持っていたけれども、最近の数年間の荒っぽい現実は、そういう主観的な角度から恋愛や結婚を思い描く甘さを青春の精神から奪ってしまった。今日の真面目な心は、その若さにもかかわらずイリュージョンの大半を失っている。自分が愛される以前に、一人も愛する者を持たなかったような男性というものを、どんなに品のよい娘でも期待していないし、或る人を愛し結婚する以前に、愛した人があった事を恥しい事と感じなければならないと思っている真面目な娘たちも無い。問題は、常にその愛をめいめいがどう経験し、対手をどう扱ったかというところにある。ロマンティック小説にあるように、生涯にたった一度の電撃的な恋愛が何時もあるとは思っていない。愛に蹉跌が無いとは思っていない。誤解もある。非常に重大な危機もあり得る。総てこれらのことを知っていて幼稚なイリュージョンを失っているからこそ、人間の信実の柱としての結合を期待できる愛を求めているのが今日の痛切な心情であると思う。人口の九割五分迄が勤労して生きて行く人々である。その勤労して生きる人民の人口比率を見れば三百万人の女子人口が過剰している。今更繰返す必要の無い性生活全面の困難は大きい。人間らしくまともに生きようとする私たちの足もとには、何とひどい凸凹があるだろう。たまに美しい空の色をうつしている場所があると思えば、その浅い水の下には命とりの穴ぼこがある。こういう生活の道で、人間らしい一日を送るということは、はっきりと現実の中にある非人間的なものと戦った一日ということを意味する。人生を愛するということ、自分の一生に責任を感じるということ、その人間的誇りの故にこそ最もよく愛せるものを見出そうと願っている男の心女の心の結合点は、それなら何処にあるというのだろう。つまりお互いに歩く道は泥濘の多いことをよく知っていて、そこをちゃんと歩き通すには、どんな助けあいが互いに必要であり、それが与えられ与える可能性を持っているかどうかということに互いの関心の焦点がおかれる。
実際問題として婦人の解放は憲法と民法の改正だけでは達成しない、彼女たちの一日の時間のどっさりを、とりもなおさず生涯の大部分を費させる台所と育児の仕事がもっと別なやり方でやられなければ、何より基本的な時間と体力で婦人は百年前と同じ一生の使い方をして行かねばならない。しかも百年前の無知でのびやかな、外の世界を知らない女心の狭さは、今日、本人達が望むよりも激しい勢で打ち破られている。一見文明的なそのくせ現実の社会施設に於ては無一物な荒野に、婦人は突き出されている。ショウが「人と超人」を書いた一九〇三年には自覚のある少数の男が生物的な(生の)力に虜になることを恐れ、それに抵抗した。一九四七年代になれば、この抵抗を非常に多数の若い女性たちが感じている。やっと発展させる可能な条件が社会に現れた今日の日本で、一心に自分を成長させ人間の歴史に何事かを加えたいと希望している愛憐らしい若い人たちが、怯えた苦悩のあらわれた瞳で眺めやっているのは何だろう。インフレーションによって人間の社会的良心さえも、その焚附にしてしまっている竈の、ポッカリと大きくあいた口である。又、いくら洗っても清潔になりきらないおむつの長い列である。けれども若い自然の人間としての女性の心は愛すことを欲している。愛する者と共に住みたいと欲している。子供の可愛らしさを心の中で平手打ちにしている女性はいない。自分が子供を育てたならと心の底に思いながら周囲の母たちと子供との関係を見ていない女性はいない。けれども、どうしよう。竈の口はあんまり大きい。自分がその竈で食うのでなく、竈が自分の運命を食いそうに見える。なんとか、このおそろしい竈を人間の生活にふさわしい大きさまでちぢめ、合理化して行きたいと思う。子供の可愛さを自分の心の中で殺さないで、怒鳴り立てる母親とならないで、やさしい母にもなって見たい。今日の総ての人は、そういう問題が自分の心の中だけで解決しないことはよく知っている。託児所一つにしろ、衛生的な家族食堂一つにしろ、それが社会的なものであるからには社会的に建設され、婦人が家事の重荷から解放されねばならないことを知っている。そして、こういう点が解決されなければ女性が男と等しい意味で人間として豊かな経験を重ねながら、それぞれの成熟の段階で、社会に貢献して行くことは不可能であることを知っているのである。
今日の愛のモラルは、資本主義社会に於てこんなにも強く女性の生活の上に現れている板挾みの状態を、男子がどの程度まで自分の人間性そのものにもかかわっている状態として理解するかという具体的な点にかかっている。何故なら、愛は何時も好意である。不便や不幸を少くして喜びと希望とをもたらそうとする善意そのものである。自分の人生を愛し、女性である喜びを愛そうとし、人間である男の誇らしい希望や奮闘に同感したいと思っている女性たちにとって、愛とはこの生き方に必要な互いの協力と理解と信頼以外の何物であり得るだろう。愛というものが、今日の現実の中で、もし「君に台所の苦労は一切させないよ」とささやいたならば、ささやかれた女性はその嘘に身震いするだろう。信実の愛はこう相談する「さて家事が一大事だね、どういう風にやれるだろう。」考え深い普通の声でこう相談が持ち出された時、そこには現実的な助力と生きた愛がある。二人が二人のこととして辛抱しなければならないことがはっきりと見られる。従ってそれを解決して行こうとするあらゆる積極的な方法が研究される可能がある。そしてこういう相談をすることを知っている人々は、きっとその可能性というものが社会の歴史の前進の度合に応じて増して来るものである事を知っているに違いない。それだけのことを知っている人たちは、又自分たちの勤労とその喜びや悲しみの中にある一つ一つの発展への努力が、目に見えない力のようでありながら、実は確実に歴史を前進させる力となって行くことをも知っているに違いない。人間であることを喜び、その意味で苦悩さえも辞せない見事な人々はきっと思っているだろう。自分たちは歴史によって創られた夫婦であることだけでは満足しない。歴史を創る一対の男女でありたいと。
今日の世界では、資本主義的な民主主義と社会主義的な民主主義と更にもう一つ中国や日本また東ヨーロッパ諸国に現れたような新しい民主主義の社会形態が存在している。日本の私たちは、その違いについてもあんまり多くを知っていない。半封建の日本が急にどういう特色を持つ民主主義の社会に向って進んでいるのかよくわかっていない。そのために資本主義的な民主国の今日の現実に現れている種々の現象を、そのまま日本の民主社会の前途に当てはめて見る間違いがおこり易い。それは社会主義的な民主社会の生活を、いきなり、本質では未だ半封建な今日の日本の社会の上に夢想するのが、適当でないのと同じである。例えば、民主的な社会の特長である徹底した男女同権が実現されれば、そして勤労に対する報酬も、能力を発揮する機会も、婦人にとって全く男と同等になれば、その結果結婚を望む婦人が減って、離婚も増し、家庭というものが崩潰するだろうという見通しを語る人がある。これは実に日本らしい旧い結婚観の裏返った速断である。なる程これ迄の日本の女性は、身のふり方として、一種の生計の道として奴隷的な結婚にも入った。そのままの状態を、一つも発展しないものとして裏返して見れば、悪条件の無くなった社会で、女がそういう奴隷的生存を続ける為の結婚を望まなくなるだろうということは言えるだろう。けれども、私たちはそういう機械的な裏返しで現在の逆を見る誤りに落入ってはいけない。もし一つの社会が、その民主的な発達の過程で、本当に男女の同権を具体化するならば、それは当然人間の性別に対する、今日では想像も出来ない程行届いた理解をともなわずにはいない。男女同権ということは、今日のように男も女も基本的な生存の安定を脅やかされて、自然な性の開花と結実とを楽しめないような状態を意味しているのではない。人間らしい女の総ての心が、こんなに家庭と職業との間に引き裂かれて、二重の負担のもとに憔悴することはあり得ない。才能の可能性を認めて、妻であり母であると共に、人間として他の能力も発揮させたいと思っている夫の愛が、妻諸共、かまどに追われる悲劇は許されない。ピアニスト井上園子や草間加寿子が何故金持の息子と結婚しなければならなかったかということを考えれば、男女に関らず、夥しい人の才能というものが、今日めぐり合っている経済的な殺戮を思わない人はないだろう。これは資本主義社会につきものである。民主的社会は婦人の能力に応じた社会的職業と母性の完成との関係を、社会問題として解決している。姙娠、出産、保育の仕事は、女を女として認める男女同権の社会でこそ、社会的な仕事として設備され協力される。母となる困難を社会的に経済的に保証された時、婦人にとってはじめて職業と家庭というものは、人間らしい統一でもたれる。妻は、そして子は、唯一人の男の廻りにより固ってパンを求める哀れな存在ではなくなる。その時、私たち人間が男も女も一層のびのびとした心持で、互いの美点を認め合い、互いの面白さを喜び合うことが出来る。人間の社会の歴史は実にのろく前進するけれども、やっとそこまで進歩したことを祝福しあって、心からその肉体をも結び合す愉快さをそういう時になって拒絶する必要があるだろうか。人間は自然なものである。人類は自分の生存を自覚した初めから幸福を求めてきた。私たちの生きる権利は具体的には、人間らしい高貴な幸福を人と自分たちのために打ち立てようと努力する権利であると思う。
底本:「宮本百合子全集 第十五巻」新日本出版社
1980(昭和55)年5月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
1952(昭和27)年1月発行
初出:「婦人の世紀」第四号
1947(昭和22)年11月発行
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年6月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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