カール・マルクスとその夫人
宮本百合子
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一 カールの持った「三人の聖者」
ドイツの南の小さい一つの湖から注ぎ出て、深い峡谷の間を流れ、やがて葡萄の美しく実る地方を通って、遠くオランダの海に河口を開いている大きい河がある。それは有名なライン河である。太古の文明はこのライン河の水脈にそって中部ヨーロッパにもたらされた。ライン沿岸地方は、未開なその時代のゲルマン人の間にまず文明をうけ入れ、ついで近代ドイツの発達と、世界の社会運動史の上に大切な役割りを持つ地方となった。早くから商業が発達し、学問が進み、人間の独立と自由とを愛する気風が培われていたライン州では、一七八九年にフランスの大革命が起った時、ジャコバン党の支部が出来、ドイツ人でフランス革命のために努力した人々が沢山あった。ナポレオンの独裁がはじまった時、ライン十六州は、ライン同盟を結んでナポレオンを保護者とし、その約束によって商工業の自由も守られ、ドイツの反動政策の圧迫にかかわらず、進歩的な自由思想が充ちていた。
こういう特色をもった十九世紀初頭のライン州、トリエルの市にハインリッヒ・マルクスという上告裁判所付弁護士が住んでいた。そこに、一八一八年五月五日、一人の骨組のしっかりした男の子が産れ、カールと名付けられた。
マルクス家はユダヤ系であった。けれどもトリエル市のすぐれた弁護士であったハインリッヒ・マルクス一家の生活はかなりゆとりの有るものであった。父マルクスは十八世紀フランス哲学を深く学び、ディドロー(一七一三─一七八四)や、ヴォルテール(一六九四─一七七八)、悲劇作者ラシーヌの作品などから影響をうけていた。
青年時代のカールは、生活の自然なよろこびを心おきなく楽しみ、人づきあいも広く、勉強ずきだが、学資はいつの間にやらたりなくなっているという風なところがあったらしい。大学生同士の借金で相当困ったこともあったらしい。父マルクスは、こういう時に、息子にむかって適切な忠告や、親切な男親しか出来ない慰めや援助をあたえた。カールは、この父を真心から愛し、尊敬した。父の五十五回目の誕生日のとき、ベルリン大学にいた十九歳のカールはお祝として、それ迄につくった四十篇の詩と、悲劇の一幕と、喜劇小説の数章とをまとめて「永久の愛のわずかなしるしとして」この高貴な人がらをもつ父に贈った。或る人はいっている。カールは、三人の「聖者」をもっていた。彼の父、彼の母、そして彼の妻と。この素晴らしい父は、一八三八年、カールが二十歳の時に腎臓病のためにトリエルで死んだ。
母のアンリエットは、オランダ生れのユダヤ婦人でユダヤ語とはちがうドイツ語を、完全に発音さえ出来なかった。博識な良人につれそう家事的な情愛深い妻としてアンリエットは、息子カールに対しても、言葉のすくない母の愛で、その精神と肉体とをささえていたと思われる。男の子が、もし母の愛と、その生活の姿とで、女性への優しい思いやりをはぐくまれなかったら、どうしてカールが妻イエニーを愛したように女性を愛することが出来たろう。
カールの六歳の時、マルクス家は改宗して、ユダヤ教からプロテスタントになった。
二 イエニーとの結婚──ベルリン時代──
カールにゾフィーという一人の姉があった。このことは、彼の一生にはからずも深い意味をもった。ゾフィーの親友にイエニー・フォン・ヴェストファーレンという令嬢があった。イエニーの父は、トリエルの枢密顧問官であった。転任して来たときからマルクス家と親交があった。この枢密顧問官は、役人くさくない聰明な人がらで、ホーマーやシェクスピアを愛読していた。当時の狭い社会で枢密顧問官といえば、貴族的な上流人と考えられていた。小さなワイマールの市で枢密顧問官であったゲーテの祖父が、どんなにか業々しくその地位を考えていたかを私どもは知っている。フォン・ヴェストファーレンが社会的偏見で見られているユダヤ人のマルクス一家と、そのように親しくつきあい、娘たちの友情を認めていたことだけでも、なみなみの人ではなかったと思われる。カールの快活で独特な精気にみちた人がらは、イエニーの父ヴェストファーレンに深く愛されたとともに、四つ年上のイエニーの心に年と共に幼な友達とはちがった感情を芽ぐませた。カールが十八歳、そしてイエニーが二十二歳の年、二人は婚約した。
カールはベルリン大学へ入学しなければならなかった。イエニーの住む故郷の町トリエルを離れて、大海のようなベルリンへ行くことは、カールにとってたいして気が進まなかったらしい。カールはイエニーへの手紙に書いている。
「ほかの時なら私を魅惑し、自然観察に亢奮させ、人生の喜びにもえさせたに違いないベルリンへの旅行さえ、私の興味をなくさせました。それどころか、この旅行は私の気持を非常に悪くさせました」
父のすすめでベルリン大学へ赴いたカールは、あまり人ともつきあわず学問と芸術とに没頭した。三冊の詩集がつくられた。はじめの二冊は「愛の書」、あとの一冊は「歌の書」、そして三冊ともその年の十二月に、多分はクリスマスの贈物として愛するイエニーに送られた。このほか一八三九年には、イエニーのために「民謡集成」という民謡集をこしらえた。若いカールは、そうしてイエニーへの思いを詩にたくしながら、法律・哲学・歴史の研究にうちこんで「すぐれた勉強」をつづけた。
このベルリン時代は、大学の課目以外の真面目な研究でカールの生涯に一つの基礎をきずいた時期であった。ベルリンには、ヘーゲル哲学の進歩的な面をとりあげて、その弁証法的な方法を発展させようとする若い哲学者の一団があった。ヘーゲル左党と呼ばれたこの一団は、ドクトル・クラブを組織していて、十九歳のマルクスはこのグループに入った。ドクトル・クラブはその後「ベルリン自由人」という団体に発展し、一八四二年には、カールにとって生涯の共働者となったフリードリッヒ・エンゲルスもここに加わった。
この前年、二十三歳のカールはイエナ大学に出した学位請求論文によって哲学博士となった。亡くなった父も、母も、カール自身も、大学教授としての生活を考えていたのであった。ところが、ドイツの社会情勢がカールをその平安な計画から追いたてた。一八四〇年に、フリードリッヒ・ウィルヘルム四世がプロシヤ王となり、学問の自由を極力押えつけはじめた。大学の自由は失われ、学内の統一を乱すという口実で、若い進歩的な哲学者たちは大学から追放されはじめた。政府御用の神学者シェリング等が筆頭となって、考え研究する能力ある人々を追いはらった。カールはこの状況のもとで大学教授を思いすてた。文筆人として「内部の光」を「焔として」表現する決心をした。『ドイツ年誌』への寄稿をはじめた。カールはこの頃、ボンに住んだり、トリエルのヴェストファーレン家に暮したりして、つぎつぎの家庭的紛争に心を労していたといわれている。が、その内容を知るものはない。
カールとイエニーとが、長い七年間の婚約時代をへてついに結婚したのは一八四三年六月のことであった。歴史に有名な「ライン新聞の弾圧」によって、カールがその編輯者をやめさせられたのは、イエニーと結婚する三月前のことであった。しかも『ライン新聞』を去ったカールが友人と共にパリで『独仏年誌』を発行することにきまって、編輯者としてカールが五百ターレルずつ定収入を得ることが出来るという見とおしがついて、はじめてイエニーとの結婚も実現したのであった。若いカールとイエニー夫妻は、一八四三年の十一月パリに向って出発した。新婚五ヵ月のマルクス夫妻をパリで待っていたのは、歴史のどんな波瀾であったろうか。
ここに一枚の写真がある。写真には年代不詳と書かれている。カール・マルクスが薄色のズボンに黒の服をつけ、右脚を組み合せて椅子にかけている。私たちが見なれているカール・マルクスの写真は、がっちりとした精気あふれる顔のぐるりを房飾りのようなすき間ない鬚で囲われた風貌である。この写真のカールは、見なれたそれらの写真の顔よりもまだずっと若い。広い額が内面の充実した重さでいくらか傾き、濃い眉毛のしたの大きい強い眼はいくらか細めてレンズに向けられている。彼の右肩に一つの手が軽くのせられている。それはイエニーのすらりとした手である。のどのつまった、袖口の広い服を裾長に、イエニーはカールの肩に手をかけて立っている。片手をすんなりと厚い絹地の服のひだの間にたれ、質素なひだ飾りが二すじほど付いているなりのイエニーの顔は、若い信頼にみちた妻の誠実さと、根本の平安にみちた表情をたたえている。二人の愛のゆるがない調和が流れているけれども、はっきりと外界に向って目をみひらき、媚びるところの一つもない口元を真面目に閉じているイエニーの顔つきには、人生と真向きに立っている妻の毅然とした力が感じられる。
この写真はいつ何処でとられたのであろうか。新婚の記念であったのであろうか。娘の頃のイエニーとして小肖像画にかかれている彼女とこの写真の彼女とは、何という人間らしい立派さのちがいだろう。娘時代のイエニーは、ふっくらとした二つの肩を大きく出した夜会のなりで、小さい口もとに無邪気な微笑をふくみ、可愛いけれども無内容にこちらを見ている。今、カールの肩に手をおいて立っているイエニーの全身からは厳粛な気分が流れている。楽しいけれども苦しい、たえがたい刻々があるけれどもまたうち勝ちがたい確信に支えられているという人生の感情が横溢している。
三 圧迫下のパリ時代
一八四〇年代のパリは、歴史的な革命高揚の時期であった。リオンの絹織工が大規模のストライキを行ったのにつづいて、ブランキーの反抗があり、急速に発展した資本主義の矛盾に対して勤労階級の反抗が沸き立っていた。パリには、八万五千人ものドイツ亡命者がいた。当時のドイツの野蛮な圧迫が、人間らしく社会の幸福を願い進歩をねがう人々を、そんなにもどっさり国内から圧し出していたのであった。
マルクス夫妻は、こういうパリに移って来て、友人の三家族と一緒に、共同の台所と食堂とをもつ一軒の家に住った。習慣のちがう、言葉のちがうパリでの共同家族の生活で、若い主婦イエニーがどんなにこまごました心労を経験したかということは推察される。
翌年──一八四四年五月一日──イエニーは女の子を産んだ。娘は小イエニーとなづけられた。パリのありふれたかり部屋に赤児の声がひびくようになったが、この年はドイツの近代史にとって忘られない年でもあった。ドイツでは、その生活の惨めなことで誰しらぬもののなかったシュレジアの織匠が命がけの悲壮な一揆を起した。この一揆は世界の同情をひいた。シュレジアの地主と工場主と軍隊が流した織匠の血は、すべての人々の胸のうちに正義の憤りをもえたたせた。後年、ハウプトマンが有名な「織匠」にこの悲劇を描いた。ハウプトマンの「織匠」を観劇して、おさえられない感銘からケーテ・コルヴィッツが彼女の代表的な版画集『織匠』を創ったことはよく知られている。
すでに人生の苦闘の意味を知っているイエニーは、赤児の揺籃の傍で、あわれな故郷の織匠たちの運命とその妻や子らの心のうちをどんなに思いやったろう。
カールと『独仏年誌』を中心としてその家に集る亡命者の中には、卓抜な諸部門のチャンピオンたちにまじって、当時四十八歳だった詩人ハイネがいた。カール・マルクスより二十一歳も年長であったハイネとカールとの間には、真実な友情がむすばれていた。カールが徹夜しながら「書物の海」に埋れて社会発展の歴史とその理論を学んでいる時、ハイネは一つの詩を創るごとにカールに見せに持って来た。時々、カールに辛い点をつけられると、ハイネはその詩を夫人イエニーにみてもらった。こうしてハイネの生涯をかざった「一つの冬の物語」「織匠」などが書かれた。伝記のなかには、たった二三行で書かれているこの話は、最も暗示深くマルクス夫妻とその友人たちとの生活の雰囲気を語っている。カールがイエニーを全く独立の見識をもった一婦人として敬愛し、友人の間にもそれが承認されていたことがうかがわれる。自分で詩も創り、生涯文学を愛したカール。大学生であった許婚のカールか贈られた四冊の詩集を、生涯大事にして持っていたイエニー。愛と人生の苦闘とその勝利とは、生きた詩である。マルクス夫妻は、その死を生きた。イエニーが経済的に困難を極める日々のなかでなおハイネの詩を読んでやり、気分の不安定だった孤独な詩人を慰めてやっていたということは、イエニーの資質の豊かさを残りなく語っているのである。
パリにおけるマルクス一家の経済的基礎であった『独仏年誌』は失敗して、わずか二号で廃刊した。資金が続かなくなった。その上ドイツ官憲は執筆者たるマルクス、ルーゲ、ハイネ等の入国を禁止し、『年誌』の輸入を禁じ国境で没収した。カールが受取るべき手当も貰うどころではなくなった。しかし、イエニーは空皿を並べたテーブルにカールとその友人を招くことが出来るだろうか。
カールはパリ発行の『フォールベルツ』誌へ寄稿しはじめた。現代社会の発展は生産のもっと合理的な方法によるしかなく、進歩のにない手は世界の勤労階級であることを理解しはじめていたカールは、「プロシヤ国王と社会改良」というような論文で盛にドイツの野蛮と闘った。ベルリン当局はパリのマルクスという人物が気にかかってたまらなくなって来た。この時、ドイツの有名な自然科学者アレキサンダー・フォン・フンボルトは学者であったにもかかわらず、当時のプロシヤ外相の親戚であるということから、全く恥ずべき役を買って出た。フランス内閣を動かしてマルクス、バクーニン等をフランスから追放させることに成功した。
イエニーは十四ヵ月でパリ生活を切り上げなければならなくなった。金がちっとも無かった。家賃さえなかった。エンゲルスが骨を折って友人の間から金を集めた。生れて半年ほどの赤児をつれて、マルクス夫妻はベルギーの首府ブルッセルに移った。一八四五年一月のことである。
四「書物の海」からぬけ出たカール──ブルッセル時代──
三年間のブルッセル時代はカール・マルクスの一生にとって、最も多忙な時期であった。パリ時代にその国の歴史から革命の歴史とその発展の理論をわがものとし、先進的なイギリスの経済学を発展的に学びとり、同時に哲学の領域では、大学時代からの研究によってヘーゲルからぬけ出し、やがてフォイエルバッハからも育ち出て唯物弁証法に立つ史観と階級闘争の理論を確立していたカールは、ブルッセルにおいて彼の「書物の海」を出た。そして「労働者教育協会」を創り、国際的なつながりでそれを大きくし、一八四七年のロンドン大会で、パリに出来ていたドイツ亡命者の「義人同盟」と合流して初めて「共産主義者同盟」を創った。この第一回大会の決議によってエンゲルスが二十五の問答体で「共産主義原則」を書く筈になった。けれども、エンゲルスの意見でこの問答体の書きかたが変更され「共産党宣言」として「共産主義者の政策をのべる」ことが決定された。第二回のロンドン大会に出席したマルクスは、共産主義者同盟の名によって「共産党宣言」を起草することを頼まれた。一八四八年の一月末、歴史的な「宣言」はドイツ語で書かれロンドンから発表された。「プロレタリアはその鎖のほか失うべき何ものをも持たぬ。彼等は得るべき世界を有つ。全世界のプロレタリア団結せよ。」宣言の簡潔な力強い文章のなかに、エンゲルスとマルクスとがその時までになしとげた、あらゆる科学的研究の結果が具体化されていた。
第一回ロンドン大会にマルクスが出席出来なかったのは簡単で絶対な一つの理由によった。旅費の工面が出来なかったのである。この窮乏のうちにイエニーは長男の母となった。(エドガーと名づけられた男の子は八歳で夭折した。)
ブルッセルで、エンゲルスがマルクス家の隣に住んで共に働くようになった。エンゲルスと共に終生変らぬマルクス夫妻の仲間となったワイデマイヤーとの交際もはじまった。イエニーはすべての友人たちのよい女友であり母であった。
一八四五年にカールは、ベルギー政府とプロシヤ政府連合の追放政策から自身を守るためにプロシヤの国籍から離脱した。故郷なき一家となった。優しい夫であったカールは、二人の幼な子をもつイエニーとこのことについてもよく話しあったことだろう。カールの仕事の歴史における価値を感じ、一家のゆくてにすべての変転を覚悟しているイエニーは、カールの相談を理解しその処置に賛成しただろう。けれども子供達の将来を思い、いまはもう故郷でなくなった故郷の美しいラインの流れを思いおこした時、イエニーの頬を人知れず流れる涙があったことは思いやられる。
ブルッセルの家では出入りする友人の中にも革命的な時計工、靴工という種類の人々が登場した。枢密顧問官の娘として育ったイエニー。ドクトル・カール・マルクス夫人としてハイネの詩を読んでやっていたパリでのイエニー。そのイエニーはブルッセルで革命家、世界のブルジョアの敵カール・マルクスの妻として、世界の前進する歴史の波頭のうえに生きることとなった。
一八四八年二月、フランスで二月革命が起りイギリス、ドイツに波及しベルギーでは戒厳令が布かれた。三月三日、ベルギー官憲はマルクスを捕え、マルクス夫人も捕縛して一晩留置場へ入れた。この無法なやりかたは、当時のブルッセル市民を怒らせた。しかし、彼らにマルクス一家の生活を保護する力はなかったのである。マルクスたちは翌日パリへ赴いた。
パリには二月革命の機運に乗じて母国解放運動を起そうとして、各国の亡命者たちが集っていた。共産主義者同盟の人々の多くがドイツに帰って、さまざまの面で活動しはじめた。カールはドイツの中でも労働者の自覚が一番進んでいるケルン市に行った。二人の子供を連れてイエニーも二ヵ月滞在したパリからケルンに向った。ここでカールは新ライン新聞に入社し、「賃労働と資本」を連載した。一八四八年十一月、カールほか二人の同志が組織していた「州民主主義協会」は、内閣が自分の防衛のために議会をベルリンから他の市へ移そうとするのに反対して、市民軍を支持して一つの檄を公表した。檄はマルクスと二人の同志とを叛逆罪として起訴する種に使われた。公判の結果、一同無罪となった。
これはイエニーにとって貴重な経験であった。良人カールとその同志たちの行動は「実に犯してよい行動、(略)本来からいえばブルジョアジーの果すべき義務であるべきもの」であるとしたエンゲルスの理論の正当さは、妻たるイエニーの愛情を通して犇々と理解されたに違いない。プロシヤ政府は外国人の退去命令を発した。国籍なきマルクス一家は今や故郷にあって外国人であった。カールは赤いインクで刷られた『新ライン新聞』の最終版にケルンの労働者への訣別の辞をのせ、イエニーはもちものを質屋に入れ、夫妻はケルンを発った。
まずカールが、次いでイエニーと二人の子供とがパリに赴いたが、フランス政府はマルクス一家を気候の悪いブルターニュの沼沢地方へ追放することにきめた。一八四九年八月の終りカールはついにロンドンへ渡った。カールは詩人フライリヒラートに書いている。「家内は臨月の身なのにこの十五日にパリを去らなければならない。しかも僕は家内が出発するに必要な金や、当地に移って来るに必要な費用をどう才覚すべきか分らないのだ。」マルクス一家にとって辛酸な一八五〇年代が始まった。
五 不屈な闘志──ロンドン時代──
身重なイエニーは肉体と精神との苦痛をこらえてロンドンにたどり着いた。三人の子供を連れて。そして、宝石のようなレンシェンをつれて。愛称をレンシェンとよばれたヘレーネ・デムートはイエニーの少女時代からの召使いであった。レンシェンはこの時以来、一生をマルクス家の悲しみと喜びとの中に費してその勤勉と秩序で一家の軸となった。(マルクス夫妻の死後エンゲルスのもとに暮し、彼女の墓はマルクス夫妻と同じ墓碑の下に置かれた。)
『新ライン新聞』の名誉とケルン市における友人の名誉を救うために、カールはイエニーの銀器類までを含めて一切の財産を売った。イエニーは手紙の中に書いた。「三人の子供と四番目の子供の誕生。それが何を意味するかを知るためにはあなたは此処ロンドンの事情をお知りにならなければなりません」と。
カールは朝九時から夕方七時まで大英博物館の図書館で仕事をした。エンゲルスの援助と、ニューヨーク・トリビューン紙から送られる一回僅か五ドルの原稿料が生活の資であった。五〇年五月にイエニーがワイデマイヤーに宛て書いた手紙はロンドンに於ける一家の姿をまざまざと語っている。四番目の子供は弱くて夜もせいぜい二三時間しかねなかった。イエニーは乳母を傭えないで、健康を犠牲にして自分の乳を飲ませて育てていた。無法な家主に追いたてをくって、寒い雨の降る陰気な日にカールは妻子のために家を探してかけめぐった。子供が四人いるときくと貸す人がなかった。やっと友人の助けで小部屋が二つ見つかった。家主がマルクス一家のシーツからハンカチーフ迄差押え、子供のおもちゃから着物まで差押えたときくと、あわてた薬屋、パン屋、肉屋、牛乳屋が勘定書を持って押かけて来た。その支払いのためには残らずのベッドが売られなければならなかった。二三百人もの彌次馬に囲まれて、全財産を手放したマルクス一家は新しい小部屋に引移った。
この年の末、次男ヘンリーが死んだ。二年後に三女のフランチスカが亡くなった。その棺を買う二ポンドの金さえもフランスの亡命者から借りなければならなかった。
「その金で小さな棺を買いその棺の中でいま私の可哀想な子がまどろんでいます。この子が生れた時、この子は揺籃をもちませんでした。そして最後の小さな住居も長い間与えられませんでした。」
イエニーの日記は溢れる涙を押えている。ロンドンの生活でパンと馬鈴薯の食事は家族の健康を衰えさせるばかりであった。イエニーは病気になった。小イエニーも悪い。丈夫なレンシェンも熱を出しはじめている。カールは図書館へ新聞をよみに行く金のない時さえあった。その時は、トリビューン紙への論文も、書けない。「どうしよう?……」。
カールは物価の安いジェネバへ引越そうかと思った。しかし彼のとりかかっている「資本論」は大英博物館の図書館なしには完成しない。或る時はイギリスの鉄道局書記になろうとした。これはカールの字体が分りにくいために採用されなかった。
一八五九年。アメリカを中心としてヨーロッパ中を襲った大恐慌は、マルクス一家の窮乏をますますひどくした。けれどもカールは「万難を排して目的を遂げなければならない。そして僕を金儲け機械にすることをブルジョア社会に許してはならないのだ。」この恐慌の時期に労作『経済学批判』第一分冊が出された。
ロンドンのディーン街の庭もない二間暮しの生活は、このように困難だった。が、マルクス夫妻の不屈な生活力と機智とは、この生活のなかから汲みとられるだけのよろこびをくみあげた。マルクスの思い出を書いている総ての人々が、なんと忘れがたい楽しさをもって気候のよい日曜日の大散歩の面白さを描いているだろう。『子供とマルクス』という本が書かれたほどカールは子供好きであった。そろそろ娘盛りになっていた娘たちはくらべるものなく優しい父カールをお父さんとは呼ばなかった。顔色や鬚の黒いことで付けたあだ名の「モール」と呼んだ。若い革命家たちがみんな彼を「マルクスのお父さん」と呼んでいるのに。
「マルクス家の軸」であるレンシェンが腕に下げて来るドイツ風の大籠の中の大きい焼肉のかたまり。ゆく先で手に入れる一寸した飲物。仲よくつれ立つマルクス夫妻。嬉々として先に行く子供たち。談笑し議論しながら一団となって来る若き革命家たち。ほかの日には書斎のカーペットがすり切れているほど机のぐるりを歩き廻って、朝九時から夜中まで仕事しているカールも、日曜日ばかりはイエニーと子供たちとの完全なとりこになった。カールは子供たちが小さかった時、こういう散歩の道みちに無尽蔵の即興お伽噺をきかせてやった。一人の娘をカールが肩車にのせ、もう一人の娘をW・リープクネヒトが肩車にのせ、息の切れるほど駈けっこをする「騎兵遊び」はマルクス家専売の大人と子供の遊びであった。娘たちが大きくなってからは、彼女たちのシェークスピアの詩の暗誦仲間であり、バーンズの共同の愛好者であった。初孫のジャンがいたずら盛りとなってからは、このジャンがマルクスの最も愛すべき支配者となった。エンゲルスとリープクネヒトが馬になり、カールが馭者台になった。小さなジャンはこの三人の偉大な社会主義者の上に跨って彼の可笑しい国際語で叫んだ。「ゴー・オン! プリュ・ヴィット! ハラ!」(進め! もっと早く! ハラ!)。額から汗を流して遊び戯むれる「大きな子供」のカールをイエニーはわれを忘れて見とれた。直情径行で妥協ぎらいで廉潔なカールは、イエニーから見れば本当に巨人的な子供であった。その鼻の形が示しているように気短かなところがあるカールは、何かにつけてイエニーの驚くべき公平な判断と聰明を必要とした。
イエニーはカールの読みにくい原稿の清書もよくした。けれども、決してトルストイ夫人の「有名な清書」のようにではなく。
一八六七年、遂に世界的な名著『資本論』第一巻が出版された。カールは四十九歳、イエニーは五十三の時であった。
一八六四年の第一インターナショナルの成立。一八七〇年の普仏戦争と、翌年三月十八日に起ったパリ・コンミューンとその悲劇的な、然し名誉ある結末などは、歴史上有名なバクーニンとマルクスとの対立分離をもたらした。激しい国際情勢の変化と、ますます客観的に現実を洞察するマルクスの理論とは、社会発展の革命的段階について、バクーニンと対立した。そのように空想的なプルードンと離れ、主観的なラッサールとも離れて来た。それらの人達が自分を正しい者としようとして論敵マルクスに加える誹謗と、マルクスを最大の敵とみるブルジョア社会とは、カールにあびせられるだけの雑言をあびせつづけた。それらもイエニーの明るく暖い心持を傷つけることは出来なかった。いつの間にかイエニーも世界政治についてしっかりした見識のある一人の共産主義者となっていたのであった。
五十代になったカールの健康は衰えはじめた。ロンドン生活の貧困と心労、ひどい勉強が精力に溢れたカールの肉体をも疲らせ始めた。肝臓病が始まった。一八七四年からはカルルスバードの温泉療法が試みられた。温泉はいくらか利いた。けれども、そのとき、愛するイエニーが弱りはじめた。苦痛の多い経過の長い癌と闘わなければならなかった。六十六歳のイエニーは、もう稀にしか起きられなくなった。いとしい「モール」がこの年は肋膜炎で絶望となった。「それは恐ろしい時でした。」「あんなに合体していたこの二人は、もう同じ部屋に一緒に居ることは出来なかったのです。」末娘エレナーは書いている。彼女と年取ったレンシェンとがカールの命を救った。二人は昼夜ぶっ通しの看病をした。不思議に命をとりとめた「モール」が、病むイエニーの部屋へ初めて行った朝の美しい光景を、エレナーは感動をもって記録している。
「二人は一緒に若返りました──彼女は恋する乙女に、彼は恋する若者に、一緒に人生に歩み入るところの──そして互いに生涯の別れを告げているところの──病みほつれた老人と死につつある老婦ではありませんでした。」
カールはもう一度丈夫になれそうに見えた。その時──一八八一年十二月二日──イエニーが死んだ。「親愛なる、忘れがたき生涯の伴侶」は失われた。最後までよいユーモアを失わず、みなの気を引立てるために冗談をいって笑いまでしたイエニーは、最後の意識が失われようとする時カールに向って云った。「カール、私の力は砕けました。」彼女の眼はいつもより大きく美しく輝いていた。口がきけなくなった時イエニーは娘たちに手を押しつけて、優しくほほ笑もうとした。そしてだんだん眠りに入った。エンゲルスはこうしてイエニーが死んだ時云った。「モールも死んでしまったのだ」と。
エレナーは書いている。「お母さんの一生と共にモールの一生も終ったのです。彼は沮喪しないようにと激しく闘争しました。(略)彼は彼の大著を完成させようと努めました。」
生涯の伴侶の埋葬にカールは立会うことが出来なかった。病気のため医者から外出を禁じられていたから。数人の親密な友人が、彼女をハイゲートの墓地へ送った。エンゲルスの墓前での言葉は次のように結ばれた。
「このような精力と熱情をもち、戦友に対してこれほどの献身をもつ婦人が、四十年近い間に運動のために尽した業績──このことは何びとも語らず、この事は同時代の新聞にも記録されていない。しかし私は知っている。コンミューン亡命者の婦人達がしばしば彼女を思い出すであろうと同様に、われわれ同志はなお更しばしば彼女の大胆、かつ賢明な忠告を惜しむであろう。」「他人を幸福にすることを自分の何よりの幸福と考えた婦人があったとすれば、彼女こそ正しくその婦人であった。」
マルクスがイエニーを失った悲しみにうちかって資本論を完成しようとした努力は、寧ろ悲痛な姿であった。カールはフランスに行き、スイスにゆき、今度こそ丈夫になって帰ろうとした。しかし、イエニーのいない地球のあらゆる土地は、彼の体と心とにしっくり合わなくなった。旅行は輾転反側のように見えた。一八八三年三月十四日──イエニーの死後三年目の早春に、人類の炬火のかかげ手カール・マルクスはメートランド・パークの家の書斎の肘掛椅子にかけて、六十五年の豊富極まりない一生を閉じた。
底本:「宮本百合子全集 第十五巻」新日本出版社
1980(昭和55)年5月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
1952(昭和27)年1月発行
初出:「紺青」
1947(昭和22)年1月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年6月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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