私たちの建設
宮本百合子
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封建の世界
言葉に云いつくされないほどの犠牲を通して、日本に初めて、人民が自分の幸福の建設のために、自分達で判断し行動することの出来る時代が到達した。そして全人民の半数を占める日本の婦人も、過去の重い軛から解放されて、明るい希望のある社会建設のために、これまでかくされていた自分たちの力を発揮することの出来る時代になって来た。それにつけても、今日私達が残念に思うことは、わたしたちが勇気をもって明日へ歩み出すために是非必要な日本の社会の歴史及びその歴史の中で、女性が負うていた役割について、事実を語っている歴史がほとんどないことである。これまでの歴史がどんなに歪められ、真実を蔽われていたかということは周知のとおりである。日本の社会を自分達の勤労によって育て上げ、その発展を担って来た人民である男も女も、自分達の祖先がどのようにして生きたか、社会はどういう筋道を辿って今日迄来たか、随って、未来はどう発展するのが合理的であるかということについての見透しは、これまでちっとも与えられなかった。
長い旅行に出発する前には、誰でも地図を調べる。それと同じように、私達が偉大な建設の道に発とうとする時、過去の歴史を正しく明瞭に理解し、自分達の実力を知ることは極めて意義深いと思う。
日本の女性の歴史は、先ず神話の中に現われている。天照大神という名は、後代の支配者たちが政治的に利用して、宗教的崇拝の中心に置いたが、現実に歴史をさぐれば、天照大神は古代日本の社会において、一人の女酋長であった。日本の石器時代の氏族社会は、まだ総ての生産手段とその収穫とを共有していた時代で、氏族の中では男も女も平等の権利を持っていた。つまり男も女も等しい選挙権と被選挙権とを持っていたし、女の酋長というものも、文献の中に多勢現われている。この時代は母系の制度が行われていた。一つの氏族内の母方の子供は、先任の酋長が男であろうと女であろうと選挙されればその地位を継承する権利を持っていた。このことは、もうその頃から女の力が、産業と毎日を生きてゆく家事との上で、どれ程大切な役目を持っていたかということを証明している。神話に、天照大神が機を織っていたらば、素戔嗚尊が暴れ込んで、馬の生皮を投げ込んで機を滅茶滅茶にしてしまったという插話がある。女酋長である天照大神はそれを憤って、おそらくその頃の住居でもあった岩屋にとじ籠って戸をしめてしまった。神々は閉口した。そこでその岩屋の前で集会を開いて、何とかして女酋長の機嫌を直そうとした。その時に、氏族中の一人の女であった鈿女命が頓智を出して、極めて陽気な「たたら舞」をした。それをとりまいて見物している神々が笑いどよめいた声に誘われて、好奇心を動かされた女酋長がちょいと岩戸を隙かしたところを、手力男命が岩を取り除けて連れ出したという物語である。これは天照大神が女の酋長であったと同時に、その氏族の中では機も織り、恐らくは野に食物をあさりもした実際の働き手であったことを物語っている。鈿女命の踊りは、氏族に重大な問題が起った時に、後世のような偏見は持たれず、女がその解決のために自由な創意を働かすことが出来たという当時の社会の事実をも語っている。
こういう原始社会の生産が次第に進んで、日本民族は次第に一定の土地に一定の方法で行う耕作を憶え、鉄器が輸入され、氏族間の闘いで、より強い氏族が弱い氏族を奴隷として自分に従え、労働させるようになった。それにつれて、個人の富というものが段々増大し、固定して来た。婦人の地位というものはいつか変化して来た。太古のあどけない平等は失われ、財産の主人である男の父権が確立して女子はそれに従属するものとなりはじめた。奴隷としてつれて来られた他氏族の者の中には勿論女も交っていて、それは女奴隷として労働させられ、男の所有ともなされた。この時代から女性は男子の権力に服するものとしての、社会的な在り方が根をおろしはじめ、歴史と共に極めて多様な形で変化しながら、殆んど今日まで、なお本質は継続して来ているのである。
藤原時代(西暦十一世紀)は、日本の文化史の中で、最も女性の文化が昂揚した時代といわれている。世界に誇る日本の古典文学といえば、それがたった一つしかないようにいつもとり出されている源氏物語にしろ、枕草子、栄華物語、その他総てこの時代の婦人たちの作品である。けれども、これらの卓抜な文学的収穫を残した婦人達が、当時の社会でどういう風に生きていたかといえば、それはまことに儚い一生であった。どんな文学史を探しても、紫式部の名前は分らない。藤原某の娘であったということが分るだけで、彼女の本名は何子であったのか、何姫であったのか、決して記録されていない。あのような天才を持っていた清少納言にしてもそれは同じである。この時代の歴史の上に父の姓とともに固有の名を記されているのは、極く少数の、藤原氏直系の娘たちだけで、いずれも皇后、妃、中宮などになった人達ばかりである。
藤原氏は、宮廷内のあらゆる隅々まで一族の権力を伸張させるために、抑々藤原鎌足の時代から、自分の娘たちを天皇の母親としようと努力して来た。皇后にするか、さもなければ中宮として、血をとおして一家の権力を扶植して来た。その必要から、自分の娘たちの身辺を飾り宮廷社会の陰険な競争に対してよく備え暗黙の外交的影響と文化の力で、娘の勢力を確保するために才智の優れた、性格にも特色のある婦人達を官女として集め、宮中の人気を集注し、社交的なあらゆる場面で勝利を占めようとして来た。源氏物語を読めば、当時の宮廷内の無為と遊楽と権力争いの事情が実に細かく色彩ゆたかに描写されている。そして、紫式部という官女名をもった一人の優れた真面目な心の婦人作家は、当時の社会に生きる女の一生が、どんなに頼りない気の毒なものであるかということを痛感している。藤原氏専横の当時、中流の女性が、父親の家にあって経済的な基礎もなく社会的背景も権利も無いままに、どんな不安な身のゆく末を思い煩わなければならなかったか、又そこから脱出しようとして、それぞれの才智に応じて、いろいろと進歩の機会を捉える工面をして、せめてその関係に安定のある配偶を見つけようとし、或は宮廷に入ろうと努力した姿は、源氏物語の「雨夜のしなさだめ」にも窺われる。
藤原時代は、支配階級の経済の基礎は、荘園制度であった。藤原氏は今日いう不在地主で、各地の大荘園は、その土地に住む管理者によって管理されていた。が藤原末期になるにつれて荘園の管理者が収穫をごまかしたり、農民の疲弊が甚しくなったりして財源は不確定になって来た。男子の任官というものも、全く藤原氏の権力者のお手盛りであったから、下級官吏達の生涯は、始めから終りまで不安定で、一旦藤原氏の機嫌をそこねたら、任官も覚束ない者が多かった。一年の始めに、任官発表がある毎に其々の一家の婦人達は喜び、歎きした。沢山の歌や日記の中に、そのときの思いが語られている。
荘園には、少女から老婆までの女がどっさり奴隷として働かされていた。藤原氏の貴婦人達が着ていた七重八重の唐衣、藤原氏の紳士達がたいへん温いものだと珍重して着た綿衣、それらは、皆荘園の女奴隷達の指先から生み出されたものなのであった。
藤原氏一族の貴女の生活は、そのように不安定な土台の上に絢爛と咲いていたが、当時の日本全国、或は京都の一般の庶民の女の生活というものはどんなであったのだろうか。第一、絵巻を見ても分るように、庶民の女は髪を藁稭や紙で結え、染色を使わない着物を着て、殆んど裸足で働いて暮した。そして京都の辻には行倒れが絶えず、女乞食が宮廷の庭へまで入って来るような極端な貧しさの中で文盲であった。紫式部達が物語を書き、支那の詩を扇にかいてさざめいていた時、これらの謙遜であるとも知らぬほど謙遜で勤勉な庶民の女達は、自分の名も知らず、自分達の働きの意義も知らず、今昔物語に現われているように沢山の迷信や鬼の話や、人攫いの話などのうちに耕作し、紡ぎ、織り、炊ぎして生活した。
藤原時代は武家政治の時代に移った。政治の主権は藤原氏から足利に移りやがて織田信長の時代になって(西暦十六世紀)日本では、封建社会が確立される一歩をしるした。
豊臣秀吉を経て、徳川家康から家光の時代に、日本の封建制度は全く動かないものとなり、明治に至ったのであった。
武家時代、婦人の生活は全くその父兄達の、戦略の便宜に支配された。結婚はすっかり政略結婚になって、夫婦の情愛とか、母子の愛情は無慙に蹂み躙られた。兄や父親の政治的な利害に従って、いじらしい婦人達は、あの城主からこの城主へと、夫を換えさせられることが屡々珍しくなかったし、愛する男の子は敵方の血すじを保っているからと棄てさせられて、自分だけが実家の軍勢に囲まれた城から、甲斐なくも救い出されるという悲劇も頻出した。
武家時代に完成された文学の一つの形に謡曲がある。謡曲文学の中には、何と生きるよろこびが反映していないだろう。無限の女性の歎きと怨みとが、響いている。物狂の女主人公達は、総て何かの意味で挫折した愛情の故に狂う哀れな女人であるし、幽霊となって現われる女達は、みんなこの世では果されなかった衷心の希望に惹かれて、再びこの世にそれを訴えようとして現われた人達である。
面白いのは、この時代の貴族的な文学であった謡曲に対して、もっと庶民的な源泉をもって創られた狂言の存在していることである。狂言は、日本のユーモアの健全さ、大らかさ、生活力を示す貴重なものである。これらの狂言の中に出現する女は、謡曲の女主人公達の悲劇的な亡霊的存在と較べて、その感性、行動がいかにも現世的であり、腕白であり、時には晴れ晴れと亭主を尻にも敷いている。狂言の行中には、いつも少し魯鈍でお人よしな殿と、頓智と狡さと精力に満ちた太郎冠者と、相当やきもちの強い、時には腕力をも揮う殿の妻君とが現われて、短い、簡明な筋の運びのうちに腹からの笑いを誘い出している。
武家貴族の生活が婦人を愉しく又苦しい勤労から全く引き離して、しかも完全に政略の犠牲としていたのに反して、より政略の桎梏の少い下級武士や庶民生活の中では、女性の生活が、文盲ながら幾らか明るさ、健全さを持っていたことを、狂言は語っている。同時に当時の社会のいわゆる下層者には、支配階級に対して皮肉な大笑いをしている感情もあったという事実を示している。太郎冠者はそのチャンピオンとして登場しているのであった。
戦国時代にこうして一旦崩れ分散した支配権力は、信長によって、或る程度まとめられた。織田信長は当時の群雄たちの中では、誰よりも早く新らしい戦術を輸入した。種子島へ来た鉄砲をどっさり買い込んで、自分の歩兵を武装させ機動的な戦争の方法を組織したのは信長であった。信長が、分裂していた支配権力を一応自分に集中することが出来たのは、彼の賢によってであった。彼がポルトガルから渡来した近代武器の威力を理解したからであった。そしてその統一に、一つの有利な条件をつけるために、京都において政権を喪い、窮乏していた天皇の一族に経済的援助を与え、旧藤原一族の権謀慾をしずめようとした。
これは秀吉の時代にも自己の権力の利益を護るために踏襲された方法であった。政治の実権──主権を武家に確保するために、公家と武器と領地と領地の農民を背景とした僧侶の反抗の口実を防ぐために、天皇一族に対する給与ということが考えられていたのであった。
秀吉といえば、桃山時代(西暦十六世紀)という独特な時期を文化史の上につくり出した規模壮大な一人の英雄である。そして、その感情生活も性格から来る不羈奔放さとともに、専制的な君主らしく一人よがりで気ままであったこと、伝説化されている淀君のような存在もあり、一方には千利休の娘に対する醜聞なども伝えられている。
当時の社会では、征服した者が権力を以て征服された城主の婦人達を意の儘にするということが寧ろ当然の慣しであった。日本の女性史の中で淀君は我儘者の見本のように語られている。しかし、この半ば誇張された伝記の中にも、案外私共の注意すべき点がひそんでいるのではなかろうか。淀君の母親は、秀吉に敗けた柴田勝家の妻であった。お茶々と呼ばれた少女の淀君は、美貌の母と共に秀吉の捕虜となって育った。彼女の美しさは、昔秀吉が恋着した母の美しさを匂うばかりの若さのうちに髣髴させた。年齢の相異や境遇の微妙さはふきとばして、彼女を寵愛した。錦に包まれて暮しながら、お茶々といった稚い時代から、彼女の心に根強く植付けられていた「猿面」秀吉に対する軽蔑は、根深いものがあったろう。その秀吉の愛情を独占するということは、とりも直さず女性としては一つの復讐であった。淀君は殆んど分別なく我意を揮った。豊臣家の存亡ということについて、責任を負う気持がなかったのも当然である。
悲劇と喜劇とが錯綜して、日夜運行していた大坂城の中にお菊という一人の老女があった。余程永年、豊臣家に仕えていたものらしい。ところが、このお菊がどんな生活をしていたかといえば、冬でも僅かに麻衣を重ねていたに過ぎないということが、竹越与三郎氏の日本経済史の中に一つの插話として書かれている。そうして見れば、当時最も華美とされた城の中でさえも、女主人公と使われる女達との間には、着るものから食べるもの、あらゆることに恐ろしい懸隔があったことが分る。
徳川時代に入って封建制は確められ、士農工商の身分的区別も確立した。徳川氏の権力維持の努力とそれを繞る野心ある諸家の闘いは、やはり女性をさまざまの形でその仲介物とした。稗史の中でも徳川の大奥というものは伏魔殿とされた。沢山の隠れた罪悪と御殿女中の不自然な生活から来る破廉恥な行為とは、画家英一蝶に一枚の諷刺画を描かせ、彼はそのために遠島の刑にあった。徳川時代の婦人達はやはり権謀術数の手段として、人間の女性としての本性を踏み躙った性的関係に置かれたのであった。
ここでヨーロッパの封建時代の男女関係と、日本の封建時代のそれとを比較して見ることは興味があると思う。ヨーロッパの封建諸王の時代は中世の伝説に現われている通り、アーサー王やランスロットの物語によって伝えられているような騎士気質が支配していた。騎士時代のヨーロッパ女性の生活は、本質においてはやっぱり無権力なもので、夫や兄の命令は絶対であった。そこから美しい悲しいロマンスが生れている。女の自主性というものがどんなに無視され、また警戒されていたかということは次の興味ある物語でも知られる。
騎士の一人にガラハートという勇士があった。或る時森で悪魔的な巨人に出合った。そして難題をかけられた。その難題というのは「女が一番この世で欲しがっているものは何か」ということで、その答を日限までに持って来なければ果し合いをするという条件であった。ガラハートは当惑してあちらこちらと彷徨った。女が一番欲しいというのは何であろう。大金持の夫であろうか。それとも無類に美しい容貌の夫であろうか。或はやさしく真実な騎士の愛情であろうか。とつおいつしながらまた別の森に来かかった。すると樹の間から赤い着物を着て、恐ろしい顔をした一人の女が出て来た。そしてガラハートに呼びかけた。
「ガラハートよ。あなたはなぜそんなに沈んだ顔をしていますか、日頃の雄々しいあなたにも似合わない」
ガラハートは親切な言葉を感謝して、自分のぶつかっている困難を打ち明けた。
「どうも困りました。いくら考えても私には見当がつかない。若しお智慧を拝借出来たら大変仕合せです」
すると、赤い着物の恐ろしい女は答えた。
「心配なさらないでようございますよガラハート、私はあなたの武勇を崇拝しているから、答を与えて上げましょう。女がこの世で一番欲しいと思っているものは『独立』です」
そういって女の姿は消えた。
日限が来た時ガラハートは勇んで例の森へ出かけた。巨人は恐ろしい武器をひっさげて待ち構えている。破鐘のような声を出して呼びかけた。
「やい、ガラハート、難題はどうした。とても返事は出来なかろう。お前の命も今日きりだぞ」
ガラハートは落着いて「まあまあ急ぐな」といった。
「返事は用意してある」
「言って見ろ」
「女がこの世で一番欲しているものは『独立』だ」
すると巨人の顔色が変った。
「畜生、とうとうお前は本当のことをいい当てた。しかし、人間の男に、その答えが分る筈はない。誰かがきっとお前に智慧を貸したに違いない。言え」
ガラハートは清廉潔白な騎士であるから、森の中で、赤い着物を着た恐ろしい女に出合って、その女が智慧を貸してくれたことを告げた。巨人はさも残念そうに自分の腿をなぐった。「ああ、あの畜生、それは私の妹だ。何年か前あの女をひどい目に遭わせて追放した。その怨みを今日晴らしたんだ」非常に落胆して、すごすご武器を引きずって森の奥へ退いて行った。
これは中世の騎士伝説の中で圧巻的なエピソードだと思う。騎士達は礼儀正しく貴婦人達の前に跪き、その手に接吻し、その人の身に着いたものをマスコットとして試合に立ち向った。そして彼女達のために音楽を奏し、狩猟のお供をし、奪掠者から彼女達を護った。今日でも婦人に対して、礼儀と節度のある行為を、騎士的なという表現で言われている。けれども、婦人の社会におかれた地位の本質は、このガラハートの諷刺的な物語が示すようなものであったことは疑いない。
ヨーロッパ中世における婦人は、飾りない言葉でいえば男子の闘争の鹵獲品として存在したのであった。それは武力的な闘争の賭物とされたばかりでなく、道徳的な闘争の賭物ともされたのであった。騎士物語の中には、夫である一人の騎士が、友達との張合いから、妻の貞操を賭物として、破廉恥な友人の道徳的なテストに可憐な妻をさらす物語が少くない。中世の女性達は女としての奇智の限りを尽して、非道な奪掠者と闘った。そして自分の愛の純潔と夫への忠実を守った。
このようないきさつは、日本の中世の武家社会にやはり少くなかった。例えば袈裟御前の物語がある。一人の武家の婦人が生命を賭さなければ、自分の貞潔を守れなかった当時の男の暴力を物語っている。
徳川の中葉から日本では町人階級が勃興して、身分制度においては一番低いものとされている商人が巨大な富を蓄積しはじめた。大坂がその中心地となった。大阪商人の富は、封建領主達が領地の農民から取立てていた米を廻漕し、その収穫と収穫との間に金銭の立替をして利をとりやがて集めた米を土台に相場をして、政治的には支配者であった武士の経済を本質的に大坂の商人が掌握しはじめたことで増大して行った。
農民というものは、この長い歴史の間に殆んど変化のない程原始的な耕具と、最大限な肉体的労働とで働き続けて来ていた。徳川の標語は「殺すな、生かすな」という一貫した主張をもっており、その主意によって統治を受けた。やっと生活出来る程度の収入だけを残して、あとは皆地頭、領主に取られて来た。農民の女性の生活というものは、全く物を言う家畜という有様であった。しかしこの時代の彼女達の生活が文化の上に残した各地方の労働歌──紡ぎ唄、田植唄、粉挽の時に歌う唄、茶つみ唄、年に一度の盆踊りに歌う唄などは、素朴な言葉の間に脈々とした訴えと憧れとをふくめている。
万葉集には、名もない防人の歌、防人の妻や母、遊行婦女の歌なども、有名な乞食の歌などと共に集録されて今日に伝えられている。けれども、藤原氏以後、上層の支配者の文化は、すっかり一般人民の内面生活から遊離して、文学的な集というようなものには、庶民の婦人の生活の苦しさやひそかな歓喜の思いを反映する歌も物語も残していない。そのことは、支配者の文化がどんなに崩れやすい社会的基盤に立っていたかということを、その反面に証拠だてているのである。
商人の擡頭につれて、商人の婦女達の生活程度というものは、物質的に大変化して来た。西鶴の短篇小説の中には、大坂や江戸の大商人の妻や娘が、どんなに贅を極めた服装をし、帯に珊瑚をつけ、珍らしい舶来の呉絽服綸の丸帯をつくり、高価な頭飾りをつくったかということが、こまごまと書かれている。金銭出納細目帳のようにまで書かれている。
徳川の政府はたびたび贅沢禁止の命令を発したが、命令は実行されなかった。それは当然であったと思う。社会的に最も身分の低いものとされ、斬り捨て御免の立場に置かれ、しかも経済の中枢では権力者の咽喉元を握っていた商人達は、自分の意思、自分の権力を、ほかのどこに示すことが出来たろう。結局物質的な実力を誇るしかなかったし、その一つの示威運動として妻や娘を飾り立てずにはおられなかったろうし、妻達もいわゆる大名方の夫人達に対抗して、庶民であるが故に大袈裟な物見遊山の行列もつくれるし、芝居見物も出来るし、贔屓役者と遊ぶことも出来るし、贅を尽した身装を競争することも出来るという特権を味ったのであった。
こういう物質的な女性生活の富貴は、しかし立入って見れば彼女達の曇りない幸福を証明するものではなかった。この時代に日本の一般社会には女性に対する支那伝来の厳しい女訓が流布して、貝原益軒の女大学などが出た時期であった。どんなに美事に着飾ろうとも、女は三界に家なきものとされた。娘の時は父の家。嫁しては夫の家。老いては子の家。それらの家に属する女として存在するばかりで、彼女自身の家というものは認められなかった。しかも、その彼女たちのものならぬ「家」の経営のために、三界に家なき女の一生は、益軒が女大学の中でいかめしく規定しているような辛い条件で過されたのであった。
益軒の女大学の主張しているところは、誇張でなく奴隷としての女のモラルである。女は男よりも遅く寝て、男よりも早く起きなければならない。益軒は主張している。結婚して三年経って子供を持たない女は離婚してもよいと。一方においてこの益軒は『養生訓』という有名な本を書いた。この本の中で益軒は智慧をつくして、男が長生きをする養生の方法を研究しているのである。熱い風呂に入るなということから、性生活にわたるまでを丁寧に教えている。そうして見れば、当時の標準で、いくらかは医学の知識も学んでいたのだろう。それにもかかわらず、女に向うと益軒は、女が男よりも弱い体を持っているということさえも無視している。子供を持つためには、女の生理的ないろいろの条件が、十分守られ保護されなければならないという事実さえも無視している。そして睡眠不足、粗食が守るべき女の規則として提出されている。今日、少し常識あるものは不姙が女だけの責任でないことを理解している。益軒の、性生活に対する注意事項を見ればその間の消息に通じない男でもなかったらしい。しかし、封建的な家というものに女を隷属させて、家を継承する男の子を生む者としてだけ女を計算した封建家族制度の立場は、男のそういう目的に反する全責任を、女に投げかけているのである。
女大学が繰返えし読まれたのは、中流の武家階級であったろう。貴族と町人とはそれぞれの社会的な理由から、現実に益軒のモラルは蹴飛ばして生きていただろうと思う。
徳川の末、日本文学は興味ある変化を示した。その一つに、近松門左衛門の文学がある。彼の作品は、浄瑠璃として作られた。日本文学史の中で、近松の作品が持っている最も本質的な価値は、この封建の社会の中にあって封建のしきたり、道徳観、身分制などというものと、むき出しの人間性、ヒューマニティーというものがどのように葛藤し、踠き、悲劇的な終結を持たなければならなかったかということを、曲節をつくし、雄弁に物語っている点にある。
当時近松の題材となったような相対死(心中)が非常に現われた。又、いわゆる不義とされた男女関係の悲劇も多く現われた。近松は、この世の義理に苦しみ、社会の制裁に怯える男女の歎きと愛着とを、七五調の極めて情緒的な、感性的な文章で愬えて、当時のあらゆる人の心を魅した。社会の身分の差別はどうあろうとも、偶然の機会から相寄った一組の男女が、自然のままに自分達の感情を伝え合わずにはいられないということを、一応は肯定するところまで、当時の人間性の本能的な理解が拡がって来ており、しかも、その愛情の貫徹のために、社会の枠を自分達の力で破壊して行く努力、そのような建設的な恋愛というものは、まだ自覚されていなかった。憐れな二人は最後には死ぬことで、この世で実現されなかった互いの結合を全くしようとしているのである。
近松は、文学者として女主人公達と共に、その生き方の限界に自分を止めた。近松には、主人公達の苦悩と死に方とを、もう一歩生きる方へと導いて行くだけの社会的覚醒と自立性とがなかった。このことは近松の生れた元禄の時代が町人の擡頭と武士階級の崩壊時代ではあってもまだ身分の差別はきびしくて、封建の外郭は堅かったことを反映している。どんな卓抜な文学的天才でも、その人の生きる時代の歴史的な重みというものから、その個人だけで完全に解放され切らないということを証明している。
当時の婦人達は、浄瑠璃として又は芝居として、近松の描き出す哀感に満ちた世界を、自分達の感情の奥底にある響きとして聞きもし、見もした。婦人はこのようにして男子の作家によって描かれ、そして謳われた。しかし、当時の婦人の文化的な能力は、日常の帖つけ、手紙をかくに不自由しない読み書き算盤の低い範囲に止められていたから、その複雑な時代に生きる自分たち女性自身の描き手としての婦人作家は、一人も出ていない。武家時代から徳川の全時代を通じて、日本には婦人作家というほどのものが出なかった。元禄時代には、辛うじて俳句の世界で加賀の千代、その他数名の優れた女性達が現われた。けれども、小説というような、社会に対する客観的な眼、自分の生活に対する省察と洞察とを要求されるような精神上の労作は、封建の数百年間、日本婦人の可能から、奪われていたのであった。
徳川の政権は次第次第に揺ぎ出した。遂に黒船に脅かされ最後の崩壊の兆を示した(一八五三)。日本の歴史を見て、深い驚きにうたれることは、ヨーロッパにおいて人文復興のルネッサンスが起り、近代に向う豊富な社会生活と文化とが発生しはじめた丁度その頃に、徳川の完全な鎖国政策がはじまったことである。ヨーロッパが、まだ蒙昧な、半ば野蛮時代の生活をしていた十一、二世紀に、日本は既に藤原時代の社会生活と文化とを持っていた。従って、当時の世界で、日本は確かに支那に次ぐ文化の先進性を持っていたのであった。ところが、肝腎の近代の黎明であるルネッサンス前後に(十六世紀)日本の支配層が小さく安全に自分の権力を確保しようとして、厳しい鎖国政策を執ったために、ヨーロッパがその後急速に近代化した三、四世紀の間を、日本は全く孤立して、独善的に生産も経済も全くおくれた土台のまま封建社会の生活に過して来たのであった。
徳川中葉以後、町人階級が勃興したといっても、それは先ず、イタリーを中心としたヨーロッパの重商主義的な商業の大発達、ハンザ同盟、諸大学の設立、部分的ではあるが婦人の向学心も承認されて、スペインのコルドヷ大学には数人の婦人学者も生れた事情とは全く無縁であった。封建日本の知識人たちは一部の勇敢な人たちだけが、徳川の禁止に脅かされつつオランダ貿易を通じてチラリ、チラリと覗われるようになった近代欧州の知識に関心をよせ、そのためには生命を失いさえしなければならなかった。国内の社会事情の矛盾から、文学上には、一種の無常観、俳句において代表されている「さび」の感覚などのうちに退嬰し、徳川末期に到っては身分制に属しながら実力はそれを凌駕している町人階級の文学としてそこでだけは武士の力がものをいわぬ遊里、花柳界遊蕩の文学が発生したのであった。この種の文学の世界では近松の作品にあっては人間性の悲劇の女主人公として見られた女性も、当然あそびの対手としてしか、美も情感も認められ得なかったのであった。
明治開化の明暗
明治は、日本が新しい誕生を以て近代世界の中に歩み出そうとする激しい希望を以て始められた。明治の初期における社会の革新的な動き方は、日本の歴史に未曾有のものであった。当時の進歩的な人々が、腐れ果てた封建の殼から脱け出して、新しい日本人として発展しようとした欲望には、真実が籠っていた。例えば今日常に保守的或は反動的な役割を持っている文部省でさえも創設されたばかりには、本当に日本の人民の間に文字を普及させ、常識を広め、輿論の担い手となり得る人民の文化を導き出そうという熱心な意図をもっていて、先ず『言海』という字引を出したりした。文部大臣であった森有礼は、一人の進歩主義者、或は合理主義者であった。彼は伊勢の神宮へ行って、伝統的な迷信の中心である伊勢の神宮に、真に尊敬すべき何の実体も蔵されていないことを証明するために、御簾をステッキの先で上げて天罰というものの存在しないことを証明した。彼は進歩性の故に暗殺されなければならなかった。なぜならば、当時の日本の支配権力は憲法発布と同時に、はっきりと反動的な政権として国家を統一する方向に向ったからである。
憲法発布以前、封建の重荷を脱して新しい日本の社会を作ろうとする気運が純粋に高まっていた時代、その先頭に立ったのは板垣退助を首領として自由民権を唱え、一八八一年(明治十四年)に結成された自由党の人々であった。自由民権というとき、当時の日本人は必ず男女平等を考えた。政治上における男女平等の権利及び義務の観念に立った自由民権時代の政治運動は、たくさんの婦人政治家を、その活動に吸収した。例えば有名な中島湘煙(岸田俊子)、福田英子などという当時二十歳前後であった婦人政治家たちが、男女平等を唱えて日本全国を遊説した。大阪などでは少女が、政壇演説に出席したという話さえも伝っている。岡山には女子親睦会という政治結社が出来てあったし、仙台には女子自由党というのが組織されていた。その指導者は成田梅子という人であった。
これと略同じ時代、一方に婦人の政治活動が盛んであったと共に、女子教育もアメリカの宣教師たちの指導によって、やはり男女平等を水準として開始された。京都の同志社、東京の明治女学校そのほか仙台、横浜、などに、進んだ女学校が開設された。それらの女学校では全く男の学生と同じに直接英語の教科書を使って、英語、数学、地理、歴史、などの勉強をした。後に津田英学塾を設立した津田梅子が、六つの歳に岩倉具視の一行とアメリカへ留学(明治四年)したり上流婦人でも男に劣らない一般教育の基礎を持つ時代があった。今日、明治の先覚的な婦人として我々に伝えられているキリスト教関係の多くの活動的な婦人は、殆ど皆この前後、いわゆる明治の開化期に、進歩的な教育を受けた人々なのであった。若し日本が、そのようにして歩み出した男女平等の道を、正直に今日まで歩み続けることが出来たならば、日本における婦人の諸問題は、どんなに変った現われをもって、今日の私たちの前にあっただろう。もし、その道が可能であったのなら日本人民全体が決して今日の困難を見ないで、民主化されていたに相違ない。
日本の明治維新というものはその革命としての歴史的な性格の中に極めて強く、大きい割合で過去の封建的なものをそのままで持ちこした。一応は、封建より近代生産経済にうつるブルジョア革命のようであったが、その最も根柢をなす農業と土地の問題、生産経済の基礎などは、封建時代の制度のままその上へ近代国家としての日本が、おかぐらの二階建として据えられた。例えば土地の問題を見る。日本は封建時代より大地主たる大名があって、その土地は、それぞれの小さい区分に分けられて、名主が管理して、領主に毎年年貢を現物で納めた。つまり米、麦、その他直接生産物で納めた。明治になって廃藩置県が行われた。名主はなくなって村長となり、藩はなくなって県郡となった。けれども、それぞれの土地に居ついて来た農民は、どういう関係で日本の新しい経済機構に結ばれたかといえば、大部分はやはり昔ながらの小作百姓で、耕作の方法も、年貢を現物で払うということも、一家族がすべての労力を狭く小さい土地に注ぎ込む過小農業であるということも、ちっとも変りなかった。年貢の率が、地主と農民と六分四分という点も。土地問題は、今日まで、その封建的のままに来ていて、益々日本の進歩を阻む困難と紛糾の種となっている。生産増強のための大きな桎梏となっているのである。大体、明治維新そのものが、崩壊する武士階級の下級者と幕府より目の届きかねる遠い薩長で経済力を膨脹させて来た大名たちとが、利害を一にして、近代資本家貴族に転身しようとした動きであった。土地問題の近代にふさわしい処理の出来なかったのは、とりも直さず日本の新しい資本主義経済の支配者たちが、同時に封建地主でもあったという事実、利害の打算より来ている。資本家、地主を一身にかねて登場して来たのであった。それとともに、工業はおくれていて、資本主義国家となるためには、辛うじて、繊維軽工業にたよるしかなかった。天然資源にも乏しい。明治政府の本質というものは封建的な地主と軽工業に基礎を置いた非常に薄弱な資本家とによって組立てられていたものであって、この薄弱な基礎を護って権力を強化して行こうとするために、大名と武士から成る支配者たちは、誕生第一日から侵略的な意図を持った。西郷隆盛の政治的破局の原因となった征韓論は、その一つのはっきりした現われであった。
維新当時、それらの基礎薄弱な資本と地主の支配者たちが、外交関係において、一つの新しい権威を賦与するために、何かの形で主権者を必要とした。その主権者として、封建時代の数百年小大名より僅かな扶持を幕府から支給されて生活して来た京都の天皇一家を招待して来た。明治支配者の利害を共にするために天皇の一家も大地主となり、大財閥に勝るとも劣らない大資本家となった。所有土地百三十五万町歩、有価証券現金三億三千六百万円以上、そして一致した利害に立って、新しい日本の支配権を握るようになったのであった。
極めて特徴的な明治維新のこういう性格は、初期の動乱時代を過ぎるにつれて、支配方針の確立を求めるに当って、保守的な性質を帯びることは当然であった。自由民権の思想は一八八九年(明治二十二年)憲法が発布されると同時に弾圧を被って、自由党は解散した。憲法発布の翌年、大井幸子という婦人が自由党に加盟しようとした時、それは警察によって禁止された。「集会政社法」というものが出来て、婦人が政治演説を傍聴することを禁じた。
ここで私共は、一つの驚きを以て顧みる。日本の憲法というものは、何と外国の憲法と性質の異ったものであるかということである。憲法というものは、何処の国でも、支配者の大権と共に人民の権利をも規定したものであり、民主主義の発達した国であればある程、人民の権利に対する規定は全面的で詳細を極めている。男女にかかわらず人民が、その国の社会に幸福に生きるために必要な諸権利と義務については、人民として自主的に積極的に明確にしている。けれども明治二十二年に出来て最近まで伝えられた日本の欽定憲法は人民によって作成され、決定されたものではなかった。支配権力が自身の権力の擁護のためにつくった傾きがつよいから、人民の諸問題よりも大権を絶対のものとして明記してあることに注意が集注されている。人民の諸権利についての具体的条項は、漠然としてしか扱われていない。ましてや、この特異な日本憲法において、全人口の半ばを占める女子の社会的地位を、男女平等の人民として規定しているような条項は、一つもないのである。それは、明治というものの本質から結果された。先に触れたように、明治の支配者が社会に対して抱いた観念は、何処までも彼等の利害を主眼とした富国強兵を主題としていた。農民と土地との関係が、昔ながらの地主と小作の形のまま伝えられたと同じように、「家」というものと婦人との関係、男子に従属するものとしての女子の関係は、殆ど近代化されず封建的のまま踏襲した。
この深刻な日本婦人の運命に重大な関係をもった明治の特徴は、一八九九年(明治三十二年)女学校令というものが発布された、その内容に、まざまざと反映されている。
明治の開化期の先進部分の人々には女も男と等しく智慧を明るく、弁説も爽かに、肉体も強く、一人の社会人として美しくたのもしく育ち上らなければならないという颯爽たる理想が抱かれていた。けれども、女学校令の中では、その悠々としてつよい展望は惨めに萎縮させられた。文部省は、女子の社会的存在意味を男のための内助者としての範囲に止めて、教育制度も限定した。それらの保守的な人々は考えた。家庭を円満に治めるためにも、男子の手足まといになりすぎる程物の道理が判らなくても困るが、余りはっきりしすぎて男が煙たいほどでも亦困る、と。その基準で、いわゆる家事科目を中心とした、女子教育の基準が決定されたのであった。これが今日まで女子教育方針の根柢をなしている。そのために外形上、女子大学、専門学校等が出来、何人かの婦人弁護士と、より多数の女医、沢山の女教師が出ている今日でも、その人々の専門家としての力量、社会人としての智力能力は遺憾ながら、大体同じ専門教育を受けた男子と等しくないという悲しい結果を齎しているのである。
一九〇〇年(明治三十三年)には治安警察法第五条が制定されて女子の政治運動を禁止した。一九〇三年(明治三十六年)堺利彦等によって平民新聞が発刊されたとき、この治安警察法第五条を撤廃させようとして、堺ため子が議会に請願書を出した。第一次大戦終了後の大正年代に、新婦人協会など同じ目的のためにさまざまに努力したけれども、今回第二次世界大戦敗北による、ポツダム宣言によって治安維持法を初め沢山の悪法が撤廃される時まで、婦人独自の力で、この悪法を打破ることは遂に出来なかった。日本では、婦人が地方自治体の政治に干与するための公民権さえも持たなかった。つい先頃一九三〇年(昭和五年)全国町村長会議は、婦人の公民権案に反対を表明している。翌一九三一年満州に対する日本の侵略戦争が始まった。それからというものは、誰も知る通り、日本における婦人参政権運動或は憲法撤廃に対する婦人の活動は全く終熄させられた。婦人参政権の活動家たちは、精神総動員を初めあらゆる戦時総動員に狩り出されて、戦債の買込遊説だの、貯金の勧誘だの、全く軍事協力者として動員されてしまったのであった。最近の十四年間に、日本の婦人の解放運動は、辛じて母子保護法を通過させただけであった。
さて、明治初期の明るい、しかし未熟の男女平等の社会観念は、このようにして重く暗い日本の封建の土の上に根を下して、世界各国とは全く違った畸形な実を実らし始めたのであったが、この過程に民法と刑法とは、どんな工合に、婦人というものを扱っただろうか。
民法は一八九六年(明治二十九年)四月、日清戦争後一年に制定された。刑法は一九〇七─一九一二年(明治四十年─四十五年)の間に、日露戦争後二年から着手された。
民法における婦人の立場というものは、はっきりと文部省の教育方針を照り合せ、しかも最もその消極的な害悪の多い面を照返している。例えば第十四条から第十九条に至る妻の無能力ということに関する条項、第八百一条から第八百四条に至る財産に対する妻の無権利、第八百十三条の離婚についての不平等な規定、第八百八十六条から第八百八十七条に至る親権において母の権利の制限されていること、第九百七十条その他相続或は遺産に対する婦人の差別的な規定、或は結婚届の規定の中にある婦人に不利な内縁関係の規定など、今日婦人の社会的不便を来している幾多の条項がある。婦人は、未成年時代には勿論、総てのことを親の権利によって支配されている。法律上の成年(二十歳)になって、やっと婦人も民法上一人前の能力者になる。と思うと、現在のような結婚難の時代でなければ、それらの若い婦人達は、あらましその前後の年齢で結婚して家庭に入る。妻となった若い婦人たちは、忽ち民法上能力を喪失し、人妻の「無能力」に陥ってしまう。そして、何か女性にとって不幸なめぐり合せが起るとそのことごとに結婚の条項において民法が規定している総ての不合理と片手おちとに苦しまなければならない。夫婦の愛にかかわる貞操の責任に関してさえ、妻は夫とちがった扱いに立たされている。夫に死に別れた時、戸主となるものは自分の息子であるか或は養子であるか、いずれにせよ、その時婦人は相続者の支配の下に置かれる立場になっている。徳川時代女は三界に家なしといわれた。それは、果敢ない女の一生の姿として今日考えられている。けれども、現在行われている民法の実質は、結局において今日なお女子を三界に家なき者として規定している。それぞれの婦人たちの生涯の努力と実力如何にかかわらず社会的に能力なき者と見なしているのである。
今日民法における女子の不平等な地位を改善したいという激しい要求が現われているのは、全く自然なことであると思う。何年か前穂積重遠博士が民法改正委員会を組織して、『民法読本』という本も著し、民法における婦人の地位の改善のための努力を試みたが、明治以来の保守的な日本の支配権力は、この委員会の仕事を、蝸牛の這うようなテンポで引っぱった。
第二次大戦の間に民法における私生子の区別が撤廃された。なぜ沢山矛盾を持った民法の中で、特にこの条項だけがその忙しい時期に取上げられたのであろうか。私たちの常識は、一考して深く頷くところがある。日本の家族制度、財産の相続を眼目にした親子関係の見方においては、嫡出子と庶子、私生子の区別は非常に厳重で、生まれた子供は天下の子供であるという人間らしい自由さを欠いている。けれども、戦争が進行して総ての若者を動員し、彼等の命を犠牲として要求した時に、権力は相続者としての子供を奪われる点を考える親の思惑を憚って嫡出子と私生子の区別をかたくしては不便至極となった。又私生子が民法的の区別のために、彼等の少年時代から受けて来た暗黙の苦痛、その苦痛から出発している社会の不合理に対する洞察力というものを、権力の命のままに生命をすてさせるについて一種の精神的抵抗と感じた。それ故に、死なすという単一な軍事目的のためには嫡出子も私生子も区別はないという根拠から私生子の差別を削除したのであった。公文書その他に、士族、平民と書くことを廃止にした。この理由も同じ由来をもっている。
これは民法における女子の不平等の問題が、どうして女子の犠牲の多かったこの戦時中に改善され得なかったかという問題を、裏から説明している。忘れるにかたい日本の婦人全般の戦時中の犠牲は、その時こそ、男に優る女の力として、国を背負って起つ女子として、激励され、鼓舞され、全面的に動員された。けれども、動員した権力者は戦争が無限に続くものでないことを十分知っていた。戦争が終った後、職業戦線におこるべき複雑な問題、経済問題、食糧事情等が、どんなに大問題となって、権力者たちの真に人民の政治家としての能力を試すものであるかということは、おぼろげながらも知っていた。それ故、民法における女子の無能力を改正してしまったらば、今日臆面もなく失業させた女子に、家庭に帰れと命じているその口実の最も薄弱な口実のよりどころさえも失われてしまったであろう。この事実を私共は単なる一つの辛辣な観察としてではなく、真面目に深く理解しなければならないのである。
一八九九年(明治三十二年)福沢諭吉が『新女大学』という本を著わした。貝原益軒の「女大学」が封建社会において婦人を家庭奴隷とするために、女奴隷のためのモラルとして書かれたものであることは前に触れた。福沢諭吉は「学問のすゝめ」を見てもわかる通り、明治開化期における最も活動的な啓蒙家の一人であった。彼は明治になっても華族、士族、平民という身分制が残っていることを不満として、常に自分の著者に東京平民福沢諭吉と署名したくらい気概ある学者であった。この福沢諭吉が益軒の「女大学」を読んだのは、彼の二十代まだ明治以前のことであった。人間らしくない女性に対する態度に憤然として、彼は、長年に亙って極めて詳細な「女大学」反駁論を準備した。そして明治三十二年つまり日本に女学校令というものが出来た年になって、社会一般が婦人問題について漸く受容れる気風が出来たと認めて、始めて「新女大学」を発表した。
「新女大学」の中で、今日もなお注目されるべきことは、著者が、婦人を男子と等しい社会的成員として見てそのために婦人は法律上の知識、経済上の能力、科学的な物の見方というものを身に付けなければならないということを熱心に説いていることである。明治二十九年に制定された民法の女子に関する差別条項を恐らく福沢諭吉は深い感慨を以て見たことであろう。婦人は、法律に関する知識を持たなければ不幸であるということを強調しているのは、民法における婦人の地位がどんなものであるかということを婦人自身が全く知らずにいて、その結果としての悲劇ばかりを生涯の上に負わなければならないことを福沢諭吉は憐れにも思い、はがゆくも思ったからであろう。経済上の知識ということも福沢諭吉の論じている範囲では、あまりに婦人が深窓に育ち世事にうとく、次第に複雑化して来る近代社会の経済関係の中で、常に騙され損失を蒙る可哀そうな立場にあることを見て、婦人もやはり社会の経済に関する理解を持たなければ、家庭の安全と幸福さえも保てないと力説している。この賢明な助力者である福沢諭吉が、婦人の職業的経済的自立の問題に触れていないことは注目される。「新女大学」は、戸主が婦人の社会的地域に十分の同情と理解とを持って、財産相続或は分配の場合に、ヨーロッパ諸国のように、女子にも適当な経済上の保護、分配を与えるべきである、と主張している。日本の家族制度では、相続権は長男にある。同じ子供でも、女子は権利を持っていないことになっている。そのために能力の弱い婦人が、社会的に悲境に陥りがちなことを諭吉は憐んで、女子に対する経済的の保護ということを言っているのである。福沢諭吉が女子の経済的自立をとりあげず、戸主との分配権をとりあげたのは、全く、資本主義国日本としての、ブルジョア民主化の先鞭をつけたものであった。日本の権力は、一方資本主義化の諸悪を社会に発生させつつ、資本主義国の進歩的な面は、最少にしか実現して来なかったのである。今日この点を改めてとり上げてみるならば、第一日本の総人口の九割迄の人々は、一生を働き通して、しかも伝えるものとては借金以外に極く僅かの財産しか持たず、況してそれを何人かの子供に平等に分配するという程の富を蓄積し得ない人民の経済生活である。従って、第一次大戦後の大正年間に、婦人の経済的独立という問題が社会の各方面から叫ばれたのは当然である。
大正年代には婦人参政権運動の一群の進歩的な婦人たちと並んで、労農党の一翼として、婦人同盟という進歩的な婦人の団体があった。この団体は、婦人の政治上の権利の平等を主張すると共に、婦人に経済的独立の可能を与えよと熱心に提唱して、女性が社会的発展を遂げる根本条件を確保しようと努力した。しかしこの努力も第一次大戦後の経済破綻、それに伴っての大失業、より多くの女子の失業等の大波に攫われて、まだ人民のものとしての広い活動を展開していなかった。明治開化期以来、日本の民主主義の伝統とその指導力は根本から婦人の社会的地位を向上させるという大事業に成功し得ないまま絶えざる封建性との闘いのうちに今日まで来たのであった。
明治開化期以後の婦人の文学的作品を見ると、その頃の婦人作家というものがどのように女の生活を見ていたかが非常によく分る。明治二十年代に三宅花圃が「藪の鶯」という小説を書いた。坪内逍遙が「当世書生気質」を発表した頃で、それに刺戟され、それを摸倣して書いた小説であり、当時流行の夜会や、アメリカ人や洋装をした紳士令嬢などが登場人物となっている。十八九歳だったこの才媛は、既に反動期に入った日本としての、女権拡張の立場に立って婦人問題を述べている。花圃の小説中最も愛らしく聰明な婦人と思われている女主人公は、日本の富国強兵の伴侶として、その内助者としての女性の生活を最も名誉あるものと結論しているのである。後年花圃の良人三宅雪嶺とその婿である中野正剛等が日本の文化における反動的な一つの元老として存在したことと考え併せると、極めて興味がある。
樋口一葉の小説は、今なお多くの人々に愛せられているし、明治文学を眺め渡した時、婦人作家として彼女くらい完成した技術を持っていた人はなかった。しかし日清戦争前後に生活した一葉が描いている婦人の世界というものはどういうものであったろう。有名な「たけくらべ」は詩情に溢れた作品である。主人公達、少年少女としての朧ろな情感の境地は叙情的に、繊細に美しく描かれていて、独自な味いの作品である。そこに一貫しているものは稚い恋心と下町の情緒、吉原界隈の日常生活中の風情、その現実と夢とを綯い合わせた風情である。
「にごりえ」の女主人公であるお力は酌婦である。けれども、生れは士族である。そのことを心の秘かな誇りとしている女である。が、男とのいきさつの痴情的な結末は、いわゆる士族という特権的な身分を自負する女性も酌婦に転落しなければならない社会であり、しかもその中で自分の運命を積極的に展開する能力をもたなくて、僅に勝気なお力であるに止り、遂に人の刃に命を落す物語が書かれている。一葉が、若い時代の藤村、その他『文学界』の同人達の間に移入されていた、ヨーロッパ風のロマンチシズムの雰囲気に刺戟されたことは、彼女の傑作「たけくらべ」を生む、つよい精神的モメントになった。彼女自身の持っている古風な封建風な潔癖さとも非常によく調和させ、「たけくらべ」という一つの珠玉が生れた。作品でない日記をよむと、一葉が生活と苦闘して、女が社会からうけている扱い、又女同士の間、文学の仲間たちにさえある貧富の懸隔とその心理などについてどんなに鋭く感じ、疑い、悩んでいるかがよくわかる。しかし、当時の彼女の「文学」という観念は、それらの人生課題をじかにとり上げさせず、作品として出たものは封建と新社会との敷居の上にたゆたって、定め難い薄明りの故にこそ一つの美しさを保っているという性質のものであった。
平塚雷鳥を主唱者とした「青鞜社」の運動は、日本にイブセンとかエレン・ケイとか、婦人の解放を観念の面から取扱った思想が文芸運動として輸入された一九〇八年頃(明治四十一、二年)結成された。『青鞜』は文化運動としての女性の天才の発揮、限りない知的能力の発露ということを目標とした。けれども、根深い婦人の文化運動として永続することは不可能であった。青鞜社の人々の多くは、文化がどのような関係で経済的な社会上の基礎の上に発生するものであるかを知らなかった。経済的に自立する丈の能力を持たず、さりとて、社会的な勤労に従事したこともなかったそれらの婦人達が集まって、文化文学についての情熱を吐露し合ったとしても社会生活における根のなさ、経済的親がかりの事情は、彼女たちの現実の能力を制約した。観念の上で、どんなに純粋に天才を叫んでも、彼女達の現実はやはり紡績工場の女工のハナ子、トメ子が縛られていると全く同じ家族制度と、民法と刑法の中に棲息していた限り、彼女達の飛び立とうとした翼は歴史の中で十分に伸ばし得なかったのであった。
この時代に『白樺』の人道主義運動も起った。『白樺』は人間の尊重、芸術の尊重、人間精神の尊重を主張した。『白樺』によって紹介されたヨーロッパの芸術家達、例えばトルストイ、ロダン、ロマン・ローラン、ホイットマンなどは何れも日本の文化に新しい息吹を吹込んだ。白樺運動の、当時まだ若かった武者小路実篤その他の人々は日本にとって一つの新しい魅するところある新鮮な力であった。けれども、そののち何年かを生き古した武者小路実篤が、今回の戦争中、どれ程無智な一人よがりの気持で戦争に協力したかということを見れば、社会的観察力の欠けた人道主義やその感激というものが、歴史変化に伴ってどんなに堕落し、いつともしらず全く非人間らしいものになるかということの、恐ろしい例を見ることが出来る。日本の人道主義者であった武者小路実篤が、今日そのように堕落したという悲劇は、彼が要するに華族の息子で、社会の現実の機構、そこにしっかりと結びついている人間の働き、それの客観的な意義を全然知らないで、曾て彼が書いた作品の題のように、「わしも知らない」ままに、文化的にも拭うことの出来ない人間的罪悪を犯した。私たち婦人は、悪よりも悪い無智というものを生活から追放しなければならない。沁々とそれを思わずにいられない。
戦争の犠牲
軍事的な日本の権力が満州を侵略し、中国を侵略し、大規模の侵略戦争を開始したのはいまから十四年前であった。一九四一年十二月、真珠湾の不意打攻撃を以て太平洋戦争に突入した。そして、一九四五年八月十五日無条件降伏を以てこの惨劇を終った。特に太平洋戦争が始まってから、我々日本の人民は、その戦争を大東亜戦争という名で呼ばされた。且つ「聖戦」と言い聞かされた。ところが敗戦してポツダム宣言を受諾した時、日本は連合諸国から戦争犯罪国として、対等の国際的自立性を奪われた。私達祖国を愛する者は、この戦争の結果を悲しい心で受取った。そして、或る人々はきっと思ったに違いない。昔から喧嘩両成敗という言葉がある。国際間の戦争にしても必ず相手はあるものを、なぜ日本にばかりに戦争犯罪国の責任が負わされるのであろうか。それは日本が敗けたから、勝った側から、勝った勢いでそのような道徳責任までを負わされるのではあるまいか、と。私達は自分たちが、自信をもって生き、明るい日本建設のために、新しい民主日本を形づくってゆくために、この疑問の感情を究明し、国際間における日本の戦争責任の意味を十分理解しなければならないと思う。さもなければ、誤った狭い民族意識に捉われ、その民族意識は反動者に巧に利用され、結果としては、私たちの手がやっと端緒についたばかりの民主政治を再びまき上げられてしまうことにもなりかねない。私たちはわが祖国を愛し守ることにおいて、聰明でなければならない。
なぜ日本は第二次ヨーロッパ大戦において侵略戦争の責任者と判断されているだろうか。遡って考えると、二十八年前(一九一四─一九一八)の第一次ヨーロッパ大戦において、ヨーロッパ諸国及びアメリカは深刻極まる戦争の惨禍を経験している。ヨーロッパ資本主義間の利害の矛盾が、第一次大戦を起したことは誰の眼にも明瞭である。同時に、あれ程多くの血を流し、あれ程多くの人々の命を失い、国民生活を互に破滅させ合いながら、その結果としての国際連盟や軍備縮小会議などは平和建設の上に極めて薄弱な力しか持ち得ないことも、ヨーロッパの人々は発見していた。国際連盟が出来たと同時に、既に第二次世界戦争の危険は、総ての人に警戒されていたのであった。ヨーロッパの第一次大戦において経験された破壊を心から嘆き、戦争が非人道的な所業であることを心から恥じているヨーロッパの多くの進歩的な人々は、真面目に第二次大戦を防ごうとしていたし、あらゆる形、あらゆる会議、あらゆる力の均衡を発見する方法をつくして、危機に迫って来る第二次戦争を防ごうとしていた。その時に、ドイツのナチスとイタリーのファッシストと日本の侵略的支配者はヨーロッパのその矛盾、ヨーロッパ内部のその苦悩に乗じて、折あらばと漁夫の利を求めて、第一次大戦時代からちっとも本質の進歩していない侵略戦争を計画した。
日本が満州に侵略を開始したのは、ヨーロッパが戦争を避けようとしてあらゆる努力を尽している、その忙しさの隙に乗じた仕事であった。ナチスがヒットラーの性格異常者的な独裁力によって国民に犠牲を払わせ、いわゆる電撃的侵略を開始し、イタリーもその驥尾に附した。平和に対する世界の努力を、暴力的に破壊させる切掛を合図し合うための同盟を結んだ三国は、西に東に兇暴な力を揮い始めた。そしてヨーロッパが戦禍に陥った機会に乗じ、日本は更に手を伸ばして真珠湾、南洋諸島、東亜諸国に侵略を始めた。
人が重い病気に罹った時、それを癒すために協力するのが人間らしい仕業であろう。或は、その病気を一層重くさせ一層余病を併発させ、命を危くさせようとあらゆる手段を尽すのが、人道の行為であろうか。これに対する答えは子供でも知っている。日本その他二つの同盟国が、国際間に取った所業は、真剣な平和建設の努力を横紙破りの暴力で破壊し、世界を混乱に導いたという意味で決して正義の行動ではなかった。道徳的責任を十分に問われるべき立場にある。日本が戦争侵略責任国として国際的処罰を受けるのは避け難いことである。それというのは、第一次ヨーロッパ大戦において、日本の財閥と軍閥とは儲けこそしたが痛手というような痛切な経験は一つもしていない。折を見て、連合国側にちょいと参加して、南洋の旧ドイツ領の委任統治地を稼いだし、青島に日本名で町名をつけることに成功したりした。人民の生命に責任を感じない彼等は近代戦争の惨劇というものを根柢から理解していなかった。三十年四十年と後れた平面的な戦争技術と戦術と生産能力への無智、世界情勢への無判断のまま、この大戦争に突入した。世界的な理解を持っているために戦争参加を危うがった政治家、銀行家、その他は二・二六事件という暗殺事件によって、生命を奪われているのである。
ところで、この頃よく、日本は強盗戦争をした、といわれる。それをきいたとき、私たちの心もちは、どうしてもそれをうけ入れかねる。自分たちは、一つも強盗戦争なんかしなかった、という反対の心持がする。ここが、非常に重大なところだと思う。本当に、私たち七千万人の日本の人民は「いくさ」をした者であったのだろうか。私共総てが、愧ずべき戦争犯罪者であるのだろうか。この点は十分考えてみなければならない。なぜかといえば、これ程大きな犠牲と、これ程大きな社会生活の破壊を齎した戦争を、いざ始めるという時、私達人民は当時の政府から民族の信仰的よりどころといわれる天皇から、どんな相談を受けただろう。どこに、どんな人民の大会が持たれたか。どの新聞が、世間の輿論を尋ねたか。真珠湾の攻撃が、十二月八日の朝突然発表されて、人々は驚いてアメリカとの戦争が始まったことを知った。全く不意打であった。人民としては、戦争をするのがよいとも、しないのがよいとも、アメリカが憎むべきか、憎むべきでないか、全然その判断にさえも招かれていない。全く侵略的な日本の支配者が独断で、人民に一言、一度の相談なく、天皇が宣戦詔勅を出して始めた戦争である。数百万の人が今度の戦争で命を失った。しかし、その人々は、言葉の正しい意味で自分達でした戦争で死んだのではなくて、不幸なその人達及び、私達人民一般は、させられた戦争に、理非をも云わせず引き出されたのであった。
この事実を明瞭にしなければ、私達の今後の生活は、どんな新出発の足場をも見出すことが出来ないであろう。なぜなら、戦争の結果私共の日常生活はこのようにも破壊されている。特に婦人に取って、その生涯を託すべき処と明治以来教え込まれている家庭そのものが、この戦争によって全く粉砕されている。この恐しい荒廃の中から、私共が新しい明日の生活を築くためにはしっかりと現実的に自分達人民が置かれた立場を把握しなければならないのである。
どの国でも、戦時は男子の労働力に代って、婦人の社会的勤労が極度に必要とされる。とりわけ、日本のように繊維軽工業を国家の生産の基本、経済的発展の基調として発達して来た国、農業の状態が全く封建的な過小農業であって、農家の労働方法は、家庭内の婦人の肩に極めて重く懸っているところでは、戦争によって女子の社会労働の負担は、外の国で見られない程重要である。同時に又苛酷な条件を持つようになる。国際信義を裏切った不意打から、太平洋戦争が始まって以来、先ず日本国中ではこれまで漠然と考えられていた「日本の婦人」というものが急にはっきりと「戦う日本の婦人」という角度から見られ、語られ、型に嵌められようになった。例えば婦人雑誌などで、これまでは洋装をした若い女の人が、呑気に楽しそうに樹蔭で読書などをしているような絵を表紙につけていたものが、昭和十七年頃になると「日本女性らしさ」ということが誇大に強調されて、洋装婦人の絵は和服姿の絵姿となった。そして、遊んでいてもいけないし、さりとてどう社会的に動くかも明瞭でない、中途半端な和服の日本女性の絵姿は、少し上ずったような黒い二つの眼を見開いて、立っている表紙が見られるようになった。
既成の婦人団体は「戦う日本の女性」の精神の方向を決定し、軍事目的に添わせようとして、あらゆる機会と場面に好戦的な調子で、日本女性の勇敢さや忍耐強さなどを強調した。そして、毎日毎日、凄まじい勢いであらゆる家庭の屋根の下から引き離されて行く夫、兄、父、弟達に対する婦人たちの苦しい愛惜の情を押えつけることに熱中し始めた。
真珠湾の不意打攻撃は皮相的に勝利のように見えたが、戦闘が日一日と進むにつれて、現実は日本の近代国家としての弱体を現わし始めた。戦争遂行者たちの軍需生産に対する焦慮は極端に昂まった。昭和十四年までは労務動員計画と呼ばれていた労働力に対する統制が、十七年からは、国民動員計画と範囲を拡めた。徴用がどしどし行われるようになって、男子の就業禁止の職域範囲が拡がった。企業整備によって自分の店や勤め先を失った男達は、みんな徴用されるということになった。昭和十九年からは学徒動員が行われ、この年には四百五十万人という勤労動員がされたのであった。昭和十四年に比べれば四倍以上の増加率であった。その中で学徒の動員は百九十二万七千三百七十五、女子挺身隊は四十七万二千五百七十三という数に達した。十五歳から四十歳までの婦人は、国民動員計画の中に含まれたから、女学校の生徒も専門学校の生徒も、中学や男子専門学校の生徒と同様、学校へ行かずいきなり工場へ行って働かせられるという状態になった。女学校を卒業した人も直ぐ女子挺身隊として、各職場に送られた。「女性よ、生産工場へ!」「職場へ!」「技術を高めよ!」という声は、「働く女性は誇りである」という声と共に日本全国に充ち満ちた。生産場面に女子が吸収されて行くばかりでなく、遽かに拡がった南方の島々へ、又は満州や中国へ、さまざまの名目で、いわゆる進出する女性の数が夥しくなった。政府は女子機械工補導所を作り、女子が男子の七十%の能力を持っていることを強調し、航空機の製造はその七十%までを女の手でやれるし、発動機は五十%までを女子の手でやれる、女子整備員の活動は決して男子に劣らないものとして大いに参加を求めた。
一方この時期に急速な企業整備が行われて、平和産業の部分は全く閉塞させられたから、それによって経済的な打撃を被った家庭は非常な数にのぼった。又経済的な柱となる男子が出征し、或は徴用工になり、収入は減って、それによって生計が不安になった家庭も非常に多かった。随って若い婦人の職業への進出ということは、それぞれの人の生活的たたかいでもあった。けれども、動員法によって動員された学徒、女子勤労挺身隊などの勤労状況は決して楽観すべきものではなかった。戦争遂行者たちは夢中で軍需生産の拡張を希望しているから、実際は全くインチキな施設と内容としか持たない工場でも、それが軍関係のものであって、徴用工と女子挺身隊とを、どっさり自分の工場に働かせているということにさえなれば、軍人の思惑がよくなって、資金の融通、資材の配給上少からず便利を得た。そのために、徴用工の採用にしろ、挺身隊の採用にしろ、工場の実力以上の人員を受取って、寮のあらゆる不備な条件、職場そのものにおける労働の条件の不備、だらけた集団生活から起る道徳的な頽廃は時が経つうちに動員された人々の精神に見遁せない悪影響を及ぼして行ったのであった。
元来日本では、家庭生活の方法が全く社会化されていない。家事の運営のために婦人が費す労力は世界最大のものである。その条件が改善されないままに、婦人は軍需生産へ動員されたのであるから、働いている女性の生活は、輪に輪をかけて負担が多くなった。例えば、子供を持っている勤労女性の最大の苦しみは、子供をほったらかしたまま一日中母親であるものが外に働いていなければならないという事情である。そういう婦人を働かせるために、かねてから託児所や保育所の設備を持っていた工場は実に少い。急に女子労務者が激増しても、その条件にふさわしい便所、食堂、更衣室その他の設備を整えることについて、政府はちっとも工場主を監督し激励するところがなかった。彼等の利潤追求におもねるばかりであった。
食糧は規格統制に従って配給されるようになった。しかし、その配給にしろ、昼間職場に働く主婦にとっては、いつもいつも気掛りな問題であったし、隣組の人達に気兼をしなければならない苦しい事情に立たされた。私たちがよく知っているとおり配給は決して朝早くや夜遅くは行われない。いつも昼前後、又は夕方、働いている人達が家を明けている時間か、さもなければせき立った心持で恐ろしく混み合う電車に乗っているような時間、その時にいろいろな配給がある。親切な隣組を持っている人達はよほど仕合せであった。さもないところでは、働いている女の人達の食糧問題は、いつも不利な立場におかれる有様であった。
労働時間についてみても、婦人労務者は、ひどい無理を押しとおした。何しろ戦局切迫ということを旗印として努力させられたから、決して八時間七時間というような労働時間では済まなかったし、婦人の肉体にとって極めて有害ないろいろの化学薬品などを取扱う爆弾、弾丸、ガス製作の職場でも、婦人の労働は長い時間強要された。
怪物的な軍事費と、軍需成金とは、当然通過の膨脹を招いた。インフレーションが進むにつれて、目の前の賃銀は非常に高くなって、十七八の少年でも数百円の収入があるようになった。それにも拘らず、女子の方は、ずっと最高が大体男子の三分の二という差別があって、その差率は変化させられなかった。
これらの間に、その強制と内容の愚劣さとで私共には忘れられない防空演習が盛んに行われた。出征軍人の見送り、出迎え、傷病兵慰問、官製婦人団体が組織する細々とした労働奉仕──例えば米の配給所の仕事を手伝うために、孔の明いた米袋を継ぐために集るとか、婦人会が地区別に工場へ手伝いに出るとか、陸軍病院へ洗い物、縫物などのために動員されるとか──当時、婦人たちの一日は、恐ろしいばかり各方面から求める労働力の細切りのため、ちぎれちぎれになって、家らしい休安の思いは消し去られた。
食糧問題が円滑に進まないために、もうこの頃から買出しということが始まった。配給で足りない部分を、女が近在の農家へ行って、藷だのその他の野菜を買込んで、自分達の背中で補って行くという仕事が始まった。一人の女性の生活を取ってみれば軍需生産への動員、家庭労働への負担、買出し、防空演習、その他への動員などと二重三重の働きが負わされたのであった。こうも落ちつく暇のない毎日の間に、隣組からの強制貯金とか、厖大な数字に上る国債の消化とかいう仕事も、つまるところは一家の主婦、さもなければ、家計を援けて働いている女子の勤労者のやりくりに、解決を俟つ有様となった。家庭から先ず男が戦線に奪われた。その奪われた男のあとを埋める者として婦人が立上らなければならなかった。けれども、その立上った手や足や指の一本一本に、そのように大きい負担がかけられていたのであった。
婦人の一般の健康状態は非常に悪くなった。人口に対する結核の罹病率、流産、乳幼児の死亡率などは無理な勤労、奉仕労働などの結果昂まって来たのである。けれども、ここで私達が悲しみと憤りとを以て思うことは、戦争遂行者たる支配者たちがこの事実を、どんなに私共人民の眼から隠そうと、努力して来たかという事実である。食糧の問題にしろ、日本の平均男子一人当、平均女子一人当の基本的なカロリーは、御用学者達が権力に媚びた割出し方によって、実際の必要が三千五百カロリーから五千カロリーであるにも拘らず、千数百カロリーで済むという風に規定された。そして配給はそれを基準にしている。又職業病の正直な調査の結果は、ベンゾール及びその誘導物に対して、婦人の肉体は極めて抵抗力が弱くて、生殖機能を破壊されるということを明瞭にしている。ベンゾールばかりでなく、軍需関係の化学的部門で人間の体に有益なものは殆ど一つもない。それはそうであろう。それは人を生かす力ではなく、殺す道具として作られているのだもの。けれども厚生省はそのことについて、決して公平な見解を発表しなかった。公平な施設を急いで作る方向へと、輿論を起さなかった。驚くべきことは、統計局でさえも、昭和十八年以降は世間に向って発表すべき正確な統計を、あらゆる部面で持っていないということを告白している。これ一つを見ても、日本の政府は自分達の利益を守ろうとして戦争を強行して行くためには、人民一般の生活に対してどんなに無責任であり、どんなに破壊的で、自暴自棄な方向を取っていたかということが明瞭である。統計一つさえもなくて、どうしてこれ程厖大な数百万の人間の動員計画が、人間らしい条件によって保たれて行くことが出来よう。
どんな愚かな母でも真面目に子を愛すれば、子を護るための智慧は不思議な形で発揮される。この女子勤労動員、学徒動員が激しく行われ始めた時に、一番不安を感じて、政府の方針に賛成出来なかったのは外ならぬ日本の母親たちであった。母親達は自分の可愛い息子が特攻隊となって殺されて行くこと。それを親たちは、どんなにいじらしく、止め難く、それ故猶いとしいことと思ったろう。可愛い娘達が動員されて工場で働く。それはよいとして、道徳的に低下した環境や、若い女性のためには苦痛の多い設備の場所で長時間働かされるということについては、当然な不安と不賛成とを感じた。今日当時の雑誌を繰り拡げてみると、何と到るところで「母親の再教育」ということが言われているだろう。娘や息子は、積極的にあらゆる戦時動員に応じようとするのに、家庭の母親がいつもそれを抑えるような気持を持っていることについて、陸軍や海軍の軍人、教育家、職業紹介所の役人達は口を揃えて、日本の母親は自覚しなければならない、子供を軍需生産へぶち込むことを躊躇してはならない、ということを、もっと違ったもっと英雄主義的な言葉で繰返し繰返し述べている。その消極的だと言われる母親が、現実にはどういう生活をしていただろう。働いて来る子供に、せめて体の足しになる食物を食べさせようと、自分で買出しの苦労もしていたし、防空演習も無理にやっていた。婦人会の動員に応じて、大して効果もないような眼の先の働きにも追使われていた。出来るだけどっさり買わせられる債券の消化に心を砕いていたのであった。こうして見れば若い婦人──生産面へ直接吸収された婦人達がさまざまの想いをしながら生きていた間に、年とった家の女性たちもやはり涙を抑え、歎息を笑顔にかえて生きぬいていたのであった。
婦人の結婚難が、めきめき増大して来た。若い彼女達にふさわしい青年達は、工場からも、会社からも、学校からも総て引抜かれて戦場へ送られつつある。婚約をしたり、或は結婚したばかりの人達でさえ、自分達の初々しい家庭生活を保つことは出来なかった。千人針を持って、電車の中や駅の前や勤務先などで縫って貰っている若い女性達は、その一つ一つの縫目にどんな想いを籠めていたことだろう。人間としてのさまざまの重い経験、苦痛と疑問とは、総ての家庭、総ての婦人、男子の心に等しく目覚めていたのであるけれども、それは、決して決して、言葉の上にも、行動の上にも、まして文字の上に、正直に表現されるということはなかった。日本の人民はそれほど無智であったのだろうか。それほど偽善的に生れているのだろうか。そうではない、種々様々戦時取締の規則を設けて、言論の自由は抑えられていた。出版に対する検閲は猛烈にやかましくて、何万種類出版物がふえようとも、それらの内容は全く、情報局編輯であるという点では、ただ一冊の本に過ぎないと同じであった。昭和二十年八月まで、日本の中には安心して口をきける場所というものがほとんどなかった。電車の中でも、風呂屋でも、買物の行列の中でも、いつも誰か姿のない看視人が人民の集るところには紛れ込んでいた。
「流言蜚語の取締り」は恐ろしく綿密であった。流言蜚語は、事実にないことを流布する一つの場合に当嵌められた言い方である。けれども、当時の日本の流言蜚語はその内容が違っていた。社会に対する正当の批評、希望もそれは取締られる「流言蜚語」の中に入れられた。そうしてうっかり買物のための行列に立っていると、陸軍のトラックがさっと走って来て、そうやって立っている時間があるなら洗濯でもしろと言って、婦人達を陸軍病院に連れて行くという人攫いめいたことも現実に行われた。憲兵の耳と捕縛する手というものは、殆ど人の集まるあらゆる処に張り繞らされた。雑誌という雑誌、本という本、演説という演説、それは総て人民の苦痛を抑えて、この戦争の「聖戦」であること、国民が辛抱すればこの戦争は必ず勝つこと、すべての責任は人民にある、ということを告げ知らせるためにだけ動員されたのであった。学校は、公平な歴史や、世界における日本の地位、科学を教えるところではなくなった。英語その他の外国語は優秀民族としての日本人に取っては必要でないとされて、中学校、女学校の科目から取除かれた。外国の市民の生活と日本の人民の生活とを比較するような機会は、戦争の必要としないことであったから、輸送とか、為替関係とかの名目によって、出版物の国際的な交換は禁止された。こういう状態の下に置かれた私どもが、どうして自分達がおかれた事情の法外さ、自分達の騙されている偽瞞と、最悪の社会条件を、客観的に理解して行くことが出来たろう。辛らければ辛い程、一日も早く戦争が終ることを希望した。若し戦争が勝たなければ終らないといわれるならば、早く勝って、早く終って欲しいと思う。勝つ迄は、と言われて、正直な日本の女性は自分の命までも犠牲に捧げたのであった。空襲によって、職場の傷害によって命を落した学徒や勤労婦人の数は決して少くない。不熟練でしかも熱心に長時間機械の前に立った時、職場の災害は非常に増大するのが当然である。しかし青少年工、女子労働者のために特別な危険防止の施設というものは考えられなかった。その暇がなかった。しかし暇のないことよりも最大の原因は、日本の政府が人民の命をどんなに消耗品の一つとしてしか見ていなかったかということにある。『主婦之友』の或る号を見るとはっきりと書かれている。「新兵器としての女子」と。
第二次世界戦争で世界は数々の惨禍を経験した。けれども、その惨禍の中から、なお世界が驚いて日本の戦法を眺めたのは特攻隊に対してであった。僅か十六七の少年を英雄的な情熱に駆り立てて、いわゆる必殺の戦闘をさせた惨虐さは世界を驚かした。そういう非人間的な犠牲に堪えている日本の母の心持というものが、世界を驚かした。けれども、それは日本の母に涙がないのではなかった。その涙を社会の前に流して、その理非を愬えるだけの母としての当然の自由が日本にはなかった。日本の婦人が封建的な習慣をもっていて、自分の感情を披瀝することを憚ったり、道理を公然と主張することを遠慮したりする習慣も、戦時中女性の愛情からの声を抑える結果になって、それは戦争を遂行するためには実に有効に利用されたのであった。私達は日本の社会のそれほどに根深い封建性と、それに慣らされた、自分達女性が、愛を守る智慧さえもなく、女の命と言われる愛情への権利さえも放擲して来たことについて、涙をこぼすというよりももっと無念さを感じるのである。
婦人の感情は、現実が苦しければ苦しい程、現実から離れて、前線にいる兵士達、或は若き空の勇士に対する憧憬、特攻隊の讚美の方向へと追いよせられた。女性のやさしさは、支配者によって、彼女たちの愛してやまぬ男たちを殺す刀に付ける虚偽の飾りとして利用されたのであった。キリストは神の名において戦争を合理化し熱心なキリスト教徒の女が、恥なく人間同士の殺戮に熱中した言葉を与えた。そのとおりに、日本の、「雄々しい女心」は、人民の破滅の方向へと、総て動員されて行ったのであった。小説から、和歌から、ふと眼に入るグラフまで、戦争を讚美しないものがあったろうか。今日になれば、それは全く嘘とわかった「皇軍の勝利」を描き出さないものがあったろうか。
こうして、現実の敗北と架空な戦勝との不思議な絡い合せのまま時が経つうちに、その矛盾の間から、深刻な社会問題が生れて来た。大河内一男教授が帝大新聞に青少年の犯罪の増加について書かれたことがあった。国民学校の上級生から中学、専門学校に至るまで、学徒は動員されて工場に働いていたのであるけれども、不規律な工場の労働と、青少年の正しい娯楽設備のない社会の実情とは、急に金を持つようになった青少年達の生活を、決して健全にゆたかにすることは出来なかった。その頃、日本の総ての娯楽機関は戦時目的のために縮小して、映画さえも軍事映画しかないようになった。金を持って、緊張する程の職能教育も授けられず、学校もなくなってしまった青少年達は、非常な勢いで社会的な堕落に染まって行った。未成年者の喫煙、飲酒、買婬は驚く程のスピードで無垢な少年達の生活を崩して行った。その結果工場の資材を持出して売ること、そういうもののブローカーをすること、盗んだ資材で、例えばラジオを組立てたり、時計を一寸修繕したりして、それで又金を儲けること、窃盗や詐欺が大変に殖え始めた。世間の注目はこのようにして始まった青少年の生活破産に対して鋭くなり始めた。ところが、忽ちそういう真面目な社会的関心は新聞その他の面に現われなくなった。解決策も対策も輿論によって形づくられないうちに、この重大な社会問題は、揉消されて闇に葬られてしまった。ちらりと現われて、社会矛盾の深い波の蔭に圧し隠されてしまったこの現象は、私達に何を告げているだろう。
繰返しくりかえし触れているように、この事実は日本の生産、経済の機構が薄弱であって、どんなに安い労働力、即ち婦人と青少年の労働に多く利潤を追って存在して来ているかという証拠である。明治社会の発達が、繊維工業によって、婦人の最大の犠牲の上に発展して来たのと並行して、日本の後れた工業は、半ば手工業的に、屋内労働的に小工場を日本中にばら撒いた。そこでは昔ながらの徒弟制度や、年期や、半封建的な青少年の労働条件が存在している。戦争が始まって、それらの小工場はみんな軍需生産の下請工場となった。急に生産を膨脹させると共に、労働の基本としたのはやはり賃銀の安い青少年労働者、そして婦人達であった。この青少年と女性の勤労を戦時的に利用する計画というものは、既に十数年前から着手されていた。大河内正敏は、今日戦争犯罪者として監禁されているが、彼が計画した「農村の工業化」の方式というものは、世界に類のない方法であった。最近まで日本の農村は知られている通りに一般には貧困であったし、文化の程度も後れさせられていた。理化学研究所長大河内正敏の計画は、軍需産業を都会に集中させて置くと被害を被るから、各地方に分散させようという表面の目的の外に、田舎の村の中に小さな作業所をどっさり拵えて、非常に簡単な分業を組織し、農村の婦人達がどんなに未熟練であっても、すぐその機械の操作を覚えて働いて、軍需生産の全国的な能率を上げて行くようにという計画であった。この計画について、私達婦人が当時も非常に驚いたことは、大河内は日本の農村における婦人達の世間知らず、忍耐力、従順を利用して、真面目に働かせることは有利であると、その著書の中に明言していることである。同時に大勢の労働人員を一つの工場の内に集めると、集団の力を恃んで近代的な労働者の自覚が出て来て、使う方としては不便になって来る。農村の村々に、切離して少しずつ女を働かして置けば、いつまで経っても、それらの勤労婦人達は、都会における工場の労働婦人のように団結することも知らないし、要求することも理解しない。その上、その労働に対する賃銀はそれぞれの「村の経済状態を混乱させないために」その村で女が内職をして得る賃銀に均しいものに止めて置くことが最上の方策であると言われたのであった。こういう婦人の労働力の搾取の方法は、おそらく、今日の世界に類のないものであったろうと思う。
アメリカでも、ドイツでも、イタリーでも第二次の世界大戦においては大幅に婦人の力が動員された。特にイタリー、ドイツにおいては日本と同様に侵略戦争を始めた立場から婦人の労働というものは全く悲劇的に、人民生活の破綻のために追立てられたのであった。アメリカとソヴェトとイギリスと中国、連合国側の婦人の労働力は、同様に強度に動員されたとしても、戦争の本体が平和の防衛のためであったから、現実にさまざまの問題は持っているにしろ、彼女達の犠牲も究極においては平和の建設というはっきりした目標を持っていた。しかし、日本婦人の労働力は第一、そういう人間らしい目的を持っていなかったし、国内の封建的な、そして又資本主義的な二重の搾取の方法は、この大河内の農村の工業化のような方法をあらゆる部面にはびこらして、社会的に発言権の少い婦人と青少年との上に重くかかって来たのであった。
農村の労働が男子出征に伴って、全く婦人の肩にかかったということは、説明する必要もない。女子青年が先に立って、婦人の馬耕競技会、草刈競技会、その他農業労働の重い部分を、どんなに女が成し遂げて行くかということを競争させられたし、農村における軍需食糧の供出は、又馬糧その他の供出は、都会に生活している婦人が察しもつかない程猛烈なものであった。農村では全く自分の家の梅の実さえも自分勝手に梅干に出来ないという状態で暮して来た。食糧の計画的生産、計画的配給は日本では手後れに計画されて、しかも各生産部門における能率低下の原因と反比例する増産の必要に追立てられた。男手を失った農村の婦人達が、割当だけの供出量を生産して軍需を充たし、なお自分のところへ幾らかの余剰を残すためには、肥料のない、馬のいなくなった、男のなくなった田畑の上で、骨が軋むばかりの辛苦を凌いで働きつづけて来たのであった。婦人達が燃料の欠乏、シャボンその他の洗剤の欠乏、繊維が悪くなって洗えもしないスフの製品が殖えたことなどで、毎日の婦人の仕事が一層困難になって来たと同じ時に、農村の婦人達が田圃で働く木綿着物がなくなった。手拭は足りなくなって来た。肥料・農具も足りない状態になって来た。実際生産用具はそのように欠乏に欠乏を重ねて来るのに、増産の必要は昂まるし、一方には正規の増産とその配給とを攪乱するような農業会、統制会、闇売買が横行して、農村では近年の一つの病的な社会現象として、物がないのに金はあるという状態になって来た。曾て日本の農村は一戸当り数百円の借金を持っているということが統計に言われて、農民の負債はいつも大きい社会問題になって来ていた。ところが最近数年の間には、全く逆の状態が現われた。つい先達てまで日本の農民は平均一戸当り一万円近い現金を保有しているということが報ぜられている。それで農村婦人の生活は、本質的に幸福になっているのだろうか。都会の勤労婦人に比べて、農村の婦人は食物は豊富であろうし、焚物も豊富であろうし、物と交換でなければ野菜一つ売らない習慣が出来ているから、おそらくは物にも不自由することが少いであろう。けれども、農村からどっさり前線に送られている男達は、まだ何百万と還って来ていない。夥しい戦死者がある。戦災を被った都会からの転出者との生活上の摩擦、昨今の供出の難かしい問題など、それは農村の封建的な土地との関係、家族の関係などを引くるめて、決して農村婦人の生活を、これまでよりも負担の軽い、楽しい明るいものとはしていないのである。
昭和二十年の始まりから、日本は猛烈な空襲を受けるようになった。大都会という大都会が被害を被り、多くの小都市が焼かれ、村々も軍事施設の余波を被って思いもかけない被害を受けた。この頃から軍需生産が急に能率を低めてきたと共に物価が上り始めた。昭和十六年以来昂まって来ているインフレーションは、表面上の労働賃銀をぐんぐん上げて、その頃までは物価の昂騰と労働賃銀の増大とはほぼ釣り合いを保って上向きに来たのであった。けれども、この頃を境として生活費の膨脹は熱病患者の体温計のように止めようとしても止まらない力で上昇した。しかし、労働賃銀というものはあらゆる場合に、物価高に追付くことは不可能であるから、二つの間の開きは破局的に大きくなって来た。このようにして総ての基本的な面で人民の生活が破綻し始めるにつれて、政府はそれに対する真実の対策を立て得ないから、ひたすら威かしつけることで戦争を遂行し表面の統一を保とうとして来た。一つの政権が、社会に対して現実の政策を失って、警察、憲兵の力で人民を沈黙させているという状態に立到った時は、もうそれは、支配的権力として存在する価値を失っている証拠である。例えば母親が落ちついて道理に従って子供を訓戒することができる間は、子供は母親の言うことも聴くし、親であるという尊敬も持つことが出来る。けれども子供に道理がある場合、母親がそれを静かに聴くことも出来なくなっていて、いきなり気に入らないことを一言言えばもう殴るという状態になった時、子供はそれを尊敬する母親と思えるだろうか。子供がそれを軽蔑するのは当然といわなければならない。国家権力というものもそれと同じではないだろうか。大本営報道が総て嘘であったということは、心から私共を悲しませ、又憤らせる。その偽りの報道のために人民は自分の最も愛する者を殺された。殺されることについて沈黙を守って来た。嘘で塗り固めた権力と表面の統一のもとに国内生活は恐ろしい破綻を孕み、戦局は一刻一刻と敗退の途を辿りながら昭和二十年の夏が来たのであった。
終って
一九四五年(昭和二十年)八月十五日。日本は無条件降伏をもって太平洋戦争を終結した。ポツダム宣言は受諾された。そして、日本の人民は初めて、これまでの長い封建的軍事的な専制政治の本体をむき出しに自身の前に眺めた。人民が人民のために、人民の政治を行う民主化の方向に新しい出発の一歩を印することとなったのである。
今や、私たち日本の人民は、自分たちの払った犠牲の全貌について、やっとその真実の幾部分かずつを知りはじめた。
太平洋戦争において陸軍関係の人的損耗、四九万六千人
海軍関係人的損耗、六六万二〇七九人
太平洋戦争開始以来一般空襲被害概況
死者 二四一、三〇九名
負傷者 三一四、〇四一名
家屋全焼全壊 二、三三三、三八八戸
家屋半焼半壊 一一〇、九二八戸
罹災者 八、〇四五、〇九四名
空襲被害の比較的大きくない府県は、僅に九府県にすぎない。四面海に囲まれた日本が、動く船として残しもった頓数は、海外にのこされた在留民・復員兵士の輸送にも事欠くばかりに僅かである。
統計で見れば、平面的に見られる家屋の全焼全壊の指数、半焼半壊の指数を、生活の現実の中で、具体的に、即物的に数え直して見るなら、そこには全く生活の全破壊、混乱の内容が現れて来る。夜具一枚、布団一枚、皿小鉢から下駄一足、傘一本、バケツ一箇に至るまでの損耗がふくまれている。その荒廃の中に、何とかして再び生活を組立ててゆく私たちの努力、辛苦は、資材難、輸送難、すべて最悪の事情の下に、これらの数字が、何百倍になっても表し切れない辛苦を齎らしているのである。
終戦と同時に、全軍隊の武装解除が行われた。軍需産業は直ちに閉鎖された。軍人は復員することになり、軍需産業に動員されていた五百五十万人の労務員は、殆んど全部が一旦は職場を失った。家々には、長い間待たれていた良人や父兄たちの姿が動くようになった。これは、辛棒に辛棒して来た婦人たちにとって、どんな喜びであったろう。前線、銃後の区別なく、互に互の命を気づかって暮していた家庭は、再び家庭らしいものを形づくることが出来るようになったと思われた。しかし、現実生活の隅々が落着いて目に映りはじめた時、婦人は男が還ったという喜び以上の、新しい驚愕と不安に、心づいたと思う。終戦直後、大きな軍需会社は即日職員の解雇をした。そして、一人当りいくらかの纏まった金を、解雇手当として与えた。軍人は部隊の解散に伴って沢山の資材を背負い出しもしたし、金も貰った。特に将校階級がトラックを使ってまで、軍の物資を分け取りしたことは輿論を激しく刺戟して、当時陸軍大臣が人民に謝罪をしたほどであった。残額は特殊預金とされたにしろ、戦災保険は五千円支払われた。解職手当、復員手当など、それぞれの家庭としては纏まった金が齎らされたであろう。けれども、これに対して、日常生計費は、日一日と高くなって、昭和十一年を百とすれば、二十年八月十五日は二千五百の指数を示して来た。二十五倍に物価は高騰した。これはマークの札束を鞄に入れて歩いて、街の乞食の小僧が「小父ちゃん一万マークお呉れよパンを買うんだから……」と言ったという一つ話が伝わっているドイツの大恐慌の七、八ヵ月以前の状態とほぼひとしい(『同盟世界週報』一三一六号参照)形を示している。最低二十五倍の物価の昂騰があるわけである。凡そ昨年の十二月までにたいていの家庭では、今までの貯金を使い尽し、復員手当、解職手当をも食込んでしまった。赤字は危険信号を鳴り響かせている。この赤字の中でどうして人々は生きているだろう。官庁などの月給は、今日の下駄一足、足袋一足に近い金額のまま据置かれた。特別の技能を持たず、収入の途を図れない人々が落ちて行くところは闇商売であり、賭博である。
戦時中、あんなに「愛国心」に愬え「非常時の国民的良心」に愬え「新兵器としての婦人」を動員した戦争犯罪の支配者は、このようにして家庭から引離して集めた人々にどういう配慮をしただろう。次の実話は決して例外唯一の場合でなかった。
或る大規模の軍需工場で、八月十五日即日傭員の解雇をした。平均五、六百円の金を貰ったところが、当時俄かの復員と輸送網の破壊されている状態から遠い地方から来ている娘達、遠い地方から徴用されて来ていた青年達は帰るに家はなし、汽車は利かない。況して海を隔てた土地から来ている人は乗って帰る船さえもなかった。工場側ではその事情に従って、十一月まではそれ迄のように寮で暮してよいという話合いをつけた。たいへん親切そうな待遇ぶりであった。しかしいざその生活が始まって見ると、様々な問題が起った。第一食事はその若い人々が、自弁で、外食券で、食べなければならない。外食券の食事が、どんな実質のものかということは、誰しも知っている。胃嚢は、つまるところ闇の食物で満たして行かなければならなかった。五、六百円の金が一皿五円のおでんを食べて、一山十円の蜜柑を食べて、何ヵ月もつというのだろう。男達は自然に博奕を始めた。女子従業員にしても、食物の事情に変りはない。これまでの過度の労働から俄かに働かない生活がはじまり気分は散漫荒廃して、正しい健康な慰安のない街々を歩きまわった。男よりはいずれ少いに決っていた解雇手当は、闇食いで減らされて行き、いつの間にやら集団的な売婬が始まった。その彼女達のある者は、故郷へ帰ったろう。或る者は、また違った職場で、若い娘らしい働きを見出したかも知れない。けれども、今日大都市が道徳的な苦痛として眺めている街の女の氾濫、その大部分が、見た眼にも全く素人である若い娘達の、生活に崩れた姿はどこから来ているのだろうか、これは決して簡単な道徳問題ではない。
女子挺身隊は四十七万二千五百七十三人という夥しい数であった。挺身隊以外に動員された婦人労働者の数は驚くべき多数に上っていた。その人達が俄かに職場を失った。物価は高い。しかも、家庭の中心的な男子がまだ前線から帰らないか、或は復員しても今まで勤めていた軍需会社が解散していたり、新らしい職場は復員職員を消化し切れない程一ぱいになっていたりする。失業の形をとらない失業者は日本中に満ち溢れている。推定失業者の数は千三百二十四万人である。政府は「しかし復員軍人は旧職場に帰れるし、女子労働者の大部分は家庭に復帰するのであるから実際の失業者というものは四百三十万ぐらいのものである」といっている。私達はこの数字を心に留めて、さて昭和七、八年の世界恐慌の時に世界の失業者はどうであったかということを見較べて見よう。
当時の世界の経済恐慌は未曾有の失業者を地球上に溢れさせたといわれている。総数は四千五百万の失業者があった。米国は百三十万、ドイツ六百万、イギリス四百万、日本四十七万であった。日本の四十七万という数字は前古未曾有のものであるとして非常に驚かれたのであったが、昨今のいわゆる実数というものは四百三十万になっている。十倍の失業者数である。
「女子労務者の大部分は家庭に復帰するのである」と言い切っているということは、何という厚顔な責任回避であろう。おのずから、殖える人数が楽しく生きて行けるだけの衣料と食物と燃料とが湧き出して来る家庭というような、魔法の小屋は、今日、日本のどこにもあり得ない。魔法の小屋でない「家庭」へ表口から帰された女子失業群が、溢れ出した裏口は、真直、街頭につづいているのである。
新聞には強盗、追剥、怖しい記事が日毎に報告されなければならなくなって来た。復員軍人がそれらの犯罪を犯すということについて輿論が高くなって、宮内次官は「世間の眼が復員軍人に対して冷た過ぎる」と、さながら人民に現在の社会悪の責任があるかのような口振りである。けれども、静かに思いめぐらした時、これらの復員軍人が秩序を紊す行動をする、その奥の奥の原因は果して何処にあるだろうか。この間、元特攻隊員が中心となって集団的な強盗をし、検挙された記事があった。そのとき、不幸な元特攻隊員が「俺達に義理も人情もあるもんか」と、押入った先で啖呵を切ったことが書いてあった。この言葉は短い。けれども、一個の人間として深い絶望のこころを示している。
前線から帰った人から、最後まで残ったのは兵士であって、指揮官は飛行機で疾うの昔に引揚げてしまっていたという話を、戦争が終ってからは屡々聞くようになった。そういうことは、この間までみんな秘密にされて来た。「戦陣訓」を書いた人物は、細君を離婚してまで、総理大臣として戦争犯罪者として掻き集めた財産を護ろうとした。軍人勅諭を日毎夜毎暗誦させて、それが出来ないとビンタを食わしていた将校たちは、遠い島々で、戦局が絶望になるとさまざまの口実をこしらえて飛行機で本国に逃げ帰った。そして戦功によって立身をした。「聖戦」といわれた戦争の本質は終って見れば虚偽の侵略戦争であった。銃後の生活は護られていて、家庭から離れる不安と苦痛とを耐えていた人々は、帰って来て、焼けた家の屋根を葺いたのは、憐れな妻子の手であって、国家の手ではなかったことを見出している。この人達は、自分の強いられて来た大きい深い犠牲に対して、どんな真実の償いがされていることを見出しただろう。権力に強制だけあって誠実の皆無であったこと。人間に対する真実の拠り所が心の内で失われた感じ。その虚無的な心持をどこへ、どう建て直すべきだろうか。人民に絶対服従を強いて来たこれまでの抑圧は、彼に正当な人民の権利の自覚に立戻って自分の破滅を救う方面に順序だてて物を考えさせる自主的な判断力は与えていない。義理も人情もない扱いを受けた、という深い深い傷つけられた感情は、不幸に強いられた無智から、大局より見れば、同じ強権に苦しめられた被害者仲間である市民の間に向けられて来ている。法律の上では、押入った人々は加害者であり、侵入された市民は被害者である。けれども、人民の生活と、それを徹底的に傷つけた支配階級の関係を実際に立って観察すれば、兇器を持って私達の生活を攪乱するその人々をも含めて、私たち人民がすべて、強権と犯罪的な戦争による被害者である。
このことは明瞭に自覚されなければならないと思う。そして最も不幸な加害者の形で現れている被害者の一部をもこめて、私達全人民は、女も男もこの破局から自分達の前途を救い、民族を高めるのはただひとつ自分達の結集した力の合理的な運営があるのみであるということを自覚することは、もう決して早すぎない。おそすぎたとしても早すぎることはなくなって来ている。
私共全人民の前には、重大な生活上の問題が押し並んでいる。先ず食糧問題に対して、政府は今日までどんな具体策を講じ得て来たろう。強権を発動して供出をさせると脅かしたり、輸入米が出来ると気休めをいったりするけれども、つまるところは、米の価格吊上げという、一層人民生活を破壊する方法しか実現していない。人民の生活を破壊した政府は、どれだけの実力を以て、今日その再建をするというのだろうか。いくつかの実例について見よう。昭和二十年十一月の初旬、日本の帝国主義侵略戦争の動因の一つである財閥の解体命令が連合軍司令部から発せられた。三井、三菱、住友、安田の四大財閥が解消せられることになった。日本を破壊に導き、七千万の人口を限りない苦痛に陥入れている財閥が、解体せられるということは私達の心に、何となしこの社会も、公平に向いつつあるという希望を与えた。総ての新聞が、この処置に賛成の声を挙げて、人々の投書を載せた。成程、これらの四大財閥の、中心的な機構は変化させられたし、或る企業の一部分は完全に解消させられた。ところが、ここに政府の戦時利得税、財産税についての法案が臨時議会を通過した。先達てラジオで読売新聞社の論説部員が、非常にはっきりと分りよく、私達の生活にとって、この戦時利得税と財産税というものが、どういう関係を持っているかということを説明してくれた。それによると戦時利得税は、戦争によって国内に生じた富の偏在を調整するために、少からぬ道徳的な意味をも含んだ性質のものの筈である。誰が考えても、戦争によって多大な犠牲を払い、生活を根本的に壊された人民大衆に対して、ほんの一部の軍需生産者ばかりが、巨万の富を積んで、謂わば彼を富ましたため社会事情によって惹き起された苦痛な食糧問題にも、住宅問題にも、インフレーションの不安にも、かけ構いない贅沢な暮しをしているということは、納得の行かないことである。その人達が、戦争という人類的な犯罪によって得た不当な利得を吐き出させられるということは正当の処置と思われる。
財産税にしろ、要らない金と、要らない土地を独占して、社会経済不調和の原因をつくっているよりは、一定限度に、富を平均化して行くということは肯かれる。ところが、ラジオの解説によると、戦時利得税徴収の方法と、集めた金の処分方法は私たちに極めて奇異な感じを抱かせる。一定以上の高額税は、四ヵ年支払延期の許可がある。毎日の暮しを見ていれば、僅か三ヵ月でさえ経済事情は大変化しているのに、これから先四ヵ年の日本が同じ経済事情でのろのろと這って行くものと、誰が思おう。四年間の猶予ということは、取りも直さず、ずるずるで払わないでも済んでしまうという可能性をもっていると、その解説者も明快に説明した。それは数十万円の税金を払う最も多額の利潤を得た人々のために、政府が考えてやっている便法である。より少い、より僅かしか儲けなかった人に課せられる税は、率は少くても利潤の大半を引攫うものであろうが、それに対しては猶予はないのである。彼等の戦時利得の規模は、不幸にも、政府を買うだけの額に達していないという意味である。
集めた税はどう処分されるのだろうか。私達は、その金を基礎として、当然人民の日常生活必需を充たす方法が考えられているのだろうと思っていた。しかし政府がしようとしていることはそうではなかった。その金で、戦時公債償却をするということである。それから軍需生産者に、補償金として支払われるということでもある。公債を私共の家庭で、どれ程持っているだろう。解説者は、大衆の中には一割位しか保有されていない公債であると言った。あとは大銀行、大企業家が保有している。その公債を償還するといえば、そのいきさつは最も単純な頭でも判断される。政府は、右の手から取った金を、同じ人間の左の手に握らせ、返してやるのだということは。……軍需生産に対する補償にしても、右の足に穿いていた下駄を、左にはきかえるというだけのことである。財産税について見れば二万円を限度としているらしいが、今日の金で二万円といえば、一円が十倍になっているとして二千円の実価に過ぎない。二千円と換算しなくても、日本の農家はこの数年間に経済事情を一変させた。二万、三万の現金を持っている農家は少くないであろう。都会の勤人にしろ、仮に今日の価格で見積れば、体一つにさえも一万円近いものは着けて歩いてもいるだろう。二万円という査定はどのようにされるか、これは重大な問題でなければならない。そしてこの財産税もつまるところは、また形を変えて最も富める者から順に大衆へと返されて行く。こうして見ると、それが発表された時には、さも財閥に対する正当な良心ある統制のように思われた戦時利得税にしろ、財産税にしろ、細かく本質に触れて観察すれば、それは悉く、大衆課税としての性質を持っている。この点はラジオの解説者が力説したところであった。
物価の狂気のような昂騰につれて、昭和二十年十二月は一ヵ月に一億円の貯金引出しが行われた。人民大衆は、命に代えた労苦や、はかない僥倖によっていくらか蓄積した貯金を、今日そのような勢いで消耗しつつある。そういう人民大衆が最も直接に最も容赦なく戦時利得税にしろ、財産税にしろ支払わされる立場になっている。……しかも、その金の行方は実際的には何の課税もないと同じな大財閥、大企業家に、政府が再び形を変えて払戻してやる仕組になっているのである。財閥解体は一つの表面上の見せかけに過ぎない。なぜならば現に貿易庁というものが設置された。賠償物資、見返り物資の輸出入を司り、国内生産の要を握るこの役所に、頭として据えられたのは三井である。三井は、日本の再編成された全企業を統率しようとしている。この事実は日本の政府が、一貫して財閥の走狗であり、財閥の利益を擁護することによって自分の利益をも擁護している人間の集りであるという事実を、告白しているものだと思う。現在の支配者の利害は、全人民の幸福と利害と一体ではないのである。
臨時議会は民主化する日本の歩みを示すように、労働組合法案を通過させた。この法案によって、ようよう勤労者が自分達の権利を自覚し、それを組織し、企業者たちの全国的な生産サボタージュと闘う行動に移しはじめて来た。昨今新聞が伝えているのは何かといえば、二月一日の「四相声明」である。これは労働組合法によって、ストライキの権利を持ち、集団的行動の自由を獲得した勤労大衆を威嚇しようとして「暴行脅迫又は所有権の侵害の虞ある場合にはそれを不法行為として断乎取締る。」という声明が、内務、司法、商工、厚生四人の大臣によって、発せられたのである。新聞を一枚でも読む人は、このような取締方針を布いて、生産に従う人々が生産を高めようとするために、企業家に対してとる必要な行動を統制している権力が、たった一つも資本家のサボタージュを取締る方策を立てていないことに注目するであろう。総ての新聞は、この点を衝いた。若しストライキが起るとすれば、若し大衆的行動が現場に起るとすれば、今日、それは勤労し生産する者が単に労働条件を改善するというばかりでなく、社会的必要を満たすためにより能率を増進し、より生産を増大させて、生産の真の民主化を計ろうとするためである。よりよく働こう、よりよく社会のために生産し、不安を解決しようとする勤労者らしい自主の熱心をもって、労務階級の利害判断と共にサボタージュしている企業家を刺戟するためである。総てのストライキと勤労者の行動の根本には、企業家の悪質なサボタージュがある。ストライキする労働者に対して、彼等は工場閉鎖で脅かす。働かないで食えるのは、企業家たちである。政府が最も「断乎」糾弾すべき本体は、このサボタージュのそれにある。しかし政府は、このことについては沈黙を守っている。自身、その企業家サボタージュと双生児の性質を持っている民主化へのサボタージュをやっている政府が、どのような決定的方法を執り得るというのだろう。
最低賃金というものが公表された。二十五歳から五十歳までの男子最低四百五十円。これは成程今までの諸官省の据置月給のひどさから見れば、一応適正な処置である。しかし家計簿と最低賃金四百五十円也というものを睨み合せて見ると、不思議なことが起る。国鉄の非常識な値上、公定価格の全般的吊上げ(タバコをも含む)が発表されている。今日、疎開している人口は、どのくらいあるか、疎開した学生の数は何人あるだろうか。疎開した勤人、疎開している学生は、都会の住居難から、たいていは遠距離を通勤、通学している。その人達の交通費は、この度の国鉄の値上によって、非常な打撃を蒙る。或る家庭は距離の関係から通学している息子のために一年に千円の交通費を予算しなければならないということになった。一家から主人と息子が遠距離通勤、通学していると仮定すれば、それだけでも最低賃銀四百五十円はどんなに脅威を感じるだろう。
更に瞳を転じて先程の戦時利得税、財産税ということをかえり見ると、これらの支払わなければならない税金は、やはり外見上、ましになったような四百五十円也の上にかかって来ている。そう考えると実質は果していくらの引上になるのだろうか。この計算は非常に難かしい。小倉金之助博士もこの関係の微妙さは、簡単な数字で現わせない、と言うであろう。
男子が四百五十円、女子は百五十円、この差別がまたまた尤もと思われない。男と同じに仕事に熟練し、永年勤務している婦人の能力は、現実に三分の一の価値しかないものであろうか。労働組合法は、同一労働に対して同一賃銀ということを、男女勤労者共通の立場に立って主張している。政府はその法案を通過させている。しかも現実には、女子最低百五十円也と示している。土地の有償自作創立案を政府が発表するや否や、日本中の大地主たちは、忽ち親族間に土地を分割しはじめた。そして小地主の土地をとり上げはじめた。
そもそも婦人参政権を認めたにしても、極めて形式的で誠意のないことにおどろかされる。婦人に参政権は認めても、民法、刑法上の婦人の差別待遇を変える意志はないと明言されていることも変妙であるが、日本の婦人が、公民権をもたないで、いきなり参政権を得ている事実には大いに注目しなければならない。公民権は、市、町、村等自治体の運営に参加する権利である。婦人が、公民権をもっていないということは、多勢の積極的な婦人が、自分たちの住む市、自分たちの暮している町や村で、直接身ぢかなところより政治の自主化、民主化に着手してゆくことを不可能とすることである。一握りの婦人代議士が、議会の中でどのようなよい計画を提案したところで、其を実現する上から下までの行政機構がこれまで通り、封建性と官僚気質でかためられているとしたら、どれほどの実益をもたらすことが出来るだろう。或る意味よりいえば、我々の生活に直接つながっている種々の行政機構の民主化こそ、生活改善のためには重要である。真面目で善意あるどっさりの婦人たちが、こまごまとした行政機構に参加して、日頃の要求を実現することこそ重要である。公民権についての政府の沈黙は政策の上の矛盾というよりも寧ろ偽瞞に近いと考えられても弁解の余地はなかろうと思う。
幣原内閣の無策と不誠意とは、既に人民のあらゆる層より批判されている。財閥解体という身ぶりをしても真実にはあらゆる方法をつくして大財閥の利益を守るために熱中している幣原内閣を信頼している者はいないのである。このように、すべての課題をときかねて今にも政権の橋よりすべり落ちそうに見える現政府が、あれやこれやと身をかわしながら、今日なお権力を保っているのは、どういう仕組みなのであろうか。この答は、簡単である。日本社会機構の内部にはまだまだおびただしい反動の勢力が、千変万化して生きながらえているからである。
幸福は誰の手によって
さて総選挙は来る四月十日と公表された。有権者総数は三九、〇八〇、九九〇人である。今年はじめて登場した婦人有権者は二〇、九一七、五九三名であり、その残りの一八、一六三、三九七名が男子有権者である。これをみると婦人有権者の数は一割以上多い。私達婦人の一票が、明るい民主日本の将来のために、人民全体のよろこびのために、どれだけ大事な意味をもっているかということを、私たちは真心をもって理解しなければならないと思う。
日本の婦人の生活の有様は、どうであったろう。そして、今日、どうであろう。それは、くわしすぎるほど、これまでに触れて来たとおりである。民主の社会では、婦人だけの問題、婦人だけで処理しなければならない問題というものを持たない。社会を作っている半分の人々の悲しみ、困難は、はっきりその社会全体の幸福と不幸とにかかわることとして、男女共通の問題として解決されようとするのである。
半ば封建的であったこれまでの日本で、いわゆる婦人問題が、どう扱われて来たかということを思い返せば、私たちは、深くこの事実をうなずくであろうと思う。例えば、明治三十三年に出来た治安警察法第五条を撤廃させようとして、どれほど歴代の婦人解放運動家たちは努力して来たことだろう。せめて婦人が政治演説なりともきかれるように、と、何度、この悪法撤廃の請願が議会に提出されただろう。しかし、それは決して実現しなかった。婦人解放運動家に対して、同性である婦人たちが、一種軽蔑と懐疑の眼を向けるほど、それらの人々の努力は無視されたのであった。ところが、歴史は推移して、昨一九四五年十月、日本の支配者たちは、人民に対する敗北の一つの大きいしるしとして、治安維持法を撤廃せざるを得なくなった。世界に類のないこの自由圧迫の根本的な悪法が撤廃された時、婦人に対して政治的自由を束縛して来た治安警察法の運命はどうなったであろう。
ここに極めて意義深い教訓があると思う。くりかえし味うべき実例があると思う。
ポツダム宣言を受諾しても、日本の現支配者たちは、決して正直に日本を民主化しようとはしていない。民主化した日本で、これまで自分たちがたのしんで来た特権を失うことを厭っている。この人々にとって、愛すべきものは日本でもなければ、日本の人民でもない。自身の安逸だけである。その事実を日夜目撃し、私たちの日々をその犠牲としていることはすべての人民にとってもはや忍び難い苦痛である。
日本を民主化し平和の建設を一刻も早く成就させ、日本の人民は己れの祖国を復活させる丈の力量と理性とをもつものであることを世界に示すことは、私たちの強い念願であると思う。
今日、民主日本の甦りのために、あらゆる人々が、民主戦線に結集して、封建性と反動性とを排除するために闘うということは、真心からなる一個の救国運動である。一党派の問題でもなければ、ましてや、時節柄という形容詞をつけられるような種類のことではない。
政府が無能であるとき、破局を救う何の実力ももたないとき、私たち人民は自らを救わなければならない。自らを救うことによって、愛する祖国を、人民のものとして生きかえらせなければならないのである。
こういう重大な意味をもつ日本の民主戦線の動きに対して、自由党が参加せず、と明言したことは私たちの鋭い批判を呼び醒したと思う。進歩党、自由党、日本社会党の一部の人はいずれも天皇制護持ということを唯一の旗じるしとしている。何故に、此等の人々の主張とその主張の固執とがあるのであろう。もし真に日本を愛するのがその論拠であるならば、愛する日本のあらゆる必要に応えて、誠心誠意動くことこそ本来の道ではなかろうか。現実はこのように切実に、社会生活全般に亙る人民管理の必然に迫られている。それだのに、何故、この人々にとって人民戦線はいらない、邪魔なことなのであろう。この人々の利益は、保守と封建と独占された富とを否定する民主化された日本の火にはならない。彼等の護持する本体は、自身の特権である。これに反して、私たち日本の七千万男女人民の生存の保証は、民主日本のより合理的な社会建設のうちにしか見出されないのである。
フランスの婦人達は、今度初めて参政権を得た。そして三十二名の婦人代議士を選出した。その代議士の大部分が、この度の大戦による未亡人であるということは、婦人と政治の問題について、深く考えさせるところがあると思う。喪服を着て立ったフランスの婦人代議士たちは、その胸の中にどんな希いを持っているのだろう。彼女たちの希望はよくわかる。地球上のあらゆる女性の真情と、沈着公正な精神を持つあらゆる雄々しい男性の希望とをこめて、二度と戦争なき世界を創ろうとする熱意に充ちているのである。第一次大戦、第二次大戦を凌いで来た、フランスの女性たちは婦人として最大の苦痛の中から起ち上って、自分達の新しいフランス人民の光栄のために平和のにない手として働こうとしている。その姿には感動させるものがある。
地球を血みどろにした第二次世界大戦が終ったとき、ローマ法王が、世界に向ってラジオ放送をした。彼は、全世界の婦人によびかけた。世界の婦人達よ、一人残らず起って政治運動をしなければならない。再びあなた方の家庭、夫と兄弟と息子達とを奪って、殺す戦争が絶対にない社会をつくるために、婦人達よ政治運動を起さなければならない、と。このことは私達の真心にも触れる言葉である。
日本に新らしく参政権を得た二千余万の婦人のうち、何十万人が、良人を失った妻であるだろう。その何万人が、息子を失った母であり、兄と弟とを失った女性であろうか。父を失ったあらゆる子供たちの将来の安寧と幸福を築き守るものは、共通の涙と奮起する心とを知り合っている婦人たちの実行ばかりである。
婦人参政権の問題がおこってより、お互によくこういう批評をきいた。日本の婦人は、実に自覚がなくて、自分たちの参政権さえも却って厄介がっている。参政権などよりも、やすい藷の方がよっぽど欲しいといっていると。
けれども、果して、それが今日の現実であろうか。
成程、新聞にあらわれた輿論調査などを見ると若い女性たちは、現在立候補している婦人候補者達に多くのことを期待しないとはっきり断言している。これは、寧ろ当然なことであると思う。少くとも、今日、潔白に、まともに日々を暮している人々は、現実の破局的な困難を痛感している。この歴史的難局を切りぬけるためには、各自の一票に極めて大きい責任がかかっていることを知っている。女のことを一番よく知っているのは女だから、という言葉の綾で生存の課題が解かれないことは、本能的に理解されているのである。女だから女へ、というような政治を思うよりは、幸、今日の日本の女性は現実に醒めているのである。
家庭婦人たちが、参政権よりも藷を、というこころもちのうちに、しずかに入って行ってみれば、そこは決してただの無自覚といいきれない、「政治」への批判が言葉にいいあらわされないで澱んでいるのだと感じられる。これまでの「政治」は、私たち人民の眼にも届かないどこかで、見たこともない一握りの人々によって運営されて来た。その「政治」から今日私たちの現実にもたらされているものはかかる結果である。政治なんかに用はない、と憤りをひそめた家庭婦人の捨台詞こそ、どんなに、これまでの「政治」に私たち全人民が見切りをつけているかということの端的なあらわれであると思う。本当に、私たちにとって、これまでの政治は一つも用がなくなっているのである。
これまでの政治に用はない、と背を向けている二千万の婦人が、では、自分たちの毎日の辛苦から脱け出たいと思っていないというのだろうか。それこそ全く反対である。どんなに主婦たちは、人間が生きるに足るだけの食糧の配給を願っていることだろう。出征して再び還ることのなかった良人をもつ妻たちは、どんなに、自分たちの不安が社会全体の連帯保証によって守られ、自分が安心して助ける場面と、安心して遺児たちを育て終せる条件とを求めているだろう。戦災者・復員者たちは、日を経るにつれて骨肉を噛む生活破壊の苦痛を味っている。
男女の学生は、せめて一日も早く教科書をもって、空腹でなく勉強したいと切望している。
日本じゅうの農村に、様々の形で、自主的な農民の組織が出来て、粒々辛苦の収穫物を、怪しげな官制農業会の手を経ずに、直接消費者に渡そうとしているのは当然である。
工場の労働者が、今日企業家の行っているサボタージュに反して、生産を管理しより多く、よりよく生産して、人民の生活必需品を作り出し、農村の生産必需品を、少しでも多く送ろうとしていることも肯ける。工場の人々がゴム長靴から硫安までを熱心に増産しようとしているこころもちは、私たち市民消費者が、すべての配給機構や町会を自主化させ民主化させていろいろの組合を管理して横流しを防ごうとしている努力と全く結び合ったものである。
家庭の婦人が、一つでも配給をましにしようと思えば、謂わば藷一つも必要なだけ欲しいと思うならば、それはとりも直さず、藷が道理に叶った筋を辿って、村から各自の台所へと運ばれ得る条件を自分たちで作らなければならないということに帰着する。これこそ、私たち人民が、人民の生活の向上のために骨折るに価する政治ではなかろうか。
去る二月十六日午後から、日本にはインフレーション防止非常措置として、モラトリアムがしかれた。瀕死の病人の体温表をみると、脈搏の数は益々多く、高く高くと青線は下から昇りつめるのに、体温は、命数のつきるにしたがって、低く低くと衰えて来て、終に十の字に、ぶっちがえになる。医者は、これを致命的危険のシムボルとするのである。人民の貯蓄は、昨年末から、大干潮のように減少しつづけた。反対に、物価は、上へ、上へと、のぼりつめて、二本の線を、もすこしのばせば、其は完全な十の字となってぶっちがうところ迄来た。モラトリアムをしくしか、政府のうつべき手はなかったのである。
けれども、モラトリアムの噂がひろがり、それが実現したニュースをきいたとき、私たちのこころには、数々の疑問が生じた。
モラトリアムをしかなければならなくなる迄に、政府は、どんなことをして来たか。疑問というのはこのことなのである。
さきにふれたように、政府はインフレーション防止という名目で、戦時利得税、財産税を公表したりした。しかし実行に着手しないで、時を過して来た。この間に、財閥、金もちたちは、十分脱税の方法と、財産隠匿をする時間を与えられた。事実、この税案が公表されてから後、それらの人々の濫費のために、目に見えて物価は高くなり、インフレーションは増大したのであった。
いざモラトリアムが公布されるという前日、殆どすべての銀行で、政府要路の人物、財閥たちは、手持ちの厖大な金額を、封鎖洩れとされていた五円紙幣に代えた。モラトリアムが公布されたとき一般の市民は忽ち小額紙幣饑饉で大困難をした。モラトリアム第一日に、各新聞の投書欄は、政治的醜聞として、その公表前に、一部の人々によって小額紙幣が独占された事実を指摘したのであった。これが、事実であった証拠に、政府は、周章して、五円札も封鎖されることを公表したのである。
それぞれの新聞が、モラトリアム家計の設計をのせた。同じように次の式をのせた。
手持現金旧券+(新円100円×家族人数)+500円以内の給料+300円+(100×X)
旧券は、それがどれほどどっさり在ろうとも貯金して、(封鎖されて)手持現金としては、家庭の人数当に一人百円ずつ新円にかえられる。それに、主人が五百円までの月給をとって来て、不足のときはその主人(世帯主)が、三百円までの貯金をひき出せる。それに、家庭の頭かずだけ一人宛百円ずつ引き出せる。其故六人家族ならば千二百円の生計が出来て、これ迄よりよいという風な解説が、どの新聞にも出されたのであった。
式は余り明瞭に、まるですべての人の生計がそっくりその通りであるかのように示されたので、私たちは何となしそれを自分たちの実際だと勘ちがいしそうであった。しかし、落付いて考えてみると、この式は、何と魔術の式だろう。
第一、いつの間に日本じゅうの給料が、五百円平均と定ったのだろう。私たちは、つい先頃、政府が男子三十歳──五十歳、最低賃銀四百五十円、女子百五十円と発表したことを覚えている。最低として四百五十円がきめられたのであってみれば、実際の給料の大部分は、決して其額にも達していないことを物語っている。五百円の最高給料というとき、まして其がモラトリアムの下では、全人口の僅か何割かを占める少数者の給料を代表していることが発見されるのである。
一軒の世帯主が婦人であることは、今日ざらだと思う。戦死者の未亡人、まだ帰って来ない軍人、海外在留民の家庭が、婦人の勤労によって支えられていることは普通としなければなるまい。この場合、最低百五十円と、男の三分の一にきめられた婦人の差別的な賃銀は、モラトリアムになってさぞ暮し難かろうからと、男子並に引上げられるものと、想像する人があるだろうか。
手持現金は一人宛百円ずつ家族の頭数だけ新円に代えられるということで、隣組に登録されることとなった。このとき、私たちの周囲には、どんな現象が起っただろうか。六人家内の家庭で、旧円が使える間の生計費をさしひいたあと、現金で六百円並べてすぐ代えた人が多いか。それとも、人数を掛けただけの百円を揃えかねた人の方が多かったか。
一人宛百円ずつ預金を引出せるときくと、その金は、誰にでもあって、誰かがちゃんと私たちのために用意してでもいてくれそうな錯覚をもちかねない。けれども、現実に、預金が干上ってしまった赤字破局だからこそ、モラトリアムはしかれたのではなかっただろうか。一人百円ずつ引出せる、といわれても、引出す金はもう大体において尽きている。
こういう疑問にみたされながら、私共は従順に、十円札に小さい皮肉な膏薬のように貼紙をつけ、三月三日という暦をはぎとった。
旧券封鎖で、物価はどうなるかと、目をみはって来る日を迎えた。配給になった米は、今度から約三倍の値上りをした。町会費も、今月から三倍になった。省線に乗ったらば、二十銭区間が四十銭になり、三円の回数券は、九円である。闇市場では、ミカンや汁粉は、とぶようにうれて、やすいものは売れないと、新聞は報じている。やすいものといっても、十五円のものが十円に下った程度であるとも報じられている。
水道十二倍、ガス六倍の値上げが予告されている。私たちの眼は、大きく大きくと見開かれてゆく。生活は、どうなるのだろうか。今日そう思わない人民大衆は一人もあるまいと信じる。全く私たちの生活は、どうなるのだろう。
三月四日の新聞は「月五百円『当局の家計簿』標準は都会五人家族」という記事を出した。
日本の人口統計では、一家平均の子供数五人とされていたのを思い起して、この記事をみる人々は、おのずから肌に粟を生じはしないだろうか。子供だけでさえ五人平均とするならば、その両親、年よりまでを加えたら、何人家内になるであろうか。「標準」から溢れ、はみ出した二人の人間、或は三人の人間は、何で生きて行くという「標準」なのであろうか。
これらの記事と並んで、同じ紙面に、新円六十万円の泥棒。若い娘の失踪六十一名。幼児誘拐も報ぜられている。天然痘、発疹チブスの危険も全市にひろがろうとしている。
これらすべての危期が、愛する日本を覆い、私たちの時々刻々を脅かしているのである。
四月十日の総選挙をめざして、各政党が、どう党費をまかなっているか、「国民的監視が必要」と云われている。十五億九千万円の動産と百三十五万町歩の土地とをもつ日本の君主は、この波瀾万丈の日本全土を巡って、自身の宣戦によって戦争が引起され、全人民の生活が破壊されている光景を前に、人民投票をさせようとしている。
生きようと欲するのは男だけの希望であろうか。子をもっている雌虎は、雄よりも強い闘争力をもっている。このことは、どんな猟師も知っている。私たち婦人は、生きることを欲している。美しく幸福なわが日本に、よろこびをもって生きることを望んでいるのである。
人まかせにして、今日の破局が生じている以上、私たちが、もう人まかせにはしておけないと思って来ているのは、理の当然ではないだろうか。
人民のための人民共和の政府がもたらされなければ、結局、婦人のために保育所一つ、授産所一つ作られないことが、わかって来たのは必然であると思う。モラトリアムと生活費値上りの恐ろしいばかりの食いちがいによって、人民生活は極限へ追いつめられようとしているのに、政府は、まだ、軍需産業補償のことをいっている。封鎖した人民の金で、もう十分儲けた軍需成金を猶この上にも補償して、その裾わけにあずかろうとしている。軍需産業補償金があるならば、その金こそ、戦死者未亡人その家族の生計保償のために、戦災者の生計立て直しのために、公明正大に支弁されるべきだと思うのは、誤った考えであるだろうか。
今日、日本には五百八十三万人の失業者があると、モラトリアム公表の日の新聞にかかれていた。八十三万人は、三月までに就業する見透しであると報じられている。
だが、私たちは、注意ぶかく、事のいきさつを見守る必要があると思う。例えば、国鉄の従業員が、生計費の値上りに耐えかねて待遇改善の要求をした。そしたら、国鉄の運賃は、飛び上った。昔から辛棒づよい社会勤労者の代表である逓信従業員が、生きなければならない、という共通の必要から、困難な対立に入った。逓信院では、ハガキ二十五銭、封書五十銭の値上げを考えているのである。理由は多額となった支出をまかなってゆくためであるとされている。
逓信従業員たち、国鉄の働く人々の生活の実体は、何たる悲劇的めいたものとなるだろう。勤めている男女の従業員は、幾らかの割増しのついた給料を家へもちかえるとしても彼が、知人の安否を問い合わせる一枚のハガキは二十五銭になる。更に私たちが、周到な理解をもって知らなければならない重大なことがある。それは、工場、官庁その他の公共的な場面に働く勤務者が、私たちと全く同様な生活の必要から一定の要求をすると、当事者たちは、その要求を拒絶出来ない代り、忽ち、その結果を、一般市民これを見よ、とでもいう風な、其々の部門での値上りとして反映させることである。
官僚的、財閥的なこういう技術が、もし私たち人民に仲間われをさせ、一般消費市民と勤労者、農村と都会との対立を生むならば、これほど反動のよみがえり、専制支配の復活に好都合なことはない。何故なら、それを日本人民には、自治の能力、民主の方法がまだ分らないという口実につかい得るのである。
今日心ある人々は皆正当な、合理的で平和的な人民の食糧管理が大切であると、考えている。そのために、秩序と組織性をもって、町から村へ、村から町へと民主的に統一された線の出来なければならない事を痛感している。
政府は不手際な強制供出方法によって供出を拒んだ農民は投獄されなければならない規定までこしらえた。都市消費者が、供出しない農民を怨み、窮した揚句に都市内が騒がしくでもなるとしたら、どういう結果になるだろうか。その動揺こそ、今は表面から姿をかくしながら、虎視眈々と機会をうかがっている旧軍閥、反動者のつかむところとなる。「鎮圧しなければならない」口実を、人民自ら呈供するほど、今日の日本の民衆は無智であるだろうか。或る種の似而非政治家は、食糧その他の人民管理委員会というものを、さも革命的なもののように誇張して、日本の民主化の今日の段階を無視した二重権力というような理論をつくり上げている。歴史の必然のない、観念の社会主義へ挑発している。私たちがこの日本を民主化しなければならないという今日必然の条件は、日本の明治維新当時、ブルジョアジーが、半ば封建的な自身の歴史性から中途半分にしか日本を近代民主化させて置かなかったというところから起っている。婦人を、男子と等しい社会の成員として認めることさえし得なかった社会の半封建の性格が、今日までのこっているからである。出発の初から封建的であった支配階級は、そのまま自身の特権を守って益々反動となってしまった。今日の日本の民主化は、明治にやりのこされたブルジョア民主主義化の完成という過程なのであるけれど、その初めの担当者は先にくりかえしふれたように、もう自身で民主化してゆく発展の能力を失ってしまっている。従って、新しい勤労人民階級がその原動力とならなければならない関係に立っているのである。
民主戦線といい、人民が自身の幸福への道として民主なる共和政府を設計することは、一つの社会発展の足どりとなって来ているのである。
細々として日常生活に即した要求が、婦人の特色ある社会性としていわれて来た。けれども、今日の私たちが婦人として感じ、それを無くしたい不如意の一つとして、大きくひろい全般との繋りであらわれていないものがあろうか。婦人だからモラトリアムにかかわりない、という架空の天国は、地上にはないのである。女性という性に即した実例を一つ考えよう。戦時中、婦人たちは何といわれただろう、あのように、生めよ、殖えよ、と励まされた。今日、同じ女性は何といわれているだろう。日本の人口問題は重大である、として産児制限の輪は、生めよ、殖えよ、と云った権力のその面前で闘わされている。五百円は五人家族「標準」といわれている。女性の性そのものの自然さ、高貴ささえこのように方便によって翻弄されるとき私たち婦人の胸にはほとばしる熱い思いがある。純潔な怒りが燃えるのである。母性はゆたかに、愛らしい子供たちは地にみちて、しかもそれを育て上げられる社会の条件、施設をこそ、女性は求める。それ故にこそ、母性の保護として、子供たち自身の幸福のために、科学的な調節の自由はなければならない。私たち婦人は、現支配者たちがひきおこした戦争惨禍の責任を糊塗しようとして、政府の無能を彌縫しようとして、云々する産児制限に、決して無条件に母なる肉体をさらそうとはしないのである。
今日の私たち日本の人民は、日本の生活がこのようにも艱苦にみち、引裂かれているからこそ、ひとしお、わがふるさとを、深い心に抱きとっていると思う。建設のための犠牲の日々であるからこそ、おのおのの生を厳粛に自覚し、新しい民主日本のために其の価値を、一杯に活かそうと思っている。そのために、すべての婦人は事理明白であろうと願っているし、無限の若さを、その最後まで惜しまず新しい日本のために注ぐことを切望している。穢い手がわたしたちの肩にかけられたとき、婦人はどうするであろう。その手を、ふり払って、自分の道を進まないものがあろうか。日本婦人のやさしい雄々しさは、それを逆用した穢い手から奪いかえされて、自分と自分の愛するすべての者の幸福の確立のために、まめに、うまずたゆまず、昔ながらの温かさに今日の叡智と覚醒とを添えて、働かなければならないのである。
底本:「宮本百合子全集 第十五巻」新日本出版社
1980(昭和55)年5月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
1952(昭和27)年1月発行
初出:「私たちの建設」実業之日本社
1946(昭和21)年4月発行
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年6月4日作成
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