幸福の建設
宮本百合子
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今日のこの場所は割合にせもうございますけれども、この前の第一回の時においで下さいました方は、よくくらべればおわかりになるでしょうが、この場所は何かクラブの集まりの場所には気持がよいと思います。今に皆さんもっと大ぜいおいでになるとちょっと場所がせもうございますけれども、今日のようだとあまり話す人とお聴きになる方との距離がない、いわば同じ平べったいところで話すのがクラブの気持なのです。今日は月曜日ですし、お仕事のある方はいらっしゃりにくかったわけですけれども、いま櫛田さんがおっしゃいましたように、わざわざ遠いところまで出ていらっしゃって、いろいろなお話をお聴きになりましたり、自分達でお話になることもよろしゅうございますけれども、そのほかにお勤めになっているところやお住いになっているところで、お気持の合った方がお集まりになって、むずかしい問題もむずかしくない問題も、日常的な問題も、お魚をどうするかということから、お米の配給が遅れて困るがどうするかという話から始めて、いろいろな今の食糧問題の解決を試みている団体がございますから、それらの団体と結びついてそういうものの指導とか研究とかをあなた方もなさいまして、団体が実際的にお動きになってゆくようになさいませんと、ただ珍らしい人や何かを呼んできて話を聴いているだけでは、あなた方の御活動が昂まって参りませんから、そういうようにやってゆきたいと思います。
きょう私のお話する題は「幸福の建設」ということなのですけれども、先程お話になった新居さんは昔からフェミニストなのです。いろいろ悪い時代にははっきりしたお話が申上げられませんから、ナンセンスのようなことをいっていらっしゃいましたけれども、今日などのお話は新居さんはお気持がよかったろうと思います。お年はあまり若くないけれども、お心のなかから若い女の人達に将来の希望をもってお話になったのは愉快だったろうと思います。あのお話のなかに、人間は雷さまみたいなものも自分達の幸福のために電車や電気アイロンにしてきたというお話がございましたが、そういう天然の力でさえも自分達は自分の幸福のために使うのですから、人間がこれまで生きて参りました歴史などは、もちろん私共の幸福のために使えるものでありますし、またいわば歴史そのものが人間がどういうように幸福に生きようかと努力して参りましたその足跡なのです。今日、民主主義とかいろいろなことが申されておりますけれども、私共は何しろお互い様にこの五ヵ月ほど前には、見ざる、言わざる、聞かざるででくの坊になって暮していたのです。ですから急に何でもいってよいということにもなり、また同時に自分達の責任をもって行動しろというようなことをいわれます。差当ってこの一票というものを私共はどういう風に使うかという問題さえ起ってきておりますが、急に寝ているところを起されたようなものでございますから、考えていることはもちろんあるのです、わかっている筈のことはたくさんございます。だけれども何だかそこが痺れたみたいで、うまく急に活動できにくいような気分があるわけです。だから婦人民主クラブのようなところでは、だんだん長い間にゆっくりとみなが成長して参りますために、しっかりした足どりで自分達の生活を建設できるために、みながより集まってやってゆこうとするところですから、性急に何をどうしようという必要もないでしょうけれども、しかしたとえば民主主義と申しましてもどうもよくわからない、封建的と申しましてもよくわからないということもあると思います。それで私は今日はごく簡単ですけれども、三つの歴史、私共の生活のなかにある三つの日本の段階というようなものを簡単に申上げてみたいと思います。
まず日本は大へんに封建的な社会であったというようにいわれております。新聞でも何でもたくさんいわれておりますし、あなた方御自身も「それは封建的だわ」というようにおっしゃる。その封建的と申しますのは、ではどういう社会が封建的なのであるか、それを考えてみますと、封建的な社会と申しますのはいつも殿様と家来というものがあったわけです。それから土地と農民との関係では、大きな地主が土地をもっていて、そこで働く農民はみなその土地を借りて小作して、そして領主や地主に納めるものは現物であったのです。つまりお米とか麦とか、いろいろの野菜とか、鶏とか卵とか、或はお餅でもよいし人蔘でもよいのですが、そういう現物をすべて納めていた。そういう関係をもっているのが封建的な土地と農民の関係でございます。それから社会の身分で申しますと、領主というものが絶対の権力をもっていた。日本では殿様がうんと権力をもっていた。その次にはその土地における地頭とか名主とかいうものが権力をもっております。お百姓さん達はそれに絶対に服従していたのです。そして女の人の封建時代の立場と申しますものはどういうものかといえば、それは全く男の人の言うなりであった。いうなりと申します以上に、男の人の便宜のための生物であったのです。だから結婚などと申しましても、何も女の幸福ということが眼目ではございませんで、昔からたくさんあるいろいろなお話をお読みになってもわかる通りに、戦国時代の女の人と申しますのは、父や兄という人達が戦略上自分が一番喧嘩しそうな敵へ人質として自分の妹や娘をくれるのであります。そして一時講和条約の人質にしたわけです。そういうようにして結婚させられました女の人がどんな生涯を送ったかと申しますれば、幸にしてそこで無事に子供をもって一生終ればよかったけれども、なかには自分の実家の兄弟と夫の家族とがまた再び戦さを起した時には、その女の人達は自分の家族の血統のものだから、生んだ子を捨てて実家の方に引取られる。或はまたそれに満足しなかった女の人は、自分の親兄弟の兵に攻め立てられて城のなかで自害して死んだという例がたくさんございましたし、また人間らしい気持で私共ひどく感動させられる話もなかにはある。それはやはり戦国時代の話で、私共その名は忘れたのですけれども、ある大名の娘が大へん美しい人で、やはり人質のように結婚させられて娘が三人ございました。ところが自分の親達と夫とが戦さを始めて、いよいよ夫の城に火をかけられることになった。そして明晩城に火をかけるからお前達は逃げてこいという密使がきたわけですが、その時に女の人は何と申しましたかといえば、私はもう女として生きることはこりこりだ、自分は今までに二度結婚させられている。初めはやはり人質としてよそへ片づけられたが、その人からもぎ離されてこの人と結婚した。自分はその人を愛しているし、その人も自分を愛している。それに子供も三人いる。自分がもしここで兄や父親の手許に引取られたならば、自分は不幸にして容貌がうるわしいから、三度も四度も都合のよい贈物のようにしていつもいつも敵にまわる人の手にばかり渡されるだろうし、自分は自分の愛情のためにもそういう目にあうことは結構だ。また自分の娘達の生涯というものも考えてみれば、あまり可哀想だ。娘達も美しい可愛い娘達だから、大きくなれば自分と同じような人生を送るだろう。自分はそれを防いでやる力はない。だから自分と娘達は自分達の愛情をもっているところで死にます、といって何度も何度も迎えが参りましてもそれを断って、とうとうその三人の娘を刺殺し自分も自害したという話があります。これは名前を申上げたら皆さんよくおわかりになるだろうと思いますけれども、私はずいぶん古く読んだので今思い出せないのですが、そういう女の人の不幸の生活があります。そういう人達はたくさんの召使の女の人にかしずかれて手取り足取りされて、自分の帯を結ぶことも髪をゆう必要もない生活をいたしましたけれども、人間らしさはそのように無視されてきたわけです。
ところが明治の日本になりましてから、いろいろの点で生活がかわって参りました。たとえば法律というものができました。昔の封建時代は殿様が絶対的の権力をもっておりましたから、自分の臣下に対して生殺与奪の権があった。生かそうと殺そうと殿様のお気儘という状態なのです。ですからちょっと気に入らなければ、お小姓が茶碗を割ったといって首を斬られますし、お菊みたいにお皿が割れたといってお化けになるほどいじめて殺されるほどの目にもあわなければならなかったけれども、明治の世にいくらか近代の国家になりましてから、とにかく法律というものができました。民法とか刑法とか商業に関する法律とかいろいろの法律がたくさん出ました。そして法律によって治められる国ということになりました。ところが明治時代から今日までにできた日本の憲法、民法、刑法その他のものを見ました時に、先程もいろいろの方がお話になっておりました通り、それは法律の恰好はしていても非常に変てこなのです。たとえば繰返し繰返しいわれているように、女の人が一人前になって結婚すれば一家の主婦ですから、今までの娘さんよりもっと責任がある筈なのですけれども、とたんに無能力になってしまう。つまりとたんに一人前でなくなってしまう。現実の生活と正反対なのです。そして分別のある立派な人が分別のないものとして財産を処理することも借金することも何にもできなくなってしまいます。それはたいへん不思議なものです。民法という大へん進歩的なようなものがあって、人民はどれだけの権利がある、どれだけのことをしてよいかということがきめられてありますなかに、女というものは裏返しになってそこに現われているわけであります。それから刑法はどうかといえば、民法とは逆に女を一人前として取扱っております。たとえば先だって子供を電車のなかで押し潰されたお母さんの話などは、あれは民法と刑法の裏返しのひどい例を説明いたします。このなかにたくさん奥さんもいらっしゃると思いますけれども、そういう方達は御自分が無能力だと思っていらっしゃらないし間違いとも思っていらっしゃらない。ところが民法では無能力であっても、もしあなた方が間違えていろいろな失敗をしてそれが刑法にふれますと、たちまち能力者になって、罰金をうけるのはもちろんのこと、ことによると牢屋に放り込まれて、いろいろな目におあいになることがよくあるのです。女の人が不幸になる条件を少くする筈の民法では半人前なのですけれども、不幸になってしまった結果に対しては、男並みの十分の責任を婦人は負わされております。そういう矛盾が民法とか憲法にございます。それから只今選挙がありますけれども、私達には公民権がない。だから私達はいろいろな行政機関のなかに役人として入ることができない。婦人がそこの機構のなかに入って働きますならば、配給の問題とか食糧の問題とかだいぶ実際的でよろしいのでしょうけれども、そういう役人になるための公民権はございません。
それから今までの日本は半分近代化して半分はまだ封建的な気分が非常に強く残っております。それは言葉で申しますと、華族とか士家とかいうのはやかましい規定では身分なんですけれども、家庭のなかでも、同じお魚でもお父さんや何かにはお頭のよい方を差上げる。お魚の目玉にはビタミンAがありませんけれども、頭の方には栄養があるのかも知れません。とにかくお頭という意味で家のお頭に差上げるのでしょう。ビタミンが多いから差上げるという親切からでなく形式で差上げる。お頭にはお頭を差上げて、切身の尻尾の方は主婦がもらう。ところがこの頃のように尻尾のない場合もある。そうすると女の人は一切も食わずにがまんする。それを皆さんはお笑いになるから、恐らくあなた方の御家庭では、切身が三つしかないものでも半分ずつつけて召上っていらっしゃるのかと思います。それは大へん結構だと思いますけれども、よく女の方が一軒の家庭の話をなさいますと、「一切のお魚しかないものならばみなが食べるようにして暮したいわ」とおっしゃいます。それは何でしょうか。それは女の方は辛抱強いということなのです。旦那さんより奥さんの方が遠慮して三歩でも半歩でも後ろの方に引込んで歩くもの、そのような気分が往来を並んで歩いていても何かあなたのなかにあるのではないでしょうか。そういう身分の差別が夫と妻の間にあるばかりでなく、お嫁さんと姑さんの間にも、やはり日本の半ば進歩し半ば封建的であるという関係がよく現われていると思います。皆さんどういう御経験があるか知らないけれども、お嫁さんと姑の関係は、お互い同士悪い人達でなくても非常にこじれるのです。それはなぜかと申しますと、女の方は家庭が仕事でございますので広い社会的な生活をいたしませんから、お婆さんは何十年となく漬物を漬けているから、菜葉はこれ位の塩をつけたらまず食べられるということをよく知っておりますが、若い人はもう少し科学的です。だから気候による発酵度とかいろいろなことを考える。女子大学などには家事のいろいろの表がございます。そういうものがあっていろいろ考えていらっしゃるから、ある場合には大へん新しい正しい方法をなさるし、年とった方から見れば「そんな面倒臭いことをいわないでも手加減ですよ」と、おっしゃるような場合が非常にあるのです。そういうことから、「どうも今時の勉強した若い人は理窟ばかりいって、つくったものを見れば何にも別によくできていない」といわれるし、また若い人は「同じやるなら科学的にやってみたいわ、失敗してもいいから試みてみたいわ」という気持がある。そういうところから意見の相違がございます場合に、そこに身分ということから、お嫁さんは姑に従うものなりということがあるのです。それで昔から日本には女の人は親に従い夫に従い老いては子に従うという言葉がありまして、夫に従うとともにお姑に従うという習慣がありますから、家庭のなかで伸び伸びしてみなが相談して明るくやってゆくという気分が阻害されます。つまり人間らしいものが失われて参ります関係が封建的なもののなかには非常に多いのです。皆さんは菊池さんが「忠直卿行状記」というのを昔書かれたのをお読みかも知れませんけれども、封建時代の殿様は絶対に人間扱いではございません。何でも御無理、御尤もなのです。だから昔の殿様の家の仕来りがあるでしょう。こういう風にしてはいけない、こういう風でなくてはならない、こうであるべき筈のものという仕来りがたくさんございます。ところがひとり忠直卿という気象の少し激しい本当のことを知りたい人間が、可哀想なことに家来だったらよかったのに封建の殿様に生れてしまった。周りの人間はその人の気質、人間らしい要求を理解することができないから今までの殿様扱いにする。たとえば将棋をするといつも殿様が勝てるようにする。そこで俺が勝つばかりでは詰らない、少しは負かしてみろというと、今度は機械的に負ける。つまり人間らしいむき出しの交渉がない。忠直卿は激しくて何でも人間の本当のものにふれてみたいのですから、今度は向うに理窟があるだろうというので怒ってみる。そしてその時は人間らしく反撥してほしい。いや違います、そうではありません、といってもらいたい。ところが、やはり殿様ですから、恐れ入ります、おっしゃる通りです、というだけです。おっしゃる通りではないじゃないか、こうじゃないかといっても、成るほどそれはおっしゃる通りです。それで忠直卿は終いにむしゃくしゃになってしまった。当時の封建的な時代には殿様を廃業してそこらの人間になればもっともっと人間らしい生活ができるということがわからない。そこで殿様は煩悶して家来を手打ちにしたりして乱暴するものですから幽閉されて、子供に殿様の位を譲って隠居させられてしまう。ところが隠居させられたら忠直卿の性格は一変して非常に寛大で愉快に笑う男になったので人はびっくりした。殿様はあんなに虫が強かったのにどうしたのかというわけで、殿様にあなたはどうしてこんなにおかわりになりましたかと聞いたら、「とにかく俺はやっとこれで人間になれたよ」というのが菊池さんの小説なのですが、この封建的な関係は人間を人間らしくなくするものなのです。それを私共はよく考えないといけない。自分達の生活をよくするために自分達の心のなかでいかに親切に考えてもその親切が届きません。人間の関係はこの社会にあるわけなのです。たとえばあなた達は慈善の深い方達だろうと思うのです。だけれども、お勤めや何かからお帰りになる途中で、いきなり人が出てきてハンド・バッグを掻っ払おうとした時には、あなた方が慈善深い方でもお渡しになることはないと思います。そのなかにはやってよいものが入っているのではなくて、やって悪いものがそこに入っているのです。だから人の心というのは抽象的には申せません。お互いによいとか悪いとか動かないものがあるのではなくて、関係によってそれが起ってくるのです。お互いに憎まざるを得ない関係になれば、どんなによい人とわかっていても憎まざるを得ない。だから人間の関係というのは、遅れている社会関係を私達がはっきり取除けてしまいませんと、いかに心のなかで進歩的でありましょうと、心のなかにいかに希望をもっていてもそれは実現できない。またあなた方がいかに大言壮語なさり、私達があぶくをどんなに出してしゃべっても、お互いに結婚している人間ならば無能力であるということはいざというとたんになれば同じなのです。それをかえるために私達が集まってこういうようにお互いに話をいたしますけれども、人間性というものは徹底的な善人もありませんし、徹底的な悪人もないのです。もし徹底的な善人と徹底的な悪人しかないならば、この人類は一つの小説も書きません。なぜならばそれはよいことも悪いこともはっきりわかっているのですから。いろいろな関係で一生がかわり、無限の喜びと無限の悲しみが隣り合せにあるから、私達が自分の人生を真直ぐ見立てて参ります時に、この人と人との関係、つまり社会の関係において、自分がどのように生きているかということを理解しなければならないと思います。自分ひとりで生きることは絶対にできません。それはあなた方がどんなに美しい心をもっていらっしゃっても、電車の屋根から二尺ほど足を出して乗っていらっしゃることはできない。あの虱が落ちているかも知れない、発疹チブスがうつるかも知れない、あの汚い箱の中に乗って同じ軌道でこなければここへいらっしゃれない。社会というものはそういうものであります。だから電車を清潔にすること、発疹チブスをなくすること、それは社会的な問題として私達みなが関係のあることになって参ります。社会的生活が一人一人の生活に影響がないならば、私達が発疹チブスでないならば、東京中に発疹チブスが起っても平気かといえばそうではないでしょう。そこにお互いの生活は切っても切れない関係にあるということ、関係によってよい人もちっともよくない人になってしまうということ、だから関係はよく正さなければならないということは、私共の民主化ということの一番根本にあるところの問題なのです。人間の精神、人間の心、生き方の問題です。
そのようにして日本は民法にしても刑法にしても、いろいろの身分の関係にしてもそうですが、アメリカやイギリス、フランスにしろ、民主主義的な経験からすれば日本よりも進んでおります。そこでは民主主義はどんな風に行われているかと申しますと、日本では半封建的ないろいろな身分とか憲法上、民法、刑法上のいろいろ遅れた分子が混っているので、今日そこから民主主義的になろうとしておりますし、アメリカは御承知の通り国を始めます時から、イギリスやフランスの古い国のいろいろな宗教的の重荷とか税の問題とか貿易の問題、生産の問題ということで、自分達がそこでは窮屈で息詰ってしまってたまらないような人達が、勇気をふるって船に乗って、海を渡ってアメリカの大陸に参りまして、そこで初めて自分達が耕し自分達が働きつくり、自分達がそれを売り捌く。そして自分達が自分達の政治の決定権を最後までもってゆきたいという人達の社会です。ですから、アメリカにおける民主主義はアメリカができる初めから発足いたしました。だからそういう意味においてアメリカは日本よりも民主主義の経験の深い先へ進んだ国ですけれども、しかし、それならば社会の関係はどの程度まで本当にみなの人が幸福に暮らせるように進歩しているかと申しますと、御承知の通りアメリカのような国、イギリスのような国は、資本家、つまり生産するための手段を自分達がもって、人を雇って時間で働かせて、つくったものは自分達が売って、金は自分がとって、そのなかから働いている人の賃金を払ってその人達を生かしておいてまた翌日働かせるという関係をもった社会機構が根本をなしております。つまり、それは経済の方の言葉で申しますならば、資本主義的な民主主義という状態なのでございます。ですからよくよく突き詰めて見ますれば、人は自分が生きるために働き、自分が成長するために学び、自分達の社会を一歩でも前進させるために自分達がよい政治を行ってゆくのが徹頭徹尾民主主義的な社会と申しますが、いわゆるブルジョア民主主義といわれる歴史の段階では、やはりそこには金持というものがございます。金持というのが漫画にあるように袋に金を詰めて金庫に溜めて、金鎖の太いのをお腹の上にたらしているような罪のないものならば、漫画にしておけばすむのですけれども、本当の資本家というのはそれはそれは抜け目がない。私共がわずかのお金で魔法みたいにして生きている。私達の生き方というのは本当に魔法です。これっぽちのお金しかないのに物価は高い。みな不思議なからくりで非常に猛烈な火の車でどうやらやっているのです。そんなような状態ですから、ましてお金をもっている人達の頭のよさ、それから社会に力をもっていることは猛烈なものです。ですから皆さんのお召しになっているようなもの、食べ物をつくるようなところはすべて空手ではできません。禅問答では片手の音を聞けといいますが、片手では音は出ません。それと同じようにみな機械がなければなりません、工場がなければなりません。彼らはそういうものに投資しております。そこに機械をおき道具を設備して建物をもち土地をもって、そして人を雇って賃金を払うというように、全部の生産の手段は自分達でもっております。すべてを自分達だけでもっているごく少数の非常に富んだ人達がいるわけです。そして日本中の何千万人の人達が一日のうちに何時間かをその人達のために働いて、自分達の生活費をそれから得て暮しているわけですけれども、面白いことにはこの生産の手段というものは刻々に進歩いたします。何しろ原子爆弾さえできた世の中です。天然色の映画さえできております。ですからものを能率的につくるという機械の発展は十九世紀以来驚くべきものなのです。第二次ヨーロッパ大戦ではたくさんの発明がありましたからわかりませんけれども、少くとも第一次ヨーロッパ大戦の前までは、もし地球上の人が一日に五時間ずつみなで働けば、その当時よりもはるかに豊かなものの多い健康な楽しい生活ができるというところまで生産の技術と生産の能率が高まっておりました。そういたしますと、皆さんお勤めになっていらっしゃるかどうか知りませんが、とにかく大ていの人は現在労働時間七時間、八時間ということを要求しております。大ていの婦人の労働時間は十時間、十一時間というのは今の労働法で平気で通用しております。かりにもし五時間で私共の着るもの、住む家のためのもの、電気その他すべてが生産できますならば、あとの五時間は誰のために働いてきているか。これが面白い問題なのです。私共は十一時間働いてかすかすの月給をとってそれで物価が三倍でやりきれないでいる。けれども本当に考えてみますと、実際に私達のいるものは五時間ですから、どこかの織物工場で五時間働いて織物をつくるなり、どこかのゴム工場で五時間働いてわれわれのはく靴や雨合羽をつくって、それらのものがお互いの等しい価値で運転するならば、あとの五時間は誰かのために働いていることになる。私達は十時間働かなければ賃金をもらって食えませんから、自分のために働いているように思いますけれども、それは実は五時間でできるのであって、あとはすべての生産品は、生産手段をもっている投資家、株主、会社の社長などの利益のために商品として売られて、それは私共の働く賃金のなかにはくり込まれておりません。生きるために働く時間にはくり込まれていないわけです。そこで五時間で私達が暮せるならば、五時間だけの月給をもらって五時間で働くのをやめて、そしてあとはいろいろな文化的な、映画を見るなり音楽を聴くなり、何といっても日本は科学が貧弱なのだからうんと科学の勉強をするなりすればよい。けれどもそれはやる間がございません。やはり十時間働かなければならない。それはなぜか。そうすると一時間の賃金と申しますものは決して一時間に生産できるものの値打を現わしておりません。それは資本家が働く人を買うことのできるその国の一番低い条件、標準を示すにすぎないのです。ですから十時間働かなければ私共は自分ひとり生きられないし、家族も生きられない。けれども実際に受取っているものは時間にすれば五時間で、あとの五時間でできる生産物は、五時間分の月給のなかから見れば恐らく百倍も千倍もの価値のあるものをつくっているわけです。ですからブルジョア民主主義という段階においての社会では、みな選挙権をもっておりますし、婦人も公民権をもっておりますし、民法と刑法において日本のような婦人の無能力を現わされておりません。しかしやはり生活の根本にあるそういう矛盾のために、アメリカなどではやはり失業の問題が非常に多うございます。失業者はもう非常に多い数になっております。日本では失業を数える時には男子の失業だけ数えるのでありまして、つい先だって五百八十三万といっておりました。そして二、三日前には数ヵ月のうちにそれがうんとふえるだろうと書いてありました。ところがあのなかに婦人の失業者は入れてない。なぜかといえば、政府は婦人の失業者は家庭に帰るからといっているでしょう。だけれども、家庭というのはどこにあるのか、誰がつくった家庭がどこにあるのか。もし今日私達に家庭というものがあるならば、私達が自分達の努力できずいてもってきた家庭があるだけであって、私共は一文の金もなく、今日のような恐ろしい物価のなかで、家庭に帰るといっても、一つの戸棚をあければ食べるものがぞろぞろ出てくる魔法のようなものをもっていらっしゃるなら別ですが、そういうものは世の中にないと思います。ところが半封建的な日本では婦人は表面では勘定しない。もちろん労働力としては勘定する。明治の紡績とか戦争の間にも女はどんどん働かされましたけれども、失業の時には勘定しておりません。けれどもブルジョア民主主義、つまり資本主義民主国では、やはり女の失業も失業者の数のなかに入れております。婦人が失業したら母性の痛められ方が男性よりひどい。男は土方をしても労働できるけれども、女の人は売笑婦になる。そういう道徳的頽廃を起すから女の失業者の問題を解決しなければならないけれども、社会的解決は資本主義的民主主義ではできません。だからある点ではこれらの民主主義社会は、すべてのものの幸福のためにつくられた社会であるといわれているけれども、その内部では働かすものと働かされるもの、婦人と男子の間には、幸福と不幸の開きが決定的にあるわけです。
今日の地球の面では、面白いことにはそのような矛盾を何とかして解決しなければならないという努力がされておりますが、その国の天然資源の豊富さ、土地の大きさ、人口の多さ、今までもっていたその国の社会の歴史のいろいろな必然的な動きから、たとえばソヴェト・ロシヤのようなところには社会主義的な民主主義が発達しているわけです。社会主義の民主国というのはどういうことかといいますと、今の一番根本の経済問題を解決しております。みなが五時間働けばすむだけの生産能力があるならば、五時間だけ働いて五時間で暮せる賃金をはらって、あとの五時間、或は二十四時間のうちの残りの十九時間というものは、みなの社会活動のために、本の勉強のために、医学の勉強のために、工場で働いているものも技術家になることができるように、小説家になることができるように、或は女の人ならばいつか自分が希望しているような音楽家になることができるように、人間らしくすべての希望を貫いて社会の活動と生産の働きと結びつけてやってゆこうという社会もできているわけです。
そこでその三つの社会をひとりの女の人の上にあてはめてみると面白いのです。たとえば半分封建的な今の日本のような状態ですと、家庭のいろいろな負担というものは女がみな自分の体で解決している。薪を集めることから焚くことから、子供の世話をすることでも何でも、みな女の人が自分の体で解決しなければいけません。ところがアメリカのような国になると、電気とかいろいろな社会設備が発達しているから、家事的な労働の大部分は公共的な簡便さで解決される。つまり、たった二ドル位で電話がひけるとか、ガスや電気が大へん安い。だから電気で洗濯して電気でアイロンをさっさとかけて電気で料理をして、かたわらでラジオを聴いて勉強していられるというように、同じ一時間でも立体的な一時間になってくる。同じ一時間でも私共は薪を割ったり何かして一時間たってしまうでしょう。この問題を身につけたところでは、同じ一時間でもその内容を豊富にして一時間を働くことができる。ところが社会主義の民主国になりますと、その一時間というものの社会的の意味がかわって参ります。つまり資本主義的民主主義の状態の時には、そういう目のさきの便利はすべての女の人がもつことができますけれども、しかし根本的に先程申しましたように働かさすものと働くものがございますから、いつ馘になるかわからない。競争者はうんとある。自分よりもちょっと腕のよいタイピストがあれば自分は馘になります。いつも根本的な生活の不安に脅かされているわけです。ところが社会主義的な民主国になりますと、銘々の健康に差別があるように銘々の能力には差別があります。それが差別がありながら、銘々が全力を尽して安いよいものをつくってゆく。人を使うのにも安くてよい人を使おうという競争がない。なぜないかといえば、人間は生きる以上は働く権利があるのですから、働く権利が根本的に守られていれば、自分の能力を良心的に十分働かせてゆけば、その社会から働いているものという意味で、養老保険も失業保険も健康に対する保険も、母性保護のいろいろな設備、つまり村の産院、工場のなかの無料産院のような母性保護も十分に行われるわけです。ですから自分達の力でつくった自分達の本当の民主主義的な社会のなかにあっては、その人が生きているということに当然ついてくるたくさんの権利が具体的に現われてくる形でそこに解決せられているわけです。今日、日本で民主主義ということをいい、民主化ということを非常に大事に考え、あなた方にしろ、理窟はともかく民主的なものになることを心から希望していらっしゃいます。その希望がなぜそのように私共にとって大事な希望であるかと申しますれば、それは封建的な重いものを取去るという喜びがある。さらにその上に民主主義というものは人間の能力を無辺際に約束しているものです。私共は賢くなり、実行力ができ、組織をもつことによって、それは必ず私共に実現され得るという可能性を見せているのが民主主義的な国家のあらゆる段階なのです。だから、今日日本が民主的になろうとすることは、まず第一段に発展する可能性の一番低い段階に足をかけているということなのです。
時間がなくていろいろなお話ができないのですけれども、民主的なものの一番根本は人間の生きている権利、そしてそれは私共は社会の生産に関与して生きているというその権利が主体なのです。そのほかわれわれが考えなければならないことは、今の憲法草案には天皇は議会を解散させることができるとなっています。そうすると私共がどんなに良心的によい代議士を選んでも、たったひとりの人が議会を解散するといって、それを書いた紙をもって捧げて読めば解散になってしまう。それほど簡単です。私達がこれほど長い間苦痛を忍びたくさん血を流し犠牲を払ってきた。あなた方の御親戚のなかで戦争でひとりも死ななかったお家はないと思います。焼けなかったという方はこのなかに何人いらっしゃいますか。私達が今日まで払った犠牲はずいぶん大きい。そこから私達が真面目に社会をよくしようとしている時に、ひょッと一枚の紙を読めば議会を解散させる権力のあるものがあるということ、しかも憲法草案はすべての人は法律の下において身分、門地その他によらず平等であると申しておりましょう。そうすれば人間のなかにそのような権力をもって、たった一つの言葉で戦争をし何十万の人を殺し何千万の涙を流し、そして何十万の家を焼いた。そういう人に戦争をさせる権利があるということが間違ったということは、あの人は、という規定のなかでいっているわけです。私達の心のなかには昔からいろいろの習慣がたくさんございますから、理窟では正しいと思っても、気持がまだ、感情がまだということがたくさんございます。それは人の気持の自然ですから、理窟で説き伏せるとか気持がそぐわないのにそれは道理だからといって押付けられたら間違っても仕方がないけれども、しかしわれわれの生活はここで間違っても結構だというように過去においても今においても楽だったとは思われない。少くとも私は絶対にそういうように思いません。日本の婦人は日本の歴史のなかで今日幸福になっても遅すぎる位のたくさんの犠牲を払っております。またたくさんの辛抱をしてきております。だから自分の気に入る、気に入らないということは、お友達と議論なさる時に「そんなに感情的になったって駄目よ」とおっしゃるでしょう。それからあなた方に申すのは失礼かも知れないけれども、たとえば恋愛でだまされた時何でだまされたか。あなた方は理窟でだまされることはないでしょう。それは感情でだまされるのでしょう。何だか好きなような、何だか魅力があるような……それはあなた方をだまそうと思えば魅力をつけさせることはできます。男は女よりも社会性がもっと強うございますから、ものを知らない若い娘さんの気に入るようなことは考えればいくらでもできます。だから、それは人にだまされたのではなくて自分の気持でだまされたのです。女の人は用心深いから、自分達の幸福のためにちゃんとした恋愛をしてゆきたいということはみな考えておりますから、「だまされてもいいわ」という人はひとりもおりません。だまされる可能性が百パーセントお化粧の上に見えている人でも私はだまされるとは思っておりません。こういうようなものでありますのに、いろいろな社会の建設、進歩のためには自分の好き嫌いの感情でわれわれは今だまされている。もしだまされていないならあんな政党の立候補者の情勢はどうでしょうか。あんなラジオ放送は耳障りで聴いていられない。聴いている人があるから、私共のなかに遅れたものがあるから、あんな恥かし気のないことを申します。あれはある意味では私達がいわせているのです。自分達は気持の上でどうだ、こうだと筋の通らぬことを考えることによってああいうものを存在させている。だから今度の選挙も、結果によってはまた議会を解散させるかも知れないし、議員の資格の再審査をするというのも、まだ私共の十分準備されていないすきに乗じて、たくさんの反動的な、つまりわれわれをまた不仕合せなものにしてしまう力がいろいろの形で政党の力をもってバックしている。それを世界が見ているからです。だから私共はよく分別のある人間にならなければいけないと思います。いろいろな理窟はわからないでも、自分の生活というものを真面目に考えて、本当に人間が幸福になるためにはどうでなければならないか、そのことについては非常にものわかりのよい人間にならなければ、私共の幸福なんてものは参りません。なぜかといえば、幸福というものは他人のつくるものではありません。どんな闇市場に行っても幸福は決して売っておりません。自分達がつくらなければならないのです。だから幸福な状態が私共の一生のうちにできるようにするには、やはりそれにふさわしいだけの準備がなければならぬ、それにふさわしいだけの判断がなければならぬ。だからどうぞ皆さんも御自分の生活を見る眼はするどくあるように、そうすれば自らどういう風にしなければならないかということはわかるわけです。こういうことは選挙一つの問題ではございません。何も選挙をどうする、こうするという目さきのことでがたがたいっていることもないのです。私の一生は短かいけれども、あなた方の一生はずいぶん長い。まだ三分の一なのですから、大いに希望をもって賢くならなければ駄目です。つまりあなた方の一生は私共の一生の及びもつかないような生活をしなければつまらないと思います。私のお話はこれで終ります。
底本:「宮本百合子全集 第十五巻」新日本出版社
1980(昭和55)年5月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
1952(昭和27)年1月発行
初出:婦人民主クラブ主催講演会の速記原稿
1946(昭和21)年4月8日
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年6月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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