「健やかさ」とは
宮本百合子
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二月十一日の祭日に、日劇のまわりで演じられた数万の群集の大混乱が、何か一つの事件めいた感銘を一般に与えて、あの事から様々の反響──手近に云えばこれまでパン屋のよこにつくられた列もいけないことになったというような影響を示しているのは、何故だろう。
消防自動車が出てもその場を去らず、やがて百名の警官が出動して、丸の内署長がバルコニーから演説して、やっと群集が散った後には、主を失った履ものだの、女の赤いショールだのが算を乱していたという記事は、その場に居合わせなかった私たちにも、竦然とした感じで生々しい。
私たち誰でもが昨今のひどい人出の混雑ぶりを知っている。その混雑の荒っぽさというものをもつくづく身にしみて感じている。この広い東京の、これだけの人数の中で、僅か数万の男女が、或る日日劇のまわりをとりまいて犇き合ったというだけのことなら、それはその日のそのことだけの見っともなさの範囲で終ったであろう。
長く尾をひいてそこから様々の問題がひき出されて来ているのは、あの一事が偶然ではなくて、そこに何かこの頃の世態人情の気の荒さ、ともかく体の力で押して行け式の盲動性などが、その底に複雑な人心の機微を包んで発動しているからだろう。
心の満ち足りた民は、ああいう騒ぎかたはしまいと思う。そこに今日の課題としての深刻さがある。それに、その騒ぎをおこした大群集の七分が男、三分が女。更にその七分の男の半数は何割偽学生があったのか。ともかく学生服であったということも、世間の特別な注目をひいた。
翼賛会の国民生活指導部長喜多氏は、十三日の朝日新聞へ、国民的訓練の欠如、健全な娯楽の指導の必要としてこの事件を観察し、そこに学生の多かったことは特別反省すべきことだと、「昨夜もあすこへ行って学生を呼んで叱りとばしたが今の時代、学生は娯楽などというよりたまの休日は家に帰って本でも読むことだ」と談話を発表した。同じ紙面に他の数人の見解もあわせのせられていて、他の人々の意見は、事変以来為政者が娯楽というもの一般について罪悪視して来たために、人心が飢渇していて、ああいう事も起ったのではないのかという点で、一致した反省を求めているのであった。
二月十七日の『都』の夕刊には、国民生活指導部長の談話に対する学生層からの様々の抗議がのせられた。娯楽の問題に合わせ、青年の問題も新しくこの事件をきっかけとして人々の意識にあらわれているのである。
喜多氏は、常に独特な物言いの人であるけれども、あのように一般の関心がその見解に集注されている場合、学生を呼んで叱りとばした、というような素朴な態度が表明されると、国民生活の指導部長という責任の大きな肩書に比べて、私たちは極めて頼りない感情をおぼえずにいられないのではなかろうか。
今日の社会の一つの様相として起ったこの事柄の本質は、決して一人の学生を叱りとばしたことで前進もしなければ解決もしまい。たまの休日は家へかえって本を読め、ということに対して、学生が反駁する心持も一般人の心として、十分肯けるものがあると思う。年中有意義無意義に繁忙で、本を読む時間も沈思する時間も持たない日常のひとたちは、全くたまの休みには家へかえって本でも読むのが最上のことである。
学生という夥しい青年たちの質は実にピンからキリまでであるから、なかには勿論下らない者もいるだろう。それはあらゆる社会の部面に下らない者のいることと同じである。けれども、学生は、と総括して、まるで平常は本をよみさえしないように云われた時、何か若い胸に湧き立つ思いを感じる青年たちの数は、下らない者よりは多いのが現実であるし、つまりはそれが学生の純真な精神の発露であると思える。
底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
1979(昭和54)年7月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
1952(昭和27)年8月発行
初出:「オール女性」
1941(昭和16)年4月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
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