今日の耳目
宮本百合子
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高札
いつも通る横丁があって、そこには朝鮮の人たちの食べる豆もやし棒鱈類をあきなう店だの、軒の上に猿がつながれている乾物屋だの、近頃になって何処かの工場の配給食のお惣菜を請負ったらしく、見るもおそろしいような烏賊を賑やかに家内じゅう総がかりで揚げものにしている蒲焼の看板をかけた店だのというものが、狭い道に溢れて並んでいる。
そういう横丁の出はずれに一軒しもたやがある。門構えで、総二階で、ぽつんとそういう界隈に一軒あるしもたやは何となし目立つばかりでなく、どう見ても借家ではないその家がそこに四辺を圧して建てられていることに、云わばその家の世路での来歴というようなものも察しられる感じなのである。
何年もその家はそこに在って、二階の手摺に夜具が乾してあるのが往来から見えたりしていたが、昨年の初めごろ、一つの立札がその門前に立てられた。
梅時分になると、よく新宿駅などに、どこそこの梅と大きい鉢植えの梅の前に立てられている、ああいう形の立札が、門の右手に立てられて、そこには、名誉戦死者××××殿と謹んで記されてある。
その立札に記されている名は、後の門の表札に記されている姓名である。その家の主人が名誉の戦死をされたかと、通行人はいくらか頭を下げる心でその横を通るのであった。
殆ど同じ頃、その横丁のもう一つところにやはり同じような立札が立てられた家が出来た。それは炭屋であった。文化コンロを並べた店の端れ、どぶ板のところに名誉戦死者某々殿と立ち、そこでも、それは若い主人であったことが、たどんをこねているおかみさんと舅との姿でわかった。
炭は配給制になったから、その炭屋の土間が次第次第にがらんと片づいて、炭の粉がしみ込んだ土間の土ばかり、さっぱりと目に立って来たのもやむを得ない仕儀であったろう。しかし、その立札と段々広々として来る店の土間の光景は、日毎に通るものの目に無心には映らない生活の感情を湛えたものであった。
ざっと一年が経って、去年の秋になった。あちこちで祝出征の旗が見えるようになってその横丁でも子供対手の駄菓子屋の軒に、いかにも三文菓子屋らしい祝意のあらわしかたで紙でこしらえた子供の万国旗がはりまわされた。そこからも出る人があるのだ。ふだんは工場へでも通っていた若い人であるのだろう。トタンの低い軒に旗の飾りはひらひらしているが、出かけるらしい人の姿はその家のあたりに見かけなかった。
横丁の出端れの米屋の前にも祝出征の旗が立った。ここでは店先を片づけて、人出入りも多く、それが今度出てゆく若主人らしい人が、店先で親類らしい中年者と立ち話をしたりしている。そこには緊張して遑しい仕度の空気が漲っていた。米屋の商売も、全くこれ迄とはちがったものになりかかっている最中のことだから、出る前の話もいろいろと心を砕くわけだろう。
そう思って店で立話している人々の表情も今日の世相の中に汲みとりながら、ふっと視線をうつしたら、その隣りは炭屋であった。どぶ板と店のガラス戸との間に無理して体を平らにして爪立っている人のように例の名誉戦死者某々殿の立札が立っている。米屋の店はぴったりくっついた隣だから、祝出征の旗の横には、いや応なくその立札が並んで眼に入る。
通行人はそのようにして二つ並んであるものを何とも云えない心持の眼のなかに見て行く。そればかりでなく、出てゆく当人も出入りにつけて、自分を祝う旗のとなりに語られている事の在りようを目から心へ刻み直される始末である。
町会か或は在郷軍人会の、そういうところの人々がより合って、名誉を記念する方法を講じたとき、こういう情景が生じる場合もあり得ることを思っていただろうか。隣同士というものの生活がそこまで、まざまざと現れることへの想像が働かなかったのではなかったろうか。
炭屋は米屋の家のものに対して、何とはなし善良な気の毒さを感じていたかもしれない。位牌を店先に立てておくようで、と思ったかもしれないが、ひとが立ててくれたものを自分の家のものの気持で引こめることも出来にくかったろう。
ああいう立札は一周年が過ぎたら取りこめられてもいいのではないだろうか。
用事があって千駄ケ谷の方へ出かけたら、一つの閑静な通りの二ヵ所に、同じ種類の立札があった。けれども、ここの町内のは小さく三角形の頂きをもったものではなくて、四分板へいきなり名誉戦死者の軍人としての階級も大書して、それを門傍の塀へ、塀いっぱいの高さに釘づけにしてある。火事にあって立ちのき先を四分板へ大書しておく、あの感じで、それは一種騒然たる街上の印象であった。出るにつけ入るにつけ、その四分板の大文字を見て暮す家人の胸中はどうであろう。悲しみを常に新たにされるというばかりでなく、ああいう標は、いろんないかさま師に何か思いつかせるきっかけになるのではないかと、その家に残っている女の人々の日常の感じが思いやられる。
好学心
三月が近づいて来る。試験のいろいろな記事が新聞に出はじめた。それらの記事を人は様々の心で読むだろうが、今年それらの記事に目をさらす幾千かの若い瞳の裡なる人生への思いを考えると、何か苦しくなる。実業学校の卒業生は上級学校へ入れないことになったという事実には、それらの少年たちへのむごさがあると思う。
今日の世界の歴史が切迫し激動しているということから割り出されて来る社会的な必要と云われるもので目前説明されても、やはり世人のうけた感銘からは消されない人生的なものがある。
今度は商業学校の教育方針が変えられて、従来の個人的な儲け専一の心での商業感を新しく鋳直そうとする意図が示されている。商売というものの性質も昨今は急速に変って来ているのだし、従って明治時代に描かれたような個人の立身出世の夢や、この一二年前のような戦時成金への夢想も既に現実のよりどころは喪っている。自分一人の儲け、自分一人の立身出世、それを狙うことの愚かさは云うをまたないことであるのだけれど、ひる間は勤めて夜は実業学校へ通っている少年たちの心の目あては、十人が十人果して功利的な儲けや出世にとどまっていただろうか。
夜九時すぎから十時の間に、市電や省線にのりこんで来る詰襟の少年たちの心の底に求められているものは、何と云っても自分たちが偶然生れあわせた境遇に抗して、人生の可能を自分たちの現実によりひろげよりゆたかに獲得して行きたい熱望であろうと思う。もっと勉強したいという心は、世俗にすりへった成人の情感が忘れているばかりか、傍からもせき立てられて大学を終り役人になった人々の思いやることも出来ないような瑞々しさと鋭さと熱情とをもって少年の魂の命を息づいている。
少年たちが、自身のうちの何の力で環境的な不如意な生存に耐えて行くだろう。もっと勉強したい。単純なその表現のなかに、その少年たちの生涯的な生活感の核がひそめられているのだと思う。
どんな境遇におかれても、やる者はやるということはよく云われる言葉だと思う。特殊な例外の何人かにそれは当てはまる場合があろう。英雄伝はいつもそのように書かれるのが常套である。けれども、国民の日々の生気の溌溂さというものは、案外のところによりどころを持っていると思う。あながち食物の潤択さばかりにもない。物資の豊富さばかりにもない。
相当の空き腹で、相当に雨水のしみこんで来る靴で、少年たちが猶喜々としているとすれば、つまりは自分たちの胸底にあつく蠢いている自分たちの成長の可能への情熱の力によるのではないだろうか。そして、その可能性は具体的なものでなくてはならないのではないだろうか。
同じ学生でも、夜の学校に行っているものは、昼間勤めて月給をとっているという理由で、市民税を納めることになった。親の仕送りをうけている学生は市民税は払わない。昼間つとめている少年だの若者たちの得ることの出来る月給とは、一体いかほどのものであろう。
親の仕送りをうける学生は眼前に親の生活の経済的な助けとはなっていない。昼間勤めている夜の学校の学生は、月給の全部を自分だけで使ってしまっているという方が寧ろ珍しいであろう。月謝のためだけに昼間勤めてはいないのであろうと思う。市民税を納めることに、勤労市民の一人としての誇りを感じようとする心は、上級学校への道の封鎖や戸主であるなしの問題、その他の現実を思いめぐらしたとき、前途に洋々たる展望を描き出すことの困難さに当惑するであろうと思われる。青年に期待するというのは、どういう実際を指すのであろう。
昭和十一年三月という、今日では殆ど用に足りない古い統計でさえ、甲種実業学校の入学志願者は十九万人近く、入学者は十万五千三百九十八人という数を示している。
昭和七年に比べると、志望者は七万余人、入学者は二万人近く増して来ていたのであった。
女戸主
選挙法の改正のことは、急に実現されないことになった模様である。
戸主という者が資格として語られはじめたとき、私たちの女の心に閃いたのは、女の戸主はどうなるのだろう、という事実であった。あちこちの新聞雑誌でそのことにふれられていたけれど、その声がどのような形で上達したのかはわからない。
日本じゅうに婦人で戸主であるひとの数はどの位だろう。
二十五歳という年を中心にして有職者を見くらべると男二百四十万人ばかりに対して女は百五十万人ばかりであるらしいけれども、朝日年鑑は昭和十四年版も十五年版も、同じ統計を転載しているから、実際の数の上では特にこの一二年間ずっと婦人の有職者が増して来ていることが察しられる。それらの女のひとの中にどの位の割合で戸主がいるだろう。
戸主ということになると四百万票減るのだそうである。
日本の社会の習俗のなかで、女の戸主というものは実に複雑な立場を経験していると思う。友達のなかに三人ほど戸主である女性があって、そのひとたちの生活もいりくんだものとなっている。
女で戸主と云えば家つきの娘というわけになって、結婚の問題では千々に心を砕く有様である。
結婚というものが、家の後を立てるという周囲の習慣的な感情からせき立てられることも、若い女性の今日の生活に向っている心には一かたならない負担である。養子として良人を見つけなければならないという条件にも苦しいところがある。粉糖三合もったら養子に行くな、という云いならわしは一面で世情の機微を穿っていて、いくらかの財産があればあったで無ければ無いで、養う親ぐるみ娘を貰わなければならない次第が、結婚をむつかしくするのである。今日の若い婦人が生活の現実を観ている心は、そのような条件をも無視するような男のひとだの、愛だのが、やすやすと身近に在ろうとは予想もしていないであろう。
男のひとの戸主であることには、結婚についてもそういう苦しみは少ないのだと思う。長男であり戸主であり或は戸主たるべきひとがより希望さえされるであろう。男のひとの側にその両親だの同胞たちだのがついていることは、常識が当然のこととして来ているのであるから。
知人のある弁護士は娘さん二人をもっていて、恐らくは種々に考え観察された結果だろう。二人とも廃嫡して結婚させた。その通知には、本人の幸福のため廃嫡して結婚致させたるものに御座候という文面が添えがきされていた。
慈悲ある親は、戸主になる可愛い娘の幸福のためには、敢て廃嫡して結婚させてやるような複雑な何ものかが、日本の女の戸主の社会的な条件にこもっていることを、沁々と思わされた。
日本では女の幸福というものの一つの条件が、偶然一人の兄か弟があったということ、戸主でなく生れ合わせた、ということにさえ見られるというわけなのだろうか。
その弁護士さんのようにものわかりよい親があったとして、その娘さんが廃嫡されれば戸主ではなくなるのだから、戸主としてもし与えられる何かの権利があれば、社会的な性質のそれを先ず失うこと、我から失格して、妻の幸福を守らなければならないということにもなる。
そのような幾多の不便をのりこえて現在雄々しく日本の女戸主としての負担を負うて行っている女性たちが、私たち女の戸主はどうなるだろうと、問いかけたい心持を抱くのはまことに自然なことと思える。
彼女たちは一つの世帯の主人でもあるだろうし、そのような立場の国民としてそれぞれの税も納めているであろう。女の戸主への免税はきかない。
私たちの朝夕には、社会的な勤労の場面に働いている女性たちが仕事と家庭との間の板ばさみで困惑している有様に満ちているのだけれど、一つの家庭の主であるということからさえ、女には独特の困難があるというのは、いかにも日本の社会の歴史の特色を語っていると思う。
底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
1979(昭和54)年7月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
1952(昭和27)年8月発行
初出:「現地報告」
1941(昭和16)年2月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
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