ラジオ時評
宮本百合子
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ラジオの生活性
ラジオは誰でも毎日耳で聴いているものだ、ということについて、今日ラジオを送り出す方の側の人々は、どんな感覚をもっているのだろうか。
私たちがラジオを自分たちの耳で聴いている、という事実の裡には、案外なかなか複雑な意味があるのだと思う。ラジオは音だから、耳で聴いているのはあたり前というだけのものではなかろう。毎日の耳で聴いている、ということは、めいめいの生活そのものの感情で、聴いていると同時に、客観的に生活現象としても聴いているということである。
ラジオの放送番組のことについては、これまで多くの人々から様々の希望も述べられつづけて来ているが、昨今のラジオは、ラジオの特徴、即ちマイクの前でものをいっている側としては、聴きての顔の上にあらわれる刻々の表情の動きをじかに見ないでいっておられるという特徴に、安易に身をまかせていすぎるところがあると思う。
普通に聴衆を前においてする講演や演説には、聴きての動きと感情の反応がむきだしだから、誰しも聴いているものの心持の陰翳には敏感にならざるを得ない。その相互的な関係で、話しての生活的なものも試されて行くわけなのだけれども、ラジオには、いきなり聴きての賛成も不賛成も表示されないというところで、送り出す側は自身の優位に却って足もとを掬われている傾きがある。
適当な場合、適当な表現で大きい言葉がラジオを通して私たちの日常に入って来れば、それは歴史的な意味にも或る内容と感銘とを伴った時代の言葉として心に刻まれると思う。しかし、最大の形容詞と最高の表現がくりかえしくりかえし、下らない落語の中にまで交って日夜反覆されると、それは自然、言葉としての生きた命を失って、ただのラジオの声或は騒音になってしまう。騒音には誰しもあきているのだから、調和のある音楽の音の方をより快適とするのも自然となる。
ラジオで、人間の社会的な生活の表現である言葉は、言葉としての命を常に溌剌として保てるよう、本気で考えられなければなるまいと思う。「わかりました」から「もう結構」に進み、やがて「わかった、わかった」という感情にまで追い込まれないことを、総ての聴きては望んでいるだろうと考える。
聴取者は生きている
あちらこちらでラジオのことが考えられている様子で、十二月号の『中央公論』に宮原誠一氏が「放送新体制への要望」という文章をかいていられる。
筆者の閲歴などについて全然知らないから、その文章についての限りの印象だけれど、集団聴取その他様々の放送事業の新しい歩み出しが望まれている文章の題に、やはり今日のラジオ性が反映して、「放送新体制」というようないいつづけかたがされているのも、興味がある。
放送局の構成や人事について粛清というような文字がつかわれていることも、いろいろ私たちを考えさせる。近頃一部の流行の語彙と見れば、筆者のありようを語るわけだし、本来の語義で解釈していいものとすれば、こういう表現はその反対物として、夥しい因襲、悪弊の存在を認めなければならないというわけになる。
図解が昨今は大変趣向にかなうらしくて、この文章にも図入りで新構成の案が出ている中に、放送文化研究所というものが想定されていた。そこでいろいろ研究するのだろうが、それにつれて現在までの放送局の研究的な仕事のうちに、聴取者からの反響は、どんな形で調べられ統計づけられて来ているのだろうか、と思った。
投書を分類する。それはずっとやられているだろう。けれど、放送局に来るハガキ投書を整理して数を出すだけでは、今日聴きての心理に印象されている一種の消極な感じの原因を生々しくつかんで、それをとりのぞくことは出来にくそうに思われる。
一晩なら一晩とおしての放送を全く強制のない条件で聴かしてどれを面白がるか、一つの話のどの部分で興味が示されたかという調査は、すでに実行されていることなのだろうか。日本でない或る都市の児童劇場では、児童心理の教授が五、六人の助手を率いて数年に亙ってそういう心理学的方法の調査をしている状態を見たことがあった。そういう科学に立った調査から示される図表は、同じ図表でも形の方からきめてかかっているのでないから、現実的で動的で、その業績が多方面に役立てられている。
ラジオについて宣伝という面が画時代的に重視されているとすれば、聴きての生活から反映する心理的なものの科学的研究などは、第一に真面目にされるべきだろう。聴取料をはらっている家々の数は五百余万戸を超しているが、その何割が欠かさず聴いているか、そしてどこを聴いているかということも、社会の実相、生きた反映として放送する側の生活感覚に入っていていいのだろうと思う。
底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
1979(昭和54)年7月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
1952(昭和27)年8月発行
初出:「東京日日新聞」
1940(昭和15)年11月26、27日号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
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