市民の生活と科学
宮本百合子



 家庭で科学教育をどんな風にしてゆくかということや、科学についての知識を大衆の間にひろめ高めてゆくという文化上の大切なことがらも、現実の問題としては今日いろいろと複雑なものを含んでいるのではなかろうか。一般について云えば、従来日本の女の教育のしきたりでは科学が非常にかろんじられていた。そのために、そういう片手おちな教育をうけた若い婦人が妻となり母となった家庭のなかで、自然な面白い科学教育が行われようもなかったと云えると思う。それなら婦人の教育におけるそのような重大な欠陥を急速に補って行ったらば数年のうちには解決されそうに見えるが、現在の日本の教育の傾きは、果してその方面の輝やかしい展望を可能にする性質をもっているものだろうか。今日の男児の教育の方向について云えるこのことは、女の児の場合には一層深刻な作用をもっていはしまいか。

 キュリー夫人伝は日本でも昨今ベスト・セラーズの一つであった。大抵の若い人たちは、あの本を愛読して感動した。年をとった人々でも、やはり尊敬をもって、この卓抜な一婦人科学者の堅忍と潔白とが成就せしめた業績を読みとったと思う。だが、キュリー夫人へのその讚歎をそれなりすらりと日本の現状にふりむけてみて、そこにある日本の婦人科学者の成長の可能条件の可否に即して真面目に考えた人たちは果して何人在っただろう。フランスであったからこそ、キュリー夫人が女で科学者であるという道の上にめぐりあった種々の闘いを、成功的に勝ち得たのだという感想は、おのずから湧いたと思う。キュリー夫人のようなひとが外国にはいるのに日本の女は、とその低さをいきなり云われることは日本の刻々の現実のなかで成長して行かなければならない日本の女にとって、思いやりない言葉と思う。文化面でも、どれだけの人間の才能と精力が社会的条件によって浪費されているかということが、つまりはその国の文化の質を語るのだが、日本で女の科学的成長の可能は極めて低くそして狭い。

 或る知名な技術家に十六七の娘さんがいて、そのひとは数学が大変すきだ。女学校へ入った頃から特別に指導者をもってよろこんでその道を辿り、現在では高等数学の相当のところまで行っている。その娘さんが女学校を出てから更に専門の教育をうけて、婦人数学者になる希望をもっているかというと、お母さんはそういう希望がなくはないが、娘さんは普通の結婚をしようという心持らしい。人生に対する娘さんのなだらかなその心持はいかにも好感がもてるのだけれど、そこには何となしもう一寸ひっかかって来るものが残されていて、そういう一つの女の才能が、娘さんの人生へのなだらかな態度と渾然一致したものとして専門的にまで成熟させられ切れない、現在の女の社会での在りようや文化の性質に思いが致されるのである。

 家庭における科学教育ということも、つまりはこういうところにかかっていると思う。夏休みには植物採集をさせますとか、科学博物館へつれてゆきますとか云う、それだけが厚みの全部ではないと思われる。

 つい三四日前のことであったが、夕飯のすんだ餉台のところで、家のものと夕刊を見ていた。丁度『日の出』という大衆雑誌の広告が出ていて、そこに一つの字が目をひいた。本多式貯蓄法、林学博士本多静六。広告にそうかかれている。よほど以前にもこの博士の節倹貯蓄に関する法を語った文章を大衆的な雑誌でみたことがあったが、私は一種の感慨をもってその広告を眺めた。林学博士と云えば、農学の一部で、それは自然科学の分野に属す学問上の博士ということであろう。その人が、林学について語らずに、貯蓄法について語っていることを、吾もひともみっともない妙なことと感じない感覚というものは、日本のどういう文化・科学性を語っているのだろうかと思った。林学専門なら山がよく鑑定されるわけだろう。その直接間接の売買は、現在の経済の組立ての中では金銭上の富を意味している。どんな樹木の山はいい価で利益もある。というなら同じ卑俗さにしろわかりもするが、その現実はふせて、炭の空俵一俵でどれだけ米を炊くことが出来るかというようなところから、物の不足は感謝のみなもとという風な、道義化された説がなされていることは、二重の恥辱であると思った。

 科学についての知識が大衆の間にどのようにうけとられているかというその驚くべき低さと、各専門の人々がその点に対してどんな見解をもっているかという最下級の典型が、この本多式貯蓄法にあらわれている。

 一部の科学者そのものの科学性の低さは、又別の形をもとっていると思う。ホグベンの「百万人の数学」の序文の中に、ナイル河の氾濫を予言することで支配力を保っていた埃及エジプトの僧の秘密について面白い物語がある。科学の力、その美、そのよろこび、そこにある人間性を知らせる良書の一つとして岩波新書の「北極飛行」をあげることは、恐らく今日の知識人にとって平凡な常識であろうと思う。ところが、文部省の推薦図書にはこれが入っていない。何故なのだろう。審査員の中に、そういう方面の科学者がいないのだろうか。いることはいても、投票のようなことの結果ああいう日本として自慢にならないようなことになるという事情があるのだろうか。科学が科学としての評価に立ち得ないということは文化の悲惨であると思う。

 昔アインシュタインが日本へ来たとき、民衆の歓迎ぶりを瞠目して、自分がこのような歓迎をうけるのは、日本の国民全体がそんなに物理学の原理へ興味を抱いていることなのかどうかと、深いおどろきと疑問に陥った感想を語っていた。これも意味ふかく、折にふれての記憶に甦って来る印象である。

 それから又或る座談会の席で、日本の婦人で科学の仕事に入った人々は明治以来例えば医者になるが医学をやるという人はないという事実を聞いた印象も心に刻みつけられた。

 明治の初め先ず普及したのが英語であったような関係で、若く急速に歩み進んだ日本で、婦人の医者はあって、病理などやる人のないということは私たちにもよく肯ける。消極の意味で肯ける。おくれている中国の状況を見ても、そこには女医は急速に増して来ていて、併し女の病理学者は一人も知られていない。

 文学における文芸理論と作品とのようなもので、一方だけでは不具なのだと思う。正当な成育力がないことの左証である。科学上の原理の発展への努力、その努力によってもたらされた成果の後を応用的な部面がいてゆくのは必然であって、日本の科学性というものは、歴史との関係から見てもこの意味でどの程度自給自足であるのか。そのことも考えられる。

 現在の私たちが生きている世界の空気の中で、もし科学教育やその知識の大衆化が、応用的な面でだけとり上げられるとしたら、そこには大きい後退が生じるだろうと思う。ラジオの短波は科学的発達の一定段階に立ってはじめて人間の支配下におかれた現象であろうが、それが今日大衆の日常の裡に血肉化されているかと云えば、そうではないのが現実である。短波がどうであろうと、一見民衆の生活にかかわりないようないきさつに置かれている。動力の科学的進歩のことにしても、自動車がガソリンでなく薪で走って、坂にかかると肥桶を積んだ牛車に追いこされるという笑話が万更嘘ばかりでもない今日、現象として科学の発達のよろこびは皮肉と苦笑とを誘って実感から遠いものとなるのはやむを得まい。台湾旅客機エンボイ機が台北の北方七星山麓で遭難して八名の乗客操縦者全滅したのは三月十二日ごろのことであった。「日航」は当日の暴風と濃霧によって進路測定に誤差が生じたことを遭難の原因として詳細に地理的に報告した。そして「民間航空発展の貴い人柱」となった人々への哀悼、遺族への慰問の責任を表明した。けれども、当時あの新聞をよんだ一般市民は、阿佐操縦士の妹きくえさんの言葉をどう受けとっただろう。きくえさんは、涙に頬を濡して、「無電がついていなかったんでしょうか。無電があったら、兄は決して事故を起すような人ではなかったんですのに」と記者に語ったのであった。「日航」が、真に、科学的にこの悲しい事故の責任をとるならば、この悲痛、切実なきくえさんの問に対して、全国民に答えるべきではなかったろうか。エンボイにはどんな無電設備があったか、遭難後の状況で、その設備の有無が認め得たか得なかったか。美辞麗句の哀悼の詞より、死者を瞑せしめるのは、偽りないその点への科学的な追究の態度であったろうと思う。

 この感想を私は或る新聞の短文にかいたら、あの飛行機は台湾のなかだけ翔んでいるので云々と云ってかえして来た。これも妙だと思われる。私たちの科学上の低い低い常識でさえ、旅客機として翔ぶからには、人命に対する責任上台湾の中だからとて無電なしでいいとはうけがい難い。或は他の何かの理由で民間の機は無電のことについてふれてはいけないとでも云うのでもあろうか。

 現在の複雑な内外の事情は、科学の日常的な応用面に様々の矛盾と混乱、低下と秘密とを生ぜしめていて、それは科学上の理由ではない他の政治、経済の諸事情によって支配されている。

 こういう時期こそ、科学性はその原理的なものへの愛と興味で家庭教育のうちにもとりいれられ、民衆のなかにも培われなければなるまいと思う。この必要は、卑俗にされた文学作品が氾濫し得る時代にこそ、益々文学性というものの追求が妥協を排して行われなければならないという文化の問題と全く同一ではあるまいか。

 文化映画というものの大きい役割がここにも顧み期待される。音楽という芸術が、音響学の面から扱われて興味ふかい試みの一歩を示した東宝の文化映画のことや、つい先頃偶然みたドイツの「池中の秘密」ミュンヘン科学博物館の実写なども思い出される。この科学博物館の映画からも原理を形象的に啓蒙してゆく方法がいかに多様で自由で人間的で具体的であり得るかということを考えさせられた。

 文学は今日、あながち源氏物語をかりないでも、世界文学の間に一つの明瞭な日本としての独自性をもって存在していると思う。各民族の文学は本質的にそのような存在性をもっている。科学の成果の普遍性は広大であって原理はあらゆる人類のもの、応用は各民族のものと云う風なところがあるように思える。科学の真の発展の動因は原理のうちにあるとすれば、日本の若い世代がその貢献によって人類の原理を一進させ得るときが持てるように、家庭での科学教育や科学性の普及が行われることを切望する心持になる。今日の旺盛なアダプタビリティにも増す独創或は創造の力を、日本の科学の将来に期待し得る一つの条件として、知育の意味も専門の人々の間に新たに考え直され具体化することを願う。

〔一九四〇年六月〕

底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社

   1979(昭和54)年720日初版発行

   1986(昭和61)年320日第5刷発行

底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房

   1952(昭和27)年8月発行

初出:「科学ペン」

   1940(昭和15)年6月号

入力:柴田卓治

校正:米田進

2003年526日作成

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