一九三七年十二月二十七日の警保局図書課のジャーナリストとの懇談会の結果
宮本百合子
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一九三七年十二月二十七日、警保局図書課が、ジャーナリストをあつめて懇談会を開く。その席上、ジャーナリストが自発的に執筆させないようにという形で、執筆禁止をした者、作家では中野重治、宮本百合子、評論家では岡邦雄、戸坂潤、鈴木安蔵、堀真琴、林要の七名があった。
益々その範囲を拡大するという風評と図書課長談として同様の意嚮の洩されたことは、事実指名をされなかった窪川夫妻などの執筆場面をも封鎖した結果になっている。
一月十七日中野重治と自分とが内務省警保局図書課へ、事情をききに出かけた。課長は数日前に更迭したばかりとのことで、事務官が会う。大森義太郎の場合を例にとって、何故彼の映画時評までを禁じたかという、今日における検閲の基準を説明した。それによると、例えば大森氏はその時評の中に、日本の映画理論はまだ出来ていない、しかしと云ってプドフキンの映画理論にふれている。大森氏がプドフキンという名をとりあげた以上、それは日本にどういう種類の映画理論をつくろうとしている意図かということは「こっちに分る」のだそうである。又、同じ映画時評の中に、ある日本映画について、農村の生活の悲惨の現実がある以上それを芸術化する当然さについて云っているが、これは、悲惨な日本の農村の生活は「どうなれば幸福になれるかと云っているのだという意味がある」。従って映画時評であっても人によっていけないというわけで云々。
「内容による検閲ということは当然そうなのですが、人民戦線以来、老狡になって文字づらだけではつかまえどこがなくなって来たので……」
云々。「一番わるく解釈するのです」
本年は憲法発布五十年記念に当る年である。二月十一日には大祝祭を行うそうである。その年に言論に対する政策が、一歩をすすめ、こういう形にまで立ち到ったことは、実に深刻な日本の物情を語っている。常識の判断にさえ耐えぬ無理の存在することが、執筆禁止の一事実でさえ最も雄弁に告白されているのである。
我々に加えられた執筆禁止の反響は、急速且つ深大であった。三四日後の朝日に谷川徹三氏の書いた年頭神宮詣りの記事は一般にその膝のバネのもろさで感銘を与え、時雨女史も賢い形で一応の挨拶を行った。
「人民文庫」の解散は、武田麟太郎氏としては三月号をちゃんと終刊号として行いたいらしかった。人民社中の日暦の同人、荒木巍氏など先頭に立って「もしやられたら僕らの生活を保障してくれるか」と武田に迫った由。(荒木君は中学教師となっている。)そんなこと出来るものか、じゃ解散しろ、それで急に解散した由である。武田が荒木に「では君がさっさと脱退したらいいじゃないか」と云ったら、其は困る、とねばって解散させたあたり、なかなか昭和文学史の興味ある一頁である。
徳永直は、過去の著作の絶版を新聞に公表した。
話によると、徳永直という名をすてる。そして通俗小説を書く。再び情勢が好くなっても決して舞い戻らないという決心をもって間宮氏に相談をもちかけた由。そう迄決心したら其もよかろうと云ったら、それはぐらりとかわって声明となってあらわれた。
「森山啓さんも絶版になさるそうですね」
「へえ? そんな本があるのかい?」
「社会主義リアリズムが気になっているそうです」
文芸家協会へ行って様子をきいて見た。予想どおりである。大体今回の執筆禁止は文壇をつよく衝撃したが、全般的にはどこやら予期していたものが来た、その連中はやむを得まい、却ってそれで範囲がきまってすこし安心したような気分もあり、だが、拡大するという威嚇で、やはり不安、動揺するという情況である。文芸家協会の理事会は、その動揺さえ感じない、益々わが身の安全を感じて安心している種類らしい。従って、生活問題としても、はっきりそれをとりあげる気組みは持っていないと見られる。文学者の問題として声明を発表するなどということは、存じもよらぬ程度である。
底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
1979(昭和54)年7月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
1952(昭和27)年8月発行
初出:「新日本文学」
1952(昭和27)年1月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
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