新島繁著『社会運動思想史』書評
宮本百合子
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私たち一般人の日常生活の内外に相関連する社会的現実は、この二三年益々複雑多岐、錯綜、紛乱を極めて来ている。こういう社会の激しい矛盾の有様は、将来どうなってゆくのであろうか。今日このように巨大決裂の予感を感じさせている社会は過去にどのような歴史を辿って来ているのであろうか。そういう現実の根源の推移を司る力というものがあるなら、そして、その法則というものがあるのなら、それを知りたいという心持は、近頃の読書分子の生活欲求の中に強く作用して来ている。歴史を読みたいという人々が著しく殖えて来ているのだが、それは、とりも直さず今日の諸現象を、いくらかでも正確に、本質的に理解し得るきっかけを捕えたい望みであり、古本屋で、ベルリンでは無い古典が多く売れる事実となって現れているのである。
三笠書房で出版されている唯物論全書の仕事も、今日の我々の周囲をとりかこむ社会の色調との対照に於て、深く評価されなければならず、同時に社会の底潮の頼もしさをも感じさせる。
新島繁氏がこの全書の一冊として著わされた「社会運動思想史」は、今日の日本におけるこの種の本の存在の意味と、それを読もうとする人々の人間的な知性の活溌さというものに、実に愛を傾けて書かれていると感じた。著者はこの三百二十余頁の小冊子の中に、人間の能動的意志としての歴史を科学的に叙述しようと努力しているばかりでなく、それを「新しいヒューマニズムの観点からの叙述」とし、読者の知識慾に答えると共に人類の営々たる進歩のための努力、献身への共感を呼びさまそうとしているのである。
全書の他の本と比べる機会は持っていないのであるが、恐らくこの「社会運動思想史」ぐらい、著者の胸の鼓動がありのままにつたわっている解説書は類がすくないのではないだろうか。その長所と欠点とにおいて、著者は全く自己の真心を披瀝しており、読者の人間性の皮膚にじかにふれんとする情熱を示している。その意味で、解説的、入門的な本の書きかたにおける新たな親しみ深さ、人柄の流露のタイプを提出していると思う。
序文によると、著者は初め、今私達の目前にあるのとは異ったプランで、この本の準備をされたらしい。現在の主篇を第一篇西洋として、第二篇に東洋の歴史をとりあげ、第三篇には婦人の解放史をとりあげられるつもりであったらしい。ところが、この本では枚数とそのほかの理由で、社会思想前史ともいうべき内容にとどめられた。東洋、婦人の部分は著者によってふれられ得なかったのである。
この種の本の読者として、私は謂わば最も初歩者の一人である。それ故、引用されている多くの古典についても批評を加える力は持っていないが、著者が忠実にその出典を明らかにしている態度には、親切さを感じた。
古代奴隷社会を説きつつ、この著者が、昨今日本の反動的な一部の文芸家によって極めて悪質に利用されている「経済学批判の序論」の末尾でマルクスがギリシャ芸術の「順当な」達成にふれて云っている言葉を、決してマルクス自身「絶対的に美化していないこと」その段階を人類史の大局からはマルクス自身が「未成熟」とし「二度と再び帰らぬ」ことを強調していることを論じている点など、単な思想史には見出されないプラスである。ウィットフォーゲルの「市民社会史」の訳者であるこの著者によって描かれている主篇第三、第四は全巻中最も興味ふかく且つ豊富な部分なのであるけれども、この部分が有益であり面白ければ面白い程私は一層つよく或る残念さを感じた。それは、著者が最初のプランを実現し得なくなったために、かくも面白いヨーロッパ近代社会成立の過程に日本のその時代の歴史的相貌を対照されていないことの憾みである。東洋の足どりをその大略に於てとり入れることは果して絶対に不可能であったろうか。特に今日の東半球の波瀾は、読者の心に渇望に近いその要求を呼びさましているのである。
私たちの常識が受けている苦痛は、過去の歴史が、いつも地球を西と東とにわけて語られている点である。東西を一貫し互に照応し合う歴史的現実として綜合的に掴んで示されていないことにある。この本の著者の人間的感情と世界観とは、西と東との区分を踏襲しようとする保守性などを持たないことは自明である。もしこの次にこの種の労作が期待されるのであったら、一読者の希望として、東洋をありきたりの東洋篇に分けず、東西相照し合う立体的関係に於て、この社会運動思想史の裡に綯いまぜて、東洋の断面をも示されたら、さぞ愉快であろうと思う。
更に、この著者の温い情緒と意志とによるより高い業績への期待の上に立って云わせて貰えば、この本は、著者の善意の量と必ずしも匹敵するだけ、技術的にうまく書かれているとは云えないのではなかろうか。素人考えで云えば、整理のしかたに幾分の混雑がある。著者は自身の勉強によって、それぞれの権威者の労作からの引用を率直に利用している。それらの引用文と引用文との間の接続が強固な思索のリズムで行っていないところがあるように思えるし、著者が或る結論に到達した推論の過程なども、小冊子では出来るだけ要約された形で表現された方が読者の理解に便宜であるとも思えた。
この「社会運動思想史」という本は、何かパン種のような本だと思う。この本には、読者にそれだけの熱意さえあれば、現代文化の最高水準における多種多様な勉強へ展開してゆく可能が蔵されているのである。十七世紀の新陸地発見時代のイスパニアの貨幣にはジブラルタルの図案が鋳出されている下に Plus ultra(その向うにまだある)と刻まれていたと、この著者は語っている。この本は、今日の歴史の(その向うにまだある)ものに対する、私たちの健全な愛着と奮闘心とを呼びさます熱量をはらんでいるのである。
底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
1979(昭和54)年7月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
1952(昭和27)年8月発行
初出:「唯物論研究」
1937(昭和12)年12月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
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