私たちの社会生物学
宮本百合子



 毎朝きまった時間に目を醒す。同じ部屋で、同じ蒲団のなかで。それから手早く身じまいをして、勤めに出てからはずっと緊張した仕事から仕事への一日が過ぎる。夕方になるときまった時間に、下駄箱のところで上草履を下草履にはきかえて、電車通りへ出て来る。そういう時、ああ、きょうも済んだという安心と一緒に、又あしたも今日とおんなじ日が来るのかという何か物懶ものうい感情が湧くことがある。毎日、毎日。そして一年、二年。働いて行くということは避け難いことであり、その必要も意味もわかっているのに、時折働いている若い女の心を襲う何か空虚に似た感じ、これでいいのかしらと思う心持は、一体どこから来るのか。

 若い妻の或る時の感情にも、これに似た陰翳の通りすぎることはあるにちがいないし、一見苦労のない日常生活の事情で、いろんな稽古事をやったり、シネマを見たり、踊ったりしている若い娘さん達の気分の上をも、やはりこういう雲が通りすぎる事があるだろう。

 心持の表面を掠めるのではなく、生活感情の断層のようなところから、そういう落着かなさ、内容の不明な不安がきまった箇所にいつも閃いて見えるようになった時、その人たちは、自分の生活がなんだか全部あるべきようには無いのだという自覚を持ちはじめる。

 こんな感情を、昔の教訓は面白い言葉でいましめた。曰く「小人閑居して不善をなす」明治・大正の女流教育家たちは、その解釈を、日本資本主義の興隆期らしい楽天性と卑俗性とで与えた。人間は目的を持って努力の生活をすれば、自ら身体は強健になり、蓄財も出来、老後は天命を楽しめるのである。「怒るな。働け」と。

 今日の生活は、こういう単純な警告に対して、論争はせずに唯笑って過す程、女の社会性は複雑になって来ている。はっきりそれを言葉として云うか云わぬかは別として、人生の目的という観念そのものに詮索の目を向けている。怒らず働いて、生活の不安がなくなるものならば、どうして少年少女の時代から怒らず工場でよく働きつづけた今日の青年達が、弱体であり、知能が低いと保健省を驚駭きょうがいさせるのであろうか。

 働いている若い女のひとと、働らかないで暮していられる女のひととを並べて、毎日の生活感情に空虚感なんかない筈の理由を説得しようとしても、現実にそれは承引され難い。だが、近頃、若い男女が、反動に対する消極的な反撥のポーズの一つとして、今日私たちが生きている社会の悪時代を強調し、その悪気流の中で馬鹿ででもなければ、空虚感を持たずにいられる筈がない、と思っているのには、疑問がある。

 顔の前に短く垂れた面紗ヴェールのように、空虚・無目的性をこの人生の前面に装飾的にかけて、その気分を持って廻るのであったら、そこには矢張り新しいようで実は大変に旧套であるところの若い女の人生への気力の弱い媚態があるのだと思う。人間はつよい、複雑な、旺盛な存在である。真の生活の空虚には堪えない生命力を生れながらにもっている。生活感情の空虚を訴え、それを話題として語る以上は、既にもうそこに空虚はないのだと云い得る。同時に、この人生において空虚、無目的感というものと人間性の自然とはそれ程和解しがたい本質であるから、人は敏感にそれを嗅ぎ出し、問題にし、愚かな男女の間では何か近代的なこびの一つの眼使いとさえ間違えられるのだと云える。

 恋愛の生理がこの頃急速に人々の常識に入って来た。人生全体の生理を私たちはもっと知らなければならないと思う。忙しく一日を過した女が、夕方、労働の満足感のかわりに、そうやって過て行く自分の人生というものに疑を感じたとしたら、私たちは、どうせ今の世の中に云々と粗末に高をくくってはならない。その女の仕事の種類、働く時間、月給、同僚、恋愛と結婚との問題にまでふれて、その空虚は分析されなければならない。その諸条件と今日の社会との相互的な関係、及び、その関係において、手近に改良され得る種類のものと、永い歴史の進歩を必要とするものとが、はっきり見きわめられなければならないと思う。その上で、自分の生きる道をそれらの広いところから眺めて、避け難い部分に向っては真に美しい人間の堅忍と勇気とを発揮して負担しながら、猶且つ押しすすめられる一歩、半歩を充実して押して生きて行く。これが人生の生理である。私たちが生きて行くためには人間としての善意と同時に意志が入用である。

 心を追っかけることばかりをせずに、自分の心を素早くつかまえて、それを吟味して、整調し健康な場所に置くだけの、精神の運動神経が鍛えられなければならない。スポーツとソプラノで、多数の若い女が只動物的な活力を横溢させている一方、少し頭脳型のひとは口づたえの呪文のように空虚感や無目的感を誇張するとすれば、それは今日の文化がいかに本質的に低いかを語る悲しい滑稽の一つなのである。

 若しそれを今日のインテリゲンツィアが共通に持たされている色調であるというならば、私はそういう人に、十九世紀末のロシア文学史のわかり易い一頁を読んで貰おう。詩人バリモントやブリューソフが蒼白い虚無だの人生の目的の喪失だのをうたった時は、もう社会の他の一部には彼等詩人たちが何故そのように貧血した虚無しか感じ得なくなっているかという社会的根拠を闡明することの出来る叡智・科学的洞察力が高まって来ていた時であった。

 若い真面目な女のひとが、真実今日の生活に何かの空虚感を感じたとしたら、それは、急速に、努力的に充填されなければならない個人的・社会的生活の空白に対する警笛として、寧ろ動的に、推進力として自覚されなければならないのだと思う。

 これを個人の気力の問題であるというひとが無くはないであろう。血液の型や体質の問題だというひとさえあるかもしれない。もしそうであるならば猶更、人生の生理こそ必要ではないか。千差万別の事情ではありながら、大略今日の物質と精神の窮乏の状態、それに屈し切れない人間性の身もだえに於ては百万人の若い女が近似している。それを積極的なものに発展させ、転化させようとする努力こそ必要である。

〔一九三七年八月〕

底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社

   1979(昭和54)年720日初版発行

   1986(昭和61)年320日第5刷発行

底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房

   1952(昭和27)年8月発行

初出:「新女苑」

   1937(昭和12)年8月号

入力:柴田卓治

校正:米田進

2003年526日作成

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