若き時代の道
宮本百合子



 人間として何か意味のある生活を生きぬきたいという極めて自然な望みと、現代の社会で私たちが生活して行かなければならないための生活の形というものとの間に、今日は実に深い矛盾がある。明治時代は、学校で学問をすることと、社会に出てからその蘊蓄うんちくを傾けて立派な人間的活動をすることとは、少くとも或る程度までは一致して考えることが出来ていた。現在はそうでない。いかに生きるべきかという問題の内容は非常に複雑であって、毎日は一応学生生活をやっていても、サラリーマン生活をやっていても、そういう謂わば外側の生活の順序だけ円滑に行っているだけでは、まだ本質的にこの問題が解決されきらない。そのことを、真面目な人々は日々深く感じているし、苦しんでもいるのである。

 大学が学問の自主を失ったこと、インテリゲンツィアが左翼の退潮とともに生存の歴史的な方向や見とおしを失って無気力化したことなどが一つの原因で、今日、いかに生きるべきかという問題を、新しく提起していることも事実である。しかし、果して、そういう消極的な気分だけが、この究求の慾望を刺戟しているのであろうか。私は決してそうではないことを、若き時代の名誉のために確信をもって云いきれると思う。今日の社会の現実は、白面な常識を持った人間に、或る種の公憤を感じさせずにはいない様々の事実に満ちている。文化の上に現れている愚劣な地方主義にしろ、科学性の蹂躙にしろ、インテリゲンツィアの最も本質である知性の正当な発動に対する相剋が歴然としている。いかに生きるべきかが考え直されている根底には、生きることがないがどうしよう、というばかりではなく、人間的な理性と感情とから否定されるべき事物は分っている。だが、それをどういう実際のやりかたで表現して行くべきか、どこにその道があるか。知識人として肯定し建設すべきもののきっかけを矛盾だらけの社会関係にある自分の日常生活でどう掴み、どうものにしてゆくべきか、という熱心な苦しい摸索があるのである。

 きのうの新聞に、二十五歳で大学の助教授となった青年の記事が出ていた。私はその写真を眺めながら、このひとは今日の人生の何処を通っているんだろうか、と思った。現代に、好学心と社会生活の安定とがこの位好都合に統一されることの出来た青年というのは境遇的に全く例外だと思う。この人はその例外的な事情の値うちを今日幾十万の青年たちの置かれている現実の有様と照らし合わせてどう自覚しているだろうか、という気がしたのであった。ありふれたアカデミックなコースをただ早まわりするというだけであったら意味がない。ひところ、良心的な人間の社会的任務というものが、その人々の専門の技術以外の社会的行動、政治的な行動に重点を置いて二元的に考えられていた時期があった。そういう行動の可能が周囲に見えなくなったので、人間としての良心的に生きる途を失ったような当惑の感情があった。しかし、今日理解は経験によって深められた。それぞれの専門の活動を貫いてその道から社会的な進歩に参加し得るものであり、又、そこまで各自の専門的学識、技術を従来のアカデミックなものから解放して活々と社会的に把握するべきであるという覚悟にまで到達していると思う。めいめいがその道において生き、その道において進歩のために闘い、その道のために誇りをもって死ぬことの出来るような真の意味での献身こそが、学者の生活であるべきである。サラリーマンとなる過程として学生生活をしている人の方が数からいえば当然学者になろうとして勉学している人より多いわけである。サラリーマンの生活の下らない、希望のなさ、その日暮しの味気なさについて流行歌まであるのだが、若いサラリーマンたちが、自分たちの生活の無意味さを自嘲的に喋るところだけに、自分のインテリゲンツィアである微かな誇りをもっていることが、私には本当に口惜しい気がする。

 日本の資本主義が興隆期であった頃の立身出世が、今日ないのは分りきったことではないであろうか。現実に無くなってしまっているものとの漠然たる対比で、現在を下らながるのは、とことんのところにまだ矢張り昔の立身出世を心に置いているからである。人間らしい生活を営む道が殆どふさがっている。それにも拘らず私たちは生きている限り人間である。従って人間的慾求をすて得ないものであり、生きなければならぬ。自分の日常に人間的なものが尠ければ尠いほど私たちの心はそれを求めて燃えざるを得ない。毎日の平凡な市民的生活の裡に、サラリーマンとしての一見下らない明暮の中で、その時その境遇で可能なやりかたでこの欲求を追究してゆく誠実以外に、生活の実体はどこにあるだろう。

 環境が人を作る。然しながら、環境を変え得るのは人間である。歴史的に社会生活を観る場合、ひとはよく自分の一生が時代に影響される面をとりあげるが、その自分が時代をつくりつつあるという重大な意味を見忘れるのは何故であろう。明日の歴史を書きつつあるものこそは、今日の生きてであり、その生き方の実質は、歴史の内容を変えるのである。歴史はよそを流れているのではない。今このように矛盾相剋の摩擦に苦しみつつ行われている目にも立たない努力の裡にこそ歴史は脈々として流れ進んでいる。よく学窓から社会へ出る、という表現がつかわれるが、考えて見ればこれはおかしいことだ。人間が或る環境の間に生まれたことから、既にそれは社会的な一つの事実ではないだろうか。少年の生活に社会性がないと誰が今日云うであろう。青春と、その内容と、その内容に対する青年の自覚は、歴史の五十年間を決する社会的大事実なのである。人間はこの世に一度しか生きない。その一度の生命は最も人類的に、最も謙遜なる確乎不抜さで人間的に生き貫かれなければならないのである。

〔一九三七年五月〕

底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社

   1979(昭和54)年720日初版発行

   1986(昭和61)年320日第5刷発行

底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房

   1952(昭和27)年8月発行

初出:「関西学院新聞」

   1937(昭和12)年520日号

入力:柴田卓治

校正:米田進

2003年526日作成

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