昨今の話題を
宮本百合子



 大阪の実業家で、もう十四五年も妻と別居し別の家庭を営んでいる増田というひとの娘富美子が大金をもって家出をして、西条エリとあっちこっち贅沢な旅行をした後、万平ホテルで富美子が睡眠薬で自殺しかけた事は、男装の麗人という見出しで各新聞に連日報道された。

 父親が写真をうつされ、大阪から上京した母や姉が金のかかった衣類の重い裾さばきをニュース写真にとられた。西条エリは、白眼のきわだった目のまわりに暗いかさのかかったような、素肌に袷を着たような姿を撮され、私はその写真からもこの若い女優が今度の事に関りあったことに対しまだきまらない世間の人気や批判を人知れず気にしているらしいやつれを感じ、哀れに思ったのであった。

 母親であるひとの言葉によれば、富美子は生理的に不幸な欠陥をもった婦人であり、自殺の動機もそのことと、相場に大失敗したこととに在るように公表された。もし一人の女が、金にこそ不自由ないが、そのような生理的欠陥を体にもって二十八歳まで生きて来たのが事実とすれば、少くとも過去十数年、富美子というひとはどのように苦しい心持を経験したことであったろうか。物心ついて、自身の肉体の普通でない欠陥に気づいた時、何とかして母親に相談するなり、相場をやる位の向う意気があるならば自身医者に相談するかしなかったのかと、私は同情とともに歯痒さを感じるのである。娘がそういう内奥の問題について、しんみの母親を頼るような心持になれないような家庭内の雰囲気であったのでもあろう。女学校の今日の教育は、女が平凡な肉体と平凡な日常生活の軌道をもって過してゆくためには最少限の役に立っているであろうが、一旦現実が紛糾して、例えば一人の女の体に新聞記事に仄めかされているような生理的欠陥が現れたような場合、その不幸に対して先ず医学的処置を試みるという全く初歩的な実際的な判断さえ娘の心に養い得ていないのである。

 ロマン・ローランは嘗て、人間の幸、不幸の差というものの多くは社会的条件の変化によって無くすることの出来るものであるが、最も後までのこる差別は恐らく健康人と病人との間に在る差別であろうという感想を小説の中で述べていた。それを読んだ時余程以前のことであったが、私はこれは真実にふれた言葉であると思い、様々の感想をひき起された。トルストイが、一遍も病気をした事がないなどというような奴に人間の不幸がわかるものかと、腹を立てたように云っている言葉をも思い出したのであった。けれどもその時私の心に生れた様々な感想に混って一つの疑問があった。それは、ロマン・ローランはこの社会に最後までのこって或る人間の幸、不幸をわかつ原因となるものとして健康人と病人との差をあげているが、この人間生活の不幸の一見最後的な差別の根源にしろ、矢張り終窮は人生の多数者の生活条件いかんにかかっていてよっぽどの程度まで絶滅され得るものである。ロマン・ローランが我々の人間の精神上の幸、不幸の原因についてこの点にまで切りこんで行ったことはさすがに敬服に価する態度であるが、我々に負わされている肉体の健康、不健康の問題をもう一歩進んで動的なものと理解せず、どちらかと云えば個人的に宿命的な色彩で観察したところに、この卓抜な作家の及んで到らざるところがある。そう私は考えたのであった。

 長い時間立ったままで働く女、又は椅子にかけたなりで一日中執務しているような女の体には子宮後屈が多く、不姙その他の不幸を女と男との一生にもたらすことは周知の事実である。ソヴェトでは働く婦人の健康の特にこの点を注意して、新しく制定された工場の規定では、これまで一時間あった昼休みの外に午前と午後、或る時間内(約五分か十分と覚えている)機械を休止させ、就業中窓をしめているところでは窓をあけ、皆そろって深呼吸と簡単な全身の体操をすることになった。これは、今日殆どすべての経営内で実行されている。

 斯様な条件での従業で、婦人は明らかに以前より健康を保つ多くの可能性をもつのであるから、従って、生れて来ようとする子供らの胎内での条件もより発育のために有利に変って来ているわけである。生れるという主格の受動性を示す文法上での表現は、とりも直さず我々人間が歴代、子として親を選択することも出来ず、誕生の環境を予測することも出来ず、実に受け身に生まれたのであるという深刻な現実における関係を語っている。而も、一旦生まれた以上、我々は出生に絡むあらゆる社会的偶然と必然とを終生何かの形で荷なって、生きて行かざるを得ない。子供から大人になりかかって、漸々自分というものを考える力がついた時、何故自分は生まれたのであろう。そして何の為に生れたのであろうかと或る昏迷をもって考えたのは、恐らく私一人ではなかったであろうと思う。

 ところが、生活は活々と積極的なものであって、我々は決して生まれただけでは終らず、やがて生む者として社会関係の中にあみこまれて来る。今や、生むものとして、我々は自分が計らずも生まれ、その矛盾によって苦しむ社会的環境を、より合理的な方向に推しすすめてゆこうとするやみ難い情熱を抱いているのである。

 男装の麗人富美子というひとの生理的欠陥云々について医学的記述は示されていないから私達はそれについて謂わば何も知らないに等しいが、暗示されている言葉によって想像されるような不幸な性的混錯、或は錯倒であると仮定して、私はやはりその生物学的な不幸事をも生む者と生れるものとの関係、その関係に対する真面目な社会通念への刺衝として、うけとるのである。


 家庭を尊重し、一家における親子の生活に関心を置くわが民法は、妻に対し夫と同居せざるべからずという規定を設けている。然しながら、妻が、泥酔した夫や花柳病にかかっている夫との性的交渉を拒絶すべき母として当然の権利を、擁護してはいないのである。性別は染色体の問題であることを私達は知っている。染色体はそれを包蔵する細胞の健康状態と勿論結びついた関係にある。互に、夫は妻を強度のヒステリーと呼び、妻はその夫を性格破産者類似のものとして公表するような今日の増田氏の夫婦関係は、果して二十八年前、健全な結合におかれてあったのであろうか。今日富美子という人の行動に対して加えられるべき社会的批判があるとすれば、それは目前このような現象となって現れた一婦人の道徳問題の範囲のみで終らないことを私は感じているのである。

 男装の麗人の出来事に関連して、近代女性気質というものが改めて一般の注目をひいた。一月三十一日の朝日新聞は三輪田元道氏、山脇女学校教師竹田菊子氏、警視庁保安課長国監氏等の意見をのせている。等しくレビューの男役をする女優、例えば水ノ江タキ子その他に若い女学生が夢中になって、その真似をして髪を切るとか、何か贈り物をしたいために、三十円で私を買って下さいという手紙を或る会社の重役に送ったとかいうことについて、非難の言葉を表現しておられるのである。或る人は真の芸術を理解させるようにしなければならぬという対策を提案し、或る人はレビュー劇場が商売とは云いながらすこしは宣伝に公徳心を加味して欲しいと要求しておられる。

 これ等の記事を読んで私は、教育家が或る程度固定した頭で現実に対する処置を考えている間に、娘たちはよかれあしかれ何と素早く、しかもその愚劣さに於てリアリスティックに動いているであろうかという事実に、心を打たれた。例えば、或る女学生が、私を三十円で買って下さいという手紙を誰に当てて書いたかといえば、その相手としては外ならぬ会社の重役を選定したという事実の裡に、今日の社会の実物教育が娘たちの心の中に、どんなことを思いつかせる可能を日夜植えつけているかという事がわかる。私達が沈思に誘われる点はレビューガールへ贈り物をしたいという熱中した娘の心持がいいかわるいかではなくて、寧ろ、金に困った現代の女学生が思いついたのは何であったかという事である、親の金をもち出そうとしないで、重役に私を買えと書いたところに、通俗小説の卑俗な影響とその如き通俗小説がよって立っている現代社会生活の低劣で腐敗した面がまざまざと反映しているのである。

 パンテージ・ショウの娘たちは、レビューへ女が男になって出るなどというのは日本だけだと笑っているとその時も書いてあったが、私は、レビューの男役に若い娘の人気が集るとともに、日本の現代生活の矛盾とデカダンスとがあると思っている。

 先達って何かの雑誌に一九三五年型の映画女優という写真が出ていた。名を忘れたけれども二人の女優のどちらもカスリン・ヘップバーンをもっと鋭角的に直線的に削ったような顔だちであった。一見中性的で、或るかたさ、つめたさが漂っていながら、しかもどっかに激しい女の情慾を感じさせる種類の顔であった。女のようでない、だがそれを知っている者にとって彼女は実に烈しく、だが子は生まない女であるというような手のこんだ、享楽的な感覚の追求は、現代デカダンスの大きい特徴である。

 美しい女が男装したときに現れる変体的な魅力は、古くは有名なフランスの名女優サラベルナールの舞台姿である。デートリッヒは貧弱であるがタキシードを巧に着た。ターキーは、もっと明るくて健康であり、若い娘の扮する男役の効果については、彼女自身が自覚するより先にぬけ目ない興行者が知っていたのであったろう。男のような、それで実は若い女であることが若い娘に安心して熱中出来るゆとりを与えることは明瞭である。私の知っている或る家庭では、主人が放蕩で家にかえらぬ淋しい夜、そのひとの妻と年頃の娘とがうちつれ立ってレビュー見物に出かけ、レビューガールを家へつれてかえって賑やかに楽しんでいる事実がある。奥様とお嬢様はどちらへ? 松竹のレビューへお出になりました。これは罪のない返答をなすのである。

 近頃小学校は共学が多くなったけれども、中等学校で共学なのは文化学院ぐらいなものではなかろうか。映画は若い男と女との奔放な交渉を映し出して女学生時代の娘の感受性ばかり鋭い情感を刺戟する。学校は、今の社会の風潮が浮薄であるということだけを強調して、その社会的根源を究明しようとする力は持たず、表面的にそのような世相を反撥して地味な制服を着ろとか、家事を見習えとか云い、仏英和女学校などでは女学生のスカートの長さが規定どおりか否かを一々物尺で計って教師が調べる有様である。男の子とのつき合いは、小市民の家庭の中で娘たちが映画で見ているように音楽的に又流動的には行われ得ない実状に在る。日本の封建性は、我々の日常生活を案外に重くしめつけているのである。男の子との自然でび暢びした交渉が行われれば晴れやかに放散される筈の感情が、周囲の事情によって我知らず偽善的に鬱屈して妙に同性愛的傾向をとるのであろう。或る場合、この心理的動機は当事者である娘たちに自覚されていないことが多いのである。


 さっき触れた朝日新聞の諸家の見解の中で山脇高女の先生である竹田菊子氏が、男装のレビューガール等を慕うのは「この頃は昔と違って結婚年齢がおくれているから、結婚まで一つの遊戯をしようと考えているのではなかろうか」と述べていられるのは、現実の或る心理を捕えていると感じた。竹田氏は、その対策として「家庭などがもっと高尚な趣味の方に導くようにしてやって欲しい」と親切に忠告しておられたのであるが、その息子や娘が婚期をおくらさざるを得ないような経済状態にある今日の大多数の家庭で実際上どんなより高尚な趣味を養ってやり得るであろうか。例えばヴァイオリンの有名な教師モギレフスキイの一ヵ月の月謝は四十円である。四十円のためには大の男が一ヵ月間の勤労を代償とさせられるのが今日の現実ではなかろうか。

 世界的な経済恐慌は、この地球の上六分の一を除いたあらゆる国々において、健康で真率な心を持った若い男女を、結婚の問題で苦しめている。結婚年齢のおくれることが一般の傾向となって来たのにたいし、アメリカの百万長者の息子と娘らの間に一つの流行が生じた。何とかいう十九歳の百万長者の息子とこれも同様な大金持の十六歳の娘とがニューヨークで盛大極る結婚式を挙行してセンセーションを捲き起したというのである。愛すこと、結婚生活を営みたく思う心、そして父母とならんとする希望は、然しながら、百万長者の子供らだけが親の株で独占することを許されている天然資源ではないのである。

 話はすこし飛んで、東京日日新聞でこの頃毎日東京ハイキングという特別読物を連載している。社会欄にさしはさまれて、今日などは島崎藤村が昔ながら住う飯倉の街を漫歩して、魚やの××君などと撮した写真をのせている。それぞれに写真にも工夫があって面白く見るのであるが、数日前、女である私の眼に映って心にまで或る痛みをもって焼きついた東京ハイキング中の記事と一枚の写真とがあった。

 説明をすれば、恐らく読者諸君も思い出されることであろう。東京ハイキング第九日、柳原燁子が私娼窟である玉の井へ出かけての記事と筆者の写真とが出ているのであったが、文章はこういう風に始っている。「女には全く用のない玉の井、お蔭様で参観一巡。ここには何百人かしらないが、とても大勢の若い女がうようよしているところ。その女の人達は、まあこんなところで何をしてるんだろう、毎日毎晩。──」「このかいわいお医者は花柳病ばかり。おそらく小児科も産婆も用のないとこなんだろう。こんなかの女は誰も子を生まない。だから天国は遙に遙に遠い青空だ」柳原女史は、「やあ来た来たむこうから」と不幸な女たちの容貌を見て「感情というものをすっかりすりつぶしちゃった」詰らぬ「兎に角目が並んでいて口がくっついて」いる「板みたいな顔」であると描写している。さすがにふっとホロリともして「もしかこの世がさながらの天国であって、生活に誰も屈託がないならばこの板みたいな顔の女たちは運転手の、会社員の、商人の、みんな女房で」世帯をもっているだろうのにと察しもするが、それは忽ち、そうなら「とても昼のうちからあんなにまっしろ白粉塗っちゃいまいもの」という推論に入っている。そして「ここは東京の女のむだ花ばかりが咲くところ!」という結びで文章は終っているのである。

 私はその文章を読み、燁子女史の写真を眺めて、日日の記者は何たる皮肉家であろうと思った。昼間の私娼窟の人気ない軒合いを、立派な毛皮の長襟巻を膝の下まで重げに垂れ、さながら渡御の姿で両手を前に品よく重ねた燁子女史が、自分の正面に向けられたカメラだけを意識してしずしず草履を運んでやって来る。そこがカチリと印画になって納められているのである。女史はそのまま諷刺画ともなるこの自身の写真を如何なる感想で見られたであろうか。更に、ともかく無産政党に属して一旗あげんとした良人宮崎龍介氏は、それを如何に見たであろうか。

「女には全く用のない玉の井」というのは女が私娼を買わないからの意味であろうが、深刻な東北地方の娘地獄の問題も、東京の夥しい失業女工の飢のことも、女には珍しい玉の井参観一巡中、燁子女史の念頭を掠めさえもしなかったように見受けられる。

 私娼の問題は、一朝一夕のセンチメンタリズムでは解決し得ない程複雑な社会的経済的根拠をもっている。燁子女史がもし一人の心敏き母であるならば、不自然な現代社会機構の中に成長する我が息子が、若者になった或る日、何かのはずみにこの不幸不潔な場処へやって来るような場合が起ったら、と或る悲しみと恐怖をもって、花柳病医の看板を見ることはなかったのであろうか。吉原の公娼制度が廃止されることは、健全な結婚の可能性が我々の生きる今日の社会条件の中に増大されたのではなくて、多額納税議員をもその中から出している女郎屋の楼主たちが、昨今の情勢で営業税その他を課せられてまでの経営は不利と認めたからである。


 文芸春秋に、「男性への爆弾」という記事があり、山川菊栄、森田たま、河崎なつの諸名流女史が夫々執筆していられる。河崎なつ氏をのぞいて、他の二人、特に山川菊栄女史の文章は面白い。女史は「先ず手近から」男を観察し、女中の留守には自分の洗ったお茶碗を傍で拭き、得意の庖丁磨きをすることを恒例とする良人、労農派の総帥山川均氏をはじめ、親類の男の誰彼が特殊な事情でそれぞれ女のする家のことをもよくするということで、すべての男性というものを気よくその中へ帰納してしまい、最後に到って飄逸たらんと試みられたものか茶気満々な文体で「たしかに女は家庭の女王である。さればこそ」「女王は女王らしく泰然として一家に君臨し、悠然として(主人とか子供とかいう家庭の人民階級に)奉仕されているのこそ身分柄定められた掟でもあり云々」と「繊手に爆弾をとりあげては見たものの」投げる対手はないことになって「時津風枝も鳴らさぬ平和主義」の主観的女権尊崇の栄光を讚していられる。

 私が感想を刺戟されたのは、この文章で山川菊栄ともある婦人が、問題を個人的な自分を中心としての身辺観察の中にだけ畳みこんでみずから怪しまれない点であった。柳原燁子氏の玉の井ハイキング記に連関してその文章が私の心に浮ぶのも、社会の現実を見る見かたに二人共通な個人的な、どちらかというと自足的な匂いが強くあるからであろうと思われる。

 柳原燁子氏は何のために伊藤伝右衛門の赤銅御殿をすてたのであったろうか。歌集『几帳のかげ』に盛られた女の憤りはどういうものであったのであろうか。宮崎龍介の妻として納り、今日その日その日をどうやら外見上平穏に過しておられるようになってしまえば、愛のない性的交渉を強制される点では伝ネムの妻であった彼女の場合より比較にならぬ惨苦につき入れられている貧困な、無力無智な女の群に対し、「女には全く用のない」と云いすてても、それですむものなのであろうか。

 男に向って女から投げる爆弾にしろ、よかれあしかれ夫婦仲よく同じ軌道に生活している場合、個人の問題に切りちぢめてその良人などを対手とすれば、山川氏の繊手は元よりとり上げる爆弾を必要とさえしないであろう。私は往年山川女史が何かの論文で、現代の社会機構においてどのように婦人が大衆的抑圧を蒙っているかという事実をあげ、一般の男の気持の中にのこっている女に対する封建的な感情の歴史的根源をついておられたこともあった時代を思い出すのである。

 男性への爆弾という『文芸春秋』の課題を、山川氏が男を女からやっつけるという風にだけ理解されたところに興味津々たるものがある。男性への爆弾というとき、我々若きジェネレーションは、女から女独特の爆発力を加えて装填した爆弾を男に只ぶつけるのではなくて、男にそれを確かと受とめさせ、とって直して、男と女との踵に重い今日の社会的羈絆きはんから諸共に解放されようとする、その役に立てるものの意味として理解するのである。

〔一九三五年三月〕

底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社

   1979(昭和54)年720日初版発行

   1986(昭和61)年320日第5刷発行

底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房

   1952(昭和27)年8月発行

初出:「社会評論」

   1935(昭和10)年3月号

入力:柴田卓治

校正:米田進

2003年526日作成

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