帝展を観ての感想
宮本百合子



 数年の間、私はいろいろのことから帝展というものを観ないで過して来た。今年久しぶりにほんの通りすぎる程度ではあったがそれぞれ数百点の日本画、洋画を見物し、素人らしい感想にみたされた。

 私が記憶していた頃の帝展では、日本画というと大作ぞろいで、一室の壁半分を一枚で占めるような大きい画が多かった。秀作も駄作も大きさで先ず観衆を瞠目せしめる風であった。今年は、それがいずれも余り大きい作品がなくなって来ている。大家連が筆頭で小品風なものを、小品風な筆致で描いて、その範囲での貫録を示すかのように新進の画家たちとは別にまとめて一室に飾られてある。

 私は絵として心を打たれるものを見出すことは出来なかったが、その絵の大小によって云わず語らずのうちに示された日本の大画家連の製作をも左右している世間の不景気の反映に興味を感じた。

 画商との微妙な連関で自分の画の市価というものが定り、その相場が上ることで画家としての価値をきめられている清方、栖鳳、麥僊その他の日本画大家連は、この頃の経済的ゆきづまりで彼等の高価な絵を買う人が減っても絵の価を下げられず、従ってその標準ではける可能のある小さい作品にうつるところ、社会関係がなかなか活々と作用を及ぼしていると思ったのであった。

 大体から云って、今日の生活感情を表現するものとして日本画が材料の上からも非常な困難に面していることがまざまざと感じられた。大家連が依然として芸者、舞妓、花、蛙などにとじこもっているに対し、題材として新しい方向を求め、例えば発電所・橋・市街鳥瞰図風の素材を扱った新人もあるが、結局それ等の題材は風景として理解されているに止っているし、日本画としての技術上からも、それ等の現実性を再現するだけ立体的には描けていない。

 題材は何であろうと、今年の帝展の日本画の大部分は、私に、日本画が今では一つの工芸品的なものに変っていることをつよく印象づけた。

 画家たちは殆ど一人のこらず、紙や絹の上に実にきれいにしかも出来るだけ厚く絵の具を盛り上げることに腐心している。近づいて画面を見ると、どれも蒔絵のように塗られていて、私はこういうのをも尚描くということが出来るのであろうか、塗上げ術の問題はあるとしても描法の問題はここには消散してしまっている、そのように感じたのであった。

 日本画家たちの日常生活をも、つき動かしている社会的な不安を、これらの人々は現実の自身達の生活からは既にとび去っている日本画の美の伝統の範囲内で解決しようと不可能な焦慮をしている。その解決のない矛盾と焦慮とを平面的で濃厚な色彩で辛くも塗り圧えようとしている苦しさが画面から私の感情に迫って来たのであった。

 洋画の部でも、私は精神をつかまれたように感じて立ち止るような絵には出会うことが出来なかった。

 この洋画の部では、去年「老婆」を出品して一般の注意をひいた漫画家の池部鈞氏が今年は「落花」という小さい絵を出し、二列に並べたところの上の方に一寸かけられている。「落花」は私に或る感銘を与えた。眼も鼻もないように顔を真白けに塗った「唄わしてよ」の少女が首に手拭をむすび裾をはし折って花見の人が去った後の緋モーセンの床几の上へ一人、すねを並べて足袋をつき出しているところが描かれている。この小さい諷刺的な絵は、感覚的な効果をもって日本の下層階級生活の貧困と猥雑さとその日暮しの感じとを、傍観的に、だが強く表現していたのである。

 私は「落花」を見ているうちに、池部氏がこの社会的感情を更に一歩すすめてその中にある発展的なモメントをも表現しないのは、帝展という場所のためなのであろうか、または池部氏自身の世の中の観かたの限度がここに止っているか、そのどちらなのであろうかと興味を動かされた。

 全く違った意味で印象にのこっている油絵がもう一つある。それは「ピアノの前」という題で一人の背広服の紳士と並んで訪問服の洋装夫人が腰かけている左手のソファーに、一人全裸体の女が横になっている大きな絵である。作者猪熊弦一郎氏はアトリエへ訪ねて来た雑誌記者に向ってその絵は「三人の異った人間の性格を描き分けようと云うのです。右の男は田舎の素封家の主人、真中はワイフ、左は職業婦人。この三人の気分がのっていますかね」と語りながらその絵と並んだ自身の写真を撮らせているのである。けれども、私にこの絵は必然性が疑われる絵として眼にのこった。

 田舎素封家の漫画的鈍重さ、若い軽やかな妻の無内容な怠惰さ、そして職業婦人が或る皮肉をもって裸一貫であることを作者は諷刺しようとしたのかも知れないということは分るけれども、例えば職業婦人がその性格を発揮するのは職場での仕事においてであると思う。モデルという職業婦人は現実の職場でも裸になるのではあるが、私はそのモデルでさえ、職業における個人の性格の閃く瞬間は、彼女が将に全身をあらわそうとする時にあると感じる。猪熊氏が画面の新奇なくみ合わせに自分から興じているように私には感じられたのであった。

 ところで、今度洋画を出品している婦人画家の作品を見て、私は、寧ろ予期しなかった印象を与えられた。

 材料的に見ても、生活の進歩性から見ても、ずっと自由であるべき油絵を描いている婦人画家の作品より、却って窮屈な条件にしばられている日本画の婦人画家の作品の或るものの方が、或る意味で活々とした感受性を働かし、社会の日常生活にもふれ、心をくばってそこから題材を見出して来ていることを感じたのは何故であろう。

 有馬さとえ氏その他、それぞれの力量を示す作品を出品しているのではあろうが、面白かったのは版画の長谷川多都子氏の作ぐらいであった。日本画では理解が皮相的なうらみはあるが「煙草売る店」青柳喜美子、「夕」三谷十糸子、「娘たち」森田沙夷などは、それぞれに愛すべき生活のディテールをとらえて、画に生活の感情をふき込もうとしているに対して煩悶のない有馬氏の「後庭」はじめ「温室」「レモンと花」「静物」等、殆どすべてがアトリエ中心であり、自足してそれぞれの生活の内にはまっているのが、鋭い比較で私に呼びかけたのであった。

 全くこの一見逆の結果はどうして起っているのであろうか。素人の考えとして私は、洋画をかく婦人たちが、洋画の本質と自分の日常生活とにある筈の進歩性というものに無条件でたよりすぎている為に、いつしか反対の沈滞に陥りかかっているのではないかと考えた。

 日本の社会では確に洋画を女にならわせる親は進歩的であり、洋画そのものが、謂わばそれに従事する婦人の前進的な気質を示すものであろうが、時に、大体、それらの人々の経済的条件は、婦人画家たちに安穏なアトリエを与え、苦痛なしに絵具を買わせるような程度におかれている。そういう生活の平俗な安易さが、才能をさびさせている。そのように感じたのであった。

 そして、有馬さとえ氏のように辛苦をして修業していた婦人画家さえ、大家になると同時に、その作品はどこやら覇気を失っていることが、私に何か心を痛ましめる惜しさを感じさせたのであった。

 画の新しさ・主題・手法・色彩の溌溂として新鮮な感覚というものは、然し、末梢的な狙いで、ただ色よりも線でのデッサンを主にするような試みだけで獲得しうるものでないであろう。私は、いろいろの点で、帝展の数百点の画からは、かくあってはならぬ、という芸術上の教訓の具体的な例を見てかえって来たのであった。

〔一九三四年十二月〕

底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社

   1979(昭和54)年720日初版発行

   1986(昭和61)年320日第5刷発行

底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房

   1952(昭和27)年8月発行

初出:「婦人文芸」

   1934(昭和9)年12月号

入力:柴田卓治

校正:米田進

2003年526日作成

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