漁村の婦人の生活
宮本百合子



 随分昔のことであるけれども、房州の白浜へ行って海女のひとたちが海へ潜って働くのや天草とりに働く姿を見たことがあった。

 あの辺の海は濤がきつく高くうちよせて巖にぶつかってとび散る飛沫を身に浴びながら歌をうたうと、その声は濤の轟きに消されて自分の耳にさえよくきこえない。雄大な外洋に向って野島ケ崎の燈台が高く立っている下の浜辺にところどころき火をして、あがって来た海女のひとたちのひとむれが体を温めたりしていた。燃き火のまわりで、子供におっぱいをやっているひともあったりして、そのきっちりと手拭でくくられた頭の上に大きい水中眼鏡がのっている。天草とりの日の浜じゅうの大さわぎや、大きい天草のたばをかついで体を二つに曲げて運んでいる女の活動も、思い出されて来る。

 湘南あたりの浜で、漁船が出てゆくときまたかえって来たとき、子供もいれてそのまわりに働く女の様子も印象にきざまれている。

 ヤアヤアというような懸声で舟のまわりにとりついてそれを押し出してゆくときの海辺の妻や娘たちの声々。それからまた西日が波にきらめいているような時刻、黙って一生懸命な顔で、かえって来た舟を海から陸の砂へ引き上げようと力を出して働いているときの女たちの姿。

 何しろ対手がひろい海、力のつよい海だから海辺の女の動きも大きくて活溌で、農村の女の身ごなしとはまるでちがう逞しさが感じられるのである。

 けれども、海に働く人々の妻や母や娘たちは、ひととおりでない心配や悲しみにもおかれていると思う。自然の力に対して戦ってゆかなければならないことは、農村のひとも海のひとも同じだけれど、そこに働く人が毎日さらされている命の危険は、海と農村とではくらべものにならないだろう。西洋でもそれは同で、漁夫の家庭のめぐり会う悲しみを描いた名画や、それでも海の子はやっぱり海へとひかれてゆく物語には、いくつも立派なものがある。

 海に働く良人や父をもつ女の生活は、そのように農家の女の余り知らない心づかいをその底にもって営まれている上に、経済の点でも決して楽だとは云えないだろうと考える。私は残念ながら、詳しく漁家の経済のくみたてられかたを知らないのだが、はたで見ていても地引が空なときの寂しさは、何とも云えない。漁家の収入と云えば、不規則なものときまっているらしいが、現在では一般にどんな改良が加えられているのだろうか。

 自分たちは直接海へのり出して行かないで、その結果だけ待っていて家計をやりくってゆく漁村の女の暮しが楽でないことは、大正八年に米の価が途方もなくあがったとき第一番にそれに反対したのが富山県の漁夫のおかみさん達であったことからも判断出来る。

 この三四年来は、さぞ漁村からも働き盛りの男たちが留守になっているのだろうが、あとの稼業や生計はどんな工合に営まれているだろうかと考えられる。農家では、女と子供の働きが非常に動員された。ある場所では機械や牛馬の力も加えて、男のいないあとの耕地を女が働いてやっている。

 海へ女がのり出して働かないという昔からの習慣は、その活動が女の体力にとって全然無理だからなのだろうか。それとも穢れをきらうというようなことに関してのしきたりで、女は海上に働かないことになっているのだろうか。男と女とがうちまじって一つ船にのって働いて、もし時化しけで漂流でもした場合におこって来る複雑な問題も考えて、さけられているというわけなのだろうか。

 女は自分では海へ出て働かない。このことから経済も受け身で、働く男のいなくなったときの海辺の女の暮しというものが一層思いやられるところもあるのである。

 十一月号の『漁村』には、各県の漁業の合理化の方策がのせられていて、婦人に関する項目として、陸上の仕事はなるたけ婦人にさせること、日常生活の合理化を教え、衛生、育児の知識を授けること、女子漁民道場をこしらえて漁村婦女の先駆者たらしめることなどの案が示されている。そのどれもが大切なことだと思われた。

 この頃でも浜の日向で網つくろいをしているのは、お爺さんたち男ばかりなのだろうか。ああいうことは女に出来る仕事と、はた目には見られる。たとえば、カニ網きという内職は、漁村からはなれた土地の女たちの稼ぎとなっているけれども、浜の漁師のおかみさんたちがそれをしているのは少くとも見たことがない。鰯の加工の仕事などは女が働いているが、そういう加工の仕事のないところの漁家の婦人は、魚売りのほかにどんな直接の仕事があるだろうか。昨今のことだから工場へでも行くひとが多いのだとばかりも云えないであろう。

 農村の女の生活も実に辛苦に満ちていて、乳児の死亡率も多いし、トラホームなどもひどくはびこっている。経済的にゆとりのないことと、時間がないことが農村の女の向上を阻んでいるのだが、漁家の女が何とはなしその日暮しの生活の習慣に押しながされている傾きのつよいのは、漁家の生計の基礎が安定していなくて、一日一日が漁不漁に支配され、或るときは大漁と思えば次はまるで不漁という極めてむらな条件におかれているからであるのは明らかだと思う。

 いくらかまとまった金が入ったにしろ、かねての借金にそれがまわると思えば貯蓄も現実に不可能である。生活の合理化ということも、その根本は、漁村生産方法の合理化と、最低限の生活の確保ということに、漁村の女の関心が向けられなければならないのではなかろうか。漁村の女のひとは、農村の女より時間的なひまは一日のうちに沢山もっているかもしれない。けれども、経済の土台がそういう不安定であることと、女は稼業の中心に入らないというしきたりとのため、特にあとの条件のため、どことなし女として社会的な進取の態度が失われて今日まで来ていると思う。

「隣組」の実際的なねうちは、漁家のそれら様々の問題にふれてそこに何か光明をつくり出してゆくところに期待されていいのだと思う。

 大きい自然の力を対手にして人間が原始的な方法で戦わなければならないとき、そこにはいろいろの迷信や伝統が生れて来る。女子漁民道場というようなところがつくられれば、そこでは漁村の間につたえられている迷信的なものと、どのようにたたかって女の海での活動の領分が開拓されてゆくだろうかと、期待がもたれる。海女として少女から相当の年までの女が働いているところでそういう施設をつくることは、形の上では比較的たやすいだろう。しかし、そういう地方の婦人は、働きの中心に自分たちがいて来ているのだから、ただ漁夫の娘とし、妻とし、母として、朝と夕べに舟を送り出し迎えて暮しているひとたちとは気分がすっかりちがっている。千葉のように半農半漁の土地柄でも、女の稼ぎに対する敏感さは、東京に何千と隊をなして来る「千葉のおばさん」行商隊の活動にもあらわれている。そういう場合も、女の立場は或る経済上のよりどころをもっているのである。

 日本は海の国というけれども、日本の普通の漁村の生活は、漁業の方法でも昔ながらで、どんどん小さい経営主は倒れて行っているのが現状であるそうだ。そして賃銀でやとわれて働く境遇にかわって行っている。

 あらゆる面で統制化されてゆくこの頃の事情は、それらの根本的な問題にどんな光明を投げるだろうか。漁村の婦人の生活の向上ということも、それだけを切りはなして語ることは出来ないのだと思う。

 漁村の小学校での教育法というようなことについても考えられる。海女の働いている地方では、母さんや姉さんについて、いつとはなし小さい女の子も海の働きになれてゆくのだけれど、そうでない海岸の小学校に通っている位の女の子たちは、大人の女の働くとき交って手伝うだけで、これまでは格別な新しい工夫を盛った生活的な教えかたを学校でうけてもいなかったと思う。そんな点も、何かそれぞれの土地に応じての生産的な活動に注意をむけた工夫が、女の子たちのために考えられてゆく余地もあるだろうと思える。

〔一九四一年一月〕

底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社

   1979(昭和54)年720日初版発行

   1986(昭和61)年320日第5刷発行

底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房

   1952(昭和27)年8月発行

初出:「漁村」

   1941(昭和16)年1月号

入力:柴田卓治

校正:米田進

2003年526日作成

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