女の行進
宮本百合子



 十一月のお祭りのうちのある午後、用事で銀座へ出かけていたうちの者が、帰って来て、きょうは珍しいものを見たの、といった。浦和の方から、女子青年の娘さんたちが久留米絣の揃いの服装、もんぺに鉢巻姿で自転車にのって銀座どおりを行進して行ったのだそうだ。それは綺麗だったけれど、そのあとから制服の背中に黄色い布で長い木剣を斜に背負って自転車にのった娘さんの一隊がきかかると、立ち止って見ていた通行人たちはびっくりした心持からユーモアへ動かされて、みんな笑い出したそうだ。あんな恰好をして遠いところからペタルをふんで来て何の意味もないじゃあないか、という批評がきこえたそうだ。うちの若い娘も不思議そうに、木剣背負ってどうするんでしょうね、剣道をやっているのかしら、といっていた。

 その場にいあわせたのではなかったから、行進があたりに与えた空気も、それと反対に行進を見送ったその時の通行人の気分も、それがどんなものであったか、もとよりはっきり断言はできない。けれども常識として考えた場合、一ふりの長い剣を斜に背負った姿は、日本の昔から袴の股立ちを高くとった若武者の旅姿で私たちには印象づけられているのだから、それがセイラアの制服の背中について自転車に乗って行進して来たとすれば、一種の時代錯誤が感じられるのはむしろ当然ではなかったかと思う。

 それを見て笑うなんて浅薄だという風にいえば、もちろんそうで、真に心ある人々としては決して笑って見ていられない今日の日本の時局精神の皮相的なはきちがいが、その娘さんたちの姿にも象徴されていると思う。そういう姿にある時代錯誤の感じは、単なるハイカラ的見地からでなく現代の世界が使用している武器の機械的な強力さや精緻さは子供だって知っているのだから、女の子がなまじそんな木剣を背負って行進したりするところには、ちかごろ流行の詩吟や黒紋付姿同様、何か国民が本気でそれへ当っている事象への戯画化が印象づけられる。

 娘たちはきっと、そういう体のあがきのわるい姿で隊をなしてペタルをふんでさぞや一心な顔つきであったろう。その一心な若い真率な心を、その姿の与える空気で裏切っていたということは、娘さんたちにとって本当に可哀相と思う。疲れて浦和へかえったとき、彼女たちの心にはたして出発のとき燃えていた明るいたのしい気分が、たっぷりつぐのわれてあっただろうか。

 何となし東京の人間なんて、という感じが心の片隅にのこされたのではなかったろうか。銀座なんか歩いているような者たちは、と、訓話などできいた話を思いおこして、自分たちの木剣姿に向けられた街の表情を憎悪することはなかっただろうか。

 私たちは、若い娘さんたちの純情を思いやって、浦和の娘さんたちを気の毒に思うとともに、そういう形での行進を迎えなければならなかった東京の市民も気の毒に思う。なぜなら、そういう行進を考えついた人が娘さんと市民との間にいたわけなのだから。もし娘さんたちが自分たちの相談で決定したのなら自分たちの若い心をそういう風に表現するのがいいことだと日頃から思うような教えかたをされているわけで、そのことのために、やはり娘さんたちへの可哀想さは減らないのである。

 無意味な馬鹿らしいことも、それとしらずにまじめでやって行くところに若い純な心のねうちがある。それだからこそ、若い人たちを指導する立場にいるひとは慎重で常識を明らかにして、その若さのよさを笑いものにするようなことがあってはなるまいと思う。

 新体制という声は、若人よ立て、という響をおこしたけれど、このことは実際生活の中でどんな形であらわされているだろうか。

 たとえば四国の方のある女学校では、夏の炎天でも日傘をさすことをやめさせたという記事をこの間読んだ。

 四国というと、私たちには暑い地方という感じがある。田舎の女学校の生徒であってみれば歩く時間もかなりあると思える。日にやけた顔色はよいけれど、それで衛生にいいのだろうか、もし炎天下のむき出した頭が衛生によいのだとしたら、どうして毎夏脳炎の流行期に、頭をむき出して炎天にさらしていないように、と特別の注意がされて来ていたのだろう。女学校の女の子は年も稚く、肉体の変化も激しい時期であるし体質もさまざまであろうと思う。一様に日傘をささないというようなことは、外見の上では一つのジェスチュアであるけれど、健康の上にどれだけ有益なのだろう。

 校長だの教師だの団体の指導者だのというひとは、当分の流行に対してよく吟味検討してみる必要がある。自分たちの思いつきに対してひろい実際の視野から再考してみる必要がある。対外的の意味で何かやらなければならないという場合、とりつきやすいのは目の前の見た目に立つ趣向である。浦和からの娘子行進にしろ、目に立つことでは成功したろう。けれども、そこから生れた後味、それによってこそ行進した方の真の感激も、行進をながめたものの感銘も、それからのちの生活感情のなかで美しく消化されてゆくはずの後味が、心理的にふっきれないものをのこしたとすれば、それはむしろ益より害があったということにもなるのである。

 指導というようなことは口でいったこと、形でやっていることそのことよりも、心理にのこされる後味の深さ、その影響のよさについて考慮されるべきものだろうと思う。

 雄々しい生きてとして若い時代が成長して行かなければならないということは、女の子がたけだけしくなることでないのは自明である。団体さえ組めば何でも優先権をとれる、という昔とはちがった世渡り上手のこつを会得させることでもないと思う。団体行動の流行は、一人一人の人間としての向上に細かい目を向けないで、ただそこへくっついていさえすればいいのだからという逃避の無責任さを、一層細心にとりのぞいて行かなければなるまい。

 若い娘たちの行進の美しさと心をたかめる力は、そこに肉体の若さが溢れているというばかりでなく、希望をもって、秩序をもって日々に生かされている新しい生活の輝きがてりはえるからこそであると思う。背景をなして、若い人々の生活の満ち漲った熱意と着実な営みとが感じとられたとき、その行進は、感動的なものとなるのである。

 若い娘たち、妻たち、そして若い母たちはこれからますます群れを組み、街上を行進する機会を多くもつのだろうが、そういう行進が自分たち女の生活とどんな密接な意義をもっているかということについて考えてみるだけの自主の力は大切であると思う。真に自分たちらしい行進をおこなってゆこうとする落付いた日常の心のうねりが尊ばれなければなるまいと思う。

〔一九四一年一月〕

底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社

   1979(昭和54)年720日初版発行

   1986(昭和61)年320日第5刷発行

底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房

   1952(昭和27)年8月発行

初出:「オール女性」

   1941(昭和16)年1月号

入力:柴田卓治

校正:米田進

2003年526日作成

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