私の感想
宮本百合子
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一 婦人と科学
「日本の科学」ということがこの頃世人の注目をひいている。あらゆる文化はそれぞれの国の歴史や社会の今日おかれている条件などにつれて特徴をもっていることは当然である。したがって科学や文学にしろ、その頭に、どこそこの科学という文字をつけていわれることは自然なことであると思う。
今日の日本は、画期的な転換の時期におかれていて、その発展のために生活のあらゆる面で科学性が重要になって来ていることは誰しも感じていることであろう。新しく科学工業の学校なんかもどしどしできる様子であるし、若い息子もその親も、未来の方針を技術家にきめれば大丈夫と思う風潮も大きく支配しているだろう。
優秀な技術家がどっさりできることは一つのよろこびでなければならない。けれども日本の科学の真の発展向上の推進力としては科学上の技術家がふえるばかりでなく、科学の精神というものが、その純正な存在で広く一般に普及されてゆかねばなるまいと思う。婦人の常識に科学性の不足していることもとりあげられるが、たとえばごく身近な栄養の知識について、科学性は今日どんなに表現されているだろう。カロリーということがいわれて、何の総熱量は何と何との総熱量と同量であるから、これとあれとは人体に同じ作用をおよぼす、というようによく新聞などに出るけれど、科学の進歩は私たちにカロリーとともに、そのカロリーをつくるエレメント(要素)のことを教えている。ヴィタミンの発見が人類にもたらした福祉は甚大であった。今日の婦人の科学性が、せっかく到達したその発見の意義を、現実の生活で抹殺したりしてはなるまいと思うのである。
二 家賃
おそろしい住宅難の折から、きのうきょう厚生省と警視庁との意見にくいちがいが示されている適正家賃算出法の問題は、日本全国の借家人が注意をあつめて成行きを案じていることがらだと思う。
日本全国の人口割にして、大都会の住民の九割は貸家に住んでいるだろう。月々の生活費の大小はまちまちでも、その経費の親玉は家賃である。昨今の始末では、全く狐に穴あれども人の子に住居なしになるかと案ぜられる折から、厚生省が適正と見る家賃のわり出しだと、これまでよりあがって畳、一畳四、五円になるというのでは不安が迫ってくる。もとは坪百円で建った家が今は二百円かかるという厚生省の意見はもっともだけれど、家というものは三年か四年すれば元金は償還すると常識では私たちに教えている。今回厚生省のきめる家賃は、一つ一つの新建家屋について何年目かには引下げを条件としてのことなのだろうか。それとも、ずっとそういう方法できまるわけなのだろうか。店子が家賃を払ってゆくのは三年か四年のことではない。借家で産湯をつかった大多数の国民は、借家から自分の葬式をも出さねばならない。みすみす大家に損をしろというようなことはなり立たないという厚生省のいわれたのは、大家にとって慈父の言であろうが、厘毛をあらそう小商人さえ配給員となって、三十五円、四十円の月給とりで国策にそおうという今日、家主も国家的任務を自覚させてもらうことについて異議はなかろう。
目黒のさんまという愛すべき日本の落語は時代とともに変遷して、今年のさんまは切ろうか丸かと問題になった。肩させ裾させの虫の声は、壁も生乾きの家を争わねばならない幾百万の店子の耳にいかなる秋を告げるだろうか。
三 代用食
このあいだ都下のある新聞の投書欄で、代用食について一くみの応酬が行われた。
はじめ投書した某氏は男で某紙の家庭欄に紹介されている代用食の製法にしたがってためしてみたらたいへんどっさり砂糖がいった、砂糖の不足がちな現在ああいう代用食は実際的でないから一考を要するという意見であった。するとそれに対し某夫人が署名入りで抗議をなげた。現在の砂糖の配給量である一日あれだけの砂糖を、代用食のためにつかったからとてやりくれないわけのものではない。よしんば実際にやりくれなくても、今日の銃後精神のためにそんな苦情をいうことは間違っていると力説をしたものであった。ある評者がその夫人の文章を女でなくては書けないひどい文章であるというのをきいた。
私たち女は女でなくては書けないような非常識な文章があり得るということについてまじめに自省しなければなるまいと思う。台所のことは男に分らないといったのは昔のことで、この頃の一般家庭の良人や父親は幼児の粉ミルクのために、一束の干うどんのために、まったく実際上の骨折をしているのだし、物価の問題、炭のこと、家庭欄が社会欄となって来ているといってもあたっている有様である。その実際にこそ銃後生活の切実な苦心と堅忍とがあるのではないだろうか。
あとで何が不足しようともその精神のためにといえるのは他に不足のない生活の条件をもっている人たちが自分の精神の満足のための言葉という印象をあたえる。その満足をひとに強要し得る時代の柄のわるさとして反映する代用食のようなものは実際上のこころみなのだから、炭の不足、砂糖、メリケン粉の不足な現在を考慮してはじめて実質な意味を持つのであると思う。
四 恩給と未亡人
一応もっともだが、さて……
三日の朝、都新聞をひろげていたら、一つの記事が女である私に特別な注意をひきよせた。それは学校教員・警察官その他待遇職員の未亡人たちが遺族扶助料をもらいながら再婚し、しかも扶助料をとりあげられぬため、内縁関係にしているのがおびただしい数にのぼるので、東京府の恩給掛はこの際徹底的に調べて、内縁でも再婚している未亡人の扶助料は即刻とりあげると声明しているのである。
一応もっともなことのようであるが、私の心には何かしっくりしない感情が湧いた。学校教員・警官の遺族扶助料というものが、はたして子供まである一家の生計をささえてゆくに足りるほどの額であるだろうか? そうでないことの実際の証拠は昨今の学校教員の桃色内職事件でも明らかである。また諸官庁は元より、会社でもタイピストさえ年齢十七八歳、両親の家より通勤の者にかぎり採用が現実の有様であり、男の就職上の困難は、その困難が最も少い大臣の息子たちの新米勤人姿が、写真入りで新聞の読物となる世の中である。男がきっと女を喰わせ得、また女が独立心さえあれば年にかかわらず仕事がもてたというのは昔のことである。今日の切迫した社会的実相に頓着なく、再婚すれば扶助料とりあげと定っているから偽善的な内縁関係も生じるのであろう。市は赤字だといって市電従業員の賃銀を下げたが市会では暴力までふるって市議歳費値上げを決定した。府の扶助料とりあげの記事が何となし、その実例を読者の脳裡に思い出させるのは何故であろうか。
五 女を殴る
先日、あるひとが百貨店へ行って買物をしていたら、ついそのわきのところに一組の夫婦がいた。
何かのことで一寸いさかいをしていると思ったら、良人の方がいきなり手にもっていた紙の丸めた棒のようなものをあげて、妻をポカポカと殴った。あたりにはどっさりひとがいる。衆人環視のなかで、その男は自分の女房をなぐったのであった。
そのひとはそういう今日の人の気風に竦然としたと語った。
小田急の電車の中で、パーマネントの若い女の髪をつかんで罵りながら引っぱっている男を、ぐるりから止めることもできないような雰囲気で、実にこわかったということをもきいた。
日本がずっとまだ未開だったころは、男は自分の女房をなぐって何がわるいと思っていただろうし、癪にさわるものなら男でも女でも暴力に訴えてもかまわないと思っていただろう。一種の乱世であった明治初年の殺伐な気風の時代にはそういうことがらも多かったろうと思う。
今日、昭和の御世、日本が東亜の指導者となりつつあるといわれているとき、国の中で首府の真中で、そういう気風が現われているということについて、私たちは何を考えさせられるだろうか。そして、要路の指導者たちはそれに対してどんな方策を考慮していられるのだろうか。
世間の人気の動きというものこそ時代の甘くて辛い裏表を瞬間のうちに表現するのだから、女を人前でいためつけるという一つのあらわれも、決してかるがるしく見すごさせる社会現象ではない。ましてや、女が昨今のような社会の生産のために働いているとき、それと並んで女に対する封建的なあらあらしさが公然横行するとすれば、その何かの徴候として戒心されるべき社会的な意味があるのである。
六 社会への母心
去年の冬、私たちに忘られない経験を与えた木炭も、この秋からは切符制になって、不正と不安とを一掃する方策が立てられた。あらゆる面で、一般の生活の最低限の安定を保とうとする努力が、新しい政府へ向けられている一つの要望と共力との焦点であろうと思われる。
橋田文相が、まず小学校教員の待遇改善の問題をとりあげているのも、このことを語っているのだろう。
けれども、本年に入って、青少年の犯罪の増したことは、世人に深い反省を求める現代の事実ではなかろうか。この半年に青少年の犯罪は一万を突破して昨年後半期より二千百二十六名の増加であり、筆頭が竊盗。そして、職業別にみると、有職者が六千数百人で第一位をなし、二十二歳が最高の率を示している。
春ごろ、青少年労働者が浪費と悪所遊びに陥る傾向について諸方面からの関心が向けられた。つまりは、いくらか余分の金が入ることと、健全な慰安が日常生活に失われていることとから悪遊びを覚えた青年たちが、ついに職業をもちながら、物とりまでもするようになることもあろう。二千九百七十六名という竊盗事件の全部が、そのような原因によるものばかりでないことは常識から明かに推察される。何がこれらの青年たちを竊盗の罪に追い入れたのだろう。
生活新体制へ婦人のさまざまな力が役立てられてゆくのであるが、こういう傷ましい社会の現象に対して母性の心は痛みなしにはあり得ないと思う。母の思いはわが子の上にばかりかばい注がれる時代をすでに一歩あゆみ出している。母心の叡智も個人的なものからよりひろいものに向けられる実践力となる必要がある。
七 子供と家庭
お米のありがたさがいよいよ切実に身にしみて来た。きのう北海道から知り合いのお婆さんが上京して来ていろいろ話の末、お米のことになったら、わしらと子供は一日一合八勺ですといかにも淋しそうな表情で語った。その地方では六十歳以上と子供とは一日一合八勺ときめられているのだそうだ。近所にやはり六十を越したひとりもののお婆さんがあって、その年よりは他家の使い歩きをしたり、物を運んだり、山へ行ってきのこをとって売ったりして、ひとりの生計を立てている。六十を越したからといって一合八勺の米ではその日がしのげないので、どうか一人並に増すように願って下されということをその婆さんの家へたのんで来た。お婆さんは娘婿の家にいて、そこが隣組長をしているのであった。その計らいができて、きのことりのお婆さんは三合五勺を貰えることになった。お婆さんは手を合わせてよろこび、そのお礼にといろいろのきのこをこの秋はもって来てくれたそうだ。きのこを貰う側のお婆さんの婿がなまじ隣組の長をしていることは何と気の毒だろう。よそのひとが長をしていてくれれば、そのお婆さんのかいがいしい朝夕を十分話すこともできただろうし、したがってあんな淋しそうなあきらめた顔つきで姥捨山の糧の量のような話をしないでよかったであろうのに。私は生涯を子と孫のために働いて、今なお勤勉なお婆さんのために一合八勺の米をふやしてやりたい心をおさえかねる。
底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
1979(昭和54)年7月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
1952(昭和27)年8月発行
初出:「信濃毎日新聞」(三「代用食」)
1940(昭和15)年11月18日号
「都新聞」(四「恩給と未亡人」)
1935(昭和10)年5月7日号
「信濃毎日新聞」(五「女を殴る」)
1940(昭和15)年11月27日号
「相模合同新聞」(七「子供と家庭」)
1941(昭和16)年3月8日号
その他は未詳
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
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