科学の常識のため
宮本百合子
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コフマンの「科学の学校」が、神近市子の翻訳で実業之日本社から出版された。訳者からおくられた一冊を手提袋に入れてよそへ出かける電車の中だの、待っている間だのに読んでいるうち、この小さい本をめぐって私の感興はいろいろに動かされた。
「はしがき」にいわれているとおり、著者レイモン・コフマンというアメリカの社会教育者は、ほかに「人類文化史物語」という世界的な名著をもっていて、それはやはり神近さんが訳して岩波文庫に二冊で出ている。
コフマンの目ざすところは「何でも必要な事実だけ、科学的な事実だけをそれもなるべく早く知らせてそれに子供たちの興味を起させ、その興味の成長によって大きくなった子供たちが、健康な人生の内容を、自分で形づくって行くよう」に導いて行こうというにある。コフマンはこの一貫した方針に立って、レイ小父さんという名で年少者のために十数年来活動して来ている人なのだが、彼が特に年の小さいものたちを、希望と期待との対象としたのはどういうわけからであったろう。
我々が住んでいる今日の文明は、昔に比べればずいぶん進歩したものだとおどろかされる部分が多い。二十年前の祖母たちの娘時代にはなかった日常のさまざまの便利、よろこびが加わって来ていて、今日の娘たちの生活も豊富にされていることは疑えない事実であると思う。だけれども、その半面には、進歩が常にその後にひっぱっている過去からの尻尾というものもあって、その尻尾は、電気力の利用という風なものの発達のスピードに合わせてはよりテンポののろい進みかた、変化のしようで私たちをとり囲む常識のなかにかくされている。かくれてはいるけれども、何かの折にはその尻尾が事物の進行のバランスを狂わせて人間生活の紛糾や混乱をもたらす動機となっている。迷信だの、いろいろの事に対する偏見というものから今日人間が全く自由になっているということは決していい切れないのが実際である。物質と精神との力で、科学の力を最も活溌に毎日の市民生活にとり入れているはずのアメリカの一つの州では、宗教上の偏見からダーウィンの進化論について講義することを禁じられているという信じられないような事実もある。コフマンはアメリカの人だから、自分の国の一面に存在するそういうおくれかたを憂慮する心持もつよいであろう。そんな愚かな偏見に煩わされない若者たちが、自然と人間との現実をはっきり把握して愛する大人として現れることを切望しているだろう。子供のためにコフマンがたくさん執筆している心持、この「科学の学校」もそういうものの一つとして書かれている心持、それは私たちにも同感をもって理解されるのである。
コフマンのもう一つの特質として、この本の中ででも、人間の精神的な物質的な努力が文化を進めて来た事実をしっかりと理解してそれを語っている点である。単純な楽天で、人間万歳を唱えているのではなくて、刻々の個人と社会との努力の価値を大切なものとして評価し、人間が理性的なもので、その判断と行動とで人間自身を救うものであるという根本の信頼を失わないところが、著者の意味ふかいねうちである。「科学の学校」の中で「氷河」について書いている部分などにも、著者のこの生活の意欲は現れている。氷河が太古に地球の半を包んだように、何千万年かの後にはまた地球をひろく被うようになるかもしれない。しかし、そうなれば、人間は南へ移住することができる、とコフマンはいっている。この言葉はわかりやすい簡単な言葉だけれども、これだけの一句にも、やはりあり来りの人たちとは少からず異ったコフマンの人間意欲の肯定がこめられている。なぜならこれまで何百冊かの本を著している科学物語の著者たちは、氷河についてそういう予想を語るとき、いわゆる科学的態度でその予想を告げたっきりで、それを読んだものが、じゃあその時人間はどうなるんだろうと思わずにいられない、当然の疑問には答えずそれを無視している場合が多い。さもなければ、人間も自然の中に生れたものであるという関係からだけ自然の力と人間の交渉を見て、人間も窮極には自然に敗けるのが宇宙の必然であるという風な、科学的らしく見えるが実際は観念的な宿命論のような結論を引き出していることも少くない。やがて地球が亡びるなら、今私たちが短い一生を一生懸命に暮したって何になるだろう、といった文学者が日本にもあったが、コフマンの地球の年齢について説明している話をよめば、そんな哲学めいた感想も実はたいそうきまりの悪い無知から出発していることがわかる。
コフマンもこの本は年少のひとたちのためとして書いているし、神近さんも、「はしがき」には、子供にこの本を読ませようとする人々のためにという註をつけていられる。
だが、はたしてこの本は子供の本として私たちの興味や必要から遠いものだろうか。なるほど、科学の本としてとりあげられている題目は重要であるが、書き方は子供の印象に入りやすい方法で、従って局面も限って触れられている。この本に書いてあるほどのことなら、文化に関心をもっている大人が、一人のこさず皆知っているといえるだろうか。
少くとも私は知っていないことがどっさりあった。その半面には、もっと知っていると思うところもある。私が感興を覚えたのはそこのところであった。一つの風変りな形で、しかも実際的なブック・レビューをして見たら面白くもあるしためにもなるだろうと思ったきっかけはそこにある。そのブック・レビューの方法というのは、この一冊の「科学の学校」を土台として、それぞれの項目について私たちの身近にある種々の科学の本を思い出し、いくらかまとめて整理し、感想をもそれにつけ加えてゆくという方法である。つまり私たちが知識を愛し、それを身につけ、自分やひとの生活をゆたかにして何かの意味で人間の進歩に役立ってゆきたいと思っている日頃ののぞみは、こういう形でも具体化される一歩があろうというわけである。
若い婦人の感情と科学とは、従来縁の遠いもののように思われて来ている。昔は人間の心の内容を知・情・意と三つのものにわけて知は理解や判断をつかさどり、情は感情的な面をうけもち、意は意志で、判断の一部と行動とをうけもつという形式に固定して見られ、今でもそのことは、曖昧にうけいれられたままになっている点が多い。だから、科学というとすぐ理智的ということでばかり受けとって科学を扱う人間がそこに献身してゆく情熱、よろこびと苦痛との堅忍、美しさへの感動が人間感情のどんなに高揚された姿であるのも若い女のひとのこころを直接にうたない場合が多い。このことは逆な作用ともなって、たとえばパストゥールを主人公とした「科学者の道」の映画や「キュリー夫人伝」に讚歎するとき若い婦人たちはそれぞれの主人公たちの伝奇的な面へロマンティックな感傷をひきつけられ、科学というとどこまでも客観的で実証的な人間精神の努力そのものの歴史的な成果への評価と混同するような結果をも生むのである。
婦人の文化の素質に芸術の要素はあるが、科学的な要素の欠けていることを多くのひとが指摘しているし、自分たちとしても心ある娘たちはそれをある弱点として認めていると思う。しかしながら、人間精神の本質とその活動についての根本の理解に、昔ながらの理性と感情の分離対立をおいたままで科学という声をきえば、やっぱりそれは暖く躍る感情のままでは触れてゆけない冷厳な世界のように感じられるであろう。そして、その情感にあるおくれた低さには自身気づかないままでいがちである。
情感をゆたかに高めるというとき、それがどんなに多くの多様な光りを智慧からうけるものであるか、理智と感情とは対立したものでなくて、流水相光を交し、行動とからんで一体として生彩を放つものであるかということを、私たちは感情世界の新しい息づきのためにも実感しなければなるまいと思う。女の肉体と精神との美の標準は変って来ている。その一つの様相として、そのこともいえるだろう。
さて、「科学の学校」がこれからの夏の一日にめぐり合う運命はあるときは深い樹蔭へたずさえて行かれて読まれるのかもしれない。ある日は、私がそれをよんだように電車の中でつとめの行きかえりに読まれるのかもしれない。
第一話から第五話まで、コフマンは太陽と七つの惑星、そのなかの一つである地球、その地球のまわりの空気などについて語っている。宇宙の偉大さを感じさせるこの部分は、私たちに岩波文庫に出ている「史的に見たる科学的宇宙観の変遷」(寺田寅彦訳)を思いおこさせる。人類が宇宙へおどろきと好奇の心を向けて以来、その宇宙観察はどんなに推移して来ているかがこの本には述べられている。星と星との距離の測定についても、祖先たちは観測の条件の素朴さからさまざまの間違いもした。コフマンがその成果に立って示している数字が私たちの記憶の基礎にあって初めて、昔の人の示した数字にある面白い誤りも生々と私たちに今日までの研究の意義を知らせるだろう。宇宙への認識は現代次第次第に拡大されますますリアルなものとなって来ている。「膨脹する宇宙」という本は、私の読んだことのない本だが、やはりその推移を描いているのだろう。文学としてのギリシャ神話は宇宙の壮大と美麗と威力とへの関心を当時の都市の形成を反映している神とその人間ぽい生活感情で形象していて面白い。イギリスの十九世紀初頭の詩人画家であったウィリアム・ブレークが、独特な水色や紅の彩色で森厳に描いた人格化された天の神秘的な版画も、宇宙に向ってのロマンティックな一種の絵として面白いものだったと思う。
岩波新書で出ている中谷宇吉郎氏の「雪」は、北海道で行われたこの物理学者の研究がきわめて具体的な人間生活への交渉の面から入って意味ふかくのべられていて大変面白い。日本の農業その他と雪とは深いつながりがある。そのことからこの学者の態度も私たちの共感を誘うものである。同じ著者に「雷」がある。雷についての世界の探究にふれて語られていて、平明な用語は私たちに親しみぶかくこの本に近づけさせる。
第六話。山、氷河、および地殻の歴史を語られるにつれて、私たちの心によみがえるのはチンダルの「アルプスの旅より」「アルプスの氷河」などである。どちらも岩波文庫に訳されているのは知られるとおりである。アイルランド生れの物理学者であったジョン・チンダルは地質学者ではなかったが、数十年をへた今日でも、このアルプスを愛し氷河に興味をもった物理学者の観察の記述は精細さで比類すくないものとされている。面白さ、科学性と人間性の清潔な美しさにおいてもまた比類は少いだろうと思う。若い女のひとたちは山へも登って、自然の容相にどんな心の糧を見出しているのだろうか。
山に関する本もどっさりあろうと思う。しかし、よく見かけるのはいずれも山に対してあまり抒情的であり、しかもその抒情性がいかにも東洋風で、下界の人間の臭気から浄き山気へのがれるというような感情のすえどころから語られているのが、いつも何か物足らない心持をおこさせる。今日のひとが山を好むのは、さわがしい下界からの逃避の心持からばかりではないだろうと思う。自分の体力、智力、自分とひととの経験の総和についての知識とその実力とが、むき出しな自然の動きと直面し対決してゆく、その味わいでの山恋いではないだろうか。槇有恒氏の山についての本はどんなその間の機微を語っているか知らないけれど、岩波文庫のウィムパーの「アルプス登攀記」は印象にのこっている記録の一つである。岩波新書に辻村太郎氏の執筆されている「山」がある。
極地探検の記録も人類の到達した科学と自然に対して働きかけてゆく人間の意欲との統一の姿として非常に面白い。岩波新書の「北極飛行」の素晴しさを否定するものはなかろう。バードの「孤独」も歴史的記録である。
地殻の物語は、そこに在る火山、地震、地球の地殻に埋蔵されてある太古の動植物の遺物、その変質したものとしての石炭、石油その他が人間生活にもたらす深刻な影響とともに、近代社会にとって豊富なテーマを含蓄している。岩波書店から出ている「防災科学」全五巻は、近代社会としてはまことに素朴に自然力の下にさらされている日本にとって独特の意味を有すると思う。石炭、石油の物語は鉱物とともに現代の生産の根を握っている天然の産物だが、研究社学生文庫の「我等の住む大地」は科学的なところから地球の鉱物を語っている。文学はこれらの天然の産物が人間社会の関係の中で人に働かされまた人を動かしている姿において描くのは当然だが、アメリカの作家シンクレアに「石油」がありやはりアメリカの婦人作家アリス・ホバードに「支那ランプの石油」があるのも興味がある。アメリカの油田が近代世界経済の鍵である事実をも考えさせると思う。
蝶、蜂、蟻などの物語は第十話第十一話にあるが、この章へ来てフランスのアンリ・ファーブルの「昆虫記」を思い出さない読者はおそらく一人もないだろう。ファーブルの昆虫記は卓抜精緻な観察で科学上多くの貢献をしているし、縦横に擬人化したその描写は、それらの本が出た十九世紀の末から今日まで、そしてなおこれからもあらゆる年齢と社会層の読者を魅してゆくだろうと思われる。けれども文化の感覚が成長して、科学の面白さと美しさとの独自な本質の理解が私たちの生活にゆきわたって来るにつれて、ファーブルが、いわゆる文学的な表現にこって、昆虫に人間社会そっくりそのままの仮装をさせた努力をむしろ徒労として感じるようになって来ることは争えまいと思う。そして、今日かあるいは明日科学の常識がそこまで成長したということのかげにこそファーブルの努力の意味が生きているというのは人類の知識の蓄積されてゆく上の何と感慨深い過程だろう。
第十四話、毛生動物の話は、やはりアメリカの生んだ著名な野生動物観察者であったシートンの「動物記」の面白さを懐しく想起させずにはおかない。シートンの熊の生活の報告、狐の話その他何と鮮明に語られていることだろう。ところが、シートンの相当な読者であった私は、大きい疑問をこの著者の報告の科学的な良心に対して抱く一つの物語をよまされた。それは、バルザックが「砂漠の情熱」という題で書いた牝豹とアフリカ守備兵のロマンティックな短篇を、シートンがその筋のまま物語っていることである。コフマンのこの本も猿が人間生活の感情にある理解をもつことは語っているが、アフリカの牝豹が守備兵を恋するというようなことは、科学の見解に立つ動物学者に肯定さるべき現実だろうか。シートンの生涯の努力がこの一つのために決して少くない信用を喪わせられていることを遺憾に思った。改造文庫で出ているジャック・ロンドンの「野生の呼声」や「ホワイト・ファング」は犬や狼を描いた文学作品の出色のものであるし、キプリングの「ジャングル・ブック」(岩波文庫)もなかなか豊かな動物と人間の絵巻をひろげている。ハドソンの「ラプラタの博物学者」(同上)は、野生鳥類の生彩に溢れた観察、記述で感銘ふかいものである。「日本の鳥」(冨山房百科全書)は中西悟堂氏によって、どのような日本独特の鳥とそれに対する心を描いているのだろうか。
コフマンは、猿と類人猿の話につづく次の章で変った人種の話の項を展開しているが、私たちはこれらの部分では、おのずからダーウィンの「種の起源」(岩波文庫)と「人及び動物の表情について」(同上)という同じ科学者の感興つきない研究へひきつけられる。さらに今日常識が遺伝についてある程度の知識を求めているからにはメンデルの「雑種植物の研究」(同上)も、決して身に遠い著作ではないと思う。
このように遺伝の作用をも内にはらむ人間の生命の生物としての構成の微妙さを私たちに知らせるのは生理学であろうが、H・G・ウェルズが書いた「生命の科学」(平凡社)も、それらの科学の業績に立って書かれた本として読まれてもよいものであろう。人間は生物として自然科学の対象であるばかりでなく、社会をつくって来た民族の歴史からも見られる意味で、イギリスの人類学と民族学の教授ハッドンの書いた「民族移動史」(改造文庫)は、地球の面に行われた人類の移行の理由と結果とをある程度まで知らせると思う。それとともに冨山房の百科全書の「言語地理学」は、あながち言語学者だけによまれるための本ではないであろう。
太古のエジプトでは、僧侶が人の病をいやす役目もはたしていたという文明の発端から、人類の医療の父として語られるヒポクラテスの話におよびさらに、ウィリアム・ハーヴェーの血液循環の発見があり、やがてパストゥールによって細菌が発見されたのも、ジェンナーの種痘の試みも、モルトンによる麻睡薬の試用も、すべて十九世紀の人々の偉業であるということは、日本の徳川末期に、シーボルトその他によって西洋医学が導き入れられ、菊池寛の小説「蘭学事始」のような情景をも経て今日の医療に至った歴史とてらし合わせて、尽きぬ味わいがある。冨山房の百科全書で出されている「ロベルト・コッホ」「緑の月桂樹」(西洋の科学者たち)岩波新書の「メチニコフの生涯」はいずれも、それぞれ感銘浅くない本である。「ベルツの日記」(岩波)「日本その日その日」(冨山房)は明治開化期の日本の文化のありようと、後に日本の科学の大先輩として貢献した人々の若き日の真摯な心情とを、医学者としてのベルツ、生物学者としてのモールスが記述していて、文学における小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)、哲学のケーベル博士、美術のフェノロサの著述とともに、私たちにとって親愛な父祖たちの精神史の一部を照らす鏡をなしている。
「科学の学校」もいよいよ終りに近づいて、著者コフマンは、何という簡明具体的な表現で、電気に関する人智の進歩のあとを辿っていることだろう。今日の少年少女たちの日常のなかには一つのスウィッチの形で出現している多種多様な働きの電気というものを、人間生活にとりいれ、こわいものから便利なものにかえて来た道が、終始一貫して全く実験の立場からもたらされ導かれたものであることを、コフマンは巧まない健全さで明らかにしている。フランクリンの凧の逸話は人口に膾炙しているが、一七五二年の九月の暴風雨のその一夜にいたる迄には、ギリシャ人たちが琥珀の玉をこすっては、軽いものを吸いつけさせて遊んでいた時代から二千年もの人類の歴史がつみ重ねられて来ている。電気──エレキへの科学者としての興味をひかれ、実験を試みたことから、幕末の平賀源内が幕府から咎めを蒙った事実も忘れ難い。科学博物館編の「江戸時代の科学」という本は、簡単ではあるが、近代科学に向って動いた日本の先覚者たちの苦難な足跡を伝えている一つの貴重な本である。
それにしても、「科学の学校」を折角訳された神近さんが、原本の後半をすこしのこして「物理の発達」という章を割愛されたというのは、残念千万なことだったと思う。物理のことが語られていたのなら、あるいは数学の発達の歴史の物語も、同じように割愛された頁の中に入っていたのではなかっただろうか。数学の方は、ホグベンの「百万人の数学」上下(日本評論社各二・三〇)が出版されたし、岩波新書に「家計の数学」(小倉金之助氏)同じ著者の「日本の数学」、また吉田洋一氏の親しみぶかく数学の原理を語っている「零の発見」(岩波新書)などがあるけれど、物理の物語は岩波文庫にファラディーの「蝋燭の科学」のほかフランスの数学者物理学者天文学者であったアンリ・ポアンカレの著述が三冊訳されているばかりで、ポアンカレの述作は、初歩的な読者にとってそう理解しやすいというものではない。
私たちの物理学の世界に対する知識は現象にとりまかれつつ相当乱雑なままに放られていて、たとえば岩波新書の「物理学はいかに創られたか」(石原純訳、アインシュタイン著)を、表現が砕けていると同じかみくだく理解の力で読みこなせるものが、私たちの周囲に何人あるだろう。冨山房百科全書の「子供の科学」の物理についての啓蒙的な記述があるいはコフマンの「科学の学校」の抄略された頁の幾分かを補充する役に立つかもしれない。庄司彦六博士の「文化の物理学」はそれよりも高い程度で常識に近く扱われている。
アインシュタインはこの「物理学はいかに創られたか」原名(物理学の発展)の序文できわめて示唆に富んだ数言を述べている。「この書物を書く間に、私たちは之をどんな人たちに読んでもらうべきかについてかなり論じ合い、またわかり易くすることについて苦心しました。読者は物理学や数学の具体的な知識を何ももっていなくとも、適当な思考力をもってさえいればよいと思います」「科学の書物はどれほど通俗的であるにしても、小説と同じようなつもりで読んではならないのが当然です。」
一冊の「科学の学校」を読みながら、そのおりおり念頭に浮んで来た何冊かの本をノートしただけのこの短いメモを、本当に科学に通暁した人たちが見たらば、その貧弱さ、低さ、範囲の狭さを、どんなにおかしくまた憐れに思うことだろう。
私は全くへりくだった心持でいわば私たちの知らなさの程度を明らかにすることで、このリストがいつか段々補足され質を高められたものとなり、いくらか有益な読書の手引きとなって若い婦人たちがそのより年若い弟妹たちに与えるにたえるものとなることを願っている次第である。そして、ある年月の後、今日の若い父親たちよりはいささかその常識の内容をひろやかに多様なものとしたより若い母たちが、自分たちの可愛い小さい娘や息子へのおくりものとして、これらのリストの改良された見出しの中から書籍を選ぶ時があるとしたら、愉しい現実的な期待といわなければならない。
アインシュタインは、世界に卓越した現世紀の大科学者の一人であり、慰みに弾くヴァイオリンは聴く人の心を魅するそうだが、何年か前書いた感想の中に、忘られない文句があった。この科学者は「私は婦人が高度な知能活動に適するとは思わない」という意味の言葉を書いているのであった。女である私たちは、大科学者のこの言葉によって一度は確にしょげるのだけれど、やがてこころひそかな勇気を自分たちの内に感じると思う。何故なら、すべての近世科学の歴史は、たとえばガリレイが十七世紀の地動説をとなえたとき、宗教裁判で罰せられ生命さえ脅かされた事実をつげている。
しかし、地球は動いているものであったから、その事実はガリレイの死後にやがては承認されることとなった。女も人類のために貢献するために生きたいという希望、そのために知能をもゆたかにしたいという希望を抱いて努力している事実は、いわば地球の動きのようなもので、いつかはそれが承認され具現する可能に向って、今日の文化はジグザグなりに動いていると思う。人間の社会の歴史のある発達の段階では、アインシュタインのような卓絶した頭脳の人でも、やっぱり男としては女を見る従来のある先入観からまったく自由になりきっていなかったということを、二百年後の若いものたちはどんな微笑で回顧するだろうか。
底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
1979(昭和54)年7月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
1952(昭和27)年8月発行
初出:「新女苑」
1940(昭和15)年8月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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