幸福の感覚
宮本百合子
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幸福というものについて、おそらく人間は永久に考えるだろうと思う。いろんな時代がこれから人類の歴史にもたらされて、その内容は、きょう生きている私たちの文明の程度では予想もしなかったようなものにもなるだろう。そういう時代が来ても、人間はやはり幸福ということについて考えることをやめまい。
けれども、現在女の幸福という特別の関心でふれられている、女にとっての幸福の問題はどうなるであろうか。別のいいかたでそれを表現すれば、今日の女が歴史のゆがみのおかげで、社会的な条件のうちにもっている女であるための不便不幸、女の心そのもののうちに、そういう条件の反映がつもりつもった結果として附着しているさまざまのつまらない、あじきないものは、未来の文化のなかで、どんな工合に解決されて行くだろうか、ということである。
いずれ永いジグザグの道を経た上でのことだろうが、女の幸福の問題はやがて次第にその局部的な、しかしきわめてその社会の基本的なありようと関係しあった特殊性を高めひろげ、揚棄して行って、いつかは人間の幸福についての具体的な条件の一つとして、女の幸福が扱われるようになって来るだろうと考えられる。現在でのように、どっちかというといつも男対女のいきさつの形で、女の側からの女の幸福の探求がもち出されて来るような社会の時代的な性格に変化が生じて、男も人間の幸福ということを考えれば、女の幸福がその不可欠の条件であることを常識として身につけて、いわば最も直接な男の幸福問題として女の幸福も増す方向に動くようになって来るだろうということだけは確かに予見できる。
日本のような社会の伝習の中では、現在まだ男の幸福は、女として女が求めている幸福への条件を承認しないことで守られている部分もあるというような、哀れな危っかしい状態に置かれている。男も女も互の幸福については、互を自身の冒険として見なければならない状態である。つまり、人間としての合理的な幸福は、まだそんな低い、偶然にかけられている未熟な粗野な社会であるともいえるのである。
今のところ、女の幸福がしきりにいわれる歴史の根拠は、そのような意味で架空なものではないのだが、さて、幸福というものを私たちはどう考えあるいは感じているのだろう。
折々座談会などでそういう話題になったとき一番困惑するのは、現代の人間はまだ幸福というものをきわめて固定したものとして扱っているという点である。特に女のひとは、どういうものか幸福、不幸という二つの漠然とした、しかも抜くことのできない観念を心のどこかに植えつけられている。そして、不幸になるまいと絶えず警戒しつつ、本体が何かということは自分の心にもはっきり感じられていない幸福を追っているように見える。
幸福というものを固定した観念で鋳りつけて、そういうものを求める生活の態度は大変人間の智慧のおくれた部分のあらわれであるということが一般にはなかなか納得できない。だって人間は昔から幸福を求めて来たではないか。ギリシア神話にある「金毛羊」の物語にしろ、メーテルリンクの「青い鳥」をもとめて旅立ったチルチル、ミチルの物語にしろ、求めるものは幸福であるという人間性を象徴した物語ではないか。だもの、きょうの私たちの心から、どうして「青い鳥」の幻が消えていよう、と抗議も出されそうである。そして、人生のある程度の経験から幸福について話すように一座に招かれた男女たちも、いつしか、幸福という二つの文字を互の間にやりとりしながら、目に見えないものを見えるように示そうと努力しながらついに大抵の場合不成功に終っている。幸福というものが、あっちからこっちからつつかれ、吟味され、論議されていることはまざまざとうけとれるが、さて幸福の愛らしく全い姿はどこにも描き出されていないことが多い。語る人々もいつの間にやら、幸福の二字が身のまわりにもち来っている観念の妖術にかかってしまうことが多い。第三者は、それらの検討や分析やらを見て、ああ何と熱心にいじられている事だろう! けれども、ここに幸福の輝きは溢れていないと、更に一層ゆくえさだかならぬ自身の幸福への模索に踏み出すのである。
人間の文明がおさなければおさないほど、自然界と人間社会とのできごとを、単純な観念で固定させて来たことは、今日までの歴史に面白く伝えられている。たとえば中世の人間は地球はひらったい台のようなもので、その両端には地獄があると考えていた。地獄へおちる恐怖という宗教からの恐怖と、科学の未発達からおこった未知の世界への暗い恐怖という動物的な恐怖とを一つにして、地のはてというものに対する恐怖を神聖なものとして守っていた。星を観測して地動説をとなえたガリレイが、そういう固定観念にぶつかって、生命の危険におびやかされたことを、今日の若い娘たちは、あらまアと彼のために同情し当時の権力の暗愚を憐みまた笑うだろう。
太古のエジプト人たちは、人間の生命は息と眼の中に宿るものだと考えた。もしそうでないなら、息がとまったとき死という現象が起り、眼の光が失われてつむったとき人間も死ぬということはない、と彼らは考えた。そして、生命という意味の象形文字は、自分たちの顔にあったと同じようなきれの長い真中に瞳の据った一つの眼にきめていた。
ギリシア人たちが、生命は動く元素から成るといい、デモクリトスが原子論をとなえたのはひろく知られているが、その時から千三四百年経った今日では、電気が発見されていて、人間の生成をふくむ宇宙の諸関係というものがきわめて複雑な相互作用の千変万化の姿であるという理解に到達している。その変化をつらぬく法則は理解されている。私たちはもう、人間の命は眼の中にあるという素朴な固定で考えてはいない。けれども、昔のエジプト人たちの知らなかった生理の知識によって人間の眼の構造の精緻なことを感嘆する私たちのよろこばしい驚きはますます深くゆたかにされている。そして、その眼が精妙な仕組みのなかに私たちの愛するものの姿を映したとき、あるいは美しいものを映したとき、私たちの全心に流れわたる愉悦の感覚は、眼そのものにさえつやと輝きとを増す肉体と精神の溌剌可憐な互のいきさつを、ひしひしと自覚しているのである。
物質の世界と心の世界とは、人間の文明の進むにつれて、だんだん野蛮な二元的解決から解放され、そのものの現実的でまた自然な動的な相互関係の統一のうえに理解されて来ている。
幸福というような、人間の社会生活の環境から生まれた一つの観念は、そのような人間精神の活動の結果もたらされたひろまりにつれて、はたしてどのくらい進歩して来ているだろうか。
天国地獄、地獄極楽という観念の絵草紙が幸福の模様としてきめられていた時代、人々はぴんからきりまでのいとわしく苦しいものを日々の現実から抽象して地獄へあてはめ、ぴんからきりまでの望ましいものをあつめて天国の構造とした。そこへ幸福の観念を固定させたのだが、それに対して、いつの時代にも生存した特別に心情の活溌なある種の人々は、皮肉に人生のありのままを感じ観察していて、例えばイタリーのボッカチオという詩人は坊主くさくかためた天国地獄の絵図を、きわめてリアルに機智的に諷刺し、破壊しようとしている。「デカメロン」の本質はそういうものであった。
十九世紀の目ざましい科学の進歩は、人間の幸福について、それを可能にしまた不可能にする社会の条件を考慮に入れるべきことを知らせた。これは社会的に生きる人類の幸福を問題とする現実的な幸福探求の道程にとっては、実に画期的な発展であった。人間が社会以外のところに生存しないものであるという生存の条件へのはっきりした理解は、社会と個人とのいきさつの研究の間に幸福の課題をもといてゆこうとする根本的な方向を決定したのである。
そうきくと、私たちの心にまた別な疑問がおこって来はしまいか。そんなにはっきり幸福の具体的な解決が社会と個人とのいきさつの間に、その社会全体の進歩において見出されると分っているのなら、何故人間はさっさと万億人の希望であるその幸福をうち立ててゆくために全力をつくし合わないのだろうか、と。
私たちが近頃目撃する現代の世界の状態は、人間にそういう幸福への共通な希望と解決の方向がわかっているにしては、まるで逆を行っているように思える。その逆もあんまり逆だといいたいほどでさえある。人類の誇りである智慧さえ、玲瓏無垢な幸福をつくるために役立てられるというより、死力をつくして黒煙を噴き出し火熱をやきつかせるために駆使されているようではないか。
目前の凄じい有様にきもをひやされて、人々はこれらの現実の中に幸福はないと結論し、その結論を更にひろめて、社会と個人のいきさつを、社会全体の進歩の中に見てそこに幸福をうち立ててゆくというような考えかたの方向は、現実に即していないという気持になり勝ちである。そして、自分にとって一番つかみやすい、一番たやすい、今日の自分だけの暮しの現実を小さく肯定するに一番便利ななにかの手がかりとなる観念に幸福というものの内容をゆだねて、それで簡単にかためてしまい勝ちである。世のなかの複雑な動きのあやから眼をはなさず、そのあやに織り込まれている自分の一生の意味を理解するところにいいつくせない面白さをも見出して生きて行こうとはせず、動的な現象事象から離れたどこかに、いわゆる久遠の幸福を感じようとする。だから、幸福とはどういうものかという問いに答える人々の言葉は実に区々で、ある人は幸福とは各人の主観でだけ感じられる一つの心境であるというし、他のある人は、最低限の衣食が足っていれば幸福であるとし、第三のひとは、健康こそ幸福であるというであろう。神の恩寵を感謝する心という宗教の心を、幸福の内容としている人もある。
この現象から、よく人は、幸福は本人が幸福と思うことのうちにのみあるもので、それがなにの中にあるかということは問題にする必要はない、という。
ところで幸福というものは一体私たちの生活にどんな形で存在しているものなのだろう。幸福は普通私たちに感情として湧いて来る。幸福感という表現がある。心情的な感じであるから、それは固定したものではなくて、私たちの日常のあれこれをかいくぐって流動しているものである。今感じられた幸福感も三時間のちには消されるということもある。何によってそれは導き出され、消されるだろうか。自分の内と外とのあらゆる生活要素のあらゆる角度からの接触のあらゆる刻々の移り動きが、私たちの幸福感を誘い出し、また追放するのだと思う。そして、私たちの生活の諸要素は、誰しもよく知っているとおりめぐりあった社会の歴史として時代性をもっているし、個人的な条件としての境遇や性格なども、その複雑な要素をなしている。複雑なそれらの要素は夜も昼も停止することのない生活の波の上に動いているわけで、私たちはその動きやまない生活の閃光のようにおりおりの幸福感を心の底深くに感じる。だけれども、その感じは大体感覚の本性にしたがって、ある時が経てば消える。
この動的な生活感情の明暗の推移を、昔の日本人は、人間の心のはかなさと見た。現代の人はそうは見ていない。しかし、感覚的なものとして過ぎてゆく性質の幸福感が、何かそのひとの生活力の一部にまで摂取され、何かその人をささえる生活上の確乎とした力となり、精神に精彩を与えるものとなるには、ただ湧いたり消えたりする幸福感ばかりを追って、その条件を作ろうとせわしく眼を配っていて求め得られることでない。それは明らかであると思う。
私たちが、人間として生活の糧となるような幸福感を見出そうと思えば、日常生活の刻々に湧いたり消えたりする幸福感そのものを、更に生活の悲しみや苦しみと一緒にひっくるめて感じてゆく、ひろくゆたかな雄々しい心情がなければならないというのは、何と興味ある点だろう。
つよくよろこぶ心、つよく悲しむ心、つよく憤ることのできる心、そういう心は豊かな心である。そういう心は幸福感もつよく感じるが、その幸福感のそこなわれる感じもきつく受けるであろう。真のゆたかにつよい心は、自分のよろこびの感情も、悲しみの感情も、悲しみは幸福でない感情の面だからいやだときりすてず、そのよろこびをかみしめて味い、悲しみをかみしめて心に味うことから、やがて、自分の心がよろこび悲しむ人間生活のさまざまのいきさつの面白さを理解するところにまで到達する。
代々の人間がそれぞれの時代の環境の中で、常によりましな生活を求めて生きていて、その過程で敗北し、成就し、自分もそのうちにまぎれもない一人であるということの避けがたい辛さとともにある否定できない面白さ。幸福というものが、案外にも活気横溢したもので、たとえて見れば船の舳が濤をしのいで前進してゆく、そのときの困難ではあるが快さに似たものだといったら昼寝の仔猫のような姿を幸福に与えようとしている人たちは非常にびっくりするだろうか。
人生に何か一定の態度をもって生きている人たちが、幸福をどこかでしっかり感得しているように見えるのは、以上のような理由によるのだと思われる。現代の生活は複雑で、幸福もそれをこわす条件も四方八方のつながりのうちに生かされて変化を受けつつあるのだから、今日私たちが、現実の前で膝をついた形でなく、現実の上に美しく健気に立った形としての幸福を獲ようとすれば、自分の生まれ合わせた社会と自分とについてのきわめて広い明晰な把握がなくてはならなくなって来ている。自分たちの不幸を底まで理解して、それを堅忍し、克服してゆく気魄がなければ、幸福感を味うことができにくい時代に来ているのである。破壊の行われているときにもやはり人類の幸福のために続けられている努力があって、それはどこにどんなに行われているかということを見きわめる力が求められて来ているのである。
若い女のひとは、どっさりいろいろの文学作品を読んでいる。彼女たちは、どんな風に文学を読むのであろうか。女のひとが、特に幸福というものを何か波瀾のそとのもの、悲しみの外のものと固定させた形で追求していることについて疑問が生じたとき、私の心にひきつづいて起った問いはそれであった。女のひとはどんなに文学を読むのだろうか、と。何故なら本当のいい文学の作品は、その作品の世界で決して筋を運んでいるばかりではなく、きっと、ある条件とのいきさつの間で人間がどんな風に生きたかという、その心と肉体との過程を描き出しているものである。偶然な街上のできごとで生じた人と人との間の波瀾がどう納ったかという話ではなくて、ある性格と性格との組み合わせとその背後にある社会の事情などから、どんな必然の緊迫した経過が生じて来たか、例えば「アンナ・カレーニナ」は、このことをはっきり誰にも分らせると思う。
この小説は一篇のまぎれない悲劇である。アンナの不幸を目にも心にもまざまざと描きつくした悲劇であるにかかわらず、私たちがそれを読んでいるときに受ける感動は美しくて、その震撼には不思議な甘美さがこめられている。この芸術の秘密は何だろう。すべてのすぐれた文学が、悲劇でさえも、その悲しみのうちに高鳴る一種微妙な美の感覚をつらぬかせていて、与えられるその感動で人が慰藉されるというのは、どういうことなのだろう。
芸術が、現実生活から生まれるものであって、しかも現実のひきうつしではないという本来の性質が思い浮べられる。芸術家は現実を見とおすことで、現実のあれこれに動かされつつなおそれに追いまくられず、それを人間の多種多様な生の姿として精神のうちに統率する力をもっている。そのような現実の只中に真直に立っている精神の力が、悲劇のうちにもそれが人間生活の真実に迫ったものであるところからの美と、何ともいえない感銘をとらえて再現して来るのである。
どんな人でも、たとえば「アンナ・カレーニナ」の世界に抵抗して、これは幸福をかいていないからいやだというようなことはしない、と思われる。アンナの悲しい生涯の最後のピリオドまでついて行くと思う。即ち一人の女の生の過程をともにたどるわけで、一番しまいに、ああと巻を閉じたとき、やがてまたもう一遍パラパラと頁をめくりかえさずにはいられない感動が心に鳴っているとき、アンナを通して印象された悲劇のなかにも輝く美の感じが、幸福と呼びならわされている感覚に通じる性質のものであることを感じとらないとすれば、随分残念なことだと思う。
文学は筋をよむものでもないはずといったわけは、ここのところにこそかかっている。文学のすぐれた作品こそ、悲劇の感動のうちにもなお美や慰めをこめている自身の生活の力で、私たちに幸福の最高のありようの典型を示している。人間生活のある場面では、低い形での幸福の外見が破壊されても、その過程の人間生活としての意味がはっきりそのひとの精神に統率されているときには、そこに一つの美としての幸福感が脈動していることもあり得ることを示しているのである。
幸福感というものの高い質は、主我的な飽満の感覚、満喫感と同じでないというのも面白い事実である。むしろ美の感覚を通じたものであることは、尽きぬ暗示をふくんでいると思う。美が固定した静的なものでなければならないという今日の若い女のひとはすくないであろう。美において動きと対照と破調と統一とを理解している心情が、幸福という言葉を、そのいきいきとして積極的なはずの美の感覚でとらえる力をもっていないとすれば、そこにはどういう日本の女の生活的な未熟さが語られているのであろう。
底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
1979(昭和54)年7月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
1952(昭和27)年8月発行
初出:「婦人画報」
1940(昭和15)年8月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
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