女の自分
宮本百合子



 人間には誰でも自分のことが一番面白いのだということがよくいわれている。確にそういうところもあろうと思う。自分のうれしいこと自分の悲しいこと、自分が好きと思いきらいと思うことは一番直接だし、ましてや自分が何か努力して難関を突破したという満足でもあれば、いよいよ自分のことは自分に興味ふかくもなるだろう。

 その自然な傾向のなかで、とくに女は自分のことしか話さないということがおりおり皮肉めいて諷される。いろんな話をしているようだが、落ちるつづまりは、きっと自分のことになるのが女の癖だといわれて、私たちは、はっきりとそうばかりでもないといい切れるだろうか。

 この間ある若い婦人のための文学投稿雑誌に、生活ルポルタージュの文章をつのって、偶然その選が私に当てられた。そのいくつかの原稿を読んで感じたことは、若い女のひとたちが、生活の日々に起るさまざまの事件やそこに登場して来る人々に対する好意や憎悪の感情を、いつも自分中心に感じてだけいて、第三者の位置に自分をおいてみて、自分の心持や対手の心持を眺めようとする努力がちっともされていないということであった。

 ある洋服屋の娘さんの書いた文章には、まだ年期の切れない弟子の一人が出征したので、その留守の間は娘さんも家業を手つだっていたところその弟子が無事帰還した。まずこれでよいと一安心する間もなく、その弟子が年期をそのまま東京へ出てしまった。そのことから深い腹立ちを感じている娘さんの気持が率直にかかれているのであったが、娘さんは、その帰還した若い弟子が今日の世間の空気に動かされて田舎の町から都会へと動揺してゆく気持にはふれてみようとしていない。いちずに不埒な男と怒っている。主人の側として年期をふみ倒してゆく若い者に好感のもてないのは当然だと思う。しかし、いい事でないと知りつつそういう風に行動してゆく若い帰還兵の気分には、時代的なものがつよくあって、そのことのなかに何か今の若い者の哀れな不安や動揺もある。主人の娘さんも若い女で、若い女として今日を生きている心にはいくつかの不安もあることだろう。自分がその若い者の主人の立場にいるということで、その娘さんには主人と雇人との利害のはじき合う面だけが感じられて、しかも、自分にとって不利を与えられたことの怒りだけに立って、その気持に自分をまかせ切っているのであった。

 そういう生活の感情をエゴイズムといわれればその娘さんは納得できまいと思う。何も自分が楽をしたいからだけ腹立てているのではない。そういう行為の無責任さが不愉快なのだというだろうと思う。それももっともではあるし、社会的にその若者が一つの無理な動きをしていることもわかる。けれども、若者の行為が無責任であることは十分明瞭に見ながらも、それによって非常に立腹する自分の心持のよって来る立場というものの作用をわきまえて、全体の人間関係のいきさつを、今日の世相の一つの姿として理解したら、その娘さんは自分を不快におとしいれた一波瀾から心持の上で何か豊富なものをえてもこられるのではなかったろうか。

 そのルポルタージュの文章に書かれていた若い娘さんの感情の中心の据えどころを思いまわすと、私には、女は自分中心、といい古された言葉が浮んで、やはりそこに連関しているものがあるのを感じるのである。

 妻の良人への情愛、それから母の子への愛。そういう愛情は日本の社会でいわば公認の愛の局面であるが、自分に向けられる母の愛、気づかい、心配などを、有難いとともに漠然負担に感じないで暮している娘さんたちが今日はたして何人あるだろうか。日本の女の自己犠牲の深さということを一方においてみると、女は自分中心だということが矛盾しているようでもあるが、自己中心ということが、つまりは女が社会的に自分の心、ひとの心を見て感じてゆく力の弱さから来ていることを理解すれば、自己犠牲の深さもその裏がえった一つのものとしてのつながりをとらえることができるのだと思う。これまで女が経て来た自分を殺した生きかたに、女は全く満足しきって朗らかであるのだろうか。けっして本心はそうではない。自分のささげた犠牲を十分胸にたたみこんでいて、そのねうちを評価していて、それについて語ることのできる場面におかれれば、自分にとって最も熱情のわき立つ話題として、自分を殺して生きて来たその筋道について語るだろう。そういうとき、自分の犠牲が、社会的にはどんな条件からおこったものかということは顧みられず、常に自分の一生としての範囲で語られるのである。

 若い婦人たちの社会生活は、今日どんどんひろげられている。女性総体としての社会的経験が急速に多様になり、複雑になって来ているわけなのだが、そのようにして社会の新しい水脈に立った娘さんたちが、どのように自分の経験を感じながら生きているのだろう。自分一個のさまざまの経験や気持や希望を、自分のものであるとともに女性全体のものであり、社会のものであるという関係から感じて、話せる力を、どんな風に身につけつつあるだろうか。

 女にとって社会生活がひろがるということは、ただ世の中に出て揉まれてすれてゆくことではないと思う。自分の行動、感情のいろいろを、ますます自分にはっきりした責任あるものとさせながら、そのような自分の行動、感情の明暗にかかわってきている社会的なものを見て、ひとの生きてゆく有様にも一層深い真情にふれた理解と興味とを抱き得るように成長してゆくことなのだと思う。自分を拡大することなのだと思う。

底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社

   1979(昭和54)年720日初版発行

   1986(昭和61)年320日第5刷発行

底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房

   1952(昭和27)年8月発行

初出:不詳

入力:柴田卓治

校正:米田進

2003年526日作成

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