異性の間の友情
宮本百合子



 先頃、友情というものについてある人の書かれた文章があった。その中にニイチェの言葉が引用されている。「婦人には余りにも永い間暴君と奴隷とがかくされていた。婦人に友情を営む能力のない所以であって、婦人の知っているのは恋愛だけである」と。その文章の筆者は「婦人についてかく言い得るや否やは、問題であるけれども」とただし書を添えながら、元来友情は、お互が対等であって互に尊敬し合うことのできる矜持きょうじということが重要な契機であるから、奴隷や暴君が真の友情をもち得ないということの強調としていられるのであった。

 今の時代の生活の感情のなかに受けとって味わうと、ニイチェのいった言葉もひとりでに彼の生きた時代のものの考えかたを歴史的に映し出していて面白く思われる。この詩人風な哲学者が「婦人のなかには」云々と一方的にだけいっていて、そのような婦人が存在する社会の他の現実関係として、当時の男性が婦人に対して持っていた習俗なり態度なりについては、男自身のこととしてまるで省察の内にとりあげていないのは興味があるところではなかろうか。婦人の知っているのはそればかりとされている恋愛にあっても、そういう相互関係のなかでは、やはり婦人のうちなる暴君か奴隷かが跳梁して、つまりは彼のもう一つ別な有名な言葉、すなわち、「女には鞭をもって向え」という結論をも導き出せたのだろう。歴史の鏡にうつる姿として今日見れば、婦人についてのそういうさまざまの表現は、とりもなおさず男の気持の裏からの告白であり、女とのいきさつでは男の中にも「あまりにも永い間暴君と奴隷とがかくされていた」ことを計らずも語っていることにもなって来る。

 友情論の筆者は、ニイチェの言葉に疑点を挾んで引用されているわけであるが、では、現実に婦人の友情を営む能力というものは現在どのくらい成長して来ているだろうか。友情を異性の間のこととして見た場合どうだろう。

 そういうような質問をされたある壮年の作家は、異性間の友情というようなものはあり得ないと答えられたそうである。その答えのされた気持は分るところがあると思う。妙にロマンティックに異性の間の友情というようなものを描いて、実際には恋愛ともいえ、あるいはもっといい加減に男女の間に浮動する感情を、その友情というようなところへ持ちこんで逃避したりする、無責任なくせにまぎらわしい甘ったるさを嫌って、かえってはっきり否定されたのだろうと考えられる。

 けれども、私たちに同様の問いが出されて、それに対する答えを日常の生活のうちにさぐった場合には、それとはすこし違った返事があらわれて来る。女同士の友情が深い根をもっているその生活感情のひろがりの中にやはり異性の間の友情が自然な実際として含まれて存在している。私たちの答えとしては、異性の間の友情はあると思っているし、現に存在している。もちろんそれには非常に複雑な社会的な条件がともなったものであるけれども、という返答になるのである。そして、どちらかといえば、ますますそういう異性の間の曇りない親切な友情の可能がこの世の中に社会的な可能として、より多くもたらされることを希望する心がある。

 私たちにとっては友情というようなものも、ごく社会的な内容をもつものとして経験されて来ていると思う。恋愛とか友情とかは、人間感情がたかまった形として、とかくそれだけ切りはなした言葉で問題とされ勝ちだけれども、日々の生活のなかでは、めいめいの生活態度全体とまったく有機的につながり合っているもので、友情を語ることは、人生への態度を語るという意味がもたれるのだと思う。

 世間で、人はそれぞれそのひとの程度に応じた恋愛しかしないものだといい習わしている。この場合、そのひとの程度ということはもちろん金銭の多寡や地位を意味しているのでないことは明かである。人間成長の内容をさしているのだが、友情についてもそれはいえることだろうと思う。ただ従来、そのひとの程度というとき、個人的な限度で、各人の天質とか仁とかいう範囲でだけ内容づけられていたものを、もっと社会的な複雑な要因のいまぜられたものの動きとして感じているから、そういう実質でかりに我々の程度というときには、個人に及ぼしている歴史の段階ということも実際としてふくまって来ているのである。

 人生を愛し、熱心にそこを生きて行こうとするほどの者は、誰しもこの社会の人間関係のより豊富さ、よりのびやかさ、より豊饒な発育性を切望しているのが本心と思う。そういうものとして、よりよい友情の花を同性の間にも異性の間にも期待するのは自然の心と思う。社会生活そのものの成長のあらわれとして、友情の可能が見られるものである以上、この願望には個人のひそかな願い以上のものがあると思う。同時に、個人のひそかな願いだけでは解決されきれない要素もこもっているということになるのである。


 これは男のひとの感情のなかでもきっと同じに現れることなのだろうと思うのだけれども、たとえばこうして異性の間の友情というものを当面とりあげて考えているとき、私の心には、異性の友情の胎とでもいうようなひろいものの感じで、女同士の友情のことが浮んで来ている。女同士の友情への関心ぬきで、異性との友情は十分語りつくせないような心持がしている。これは興味ふかい生活の必然なのではなかろうか。

 女同士は決して心からの友ではあり得ない。なぜなら、男というものに向ったとき彼女同士こそ、互の競争者であるから。そんな意味の警句があったように思う。今日でも、私たちは女の口から、女同士はとかくむずかしくて、とか、いやで、とかいう言葉をきいていると思う。ヨーロッパの風俗で、夜会などで一つ踊るにも女は男の選択に対して受け身の積極性を発揮しなければならないようなところでは、先の警句も、それなり通じた面もあろう。いわば近代的な後宮ハレムの女性めいた関係なのであるから。私たちの周囲で、女同士の友情を信じてない言葉がいわれる場合について考える時それはあながち直接の対象として男を置いてのことではないと見られる。遙かにそれより複雑の度を増して来た上での現象で、ありふれたいいかたでは、一種のせちがらさともいえよう。

 女の社会生活の進展は非常なものである。事変第三周年を迎える日本で、社会的な活動にしたがっている若い婦人たちの数だけでもおびただしいものである。社会的活動への婦人の進出はめざましいし、その必要の意味も、個人的に社会的に加重されてきているのであるけれども、その一つの事実がとりもなおさず婦人としての生活条件を全般的に向上させているかといえば、そうであるという回答は得られまい。女としての生活がこれまでもそれによって悩んで来た種々様々の矛盾は、それなりで、より広く社会活動の渦中に投げこまれあるいは吸収されている状態であると思う。近頃早婚と多産とが奨励されはじめている。それはなんとなく賑やかで楽しげな声である。だが、それを実践したい心は溢れているとして、全体の人数の何割の若い職業婦人たちが、それぞれの勤め先で結婚と分娩とを公然の条件として認められているであろうか。共稼ぎの率は殖えている。でも、女にとって職業か家庭かという苦しい疑問を常に抱かせて来たさまざまの相剋は、決して社会的な解決を得ていない。そのことのうちには、給料のこともふくまっていて、働いている婦人としての感情はお互に単純であり得ない。社会の凸凹が各個人の感情の凸凹にまでなっているところがあって、同じ勤めの女のひと同士の間に、万遍ない友情がなり立つということさえむずかしい。女の日常に嫉妬や反目がないといえば、それはうそになろう。

 それにもかかわらず、なお女同士の間には次第に社会的な基礎での友情がえられて来ているし、その質もおいおいたかめられ、それを評価し尊重することも学んで来ているのは、どういうわけだろう。そして、そういう成長のあとは、家庭にこもって、親や良人の翼のかげをうけている婦人たちより、ともかく職業をもって社会の波浪をうけている女のひとたちの感情のうちに、顕著であるというのは、注目されてよい事実だと思う。社会的な勤労に結ばれている女は、女同士のいやさもきつく感じている半面で、女同士の友情を営む可能をはぐくまれている。自分たち女というもののこの社会でのありようというものが、働いている女にはまざまざとした分りかたで分って来る。生きて行く場面で互が苦しく競り合うものとして現れているとすれば、今日目の前にそういう現象を持ち来している社会的な動機への洞察がいつかよびさまされずにいない。女としての境遇に処するということのうちに、おのずからその境遇に向う自身の態度というものが加わって来て、その積極な自覚は、新しく見開かれた眼差しで、ぐるりの女同士の暮しぶりを見直させるであろう。そこにやはりあちらでもそのような視線をもって周囲を眺めている一対の黒く若々しい眼が出会ったとき、単なる知り合い以上の共感が生じる。そして、やがて友情が芽生え、その友情はあらゆる真摯な人間関係がそうであるとおり、互の成長の足どりにつれて幾変転し、試され試し、幾度か脱皮してその人々の人生へもたらされて来るのである。

 境遇が同じようだというだけでは、まだ真の友情の生れる条件に欠けているということは、実に意味ふかいことであると思う。境遇に向うその人の一貫した生活態度というものが在って、初めて互の友情の社会的なよりどころが与えられる。境遇が変っても、その変りかたに互の生活態度として納得の行くものがあり得ること、その境遇の変えかたに、相手の生活態度として評価し尊敬し得るもののあること、そこに女同士の友情も立つのである。そういう意味で、友情は生活的である。互の生活の導きぶり、関係させぶりそのものの中で友情の本質がいわば語られるのであって、そういう本来的なものからはずれて、友情のためとか、友情の美しさ云々は成り立たないのであると思う。友情という抽象名辞で描かれてゆくものでなくて、互の間の日々に生きこめてゆかれるものなのである。


 異性の間の友情というと、何かそこに特別なものが待たれているように思われなくもない。異性の間では、一方が男であり一方が女であるのだから、その友情にどこやら恋の香りも漂っていそうに思われたり、恋愛と友情との境にある模糊とした感情の霞がひかれていて、きょうはそのあちら側へ、きのうはこちら側へと心の小舟の操られるサスペンスに、異性の友情の趣があるとでもいう風に気分の上で描かれているところはないだろうか。ゲーテだのルソーだの岡倉天心だのの伝記には、恋愛と同義語のような異性の間の友情が出て来てもいる。異性の間に漠然とした関心、興味、ある魅力が感じられているという状態のとき、それは互の条件次第で恋愛としてのびることも想像されると思う。けれども、異性の間でも、友情が友情としての感情内容をはっきりうけてあらわれた場合、その感情の本質は、あくまで友愛であって恋愛ではないし、それが友愛として持つ感情の性質では、同性の間の友情の本質とまったく同じ社会的な地盤に立っているものであると感じられる。

 自然な女の心持で、異性の間の友情を考えると、どうしても女同士の友情というものが浮んで来る心理の必然が、おのずからこの感情の本質的な機微にふれているのではなかろうか。

 恋愛というものは、この社会の歴史の現実のなかで、男と女とが相互的ないきさつでおかれている矛盾や対立やについて、客観的にそれを把握した生活態度がきまっていなくても生じると思う。矛盾そのものの発現としてさえ、恋愛はあらわれ得る。けれども、異性の間の友情は、その輪廓のうちに女は女としての、男は男としてのめいめいの恋愛の経緯までをこめたものとして感じられるのだから、その点でも女同士の友情と性質がひとしい。そして、女が女としての自分たちのありようを客観的に見て、そこに働きかけてゆく一定の生活態度をもって、初めて女同士の友情の可能に立つとおり、異性の間の友情も、男と女とが、この現実のなかで置かれている相互の対立の意味、反撥する利害の社会的な意味、それに対して処して行く上での一定の人生態度というものがあって、初めて友情を以て互に認め合う人間交渉が生じて来るのである。別の言葉でいえば、Aという女がBという男に対してとる態度。Bという男がAという女に対してとる態度。その間に人生への態度として共感が生れ、それをCという感情とすれば、それが異性の間の友情と呼ばれるものであろう。女は女として、男は男としてそれぞれにはっきりした生活態度を持っているということが、ここでますます決定的な条件となってくる。さもなければ、友情という感情は、その本来の人間的実質をうけることができない。よくカメラとか音楽とか、いわゆる趣味を通じて異性の間が結ばれるけれども、社交性とは違う友情という点からいえば、同じカメラに対するにしても、それに対する一定の態度において、互の評価なり敬意なりが可能であるということが求められるのであると思う。境遇が同じだというだけで友情は育ち得ないとおり、趣味の対象が同じだからというだけでは友情に至らないのである。

 年齢やその他の生活事情で、友情と恋愛との区別が互の感情の中でつき難いということも、現実にはしばしばあることにちがいない。それは否定されないけれども、それだからといって、異性との間に友情はないというのは、明らかに一つの誤りであり、そのこと自身、今日もなお私たち女や男が、人間としてどんなに狭く貧相な感情の種目で、しかもぼんやりしたり混乱したりしているその内容のままで日暮しをしているかという、社会のありようを告白してもいるのである。


 大体友情というものは、昔からなぜ尊重されてきたのだろう。普通美や善というように人生に永遠な友情というものがあって、それを私たちが生活の現実の中に得ることがなかなかむずかしいから、尊重すべきものと説明されて来ているように思う。はたしてそうであろうか。自分たちの生活にもたらされているいくつかの女同士の友情や異性の間の友情というものの過程をたどって考えてみると、どうも永遠な友情というものの方からその価値はいえず、むしろ激しい生活の風波にもまれている境遇を貫いて互に一生懸命失うまいとしている人生へのある態度の側から、語られてゆくと思える。人一人の生涯の推移変遷は予測しがたいところがある激しさだから、ある時期は互の移りゆく速力が倍加した速力となって互に作用し合うような時期もあるだろう。そういうときでも、なおその間に十分な同感、納得、評価が可能であるだけの確乎とした生活態度が互の生活に向っても一貫されているということこそ、稀有だろう。自分の生活、友の生活に向ってそれだけ強い意識をもちつづけ得るほどの強靭な人間性というものが珍しく、従ってその上に初めて可能に現れるしその友情が珍しい人間の歓びであるのだと思う。

 同性の間で真の友を得ることができない女や男が、異性との間に友情と呼ぶにふさわしい感情を培いえている例は見ない。人間関係を大切に思い評価しあう心が根源をなしている友情で、それが異性の間にある場合、私たちはそれぞれのひとの配偶としての同性に対して、友の生きかたを尊敬する意味において十分鄭重であるのが自然だと思う。同性の友情が、常にその友の対手である異性に対して、友の感情の必然を理解しているという意味から慎重であり、節度をもっているのが自然であると同様に。

 友情のそういう健全な敏感さは、日常の接触のおりおり、みだす力としてより整える力として発露して、異性の間の友情をも調整して行くものである。くだらない偶然で紛糾をひきおこすことは避けるだけの実際性にも富んでいることが生活態度としてある貴いものを与えることにもなるのであると思う。

 友情という二つの文字は簡単だが、そこにこめられてある内容は何と複雑だろう。まして、異性の間に友情が友情本来の社会感情の内容で見出されはじめてから、歴史はまだずいぶん新しい。日本ではことにそうである。友情という感情内容が何となし薄味であるかのように感じられる程、それは異性の間に社会感情の間では若々しい芽である。社会的には全く複雑な要因に立つ異性の間の友情が、いたるところで一見まことに単純自然な花々を開かせているという気持よい人間的美観は、私たちの気短かい期待でいきなり明日に求めても無理で、個人と社会とのそこに到ろうとする着実な一歩一歩のうちに実現されて行く可能なのである。

〔一九三九年十月〕

底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社

   1979(昭和54)年720日初版発行

   1986(昭和61)年320日第5刷発行

底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房

   1952(昭和27)年8月発行

初出:「婦人公論」

   1939(昭和14)年10月号

入力:柴田卓治

校正:米田進

2003年526日作成

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