雨の昼
宮本百合子
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雨の往来から、くらい内部へ入って行ったら正面の銀幕に、一つ大きいシャンデリアが映し出されていた。そのシャンデリアの重く光る切子硝子の房の間へ、婚礼の白いヴェイルを裾長くひいた女の後姿が朦朧と消えこむのを、その天井の下の寝台で凝っと暗鬱な眼差しをこらして見つめている女がある。順をおいてみて行ったら、それが母の再婚に苦しむ娘イレーネの顔であった。
「早春」という映画は近ごろ評判にのぼったものの一つであったらしい。女の画家や、作家がそのつよい印象を語っていられる文章をどこかの広告でも読んだ。母ジェニファーの新しい愛人、そして良人として現われたコルベット卿をやっている俳優が、英国風の紳士というものを何か勘ちがいして、英国名物のチャンバーレン、蝙蝠傘は忘れずその手に持参しているばかり、到ってユーモアも男らしい複雑な味もなく一番つまらない。ジェニファーをやるユンツェルもイレーネやババもその他みなそれぞれ活きていて、ババをやっているゲラルディーネは、真白に洗濯されたエプロンが青葉風にひるがえっているような心持で面白かった。十二年前、二人の娘とカルタで負けた借金をのこして良人が死んだ後、子供を育て、借金をかえし、現在ではパリで有名な衣裳店を開いている美しい中年の寡婦ジェニファーが、或る貴族の園遊会でコルベット卿にめぐり会い、その偶然が二人を愛へ導いて結婚することになると、満十六歳の誕生日の祝いと一緒にそのことを知ったイレーネが悩乱して、婚礼の朝、朝露のこめている教会の樹立ちのかげから母の新しい良人を狙撃しようとする。しかし、その力も失せて、イレーネは絶望の果て、そのあたりの池へザブザブと我にもなく歩みこんで自殺しようとする。妹のババと羊飼の少年フィリップとが危くかけつけてイレーネを救い上げる。柳の葉の垂れた池の畔で、ボートに横えられている濡れ鼠の姉を抱きしめて驚愕と安心とで泣きながらババはたずねる。「イレーネ、死ななかってよかったと思う?」やっと正気に戻ったイレーネは辛うじてききとれる声で「恥しいわ」と答える。そして、「このことママには云わないでね、ママのために云わないでね」「ああママは結婚したって、やっぱり私たちのママよ!」姉妹は再び泣き笑いながら、擁きあった互の頬を重ね合うところで、この物語は終っている。
年ごろの娘心と母の恋愛との感情のもつれが描き出されているところが、この映画へ多く女の人の注意をあつめていると思う。イレーネの母は、四十歳前後の年ごろであろう。女の厄年というものを日本の云いならわしでは十六とか三十三とか云って、それにはその年それぞれの理由から、様々の危期もあるだろうが、娘の十五、六という年と母の四十歳前後という年とが、或る事情のもとで重なると、女性の生涯の場面としてそこに独特なものが湧き上る事が少くない。ゴーゴリが「検察官」に描き出している市長夫人と、その娘とは、その間の隠微なものに何と鋭い針をさしているだろう。女としての咲きかかった花の美しさ、自覚の底に揺れ揺れている娘の感覚と、女としての夕やけの美しさ、見事さ、愁いと知慧のまじりあった動揺の姿とが、どんな人生の絵をつくり出すかということは、情痴の一面からではあるがモウパッサンが「死よりも強し」のなかなどで描いている。
「早春」のイレーネは長い冬から突然芽立って来たばかりの蕾のような感情の猛烈さ、程よいという表現を知らない荒っぽさで、父への愛、母への愛の自分で知らない嫉妬にめくらになるのだが、私は一人の観客としてこの映画に堪能しないものをのこされた。芸術的な感銘で云えば、すべてのシチュエーションが、感情でも、何でも中途半端の上へきずき上げられている。母のジェニファーは、ほかならぬ女相手のしかも衣裳屋として成功し、立派な店をも持っているからには、純情であろうと十分この世の良識はそなえている筈ではないだろうか。二人の娘たちに対して、受け身に、曖昧に、謂わばイレーネに見つけられたという工合でのモメントにおいて、自分の恋愛や結婚を語らないでも、もっと本当の愛情からの娘たちへわからせてゆく知慧の働きはあったと思う。働いて、たたかって、そして子供らを愛して来た女は、それだけのものをいつしか身につけているのではないだろうか。お祖母さんがそのものわかりよさで、好評を得ているようである。それもわかると思う。云わばこの太った白髪のお祖母さんとババだけが、こんがらかりの中で正気な心持でいる人たちなのであるから。イレーネが気ちがいじみた程の様子でコルベット卿にこの家から出てゆけと云ったのを知って、母のジェニファーは、子供のためにその結婚を断念しようとする。その懊悩を眺めて、お祖母さんは、ジェニファー、そんな苦痛が堪えられるものではありませんよ。一生のうちにはひとの思惑など考えずに決心しなければならないときがある。今がおくれればお前の一生は、とりかえしがつかない。さア、早く、ケーニッヒさん、タクシーを大至急。と娘を押し出してコルベット卿がロンドンを出るのを止めさせにやる。こういう場面で、私たちのまわりの現実にありふれた年寄りは、マア、お前、店だってこんなに流行っているのに今更何も云々とか、もう年ごろの娘がいるのにとか、とかく云うであろう。ジェニファーの立場にいる女は、こうして多くの場合二面にぶつかるものをもたなければならない。それにひきくらべて、と、日本の女のひと、特にジェニファーに近い年ばえの女のひとが、この映画の祖母のわかりよさを愛すとすれば、そのことのなかに、一言にしてのべつくされない今日の女の生活にたたまれている感情のかげがあるわけである。
でも、私は、このお祖母さんだっていくじがないと思う。物わかりがいいところまで行っていてくれはしないと思う。イレーネの心に入ってきいてみれば、母の新しい良人に感じる憎悪を、お祖母さんが只一くちに利己主義だと云っているのをもしきいたとしたら、どんな悲しさに号泣することだろう。大人の世界の思いやりなさを憎むだろう。イレーネにすれば、利己主義と名をつけられて、承知出来るような心の動機で、気が狂わんばかりになっているのではない。これまで自分の心にあふれていて、その要素はいろいろな愛情を未熟に熱烈にひとっかたまりにぶつけていたものが失われると思いこんでいるから苦しいのであるし、その無我夢中の苦しさ、その半狂乱に、云うならばむすめ心もあるというものだろう。それと一緒に、日頃の紋切型の教育が教えこんでいる貞操という考えの混乱もおこって、彼女は啜泣きながらお祖母さんの手にすがって、「ねお祖母さん、じゃ人は一生に二度人を愛したり結婚したり出来るものなの? おお! では貞操っていうのは、どういうものなの?」ときくのだけれど、この大切な瞬間のお祖母さんはその経験ふかい白髪にかかわらず、さながら大きい棒パンのようにただ立って、切なげな表情をして、或る意味で人生の瀬戸ぎわに立っている孫娘にくりかえして云えることと云えば、赤坊の時分から唇に馴れた「さアおやすみ」という言葉だけである。製作者はイレーネを大切に扱っていない。芝居はさせているが、人間の心にふれて大事に見ていない。だから、自殺までしかかったこの娘が助け上げられたボートの上で、「ママのためにこのことを云わないでね」と優しさをこめて云っても、本当の心の中で、あれだけの苦悩と混乱がどうしずまり、多難でいりくんだ愛というものについてどうわかったところが出来てのことだろうかと、その点は全く彼女のためにも、母のためにもたよりない。
母のジェニファーが、イレーネの混乱にまけて結婚を断念し、お祖母さんの言葉で、又それなり動くところも、その人生での経験や年配にてらして単純すぎる。製作者がこういう中年の美しい独身の母の心理に興味をもつなら、それとして、もっと粘って追究すべきであったろう。母と娘との間に、女として対立の刹那もあるわけであろうから。小説的な捉えかたかもしれないけれども、苦しんでいるイレーネが、自分の悶えを皮相的利己主義だと片づけて云われているのを洩れ聞くところから、その心のたたかいがはじまり母ジェニファーの成熟とババの明るい自然さと絡んで展開されて行ったら、この「早春」のウファ映画によくつき纏っている感傷性とは違った世界が描き出されたのではなかろうか。
その日は雨降りだから、すいているだろうと思って昼間の武蔵野館へ行ってみたのであったが、一杯のいりであった。たくさんの女のひとが熱心にみている。ぴったりと吸いよせられて、その肩のあたりや横顔をぼんやり浮上らせている列にそって顔から顔へ視線が行くと、これらの心がどんな気持で観ているであろうと、梅雨のいきれがひとしお身近に感じられた。若くて寡婦になったひと、その良人の肖像は幼い娘や息子に英雄として朝夕おがまれているばかりでなく、周囲からもそのように見られ、そう見ているものとして残った妻の心も一応きめられている沢山の女のひとの暮し。そういう人も、やはりこの「早春」を見に来ているのだろう。自分たちの遠いようで近い明日というものの中においてみて、これは今日のどんな感情をおこさせるであろうか。大した傑作とは云えまいこの映画が、その感情や智慧を中途半端に運ばせている芝居にも猶かつこの様にその心と眼とをひきつけるものを含んでいる女の生活とは、現実においてどういうものであるのだろうか。
それを思うたびに、心に一つのおどろきが深まるように思うのは、女の真心、母の真心というテーマで描かれている傑作映画は、たとえば古く「ステラダラス」にしろ、ポーラ・ネグリがいかにも女優としての力量を示した「マズルカ」にしろ、実にその多くが、母の悲しい犠牲にたたされていることである。女の生活のそういう悲しみ、諦めの面にふれて来ると、西洋の社会でも日本の社会でも、ちがいは殆んどないように見え、女の心の発露に対してもきめられている生活条件の方向が感じられるのである。
底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
1979(昭和54)年7月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「女靴の跡」高島屋出版部
1948(昭和23)年2月発行
初出:「中央公論」
1939(昭和14)年7月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
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