成長意慾としての恋愛
宮本百合子
|
ある種の人々にとって、恋愛はそう大した人生の問題でなく感じられているかもしれない。あながち志壮なるが故にではなく、ごく古くからありふれた習俗の枠にはまった考えかたで、恋愛と青春の放埒と漠然混同し、その場その場で精神と肉体とを誘い込む様々の模造小路を彷徨しつつ、身を堅める時は結婚する時という風な生き方である。
そういう風の吹くままの流れかたを自身の生活として承認出来ない心持の多数の若い人々は、社会の現実について目がひらけて、自分の生きかたを問題にして来るに従って、その全体的な問題の最も有機的な部分として、恋愛のことも真面目に考察せざるを得なくなっていると思う。今日、大多数の若い人々が、男女にかかわらずそれぞれの恋愛について、私的なことであるが又公的なことでもあるとする一つの公開的態度をもって対する根本には、上述のように、恋愛の含む広い複雑な社会性の意識がいつとなく作用しているからである。
若い世代は、率直に、自身に恋愛の権利を認めていると思う。しかしながら、自身に向ってその当然さを認めることと、適当な恋愛の対象を見出し得るか否かということはおのずから別であり、更にその恋愛を互の人間らしい成長の希望、方向に於て発展させ完成させて行き得るかどうかという点になると、事の複雑さは一層深いものになって来る。ここでは、自身と対手との個性が、その出生や成長期の環境からうけている実に多様な諸条件によって交渉し合うばかりでなく、外部的な事情との接触、摩擦、克服の過程で、それぞれの恋愛が形づくられ、完成され、或る場合は破滅させられて行くのである。今日の若い人々が、自身の人生に恋愛を認めていると同時に、一面では多くの場合暗黙の裡に恋愛と結婚生活とを切りはなして考え、行動していることは、注目をひく点ではなかろうか。十人のうち何人かは、淡泊な微笑で自分たちの恋愛を認めるにちがいない。ところが、ではそれは結婚に到るものかと訊ねたとすると、恐らく全部の人が些か困惑し、或は問うまでもないこととして、結婚は思っていない意志を表明するであろう。これは何故だろうか。
少年の感情の世界にひそかな駭きをもって女性というものが現れた刹那から、人生の伴侶としての女性を選択するまでには成育の機変転を経るわけである。感情の内容は徐々に高められて豊富になって行くのだから、いきなり恋愛と結婚とをつなぎ止めてしまうことには、当を得ない点がある。十分にそれを考慮に入れてしかも尚、今日の若き人々が、恋愛について比較的公開的な心持になっているのに、半面愛する者を愛妻として期待しない気持の中には、何かそのままに見過せないものが潜んでいると思う。
日本では、誰にも知られているとおり社会のあらゆる現象が古きもの新しきものの苦しい錯綜に絡まれているために、例えば恋愛はその限りに於て人間本来の感情と見られていながら、結婚となると昔ながらに、家と家との交渉の面が忽然として大きな比重を占めるようになる。或る結婚は、特定の家として出来ぬ、許さぬ。そういう事が決して珍しくない。事を一層紛糾させている他の社会的な心理は、極めて現代風の経済観念、打算が若い心にも反映していて男女とも、結婚は経済的社会的安定の基礎として計量する小ざかしさが生じていることである。男がそのような計量で恋愛をするのみか、若い女も今日では、あわれにもそれを近代性が彼女に与えた賢さであると勘ちがいしているのが少くない、これらの事情はもつれあって、全く旧来の家と家との縁組みの習俗へ若い世代を繋ぐかたわら、それは現代の経済内容を盛って金、地位などというものへ、多くの進歩の可能を埋没させてしまう結果となっているのである。
このような現実は、結婚の質を低めているばかりでなく、当面には恋愛の質をも粗悪、粗忽にしていると思う。いつかわが手から落ちるだろうと思って摘む花を、誰が一々やかましく吟味して眺め、研究して掴むだろう。そういう、とことんのところで消極的なものが包蔵されている心理で、良い恋愛の対象にめぐり会えまいことは一応わかることだし、その程度の対象では生涯の伴侶として決定しかねるという因果関係が生じて来るのもわかる。
真率な、健康な理性と情感とをもつ若い世代は、自身が歴史の火に負うている課題として、出来るだけ、恋愛と結婚とを一本の道の上に置くように行為すべきであると思う。ここで一本の道の上というのは、一から二への直接の移行という意味ではない。それぞれの人の人生に向う態度の発展を語る一貫性の一内容として自覚され行為さるべきであろうという意味である。
問題はここまで来て、新しい障害に出会うと思う。何故ならば、上述のような希望と意志とで生きようとさえすれば直ちに、響きの物に応ずるように、愛すべくよろこぶべき対手が出現するかというに、遺憾ながらこれも決して、波荒き現実の中で指定席は持っていないからである。恋愛に於て、理想とする対手にめぐり合えない歎きは、謂わば人類が恋愛詩とともに今日に伝えている訴えである。或る意味では、さきに触れたような人間発展の明確、強烈な意欲として恋愛を自覚するほど、猶更周囲にふさわしい対手、質の均衡した生活感情の持ち主の乏しいことを痛感するかもしれないのである。では恋愛の低さに馴れ合ってしまったらどうであろうか。もし彼の意欲がまがいものでないならば、その事でわれと我身に告白せざるを得ない発展的意慾そのものの実行的な無力さや、抽象性に苦しまざるを得なかろう。
若い女性自身の生活が内外から呼びさましてゆく、人間的な生活への欲求というものが、問題に答える重要な因子としてここに立ち現れて来る。教育の外貌は益々庭訓風になっているが生活の現実が刺戟する発展への翹望が、若い女性の心に皆無であろうなどとは、想像する者さえない。そのような心持の生きてに出会うということは、必しも望みなくはないのである。自身の求める恋愛の質や内容がはっきり自分に掴めさえすればおのずから対象の条件も整理され可能性の標準も立って来る。恋愛がこの人生に於ける一つの建設である以上、先ず可能を捕えて行くという現実的な勇気がいる。既製品というものは存在しない。そのためには或る人々にとっては自身の求める対象が存在する可能性をもっている社会環境にまで、自分の生活を押しすすめて行こうとする伸展性がいるかもしれない。社会文化が生じて世紀を閲している今日では客観的な意味で、健全な恋愛のためには不毛地帯と呼ぶべきような地域が生じているからである。
底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
1979(昭和54)年7月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
初出:「三田新聞」
1938(昭和13)年11月10日号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。