映画の恋愛
宮本百合子



 近代企業としての映画は、経営の上にも技術の上にも急速な発達をとげているのだが、映画に扱われている女の生活というものは一様にある水準に止まっている。技術的にはアメリカやフランスの映画が先へ歩いて行っている部分のあることは明かなのに、映画の主題として女が扱われる時、愛人として妻としてまた母として、女の犠牲の面から筋が扱われていることでは、アメリカも日本も全く同じである。このことはこれまでしばしば注意を引かれた。有名な「ステラダラス」「マズルカ」などでも、この社会で受身な負担のにない手である女の苦しい感情が母性愛といういろどりで描かれている。こういう映画が外国でも人々の涙を誘うのであって見れば、そこでも女の生活は、恋愛の面においてもいろいろの苦しいものを持っていることが察せられる。

 観客に対する関係からでも映画製作者は恋愛のさまざまに変化ある捕え方に苦心しているのであろうが、せんだってのディートリッヒとヴォアイエの「砂漠の花園」などは中途はんぱで工夫倒れの感があった。それよりは「あまかける恋」におけるゲーブルとクロフォードとのユーモラスなものの下に語られる男の真心というようなものの方がさっぱりしていて、笑えるだけでも成功であったと思う。ぎょうぎょうしくて、しかも愚劣であったのは「恋人の日記」である。

 映画における恋愛的な場面は、余程むずかしいものと思う。ヨーロッパ、アメリカの製作者たちの多くは、そういう場面となると何か特別ロマンティックな雰囲気、道具だてを必要とすると考えるような習慣からまだまだ自由になっていない。そこまでは比較的自然に運ばれて来た観客の感情がそのような場面に近づくにつれ次第に不自然な道どりに引き入れられて、いわゆるクライマックスでは一目瞭然たる張子の森林などの中に恋人たちとともに案内されるのは迷惑である。そういう点だの技術的な俗習、鈍感さは、自動車の追跡場面とともに、映画の持つ根深い常套の一つであると思われる。

「夢みる唇」や「罪と罰」の中の恋愛的場面は、それをありきたりな形に現わして説明せず、その裏の感情から画面に現わして行って十分の効果を上げていた例であるし「巴里の屋根の下」などでもルネ・クレイルは、人間が特別なセットの中でだけ恋愛をするものではないという健全な理解の上に立って、都会生活の描写の中にそれをいかした。レンブラントの生涯を映画化した「描かれた人生」では、一人の芸術家が二様の動機で二人のそれぞれ性格の違う女に違った感情の内容で結ばれて行くところが、じみではあるが効果を持って描かれていた。

 それにつけても、映画の恋愛に現われる女がはたしてどの程度まで性格的に自主的に感情表現をし、行動をしているであろうか、大分疑問である。なるほど、現在有名になっている女優一人一人について見れば、容貌にしろ髪の色、声にしろ感情表現の身振りにしろ特長がなくはないのだが、男との相対において現われて来ると、性格的なものをはっきり生かそうというスター・システムの焦慮にもかかわらず、感情の総和ではどうも女一般に還元させられてしまっている。つまり筋書の根本のところで、女ごころの内容を、型にきめてしまっているところがあるからであろう。細かくこの点に触れて観て行くと、外国でも女優はまだ持ち味を肉体の特長とともに一般的な女的性格の上に投げかけている程度に止っており、しかも、女優自身がいわば最も自然発生的なものの上に立って演じていることについて、自覚も煩悩も持っていないように見える。最近上演された「四つの恋愛」を観たときも私はそのことを強く感じた。「四つの恋愛」はコンスタン・ベネット、シモーヌ・シモン、ロレッタ・ヤング、ジャネット・ゲイナーという四女優を集めてこれらの女優の特色で興味をひこうとしたものであったろうが、案外に深みも味も、特長さえ大して活かされていなかった。

 日本の映画では、以上のような点が一そうきわ立って現われていると思う。日本の映画俳優は、感情表現を独特な立場から研究しなければなるまいと思う。単純な西洋風をまねたばかりでは活動写真の範囲を出ないし、われわれの日常生活の習慣が感情表現に加えている長年の制約を、演技的に止揚することは大切な努力の一つとして将来に期待されることである。

「裸の町」を観ても感じたことであったが、日本の女優の力演の顔には共通な一つのものがある。妻として苦境に堪えて行く顔は充実して表現されるが、もっと内部的に複雑な葛藤を物語る際になると、顔は非常に消極的な役割しか演じなくなる。「裸の町」についていえば夫の留守債鬼に囲まれながら孤城のような店に立てこもっている妻の顔つきは全く内部の感情と結びついたものであって、観る者を納得させた。けれども猫を捨てる海岸の場面、駅前の小料理屋の場面などで、妻の顔は言葉を失ってどちらかというとただの女の顔になってしまっている。そしてこの場面こそ心理的には全篇の中の一番緊張した部分であった。

 ある外国人が書いているものの中で日本の民衆の顔の特徴の一つとして深刻な観察を語ったのを読んだ覚えがある。その人はいっていた。ヨーロッパの民衆は平常の表情はだらしないゆるんだ様子をしている者でも、何かまじめに考えたり、行動したりしようという瞬間には、その容貌が一変したようになって普通と違う緊張やある活気機敏さを示す。精神活動の目醒めがすぐそのものとして顔に出て来る。ところが日本の民衆の顔は全く特別な性質を持っていて、平常は敏活ささえ見えている顔が非常にまじめに緊張すると、かえって一種漠然としたような、遠のいたような、一見遅鈍のような表情に変る。これは驚くべきことであるといっている。なぜそのような変化が生じるかということについては社会的な原因が綿々と過去につらなっている。女の生活の現実を考えて見れば、女優が本当に自分の顔をもつまでには、なかなかのことであると思われる。日本の表情の一つとして世界に不評判なあいまいな笑いの習慣も、映画の上では特に注意される問題であると思う。

「裸の町」は、私たち素人の目では、前半、後半とテーマがわかれていた感じである。文芸映画としてのよりどころは、後半にあったと思うが、後半での妻の演技的迫力がもう一つ足りなかったので、誠意はあるにかかわらず心理的な動きのボリュームが減った。

 この頃は不自由でソヴェトの映画をなかなか見ることができなくなった。現代、あっちの映画はどんなふうに行っているか実に好奇心を動かされる。アメリカその他の映画が、たとえば恋愛を扱うにしろ、社会の非合理から生じた悲劇を悲劇のまま描いたものか、さもなければナンセンス、ユーモアに韜晦とうかいしているもの足りなさを、今日のソヴェト映画は、どのような内容と技術の新生面を開いているだろうか。小説が通俗化せば化すほど、筋は恋愛に集注して来る。その面からだけ現実を勝手にきって行く。映画でも駄作ほど恋愛一点張りになるのであるが、このことも、映画が今日の文化の中でもっている社会性を反映しているといえると思う。

〔一九三七年八月〕

底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社

   1979(昭和54)年720日初版発行

   1986(昭和61)年320日第5刷発行

底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房

   1952(昭和27)年8月発行

初出:「日本映画」

   1937(昭和12)年8月号

入力:柴田卓治

校正:米田進

2003年526日作成

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