マリア・バシュキルツェフの日記
宮本百合子
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暑い日に、愛らしく溌剌とした若い娘たちが樹かげにかたまって立って、しきりに何か飲みたがっている。ああ、これはどうかしらんといって、樹かげの見捨てられた古屋台の中から、すっかり気がぬけて、腐っている色付ミカン水の瓶をひっぱり出して来て、それを分けて飲もうとしているとき、もし、傍に人がいて、五六間先の岩の間に本当の清水がこんこんと湧き出しているのを知っているとしたら、その人は娘さんたちに向って何というだろう。一寸一寸、そんなくさったまがいものはおやめなさいよ。そこに清水があるのよ。そこへ口をつけてたっぷり喉のかわきをおなおしなさい。そういわずにはいられないにきまっている。
私はこの間「恋人の日記」という映画を見て、全くそういう心持から、声が出そうになった。ああ皆さん、これは、随分こしらえものだし、まがいものです。本当の「マリア・バシュキルツェフの日記」はここにあります。これこそ、かえりみるべき価値をもっている。若い女性の生活を何かの意味で教え豊かにするものを含んでいる。容赦のない現実を生きた痛切な一少女の吐露があります。
ヘルマン・コステルリッツという映画監督も、脚色者ヨアキムソンも、「恋人の日記」では、弁解の余地のない芸術家としての低さを示している。彼らは、「マリア・バシュキルツェフの日記」に目をとおしながら、一人の女としてのマリアは全然理解しなかった。驚くべき芸術的才能をもって僅か二十四歳で死んだロシアの貴族の娘マリアの、独特な色の焔のようであった性格の美しさ、面白さ、苦悩の真実さ、矛盾の率直さが、まるでつかまれていない。つまり人及び芸術家が魅力を感じるべき点がことごとくゆがめられて通俗なロマンスとなっているのである。
例えばマリアが病気になっている。しかも大変わるくなっている。それを知っているのは、彼女を魂から愛している老家庭医のワリツキイ博士だけであるように映画では説明されていて、そこで観客の眼に涙を誘う道具だてがされているのだが、実際の生活の中でマリアは、自分の病気がわるくなるより四年も前に、この「天使のような」ワリツキイ、生きていたら、どんなにか彼女の最後の力となったであろうワリツキイに死なれている。マリアの肺が両方とも腐りはじめていることを知っていたのは、本当はマリア自身だけなのであった。それから、彼女の身のまわりを世話していたロザリイという召使と。ついにマリアが立てなくなるまで、二人のほかには母さえもマリアがそんな重い病にとりつかれていたとは知らなかった。マリアは、絵の仕事がしたい。その為に、病気を知れば母がスケッチのための外出さえやめさせるであろう。すっかり病人扱いにし、涙でぬらし甘やかすだろう。それではマリアとして、どうせ短かい自分の命の価値を、自分が満足するようにつかうことさえできなくなる。それで病をかくした。その上、花のような容貌をしながら二十歳のマリアはすでに結核性の聾になりはじめていた。その恐ろしい事実を彼女はどれ程の緊張でひとからかくしたろう。いくたびか巴里のあっちこっちの医者へその治療のために通ったかもしれないのである。
「恋人の日記」では、この人生でマリアの最も厭がった拵えものの筋が椿姫まがいに運ばれている。そしてついにマリアは、実は彼女の絵の教師が貰ったサロンの金牌を、彼女へおくられたものとして持って来るモウパッサンの愛の偽りに飾られて死ぬのだが、決して、マリアが自分の最後に面した現実はこんな水っぽい、甘いものではなかった。彼女の傑作「出あい」はサロンで二等になったにもかかわらず、若い娘の作品にしては立派すぎる、非常によいことが却ってさまざまな中傷を産んで、当然として周囲からも期待されていた金牌は、第三位の永年サロンに出品している芸術的には下らない画家に与えられたのであった。マリアは、こういう苦痛に顔を向けつつ、しかも勇気を失わずに死ぬ十日前まで、一方では彼女の寿命をちぢめつつ他の一方では刻々とその削られてゆく寿命に意味を与えている絵の仕事をつづけて生涯を終ったのであった。
私は、ここで要約しながらもほんものの、「マリア・バシュキルツェフの日記」を紹介したいと思う。
マリア・バシュキルツェフは一八六〇年の秋、南ロシアのポルトヴァで生れた。ロシア風にいえば、彼女はマリア・コンスタンチノヴァ・バシュキルツェヴァと呼ぶのが本当である。ところが、彼女が八つの年、ポルトヴァの貴族である父親と、やはり古い貴族の娘である母との間に不和が生じて、別居することになった。母はマリア、叔母、ジナという従姉、祖父、「天使のように比類ない」家庭医ルシアン・ワリツキイ、侍女などを連れ、ロシアを去って、フランスに暮すようになった。マリアは少女時代を南フランスのニースで育った。当時ロシアの貴族はフランス語を社交語として暮していたばかりでなく、マリアのこういう特別な境遇が一層フランス語を彼女の言葉にした。それで、自分の名もフランス流に、父称を略して呼ぶようになったのであった。
マリアは、はじめ声楽家になって、自分がこの世に生れて来たということの真価を発揮しようと思い立った。イタリーでその修業をはじめた。けれども、専門家としての練習に声が堪えないことがわかって(十六歳の時)、この希望は思い切らなければならなかった。もうこの頃から、徐々に気付かれず彼女の命を蝕む病の作業がはじまっていたのであったのであるが、マリアはそれを知らなかった。そして十七歳の年からジュリアンの画塾に通いはじめ、最後の七年間、彼女の豊富な情熱の唯一の表現、対象として画家としての刻苦精励がつづけられたのであった。彼女の最後を名誉あらしめた「出あい」は、今日世界名画集からはとりのぞくことのできないリアリスティックな傑作の一つとなっているのであるが、マリアが数点の絵とともに後世にのこした独特な日記は、マリアの死後一年に、小説家アンドレ・チェリエによって整理出版された。それ以来、英米訳が出版され日本訳は既に十数年前野上豊一郎氏によって発表されている。
余り多くの才能と余り短い命とをもったマリアは非常に早熟であった。彼女は十三になったとき、もう「私は十三である。こんなに時間を無駄にしていて、これから先どうなることだろう?」と溜息をついている。自分の命に限りのあること、その限りある命の中で、自分がそのためにつくられていると感じている勝利と感動とのために、何事をか仕遂げなければならない。マリアを寸刻も落付かせないその内部の衝動によって、彼女は十三から日記をつけ始めたのである。
普通日記というと、ひとに見せないものとして考えられている。マリアはこの点で全然別な考えをもっていた。はっきり、人に読んで貰うことを期待した。彼女は十六歳の時にこう書いている。
「私は自分の将来がどうなるかは知らないが、この日記だけは世界にのこす積りである。私たちの読む書物は皆こしらえものである。筋に無理があり、性格にうそがある。けれどもこれは全生涯の写真である。ああ! こしらえものはおもしろいが、この写真は退屈だ、とあなたはいうでしょう。あなたがそんなことをいうならば、あなたはひどく物のわからない人だと思います。
私はこれまで誰も見たことのないようなものをあなたにお見せするのです。これまで出版されたすべての思い出、日記、すべての手紙は、皆世界を偽るための拵えものに過ぎません。私は世界を偽ることには少しも興味を持っていない。私には包むべき政略的の行為もなければ、隠すべき犯罪の関係もない。私が恋をしようとしまいと、泣こうと笑おうと、誰もそんなことを気にかける人はありはしない。私の一番心にかかることは出来る限り正確に私というものを表わしたいことである」と。
この、できる限り正確に自分を表わしたい、という衝動こそは、マリアの短い燃えきったような全生涯を貫いて、絶えず彼女を人間、女として向上させた貴い力であり、勇気と客観的な冷静さの源泉であった。大勢の女ばかり多い貴族的で有閑的な、つまり気力の乏しい家族にとりかこまれ、一見賑やかそうで実は孤独であったマリアは、よろこびも悲しみも、すべてを日記の中に吐露し、それを正確に吐露することで、一歩一歩と進み出て行っている。すっかり体が悪くなった一八八四年の五月一日に、マリアは五ヵ月後に自分の命が終るとは知らないながらも、いちじるしく肉体の衰弱を感じてこの日記に「序」を書いた。
「あざむいたり気どったりして何になろう? ほんとうに、私はどんなにしてもこの世の中に生きていたいという、望みではないまでも、欲望をもっていることは明らかである。もし早死をしなかったら私は大芸術家として生きたい。しかし、もし早死をしたらば私のこの日記を発表してほしい。」「もしこの書が正確な、絶対な、厳正な真実でないならば、存在価値はない。私はいつもただ私の考えているだけのことをいうのみではなく、またあるいは私を滑稽に見せるかもしれず私の不利益となるかもしれぬことをかくそうと思ったことはなかった。」
若いマリアにとって日記を書く最後となったこの一八八四年の五月一日午後は、丁度彼女が男の名前で「出あい」を出品したサロンの入賞と陳列の位置とがきまる前後で、マリアは、大変わくわくしている。四月三十日にサロンの初日に出かけ、新聞の批評に気を揉み、あるいは会場で自分の絵を眺めている大勢の人々を長椅子にかけて見物しながら「それらのすべての人たちが、きちんと恰好よく靴をはいた、実に可憐な足を示しながらそこにそうして坐っている美しい少女が、その画の作者であることを決して知ろうともしないであろうと考えて、笑ったり」している。しかし何か不安が心の中にあって彼女を落付かせぬ。自分が死んだら、何にものこらなくなる。この考えが彼女を恐れさす。「生きて、大きな望みを持って、苦しんで、泣いて、もがいて、そうしてついに忘れられてしまう!」この考えは、サロンでの絵の評価がきまらない事の不安と結びついてマリアに「序」をかかせたのであった。
さてマリア・バシュキルツェフの千五百頁にわたる日記は、次の一頁から始められた。
一八七三年
一月(十二歳)──ニイス〔フランス〕プロムナアド・デ・ザングレエ。別荘アッカ・ヴィヴァ。
「叔母ソフィが小ロシアの曲をピアノで弾いているので、それが私に田舎の家を思わせる。」
マリアには、もうよその客間で娘たちを感歎からひざまずかせるような声があった。「衣裳よりほかのことでほめられるのは非常な感動をおこすものである! 私は勝利と感動のために造られている。それ故、私のできることのうちで最上のことは歌う人になることである。もし神様が、私の声を保存し、強め、発達させて下さるならば、私は自分の望む通りの勝利が得られるだろうと思う。」
マリアは、執拗にこの希望を追って、そしたら「私は私の愛する人を自分のものにすることもできるだろう。」と、自分が貴族の娘であることの有利さまで熱心に数えている。おさない早熟なマリアは、同じニイスにいて、往来で一二度ばかり見うけたイギリスの公爵Hに熱中なのである。
「私は慎しい少女だから、自分の夫になる人より外の男には決して接吻しない。私は十二から十四まで位の少女には誰もいえないようなある事を誇としていい得る。それは男に接吻されたこともなければ、また男に接吻したこともないという誇である。──」
マリアは、自分を見知りもしない公爵Hに夢のような熱中を捧げると同時に、その愛人のGを観察して嫉妬もしている。どうして、彼女の周囲の腐敗した上流社交人たちは結婚に対して、それを愚弄した考えを抱くのかを、小さい鋭い頭で疑っている。「夫と妻は互に公然と愛し得るからだろうか? それは罪でないからだろうか? 禁じられていないものは価値少く見えるからだろうか。また秘密を楽しめるものの方が愉快だからだろうか! 決してそんなはずはない。私はそう思わない!」好奇心というよりは探求心、精神のこの健全さ、一徹さが早熟な貴族の娘としてのマリアのうちにあることは注目に価する一つの貴重な特徴である。そして、彼女は自分の弟のポオルの生きかたについてまじめな心痛を語っている。「彼は多くの人のような暮し方をしてはならないから。──即ち初めぶらぶらして、それから博奕を打つ人やココット(遊ぶ女)の仲間に交ったりしてはならないから。彼とても男でなければならぬから。」だが、このマリアもいかにも貴族の小娘らしく競馬馬を母にねだってそれを買って貰っている。貴族の娘に生れ、そのほかの社会のすがすがしさや活動性を知る機会をもたないマリアは、退屈で消費的な貴族生活の中でともかく何か変化を求めている。社交界へ出たがって、早く大きくなりたがっている。別荘地のニイスの社交界なんぞではなく、華々しいペテルブルグかロンドンかパリの。
「私が自由に呼吸できるのはそこである。社交界の窮屈は私にはかえって楽だから。」マリアは自分が社交界に出たいのは、「結婚する為ではない。母様と叔母が、そのなまけをふり落すのを見たい為である。」公爵Hが結婚した報知は十三のマリアの手からその新聞を「取り落されず、反対にそれは私にはりついた。」「おお私は何を読んだのでしょう! 私は何を読んだのでしょう。おおこの苦しさ。」「今日から私はあの人に関するお祈を変える。」「書けば書くほど書きたいことが殖えて来る。それでも私の感じていることを皆書くことはできない! 私は力以上の絵を仕上げようと思いついた不幸な画家のようだ。」
マリアは十四歳になった。「どうすればみんな子供からすぐ娘になれるのだろう? 私にはわからない。私は自分にきいた。どうしてあんなのだろう? いつとなしにか、それとも一日でか? 人を発達させ、成熟させ、改善させるものは、不幸か、でなければ恋愛である。」猛烈に生きたがって世間へ出たがっているマリア。「本当にそうだ。私は自分でもこれほど熱烈に世の中に出たがる心持は短命の前兆ではあるまいかというような気がする。誰にわかるものか!」
この年の九月にマリアは母や叔母たちおきまりの同勢でミケランジェロの四百年祭を見るためにイタリーのフロレンス市へ旅行した。趣味のある娘ならその前で讚美するのがきまりとなっているラファエルの聖母を、マリアははっきり自分は不自然だからきらいだといっているのは面白い。そんなに理解力のつよいマリアさえも貴族としての境遇は愚にした。「ロシアには下らない人間がたくさんいて共和制を欲しているということである。堪らないことである。」と考えたり、それら急進的な人々は「大学とすべての高等教育を廃止する」ものだという間違った説明をふきこまれたまま怒っている姿は哀れである。
ロシアの一八六〇年代から八〇年代は、単にロシアにとってばかりでなく世界の人類の進歩、解放の歴史に大きい意味を与えた時代であった。ロシアでは一八六一年農奴解放が行われたが、これはドイツにおける農奴解放と同様にこれまでの農奴として地主のために賦役させられた農民が、今度は生きるために「自分の意志」で賦役制度にしたがわなければならないことになった。農民の貧困は改善されなかった。それこそ、マリアが知っていれば何よりきらいな、うそといつわりの解放であった。この重大な時期に、マリアがロシアに生活せず、パリやニイスやイタリーを親切ではあるが旧時代の世界に住んでいる女親たちにとりかこまれて、領地の農民たちからしぼりとった金を使いながら歩きまわっていなければならなかったことは、マリアの知らない生涯の大損失であった。当時ロシアの貴族の若い娘たちの中から、卓抜な努力的な新しい道を生きた婦人たちが何人か出ている。例えば十九世紀の後半、全欧州を通じてもっとも著名な女流数学者であったソーニァ・コヴァレフスカヤは、マリアより十歳の年上であった。そしてロシアの進歩的な若い娘が旧式な親たちの望まない知識と社会的自由を手に入れる特別な方法として選んだ名義だけの理想結婚をして、ドイツへ行き、この頃はハイデルベルヒ大学やベルリンで数学の勉強をしていた。
又、彼女が「野獣」と呼ぶようにしか教えられていなかった急進的な一団のロシア人の中には、クロポトキンがその「思い出」の中に、愛惜をもって美しく描いている有名なソフィア・ペロフスカヤのような秀抜な革命的な若い女もいた。一八八〇年代というときは、又ロシアに最初のマルクス主義団体が生れ、マルクスの「資本論」が翻訳されていた。ヴェラ・ザスリッチのような歴史的な業績をもつ婦人もある。マリア自身、いかにもロシアの女らしいゆたかな生活力と天質に燃えながら、しかも同時代のロシアの歴史の精華と何の接触ももつことができず、それどころか、全く誤った見かたにおかれた彼女の境遇を私は哀れに思う。
当時全ヨーロッパが最良の精力をつくして、より合理的な社会生活をうちたてようとしていたまじめな人間努力の影響が、マリアの生活に欠けていたことは、マリアが二十三になって、ますます絵画に精進し、芸術におけるリアリズムをとらえ得るようになって来たとき、深刻な矛盾としてあらわれて来ている。当時の芸術思潮の影響もあって自然であることの美しさを、古典的、人工的な美よりも高く評価するようになったマリアは、絵画の技法の上では驚くべきリアリストになりはじめた。ところが、画題の選択の面では彼女の少女時代からつきまとっている貴族主義、壮美の趣味がつきまといつづけた。「出あい」を描く一方で、マリアは刺客におそわれている「シーザア」やキリストを葬ったばかりの「二人のマリア」の大作を描こうと勢いこんでいるのである。
十五歳で、辛辣に小癪にも人類への軽蔑を表現しているマリア。同時に「人は何故誇張なしに話ができないのだろうか」と苦しんでいる正直なマリア。十六の正月はロオマで迎えられた。この四ヵ月にわたるロオマとネエプルの旅の間で、マリアの第二の愛情の対象となった伯爵アントネリオの息子ピエトロと相識った。ピエトロはマリアに魅せられ、マリアもつよく彼にひきつけられて、この一八七六年の日記は、寸刻もじっとしていない若々しい激情の波瀾と、まじめさとコケトリイとの鮮やかな明暗が一頁ごとに動いている。ロオマの謝肉祭のときの色彩づよい記録。こまやかに書かれているピエトロとの対話。マリアの若い娘らしい嬌態は、十六の少女のやみがたい愛への憧れと同時に目かくしをされ切ることのできない性格的なつよさ、冷静さの錯綜から生じている。ピエトロとの結婚がロオマの社交界で噂されたが、マリアは拒絶した。
「私は実際彼を愛したか? 否。いやもっと正しくいえば、私は彼の私に対する愛を愛したのである。けれども私は愛において不実であることができないので、自分でも彼を愛してるように感じていた。」
この夏、マリアは八年ぶりでロシアへかえり、ポルトヴァの父の家に冬まで滞在した。
「これまで愚かしい生活をして来て自分の好きなまねばかりしていたが、絶えず物足りない心持で、決して幸福でない」父。マリアの養育のためには一スウの金も出さないのに、成長した美しい娘の上に威力をしめそうとする父。まだ美人といえる若さだのに、不幸な結婚生活のために神経質になってしばしば発作をおこす母。ロシアからパリへかえって来たと思うと、もうニイスへ行くために「三十六の手荷物のために死物狂いになるまで私を働かせる」母。「おお! 私は抑えつけられるようだ。私は息がつまりそうだ。私は逃げ出さねばならぬ。私は堪えられない‼ 私はこんな生活をする為に生れたのではない。私は堪えられない!」「仕事をする機会が私を避けている!」「私は学問をしたくてたまらない。私には導いてくれる人が一人もない。」
内心の熱い輾転反側は彼女が十七歳の秋、ジュリアンのアトリエに通いはじめて、やっと一つの方向を見出したように見える。
「朝の八時から十二時まで、それから一時から五時まで絵を描いていると、日が早くたってしまう。しかし往復に一時間半かかる。私はこれまで失った年月のことを考えると腹立たしくなる。十三の時にこんな風にして始めたらどんなによかったろう! 四年損をした!」「アトリエではあらゆる差別というものが無くなってしまう。名前もなくなる。姓もなくなる。そうして母の娘でもなく、ただ自分自身となる。自分の前に芸術をもっている一個人となる。そうして芸術以外には何ものもなくなる。実に幸福で、自由、得意である。ついに私は久しく望んでいる状態になった。私はこれを実現することができないので、どんなに長い間渇望していたかしれなかった。」
マリアの前には、やっと彼女が一人前の人間となってゆく道がひらけはじめた。自分の失った時間をとり返す決心をして、彼女は一日八時間の勉強の上に夜の部にまで出席した。画学生マリアの服装は質素になった。石膏模型、骨の見本、マリアは僅かの間にジュリアンのアトリエで一番技術をもったブレスロオという娘を唯一の競争相手とするところまで突進した。マリアの異常な才能は輝き出した。それにしても、マリアのいそぎよう! 彼女の日記のどの頁にも、芸術の成功についての不安、鼓舞、努力への決心がばら撒かれていないところはない。マリアは昼食さえ、アトリエへ運ばしてたべることにした。「私は自分に四年の月日を与えていた。七ヵ月は既に過ぎ去った。」マリアは「社交も散歩も馬車も、何ものも打ち捨てた」十八歳の七月三日の記事に「M……別れをいいに来た。」云々。そして雨の中を展覧会へ行くまで二人の間に交された話ぶりを記しているのであるが、このMというのが、今日の映画の「恋人の日記」のパン種となったモウパッサンの頭字だろうか。マリアは「Mの愛の火に心を暖められ」ながらも、落付いて、自分がMと「結婚しようというような考は一つもない」こと、「二年前まで私は愛と思い込んでいた」ものだが、愛ではないということを自分にはっきり認めているのである。そして、この尨大な日記の中にMという字はもう二度と出て来ていないのである。
十九歳のマリアの心持が芸術への熱中を通じて、ある意味で急速に社会化されて行く過程は実に深い教訓をもっている。マリアは本気で当時の社会における女の位置を怒っている。当時のフランスでは身分のある若い女はアトリエさえ独りでは行けなかった。ルウヴル美術館へ絵を研究にゆくにさえ、「いつも人に附添われて、馬車を待ち、家族その他を待たねばならない。」「なぜ婦人画家が少ないかという理由の一つもこれである。おお、残酷な習俗よ!」マリアは決然として書いている。「私は自分を束縛するあらゆる不利益を排して何物かになった一人の女のあることを、社会に知らせる一例を示したいと思っている。」
激しく出るようになった咳と聾になる恐怖との間で、二十歳のマリアはサロンへはじめてコンスタンシ・ルスという名で出品をし、合格した。この時のサロンにバスチャン・ルパアジュの有名な「ジャンヌ・ダルク」が出品され、マリアに甚大な感動を与えた。
サロンに入選しても、マリアはますます自分の画の不満を自覚してきびしく自分を鞭撻しているのに、家族の者がマリアの体を気づかう姑息な女々しい心遣いはマリアを立腹させるばかりである。マリアの耳では目醒時計の刻む音がきこえなくなった。過去四年の間、喉頭炎と思わされて来たものが肺であることも分った。医者は転地をすすめる。だが「家族と一緒に、彼らのこまごましたわずらわしさを背負って旅行したところで愉快ではない。」マリアはアトリエの隙間風を防ぐために修道僧のようなずきんつきの大外套をこしらえさせた。それを着て、やはり猛烈に仕事をしつづける。「私は近頃自分のことを話したり書いたりする時に泣き出さないではいられなくなった。」「人生は結局外観はどうあろうとも哀れである。」「それでも私は自分を投げ出すことができない! して見ると生は一つの力でなければならない。何物かでなければならぬ。私たちには永久というものがないから、人生は何物でもないという人がある。ああ! 愚かなることだ! 人生は私たち自らである。それは私たちのものである。それは私たちの所有するすべてである。それにどうして人生が何ものでもないということができるか! もし人生が何物でもないならば、何物かであるものを見せて下だい。」
一八八一年のサロンにもマリアは出品したが、これは苦しい年であった。画家としてのマリアの境地は次の年へかけて非常に深まった。芸術が創られるとき、それが自然の単なる模写に過ぎない写実と、現実の瞬間を内容にまで迫って捕えようとするリアリズムの間に、どれ程の大きい相異があるか。そして、本当の芸術は見える物象のただのひきうつしではないということを彼女は本ものの芸術家らしい見識で発見している。耳はますます遠くなった。肺の両方がわるい。しかも、バラ色の顔で、外見は何でもなさそうに日夜をわかたずアトリエ暮しをしている二十三歳のマリア。
翌年のサロンに「出あい」が大好評で入選した。粗末な板壁のある街角で黄色い髪をした小学生たちがふと出合って、互いにはにかんでいる絵は、題材の自然さと、描写の活々としたたしかさとで誰の目にも賞牌候補と思われたが、作者のマリアが、金にこまらない貴族の美しい娘であることが、意外の誹謗の原因となった。「ジャンヌ・ダルク」以来彼女が傾倒し師事していた当時の大家ルパアジュが加筆したような噂がつたえられた。そのルパアジュは三十六歳で、そのときはもう病床で生と死との境にあった。マリアは、この画をかくために、街頭スケッチまでして努力したのであった。ここで、私たちは一層マリアを哀れに思わずにはいられない。こんなに画業に身をうちこみ、熱心に努力したマリアがどうして、無気力で趣味も低いナポレオン三世時代の古いサロンばかりをたよりにして、苦しめられていたのだろうか。一八六三年にマネは有名な「草上の昼食」をサロンに出して落選し、別に「落選作品のサロン」を開いて、ヨーロッパの絵画の世界に全く新しい生命をふきこんだ。今日は知らぬ人のないアメリカの画家ジェームズ・ホイスラーもこの落選作品のサロンに出品した。マネ、モネ、ピサロ、ルノアル、ドガ、シスレー、ギョーマン、バジールなどが集って、印象派の運動がおこっていた。マリアは、最後に自分のいのちを注いだ芸術の世界においてさえ、いわゆる貴族とサロンというくされ縁を切れなかったのだろうか。マリア自身の内部にも、ある時は熱くある時は冷たい強烈な生と死との格闘がはじまっている。「要するに、私はまだ、死ぬのにも、陶酔を見出せる年齢にある。」「私にとっては、極端まで押しすすめられた完全な感覚は、苦痛の感じでさえ、すでに一つの享楽である。」
マリアの肉体の疲労はひどくなって、もう外出も不可能になった。「しかし、気の毒なバスチャン・ルパアジュは外出する。彼はここまで運ばれて来て、クッションの上に両足をのばして安楽椅子にかける。私は、その直ぐそばのもう一つの安楽椅子にかける。そうして六時までもそうしている。」マリアは全部白ではあるが、布地とつやの様々の変化を美しくあしらった部屋着を着ている。「バスチャン・ルパアジュの目はそれを見てうれしそうに見張った。──おお、私に描くことができたら! 彼はいう。そうして私も! もうだめ、今年の画は!」
十月二十日
「天気がすぐれてよいのにかかわらず、バスチャン・ルパアジュは森へ行かないでここへ来る。彼はほとんどもう歩くことができない。彼の弟は彼を両腕の下から支えて、ほとんどかつぐようにしてつれて来る。……この二日間、私の床は客間に移された。でも部屋が非常にひろくて、衝立や大椅子やピアノで仕切られてあるから、外からは見えない。私には階段をのぼるのが困難である。」
マリア・バシュキルツェフの日記はここで終っている。マリアはこの日から十一日後、一八八四年十月三十一日に二十四歳の生涯を終った。バスチャン・ルパアジュはそれから四十日経った十二月十日に死んだ。
底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
1979(昭和54)年7月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
1952(昭和27)年8月発行
初出:「新女苑」
1937(昭和12)年7月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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