概念と心其もの
宮本百合子
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一
最近自分の生活の上に起った重大な変動は、種々な点で自分の経験を深めて呉れたと同時に、心に触れる対象の範囲をも亦広めて呉れた。今までは或る知識として、頭で丈解っていた生活の内容が、多少なりとも体験された。自分の箇性の傾向から必然に成って来た或る運命に真正面から打ち当って見ると、又、全心全身でぶつかって行かずには済まされないような大きな力を感じて見ると、好い加減と云うに近い諸々の概念は、皆真実の熱火に焼き尽されてしまう。
自分の生活や、人々の生活を外から直接間接に圧包み、何等かの変型やこじつけを強いていた物が無く成ると、始めてその奥に在った箇々が現われて来る。一つとして同じものの無い箇々の生活が、ありの儘の色彩と傾向とで姿を現わすのである。
今日我々の理性はたとい如何に所謂実生活に対する自己の体験が貧弱でも、人類の箇性の存在を理論的に認め得る丈けの力は持っていると思う。従って、箇性の差異に連れて起る箇々の生活内容及び様式の相異を理解し、その価値を正当に批判すべきことは、もう公理なのだとも思われる。一方から云えば、解り切った事だと云えるだろう。けれども、自分は、そう雑作なく解り切った事だとは、自分に対して云い切れない。なかなか容易な事で、本当の処へは行けないものだと思う。少くとも自分は、小理屈や負惜しみ等で胡麻化し切れない本然な力の爆発に、或る部分の「我」を粉微塵に吹飛ばされて見て、始めて他人と自分とをその者本来の姿で見る事を幾分か習い始めたと云えるのである。
こう云う自分の心持の変化は、今まで矢張り何かで被われていた女性全般に対する心の持方を何時とは無く変えさせて来た。
現在では女性の──生活の様式がどうしても単調で変化に乏しいと云う点、自分が女性としての性的生活を完全に営んでいなかった事又は、女性の一人として同性の裡に入っていると、自分達の特性に対して馴れ切って無自覚に成りがちであると一緒に、却って欠点が互に目に付くと云うような諸点から、今まで自分にとって女性の生活は、事実上、常に一種の幻滅を感じさせていた。
かくあるべきもの、かくあり度いものとして彼方に予想する女性の生活は、遙に今日実際在るその物よりも自分の心を牽つけた。自分の裡に在る一部の傾向で理想化した女性の概念を直今日の事実に持って来て、それと符合しない処ばかりを強調して感じ失望したり、落胆したりしていたのである。
一口に云えば、自分は「人」から思想を抽象するのではなく、逆に、思想を人に割当て、或る概念の偶像を拵らえようとしていたのだとも云えるだろう。
女性に就て云っても、或る時には、感情的、理智的又は智的、無智等と云う大まかな、蕪雑な批評で安んじるような傾向が決して無いとは云われなかったのである。
けれども、人は決してそんな単純な形容詞で一貫するような性格を持っているものでは無いのだ。
複雑に複雑を極めた箇性の内面の力が、圏境や過去の経験に打たれ、押し返し、揉み合って一歩ずつ、一歩ずつ今日まで歩み進んで来たのが、今日のその人でありその人の生活であるのだ。箇人の内的運命と外的運命とが、どんなに微妙に、且つ力強く働き合って人の生涯を右左するかと思うと、自分は新しい熱心と謙譲とで、新に自分の前に展開された、多くの仲間、道伴れの生活の奥の奥まで反省し合って見度く思う。自分が人及び女性として、漸々僅かながら立体的の円みをつけ始めると、同性の生活に対して、概念でない心そのもので対せずにはいられなく成って来た。所謂婦人問題の、題目を研究し理解しようとするのでは無い。種々の問題を起す、最も根本的原因である女性の心そのものを、心そのもので観、考え、批判して行き度く思うのである。
二
或る人の芸術は、その人の人格並に生活と密接な、切っても切れない関係を持っている。その点から見て、女性の手に成った文学的作品が、若し男性の手に成ったそれに比して常に第二流の芸術的価値ほか持ち得ないものとしたら、それはつまり女性が、人及び芸術家として、充分の創造をなし能う丈の人格も、生活をも持っていないと云う、一部の証言に成るのではないだろうか。而も、自分にとって、創作は冗談や余技の憂さ晴しではない、たといどんなに小さくても、自分から産み出された芸術の裡に、又は、創造しようとする努力の裡に、自分の生命の意味を認めずにはいられない力を、内から感じているのである。
これはもう第一義務的のもので、総ての問題を超えた奥に一貫して自分を支配する力である。自分を生かせて呉れるものであると同時に自分を殺すものでもあるその力に働かされて、自分は止まれぬ渇望から、ささやかな努力と祈願とを、芸術の無辺際な創造的威力に捧げているのである。
この間中、田舎に行っていたうち何かで、或る作家が、女性の作品はどうしても拵えもので、千代紙のようでなければ、直に或る既成の哲学的概念に順応して行こうとする傾向がある、と云うような意味の話をされた事を読んだ。
これは新しい評言ではない。
女性の作家に対して、屡々繰返された批評である。
認識の範囲の狭さ、個性の独自性の乏しさ、妥協的で easy-going であると云うような忠言は、批評の一種の共有性であろう。
或る人は、そんな事はあるものか、男の人は負け惜みが強いからそんな事を云い度いのだと、云うかもしれない。けれども、この間、右のような言葉を見た時、自分はひとごとでない心持がした。
考えずにはいられない心持に成った。種々な偏見や、反抗を捨てて、凝っと自分の仕事を見詰めると、少くとも自分は、正直に、成っていない事を直覚せずにはいられない。その未熟な事は、勿論芸術的経験の乏しい事にも依る。然し、創作も、筆先の器用さでのみ決するのを正としない自分は、どうかしても、自分と云うその者の本体の裡に戻って考えずにはいられなく成るのである。
男性の中にも、下等な心情の人はある。従って、下等な心情の作家もあり得る。そこ許りを見て、私共にはあんな事を云いながら、とは云うべきでないだろう。
人類の文化の進展は、未来に私共の心も躍るような光明を予想させる。従って、自分は自分等人類の未来と共に、この僅かな一節である自分並に、他の多くの女性、女性の芸術家たらんと努力する人々の未来に就てここでは一言も触れようと思わない。
只、現在は、確に或る点まで肯定しなければならない女性の芸術家の貧弱さは、どう云う原因を内に蔵しているのだろうと云う事を、考えて見ずにはいられないのである。
女性の作家が妥協的で easy-going だと云う批評は加えられた。然しそれなら何故、そう云う傾向を持っているのだろう?
反省なしに、私共は総ての発達を予期する事は出来ない。
三
先ず、女性の作家に加えられた評言に就て反省して見る事は、即ち持つならば或る欠点や、羈絆から脱して、よりよい次の一歩を踏出す事に成るのではないだろうか。
自分はそれを詰らない事だとも、恥しい事だとも思わない。人類は、よき母、よき妻と共に、よき有難い芸術家をも、女性の中に待っているのではないだろうか。
種々な点から反省して見て、自分には、今日女性が作家としてまだ完全に近い発達を遂げていないのは、箇性の芸術的天分と、過去の文化的欠陥が遺伝的に女性の魂そのものに与えた、深い悲しむべき影響との間に起る、微細な、然し力強い矛盾に原因しているように思われる。
近代の文化は解放された人としての女性に、箇性の尊重と、人格完成の願望とを自覚させた。無論は、女性が昔の偏狭な、恥辱的な性的差別に支配、圧迫された生活から脱して、一箇の尊敬すべき独立的人格者として生活すべき事を他人にも我にも承認させた。
人として更たまった、身も震うような新鮮な意気と熱情とを以て人として生き抜こう為に、箇性の命ずる方向に進展して行こうとする女性の希望と理想とは、真実に深く激しいものである。
確かりと自分の足で、この大地を踏まえて行く生活! 今まで項垂れて、唖のような意趣に唇を噛んでいた女性は、彼女の頭を持ち上げた。深く息を吸い、力を込めて、新しい生活を創始しようとする渇仰は、あらゆる今日の女性の胸を貫いて流れているのである。刻々と推移して行く時は、生活の様式に種々の変動を与えて来ただろう。社会組織の一部は、女性を人として生活させる為に変更されようとしている。
けれども、現代の一般社会には、女性の人としての生活、人としての発展を心から肯定し助力しようとする傾向と並んで、因襲的な過去の亡霊にしがみ付いて、飽までも女性を昔ながらの「女」にして置こうとする傾向とがあるように、女性の心そのものの裡にも、何か捨て切れない過去の残滓が遺っているのではないだろうか。
奴隷制度が、制度として社会規約から除かれた事丈で、万事が無かった時の状態に属せるものだとしたら、人間の心は単純である。私は、今日女性の心の中には、新たに目覚めた人としての燃えるような意図と共に、過去数百年の長い長い間、総ての生活を受動的、隷属的に営んで、人及び自分の運命に対しては、何等能動的な権威を持ち得なかった時代の無智、無反省、無責任の遺物が潜んでいると思うのである。
丁度胎内の盲腸のように平常はまるで自覚を伴わない、どうでもよいように、考えてなければ有るか無いかも知らずに過ごすようなものかも知れない。けれども、いざと云う時に、命を危くする丈のものではある。人として、自分の生活内容をあらゆる方面に伸展させて行こうとする願望と一緒に、同じ心の中から、この歩幅を縮めさせ、左顧右眄させて、終に或る処まで、見越をつけさせて仕舞うような何かの動機があるのである。
四
今日の女性は、事実に於て、その二様の力に引っ張られていると思う。ここに或る一人の女性を仮定しよう。先ず彼女は、若々しい希望に満ちた大望から、自分のよしと思う運命の方向に自分を拡大しようと決心して、人生の中に足を踏み入れる。種々雑多な苦痛や喜悦や、恍惚が、彼女の囲りを取囲むだろう。その中に、何か一つの重大な問題に面接しなければならない事に成ったとする。勿論彼女は驚く、疑う、解決を得ようとするだろう、大切な事は、この時彼女が終始自分を失わず、行くべき方向を遠望して、自らの決定と自らの意志でそれを体験して行く丈の力が有るかどうかと云う事なのである。
この様な時大抵の場合には、何時か知らないうちに、過去が甦って来る。人として生活経験に薄弱な過去ほか有しない彼女は、今日も尚、人生の諸相に対して無智と不明とを持っていて、その問題を混乱させるだろう。面倒に成って来た人及び我を見るとひとりでに彼女は怖気付く。決して、今日根を絶してはいない「自分は女だ」と云う自意識が心を掠めた瞬間に、もう云うに云われない妥協が自分に向って付けられてしまう。自分の真正な判断に委せれば、それは理論では正しいかも知れない。然し今まで平穏に自分の囲を取捲いていた生活の調子は崩れてしまうだろう、自分はまるで未知未見な生活に身を投じて、辛い辛い思いで自分を支えて行かなければならない──ここで、人として独立の自信を持ち得ない、持つ丈の実力を欠いている彼女は、何処かに遺っている過去の、殆ど習性にさえ成った日蔭の依頼主義の底力に押されて、非常に微細に、非常に滑っこく、自分の現状と外界の社会的事情との間に、何か連続をつけて、自己を不平のままに肯定しようとする。
或る場合には、総てを社会的欠陥に帰し、或る場合には、広い懐を持つ運命と云う言葉の中に投げこんで主観的感情的結末に落付こうとする。人として、偉大な人生の些やかな然し大切な一節を成す自分の運命として、四囲の関係の裡に在る我を通観する事に馴れない彼女は、自分の苦しむ苦、自分の笑う歓喜を、自分の胸一つの裡に帰納する事は出来ても、苦しむ自分、笑う自分を、自分でより普遍的な人類の前に連出して見る程、事実に於て万人の生活に直接な交通が乏しいのである。
五
一般の女性が人生の諸問題に対して持つ右のような傾向は、たといそれが理論で説明を加えられ、感興で彩られても、尚幾分かは或る女性が、作家として自分の芸術に向う場合にも起って来る事ではないだろうか。
女性の過去が如何に人として貧弱な社会的生活を営んでいたか、そして、現在の社会状態と自分の衷心に遺っているらしい昔の羈絆を顧みた時、それが根本の原因と成って、女性の芸術には種々の傾向が現われて来るように思われる。
或る人々は、所謂「女でなければ解らない境域」に強味を予想し、完成を希望して、自らの性の裡にのみ閉じ籠もった芸術を創造しようとするだろう。
けれども過去現在の狭められた女性の生活、経験に満足しないで人としてもっと深く広く観、感じ味わうべき世界を求めて勇進しようとする者は箇性の内容の貧弱さから人生をその物本然の姿で見る丈の大きさが欠けている。複雑な箇々の関係や、恐るべき人性の奇蹟、悪業をガッと掴む事も見る事も出来かねる。単純な、適当な言葉で云えば非常な喜びで我を忘れる事も、深い懐疑に沈潜する事も、こわいのである。自分が失われるだろうと云う予感が先ず影で脅す、脅かされる丈の内容の力弱さが反射するのでもある。そこで、解らなく成りそうに成る人生に、何か統一を見出さずにはいられない慾求から、誰それはこう云ったと云う、哲学が呼び出されて来るのではないだろうか。
或る主義に依りて、それで纏まらない処は切り抜きてその人生を自分の中に築き上るのではないだろうか。
そう云う傾向に向っても、反動が起る。それは自分の理想や、批判等と云うものの価値は如何に小さく力弱いものであるかと云う自省を第一に置いて、人生を完く相対的に観て行こうとする傾向である。
女性がとかく陥り易い空疎な主義や殉情的な甘さから脱して、人生をその儘 matter of fact として描いて行こうとする態度である。これ等三様の態度を反省して見て思う事は、先ず第一、各の傾向に intentional な選択が行われている事である。自分はこう云う風に遣って行こう、と思った場合、当然起る心のこだわりを、どうしたらよいのだろう。
どうしても、偏狭や妥協、自己陶酔があると思う。一般的に気質の傾向が感情的だとされる女性にとって、これは有勝な事で、又恐ろしい事であると思わずにはいられない。
ひとむきは決して悪くはないであろう。しとやかな謙譲は褒むべき事であろう。何物にも我を乱さない態度は立派である。けれども何より私共が忘れてはならない一つの事は、それ等のどれでもが、皆我もひとも無い、総てのものを突抜いた奥の奥から流れ出すものでなければならないと云う事である。
女性の作家が、生活の為に創作をする事の少い現在の状態は、動機も純粋になると同時に、一種よそ行きな、拵えると云う心持を創作の時に持たせる事がありはしまいかと思う。
拵える、見て貰う、と云う心持が抜け切らないと、昔からの出来るだけ見よく仕て見て貰うと云う女性特有な関心と affectation が動き出して来るのではないだろうか。
大掴みな反省ではあろうが、ここまで考えて来ると、自分は、本当に「人」に成り度く思う。一切の小さい装いや、好い気を捨てて本然に生度いと思う。生度いと思う。確かりと、正直に苦しみ、正直に有難がり、正直に悦んで、「人」を拡大して行き度いと思う。
自分や他の女性が嘗て持ち、今もその遺物として持っている「人」としての弱小さは、人と成ろうとする努力によってのみ救われるだろう。如何にして人と成るか、如何にして真実な芸術を創造し得る魂を持つかそれは、その人々に遺された問題であると思う。
底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
1979(昭和54)年7月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
初出:「時事新報」
1920(大正9)年7月21~25日号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
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