地獄の使者
海野十三
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その朝、帆村荘六が食事をすませて、廊下づたいに同じ棟にある探偵事務所の居間へ足を踏み入れたとき、彼を待っていたように、机上の電話のベルが鳴った。
彼は左手の指にはさんでいた紙巻煙草を右手の方へ持ちかえて、受話器をとりあげた。
「ああ、そうです。私は帆村です。……やあ土居君か。どうしたの、一体……分っている、君が事件の中に居るということが……。しかもそれは、新聞記者たる君が仕事の上で補えた事件じゃなくて、君が好まざるにもかかわらずその事件にまきこまれちまったというのだろう。……お喋りはよせって。なるほどねえ。……えッ、君の妹さんが……」
帆村は、すいかけの煙草を急いで灰皿の中へなげこむと、そのかわりに鉛筆をつかんだ。軸の黄色い鉛筆だった。
「そうかなあ、君に妹さんがあったのかねえ。……いや失敬。それは困ったねえ。殺人容疑者としてあげられたとは、ちょっと面倒だね。……もちろん信じるよ、僕は。君の妹さんのことだから、同じように道義にはあついのだろうと……いや皮肉じゃない。よろしい、とにかくそっちへ行こう。十五分とはかかるまい。見附の東側の公衆電話のところだね。じゃあ後はお目にかかって……」
受話器をがちゃりとかけて、帆村はノートした紙片を取上げた。彼は突立ったまま、しばらくその紙の上を眺めていた。そこには鉛筆のいたずら書としか見えない三角形や楕円や串にさした団子のような形や、それらをつなぐもつれた針金のような鉛筆の跡が走りまわっていた。それは帆村独特の略記号であった。それが解読できるのは、帆村自身の外には、彼の助手の八雲千鳥だけだった。
彼は、ものに憑かれたように、五分間というものはその紙面に釘づけになっていた。その揚句に、彼はその紙片を机のまん中にそっと置いた。それから彼の手が忙しくポケットをさぐって、紙巻煙草とライターを取出した。ライターをかちりといわせて、焔を煙草の先に近づけた。ふうっと紫煙が横に伸びる。彼はライターの焔を消そうとして、急にそれをやめた。
机上におかれた例の紙片がつまみあげられた。その紙片は灰皿の上へ持って行かれた。その下に、ライターの焔が近づけられた。紙片はぱっと赤い焔と化した。そしてきな臭い匂いを残して黒い灰となり、灰皿の中に寝て、すこしくすぶった。
探偵帆村荘六を、朝っぱらから引張り出した事件というのは、一体どうしたものであったか?
帆村の友人の一人である新聞記者の土居菊司が、あわただしく電話をかけて来て、帆村にすがりついたその事件というのは、土居記者の肉親の妹が、今朝殺人容疑者としてその筋へ挙げられたことにある。土居はその妹の潔白を信じて、妹にかかった嫌疑が全くの濡衣であることを力説し、帆村の腕によって一刻も早くこの恐ろしい雲を吹き払い、妹を貰い下げられるようにして欲しいというのであった。
この妹想いの兄と帆村とは、もちろんさして深い友人関係ではなく、仕事の上で三四度知り合ったに過ぎなかったが、こうして頼まれてみると、引受けないわけに行かず、従って、土居との親しさの距離が急に縮まった感じがした。しかし彼はその妹がどんな女であるか知らず、顔を見たこともなかった。
殺されたのは、何者か?
本邦に珍らしいニッケル鉱の山の持主である旗田鶴彌氏が、その不幸な人物だった。氏の邸は、見附の近くにある。
帆村は、見附の公衆電話函の前で車を降り、そこに待っていた土居記者と一緒になった。二人は、旗田邸へ足を向けた。
その道すがら、土居記者は帆村に礼をいったり、懇願したり、訴えたりした。土居のいいたいことが大体終ったとき、帆村はたずねたいことを口に出した。
「そうすると三津子さんは、今朝旗田邸から引かれたというわけだね。三津子さんが今朝旗田邸に居たことについて、あらかじめ、君は知っていたの」
「いいや、知らなかった。僕は昨夜は十二時を廻って帰って来たんだ、昨夜は地方版の記事について面倒なことが起って、遅くまで社に残っていたもんだから。……妹の部屋へ声をかけたところ、妹はたしかに返事をした。もちろん寝ていることが分った。声の聞えた見当からね。そこで僕は安心して、自分の部屋に入って寝床へもぐりこんだのだ。ところが今朝僕が起きてみると、妹が居ないのだ。買物にでも行ったのかと思っていたが、なかなか帰って来ない。そのうちに出社の時間が来た。今朝は昨夜からの記事の一件で、早く社へ出ることになっていた。それで僕は、妹にかまわず家を出たんだ。そうだ、あれは七時だったよ」
「なるほど」
そういって帆村はオーバーの襟をたてた。濠ばたを、春寒むの風が吹く。
「社へ出て、ひっかかりの仕事を大体片づけてほっと一息ついたところへ、木村という同じ部の記者が入って来て、ちょっとと蔭へ僕を呼ぶんだ。僕は何の気なしに彼の方へ寄って行くと、『おい土居、君の妹さんが警視庁へ引かれている事を知っているか』というだしぬけの質問だ。僕はそれを聞くと、全身が急にがたがた慄えだした。『知らなかったが、一体どうしたんだ。教えてくれ』と木村にすがりつくと、木村の曰く、『うちの三上──本庁詰の記者だ──その三上が知らせて寄越したんだ、なんでも殺人容疑者となっている。そして妹さんは今朝、被害者邸に居て、そこから引かれたこと、妹さんが今日早朝、被害者邸を訪問したことがぬきさしならぬ嫌疑となったらしい』という話。僕は気が変になりそうになったが、それを堪えて木村にいろいろ質問を浴びせかけたが、それ以上の深いことを彼は知らず、また三上も知らないことが分った。ただ木村のいうのには、この際一刻も早く妹さんに有利な証拠がためをしておくのがいい。それには帆村氏あたりを煩わして、早くそして正確にやってもらっておくがいいだろうという忠告なんで、それでその時まですっかり忘れていた君の存在を思出したような始末さ。頼む。このとおり」
と、土居はポケットから手を出して、片手だけではあったが、帆村を拝んだ。
「で、君はその後、妹さんに会ったか」
「いや、会っていない」
「なぜ三津子さんは今朝旗田邸を訪ねたんだろうか。そのわけを知っているかね」
「いや、それは知らない。僕は三津子が旗田と何かの交渉を持っていることについてすら、今日までさっぱり気がつかなかったのだからね。なんという呑気すぎる兄だろうか」
と、土居は目を固く閉じて、首を振った。
そのとき帆村は、俄かに歩調をゆるめた。それはもうすぐ目の前に、旗田邸の塀が見えたからであった。
「それで、被害者旗田鶴彌氏は、どんな方法によって三津子さんに殺害されたといっているのかね」
帆村は重要なる事項について訊ねた。
「そんなことは知らない。木村はもちろん三上も知らないんだ。おそらく当局者は蠣のように黙っているんだろう。僕も早くそれを知りたい。君の力でもって、ぜひ当局者から聞いてくれたまえ」
帆村は、検察委員に選任せられていたから、警戒の警官にことわって、邸内に入ることを許された。
中へ入ってみると、帆村の馴染な顔がいくつもあった。その顔触によって、ここに詰めている主任が大寺警部だと知った。その大寺警部は、今しがたここに到着した長谷戸検事一行を案内して、事件を説明しているところだそうで、今すぐそれに参加せられるが便宜であろうとすすめた。帆村はそれに従った。
検事一行は、被害者の居間に集っていた。この居間は、十四五坪ほどの洋間であった。立派な鼠色の絨毯が敷きつめてあり、中央の小卓子のところには、更にその上に六畳敷きほどの、赤地に黒の模様のある小絨毯が重ねてあった。その小卓子と向きあった麻のカバーのついた安楽椅子の中に、当家の主人旗田鶴彌氏が、白い麻の上下の背広をきちんと着て、腰は深く椅子の中に埋め、上半身は前のめりになって額を小卓子の端へつけ、蝋細工の人形のように動かなくなっていた、卓上には、洋酒用の盃や、開いた缶詰や、古風な燭台や、灰皿に開かれたシガレット・ケースに燐寸などが乱雑に載っていた。だが、それらの品物は、一つも転がっていはしなかった。
「……そんなわけでして、どうもはっきりしないところもあるんですが」と大寺警部の有名な〝訴える子守娘〟のような異様な鋭い声がして「ともかくも、ここの戸口の扉には内側から鍵がさしこんだまま錠がかかっているのに対し、反対側の窓が半分開いて居りますうえに、今ごらんになりましたとおり、被害者の頸の後に弾丸が入っている。それならば、犯人は被害者の後方から発砲し、それからあの高窓にとびあがって逃げた──と考えてよろしいのではないかと思います。私の説明はこのくらいにしておきまして、後はどうぞ捜査指揮をおねがいいたします」
そういって大寺警部は一礼した。
検事一行は、静粛な聴問の姿勢を解いた。
「すると君は、容疑者一号の婦人が、その被害者を射殺した後、あの高窓へとびあがり、扉を開いて外へ逃げたというんだね」
長谷戸検事の声だった。
「はあ。私はそう思いますが……」
「で、その容疑者一号は、ピストルを持っていたかね」
「いや、持って居りません。追及しましたが頑として答えません」
「ピストルで射殺したことは認めたかね」
「ピストルなんか知らないと、頑張りつづけて居ります」
「いえ。ピストルなんか知らないとね。なるほど、そうかね。……で、君がその婦人を容疑者とした理由は?」
検事は、警部の顔を興深げに見る。
「はい。それはいくつもの理由がございますが、まず第一に、その婦人は今朝この邸に居たこと。第二に、その婦人の名刺の入っているハンドバグが、被害者のかけている椅子の中にあったこと。これを詳しく申しますると、現に被害者の屍体は、その尻の下にそのハンドバグを敷いて居ります。始め私は椅子の背中越しに中を覗きこんだところ、それを発見したのでありました。第三には、その婦人は昨夜の現場不在証明をすることが出来ないでいるのであります。なお、これからの捜査によってその他の有力なる証拠が集ってくるだろうと思われます」
大寺警部は、いくぶん得意にひびく自分の語調に気がついたか、顔を赧らめた。
「犯人は、この家の外部の者だという確信があるらしいが、それは何か根拠のあることかね」
検事はちょっと皮肉を交ぜていった。
「犯人がこの家の外部の者だと、そこまでは私はいい切っていませんのですが、何分にもハンドバグが屍体の尻の下にあり、そのハンドバグの持主が今朝もこの邸に居わせましたんで、その婦人──土居三津子を有力なる容疑者に選ばないわけには行かなくなりました」
「なるほど。そうすると、土居三津子がどういう手段で旗田を殺害したかという証拠も欲しいわけだが、それは見つかったかね」
「それは、さっきも申しましたが、土居三津子はピストルを持って居りませんので、そのところがまだ十分な証拠固めが出来上っていません」
「ぜひ、そのピストルを早く探しあてたいものだね」といって検事はちょっと言葉を切ってから、誰にいうともなく「犯人は、たしかにわれわれに挑戦をしている。不都合な奴だ。だが、およそ犯罪をするには必然的に動機がある。その動機までを隠すことは出来ないのだ。今に犯人は歎くことであろう」と呟くようにいった。
「その外に何か差当りのご用は……」
と、大寺警部が、遠慮がちに訊いた。と、長谷戸検事は、われに返ったように大きな呼吸をして、警部の方へ振向いた。
「大寺君。この家には、被害者の外にも同居人が居たんだろう」
検事の質問には、言外の意味が籠っているようであった。
それに対して警部は、同じ屋根の下に寝泊しているのは、家政婦の小林トメという中年の婦人と、被害者の弟の旗田亀之介の二人だけで、その外には毎日通勤して来て昼間だけ居合わす者として、お手伝いのお末(本名本郷末子)と雑役の芝山宇平があると答えた。お末は二十二歳。宇平は五十歳であった。
「或いはそういう連中のうちに、ピストルを隠している者がいるんじゃないかねえ。それを調べておくんだよ、まだ調べてなければ……」
「はあ、調べます」
大寺警部は、まだそれを調べてなかったのである。
「で、その家政婦と弟の両人は、昨夜居たのか居ないのか、それはどうかね」
「家政婦の小林トメは、夕方以後どこへも外出しないで今朝までこの屋根の下に居りました。それから被害者の弟の亀之介ですが、当人は帰宅したといっています。その時刻は、多分午前二時頃だと思うと述べていますが、当時泥酔していて、家に辿りつくと、そのまま二階の寝室に入って今朝までぐっすり睡込んでしまったようです。当人はさっきちょっと起きて来ましたが、まだふらふらしていまして、もうすこし寝かせてくれといって、今も二階の寝室で睡っているはずです。もちろん逃げられません、監視を部屋の外につけてありますから」
それを聞くと検事は軽く肯いた。それから彼は遺骸の前の小卓子の上を指して、
「その卓子の上に並んでいる飲食物や器物は誰が搬んで来たのかね。それは分っている?」
「はい分って居ります。洋酒の壜以外は、家政婦の小林トメが持って来たものに相違ないといって居ります。それは午後九時、家政婦が地階の部屋へ引取る前に、用意をして銀の盆にのせて持って来たんだそうです」
検事は引続き軽く肯きながら、小卓子の上を見まもった。盛合わせ皿には、燻製の鮭、パン片に塗りつけたキャビア、鮒の串焼、黄いろい生雲丹、ラドッシュ。それから別にコップにセロリがさしてある。それからもう一つちょっと調和を破っているようなものが目についた。それは開いた缶詰だった。半ポンド缶であったが、レッテルも貼ってない裸の缶であった。何が中に入っていたのか、中は綺麗になっていたから窺う由もない。
その外に小型のナイフとフォークにコップの類。開かれたるシガレット・ケースとその中の煙草。それから別にきざみ煙草の入った巾着とパイプ。灰皿に燐寸。燭台が一つ。但し蝋燭はない。あとは四本の洋酒の壜に、炭酸水の入ったサイフォン一壜。──これが卓子の上のすべての品物だった。
灰皿の中には、吸殻の外に、紙片を焼捨てたらしい黒い灰があって、吸殻を蔽っていた。
検事の目は、これらの物の上をいくたびもぐるぐる廻っていたが、そのうちに大きく視線を廻して戸口の方を見た。
裁判医の古堀博士が入って来たのである。
「わしを呼ぶんなら、もっと早く連絡してもらいたいもんだね。今日は野球が見に行けるものとその気になって喜んでいるところへ──玄関まで出たところへ君たちの勝手な電話さ。一体殺人事件は夜中に起るもんだから、その翌朝の一番電話で、わしのところへ連絡してもらいたいね。そうしないと、さっぱりその日の予定がたたないやね。予定がたたないばかりか、今日みたいに甚だ不機嫌にならざるを得ないじゃないか。よう、これは長谷戸さん。今のわしの長談義を、君もちゃんと覚えていて下さいよ。……それで、御本尊はどこに鎮座ましますのかな。ああ、あれか。わしより若いくせに、早やこの世におさらばの淡泊なのが羨しいね」
古堀老博士は、例のとおりに喋り散らしながら、携げて来た大きな鞄を、被害者が占領している安楽椅子の右側に一度そっと置いて、それから錠前をはずして大きく左右へ開いた。鑑識用の七つ道具がずらりと店をひろげた恰好だった。
検事一行や大寺警部たちが、老博士の機嫌をこれ以上悪くしない程度の距離をもって、大きく円陣をつくって取巻いた。
古堀博士は、ゴムの手袋を出してはめ、眼鏡をかけかえると、前屈みになって死人の顔に自分の顔を寄せた。それから手を伸ばして死体の瞼を開き、それからだらりと垂れている左腕を死人の服の上から掴んでみた。それがすむと、いよいよ自分の顔を死人に近づけて、鼻の上に皺をよせた。そのあとで立ち上った。椅子のうしろをぐるっと大まわりをして、死体の向う側、つまり死体の左側へ出た。そこで彼は始めて被害者の頸のうしろに於ける銃創を眺めたのであった。
古堀裁判医は、小首をかしげた。
彼は再び椅子のうしろを廻って左の場所に取ってかえし、鞄の中から二三の道具を取出すと、それを持って死体のうしろへ廻り、器具を使って傷口の観察にかかった。それは、この部屋へ入って来たときの彼の忙しそうな口調に似ず、実にゆっくりした念入りなものであった。最後にこの裁判医は、こっくりと肯いてから身体をまっすぐにし、腰を叩いた。
「もういいですか、古堀さん」
と長谷戸検事が声をかけた。検事は煙草ものまないで待っていた。
「とんでもない。急いで物をいう裁判医をお望みなら、これからはわしを呼ばないことだね」と古堀はいって仕事をつづけた。しかしその言葉が持つ意味ほど彼は不機嫌ではなかった。
「この死体を床の上へ移して裸にしてみたいんだが、差支えはないかね。ほう、差支えがなければ、君がた四五人、ちょっとここへ……」
古堀医師は、巡査や刑事の手で死体を安楽椅子から絨毯の上に移させた。それから彼の手で、死体の服を剥いた。そして全身に亙って精密なる観察を遂げた。
彼が腰を伸ばして、検事の方へ手を振ったので、彼の検屍が一先ず終ったことが分った。
「検事さん。この先生の死んだのは大体昨夜の十一時から十二時の間だね。死因は目下不明だ。終り」
たったそれだけのことをいい終ると、古堀医師は、部屋の一隅のカーテンの蔭にある大理石の洗面器の方へ歩きだした。
「ちょっと古堀さん」
と検事はあわてて裁判医を呼び停めた。
「死因は後頭部に於ける銃創じゃないんですか」
誰も皆、検事と同じ質問を浴びせかけたいところであろう。すると裁判医は、歩きながら首をかるく左右に振った。
「お気の毒さま。死因ハ目下不明ナリ。頸部からの出血の量が少いのが気に入らない……。死体はわしの仕事場へ送っておいて貰いましょう。解剖は午後四時から始まり、五時には終る」
老人は、ぶっきら棒にいった。死因は目下不明なり、頸部からの出血の量が少いのが気に入らない──との言葉は、俄然一同に大きな衝動を与えたらしく、そこかしこで私語が起った。多くはこんな明白な盲管銃創を認めるのを躊躇する古堀老人の頑迷を非難する声であった。
そんなことは意に介しないらしく、古堀裁判医は洗面器の方に歩みよった。
「やあ、これはすまん」
老人がいった。一人の長身の男が、古堀医師のために、洗面器のあるところの入口に下っている半開きのカーテンを押し開いて、老人が通りやすいようにしてやったからであった。その男は余人ならず、帆村荘六であった。
この帆村荘六は、さっき古堀医師が首を左右に振ったときに、それと共振するように首を左右に振った唯一の在室者だった。
古堀は、洗面器の握り栓をひねって、景気よく水を出した。そしてゴム手袋をぬいで、持参の小壜から石鹸水らしいものを手にたらして、両手を丁寧に洗った。
彼がタオルを使い出したとき、帆村がつと近づいて、相手だけに聞えるような声で、
「先生。おみ足のそばに鼠が死んでいます」
と注意した。
老医師はびっくりして飛びのいた。そして大きく目をひらいて洗面器の下を見た。壁と床との境目が腐れて穴が明いていた。その穴から一匹の大きなどぶ鼠がこっちへ細長い顔をつきだしたまま動かなくなっていた。
「愕かせやがる。大きな鼠だ。なにもわざわざこんなところで殉死しないでもよかろうに……」
古堀は、そういって帆村を見て軽く会釈した。
「御同感です、先生。……いずれ先生には、もう一度お目にかからせますでございます」
帆村は頗る妙な挨拶をした。冗談かと思われたが、彼は滑稽なほど取澄ましていた。
「えっ、何だって。はははは……。うむ、十時半か。これなら野球試合に間に合うぞ」
古堀老人は、急にえびす顔になって、洗面器のある場所から離れた。
裁判医が退場すると、現場は急にしいんと静かになった。そして真中の安楽椅子に腰を下ろしている屍体が、今にも立上って大欠伸をするんじゃないかと思われたほどだった。
「あの古堀老人と来たら、われわれの立場というものを全然考えないんだからなあ。全く困りますよ」
大寺警部が、遂に口を切った。警部は誰にともなくそういったが、その後で、同意をもとめるように、長谷戸検事の顔を見た。検事は部屋の隅の小さい椅子に腰を下ろして、頭の大きなパイプから煙を吸っていた。検事は、黙ってパイプを噛んでいた。
「どうなさいます、検事さん。裁判医の屍体解剖が終る夕刻まで、この先生の死因は不明ということにして置きますか。それじゃわれわれは何にも手が出せないんですがね」
警部は、こんどは検事を指名して、はっきり不平をいった。
長谷戸検事は、それでもちらりと目を警部の方へ動かしただけで、喫煙の姿勢を崩そうともしなかった。
「これだけ明らかな銃創による殺人を、これからあと半日も疑問にしておくなんて、いけませんよ。そうでなくても、一般からは事件の捜査や裁判が遅すぎると非難ごうごうたるものですからなあ」
大寺警部はいよいよ独特の奇声をふりしぼって不満をぶちまける。
長谷戸検事はようやく立上った。ポケットから長方形の缶を出し、その中へパイプを収った。
「大寺君」
「はあ」
警部は、うれしそうに返事をして、検事の顔をみつめた。
「死因不明としておいて、その外にもっと調べることが残っているから、その方を先に片づけて行こうじゃないか」
「はあ」
警部は当て外れがしたというような顔になって、
「私の方はもう殆んど全部、捜査を終ったんですが、検事さんの方でまだお検べになることがあればお手伝いいたします」
「それならば力を貸してもらいたいが……あの鼠の死骸だが、あれは君がこの邸へ来たときに既に死んでいたのかね」
検事は大股で、部屋を横切って、洗面器のあるカーテンの方へ歩いていった。
「はあ。鼠でございますか……」
大寺警部は狼狽の色を隠し切れなかった。そして検事の後を追いかけた。
帆村は、検事と警部のために黙ってカーテンを明けてやった。
「ああ、鼠が死んでいる。検事さん。私はどぶ鼠など問題にしている暇がなかったんですが、やっぱり問題にすべきでしょうか」
警部は弁明にどもりながら、ちらりと帆村へ険しい一瞥をなげつけた。
「そう。事件捜査に当る者は、一応現場附近に於けるあらゆる事物に深い目を向けてみるべきだと思うね。殊に、その事物が尋常でないときには、特に念入りに観察すべきだな」
「はあ。どぶ鼠が死んでいるということは、尋常ではありませんですかな。すると、犯人はそのどぶ鼠を狙い撃ったのですかな。そうなると、犯人は射撃の名手だということになりますね。……おやおや、このどぶ鼠は、どこにも弾丸をくらっていませんですよ」
警部は、紐を鼠の首へかけて結び、穴から引張り出して一瞥したが、早速鼠の狙撃説をくつがえした。尤も鼠の狙撃説は、彼自らがいい出したことであったが──。
「まあ、そうだろうね」
と検事は苦笑して、それから頤を帆村の方へ振った。
「そこに居る帆村君が、その鼠を欲しがっているようだから、氏に進呈したまえ」
「ははあ」
警部は、わざとらしく愕いて帆村の面上へ目を据えた。それから死んだ鼠を、うやうやしく帆村の方へ差出した。
「ありがとう。じゃあお預りします」
と、帆村はその真面目な顔で、警部の手から、鼠の身体を吊り下げている紐を受取った。
「帆村君。何か分ったら、一応それをわれわれに報告する義務はあるわけだよ」
検事は、鼠の死骸について、さっき帆村と裁判医の間に取交わした会話を念頭に浮べたので、そういった。帆村は多分その鼠を、裁判医のところに持込むつもりだろうと察したからである。帆村は、承知した旨を応えた。
「鼠一匹──が、いやに泰山を鳴動させるじゃありませんか。検事さんも帆村君も、それについて一体何を感づいているんですか」
警部は一世一代の洒落を放って、この場の気持のわるさの源をさぐった。
「とにかく大寺君。君が気がつかなかった鼠の死骸を、帆村探偵は後から来てちゃんと見つけているんだ。帆村君は、その外、まだ何か重大なものを見つけているのかも知れない。大寺君、構うことはないから、帆村君に訊いてみたまえ。なあに遠慮なくやるがいいさ、帆村君は、検察委員の一人なんだから、われわれに協力することを惜しみはしないよ」
長谷戸が喋っている間に、警部の顔は真剣になって赭くなり、他方帆村の大きな唇は微苦笑を浮べてひん曲った。
「帆村さん。検事からのお指図です。わしの見落しているものを教えて頂きましょうか」
「はあ。それでは警部さん。どうぞこちらへ……」
帆村は急にくそ真面目な顔に戻り、警部を彼方へ誘って、部屋の中をゆっくり歩きだした。
帆村は右手を肩の高さにあげて歩いている。帆村のすぐ後に、ぴったり寄り添ったように同じ歩速で歩いている大寺警部の前へつきだした顔が、見えない紐につながれて、帆村の右手で引張って行かれるようであった。
二人は、昨夜来開かれている窓の下を通り過ぎ、その隣の窓のところまで行ったが、そこで帆村はぴたりと足を停めた。
「ここに鳥籠がございますね。私はちょっと面白いと思います。いかがですか」
帆村の指が指したところに、籠をうすい青に塗った吊下げ式の鳥籠があった。絨毯の上にどっしりした台を置き、そこから上に向って人の背丈よりもやや高く架台があって、その架台の先が提灯をかけるように曲って横に出ているが、その鈎に鳥籠が下げられているのだった。
「ああ、鳥籠……」
と、大寺警部は思わず早口にいって、後の言葉を呑みこんだ。彼の身体の中が、俄にかっと熱くなった。それは、帆村に注意されて始めてこの鳥籠に気がつき、そして狼狽したというわけではなかった。ここに鳥籠があるのは、この部屋に入ったときにすぐ気がついていた。だから、警部がかあっと身の内を熱くしたのは、そのことではなかった。警部は、その鳥籠が平凡な物品であるところから今まで全然問題にしていなかったわけであるが、突然帆村がその前に彼を連れていって意味あり気に指したので、警部ははっと愕いたわけであった。愕いた途端に、警部はその鳥籠について、今までは看過していた或る異常な事実に気がつき、そこで更に余計な驚愕と狼狽とをつけ加えたわけであった。(……失敗った。帆村が問題にしている洗面器の下の鼠の死骸と、この鳥籠の一件とは深い関連性があったのか。それに気がつかなかったとは……)
警部は汗びっしょりになった。そのときである、帆村が鳥籠の中を指しながら、竹法螺を吹くような調子で、太い声を響かせたのは。
「面白いですなあ、この鳥籠は……。鳥籠の中は空っぽです。籠の入口の金具もしっかり締まっています。この鳥籠の中に小鳥が飼ってあって、それが生きて止り木に停ってわれわれを見下ろしていた場合、それからその小鳥が腹を上にして死んでいた場合、もう一つこの場合のように、鳥籠はありながら、鳥が居ない場合。──この場合に二つあって、事件以前から鳥が居なかった場合と、事件後にこの籠の入口をあけて中の小鳥を外に出した場合──と、これだけの場合があるわけですね……。とにかくごらんのとおり籠の中には小鳥が居ない。そして空っぽの鳥籠だけがここに置いてある。なんという意地のわるいことでしょうねえ。いや、果してこれは偶然の神がこの意地わるをしたのか、それとも犯人がこの意地わるを試みたのか。警部さん、御感想はいかがです」
帆村の長広舌を聞いている間に、警部の汗はすうっと引込んでしまうし、顔色も元に戻ってしまった。そして警部はここで、用意しておいた次の言葉で帆村に酬いた。
「そう君のように、何でもかんでも目につくものについて、起り得るあらゆる場合を検討していったんじゃあ、事件の犯人を捕えるまでに何年かかるか分りゃしない。いや、本当にそんなゆっくりしたことをすると、犯人はみんな笑いながら逃げてしまって、一人として捕りやしませんぜ。その結果われわれは、年中たいへんな悪口の前に曝し者になっていなければならない。おお、やり切れない」
警部の言葉を、帆村はいちいち肯きながら終りまで傾聴していた。
「いや警部さん。あなたがたが常に大車輪になって活動することを要求せられている現状を、まことにお気の毒に思います。予算をうんと殖やしてもらわねば、これじゃたまりませんよ」
「どうもこれは……」
と、警部は、妙なところから吹きだした風に微笑した。
「結局、すべての事件は完全に且つ速やかに解決せられなければ、民衆の迷惑は大きいわけですからね」
「それはそうだ」
警部は帆村の唱える予算増加案に礼をいおうと思っているうちに、話がまた変な見当へ向きをかえたので、こんな相手とこれ以上交際っているのがいやになった。
「おい帆村君。外にもう君独特の発見はないのかい」
見るに見かねたように、長谷戸検事が声をかけた。すると帆村は、検事の方へ身体を向け直して、片手をあげた。
「もうよしましょう。こっちから一々取上げてゆくと、お邪魔ばかりをするようですから。……ああ、もう一つだけ、おせっかいに取上げさせて頂きますかな。それは屍体が頭をもたせかけていた小卓子の上に並んでいるものの中に缶詰がありますね。これはちょっと面白いと思うのですがね」
帆村がそういうと、とたんに警部は小卓子の前へ突進した。
「これは確かに面白い。私も最初から目をつけていた」
と、警部は空缶を指した。帆村は微笑した。
「で、警部さんは、どこに興味を感ぜられましたか」
「もちろん、それに残っている指紋のことだよ、鑑識を頼んでおいたから、今に分る」
「それも興味のあることでしょう」
帆村はちょっと肯いて
「しかし私が面白いと感じたのは別のことです」
「別のことというと……」
警部の顔面が硬くなった。
「それはですね、その空缶の中はきれいだという点です。なぜきれいであるか。すっかり中身を喰べて洗い清めたものであるか。それとも中に何もつかないようなものが缶の中に入っていたのであるか。それならば、それは一体どんなものだったろうか。中身を喰べたのち洗い清めたものなら、なぜそうすることの必要があったのだろうか……」
「また君の十八番を辛抱して聞いていなきゃならないのかね」
警部は煙草を出して、燐寸をすって火をつけた。その燐寸の燃えかすは、うっかり小卓子の灰皿の中へ投ぜられかけた。が、途中で彼は気がついて、元の燐寸箱の中へ収いこんだ。
「ははは。やっぱり私は当分しずかにしていることにしましょう」
帆村はそういって、後方の壁際へ下った。
そのとき表がざわついた。屍体を解剖のためにこの邸から搬び出す車が到着したのであった。
屍体が搬び出されてしまうと、惨劇のあった現場は、なんだかがらんとした感じになった。そして警戒の刑事巡査たちの面前にも、ほっとした気の弛みが浮び出た。
だが、主脳の検察官たちは、いずれもむずかしい顔を解こうとはしなかった。
「大寺君。現場について、特別に取上げて問題にしておく事項はもう残っていないかね。もしあるなら、今のうちにやって置こう」
長谷戸検事は、小卓子の前まで出て来て、大寺警部に向き合った。
「さあ。もうありませんね。……それに、現場は屍体の無い外はこのままにして置きますから、もし気がつけば、後から補充すればいいわけです。それよりは、どんどん容疑者を取調べて、早く犯人を決定したいですなあ。ぐずぐずしていると、また新聞にいいなぶりものにされてしまいますよ」
警部は、刑事巡査拝命以来この畑に十八年も勤めているので、今までに事件について新聞の報道やその扱いぶりに、少からぬ不満を持っていた。そして今のような世の中になっても、彼は一向その気持を変更するつもりはなかった。
自信の強い彼は、長谷戸検事に対しても仕事の上での不満を持っていた。もちろん彼は、それを面と向って検事に訴えはしなかった。彼とは違い大学を出て検事試補となり、それからとんとん拍子に検事になり重要なポストに送りこまれた若僧──といっては失礼だが、とにかく警部とは年齢がひとまわり以上違うのであった。そういう若い検事から万事指揮を受けなければならぬことは、あまり愉快なことではなかったし、それに長谷戸のやり方というのが、彼大寺警部とは全く違った道を行くので、一層気がいらいらして来た。
大寺警部をして率直にいわせると、若い長谷戸検事の捜査法と来たら、非常にまどろっこしい。彼は臆病に近いほど、あらゆる事物に対して気を配る。その気の配り方も、警部ならちらりと一目見ただけで事件に関係があるかないかが分るのに、長谷戸と来たらいちいち石橋を金槌で叩きまわるような莫迦丁寧な検べ方をして、貴重な時間を空費するのだ。だから長谷戸だけに委せておいたら捜査は何時間経とうが何日過ぎようが、同じ所で足踏みをしているばかりで、かねて手ぐすねひいている新聞記者からは「事件迷宮入り」という香しくない烙印をたちまち捺されてしまわねばならない。その間に立って、自分が苦心さんたんして進行係をつとめるから、とにかく曲りなりにでも事件の真相がわりあい手取早く判明して来るのである。なんのことはない、自分は店の婿養子の引立て役の古顔の番頭みたいなものである、と大寺警部はいつも心の中でひそかにぼやいていた。だからこの事件だってそうだ。検事は現場をまごまごしているだけで、まだ容疑者の只一人をも指名していないし、関係者の訊問すらまだやっていない。
それに反し自分は既にかずかずの手配をしている。ハンドバグを、この部屋の、しかも殺された旗田鶴彌のお尻の下に残しておいたその持主の土居三津子を逸早く逮捕し、容疑者第一号として保護を加えてある。この事件は土居三津子がやったことは十中八九までは確かであり、他の者は殆んど調べる必要がないと警部は睨んでいる。自分のやり方としては、この際土居三津子をどんどん取調べていって犯行を自白させるのが一番早い。
しかし現場には検事たちも来ているし、なんだかんだと面倒な取調べや手続がくりかえされているので、こうして温和しくその片附くのを待っているわけだ。並々ならぬこの辛抱づよさというものを、自分は十八年の勤続によって仕入れたのである。
しかしこれは愉快なことではない。自分としては、あまり多きを望まないけれど、せめて長谷戸検事のような人物とのコンビが解かれ、若いとき自分を引廻してくれたあの雁金検事のような人と仕事をしたいものだ。そうすれば、今の自分ならてきぱきと超人的な捜査をやってみせられるのだがなあ──と、大寺警部は人柄にもなくはかない夢を抱いている。
「じゃあ、関係者の訊問に移ろう」
長谷戸検事がいい出した。
大寺警部は、それを確めるように検事の顔を見直した。
「まず、事件の当時同じ屋根の下にいた家政婦を呼んで来たまえ」
「家政婦ですか。小林トメですね」
「そうだ、小林トメだ」
警部は心得て、一人の警官に目配せをした。その警官はいそいで部屋を出ていった。
帆村は隅っこの椅子に腰を下して煙草に火をつけた。
やがて和服を着た中年の婦人が、警官に伴われて入って来た。丸顔の、肉付の豊かであるが、顔色のすぐれてよくない婦人であった。年齢の頃は五十歳に二つ三つ手前というところらしかった。警部は、婦人を招いて検事の前へ立たせた。
「小林トメさんだったな」
「はい、さようでございます」
家政婦はそう応えながら、警部の前に首を垂れた。
「検事さんが聞かれるから、正直に応えなければいかん」
「はい」
「小林さんはこの邸に住み込みなんだってね」
検事がまずやさしい訊問から始めた。
「はい。さようでございます」
「そして昨日は、夕方以来どこへも外出せず今朝までこの邸の中にいたそうだね」
「はい」
「亡くなった御主人に最後に会ったのは何時かね。そしてそれは何処であったかね」
「こちらの方にも申上げたのでございますけれど」
と家政婦は警部の方へちらと目を走らせ、
「いつものように、私は昨夜九時五分過ぎにお夜食の皿やコップなどを盆にのせました。それが最後でございました」
「御主人はいつも夜食をとるのかね」
「はい。ちょうどその頃までに旦那様はお仕事をお切上げになります。そして一日の疲れを、洋酒と夜食とでお直しになるのでございます。この日課は毎日同じようにつづいて居りました」
そういった家政婦は、そこでちょっと唇を噛んだ。
「この小卓子の上に並んでいるものが、そうなんだね」
「はあ、さようでございます」
「そのとき御主人は、この室内に居られたのかね」
「はい」
「どこに居られたかね」
「私が扉をノックしますと、室内からご返事がありました。そこで私は扉を開いて中に入りましてございます。すると旦那様は、あそこの洗面器のあるところのカーテンを分けてこっちへ出ていらっしゃいました。……それから私は、あの小卓子の上に、盆の上に載せてきたものをいつものように並べたのでございます。その間に旦那様は、窓の方へいらっしゃいまして、両手をうしろに組み、なんだか考え事をなさっている様子で、窓のこっちを往ったり来たりなさっていました。それは私がこの部屋を退りますときまで続いていました」
検事は、そのとき家政婦の言葉が切れるのを待っていたように声をかけた。
「そのとき、この窓は明いていたかどうか、君ははっきり憶えているかしら」
「窓は両方とも、ぴったり閉って居りましてございます」
「じゃあカーテンはどうだろう。今のカーテンの位置と、どこか違っているかね」
窓は二つあった。現在右の窓のカーテンも左の窓のそれも共にいっぱいに開かれていた。
「カーテンは両方とも閉って居りましたのですが……」
家政婦がそういったとき大寺警部の大きな声がした。一人の警官が右の窓へとんでいってカーテンを閉めた。警部は左のカーテンを自らの手で閉めた。
「検事さん。実はカーテンは両方とも閉っていたんですが、部屋の中が暗いものですからさっき私が開放させたのです。しかし現場見取図や写真などには、ちゃんとカーテンが閉っているところが記録してあります。ただ、そのことをちょっと検事さんにお話することを失念していました。どうか一つ……」
警部は軽く頭を下げた。検事は苦がい顔になって、警部を一瞥した。
「私が来るまでは、現場はすべてそのままにしておいて貰いたいね」
「はあ。失礼しました。しかしカーテンを開かないと取調べにあまり暗かったものでございますから……」
警部は弁解をしながら顔をふくらませている。
「するとあの窓はどうだね。開いていたのか閉っていたのか」
検事は色をなして開いている左の窓を指した。
「私は窓には指一本触れていません。さっきごらんになりました現場見取図にも、あの窓があの通り明いていたことはちゃんと出て居ります」
「図面は見ているが、ちょっと君に確めてみたかっただけのことだ」
その家政婦が、突然きゃっと叫んで、後へ飛びのいた。同時に驚いた検事と警部の鼻さきへ、紐に結えて吊下げられた大きなどぶ鼠がゆっくりと出て来た。帆村荘六が指さきに紐をひっかけて、検事と警部の間へ鼠の死骸をさしだしたのである。
「検事さん、この鼠を頂いて、持出してもようございますかね。裁判医の古堀先生が、この鼠にもう一度ゆっくり逢いたいといって居られるもんですから、先生の方へお届けしたいと思います」
濡れている鼠の死骸の尻尾からぽたぽたと水が垂れている。
「いいです、いいです、早くそちらへ片づけて……」
検事は身体をうしろへそらせ、手まねで早くむこうへやれと促した。傍にいた警部は指で自分の鼻孔をおさえた。帆村はいんぎんに一礼をして、鼠の死骸を指先に吊り下げたままゆっくりと戸口の方へ歩いていった。
鼠の死骸が割込んだために検事と警部との間にあった鋭いものが解け去った。両人は互いに顔を見合わせて、苦が笑いをした。そして家政婦の訊問が再び進められたのだった。
「昨夜の九時五分に、君は主人の居間へ夜食を持って行った、と君はいった。それから今朝になって主人の死が発見されるまで、君はどうしていたか」
長谷戸検事の訊問が、家政婦小林トメに再び向けられた。
「はい」
小林トメは返事をしただけで、下を向いて後を続けない。
「どうしたんだ、昨夜の九時五分以後は……」
「はい。私は自分の部屋へ引取りまして、そして睡りましてございます。あのウ……」
家政婦は途中でいい淀んだ。
「隠さないで、はっきりいわなきゃいけないね。たとえ誰に迷惑が懸りそうなことであっても」
「はい」家政婦は検事の言葉にぴくりと肩を動かしてから「あのウ、旦那様の弟御さまの亀之介さまが二時にお帰りになりまして、玄関のベルをお押しになりました。そのときだけ私は起き出しまして、亀之介さまを家へお入れいたしました。その後は又寝床に入りまして朝までぐっすり寝込みましてございます」
「それから……」
「それから朝になりまして、五時半に起きましていつものように朝食の用意にかかりましてございます。すると誰か入って来まして声を私にかけた者がございます。見ますと、それが……それが例の娘さんなのでございました」
「ふん、土居三津子だったのか」
「はい」
「それは何時かね」
「六時過ぎだと思いますが、正確には憶えて居りません」
「土居三津子は、君に何といったか」
「昨夜ハンドバグを御主人の部屋に置き忘れて帰ったので、それを返してもらいたいと仰有いました」
「土居三津子がはっきりそういったのだね、昨夜主人に会ったことも、自分が主人の居間へ通ったことも認めたんだね」
「さようでございます」
「で、君はどういったのか」
「それはお気の毒ですが、旦那さまは只今おやすみ中ですから、お目覚めになるまでお待ちになって下さいと申上げました」
「ふむ。すると……」
「すると娘さんは、すぐ戻して欲しいのだが、鍵で扉をあけて居間へ入れてくれといいました。もちろん私はそれを断りました。居間の扉を開く鍵は私が持って居りませんので」
「娘はどうしたかね」
「では仕方がないから、御主人がお起きになるまで待たせて下さいといいました。私はそれではどうぞ御随意にと申して、あとは私の仕事にかかりました」
「それから……」
「それから……そのうちに芝山宇平さん──爺やさんです──芝山が出て来る、お手伝いのお末さんが出て来るで、賑やかになりましたが、そのうちに爺やさんが、どうも旦那さまの居間がおかしいぞということになり、それから……」
「ちょっと待った、それからのことは大寺警部に話したとおりだろうから、よろしい。ところで、ちょっと腑に落ちないことがあるんだ、小林さん」
検事はそういって、家政婦の顔をじっと見詰めた。家政婦はこのとき不用意に検事と視線を合わせたが、慌てて目を下に伏せた。
「例の娘が、昨夜この邸へ来たことを自分で告白しているが、君はそのことについて何にも述べていないね。つまり何時来て、何時帰ったとかいうことを述べていないじゃないか。これはどうしたのかね」
検事からそういわれたとき、家政婦の面が急に和らいだ。
「それは私が全く存じないことでございました。娘さんが、昨夜来たと仰有ったので、始めて知りましたようなわけで……何しろ私が玄関の錠を外しませんでも、その娘さんは玄関を開けて入って来る方法をご存じなんでございます、現に今朝も私の傍へ来て愕ろかせましたが、そのときも娘さんは同じ方法で勝手に入って来たんでございますよ」
家政婦は意外なことをべらべらと喋った。
「それは一体どういうわけだい」
と、検事もこれには目をぱちくりとやった。
「さあ、私は少しも存じませんでございます。そのことは旦那さまにお聞き下さるか、その娘さんが正直に申すようならその娘さんにお聞きになれば分ると思います」
そういった家政婦の表情には、意味ありげな笑いさえ浮んでいた。彼女が始めて見せる笑いの表情だった。
検事は大きく目玉を動かして、大寺警部の方を見た。警部はさっきから退屈げに煙草をふかし続けていたわけであるが、このとき椅子の上に腰を揺り直して、
「検事さん。土居三津子は昨夜九時三十分頃この邸へ来て、そして十一時にこの邸を出ていったと申立てています。この間、実に一時間半です。そこに冷くなっていた先生も仲々大した手際ですよ」
といった。
「ふうん、十一時に帰ったというんだね」
検事は家政婦の方へ向いて「ねえ小林君。その娘は、十一時にこの邸を出ていったそうだが、そのとき娘は一旦外へ出てから扉に鍵をかけることが出来るのかね」
「いいえ、それは出来ませんです。……私ははっきりしたことを存じませんですけれど」
「だが、君はそれだけ知っているじゃないか、外から玄関を明ける方法のあること、内から外へ出るときは内側から錠を下ろさねばならないこと。それだけ知っているんなら、その方法を知らない筈はない」
「いいえ、私は誓って申します。そんなからくりは存じません」
「じゃあ、さっきいったことを知っているのは、どうしたわけだ」
「はい、それは……」家政婦は苦しそうに目を瞬いて「実は、私が旦那様に内緒で、奥から隙見して居りますと、ちゃんと外から女が入って参りますし、またその女が帰るときは旦那様が玄関までお送りになって錠を開いて女をお出しになり、それから旦那様が錠をおかけになりました。一度私は、女が旦那様の居間へ入りました直後に、玄関の扉の把手に手をかけて、開くかどうか験してみましてございますが、それは駄目でございました。開きませんでございました、はい」
「おいおトメさん。じゃあお前は、あの土居三津子がこの邸へ入って来るところも、出て行くところも見て知っていたんだな」
と、大寺警部が立腹して怒鳴った。
「いいえ、いいえ。私が見ましたのは昨夜のことではなく、あの娘さんのことではございません。もっと前のこと、そして外の女のことでございました。昨夜のことは全く存じません」
家政婦は小さくなって激しく弁解した。
すると検事が、また口を開いた。
「玄関の扉にそういう仕掛があるとしたら、主人の弟の亀之介は、いつでも外から自分で扉を開いて邸の中へ入って来られるわけだね。そうじゃあないか」
「いえいえ、旦那様は弟御さまに、そんな秘密な扉のあけ方をお教えになっていませんのでございます。というのは、旦那様は弟御さまを……」
と、そこまでいったとき、突然そこへ大声をあげて入って来た姿のいい紳士があった。
「やあお呼び下っていたのに、とんだ失礼を。すっかり寝坊をしてしまって、何から何まで申訳ないことばかり……僕が亀之介です。小林にはどうも評判のよろしくない人物です。どうぞよろしく」
彼はそういって、検事の前まで割りこんでいって、
「ああ、私はここで煙草を吸っていて、さしつかえありませんでしょうか」
と、葉巻をきざな恰好で指で摘んで、検察官たちをぐるぐるっと見渡したものである。
玉蜀黍の毛みたいな赤っぽい派手な背広に大きな躰を包んだ旗田亀之介だった。頭髪はポマードで綺麗になでつけてあるが、瞼も頬も腫れぼったく、血の気のない青い顔をしているのは、彼が相当の呑み助であることを語っている。時々胸のポケットから若い婦人が持つような柄のハンカチーフを取出して顔の下半分に当て、その中で変な声を立てる。昨夜来の痛飲でよほど胃の工合が変だと見える。
「煙草はお吸いになって居て結構です。どうぞ、そこへお掛け下さい。そしてお話を伺いましょう」
長谷戸検事は警官に目配せして、空いた椅子を前に搬ばせた。亀之介は一礼したが、すぐに椅子には掛けず、すたすたと足早にそこを離れて向うへ行った。どうしたのかと思っていると、彼は飾棚の上から、同型の真鍮製の積み重ねてある古風な灰皿の一つを取り、それを持って引返して来た。そして検事の前の席についたが、持って来た灰皿は窓枠のところに置いた。そこは彼の席から手を伸ばせば十分に届くところだった。
部屋の隅っこには、さっき鼠の屍骸を持って出て警官へ何かを頼んでいた帆村荘六が最早戻って来て、ゆっくりと煙草をくゆらしていたが、彼はこのとき亀之介を細い目で透かして見ながら、鼻を低く長く鳴らした。
(きちんとした男らしい。死んだ彼の兄の方はだらしない人物らしいが……)
帆村は心の中で思ったが、果してそれは当っているかどうか。──
「御実兄の異変を、いつ知られましたかな」
検事は、亀之介へ訊いた。
「ほう。そのことですが……」と亀之介は葉巻の煙が目にしみるか瞬きをして「雇人たちはずいぶん早くから私の室の戸の外まで来てそれを知らせたそうですが、実のところ私はそれを夢心地に聞いていまして──昨夜は呑みすぎましてな──本当にはっきりとそのことを知って目が覚めたのは、今から一時間ほど前なんです。すぐ起きようと思ったが、躰の節々が痛くてどうにもならず、それでこんなに遅く現われたという次第です。どうぞ御賢察を煩わしたい」
そういうと亀之介は慌ててハンカチーフを左手で取出して、自分の口へ当て、変な声を出した。
「昨夜から今朝までの間、あなたは何をして居られたか、一応ご説明願いましょう」
検事は落着いた同じ調子で訊いた。
「昨夜から今朝までの私の行状ですな。それなら至極簡単ですよ。昨夜は東京クラブで君島総領事の歓送会がありましてね、ご存じでしょうが君島君は学校の先輩でして……それでクラブはすごく賑かなことになりましてね、結局私がクラブを出たのが午前一時半頃でしたよ。いやあ呑みましたね、六七時間呑みつづけでしたからね。さすがの私も二度ばかり尾籠なことをやって伸びていましたがね、今日は躰が私のもののようじゃないようです」
亀之介は、たびたびハンカチーフを口へやった。
「それで帰宅せられたのは何時でしたか」
「さあ、私はそんなことを気にしなかったもんで正確なことは覚えていませんが、家政婦の小林が玄関の戸を開けて私を中へ入れたから、小林が覚えているでしょう」
そういって亀之介は、家政婦の姿を見つけようとして首をぐるりと廻した。だが家政婦の姿はなかった。既に彼女は警官によって別間へ連れ去られた後であった。
「クラブを午前一時半に出たと仰有ったが、それを立証する道はありますか」
「ありますとも。クラブには徹夜の玄関番が居ますからね、会員が帰ればちゃんとしるしを付けることになっています」
「あなたは夕方から翌日の午前一時半まで、ずっとクラブに居られたんですか。その間、外へ出たようなことはありませんか」
「ありません。始終クラブに沈澱していました。嘘と思ったら玄関番と携帯品預り係に聞いて下さい」
「しかし玄関からでなくとも外出する方法はあるでしょうからね」
検事がこういうと、亀之介さっと顔を赭くして、葉巻を叩いて灰をぽんと絨毯の上に落とした。
「異なことを伺うもんだ。すると貴官がたは、私がクラブから脱けだしてこの邸へ帰って来て兄貴を殺した、それを白状しろというんですか」
「いや、そんな風に意味を取って貰っては困る……」
と検事は急いで弁解したが、しかし検事の態度は言葉ほど困っているようには見えなかった。
「だって、そういう風に感じるじゃないですか、貴官の訊問のやり方は……。私は呑ン兵衛で馬鹿で簡単な人間なんですからね、廻りくどい言い方をされても理解が出来ない。真正直にいって貰うことを歓迎するんです。誘導訊問だとか、今のような訊き方は断然やめて下さい」
そういった亀之介の態度には、兄亡き後の今、この邸の主権者は自分だぞという気配が匂うようでもあった。──帆村は、新しい煙草の箱をポケットから出して口をあけた。
「そう気になさることはないと思うんだが……」と長谷戸検事は相変らず冷静そのものという顔でいった。「じゃあ、こう伺いますか。確かにあなたはその日の夕刻から翌日の午前一時半までクラブから一歩も外に出られなかったんですか」
「そうです。そういう工合に訊いて下さい。──答は、然りです」
「被害者──あなたの御実兄は何故殺されたか、その原因についてお心当りはありませんか」
検事はずんずん核心に触れた訊問を進めた。
「さあ、はっきりとは知りませんね」
「はっきりでない程度では何か思い当ることがありますか」
「さあそのことだが……」といいかけて亀之介は消えかかった葉巻を口に啣えて何回もすぱすぱやり、やがて多量の紫煙をそのあたりにまきちらした果に「弟である私の口からいうのは厭なことなんだが、兄貴と来たら昔からだらしがないんでしてね。殊に婦人のこととなると、世間様の前には出せないことがいろいろあるようですテ。とにかくこの邸宅をめぐって、猥雑な百鬼夜行の体たらくで……でしょうな。まあよく調べてごらんになるといい。あの家政婦の小林でもですよ、どこかを探せば男の指紋がついていないともいえないんですよ。あの女は五十に近いくせに、寝るときにゃ化粧なんかしているんですからね。正に百鬼のうちの一鬼たるを失わずですよ、はははははは」
亀之介の口から家政婦に対しての不利な言葉が吐かれた。長谷戸検事は、予ねて待っていた筋にぶっつかったような気がした。彼は土居三津子を真犯人と決定することについてどうも乗気でないのであった。その理由は判然しないが、もちろん確たる反証があるわけではなく、ただ漠然たる感じとして、三津子を犯人に択ぶには物足りなさがあったのである。この点は大寺警部とは全然反対であったが、さりとて三津子を容疑者外として扱うつもりはない。証拠さえ集って来るなら、いつでも三津子を見直す用意があった。しかしながら今も述べたように三津子という女を真犯人として扱うにはどうも物足りない感じがしてならない。この事件の底には、もっともっとねばっこいものが存在しているように思われてならなかった。折よくというか、亀之介の申立によって、そのねばっこいものが水面から頭を出し始めたように思う。つまり亡くなったこの邸の主人鶴彌と家政婦小林とそして亀之介の三角関係というようなものが存在し得るのではないか──。
「すると、婦人関係の怨恨でもって御実兄は、殺害されたとお考えなんですね」
「いや、それは私の臆測の一つです。私がちょっと気がついたのはそれだというだけのことです。私は兄貴の事業のことや社交のことを全く知らんですが、もしその方を知っていれば何かお話出来るかもしれませんが、まことにお気の毒です。兄貴は全然そういうことを私に窺わせなかったのですからね」
「遺産のこともですか」
検事のこの訊問は亀之介の胸を貫いたと見え、彼は大きく口を開いて喘いだ。だが間もなく彼は口を閉じ、苦がり切った。
「遺産がいくらあるか、そんなことを私が知るものですか」
「遺産は、誰方が相続することになっていますか」
検事の追及は急だ。
「知りませんね。ひとつ兄貴と関係のある弁護士の間を聞き廻って下さいませんか。そうすれば遺言状があるかも知れませんからね」
「戸籍面から見ると、あなたが相続されるのじゃないですか」
検事は、悪いことではあったけれど、ちょっと知らないことだが鎌をかけて訊いた。
「私じゃないです。兄貴の庶子に伊戸子という女の子が出ていますよ。よくお調べになったがいいでしょう」
「なるほど」検事は失敗ったと思って冷汗をかいた。「そのイト子さんは、今どこに居られますか」
転んでも只は起きない性分の長谷戸検事であった。
「知らんですなあ、兄貴の痴情を監視するつもりはなかったもんですからね」
検事は亀之介から連打されている恰好であった。すると傍にいた大寺警部が、横合から亀之介に声をかけた。警部は検事の痛打を見るに見かねて、ここで一発亀之介に喰らわさねばと飛び出したわけである。
「あんたはそのイト子という婦人を見たこともないんですか」
「さあ、どうですかねえ」
「見たか見ないか、はっきり答えて下さい」
「見たかも知れず、見ないかも知れない──おっと怒鳴るのは待って下さい。私はこれが伊戸子だと正面から紹介されたことはない。しかしいつどっかで、その伊戸子という婦人を見たかも知れませんからね。例えば兄貴のところへ忍んで来る女の中に伊戸子が交っている場合もあり得るわけですからね」
「ずいぶんひねくれたいい方をするのが好きなんだねえ」
と、警部は忌々しげにいった。
「ひねくれているわけではありません。私は何事もはっきりさせたいから、正しいいい方をしているわけです。しかるに……」
「ああ、もうそのへんで結構です」と検事がいった。「また後で伺うことがあると思いますから、今日はこの家の中だけでお暮し下さい」
そういって検事は、警官のひとりに合図を送った。
亀之介は、火の消えた葉巻煙草にライターの火を移した上で、悠々と椅子から立上って警官のうしろについて広間を出た。
「いやにひねくれた奴ですなあ」
大寺警部は戸口の方をちょっと流し目で見て、呆れたような声を出した。
「ああいう態度は損なんだがねえ……」
と、検事は忘れていた煙草を今思い出したという風にポケットから出して口に啣えた。だが燐寸が見つからない。
後ろにいた帆村が立って、燐寸の箱を検事に手渡した。
「私は他にも持っていますから、その燐寸は検事さんに差上げます」
「あ、それはありがとう。……どうだね帆村君。今の人物の印象は……」
「ははは、あの人はどうかしていますね」帆村は軽く笑って「几帳面なのか放縦なのか、はっきりしませんね。そして欲がないようでもあり、またしみったれのようでもある。精神分裂症の初期なんじゃありませんか」
「まさかね」と検事は首をひねった。「しかし戸籍に被害者の庶子のイト子というのがあったとは意外だね。私がそれについて警視庁側から報告を受けたのによると、庶子のイト子なんてなかったんだからね」
「ああそれについては私が弁明します」と大寺警部が口を挾んだ。「高橋刑事をやって調べさせたんですが、とにかく現在の在籍者は、被害者とあの亀之介の両名だけだったそうです。もちろん庶子のイト子なんて見当らんです。しかし高橋の調べて来たのは本籍のある蒲田区役所のもので、あれは戦災で原簿が焼けて新しく申告したものに拠っているんです。ですから厳密にいえば、ちょっと疑問の余地があるわけです。とにかくこの件については、もっと徹底的に調査させましょう」
「ぜひそうして貰いたいね、重要な問題だからねえ」
検事は熱心な語調でそういった。
「それで、次はどうしますか」
警部が帳面をひろげて、次の段取にとりかかった。
「雇人の取調べを一通りやりあげたいね。あとは誰と誰だったかね」
「爺やの芝山宇平とお手伝いのお末です」
「じゃあ芝山の方から始めよう」
警部が手をあげて、警官に芝山をここへ連れて来るようにいいつけた。
間もなく芝山はこの広間へ入って来た。しきりに頭をぺこぺこ下げて大いに恐れ入っているという風を示した。彼は爺やらしい汚れたカーキー服を着て、帽子を手に持っていた。力士のような良い体格の男であった。
「君が芝山宇平さんか」
「はい。さようでございます」
「君は通勤しているのかね」
「はい。さようでございます」
「昨夜は、君はどこにどうしていたかね」
「はあ。家に居りました。夕方六時にお邸からいつものようにお暇を頂きまして、家へ帰りついたのが六時半頃、それから本を読みまして十時頃に寝てしまいました。そして今朝はいつものように六時頃お邸へ参りました」
「それは確かかね」
「はい、確かでございます。なんなら家内にお聞き下されば、よく知れますで……」
「君の住所はどこだっけな」
芝山は市ヶ谷合羽坂の傍にある住所をいった。
「それから、ここの主人が死んでいるのに一番早く気がついた者は君だってね」
芝山は、黙って首を二三度縦にうち振った。
「どうして気がついたか、話してみなさい」
「ええ、ええとそれは……今朝参りまして、庭に出ました。すると旦那様の御居間に電灯が点いています上に、窓の硝子戸が、一応閉っちゃいますが、いつものように掛金がかかって居りません。つまり硝子戸が平仮名のくの字なりに外へはみ出して居りました。これはふしぎなことでございます。旦那様は戸締を厳重においいつけなさる方で、後にも先にもそんな不要慎な戸の閉め方をなさる方ではありませんでな、わしはたいへんふしぎに思いました」
「なるほど、それで……」
「それでわしは家へ入って、小林さんに、何だか旦那様の御居間の様子が変だぞやと申しましてな、騒ぎだしたようなわけでございます。御居間の戸を開けるのはどうかと思いましたので、一応庭に脚立梯子を立てまして、硝子窓越しに覗いてみました。わしは腰が抜けるほどびっくりしましたよ。なぜって旦那様が首のうしろを真赤にして死んでいらっしゃるんですからなあ、いや、そのときわしは身体が慄えだして、脚立の上から地面へとび下りたものでございますよ」
「それからどうした」
「そこでわしと小林さんは、家へ入ってお手伝いのお末さんも呼び、どうしようかと相談しました。その結果、二階にお休みになっている旦那様の弟御さま──亀之介さまのことでございます──弟御さまを先ずお起ししにかかったんですが、はあどうも、弟御さまは御返事はなさるが一向起きておいでがない。そして段々時間も経ちますので、わしらは困っちまいましてな、そこでとうとう三人で戸にぶつかって錠をこわして中へ入ってみましたんで。あとはごらんになったあの通りでございます」
語り終った芝山は、汗をかいていた。
「主人の死んだことについて、何か心当りはないかね。なんでも正直に申立てるように。誰に遠慮することもいらんから、どんなことでもいってみたまえ」
「はあ」芝山はしばしうなだれていたが「さあ、わしは通勤者じゃで、お邸の夜の出来事にはさっぱり見当がつきませんので……」
「土居三津子という若い婦人を見たことがないかね」
「今朝見ましてございますが、それが初めてでな、前には見たことがございません」
「あの娘が主人を殺した犯人だとは思わないか」
「存じません。全く存じません」
「亀之介という人は怪しいとは思わないか。なんかそれに関して知らないか」
「存じませんです。何にも存じません」
「じゃあ家政婦の小林はどうだ」
「おトメさん? おトメさんは大丈夫です。そんなことの出来るような女じゃありません」
「君はどうだ。犯人じゃないか」
「と、とんでもない……」
「お手伝いのお末というのは怪しくないか」
「あれは真面目な感心な娘で、これも間違いございません」
「亀之介と小林との間に、何か睨み合うような事情があるのを知っているか」
「ええっ、何と仰有る……」と芝山は顔を固くして聞きかえしたが、「そんなことは、ないと思いますよ。とにかくわしの存じませんことで……」と答えたが、なぜかその返答には不透明なものが交っているように思われた。
「いや、ご苦労。そのへんで結構。まあ引取って、あっちで休んでいるように」
検事はそういって芝山宇平を退らせた。
さてそのあとに、お手伝いのお末が警官につき添われて、検事たちの前に現れた。
お末は年齢からいえば二十二歳という娘ざかりであったが、しかし一同の前に現われたお末なる女は予想に反して、もっと年をとった、そして黄色く乾涸びたような貧弱な暗い女性だった。痩せた顔は花王石鹸の商標のように反りかえっていて、とびだしたような大きな目の上には、厚いレンズの近視鏡をかけていた。
だが、検事たちの前に立ったお末の態度はすこしもおどおどしたところがなく、むしろ検事達の方が圧倒されるくらいのものであった。
型の通りの訊問があった後、昨夜のお末の動静を訊ねたところ、
「夕刻の六時にお暇を頂きまして、それから河田町にございますミヤコ缶詰工場へ出勤いたしました。そこで私は九時まで勤めました。仕事は缶詰の衛生度の抜き試験でございます。九時十五分頃工場を出まして、電車で新宿に出、それから旭町のアパートへ帰りました。昨夜は疲れて居りましたので、いつもの勉強はやめて、入浴して十時半に寝ました。それから今朝は六時すこし廻ったころに、この邸へ着きましてございます」
そういい終えるとお末は丁寧にお辞儀をした。
検事たちは愕いた。この女は昼間はこの邸で働きをし、夜は夜で工場で働いているとは、なんとよく働く女だろう。一体何故そんなに働かねばならないのか──。
ちょうどそのときだった。この部屋へつかつかと足早に入って来た者があった。部長刑事の佐々という三十男で、主任大寺警部の腕の一本といわれる腕利きだった。
「お話中ですが……」と彼は断った後、大寺警部の前へ白い布に包んだものを出して拡げてみせた。それは一挺のピストルだった。
「ピストル? どこにあった? 一件のか……」
と警部は昂奮して早口に訊いた。
「そうらしいです。一発発射しています。このピストルを見付けたのは、家政婦の部屋の中です」
「なに家政婦の部屋の中に、このピストルが……」
期せずして大寺警部と長谷戸検事の視線とがぴったりと抱き合った。
そのうしろでは、さっきまで睡むそうな顔をして欠伸を噛み殺していた帆村荘六が、今は別人のようなしっかりした表情になって、室内の誰からも一時忘れられているお手伝いのお末の、しなびた顔にじっと見入っていた──。
ピストルの発見は、検察官一同を総立ち同様にまで昂奮せしめる力があった。
中にも、最も衝動を受けたのは主任警部の大寺だった。彼は、この事件の犯人を、今本庁に引いていって拘置してある土居三津子だと、自分の心の中には確信していた。只いささか満足するには欠けることは、三津子が旗田鶴彌を射撃するに使ったピストルが発見されないことであった。ところが今やそのピストルらしいものが、同じ惨劇の旗田邸の屋根の下に於て発見せられた。が、その場所がどうも気に入らない。家政婦小林の部屋の中に発見されたからである。
「一体このピストルは、どこに在ったのかね」
と長谷戸検事は、ピストルの発見者の佐々部長刑事に尋ねた。
「それは家政婦の部屋を入ったすぐ右手に茶箪笥がありまして、その上に口の広い磁器の花瓶が載っていますが、その中に隠してあったのです」
佐々は手真似もして、それを証明した。
「花が活けてある花瓶かね」
「いえ、花は挿してありません」
「じゃあ空かね」
「はい。今ここへ持って参りましょう」
「いや、こっちから行くよ」
検事は腰を上げた。
そのときお末を監視していた巡査がお末はこのままにして置くのか、元の部屋へ帰らせていいのかを検事に尋ねた。
「ああ、元の部屋へ行って貰おう。やっぱり外出は厳禁だよ」
検事はそう言い置いて、家政婦の部屋へ行った。小林の部屋は一階の右の奥で、勝手より手前であった。狭い廊下を入ると、左側に入口があって、一坪の板の間があり、扉がこれへ開く。その奥は、床が高くなっていて、障子を開くと六畳の間と二畳の間があり、二畳の間は、一坪の板の間の右隣となっている。また六畳の間には二間の押入がある。問題の花瓶は、その二畳の間に置いてある茶箪笥の上に載っていたが、なるほど花は活かっていない。
検事の外、二三名が上へ上る。後からついて来た帆村は、花瓶の方にはあまりに興味がないらしく見え、その代り広い二間の押入の襖をあけてみる。
中は、きちんと片づいていた。赤い友禅模様の夜具が、この部屋の主には少し不釣合なほど艶かしい。帆村の手が伸びて、下段の端に置かれてある小型の茶箪笥の扉を開いた。するとその中には徳利や猪口が入っていた外に、清酒の一升壜が半分ほどの酒を残しているのが収ってあった。ついでに帆村の手が、その隣りの、臙脂色の塗箱の引出の一つ一つに掛けられた。帆村の記憶にはっきり残ったのは、袋入りの秘戯画と、沢山の上質のみす紙とであった。
「おい帆村君。これを見なくてもいいのかね」
長谷戸検事の声に、帆村は押入の襖を閉めてから検事の傍へ行った。
「この花瓶なんだが、底に深さ一糎ばかりの水が残っていた。ピストルは、銃口を下にして入っていたそうだ。ところがピストルの銃口を虫眼鏡でよく調べたが、錆はまだ全然発生していない。だからこのピストルが花瓶の中へ隠されたのはこの一両日のことだということが推察される。それだけのことなんだが……」
「どうもありがとうございました」
と、帆村は丁重に礼をいった。
検事は真面目な顔で肯いた。それから主任警部の大寺にいった。
「このピストルをすぐ鑑識の人に調べて貰って呉れたまえ。指紋と、弾丸にどんな条跡を与えるか写真に撮ることを、すぐに頼む。十五分もあれば分るだろう。その間われわれはちょっと休憩をしようじゃないか。お茶は呑めないだろうからね」
休憩時間が過ぎると、几帳面な検事は、早速取調べの続行を宣した。
「ピストルの指紋はどうだったね」
検事の声に、鑑識課員が立って来て、
「指紋は一つもついていません。手袋をはめて使ったんでしょうね」
と応えた。
「ああ、そうか」
検事は格別失望の色も見せなかった。そして鑑識課員から、ピストルの条跡の拡大写真を二三枚うけとった。
「このピストルは誰のものかね。それから調べて行きたい。まず家政婦の小林をここへ……」
検事の命令で、小林トメは襟元を合わせながら広間へ入って来た。そして設けの椅子の上に、はちきれるようなお臀を据えた。彼女の目は、わざと検事がすぐ目の前の卓上に置いたピストルに注がれて、一瞬はっと胸をすくめたが、間もなく元に戻った。
「このピストルに見覚えはないですか」
と、検事の訊問が始まった。
「いいえ、存じません」
家政婦の声音は、尋常であった。
「亡くなったこの家の主人の所有物ではないのかね」
「旦那さまがピストルをお持ちになっていたかどうか、わたくしは存じません」
「そうか。それならそれとして……」と検事は鋭い瞳を家政婦の面につけた上で「このピストルは君の居間にあったのを見付けたんだがねえ」
「ええッ、このピストルがわたくしの部屋に?」
と、家政婦の顔色はさっと変った。
「一発だけ発射してあるんですよ。そして発射してから間もない。それが君の部屋に隠してあった。どういうわけですかね、説明をして貰いたい」
検事はじりじりと家政婦に肉迫する。
「そのピストルは、わたくしの部屋のどこに隠してあったんでしょうか。全くわたくしの知らないことなんです。そんなことがあれば、誰か……誰かがわたくしに罪をなすりつけるためにそのような恐ろしいことを──」
「他人の陰謀だというんですね。それならそれは一体誰です。誰だと思いますか」
「……はい」家政婦の目は混乱した。
「それは申上げられません」
「言えない。何故言えないのですか」
「…………」
「死んだ主人の弟の亀之介氏ですか」
検事は、先に亀之介が家政婦を誹謗したことを思出したから、このように訊いてみた。
「いいえ、亀之介さまの事ではございません」
と、家政婦は言下に否定した。検事は困惑を感じた。すると家政婦がつけ加えた。
「このお邸に出入りしている人達は、何かというと、わたくしを利用して悪いことをなさるのです。この年齢になるのに、こんなお邸に家政婦として温和しく朽ちて行くわたくしを、なんだって御自分の野心に利用したり、悪いことのはきだめにしたりなさるんでしょう。ああ、もっと早くそれが分っていたら、わたくしはこんなお邸へ家政婦などとして入るのじゃなかったんです」
家政婦は昂奮の極、大きな涙をぽたぽたと膝の上に落とした。
帆村は、このとき煙草の灰の落ちるのも気がつかない風で、家政婦の一挙一動に気を奪われていた。
「具体的にいって貰いたいですね。お手伝いのお末のことですか、それともあの土居三津子のことですか」
「それは申上げられません。今は何もいいたくないのです。しかしそのピストルは、決してわたくしが使ったものではございません。わたくしはこれまでにピストルというものに触ったこともなければ、ピストルで射撃したことも勿論ございません」
「そんなことは言訳にならないねえ。誰でも引金を引きさえすれば、弾丸は銃口から真直に飛びだすんだから……」と、検事は軽く一蹴して置いて、
「もう一つ伺うが、あなたの部屋を入ったすぐ右手の茶箪笥の上に花瓶が載っているが、花は活けてない。あの花瓶はいつから空になっているんですか」
妙な質問に、家政婦は警戒の色を浮べながら、
「あのう、あの花活から花を捨てましたのは昨日の朝のことでございます。その花活がどうかいたしましたか」
「その中に、このピストルが隠してあったのですよ」
「まあ……」
「それについてどういう感想をお持ちですかな」
「何にもございません。全くわたくしの知らないことでございますから……」
「昨夜深更にこのピストルで主人を射殺しそれからこれをあなたの部屋の花瓶の中に隠した。なかなかいい隠し場所ですね。そういうことをなし得る立場にある人物は、極めて数が少いのですぞ。その当時この邸に居合わせたのは、実にあなたひとりである。そうでしょう。だからあなたは、もっとはっきり自分の立場を明らかにする必要がある。そう思いませんか」
家政婦の顔から血の色がなくなった。しかし彼女は懸命になって叫んだ。
「わたくしがしたことではありません。それに唯わたくしひとりがこの家にいたように仰有いますが、外にも人が出入りしました。あの土居三津子という女のお客さまもそうですし、それから亀之介さまもそうでございました。わたくしだけじゃございません」
「それはそうですが、昨夜土居三津子はあなたの部屋へ入りはしなかったのでしょう。あなたは先に、それを証言している」
「それはそうですけれど……」
「亀之介氏はこの家の主人が殺されてから二三時間後に帰って来た。午前二時頃だったそうですね。あなたもそれを認めている。そうでしょう。」
「は、はい。ですけれど、旦那さまを殺したのはわたくしではありません……」
家政婦は検事のために、遂に袋小路に追込まれてしまった感がある。彼女は滂沱たる涙を押えて、声を放って泣き出した。
検事は当惑の顔で、家政婦を一時引下らせるように命じた。
巡査に護られて家政婦の小林が、広間から出ていくと、帆村が何を思ったかその後を追って廊下へ出た。
二三分経つと帆村は、元の広間へ戻って来た。そのとき広間では、誰も皆、煙草をぷかぷかふかして、すっかり緊張を解いていた。と、長谷戸検事が、帆村の方を振返っていった。
「今、本庁へそういって、土居三津子をここへ呼ぶように手配しました。土居がここへ来るまで、外にする仕事もないから、暫く取調べは中止します。解剖の方も、今やっているところでしょうから、この報告もずっと先のことになりましょうからねえ。あなたも、ちと散歩でもして来たらどうです」
帆村は、検事に礼をいって、卓上に並んでいる茶呑茶碗を一つを取上げ、温い番茶を一口啜った。
一座は大寺警部を中心に、トマトの栽培方法について、話に花を咲かせている。
そのとき帆村が、長谷戸検事に声をかけた。
「検事さん、この休憩時間に、僕にすこし訊問をやらせてくれませんか」
帆村は今までにない積極的な申出をした。
「訊問を? 一体誰に訊問をするんですか」
「とりあえず二人あるんです。一人は亡くなった主人の弟の亀之介氏。そのあとが芝山宇平という爺さんですがね」
「亀之介と芝山の二人をね」検事はちょっと首をかしげたが、やがて肯いた。
「いいでしょう。許可します。しかしここで訊問をして下さい」
「はい、承知しました。じゃあ皆さんの御座興に、僕がちょっと余興をやらせてもらいます」
帆村の申出に、一座には顔をしかめる者もあったが、長谷戸検事はすぐ警官を手招きして、亀之介をここへ連れてくるように命じた。
暫くすると、二階の居間を出た亀之介が、のっそりとこの広間へ入って来た。
「何の用ですか」
機嫌はよろしくない。
「お聞きしたいことがある。そこへ掛けて下さい。この帆村が訊きます」
検事は親切に帆村のために段取を整えてやった。亀之介は、椅子をこの前と同じく、窓の傍へ引張っていって腰を下ろした。そしてまだ先刻のままに窓枠のところに載っている灰皿へ、葉巻の灰を指先で叩いて落とした。しかし灰は、まだいくらも先についていなかった。
「簡単なことをお訊ねいたしますが」
と帆村は丁重に口を切った。
「昨夜この邸へお戻りになったとき、玄関の扉を開けてあなたをお入れしたのは、家政婦さんだったそうですね」
「そのとおり」
「家政婦さんはどんな服装をしていましたでしょうか」
「はははは」と亀之介が突然笑った。
「醜態でしたよ。上に錆色のコートを着、裾から太い二本の脚がにゅっと出ていました。そして当人は気がつかないらしいが、後から赤い腰紐が、ぶらんとぶら下って床に垂れているんです」
家政婦の寝呆け姿が目に見えるようであった。他の人々も、帆村の訊問に興味を持って耳を欹てる。喋り手はますます得意になって、
「よく見ればね、小林はコートの下に長襦袢を高くからげて、腰紐で結えていたんですよ。なぜそんなことをしているか。はははは、これが面白いんだ。僕はこの目でちゃんと見てやったですがね、小林の婆さん、年齢甲斐もなく、下に娘のような派手な長襦袢を着ているんですよ。しかもどうやら長襦袢の下はノー……いや、もう他人の話はその位にして置きましょう。恨まれるといやだから。はははは」
聴き手たちは、もっとその上の話を聞きたそうな顔であった。帆村は、それをくそ真面目な顔で、一々肯いていたが、そこでいった。
「なるほど。それからあなたはどうしなすったんですか」
「それから? それから僕は二階へ上って自分の部屋へ入り、ぐっすり寝ましたね」
「ああ、ちょっと。その間になにか、なさったことはありませんか」
「その間にですか? ありませんね、何にも……」
「お忘れになっているんでしょうね、あなたは家政婦に冷い水を大きなコップに一杯持ってくるようにお命じになった」
「ああ、そんなことですか」と、亀之介は歯牙にもかけないような顔をしたが、しかし彼の語調に狼狽の響きがあった。「ひどく酔っていたもんで、咽喉がからからなんです。ですから小林に水を貰って呑んだように思います」
「腰紐がぶら下っていることや、なまめかしい長襦袢のことはよく覚えていらっしゃるのに、水を貰って呑んだことは記憶がぼんやりしているのですね」
「それは皮肉ですか、こっちは正直に話をしているのに……」
「いや、あまり気にしないで下さい。そして家政婦が水を大きなコップに入れてくるまで、どこで待っていましたか?」
「二階へ上る階段の下です」
「お待ちになっている間、そこからどこへも動かれなかったんですか、例えば小林の後を追いかけて勝手元へ行ってみるとか、或いは又、小林の部屋へ入ってみるとか、そんなことはなかったですか」
「失敬なことをいい給うな。僕が──この邸の主人の弟が、なんであんな婆さんの後を追うんです。僕は色情狂ではない…………」
「いや、よく分りました。これで伺いたいことはすみました。どうぞお引取り下さい」
亀之介はなおもぷりぷり憤慨して、帆村を睨みつけていたが、やがて火の消えた葉巻煙草をぽんと絨毯の上に叩きつけると、すたすたと部屋を出ていった。監視の警官が、あわててその後を追いかけた。
「いかがです、余興の第一幕は……」帆村はにやりと笑って一座へ軽く会釈した。「もうすこし御辛抱を願って、第二幕を開くことにいたします。じゃあどうぞ、下男の芝山宇平をここへお連れ下さい」
「帆村君がつっつくと、あの家政婦はだんだん色っぽくなって来るじゃないか。あれと亀之介と、これまでに何かあったんじゃないか」
長谷戸検事が大寺警部を見て笑った。
「まさか、そうじゃないでしょう。亀之介は女に不自由するような人じゃないですからね」
警部は、首を振った。
「しかし、あの兄にしてこの弟あり、ではないかねえ」
「兄は三津子のような若い美人を相手にしています、弟だって三津子ぐらいのところならいいでしょうが、まさかあの大年増の尻を追うことはないでしょう」
「まあ、もうすこし帆村君の演出を拝見していよう」
「そんなことよりも、ピストルの方を早く片づけたいものですがねえ」
「だから、今土居三津子がここへ来るじゃないか」
そこへ芝山宇平が巡査に連れられておずおずと入って来た。そして亀之介がさっきまで座っていた椅子に腰を下ろした。
「へえ、何の御用でがすか」
ぺこんと頭を下げる。五十歳をちょっと過ぎたというが、五分ぐらいに刈った短い頭髪が、額の両側のところですこし薄くなっている。血色のいい顔、大きな体の持主だ。
「これは特別に君の耳に入れて置くんですがねえ」と帆村が手帳を拡げて、仔細あり気に芝山の顔を見た。
「実は、ピストルが見つかったんです、一発だけ撃ってあるピストルがねえ」
「はあ。わしはピストルは見たこともねえでがす」
「いや、君のことじゃない。……そのピストルが隠してあったところが、ちょっと問題なんだがねえ。はっきりいうと、それは家政婦の小林さんの部屋なんだ」
「えっ、……」
明らかに芝山は衝動を受けた様子。
「小林さんの部屋を入って右手に二畳の間がある。そこに茶箪笥があって、その上に花活が載っている。花は活けてない。水も殆んど入っていない。その花活の中に問題のピストルが、銃口を下にして隠してあったんだ。いいですか」
「へえへえ」
芝山の眼は落着を失った。
「さあ、そこであなたに特に知らせて置くわけだが、そのピストルは小林さんが使って主人を撃ち殺し、そのあとで自分の部屋の花活の中に隠した──という嫌疑が小林さんに懸っているんだ」
「それは人違いです。おトメさんはそんな大それたことをするような女じゃあない」
芝山は躍気になって否定した。
「だが、小林さんには、その嫌疑を否定する証拠がないんだ。つまり、自分がそのピストルを使わなかったことを証明することが出来ないんだ。また自分がピストルをその夜花活に隠さなかったことも証明できない。小林さんは今、あっちの部屋で気が変になったようになっている」
「残酷だ。おトメさんは人殺しをするような女じゃないです。そんな調べは間違っている」
「だがねえ宇平さん。そうでないという証拠が出て来ないのだよ。或いは小林さんの不運かも知れないが、証拠がないことには、小林さんは殺人容疑者として引かれることになるがね」
「それじゃ天道さまというものがありませんよ。おトメさんが人殺しをしないということは、わしが証人に立ちます」
「どういうことをいって証人に立ちます」
「日頃からよく交際っているが、決してそんな大それたことをする女じゃないと──」
「それだけでは役に立たない。もっとはっきりと証拠をあなたが出さないと駄目ですよ。例えばね、小林さんが部屋を出ていった留守に、或る男が入って来て、そっと上にあがり、花活の中にピストルを入れて、それからまたそっと出て行った。それをあなたがちゃんと見ていた──という風な証言が要るんだ」
「ははァ……」
「或いは又、あの晩、この邸へ来て主人を訪ねた土居三津子という若い女の客が、主人に送られて玄関から出て行った時刻──それは多分正十一時頃らしいが、小林さんがそのすこし前から始まって午前零時半頃までのこの一時間半ばかりの間、決して主人のところへ行って彼を殺さなかったという証明が出来てもいいんです。これにもいろいろの場合があるが、例えばですね、その一時間半に亙って、小林さんは自分の部屋から一歩も外へ出なかったということを、あなたが証明出来るなら、小林さんは晴天白日の身の上になれるんです。どうですか芝山さん」
帆村のこの言葉は、芝山宇平を痛烈に突き刺したようであった。芝山は、いきなり腕を前に振ると、頭を両腕の中に抱えて俯伏した。そしてなかなか顔をあげなかった。
このとき一座の視線は、この芝山と帆村とに集っていた。
やや暫く経って、芝山は顔をあげた。真赤な顔をしていた。
「どうか、おトメさんに会わせて下さい」
彼は切ない声でいった。
「小林さんは重大なる容疑者になっているから、今君を会わせることは出来ないですよ」
「そうですか」力なく彼は肯いた。
「じゃあもう仕様がない。何もかも申上げます。実はわしは昨夜十一時から今朝まで、おトメさんの部屋にいました。だからおトメさんが、今あなたが仰有った十一時から一時間半は、あの部屋から一寸も出たことがないのです。つまり、おトメさんの部屋で、わしがおトメさんの横に寝ていましたから……」
芝山は遂にたいへんなことを告白した。
「すると、君は昨日夕方自宅へ帰って自宅に朝まで寝ていたというのは一体どうしたんですか」
と、帆村は冷然として芝山に訊問を続ける。
「あれはわしが家内にそういって、嘘をいわせたんです。でないと、わしは御主人殺しの関係者と睨まれて、うちはたいへんなことになるから、わしは自宅に居たことにするんだぞと家内を説き伏せたわけです」
「それを妻君にいったのはいつですか」
「今朝のことです。旦那様がいけないと分ってから後で、ちょっと家へ帰って参ったんです」
芝山の言葉つきが、始めは爺むさくそして要点の話になるとすっかりすっきりした言葉になることを、帆村は興深く聞きとめていた。それは兎に角、これで芝山宇平と小林トメとの秘密な情交関係が分ってしまった。芝山は小林を救うために、小林のアリバイを証明しなければならなくなったのだ。そのために五十男は全身びっしょり汗をかいて告白をしたが、小林トメはまだそんな秘事が洩れたとは知らないで居る。それと分ったときに、この家政婦は一体どんな顔をすることであろうか。
「君は、花活にピストルを入れに来た人間を見なかったのですか」
帆村は、さっきもちょっと口にしたことを表立った問題として訊いた。
「いいえ、見ませんでした」
芝山は否定した。
「君は、亀之介氏が帰って来たのを知っていますか」
「はい、存じて居ります」
「亀之介氏は、階段の下で、小林さんに冷い水を大きなコップに入れて持って来いと命じたが、その声を聞かなかったですか」
「はい、確かに聞きました。わしはおトメさんの蒲団の中にいながら、外の方に聞き耳を立てていましたから、それを確かに聞いたです。そしてそのあとおトメさんが勝手元の方へ行った様子ですから、これはあぶないぞと思いました」
「なるほど。それで……」
「それでわしは、すぐ蒲団から出るとわしの枕を抱えて、押入れの中に逃げこみました。そして蚊帳を頭から引被って、外の様子に聞耳を立てていました」
「すると、どうしました」
「すると、誰かが戸を開いて、部屋へ入って来た様子です。それはおトメさんではない。おトメさんなら、すぐわしを呼ぶ筈です。何しろ蒲団の中にわしの姿がないんですからなあ。……ところが、入って来た者は、何にも声をかけないのです。しばらく部屋の中を歩き廻っているらしかったが、そのうちがちゃんと音がしました。瀬戸物の音です。瀬戸物に何かあたる音でしたがなあ、確かに聞いたのですよ」
「どの辺りにその音がしましたか。花活のある辺りではなかったでしょうか」
「そうかもしれません。いや、確かにその方角でした。……それから間もなくその人は部屋を出ていきました」
「結局その謎の人物は何分ぐらい部屋にいたことになりますか」
「さあ、どの位でしょう。気の咎めるわしにはずいぶん永い時間のように感じましたが、本当は三十秒か四十秒か、とにかく一分とかからなかったと思います」
「その者が部屋を出て行く時、君はその者の顔か姿を見なかったのですか」
「いいえ、どうしまして。わしはもう小さくなっていました。それからしばらくして、外に──階段の下あたりに、おトメさんの声がしました。それから暫くたって、今度はおトメさんが本当に部屋に入って来たらしく、入口に錠を下ろし、それから上へ上ってから、『おやお前さん、どこへ隠れてんのさ』といいました。そこでわしは、枕を抱えて押入れから出ました。おトメさんはおかしそうに笑っていました」
「もうよろしい、そのへんで……」
と、帆村は芝山の陳述を押し止めた。そして一先ず元の部屋へ引取らせた。
芝山が退場すると、長谷戸検事以下の全員が帆村探偵の方を向いて、破顔爆笑した。芝山に小林との情事をぶちまけさせたのが、面白かったのであろう。帆村はわざとしかつめらしい顔で一同の方にお辞儀をした。
そして口上を述べた。
「今ごらんに入れたのが第二幕でございました」
検事がにこにこ顔で、軽く拍手した。検事の屈託のない人柄を、帆村は以前から尊敬していたので、もう一つお辞儀をした。
「帆村君の見せてくれるものは、これで終ったのかね」
と大寺警部が聞いた。警部もいつになく弛んだ顔をしている。
すると帆村が、警部の方へ向いていった。
「いや、まだ第三幕以下がございます。しかし第三幕は、僕が出しません。そのうちに他の人が、その幕を揚げてくれる筈でございます。暫くどうぞお待ち下さい」
そういっているとき、奥から警官が急いで入って来た。
「只今、裁判医の古堀博士からお電話でございまして、旗田鶴彌の解剖は終りましたそうで……」それから警官はメモの紙片の上を見ながら「旗田鶴彌の死亡時間は午後十一時三十分前後で死因はピストルの弾丸ではなくて、心臓麻痺だそうです。詳しいことは、明日報告するといわれました。おわり」
旗田鶴彌の死因は、ピストルの弾丸ではなくて、心臓麻痺だ──と古堀裁判医がいったというのだ。
「そ、そんなことがあるものか」
と、大寺警部は腹立たしげに叫んだ。
「ふしぎだ、ふしぎだ」
と、長谷戸検事も俄かに信じかねている様子だった。他の係官も、事の意外に呆然としている。只、帆村荘六だけが、にやりと笑って、シガレット・ケースを出して、しずかに指先にその一本を抜きながら、
「第三幕です。これが第三幕です」
と、呟くようにいった。
まことに意外な裁判医の報告だった。
被害者旗田鶴彌は後頭部を撃ち抜かれて死んでいたのに、裁判医は「死因はピストルの弾丸ではない、心臓麻痺だ」といって来たのである。これでは長谷戸検事たちの困惑するのも無理ではない。一発弾丸を発射してあるピストルが家政婦小林トメの部屋の花活の中から発見せられ、これこそ事件の最有力な鍵として検事たちを悦ばせ、捜査と関係者訊問はそのピストルを中心に結集せられていたのであるが、大体その謎が解けようとしたときに、突然裁判医からのあの電話であった。折角ピストルを土台として積みあげたものが、この電話によって一瞬の間にがらがらと崩れてしまったのである。なんということだ。無駄骨と知らずに、ここまで一所懸命に追って来たのである。
長谷戸検事は、無言で椅子の背を抱えている。今朝からの疲労が一度に出てきたという顔つきであった。ピストルを発見した殊勲の佐々部長刑事は、もっとがっかりした顔になって、開け放しになった口を閉じようともしない。検事の隣の椅子では、大寺主任警部が、これは又今にも怒鳴りそうなおっかない顔であたりを見廻わしている。帆村探偵は、部屋の隅っこで、静かに煙草の煙を天井へふきあげている。
「今日はもう訊問はよそうや。訊問をやっても仕様がない」
長谷戸検事が突然椅子からぴょんと躍り上るようにして立って、そういった。皆は一斉に検事の顔を見た。
「ねえ、そうじゃないか。ピストルで撃たれて死んだのではなく心臓麻痺で死んだというが、それならそれで、裁判医から詳しく説明を受けないことには、われわれには一向に納得が行かない。そして捜査方針を改めて建直さにゃならない。だから訊問も捜査も一応中休みとして、明日の午前、裁判医を僕の部屋へ呼んで聴くことにする。時刻は九時半としよう」
検事のこの言葉に、一同は肯いた。
「検事さん。土居三津子が今護送されて、この邸へ到着する筈ですが、これはどうしますかね」
大寺警部が訊いた。
「それも同じことだ。死因がはっきりしないのに、その女を訊問しても仕様がないからね」
「ははあ」
大寺警部はちょっと不満のように見えた。
「じゃあ訊問しないで、廻れ右を命じますね」
検事は返事の代りに、首を縦に振った。
「分っているだろうが、事件の関係者はこの邸から外へ出さないことだ。亀之介、小林トメ、芝山宇平、本郷末子の四人だ。いいね」
現場係の巡査部長が、畏ってそれを承知した。それから長谷戸検事は、部下をひきつれて真先にこの邸を出ていった。帆村は椅子から立って、検事に軽く礼をしたが、検事はそれに気がつかないのか、すたすたとこの部屋を出ていった。
次に大寺警部の一行が帰り仕度を始めた。それについて帆村も一緒に部屋を出た。玄関のところで帆村は呼びとめられた。友人の土居が待っていたのだ。
「どうしたんだ。妹がここへ送られて来るという話だけれど、どうなるんだ」
土居は心配を四角い顔一杯にひろげて、帆村にきいた。帆村はその訳を話してやった。
「そうか。すぐ警視庁へ送りかえされるのか。どうだろう、その前ここでちょっと妹に話が出来ないだろうか」
「駄目だろうね」
帆村は気の毒そうに応えた。
「それに、こんなところで話をすると、後で検事の心証を害する虞れがある。適当な時に弁護士を立てて、それを通じて面会するのがいいね」
帆村は正しいやり方を薦めた。警部たちが門を出ようとしたとき、三津子を護送した本庁の幌自動車が警笛をならして門内へ入ろうとしたので両者が鉢合わせとなった。土居が自動車の方へ駈出して行ったので、帆村もすぐその跡を追った。警部は、停った自動車の中へ二言三言いった。すると自動車はそのまま邸内の庭へ入って来て、ぐるっと一廻りをすると門から出て行った。帆村は土居の腕をしっかり抑えながら、それを見送った。薄暗い自動車の中に、三津子に違いない女性の姿がちらりと見えた。向こうでも気がついたか、三津子は座席から前へ乗り出したが、そのときはもう兄や帆村が見えない角度になってしまっていた。帆村は土居の肩を叩いて、自分と一緒に事務所へ来るようにといった。
事務所の扉を開くと、帆村を助手の八雲千鳥が出て来て迎えた。
「いらっしゃいまし」
と、土居の方へ挨拶をした。それから無言で帆村の方へ頭を下げた。
「何も用事はなかったんだね」
「はい。別にお知らせするほどの急ぎものはございませんでした。もう現場の方はお済みですか」
「今日の方はお仕舞となった。……で、君は僕が何処に居たか、知っているのかい」
帆村の眼が悪戯児のように光った。
「先生、そんなことぐらい、ちゃんと分っていますわ」
八雲千鳥は、遠慮がちに笑って、帆村の顔と客の顔を見た。
「じゃあ訊くが、何処だい」
「旗田さんのお邸でしょう」
「その通りだ。──でどうしてそれが分ったのかね、僕は何も君へノートを残して置かなかったのに……」
「ノートを残していらしったじゃございませんの」
八雲助手の声に、得意の響きがある。
「はてね」
「灰皿に真黒焦げになって紙の燃え糟がございました。その燃え殻の紙には、鉛筆で書いた文字の痕が光って残っていました。鉛筆は石墨ですから、火で焼いても光は残って居るわけでございますわね」
「もうよろしい、君は大分仕事に慣れて来たようだ」
帆村はそういってにんまり微笑した。
「一体どうしたんだね、今の話は。まるでこんにゃく問答で、僕にはさっぱり通じやしない」
と、土居が二人の間へ割りこんで来た。
「ははは、今の話かね、こういう訳なんだ、僕が今朝君の電話で事務所を出て行ったとき、この八雲君はまだ事務所へ来ていなかった。そこで僕は旗田邸へ行ったことを紙に鉛筆で書いて、それを机の上に残して行こうと思ったが、ふと思いついて、その紙を灰皿の上で火をつけて焼いてしまったんだ。紙は焼けて黒い灰と化するが、八雲君のいったように鉛筆の痕は残っている。それに八雲君が気がつくかどうかをちょっと験してみたというわけだ。ところがお嬢さんはちゃんと気がついた。そこで及第点を与えたという、それだけのこと」
「ふーン、なるほどね。探偵商売もこれじゃ芯が疲れるわい」
土居は八雲千鳥に替って、ポケットから手帛を出して自分の額の汗を拭いた。帆村は土居を奥の書斎へ導いた。そこは雑然と書籍が積みあげられ、実験室には電気の器械器具が並び、レトルトや試験管が林のように立っていて、博物館と図書室と実験室を一緒にしたような混雑を示している部屋だった。帆村は、この雑然たる部屋を滅多に掃除させなかった。これはたとえ一枚の紙片が掃きとばされても重大な結果となることがあったし、また薬品の一壜が壊されても非常に困ることがあったからである。
「まあ、そこへ掛けたまえ」
帆村は時代のついた籐椅子を、彼の大机の方へ引寄せて土居に薦めた。そして帆村自身は、大机に附属している皮革張りの廻転椅子に尻を下ろした。その廻転椅子は心棒がどうかしていると見え、彼が尻を下ろした途端にがくんと大きな音をたてて後へ傾いた。しかし帆村は平然たる顔で、机上のケースから煙草を一本とって口にくわえた。
「さあ、君もこれをやり給え。これは昔の缶入煙草のチェリーなんだからね」
土居は愕いていた。そういう太巻煙草の缶入が昔あったことは、話に聞いていただけだったから。帆村はマッチの火を土居にも貸して、うまそうに紫煙を吸いこんだ。
「妹はどうなんだろう。嫌疑はますます濃くなって行くんだろうか」
土居は心配そうに訊ねた。
「そうとはいえないと思う」
帆村は考えながら応えた。
「僕の観察では君の妹さんに対する係官の嫌疑材料は、今日一日で、まだいくらも殖えなかったと見ている。むしろ妹さん以外の人物へ、新しい嫌疑の眼が向けられ、妹さんの容疑点数はいくらか減ったようにも思われる」
「さあ、その話──今日の調べの話をすっかり僕に聞かせてくれないか」
土居の要求を容れて、彼は今日正午頃から旗田邸に於いて行われた取調べについて詳しく話をした。その話の途中、土居はいくたびか帆村の話の中へ質問を割り込ませようとしたが、帆村はそれを止め、最後まで話を聞いた上にしたまえと勧めた。話はようやく終りとなった。
「さあ、もう何でも質問していいよ」
帆村は、途中で八雲助手の持って来たコーヒーのカップを取上げて、咽喉を湿した。コーヒーは、すっかり冷くなって、底には糟がたまっていた。
「どうも奇々怪々だね。旗田鶴彌を殺したのはピストルの弾丸だというんで、それを中心に調べていたところ、最後に至って、いや死因はピストルで作られたのではなく、心臓麻痺だった──というんでは、たいへんなどんでんがえしじゃないか。死因が心臓麻痺なら、旗田鶴彌殺しという犯罪は成立しないことになる。すると妹は即刻殺人容疑者という醜名から解放されていいわけだ。ねえ、そうじゃないかね」
土居の言葉にも動作にも、新しい元気が溢れて来た。
「一応そういうことが成り立つわけだ。しかし僕の受けた印象では、この事件はそれで結末がつくとは思えない」
「……というと、どうなるんだ」
「いいかね、これは明日裁判医古堀博士の報告を聴いた上でないとはっきりいえないんだが、まあそれはそれとしてだ、旗田鶴彌氏の心臓麻痺は極めて自然に起ったものか、それとも不自然なものであったかによって、又新しく問題が出来るわけだ」
「どういうことだ、その自然とか不自然というのは……」
「つまり、死ぬ前の旗田氏は心臓麻痺を起すかもしれないというほどの病体にあったかどうかが問題なんだ。もし氏が健康を損ねていて、いつ心臓麻痺が起るかもしれないと、医師が警告していた──というような事実が発見されるなら、旗田鶴彌殺害事件なるものは著しく稀薄になるんだ。しかし反対に、旗田氏が心臓麻痺などを起すような病体でなかったということが証明されると、やっぱり旗田鶴彌殺害事件として扱わねばならなくなる」
「君は、どっちだと考えるのか、今までの材料と君の感じとでは……」
土居は妹の有罪無罪の判別を、帆村の次の一答によって決しようとて緊張の絶頂にあった。
「やっぱり殺害事件だと思うよ」
帆村は静かにそういった。
「しかも恐るべき殺害事件なんだ。今日までに余り例のないやり方でもって旗田氏は殺害されたものと信ずる」
帆村の声は、うわごとをいっているように響いた。それは彼が本当に戦慄していることを語るものであった。
「君は誰が犯人であるか、知っているのかね」
土居の言葉は鋭かった。
「知らない、全く知らない」
「犯人の見当ぐらいはついているのじゃないかい」
「いや見当もついていない」
帆村は首を左右に振った。
「それに、犯人の見当などをいい加減につけようものなら、真実が分らなくなる虞れがある。犯人の見当をつけてから、証拠を集めるやり方はよろしくない。あくまでも、確かな証拠を一つ一つ積みあげていって、その結果犯人の形が浮び上ってくるのでなければならない。こんなことは今更君に説明するまでもないことだけれど」
帆村は、まだ誰を犯人とも見当をつけていないことが、この話から分明となった。
「確かな証拠というやつは、もう相当集っているのかい」
「うん。僕としてはいくつかのそれを持っている、動かない証拠をね」
「じゃ、それは今どんな形に積みあげられているのかね。どんな方向に向いているのか」
「まあ、それはいわないで置こう」
帆村は土居の方をじっと見た。
「その証拠なるものが語る謎の言葉を、僕はまだ殆んど聞き分けることが出来ていないんだ。口惜しいことだがねえ」
二人はしばらく沈黙に陥った。部屋の窓から、夕空が赤く焼けているのが見られた。
やがて土居が口を開いた。
「ピストルに関する調べは、全く無駄に終ったわけだね、なにしろ死因がピストルの弾丸でないと分ったから……」
帆村は黙って土居の顔を見る。
「ねえ帆村君、そうだろう。すると、その取調べの途中に、重大なる容疑者として新しく登場した小林トメなんかは、容疑者から解放されたわけだろう」
「ピストルは、やっぱりこの事件に重大な役割をつとめていると思う。だからそれに関する取調べは無駄ではないと思うよ」
「なぜさ。意味がないものは消去して考えたがいいと思うがね」
「しかしねえ、君」
帆村は吸殻を灰皿の底にすりつける。
「たとえ旗田氏が心臓麻痺で事切れた後とはいえ、ピストルは旗田氏に向けて発射されたんだからねえ。引金を引いた主は、旗田氏に対して或る感情を持っていたことになる。つまり、旗田氏の頭部へ弾丸を送り込んだということは、彼が一つの言葉を綴って残したことになるんだ。このことは君にも分るだろう」
「旗田氏を撃ったことが一つの言葉を現わしている──ということは分るがねえ……」
「それが分れば、ピストルがこの事件に重大な役割を持っていることが分るじゃないか」
「なるほど、それはそうだ。だが、一体それはどんな言葉を綴っているんだろう」
「綴っているのはどんな言葉か。それはこれから解きに掛るところだよ。そして重要な点は、あのピストルの引金を引いた主が、そのとき既に旗田氏が死んでいるのを知っていたか、それとも知らなかったのか、そこだと思うよ」
帆村の言葉を聞いて土居は笑い出した。
「旗田氏が既に死んでいると分っていれば、御丁寧にピストルの引金を引くこともなかろうじゃないか。だから当人は、旗田氏が既に死んでいることを知らなかったに違いない」
「君は常識家として正しいことをいっている。しかしだね、引金を引くときには、狙う相手を注視しなければならない。そのときに、相手が既に死骸であることに気がつかない場合というのが一体あるであろうか」
「それはないだろうね。死んでいるか生きているかは、一目見れば分ることだからね」
と土居はそう言った後で妙な顔をした。
「おやおや、僕はいつの間にか矛盾したことを喋っているぞ」
「いや、それは大した矛盾ではない。君は、一目見れば死んでいるか生きているか分るといったが、もし一目さえ見ることが出来なかったら、或いは相手をはっきり見ることが出来なかったとしたら、相手の生死を判別し得ない場合が生ずるんだ。例えば、相手が暗闇の中に居る、それに対してピストルの引金を引き、奇蹟的に命中した場合……」
「それは吾々の場合ではない。なぜって先刻君は、芝山宇平の証言として、旗田氏の部屋には電灯が煌々と点っていたといったじゃないか」
「今吾々は一つの演習をやっているんだが、君が気になるなら、この場合はあり得ないとして、横に置こう。……もう一つの場合としては、引金を引いた者の視力が非常に弱いか、それとも精神が乱れていて、旗田氏が既に死骸であることを判別し得なかった場合──こういう場合がある」
「ふーン、すると誰がやった仕業かな」
「ああ、それがよくない」
帆村が舌打ちをした。
「まだ実証上の条件が揃っていないのに、軽々に人物を決めてかかるのはよくない。非常に危険なことだ」
「だけれど、僕は君のように冷静ばかりで押して行けないよ。だってそうじゃないか、僕の妹が絞首台へ送られるか送られないですむかの瀬戸際に今立っているんだからね。一秒でも早く犯人を突留めたい。犯人らしい有力者でもいいが……」
「深く同情する。しかしそういう場合であるが故に、一層君は冷静でなくてはならないと思う」
「いや、僕はもう我慢が出来ない。皆はっきりさせてしまわないでは居られないんだ」
土居は激しく喘いだ。
「ピストルをぶっ放したのは誰だ。そのピストルは家政婦の部屋から出て来た。家政婦が撃ったに違いない。家政婦は旗田鶴彌に深い恨みを抱いていたんだ」
「家政婦が撃ったと決めるのは軽卒に過ぎる。家政婦があのピストルを使ったものなら、花活の中なんかにピストルを隠しておくものか。部屋を調べりゃすぐ分るからね」
「そうでない。巧妙な隠匿場所だ」
「それに、あのピストルの弾丸が、どの方向から、そしてどんな距離から飛んで来たのかを考えてみたまえ。あれは少くとも旗田の身体から三メートル以上は離れたところから撃ったものだ。そしてその方向に窓があることを思い出したまえ」
「窓? 窓は閉っていた」
「うん、窓は閉っていた、硝子扉が平仮名のくの字なりになって閉っていた──と芝山は証言している。ということは、硝子窓は、いつになく、よく閉っていなかったんだ。内側のカーテンも細目に開いていたという。だから外から窓を開いてピストルの狙いをつけて撃ったんだとしても、今いった条件にあてはまるわけだ」
「すると……」土居は愕きの目をみはって、
「すると犯人は窓の外からピストルを室内へ向けて撃ったというのかね」
「犯人──かどうか知らんが、引金を引いた主は、窓の外から撃った公算大なりと、僕は認めている。このことは尚明日、はっきりした証拠を現場でつかみたいと思っている。もし時間に余裕があればね」
「そんな大事なことなら、今日のうちに調べて置けばよかったのに」
「なあに、ピストルを何処から撃ったかという問題は、大して重大なことじゃないんだ。だから急いで調べるに及ばない」
「僕は反対だ。それは非常に重大なことと思うがね。窓の内側か外側か、どっちから撃ったかということで、容疑者の顔触れががらりと変るんではないかね」
「すると君は、その顔触をどんなに区別するつもりか」
「僕はこう思う」
土居は一層真面目な顔付になって、
「窓の内側──すなわち室内であれば、家政婦の小林か芝山宇平が怪しい。また窓の外からであれば、小林……小林を始め婦人ではあり得ない」
「婦人でないというと誰々のことだ」
「沢山の容疑者がある。亀之介、芝山宇平、その外に死んだ鶴彌と関係のある男たちだ」
「芝山は、部屋の中でも外でも、両方に可能性があるんだね」
「芝山は怪しい奴だ。ねえ、帆村君。君はこの男に目をつけているんじゃないか。怪しい節がうんとあるよ。老人ぶっているかと思うと、若者のようにとんでもない色気を出したり、言うことだって何をいっているか分ったもんじゃないし、その前身だって洗ってみる必要があるよ」
「三津子さんはピストル関係者ではないのかね」
帆村はいきなり話題を転じた。
「もちろん無関係だ。なぜといって、妹は鶴彌氏に送られて玄関を午後十一時頃に外へ出ている。鶴彌氏の死んだのは、それから一時間ぐらい後のことなんだ。その頃僕は家へ帰りついていて、妹はちゃんと家に居た。それからは外へ出なかった、その夜は……。妹はピストルには無関係だ」
「それはいい証言だ。明日大寺警部には是非聴いて貰って置こう。先生は三津子さんが撃ちかねないものと考えているようだから」
「とんでもない話だ。うちの妹はピストルの撃ち方だって知らないんだ」
その翌日午前十時に、裁判医古堀博士の報告が行われた。場所は捜査課の会議室で、帆村荘六もその席に列していた。
「昨日もちょっと申したように、旗田鶴彌の推定死亡時刻は前夜の午後十一時半前後。死因は心臓麻痺であり、ピストルの弾丸は彼が息を引取ってから後に撃ち込まれたものである。これは始めから分っていた。ピストルで殺したにしては、創口からの出血量が少かったからねえ。それから心臓麻痺の問題であるが、これは剖検で確認した。しかし当人の生前の健康状態は頗る良好で、年齢の割に溌剌としていて、心臓麻痺を起しやすい症状にあったとは思われない……」
緊張して聞いていた一座の中に、帆村の唇が笑いを含んでぐっと曲った。それは彼が、「それ見たか」というときにする癖だった。
「そこで心臓麻痺の原因がどこに在ったかという問題になるが、わしにははっきり分らない。どうしてあのような強い心臓麻痺が、あの肉体に起ったか分らない。これじゃ何が裁判医だ。まことに汗顔の至り……」
古堀博士は大真面目で、ぺこんと頭を下げた。これには一同が愕いた。古堀博士が仕事のことで頭を下げたのは、始めて見る図だったから。
「尤もわしは昨日以来、この問題に深い興味を持って研究を開始している。屍体は当分わしの手許に預って置く。報告すべき主なことは以上だ。あとは質問があればお答えする」
博士は腰を下ろし、誰かの質問を待つ心構えで、天井を見上げた。
「当人の病気以外には、どんな場合に心臓麻痺を起しますかねぇ」
長谷戸検事が真先に質問の矢を放った。
「中毒による場合、感電による場合、異常なる驚愕打撃による場合……でしょうな」
「旗田の場合は、その中のどれに該当するのか、カテゴリーだけでも分りませんか」
「感電ではない。もし感電であれば、電気の入った穴と出た穴との二つがなければならず、また火傷の痕がなければならぬ。そういうものはない。だから感電ではない。従って他の二つの場合、すなわち中毒に原因するのか、或いは異常なる驚愕等によるものかどっちかでしょうな」
「そのどっちだか分らんですか」
「分らんねえ。研究の結果がうまく出れば分るかもしれん」
長谷戸検事は、小さく肯いて、心の中に何かノートをとるらしく見えた。
「ちょっと伺いますが」
と大寺警部のきんきん声がした。
「ピストルの弾丸が頭の中に入った時刻と、死んだ時刻との差はどの位だか分りますか」
「あまりはっきり分らんね」
「大体何時間ぐらい後になりますか、ピストルの弾丸を喰らったのは……」
「何時間というような長い時間じゃない。極く接近しているよ。一時間前後という所だ」
「すると、死んだのは十一時半、ピストルの弾丸を喰ったのは零時半という訳ですね」
「そんなところだ」
古堀博士はぶっきら棒に応えた。
「解剖の結果、胃の中にあった食物の一覧表は出来ていますね」
検事が、もう一度発言した。
「それは先刻、書記へ渡しておいたがね」
「いや、そんなものは頂きませんですよ」
色の真黒な書記が、すっくと突立って打消した。
「そんな筈はない。ちゃんとわしは書いて──ああ、あった。ポケットの中に残っていた。これじゃ」
博士は笑いもせず、内ポケットから、皺くちゃになった紙片をつかみ出して、机の上へ放り出した。くすくすと笑う者があった。その胃内容物一覧表は、長谷戸検事の手に渡って、拡げられた。帆村は立上ると検事の背後へ行って、その表を熱心に覗きこんだ。
「もう質問はないかな。なければ帰るよ」
博士はもう腰を半ばあげた。誰も博士を停める者はなかった。博士がパイプに火を点けて、この部屋を出て廊下を五足六足歩いたとき、帆村が追って来て博士を呼び停めた。
「先生、あれはどうなりました」
「あれとは何じゃ」
「鼠です。鼠を解剖してご覧になりましたか」
「おお、そのこと……解剖はした。解剖はしたが、はっきり分らない。人間の心臓麻痺は一目で分るが、鼠が心臓麻痺したかどうかはちょっと分らんのでね。そのことも実は研究題目の一つにして、今やっているところだ」
「流石は先生ですね、大いに敬意を表します」
「何じゃと……」
「いや、つまり先生が、鼠を解剖して、やはり心臓麻痺かどうかを調べられたその着眼点のよさですね、それに敬意を──」
「わははは、何をいうかい」
と博士は破顔して
「今日中に分るだろうから、分ったら君の事務所へ知らせてやるよ」
博士はこの約束を果した。
その日のお昼のすこし前、帆村が旗田邸に居ると、事務所から電話がかかって来た。出てみると、八雲千鳥が当惑し切ったという旨で、
「さっきお電話が先生にありましたんですけれど、いくらお聞きしても自分のお名前を仰有いませんの、そしてただ先生に、〝鼠も心臓麻痺じゃ〟と、それだけを伝えてくれと仰有いましたんですけれど、何のことだかさっぱり分りません。ひょっとしたらその方は気が変ではないかと……」
「いや、分ったよ、八雲君。それは素晴らしい報告だ。鼠も心臓麻痺で死んだとね。いや全くそれは素晴らしい報告だ」
八雲千鳥は、帆村先生にも気が変になることが移ったのではないかと思い心臓をどきどきさせたことだった。
その日の午後になって、旗田邸へ検察係官は参集した。その朝の古堀裁判医の報告によって、新たな方向へ捜査を発展させる必要が出来たからである。
帆村荘六も、やはり案内を受けたので、定刻になって旗田邸へ入った。
長谷戸検事が、いつものように捜査進行の中心にいた。
顔触れの揃ったのを知ると、長谷戸検事は煙草の火を消して、別室から事件の部屋へと一同に移動を促した。
鶴彌の死んでいた例の広間は、事件当時と同じ状態に置かれてあったが、ただ部屋の中心の皮椅子にもはや鶴彌の惨死体は見当らず、そこが大木の空洞のようにぽっかりと明いていて、その見えないものが反って一種異様な凄愴な気分をこの部屋に加えていた。その皮椅子の空洞にもう少し近づいて中を覗きこんだ者は、そこでもう一つ違った刺戟を受けるであろう。それは皮椅子の底に、艶めかしいハンドバグが貼りついたように捨て置かれてあることだった。もちろんこのハンドバグは、旗田鶴彌殺しの第一の容疑者である土居三津子の所有物であり、それは当夜屍体の下敷きになっていたものであることは読者の記憶にあるとおりだ。
さて今日は、いよいよこの土居三津子がこの部屋に呼ばれることになっていた。前日三津子は護送自動車で玄関先まで来たのであるが、鶴彌の死因についての裁判医の鑑識があまりにも意外な結果を公表したので、三津子の取調べは昨日は急に延期となったものであった。
「土居三津子はまだ到着しませんが、間もなく──そう、あと十五分位したら到着する筈だ。それまでに今日までの捜査結果の概要を復習して置こう。なお私の述べるところと違った見解を持つ人は、あとでそれを言って貰いましょう」
そういって検事は、従来捜査の主流をなしていた彼自身のもの、大寺警部の考えているところのもの、古堀博士の鑑定、それから帆村探偵が問題として指摘したものなどについても述べるところがあった。
その口述において、検事は自分が鶴彌殺しの犯人として始めは家政婦を疑ったが、それが芝山の証言により解消した。ところがその後古堀裁判医の鑑定によって死因は心臓麻痺と変ったため、今は全く出発点へ逆戻りの形となったことを述べ、これに対し大寺警部は今も尚土居三津子を有力なる容疑者として考えていると思われるが、それに相違ないかと、検事は警部に訊いた。
「そうですとも、私は始めから土居だと睨んでいて、途中でもその考えから変ったことはありません。もちろん裁判医が何と鑑定をしようと、私の考えは微動もしませんです」
と、強い自信を奇声に托して宣言した。
「死因のピストル説が、心臓麻痺に変っても、君の土居三津子を容疑者とするの論拠はすこしもゆるがないというんだね」
検事は、すこし硬くなって、訊き返した。
「その通り。土居はあの夜、主人鶴彌に面接した最後の者でありますぞ。そして自分のハンドバグを残留してこの屋敷を飛出したほどの狼狽ぶりを示している。一体あの女のこの周章狼狽は何から起ったことでしょうか。これこそ乃ちあの女が当夜鶴彌に毒を盛ったことを示唆している。自分で毒を盛ったが、それに愕いて、急いで逃げ出した。そしてハンドバグを忘れて来てしまった」
「どういうわけで土居三津子はあの屋敷から急いで出たというのかな。その点はどう考えるのか、大寺君」
「アリバイの関係ですよ。土居があの屋敷に残留しているうちに毒が廻って鶴彌が死んでしまったら、あの女の犯行であることは直ちにバレちまって逮捕される。それをおそれて、急いで逃げ出したんですな。あの女が去って後で鶴彌が死んだとなると、あの女は有力なアリバイを持つことになる。もっともハンドバグを忘れるようなヘマをやっては何事も水の泡ですがね」
「どんな方法によって中毒させたか。それはどうなんだね」
と、検事は事のついでに、この自信満々の主に糺した。
「それは私の領分じゃないんですよ。鑑識課員と裁判医は、それについてもっと明確な報告をしてくれなければならんと思う。あの連中の職務がそれなんですからね。もっとも私は今日容疑者から話を聞き出します。そしてあべこべに鑑識課や裁判医に資料を提供してやろうとまで考えているんですがね」
「ところが裁判医が死因を究明する力なしとその不明を詫びているんだから、困ったもんだね」
検事が苦笑した。
「ねえ検事さん。あなたは本当に捜査をご破算にして出発点へかえられたんですか」
ずっと沈黙して、聞き手に廻っていた帆村荘六が、そういって口を切った。
「わざわざ嘘をいうつもりはないよ」
「そうですか。同じ心臓麻痺にしても、中毒による場合と、驚愕による場合とは大いに違うと思うんですが、あなたはどっちだとお思いなんですか」
「出発点にかえったといったろう。だからこれから捜査のやり直しだ」
「本当ですかあ。しかし今までに調べたことが全部だめというわけじゃないでしょう」
「一応白紙に還る。面倒でも、もう一度やりなおしだ。この小さい卓子の上に載っている料理の皿や酒なども、もう一度始めから調べ直すつもりだ」
「ああ、それは実に結構ですね。いや、これはお見それいたしまして、たいへん失礼しました」
帆村はそういって、頭を掻いた。帆村が頭を掻いたので、検事以外の者はびっくりした。そして声に出して笑い出した者もあった。
長谷戸検事は、早速その仕事に掛った。
帆村荘六は、「いやこれはますます恐れ入りました」といいたげに襟を正して、係官と共に小卓子の側に歩みよった。
「──料理が六種類に、飲科が五種類だ。サイフォンの中のソーダ水も忘れないで鑑識課へ廻すこと。その外に皿が四つ、コップが三個。空いた缶詰が一個。それからテーブル・ナイフにフォーク。最後にシガレット・ケース、巾着に入った刻み煙草、それとパイプ、それからマッチも調べて貰おう。それで全部だ」
検事は、鑑識課へ廻付して毒物の含有の有無を調べる必要のあるもの二十四点を数えあげた。検事がそれを数えている間、帆村荘六はこれまでにない硬い表情でそれを看守っていた。
検事の部下は、トランクを一個持って来て、命ぜられたものを一つ一つ丁寧にパラフィン紙に包んでトランクの中に収めた。小卓子の上からはだんだんに品物が姿を消していって、遂に残ったものは花活と燭台と灰皿の三つと、小さいナップキンとテーブル・クロスだけになってしまった。
「検事さん。これで全部ですね」
食料食器の収集を手伝っていた大寺警部がそういった。
「そう。それで全部だ」
と、検事は小卓子の上へ目をやってから、肯いてみせた。が、その検事は、帆村荘六がいやにしかつめらしい顔をしているのに気がついた。検事の眉の間が曇った。
「おい帆村君、何を考えているんだい」
いわれて帆村は、小卓子の上を指し、
「これだけは残して行くんですか」
「うん。無関係のものまで持って行くことはない」
「無関係のもの? そうですかねえ」
「だって中毒事件には関係がないものではないか。そうだろう。花活然り、蝋燭のない燭台然り、そして灰皿然り」
「そうでしょうかねえ」
「そうでしょうかねえったって、あとのものは中毒に関係しようがないじゃないか。僕が必要以上のものを集めたといって、君から軽蔑されるかと思ったくらいなんだがね」
「とんでもないことです。長谷戸さん。私は大いに敬意を表しているんですよ。あなたがマッチまで持って行かれる着眼の鋭さには絶讚をおしみませんね」
「ふふふ。それは多分君に褒められるだろうと予期していたよ。そうするに至った動機は、君の示唆するところに拠るんだからね」
「ははあ、そうでしたか」と帆村は軽く二三度肯いた。
「しかしそれなれば、まだお調べになるべきものが残ってやしませんか」
「もう残っていないよ。これですっかり──」
といいかけて検事は俄に言葉を停めた。
「ああそうか、君は灰皿に入っている内容物についていっているんだね。僕だってそれを考えなかったわけではない。しかしこれを調べることはないと分ったから除外したんだ。ねえ帆村君」
このとき帆村が何かいおうとしたのを、検事はおっかぶせるように言葉をついだ。
「実は灰皿の中に煙草の吸殻が入っていることを僕が忘れていると思っているんだろう。なるほど、現にこうして灰皿を眺めると、吸殻が見えない。それは吸殻の上に、何か紙片を焼き捨てたらしい黒い灰が吸殻の上一面を蔽って、吸殻を見えなくしているからだ」と、検事は灰皿を指した。「ね、そこだよ、君。吸殻に中毒性のものが入っていたとすれば、その吸殻は灰皿の外に落ちていなければならないと考えるのが常識だ。しかし被害者が頑張り屋で、きちんとすることが好きな人間だったら、中毒症状を起しながらも懸命の努力を揮って吸殻を灰皿へ抛げこむだろう。もちろんこれは極めて稀なる場合だがね。ところがだ、この灰皿の内容物を検するのに、吸殻の上を、この黒い灰が完全に蔽っているんだ。ということは何を意味するか。それは手紙か証文か何かしらんが、その紙片を焼いて黒い灰をこしらえたときには、被害者は煙草を吸っていなかったことを物語る──つまりそのとき煙草を吸っていたものなら、その吸殻はこの黒灰の上にあるか、又はそのへんに落ちている筈だ。だがそんなことはなかった。してみると、この黒い灰をこしらえた以後に於いて、被害者はどういうわけかその理由は不明だが、煙草を吸わなかったと考えていい。と同時に、灰皿の吸殻は毒物を含んでいなかった、だからその後で、被害者は紙片を焼くなどの行動が平気でとられる程、健康であったことを物語る。こういう解釈はどうだね」
「大いに気に入りましたね」
「僕もそう思っていた。多分この説は君が気に入るだろうとね」
「しかしですね、長谷戸さん。死んだ主人鶴彌氏は、当夜この部屋ばかりにいたわけじゃないんで、土居嬢を送るために玄関へも行ったでしょうし、手洗いへも行ったでしょう。また寝室や廊下や階上などへも行ったかもしれない。そういうとき吸殻を捨てる場所は到るところにあったわけですね。窓から吸殻を捨てることも有り得るでしょう」
「で、君は何を主張したいのかね」
「何も主張するつもりはありません。ただ今のところを説明の補足として附け加えたかったわけで、結局あなたの説に深い敬意を表する者です」と会釈をして「もう一つ伺っておきたいことがありますが、例の黒い灰をこしらえた直後、鶴彌氏は死亡したという御見解なんでしょうか」
「いや、そんなことは考えていない。あの黒い灰をこしらえて以後、被害者は煙草をあまり吸わなかったらしいと認めるだけのことだ。実際、煙草を吸うのをよして、その後は酒を呑み、料理を摘むのに何時間も費したかもしれないからね」
「すると、中毒物件は飲食物の中に入っているとお考えなんですか、それとも他のものの中に……」
「それはこれから検べるんだ。毒物は固体、液体、気体の如何なる形態をとっているか、それは今断言出来ない。中毒性瓦斯についても疑ってみなければならないと思いついたことについては、君の示唆によるわけで、敬意を表するよ」
検事と帆村の永い対談はここで漸く一旦の終結を遂げた。しかしこれを辛抱づよく傍聴していた係官たちは、無用の禅問答を聞かされたようで、多少のちがいはあるが、誰しも両人を軽蔑する気持を持ったことは否めなかった。
土居三津子の護送自動車は、予定より三十分も遅れて到着した。途中でタイヤがパンクしたためであった。
とにかく第一番目の容疑者としてこの事件を色彩づけている土居三津子の登場は、検事と帆村の野狐禅問答にすっかり気色を悪くしていた係官たちを救った。
広間に入って来た三津子は、事件当時に較べるとすっかり窶れ果て、別人のように見えた。それでも生れついた美貌は、彼女を一層凄艶に見せていた。一つには、三津子は今日は和服に着換えているせいもあったろう。それは三津子の兄が、差入れたものであった。
大寺警部は、三津子を容疑者として誰よりも重視しているので、警部は誰よりも張切って動いていた。
「検事さん。どうぞお始めになって下さい。私の訊問は検事さんの後でさせて貰います」
大寺警部は、三津子訊問の催促を長谷戸検事に対して試みた。
「じゃあ少しばかり僕がやって、後は君に引継ぐから、十分やりたまえ」
検事はそういってから、やおら三津子の方に顔を向けた。俯向いた三津子の項に、乱れ毛がふるえていた。
「土居さん。二三の問に応えて頂きましょう」検事はやさしくいった。「あなたが当夜、ここの主人の鶴彌氏に送られてこの部屋を出て行ったときのことですが、鶴彌氏はどの程度に酔払っていましたか」
三津子は口を開こうとはせずに、床の上をみつめていた。しかし検事は辛抱強く彼女の応答を待った。
「酔ってはいらっしゃらなかったようでございます」
三津子は、案外しっかりした声音で応えた。
「酔ってはいなかったというのですね。しかし鶴彌氏はその椅子について酒を呑んでいたのでしょう。そうではなかったんですか」
「さあ、どうでございますか、あたくしがこのお部屋の扉をノックいたしますと、旗田先生は迎えに出て下さいまして、扉をおあけになりました。ですから、旗田先生がお酒を呑んでいらしたかどうか、あたくしには分りかねます」
傍聴の帆村が、唇をへの字にぎゅっと曲げた。わが意を得たりという笑い方を、彼一流の表現に変えたのである。検事の方は、だんだんと熱中して来た。
「すると、こちらのテーブルの上はどうなっていたですか。どんなものが載っていましたか。つまり酒壜や料理の皿なんぞが載っていて、酒を呑んでいた様子に見えなかったかとお訊ねするわけです」
「はあ。あのときそのテーブルの上には、別にお酒の壜もお料理のようなものも載っていませんでした。ただ煙草や灰皿だけでございました」
「煙草や灰皿だけで、テーブルの上には酒壜や料理類は載っていなかったというんですね」検事は新事実の発見に、思わず色を動かしたように見えた。「それで、あなたはその酒壜や料理類を、この部屋のどこに見つけたんですか。それはどこに載っていましたか」
「さあ、それは……それは、はっきり存じません。憶えていません」
「はっきりでなく、うろ覚えなら知っているんですか」
検事は急迫した。
「はい。それは、あのウ……あのお戸棚の上に、大きなお盆に載って、あげてあったようにも思いますのですけれど」
「どうして、そういうことをはっきり覚えていないのですか。あなたは当夜、かなり永い時間この部屋に居られた筈ですから、そういうものの置き場所に気がつかないわけはないと思うんですがね。その点どうですか」
三津子は、すぐに応えられなくて、唇を噛んでいた。紙のように白くなった額に、青い静脈がくっきり浮んでみえた。
「……あのときはあたくしの心を悩ましている問題がございまして、それにすっかり気をとられ、他のことを注意する余裕なんかございませんでした」
「ああ、そうですか」検事は素直に相槌をうった。
「ところで、当夜あなたが鶴彌氏に対し、何か毒物を与えたのではないかという説があるんですが、これについて弁明出来ますか」
「ドクブツと申しますと──」
「つまり、人間を中毒させる薬をあなたが隠し持っていて、それを鶴彌氏に喰べさせるかなんかしたのではないかというんです」
「まあ、毒物を。そんな……そんな恐しいことを、なぜあたくしが致しましょう。また、たとえあたくしがそんなたくらみをしたとしても、あのとおり気のよくおつきになる旗田先生が、それをすぐお見破りになりますでしょう。ですから、そんなことは全然お見込みちがいでございます」
「それはそれとして、あなたは鶴彌氏が死ねばいいと思っていたんでしょう。どうか正直にいって下さい」
検事は昔ながらに攻勢地点を見落としはしなかった。果然、三津子ははっと顔色をかえた。だが彼女はすぐ言葉を返した。
「それはそうでございます。旗田先生がお亡くなりになれば、この上の悪いことは発生いたしますまい」
「あなたは一体何を恨んでいたんです。それを聞かせて下さい」
「いいえ。何度おたずねになっても、あたくしはそれについては申上げない決心をいたしていますの」
顔をあげると、三津子は、決然といった。そして反抗する輝きをもった視線を大寺警部の面へちらりと送った。
事実、土居三津子は、旗田鶴彌に対する怨恨について、これまでに執拗にくりかえされた大寺警部の尋問にも、頑として応えなかった筋であった。
長谷戸検事は、それ以上の追及をしなかった。そして予定していた頃合が来たと考えて、大寺警部の方へ目配せをした。それは訊問を警部の方へ譲るという合図だった。
大寺警部は立上ると、鶴彌が死んでいた皮椅子のところまで行ってその背をとんとんと、意味ありげに叩いた。それから又歩きだして、三津子の前に行った。三津子は、歯をくいしばって床を見つめている。
「とにかくこの家の主人が生前一番おしまいに会った人物はというと、君なんだからね。主人の死は午後十一時半前後だし、君が主人に送られてこの家を出たという時刻は──主人が君を送ったと証言するのは君だけなんだが、ともかくも君がこの家を出た時刻は午後十一時だ。これだけいえば、君は主人を殺し得る只一人の人物だった。家政婦の小林と芝山は、その頃は小林の部屋でしっぽりよろしくやっていたので、主人を手にかけるどころじゃなかった。さあそこで、君は、この家の主人をどうして毒殺して去ったか、それについて実行した通りを陳べなければならない。さあどうだ」
三津子は、いよいよ身体を固くして、歯をかみならしただけで、応えなかった。
「どうしたんだ。黙っていちゃ分らん」
警部の語気が荒くなった。でも三津子は口を開こうとしない。
「ちょいと君、大寺君」と検事が呼んだ。
「そういうもう既に答の出ていることは訊いても仕様がないじゃないか。もっと新しい事実の方を掘りだして、事件の解決を早くしたいもんだね」
警部はいやな顔をした。帆村探偵が、おどろいたような顔で長谷戸検事の方を見た。
「ですが検事さん」と警部はいった。
「この女が如何にしてこの家の主人に毒を呑ませ、そしてこの邸からずらかったか、それを当人から聞くとは新しいことではないですか」
「主人の死んでいた部屋には、内部から鍵を廻してあった。三津子君が殺したものなら、どうしてその密室から出るか。玄関にも、内側から錠を下ろしてあったのだよ」
「ここの窓から飛び下りられますよ。窓には鍵がかかっていなかった。二枚の合わせ硝子戸を寄せてあっただけですから」
警部の毅然たる解答に、帆村がにんまりと笑った。
「待ちたまえ。窓枠にも窓下にも、三津子君の足跡も指の跡もなかった。たとえ若い婦人がいざという場合には、こんな高い窓から外へとび下りることが出来ると仮定してもだ。しかもその窓硝子を外から締め合わせたとなると、この婦人は女賊プロテアそっちのけの身軽だといわなければならない」
これには大寺警部も、すぐに応える言葉を知らなかった。窓のところの証拠固めは彼がしたのであったから、今彼は自縄自縛の形になってしまったわけだ。
検事は、それごらんといいたげな顔。
「甚ださし出がましいですが、それはこうも考えられますね」帆村が沈黙を破って、しずかに足をはこんで三津子の前へ出て来た。「つまりですね、まず旗田鶴彌氏に毒をのませる。その毒がまだきいて来ない前に旗田氏に玄関まで送らせて自分は外へ出る。旗田氏は玄関を締め、それから居間に錠をおろしてこの部屋にひとりぼっちとなる。そのうちに毒がきいて来て、氏は皮椅子の中で絶命する──というのはどうです」
「ああっ、それだ」
大寺警部は失せ物を届けられたときのように悦んだ。検事の方は、同意を示すためにしょうことなしに頭をちょっとふった。
「土居三津子。今の話を聞いたろう。あの通りだろう」
警部は三津子にいった。三津子は兄の友人である帆村の発言に気をよくしたのもほんの一瞬のことで、論旨を聞けば気をよくするどころではなかった。それで彼女は涙を出した。
「いや、警部さん。僕が今言ったのは、単なる有り得べき解答の一つをご紹介しただけのことです。僕はこの婦人が、そういう方法で旗田氏に毒を呑ませたのではないと確信しています」
帆村は必ずしも警部の説を支持していないことが分った。
「今君の指摘した方法に違いないと思うんだが……」
警部は新たな確信に燃えて言い張る。
「いや、その解釈には一つの欠点があるのです。そういえばもうお分りでしょう」
そういって帆村が口を噤むと、一座は急に静かになった。係官たちは帆村にそういわれて何事かを思い出そうと努めたが為である。だが、いつまでたっても、誰も発言しない。
「もうお忘れになりましたか。鼠の屍骸のことです。あそこの洗面器の下に死んでいた鼠のことです」
ああ、と声を発する者もあった。帆村は言葉を続けた。
「あの鼠の死因は、古堀博士の鑑定の結果、中毒による心臓麻痺だと報告せられているのです。おもしろいではありませんか、鼠も旗田氏も同じ原因によって同時に生命を絶っているのですからね」
「それはたしかに興味がある話だ」と検事がいった。
「で、君の結論はどうなんだ」
「結論は今のところそれだけですよ。いや、それをちょっと言い換えましょうか。旗田鶴彌氏もあの鼠も、共に瓦斯体によって中毒したんだといえるのです。──だから、まずこの婦人はこの部屋にいる間にそれを行ったのではないということが分る。なぜならば、そんなことをすればこの婦人も共に瓦斯中毒によってその場に心臓麻痺をおこさねばならないわけになりますからねえ」
瓦斯中毒による心臓麻痺鋭だ。本当かしらん?
「面白い考えだが、それを証拠立てることができるだろうか」
長谷戸検事は大いに心を動かしながら、しかも立証困難と見て自分の心の動揺を制している。
「それはあんまり突飛すぎる。これまでのわれわれの捜査を根本からひっくりかえすつもりなんですか、君は……」
と、大寺警部は露骨に不愉快さをぶちまけた。
「結果に於てそういうことになるのも已むを得ないですね、もしも僕が今のべた説が真に正しいものであれば……」
「君は、瓦斯中毒説が正しいと思っているのか、それともまだそれほど確信がないのか、どっちなんだい」
「警部さん。僕はほんのすこし前に、瓦斯中毒説をここで主張していいことに気がついたばかりです。これを証拠立てることは、僕としてもこれからの仕事なんです。しかし僕は今後この方面に捜査を続けます。とにかくこの場は、妙な嫌疑をおしつけられそうになった土居三津子氏のために、弁じたことになればいいのです」
三津子に対する訊問は、この際ちょっと脇へ寄せておく外なかった。帆村の言い出した瓦斯中毒説は、真偽いずれにしても多数の論点を抱えこんでいる重大なる問題であったから。だから検事が、
「瓦斯中毒説を、もうすこし深く切開してみようじゃないか」
といったのは尤もだった。
「まず先に、私にいわせて貰おう」と検事は言葉を続けた。「瓦斯中毒のために、この家の主人鶴彌と一匹の溝鼠とが同時に心臓麻痺で死んだとする。そういうことは如何なる状況の下に於て在り得べきことか。その毒瓦斯は如何なる種類のもので、どこにどうして保存されてあったか。そしてそれは如何に殺人のために用いられたか。それからその毒瓦斯は鶴彌と鼠一匹を斃しただけで、他に被害者を生じなかったのはどういうわけか。──まあ、ざっとこれだけのことが明白にせられなければならないと思う。そうじゃないかね、帆村君」
帆村は聞き終って、かるく肯きながら検事の方へ静かに向き直った。
「正直なことを申すなら、今検事さんが提示された諸件について、僕は一々満足な回答を持ち合わせていません。つまり、これから調べたいと思うことばかりなんです。なにしろ気がついたのが、つい先刻のことだったものですから──ですが、こうなれば僕は、検事さんのお許しを願って、その方向の捜査をしながら一々回答を出して行こうと思うんですが、どうでしょう」
「つまり君は、瓦斯中毒説を立証する捜査を自分に委せよ、そして皆ついて来いと、こういうんだね」検事はいった。「それもいいだろう。私は君にしばらく捜査を委せてもいいと思う。外に誰か異議があるだろうか。異議があればいいたまえ」
誰も異議を唱える者はなかった。そこで帆村は独自の捜査を進行することとなった。
「まず旗田亀之介氏を訊問したいのです。ここへ連れて来て頂きたい」
何のための故人の弟の訊問か。
やがて亀之介は入って来た。今日は服装も前日に比べてきちんとしている。昨夜の酒量も呑み過ぎたという程ではない顔色だった。
「もう真犯人はきまりましたか。誰でした。え、まだですって、まだ分らないんですか。なるほどこれは大事件だ。連日これだけの有数な係官を擁しても解けないとは。……検事さん、兄は心臓麻痺で死んだという話だが──ええ、早耳でね、僕のところへも聞えて来ましたよ──するてえと兄は病気で急死したんじゃないんですか。しかしそれではあなた方の引込みがつかないから、これは……」
「そこへお懸けなさい。今日は帆村君が代ってお訊ねします」
検事は亀之介の騒々しい毒舌を暫く辛抱して聞いた上で、空いた椅子を指した。亀之介は、それをいつものように窓の方へ少し引張って腰を下ろした。
「あなた、失礼。その棚の上にある灰皿を一つこっちへ。やあ恐縮」
警官の手から灰皿を受取ると、亀之介はそれを窓の枠の上に置き、ケースから紙巻煙草をとりだして火をつけた。
「旗田さんに伺いますが、窓の外から兄さんを撃ったピストルを、家政婦の小林さんの部屋の花瓶の中に入れたのは、どういうおつもりだったんですか」
「ええッ、何ですって……」
おどろいたのは亀之介だけではなかった。長谷戸検事も大寺警部もその他の係官も、帆村のいい出したことが意外だったので、おどろいた。そんなことは瓦斯中毒説についての訊問ではなく、中毒説以前の捜査への復帰ではないか。尤も亀之介のおどろきは、係官のそれとは違っていた。
「僕が撃ったなんて、誰がいいました。とんでもないことをいう……」
「いや、私は今、あなたが兄さんを撃ったとはいわなかったつもりですが、あなたはそういう風におとりになった。それはともかく、何者かが旗田鶴彌氏射撃に使ったピストルを、あなたは家政婦の部屋に隠した。なぜです」
「そんなことは嘘だ」
「あのとき押入の中に、小林さんの愛人の芝山宇平氏が隠れて居たんですよ。あなたがピストルを空の花瓶に入れたとき、こつんと音がしたことまで芝山氏は証言しています」
亀之介は、思わず舌打ちせした。そしてそのあとで、まずい舌打をしたと気がついて、帆村の顔をちらりと盗み見した。
「外出先から帰宅せられたあなたは、家政婦を呼び出して、コップへ水を一ぱい持って来るように命じ、家政婦が勝手の方へ行った留守の間に、あなたはピストルを持って家政婦の居間へ入り、それをしたのです。そうでしょう」
「知らんですなあ、そのことは……」
「じゃあ別の方面から伺いましょう。あなたはあの夜、三度この邸へ帰って来て居られる」
帆村が意外なことをいい出したので、係官の顔がさっと緊張する。当人の亀之介も、びくんとした。
「第一回は午後十時三十分から十一時の間、第二回は午後十二時から零時三十分の間、そして第三回は、家政婦を起して家へ入れてもらった午前二時。この三回ですが、そうでしょう」
「とんでもない出鱈目だ」
亀之介はすぐ否定したが、語勢は乱れを帯びていた。
「東京クラブの雇人たちが証言しているところによれば、あなたは右の時刻前後に亙る三回、クラブから出て居られる。第一回と第二回のときは、帽子も何も預けたまま出て居られる。第一回は窓からクラブの庭へとび下りた。第二回のときはクラブの調理場をぬけて裏口から出た。第三回目は玄関から堂々と出られた。このときは帽子も何も全部、預り処から受取って出た。そうでしょう」
「知らないね、そんなことは」
亀之介は否定したが、語勢は一層おちた。
「第一回のときは、この邸の庭園に入り、その窓の外から室内を窺った……」
亀之介はぎくりとして、窓枠にかけていた手を引込めた。
「あなたは室内に於て、兄の鶴彌氏と土居三津子の両人が向きあっているところを見た。そこであなたは、時機が悪いと思って、庭園を出てクラブへ引返した」
「君は見ていたのかい。見ていたようにいうからね」
亀之介は、やや元気を盛り返した。
「第二回目は、あなたがその窓から室内を窺うと、もはや三津子氏の姿はなく、兄の鶴彌氏ひとりになっていた。その鶴彌氏は、そこにある皮椅子に腰かけ、左手を小卓子の方へ出して、ぐっすり睡っているように見えた。実はこのとき鶴彌氏はもはや絶命の後だったんだが……」
帆村は、亀之介の言葉を待つかのように、そこで語をちょっと切った。だが亀之介は何もいわなかった。
「……それからあなたは、外からその硝子窓を開いた。あなたはその方法を研究して知っていた。他愛なく開く仕掛になっていたんだ。……それからあなたは、窓につかまったまま、ピストルを撃った。弾丸は見事に鶴彌氏の後頭部に命中した。近いとはいえ、なかなか見事な射撃の腕前です。思う部位に命中させているですからねえ、殊に窓につかまったまま撃ってこれなんだから大した腕前だ。……あなたは大日本射撃クラブで前後十一回に亙って優勝して居られますね。どうです、今の話には間違いないでしょう」
「既に死んでいる者を射撃した。これは死体損壊罪になる可能性はあっても、決して殺人罪ではないですね。ご苦労さまです」
「あなたは兄さんを消音装置のあるピストルで射撃したことを認められたのですね」
「認めてあげてもいいですよ、僕が撃つ前に兄が死んでいたことが立証される限りはね。兄に天誅を加えたときには、もう兄は地獄へ行ってしまった後だった」
「兄さんは天誅に値する方ですか」
「故人の罪悪をここで一々復習して死屍に鞭打つことは差控えましょう。とにかく彼の行状はよくなかった」
「あなたは、硝子窓を外から押して合わせた。きっちりとは入らなかった。どこかに閊えているらしかった。そのままにしてあなたはクラブへ引返した。そうでしょう」
「そうでしょうねえ」
亀之介は、こんどは肯定すると、勢よく煙草をつまみ上げて口へ持っていった。
亀之介を退室させた後、帆村は「どうでしたか」と感想を検事たちに需めた。
「さっぱり瓦斯中毒に関する訊問は出なかったじゃないか」
長谷戸検事は不満の意を示した。
「そうでもないのですがねえ。例えば、こういう事実が分ったと思います。すなわち鶴彌氏の死ぬ前には、この窓はちゃんと閉っていたのです。それから十二時頃、亀之介の二度目の帰邸のとき窓は開放されたこと、そしてその後で閉じられたが完全閉鎖ではなかったこと──これだけは今亀之介が認めていったのです」
「それはそうだが……」
「毒瓦斯が放出されたとき、この部屋は密閉状態にあったことを証明したかったのです。密閉状態にあったが故に、毒瓦斯は室内の者を殺すに十分な働きをしたわけです。鶴彌氏が死んだばかりではなく、洗面場の下にいた鼠までが死んだのですからねえ」
帆村はようやく亀之介訊問の意図をはっきりさせた。
外に感想はと、帆村が重ねて聞くと、大寺警部は笑いながらいった。
「君はひどいね。亀之介をうまくひっかけたじゃないか。芝山は押入の中に入っていたが、入って来た人物の顔を見なかったというのに君がさっき亀之介にいった話は、芝山が亀之介を見たように聞えたよ。もっとも君は、芝山が見たとはいわなかったが、亀之介はあれで見られたと思って恐れ入ったのだろう」
「いや、あれは苦しまぎれの手段です。見のがして下さい」
と帆村は頭を掻いた。帆村の要請で、次にこの部屋へ呼び出されたのは家政婦の小林トメであった。
「小林さん。この前もあなたによく見て調べてもらったんですが、もう一度調べてもらいたいのです。ここに写真がありますがね……」
と帆村は、死者の前にあった小卓子の上に並んでいる皿や酒壜や灰皿などの写真を小林の手へ渡し「このテーブルの上に二十七点ばかりの品物がのっていますがね、この中からあなたがあの晩この部屋へ持ちこんだ物はどれとどれですか、選って下さい」
この質問をうけて、家政婦の顔はゆるんだ。彼女は、また芝山との関係について突込んだことを訊かれるのだろうと恐れていたらしかった。
「はい。わたくしのお持ちしたものは、この皿と、この皿と……」
と、家政婦は十四点をあげた。帆村は一々それに万年筆でしるしをつけた。
「それではね、こんどは残りの品物の中から、いつもこの部屋にあって、あなたに見覚えのある品を選ってみて下さい」
「はい。……しかしあとは全部そうなんですけれど……おや、この缶詰は存じません」
「まあ一々指していって下さい」
「はい」
家政婦は、彼女が写真の中の品物を指している間に、傍にいる帆村がけしからず荒々しい呼吸をしているのに気がついて、いやらしいことだと思った。──写真の中には、さっき彼女がいったとおり、一ポンド入りの空き缶が一つ残った。
「この缶詰に見おぼえがないというんですね。間違いありませんね」
「旦那さまが御自分で缶詰をお買いになって、御自分でこっそりおあけになるということは、今まで一度もございませんでした。ふしぎでございますわねえ」
「いや、ありがとう。あなたにお伺いすることはそれだけでした」
家政婦は、いそいそとこの部屋から送り出されて行った。
検事も警部も、帆村が手に持っている写真のところへ集って来た。
「うむ、この缶詰だけ知らないというのか。これはたしか、中が洗ったように綺麗な空き缶だったね」
「そうです」
「君は、この缶詰の中から毒瓦斯がすうッと出て来たと考えているんじゃあるまいね」
と検事の言葉に、
「ははは、まさかそんなことが……手品や奇術じゃあるまいし。はははは」
帆村が応える代りに、先へ笑ったのは大寺警部だった。
「この缶詰の中に毒瓦斯を詰めることは困難でしょうね」と帆村は真面目な顔でいった。「この缶詰は普通の缶でした。瓦斯を封入するには少くとも二箇の特殊の穴を明け、その穴をあとでハンダでふさいでおかなければなりますまい。しかしそんな痕もない全く普通の缶だったのです。もしそれが出来たら、大寺さんのいわれる手品か奇術です。いや、手品や奇術や魔術でも、この缶にそれを仕込むことは不可能でしょう」
「しかし、この空き缶が一体どうしたというだろう」
検事はふしぎでたまらないという風にひとり言をいって、首を振った。
「検事さん。こうなると、あの空き缶についている指紋がたいへん参考になるんですが聞いて頂けませんか。もう鑑識課で判別した頃じゃありませんか」
「うむ、それはいいだろう。おい君──」
と検事は、部下のひとりを呼んで、電話をかけさせた。
その部下は、間もなく紙片を手に持って、一同のところへ戻って来た。
「このとおりだそうです」
帆村と検事とが、左右からその、紙片を引張り合って覗いた。
「指紋ハ四人分有リ。ソノウチ事件関係者ノ指紋ハ、旗田鶴彌、土居三津子、本郷末子ノ三名ノ分。他ノ一名ノ指紋ハ未詳ナリ」
鶴彌の指紋があるのは当然として、土居と女中お末の指紋があるとは、事重大であった。それからもう一人未詳の人物が、この事件に関係したことが新たに判明したのだ。一体それは何者だろう?
興味ある四種の指紋だ。この缶詰の空缶に、四人の指紋がついている。主人鶴彌の指紋がついていることは、何人にも納得がいく。彼はこの缶詰を前にして死んでいたのだから。
しかしこの缶詰を開いたのは、果して彼鶴彌であったかどうか、それはまだ分っていない。またその缶詰が、彼の死に関係があるのかどうかも、まだ分っていないが、帆村探偵はこの缶詰に非常な興味を持ち、とことんまで洗いあげる決心でいる。
そしてもしこの缶詰が万一鶴彌の死に関係があったとしたら、それは一体どういう形でこの事件の中へ食い入っているのであろうか。帆村はそのことをちらりと思い浮べただけで、昂奮の念を禁じ得なかった。
土居三津子の指紋が、なぜあの空缶についているのであろうか。帆村としては、三津子の潔白を既に証明し得たつもりで今はもう安心していたのだ。ところがここに突然三津子の指紋が問題の空缶の上にあると分って、三津子に再び疑いの目が向けられることとはなった。
お手伝いのお末の指紋が発見されたことは、この事件の一発展だった。お末のことは、今までほとんど問題になっていなかった。彼女は鶴彌殺しの容疑者としてはほとんど色のうすい人物だった。しかるに今、突然お末の指紋が空缶の上に発見されたのである。一体お末はいつその缶の上に彼女の指の跡をつけたのであろうか。常識では、お末はこの缶詰とは関係がないものと思われる。なぜなら家政婦小林トメでさえ、この缶詰を前に見たこともないし、主人の部屋へ持って来たおぼえもないといっているのだ。ところが、その缶の上にお末の指紋がついていたということは、そこに何かの異常が感ぜられる。お末が指紋をそれにつけた場所と時間とが分ると、この事件を解く一つの有力な鍵が見つかったことになるのではあるまいか──と、帆村はひそかに胸をおどらせているのだ。
更に興味津々たるは、第四の指紋の主のことである。彼(または彼女)は、これまでにこの事件に登場したことのない人物なのである。果して如何なる人物であろうか。それこそ兇悪なる真犯人であるかも知れない。また、それは事件に関係のない売店の売子の指紋であるのかも知れない。
さて、旗田邸に集まる検察官と帆村探偵のところへ鑑識課から右の指紋報告の電話が来て、ひとしきり討論が栄えたあとで、長谷戸検事は、帆村が引続いて取調べを進行させる意志があるなら、暫く君に委かせておいていいといったので、帆村は肯いて、自ら取調べ続行をする旨表明した。
「土居三津子氏をここへ呼んで頂きましょう」
帆村の要請は、係官たちもそれが当然の順序だと同感した。そして三津子が再びこの部屋に入って来た。
「おたずねしますが、この写真のここにうつっている缶詰の空缶が一つあります。これはこの写真のとおり、この小卓子の上に載っていたもので、今本庁へ持っていっています。──そこであなたにおたずねしたいのは、事件の当夜、あなたはこの部屋へ入って来られて、この空缶を見ましたか。どうです」
帆村の目は、するどく三津子の横顔へ。
「さあ……空缶は見ませんでしたけれど……」
否定はしたが、三津子はあと口籠った。
「見ませんけれど──けれど、どうしたんですか」
三津子は写真の中を熱心に見入りながら、
「この缶でございますね、レッテルの貼ってない裸の缶で、端のところに赤い線がついている……」
「そうです。それです」
帆村はその細い赤線がついていたことまで覚えていた。そして検事の方へ目配せした。検事は心得て、大寺警部に耳うちをして、本庁へ電話をかけ、その空缶をすぐここへ持ってくるように命じた。
「その空缶は、たいへん軽い缶詰ではございませんか」
「えッ……そ、そうかもしれません」
帆村は電撃をくらったほど愕いた。〝たいへん軽い缶詰〟──そんなことは今まで想像したこともなかった。帆村は愕いたが、三津子の方は別に愕いていなかった。
「その缶詰なら──その缶詰なら、あたくしはこの部屋で見ました。しかしこの写真にあるように、あけてはございませんでした」
「あけてなかったというんですね」帆村の顔はいよいよ青白くなる。
「あなたは、その缶詰をどこで見ましたか」
「その小卓子の上にありました」
「この小卓子の上にね。たしかですね」
帆村の額に青い血管がふくれあがる。
「たしかでございます。あたくしがこの部屋に入って参りましたとき、先生──旗田先生は小卓子の脇を抜けてその皮椅子へ腰をおろそうとなさいましたが、そのときお服がさわりまして、あの缶詰が下にころがり落ちました。あたくしは急いでそれを拾って、この小卓子におのせしました。するとそのとき先生はお愕きになって──下は絨毯ですから、軽い缶詰が落ちても大きな音をたてなかったので、先生はそれにお気づきになっていなかったようでしたわ──それで、あたくしをお睨みになって『余計なことをしてはいかんです』と仰有いました」
「なるほど。それからどうしました」
「それから──それから先生はその缶詰をお持ちになって、あそこの戸棚の引出におしまいになりました。それから元の椅子へおかえりになりました」
「なるほど、なるほど」帆村は昂奮をおさえつけようとして、しきりに瞼をしばたたいている。
「あなたが拾いあげた缶詰はたいへん軽かったというが、どれ位の重さだったんですか」
「さあ、どの位の重さでしょうか」と三津子は困惑の表情になったが、やがていった。
「信用して下さるかどうか分りませんが、それはまるでからっぽみたいでございました」
「中で何か音がしなかったですか」
「さあ、気がつきませんでございました」
三津子が退場して、次はお手伝いのお末が呼ばれることになった。
今しがた三津子が証言していった缶詰にまつわる謎は、すぐその場で解きがたいものであっただけに、係官たちはお手伝いお末が次に如何なる証言をして、連立方程式の数を揃えてくれるかと、興味を深くしていた。
お末こと、本郷末子は、例のとおり黄いろく乾からびた貧弱な顔を前へ突出すようにして、鼠のようにちょこちょこと入って来た。
帆村はお末を招いて、例の写真を見せ一応説明し、それから訊いた。
「この缶詰の空缶ですがね、あなたはこれをどこで見ましたか」
「あたくしは何にも存じません」
と、お末ははげしく首を左右に振って、度のつよい近眼鏡の下から、とび出た大きな目玉を光らせた。
「いや、あなたが知らないことはないんです。よく心をしずめて、思い出して下さい」
帆村はやさしくいった。
「全然存じませんもの。いくらお聞きになっても無駄です。あたくしはこのお部屋へお出入りすることは全然ございませんのですもの」
「それは確かですか。事件の当日、この部屋へ入ったことはありませんか」
「あたくしは誓って申します。あの日、この部屋へ入ったことはございませんです」
ヒステリックな声で、お末は叫んだ。
「しかしねえ、お末さん。この缶詰には、あなたの指紋がちゃんとついているのですよ」
「まあ、そんなことが、……そんなこと、信ぜられませんわ」
「あなたの指紋がついているかぎり、あなたはたしかにこの缶詰にさわったことがあるわけです。さあ思い出して下さい。どこであの缶を見たか、そしてさわったか……」
「……」
お末は唇をかんで、首をかしげて考えていた。
沈黙の数分が過ぎた。
「まだ思い出せませんか。あなたは、この缶詰が空き缶になっているときに見ましたか、それともまだ空いていないときに見ましたか」
「見ません。全然あたくしは見たことがないんですから、そんなこと知りません」
「あなたはこの缶詰を、亡くなったこの家の主人鶴彌氏のところへ届けたのじゃないのですか」
「そんなことは全然ありません」とお末はいまいましそうに、どんと床を踏みならした。
「あたくしはこの一ヶ月、御主人さまの前へ出たこともございません。御主人さまの御用は、みんな他の方がなさるんでございます」
「本当ですか」
「あなただって一目でお分りになりましょう。あたくしみたいな器量の悪い者は、殿方が見るのもお嫌いなのでございます」
「まさか、そんなことが──」
「いえ、お世辞をいって頂こうとは思いませんです」
ひょんなことになってしまって、帆村はあとの言葉が続かず立往生だ。
そのとき幸運は帆村を救ってくれた。それは本庁から、例の空き缶がここへ届けられたのである。
二重の白い布片にまかれてあった空き缶は大寺警部の手によって小卓子の上でしずかに布片を解いて、取出された。
(あッ──)
帆村は硬直した。口の中で、愕きの声をのんだ。彼は見たのだ、大寺警部が取出した問題の空き缶をお手伝いお末が一瞥した瞬間、彼女はそれまでの落着きを失って、はっとなって目を瞑じ、次に目を開いたときには明らかに愕きの色を示して、大きく目をみはり、息をすいこんだのである。手応えがあった。思いがけない手応えがあったのだ。帆村の心は躍った──。
「どうです、お末さん、この缶は……」と帆村は極力冷静を維持しようと努めながら呼びかけた。
「実物を見ると、なるほどこれなら知っていると、気がついたでしょう。どうです、お末さん」
お末は返事をしなかった。
「お末さん。あなたはいつこの缶詰を手に持ったのですか。どこで持ったのですか」
「……存じません。全然あたくしには覚えがないんですの」
「だってそれじゃあ君、まさかあなたの幽霊が指紋をつけやしまいし、説明がつかないじゃないですか。あなたがこの缶を手に持ったことは明々白々なんだ」
「あとでよく考えてみますけれど、全くあたしには合点がいかないんです」
お末の取調べはその位にして、一時下らせるより外なかった。
帆村は係官の前へ出て、自分の困惑を正直にぶちまけた。
「お末さんが、なぜあんなに頑強に『全然覚えがない』といい張っているのか、訳が分りませんね。それが解けると、この事件は解決の方向へ数歩前進すると思うんですがね」
「今まで気がつかなかったが、あのお手伝いはなかなか変り者だね」と長谷戸検事が本格的に口を開いた。
「帆村君のいう彼女の頑張ぶりを解く一つの手段として、あの女の住居を家宅捜索してみたらいいと思う。佐々君、君ちょっと行ってみてくれんか」
部長刑事の佐々は、令状を貰って、すぐ出発した。お末の住居は、新宿の旭町のアパートであった。
調べ室は、そこで暫くの休憩をとることとなり、お茶がいいつけられた。一同は隅っこに椅子を円陣において、煙草をふかしたり、ポケットから南京豆をつまみ出してぽりぽりやる者もあった。お茶が配られると、一同は生色を取戻した。なにしろ厄介な事件である。一体どこへ流れて行くのか分らない。帆村もお茶をすすりながら、メモのページを指先でくりひろげて見ている。大寺警部が長谷戸検事に話しかける。
「長谷戸さん。一体どこで犯行を確認するんですかね。つまり、ここの主人は病死か、他殺か。他殺ならば、どうして殺されたか。それをどこで証明したらいいのですかね」
三津子を犯人と見て、自信満々だった大寺警部も、このところすっかり自信を失ったらしい。とはいえ、帆村が今やっている脱線的捜査方針には同意の仕様がないと思っているらしい。
「もうすこし捜査を進めてみないと何にもいえないと思うよ。しかし今やっていることは決して無駄じゃないと思っている。なにしろ今まで手懸りと見えたものが、みんな崩壊しちまったんだ。この上は、すこしでも腑に落ちない点を掘り下げていくより方法はないと思うね」
検事は、間接に帆村が今とっている捜査方針を是認した。
「そうでしょうかねえ。だが、あの空き缶が犯行に一体どんな役目を持つと考えられますか。土居三津子の証言によると、あの缶詰はあけない先から、からっぽ同様に軽かったそうですね。しからば、あの中に入っていた内容物が、鶴彌の胃袋に入って中毒を起したとは考えられない」
「胃袋に入ったとは考えられない。しかし肺臓に入ったとは考えられなくもない」
「肺臓というと……肺臓になにが入るのですか」
「瓦斯体がね。つまり毒瓦斯だ。この缶詰の中に毒瓦斯がつめてあったとすれば、そんなことになるはずじゃないか」
「毒瓦斯がこの缶詰の中につめてあったというんですか。それは奇抜すぎる。少々あそこの先生かぶれですな」
大寺警部は、向こうでメモのページをめくっている帆村の方へ、ちらりと目を走らせた。
「そうなんだ、帆村名探偵かぶれなんだ」
検事はにやにや笑った。そのとき帆村が、ぴょんと椅子からとび上って、こっちへ急ぎ足でやって来た。検事と警部はびっくりした。
「われわれはうっかりしていましたよ。こんなところにぐずぐずしている場合ではなかったです」
帆村は気色ばんで、大声でいった。
「どうしたんだ、君……」
「お末をこの前調べましたね。あの時お末がここでお手伝いをしているかたわら、夜は河田町のミヤコ缶詰工場の検査場で働いていると自供したじゃありませんか」
「おお、そうだった」
検事は呻った。あの調べのときは、お末をも問題視せず、またお末が缶詰工場で働いていることも、彼女がたいへんによく働く人間だと思った外に、別に気に留めなかった。だが今となっては、帆村の指摘する通り、彼女の勤め先が「缶詰工場」であることは非常に重大なる意義があるのだ。
「だから、佐々さんだけに委しておけませんよ。これからすぐにわれわれも出かけましょう。まずお末さんのアパートへ行って家宅捜索をした上で、河田町のミヤコ缶詰工場へ廻ったがいいと思います。きっと何か掴めると思いますねえ」
「そうだ。大寺君。われわれ一同は、すぐ出掛けよう」
「いいでしょう。──で、やっぱり問題の缶詰の中に毒瓦斯がつめてあったという推定で捜査を進めるのですね」
「あ、そのことだが……」
と帆村が手をあげて抑えた。
「その缶詰の中に毒瓦斯そのものを詰めてあったとは考えられません。もし詰めてあったものなら、缶詰の缶のどこかに、少くとも二つの穴があけられていて、あの穴はハンダづけがしてあるはずです。そうしないと、瓦斯をこの中へ送りこむことができないのです。しかしこの缶詰は、ごらんになる通り、穴をあけた形跡がなく、缶の壁は綺麗です。ですから、この缶の中に毒瓦斯そのものが詰めてあったとは考えられないのです」
「なあんだ君は……。君は自分で毒瓦斯説を提唱しておいて、こんどは自分からそれをぶち壊すのかい。それじゃ世話がないや」
検事は笑った。
「いや、しかし早く本当のことを説明しておかないと、大寺警部の如き真面目で真剣なる方々から後できつく恨まれますからね」
「じゃあどうするんです。缶詰追及をやるんですか、それともそれは取りやめですか」
警部はいらいらしながら訊いた。
「行くんだ。さあ出掛けよう」
長谷戸検事は椅子から立上った。帆村もメモをしまって、出掛ける用意をした。
「さあ参りましょう。なんといっても、あの缶詰を追って行けば、この事件はきっと解けるにきまっているんですから……」
帆村はいつになく広言した。一同は、どたどたとこの部屋から出ていった。それから賑やかさは玄関に移った。三台の自動車が、次々に白いガソリンの排気をまき散らしながら、通りへ走り出していった。そして邸内は急に静かになってしまった。
そのころ佐々部長刑事は、旭町のアパート本郷末子の部屋で、夥しい収穫に自ら昂奮していた。というわけは、彼女の部屋から多数の缶詰や空き缶を発見したのであった。そしてどの缶詰も、ふちのところに赤い細い線が入っていた。この線は、素人にはちょっと気がつかないが、専門家にはすぐ目に立つものだった。これは偽造品と区別するためのミヤコ缶詰会社の隠し符号であったわけである。これだけの夥しい缶詰を押収してしまえば、その中にきっと問題の缶詰の兄弟分も交っていることであろう、そしてお手伝いお末が、有力なる殺人容疑者としてフットライトを浴びることになろう──と佐々部長刑事は気をよくしていた。そこへ長谷戸検事たちの一行を乗せた自動車が到着した。佐々は、一行が部屋へ入って来たので、びっくりした。しかし彼はすぐ了解した。そうだ、ここが殺人容疑者の本舞台なんだから、検事一行がここへ移動して来るのはあたり前だと気がついた。
「この通りです。どの缶にも、赤線の符牒がついていますよ。おどろきましたね」
佐々は、部屋の真中に山のように積みあげた缶詰を指さした。検事は大寺警部に目配せして、それらの缶詰を調べにかかった、指紋をつぶさないように気をつけながら……。
「無いね。無いじゃないか」
検事は失望していった。
「無いですね。どの缶詰も重いですね。軽いやつは一つもないですね」
警部も失望の態である。
「空き缶の方はどうだろうか。中が洗ったように綺麗なのがあるかい」
こんどは空き缶探しにうつった。だがそれも失望を強めたに過ぎなかった。
問題の空き缶のように中の綺麗な缶は一つもなかった。
「この上は、お末をここへ引張って来て、訊問するんですな」
「うん」
と検事は考えていたが、
「それは後でもいいと思う。それよりは次のミヤコ缶詰工場へ行こう。あそこへ行けば、問題の空き缶についていた未詳の指紋の主が分るかもしれん。その方の調べを急ごうや」
「いいですなあ」
そこで一行は、一名の警官を後に残して、河田町の方へ自動車をとばしていった。ここで話をもう一度旗田邸へ引き戻さねばならないことになった。それは、ちょうど同じ頃の時刻であったが、旗田邸内に意外な事態が起ったので……。検事一行が三台の自動車に乗って賑やかに旗田邸を出かけてから五六分たった後のことであった。がらんとした鶴彌の居間の入口に、姿を現わした者があった。
「もしもし。どなたか居ませんか」
やや低目の声で、その人物は呼んだ。それは亀之介だった。誰もそれに返事をする者がなかった。彼は部屋の中を覗きこんだが、室内は乱雑に椅子が放り出されてあるだけで、その上に尻を乗せていた連中の姿は一人もなかった。警戒の警官さえが居ないようであった。親玉が行ってしまったので、これ幸いと鬼の留守に洗濯をやっているのであろうと、彼は思った。
「おやおや。こう散らかされちゃかなわんねえ」
彼はあたりへ気を配りながら、室内へ足を踏み入れた。が、急に彼の行動は敏捷となった。彼はテーブルの傍へ寄った。そしてポケットから白いハンカチーフを出して卓上にひろげた。それから彼はすこし前にかがみこんで、手を灰皿へ伸ばした。彼の両手の指が、灰皿の上の黒ずんだ灰を──紙を焼いたらしい灰であるが、それをそっと持ちあげ、ハンカチーフの上へ移した。灰は案外にしゃちほこばっていて、途中で崩れるようなことはなかった。
彼は急いで灰をハンカチーフの中に丸めこみ、上衣の左のポケットへ押しこんだ。彼の仕事は、まだそれで終ったのではなかった。彼は右のポケットから白い紙を折り畳んだものを引張り出した。それを指でつまんでひろげた。四つ折になっていた純白の無罫のレター・ペーパーだった。それを灰皿の上へ持っていった。それからライターを出して火をつけた。ライターの焔を、紙へ移した。紙はめらめらと燃えあがった。そしてあとに黒ずんだ灰を灰皿の上いっぱいに残した。彼は煙草を一本つまみだして口にくわえた。そしてこれに火を点じて、急いで煙を吸った。が、たちまちはげしく咳きこんだ。煙にむせたからであった。彼は周章てて戸口の方へ急いだ。足を廊下へ一歩踏みだしたと思ったら、彼は声をかけられた。彼は咳きこんでいて、よく目が見えなかったのだが、そのとき廊下をこっちへゆっくりと歩いて来た人物が、亀之介の姿を認めたのである。
「ほう、どうしました、亀之介さん」
「やァ、煙草にむせちゃって──あっ、帆村君ですね」
帆村荘六だった。彼は検事たちと共に確かに自動車に乗って出掛けた。それがなぜここに姿を現わしたのであろうか。
「一度あなたとゆっくり話し合いたいと思っていたのですがね。今丁度いいですね、中でお話を伺いましょう。さあどうぞ」
帆村にすすめられて、亀之介は割り切れない気持で、室へ再び足を踏み入れた。と、部屋の隅の洗面器のあるところのカーテンをはねあげて、一人の警官が出て来た。亀之介はどきんとした。この部屋には誰も居ないと思っていたのに、どうしたことであろう。
その警官は帆村へ何か合図を目で送ると、椅子を整頓し、二人の話しやすいように並べかえた。
「どうぞ。お席が出来ました。お茶も持って参りましょう」
警官は部屋を去った。帆村は亀之介にすすめて椅子へかけてもらい、自分もその向こうに腰を下ろした。
「早速ですが、旗田さん、ケリヤムグインというあの毒瓦斯材料をあなたはどこで手にお入れになったのですか」
帆村の唐突の質問に、亀之介の顔色はさっと変った。
「知らんですな、そんなこと……」
「ケリヤムグインはドイツで創製せられた毒瓦斯材料で、常温では頗る安定な油脂状のものです。それを高温にあげ、燃焼させますとたちまち猛烈な毒瓦斯となります。ケリヤムグインの一ミリグラムは、燃焼して瓦斯体となることによって、よく大広間の空気を即死的猛毒性に変じます。──あなたは、ケリヤムグインを書簡箋に吸収させました。そしてその書簡箋は、缶詰の中に厳封して、旗田鶴彌氏へ送ったのです。もちろんその書簡箋には、或る文句が書いてありましたがね。……如何です。それを否定なさいますか」
「もちろん否定する。そんな馬鹿気た話を、誰が真面目になって聞くものですか」
亀之介は腕組みをして嘯く。帆村はいよいよ静かな態度で、次なる言葉を繰り出す。
「その書簡箋を鶴彌氏が取出すと、文面を読んで確かめた上で、火をつけて焼き捨てたのです。その焼き焦げの黒い灰が、あそこの灰皿の上に載った。その頃鶴彌氏は、猛毒瓦斯を吸って中毒し、氏の心臓はぱったり停ってしまったのです。そしてそのお相伴をくらって、あそこの洗面器の下の下水穴から顔を出した不運な溝鼠が、鶴彌氏に殉死してしまったというわけなんですが、如何ですな」
「大いへん面白い御創作ですね。どこかの懸賞小説に投稿なさるといいですなあ」
「その書簡箋に書いてあった文面が、また興味あるものなんです。こう書いてありましたがね、〝告白書。拙者乃チ旗田鶴彌ハ昭和十五年八月九日午後十時鶴見工場ニ於テ土井健作ヲ熔鉱炉ニ突落シテ殺害シタルヲ土井ガ自殺セシモノト欺瞞シ且ツ金六十五万円ノ会社金庫不足金ヲ土井ニ転嫁シテ実ハ其ノ多クヲ着服ス、其後土井未亡人多計子ヲ色仕掛ヲ併用シテ籠絡シ土井家資産ノ大部分ヲ横領スル等ノ悪事ヲ行イタリ、右自筆ヲ以テ証明ス。昭和十六年八月十五日、東京都麹町区六番町二十五番地、旗田鶴彌印〟──というんですが、これは如何です」
帆村はメモを見せながら訊いた。亀之介は、ふふんと鼻で嗤った。
「兄貴は悪い奴ですね」
「こういう貴重な告白書が缶詰の中に入って届けられたものですから、鶴彌氏としては狂喜して、早速それをその場で火をつけて焼き捨てたのですが──まさか自分の書いたその告白書にいつの間にか猛毒ケリヤムグインが浸みこませてあったとは知らず、鶴彌氏は狂喜の直後に地獄へ旅立ったという──これは如何です。御感想は……」
「なかなかお上手ですな、小説家におなりになった方が成功しますね」
帆村は肯いて、メモをポケットに収った。
「それでは失礼ですが、あなたの左のポケットに入っているハンカチーフをお見せ願いたいのですが……」
亀之介はぎょっとして立上った。帆村もまた立上った。亀之介は、あたりへ急いで目を走らせたが、戸口のとこへ、さっきの警官を始め二名の新手の警官が現われて、しずかに中へ入って来た。
「失礼ながらさっきあなたが黒い灰をハンカチーフにお収いになったことは、進藤君──そこに居る警官が、あそこの洗面所のカーテンのうしろから一伍一什拝見していたんですよ。うまく掏りかえたおつもりでしたね」
これは亀之介への止めの刃であった。
「これが欲しいのならあげますよ」
亀之介は観念したものか、太々しくいって、ポケットからハンカチーフ包をとりだして帆村の方へ差出した。
「だがね帆村君。中の灰はこのとおり微粉状になっていますよ。お気の毒ながら、さっき読んだ告白書の文句も見えず、それから……」
「それからケリヤムグインも燃焼して、その痕跡も残っていないと仰有るのですか」
帆村はぐっと唇を横に曲げた。
「そういう御心配があるのなら、あとから御覧に入れましょう。あなたのお取替になった黒い灰は、あれは僕があとから拵えておいた第二世なんです。第一世は、灰の形もくずさず、硝子の容器におさめて、あっちに保存してあります」
「えっ」
「もちろんその灰に、紫外線をかけましてね、さっき読み上げた告白書の文句を読み取ったのです。それからあなたさまにはたいへんお気の毒ながら、その告白書の一部が燃え切らずに残っていましてね──あの黒い灰を灰皿から横へ移してみて始めて分ったのですが、灰の下に、一枚の切手位の面積の燃えない部分が残っていたのですよ。それを分析して──なにをなさる」
「は、はなせ」
亀之介は、椅子を台にして窓の枠へとびのり、外へ飛び下りようとした。が、警官が素早くその片足をつかまえてしまった。
「身体検査をして下さい。心配ですからねえ」
帆村はそれを頼んだ。亀之介の身体は厳重に調べられた。
「そこに妙なところにポケットがある。なにか入ってやしませんか」
「あ、ありました。薬の包らしいが……」
亀之介はそれを取戻そうとしてもがいた。しかしそれは帆村の手に渡った。
「ああ危かった。これが例の猛毒ケリヤムグインらしい。これをこの部屋で煙草でも交ぜて燃されるものなら、この人と一緒にわれわれも一緒に無理心中というわけだ。おお、あぶなかった」
警官たちは目をぱちくり。
「すると──すると当人の持っている煙草もみんな危険物なんですね」
「そうです。煙草もみんな押収しておかれたがいいでしょう」
このとき亀之介の手首には、手錠がかかった。彼は椅子にどっかと尻を据え、自由な方の手で、自分の頭を抱いた。
事件は解決したのだ。亀之介は、鶴彌殺しの犯人容疑者として本式に拘引された。それから取調べによって彼の犯行たることは十分確実となった。
それはそれとしてこの物語の上では、まだ書き足りないところがあるようだから、それを補足しておきたい。帆村は、長谷戸検事たちと一緒に、お手伝いお末のアパートへ出発しながら、いつの間にか旗田邸に戻っていた。そのわけは、帆村が旗田邸内にトリックを仕掛けておいたので、それにひっかかる相手の様子を見るために、自動車が通りへ出ると間もなく車を停めてもらって、彼は旗田邸へ引返したのであった。もちろん検事には、このことを予め打合わせずみであった。トリックというのは、もちろん旗田亀之介を鶴彌の広間へひき出して、あの灰皿の上の黒ずんだ灰を盗ませるためだった。そしてそれを確認するために、警官の一人を洗面所のカーテンの蔭にかくしておいたことは、既に陳べたとおりである。
一方検事たちの一行は、お末のアパートの捜査をすませたのち、ミヤコ缶詰工場へとびこんだ。まず問題は、お末すなわち本郷末子の行状を調べることと、例の空き缶についていた未詳の指紋の主を探しあてることだ。お末の評判は悪くなかった。すこしヒス気味ではあるが、仲々よく働く女で、この工場でも相当目をかけていることが分った。況んやこの婦人に、浮いた噂のあろうはずがなく、またそうかといってひねくれて人殺しをするような気配もなかったことを証言する人々があった。
要するにお末は、出来るだけ働いて、貯金を殖やすことが楽しみであったのだ。そういう女が殺人罪を犯すようなことは殆んど考えられなかった。しかしなぜ彼女の指紋が、問題の空き缶についていたのであろうか。この点については俄に解決がつかなかった。
そこで次に、未詳の指紋の主の調べに入ったのであるが、これは案外楽に見つかった。井東参吉というのが、その指紋の主であったのだ。彼井東は、この工場の工員の一人であって、試験部附の缶詰係だった。つまりこの工場で、まだ売出し前の食料品を試験的に缶詰にする工程において、彼はそれの最後の仕事として、蓋をつけて周囲を熔接して缶詰に出来上らせる部署で働いていた。彼のところには、自動式ではなく手動式の缶詰器械があった。これは旧式のものだが、数の少い試験用缶詰をパックするには便利なものであった。
井東は三十歳ばかりの、この工場では古顔の工員であった。彼には一つの気の毒な病気があった。麻薬中毒者なのであった。彼は取締のきびしい中をくぐって、麻薬を手に入れなければならない悩みを持っていた。そんなことから、彼は普通の製造工程のところから遠ざけられて、試験部で働いていたわけである。
井東を調べたところが、はじめは仲々いわなかった。しかし取調べの途中で、彼が麻薬中毒者であることも分り、それから糸がほぐれていって、遂に彼が白状したところによると、問題の軽い缶詰は、旗田亀之介に頼まれて、彼井東が缶詰仕上げをやったに相違ないことが明白となった。もちろん彼は、缶詰の中にそんな恐ろしいものが入っているとは知らなかったという。ただ亀之介からいわれた通りに蓋をつけて熔接したのだという。彼は亀之介からしばしば麻薬を受取っているので、頼まれたことはしないわけにはいかなかったのだという。
その缶詰をこしらえあげたところへ、偶然本郷末子が入って来て、その缶詰を手に取上げようとしたので、井東はあわてて彼女の手を抑えたという。だからお末の指紋は、このときについたと分った。
亀之介は、お末がここに勤めていることを知っていたので、常に警戒して、お末と顔を合わさないようにしていた。問題の缶詰を封入した日も、彼はお末が入って来たと知ると、急いで部屋から逃げだした。お末の方は亀之介がこんなところに来ているなどとは夢にも思わないから、亀之介が反対の扉から出て行く姿をちらと見ても、それが亀之介だとは悟らなかったのだ。それにお末は、前にもいったように、ひどい近眼だった。亀之介は、こうして鶴彌の告白書の入った缶詰を用意し終ると、それを共謀者の手を通じて兄鶴彌に送ったのである。
それより前亀之介は変名して、たびたび兄を脅迫し、その告白書を五十万円で買取らないかと持ちかけたのであった。これには彼亀之介の共謀者が、しばしば鶴彌に会ったが、亀之介は最後まで自分を隠しおおせたつもりであった。ところが鶴彌の方は、途中から気がついた。殊にその告白書を握っている人物が戦災で死に、もう大丈夫と思っていたところが、それが出て来たところから、これはてっきり土井の遺族が一緒に策動しているものと睨み、そこで彼は土居三津子を呼びこんで、いろいろな方面から脅迫を試みていたところだった。三津子は、その告白書を見たことがあり、そしてそれは亀之介が立合っていたことを鶴彌に洩したものだから、鶴彌はこれに弟が関係していることを感付いたらしい。
しかし鶴彌にとっては、あの告白書が非常に重大であるので、何を措いても先ずあれを取返そうとしてかかった。彼は五十万円を共謀者に渡した。それに替って、あの恐ろしき「地獄の使者」であるところの缶詰が、彼に手渡されたのである。彼は大安堵をして、告白書を焼却したその直後に殺されてしまったのだ。
彼の考えでは、その告白書の処置をつけた上で、全面的に弟亀之介を痛めつけるつもりでいたのだ。亀之介の方でも、とくにそのことを感付いていて、告白書が兄の手に渡るや否や、あとは大風が自分の方へ向って吹きまくるであろうこと、そして多分自分は放逐されるだろうと先の見透しをつけた。そしてそれなら一層のことにと、兄鶴彌を殺害する意志をかため、その計画に移ったのである。そしてあの告白書を返してやると同時に、その場で兄を地獄に追いやることを考えつき、これこそ一石二鳥であるわいとほくそ笑んだのであった。彼は御丁寧にも死者を後でピストルで撃ち、そのときに殺害したものと思わせ、犯人容疑者まで用意したのだった。
尚、毒瓦斯ケリヤムグインは、鶴彌を斃した後、通気孔や窓の隙間から自然に外へ出て行き、稀薄となっていった。そして約一時間半後、亀之介がクラブを脱出して帰邸し、庭から窓をあけたときには、毒瓦斯はもう致死濃度ではなかったのである。
序に記しておくが、鶴彌と亀之介は兄弟であるが、母親を異にしていた。二人の母親同士は、生きている間、互いに激しく睨み合ったもので、このことについてもすこぶる怪奇事件がまといついてあるのであるが、それは本件に関係がないので、ここには述べない。
さて、右のとおりの事情が判明して、事件の筋は明瞭となったのではあるが、亀之介は係官を最後まで手こずらせた。殊に亀之介が、鶴彌の遺産を狙うものではないことを強く主張して、係官をまごつかせた。このことは、まだ犯人の判明しない捜査の最初の頃、亀之介が自供したところでもあるが、鶴彌の遺産は、彼亀之介が継ぐのではなくして、鶴彌には庶子伊戸子というのがあり、それが継ぐのだと申立て、自分が鶴彌を殺して遺産を狙ったものではないと反発した。
そこで戸籍しらべとなったが、鶴彌の書斎から出て来た戸籍謄本を見ると、なるほど伊戸子という庶子の名があった。彼女は十歳であった。そこで亀之介が遺産相続を狙ったものではないことが認められた。だがどうもおかしいので、なおも続いて戸籍調査をしてみたところ、その庶子の伊戸子という娘は、その生母ともろともに、戦災で死んだことが判った。だから今となっては、鶴彌の遺産は弟亀之介が継ぐ順序になっていたのである。亀之介が一所懸命にお道具立てした最後の欺瞞も、とうとうこれで化の皮を剥がされてしまった。これで事件に関することは大体述べ終ったように思う。
帆村は、ようやく友人の土居記者に会わす顔があった。それにしても帆村の殊勲であるところの、例の灰皿の上の黒ずんだ灰に目をつけた一事は後で大いに検事からほめられたが、そのとき帆村は、
「いや、違うのです、違うのです」
と強く打消した。そしてこんな打明け話をして一同を失笑させた。
「もし殊勲者がありとすれば、それはうちの事務所の助手八雲千鳥嬢ですよ。事件捜査中あれが『先生がお残しになった灰皿の中の紙の焼け灰から、先生がそこにいらっしゃることが分ったんです。なぜってその焼け灰の上に、鉛筆でお書きになった先生の御伝言が光っていましたから、それを読んでみると、先生がそこへ行っていらっしゃることが分ったんです──』八雲嬢はそういったんです。実は僕が事務所を出るとき、八雲君はまだ出勤して居らず、そこで伝言書を鉛筆で書いたんですが、どこまであのお嬢さんが気がつくかと思い、僕はそれをわざと火をつけて灰にし、僕の机の灰皿の上にそっと載せておいたのです。ところが八雲嬢は見事にそれを見つけて判読したというわけです。──僕は感心のあまり、灰皿の中の黒ずんだ灰に強い印象を植えつけられ、さてこそ例の小卓子の上の灰皿の中にある黒ずんだ灰を見たとき、ひどく注意をひきつけられたんです。それから後はご存じのとおりで、黒い灰から犯人にまで続いている糸を手ぐるようなことになったんです。ですから八雲嬢のお手柄から出発しているんですよ。僕じゃありません」
帆村はそういい張った。そこで検事たちも強いてそれを帆村と争おうとはせず、そのかわりそのうち土曜日の午後にでも甘いお菓子の折を一同がぶら下げて帆村探偵事務所を訪問し、名助手八雲千鳥嬢に親しく拝顔の栄を得ようということに、一同、相談がまとまった。
底本:「海野十三全集 第11巻 四次元漂流」三一書房
1988(昭和63)年12月15日第1版第1刷発行
初出:「自警」
1947(昭和22)年1月~1948(昭和23)年1月(5、6、11月は欠)
※底本は、物を数える際の「ヶ」(区点番号5-86)(「一ヶ月」)を大振りに、地名などに用いる「ヶ」(「市ヶ谷」)を小振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:kazuishi
2005年12月3日作成
2019年1月14日修正
青空文庫作成ファイル:
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