歌集『仰日』の著者に
宮本百合子
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過日『仰日』ならびに『檜の影』会からお手紙を頂き重ねてあなたからのお手紙拝見いたしました。『仰日』を拝見して、短歌については素人ですが一つ二つ感想を申上ます。
わたくしは一人の読者として『仰日』におさめられている多くの生活の歌につよく心をひかれました。父をうたい祖母を語り、故郷の生活について描いて来た作者が、妻を得て、そこに独特のいつくしみ合いをもって生きつつある歌の数々は、『仰日』をつらぬく紅い糸のようです。うたわれている妻なるひとが、どんなにまめやかであり、自然なこころもちの婦人であるかということや、独特の夫妻としてのつながりのうちに、微妙な情愛のゆきかいのあることなどが、しみじみと感じとられます。夫婦が、たすけあって畑仕事をしたりしているところの歌は、世間のどの歌人もふれ得ない境地に立っていると感じました。
わたくしは、小説をかく者ですから、『仰日』をはじから拝見しながらも、いつかそれを生活的に立体化して感受し、日々の生活の描写にまじえて、自然鑑賞の歌をうけとるという工合になります。生活の歌はほとんどすべて率直であって、その瞬間の真実に立って独自です。そこにないあわされて来る自然鑑賞では、作者がアララギの格調というものに即していて、決して生活の歌ほどの独自性に立っていないということは、まことに興味あるところだと感じました。ある作は、生活の歌にある生の感覚の独自さとぴったりしていて、うたれます。しかしあるものはどんな条件で生活するどんな人でも一定の感覚と技法──アララギの枠の中での──でよめる作品であるというのも少なくないように思えました。
それから芸術的に言って、最も戒心のいるのは、アララギ流の儀礼による作歌の場合です。
この三つの点を相互に縫って流れているものの間に、こんにちのアララギ歌人すべての課題がひそんでいると感じます。現代は、アララギがかつて現代短歌史にわけもった積極の意義の故に、その歩みを制約する流派としての諸問題が、見なおされる時期に入っていると思われますが、いかがなものでしょうか。
『仰日』の作者のみならず、わたくしたちは、散文・短歌何によらず、その道での常套で完成したのでは意味がないと思います。まして『檜の影』の同人でいられる方々の御生活、生きゆく思いの痛切なことは、言葉をつくせず、それだからこそ、存在のあかしとして作歌されつつあると信じます。それは格調の緊密なアララギにひかれるのもよくわかります。しかし緊密であるというのは、歌のこころ、歌の世界がひしとうち出されてのことであって、格調を整える語彙というもの、用語法というもの、ましては型であってはつまりません。
短歌は日本の民族がもって来た文学のジャンルですから、それを破壊するより、そこに新しい真実と実感がもられるように、歌壇の下らない宗匠気風にしみないみなさまの御努力が希われます。
登龍のむずかしいアララギ派に云々とかかれている方のお言葉を拝見して、感想をおさえ得ませんでした。ここに古風なギルドがあります。枠にはまった流派の完成に近づこうとつい努力する危険があります。『檜の影』のどのお一人が、どんな流派に属する人生苦をもっておられるというのでしょう。
率直ですこし荒っぽいかもしれないわたしの感想が、散文をかくものからの感想として何かのお役に立つならば幸であると存じます。
中野重治の『斎藤茂吉ノオト』をおもちでしょうか。窪川鶴次郎の『短歌論』をおもちでしょうか。おハガキ頂きませば『仰日』の御礼のこころとしてお送りいたしますが──
わたくしはふとっていて、作品を通しての夫人はほっそりと小柄なお方のように思えます。よろしくおつたえ下さい。夫人はどんな本をおこのみでしょうか。
底本:「宮本百合子全集 第十三巻」新日本出版社
1979(昭和54)年11月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十一巻」河出書房
1952(昭和27)年5月発行
初出:「新日本歌人」
1951(昭和26)年2月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年4月23日作成
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