復活
宮本百合子
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帝劇で復活を観た。一九三〇年にモスクワ芸術座で上演された方法で演出された。
つよく印象にのこったこと。
カチューシャに扮した山口淑子は熱演している。各場面ごとに、その場面の範囲内で。このことは、女優としての山口淑子に、カチューシャの人間的成長の全体が、自分によくのみこめた一貫性をもってうちこまれていないということを語っている。
ネフリュードフに悪態をつくところ、牢獄でウォツカをあおって売笑婦の自棄の姿を示すとき、山口淑子は、体の線も大きくなげ出して、所謂ヴァンパイアの型を演じる。けれども、最後の場面で、政治犯でシベリアに流刑される人々にまじったカチューシャが、その人々の感化から自分の過去の不幸の意味を理解し、人間としてそこからぬけ出してゆく途がわかってみれば、ネフリュードフの自己満足のための犠牲はいらないこととわかって、ネフリュードフと訣別する。その舞台で山口淑子のカチューシャは、何とも云えず貧弱であった。その姿にも声にも堂々とネフリュードフの感傷をのりこえた女の力がたたえられてこそ、カチューシャが、ネフリュードフにこれから先の旅の無意味をしらせる科白に実感があり、不幸からの復活がある。この場面になると山口淑子はもう酔っぱらったり、男を罵倒したりすることはやめた、ただの小市民の若い女になってしまうしかなかった。かぼそい、平凡な、そして、日本の浅弱な小市民的雰囲気につつまれて。──古い表現で云えば、もうふっつり考えをかえましたのよ、とでもいうような印象であった。だから、カチューシャが、傷の中から芽生えた人間確信にたってネフリュードフと訣別し、最後に、自分たちの上にあったすべての過去の不幸と無智とに向って、さようならを意味する挨拶として、床にまで手さきのふれるように低くロシアの女の相応なお辞儀をする。その低い、ゆるやかな一つのお辞儀は、復活全篇を流れてそこへ到達したテーマの結びとしてきわめて大きい内容をもったしぐさであった。が、山口淑子は、それをそのような効果では演じられなかった。過去への訣別ということの深さを、女としての彼女自身の身にもひきそえて、どこまで彼女は真摯に把握したろう。
わたしは、帝劇の舞台に間近な補助椅子にかけていて、目をこらして、この貧寒なクライマックスを観た。そして、牢やの中のあばずれは、ともかく表現したこの女優が、この人間的飛躍のクライマックスでしめした日本式転身の姿に、うたれた。山口淑子の俳優としての非力は、はからずも日本のきょうの社会がまだもっている人間成長のための障害の条件そのものをむき出しているのだから。
映画の製作過程と芝居とはちがう。カメラに向って、演出者は芝居においてより遙にこまめに女優を指導するのだろう。だから、マスクの特異さ、ある女としての持味だけでどしどし若い女が商品製造につかわれてもゆくのだろう。山口淑子が、ひとこま、ひとこまと場面場面をまとめるように熱演しながら、全部に流れつらぬく情熱を感じさせなかったことの一つの理由は、こういうところにもあるのかもしれない。
底本:「宮本百合子全集 第十三巻」新日本出版社
1979(昭和54)年11月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十一巻」河出書房
1952(昭和27)年5月発行
初出:「女靴の跡」高島屋出版部
1948(昭和23)年2月
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年4月23日作成
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