プロレタリア文学の存在
宮本百合子
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前号の『文化タイムズ』に、わたしの評論集『歌声よ、おこれ』について本多秋五氏の書評がのせられた。その書評で、私が日本にプロレタリア文学は実質上存在しなかった、と書いているということがいわれている。「プロレタリア文学なるものは、一つの歴史的な呼び名であって、言葉の正当な意味でのプロレタリア文学ではなかったという説(中略)がここに確認されている(六五─六・六〇─一頁)のは銘記されてよい」と。
六五─六・六〇─一頁の記述が不足で不明確であったためにこういう読みとりかたがされたのだろう。プロレタリア文学の存在に関する問題は、日本の人民の文学の発展にとって公有財産であるから、明りょうにしておく責任を感じた。
日本にプロレタリア文学運動はあった、それが在ったことは当然であり、今日、民主主義文学の全運動のなかに、推進の中核として労働者階級の文学の課題が生きている。プロレタリア文学の業績は摂取され正しく伝承されなければ民主主義文学はその成長の骨髄を失うだろう。(同評論六六頁、六七頁、六九頁参照)
なぜなら、当時既に日本にも労働者階級が発生し、階級の対立が現実していた。現世紀の社会歴史の発展は、あらゆる段階とそれに応じた様々の様相を通じて、労働者階級がその主導的な力であることは、世界の事実となっている。そのような階級の力として日本に労働者階級があり、その階級の人間的表現としての文学運動があらわれたとき、それが、将来におよぶ階級的使命の見とおしに立ってプロレタリア文学とよばれたことは正当であった。
「世界のプロレタリア文学運動は、世界のブルジョア文化とその文学の創造能力の矛盾と限界とを見出して、人類史の発展的モメントとして現世紀に登場している勤労階級の生新な創造性を自覚したところに生れたのであった」と(五九頁)いっているとおり。
今日課題となっている日本の民主化は、人民的な民主主義の徹底なしには不可能である。そして、その主導力が労働者階級を中核とすることも明りょうである。ファシズムがおこったときフランスに人民戦線運動がつくられたのをはじめとして、世界の民主的方向が労働者階級の同盟者として農民、更にその協働力として進歩的な小市民、インテリゲンツィアが連帯活動におかれている。このことは、私たちに民主主義文学運動において労働者階級の文学が更に力づよいものとして発展してゆくべきことを示している。プロレタリア文学運動の業績が正しく評価、伝承されなければならないという声が昨今漸くあちこちにきこえて来た。このことは、民主主義が、階級間の平均化ではないということを、日本の人民が激しい二年間の経験によって理解しはじめたことを意味する。
わたしが六〇─一頁、六五─六頁にふれている点は、なぜ運動の当初プロレタリア文学だけを押し出したか(有島武郎の死前後)ということをしらべたかったからであった。
プロレタリア文学が存在しなかったというどころか、逆に何故プロレタリア文学のほかの進歩的文学が過小評価されなければならなかったかということをさぐりたかったからであった。私の書いているその評論の全主旨はプロレタリア文学の存在否定でない。
一篇の評論はその全文を、一冊の本はその全頁を通して読まれ理解されるのが自然だと思う。プロレタリア文学の伝承を忌避したがる一部の人々があるが今日力をつくして拒否すべきものは、文学運動までをああいう目にあわせた兇暴な治安維持法の変形した再登場である。わたしたちが人間として自然にもつ恐怖を主張し、その原因たる悪権力を克服しようとするならば、私たちは何よりも人民的な民主勢力の発展とその推進の力たる労働者階級の意識を肯定しなければならない。
底本:「宮本百合子全集 第十三巻」新日本出版社
1979(昭和54)年11月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十一巻」河出書房
1952(昭和27)年5月発行
初出:「文化タイムズ」
1947(昭和22)年12月1日号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年4月23日作成
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