女性の歴史
──文学にそって──
宮本百合子
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私たちが様々の美しい浮き彫の彫刻を見るとき、浮き彫はどういう形でわたしたちに見られているだろうか。浮き彫の浮きあがっている面からいつも見ている。けれどもその陰には浮き上っている厚さだけの深いくぼみがある。人生も浮き彫のようで、光線をてりかえして浮き上っている面の陰には、それだけへこんだ面があり、明るさがあればそれに添った影がある。
文学は人生社会の諸相を、眼の前にまざまざと見え感じるように描き出す。そこで社会の明るさと暗さはどういう関係において見られるのだろうか。ここに文学の新しい見方があると思う。婦人と文学という問題をとりあげて、それを人類と文学の歴史という問題から見てくると、第一に何故世界の婦人は、これまで男のひとたちよりも文学史的活動をしてこなかったのだろうかという疑問が起って来る。婦人の文学における立場は、知られているとおり、文学史の第一ページから男によって描かれるものとしての婦人であり、創作の対象としてとりあげられている婦人である。このことは意味深い事実だと思う。世界文学の最も古典のものとしていつも語られるギリシアの詩人ホーマーの「イリアード」のなかに、この描かれるものとしての第一の女性が現われている。「イリアード」の中のヘレネは非常に美しく、美しい女性の典型として描かれている。ヘレネは美しさにおいては、ヴィナスのようにも美しかったのであろうが、社会的な存在としてホーマーが彼女を描いているところをみれば、美しきヘレネは当時の支配者たちの、闘争における一人の「かけもの」のような立場におかれている。世界文学にあらわれた第一の女はそのような争奪物としての位置であり「イリアード」が字にかかれる時代には、ギリシアにも、もう家長制度というものが出来上っていたことを示している。ギリシアは自由な国であるとされ、ギリシアの文化はヨーロッパ文明の泉となったけれども、その自由、その文化は奴隷制の上に立っていた。奴隷が畠を耕し織物を織り、家畜を飼って──生活に必要な労働を負担して、ギリシアの自由人の文化生活の可能をつくり出していた。このような地下室つきの自由の上で、たとえギリシアの女の自由というようなことを言ったとしても、現実に女奴隷がその社会に存在しているからには、今日私たちの感情で理解するような本当の自由というものは存在しなかったというのが事実である。ギリシア神話そのものにも、この婦人の立場はよくあらわれていて、たとえばヴィナスは描かれ彫られ、女性の美しさの典型と考えられているが、どの彫刻を見ても、いつもヴィナスは、見られるように観賞物としての女としてあらわれている。織ものをしているヴィナスを見たひとがあるだろうか。子供を育てている普通の女の姿でヴィナスを見た人があるだろうか。キューピッドという彼女の男の子は、いつも恋の使として、金の弓矢をもってヴィナスのそばにいるとしても、ヴィナスの母としての人生、妻としての人生などは見たことがない。彼女は多く裸体で、女性の美しさを発揮しながら、必ず無為の姿であらわされている。ギリシアの生活で働かない女の美しさだけを描いたということは注目されずにいないのである。ヴィナスやヘレネのように女性が芸術の上にあらわれたというところに、人類社会の歴史にあらわれている権力の形の──婦人の悲劇の発端がある。
こうして婦人のうけみな社会的立場をおのずから反映してうけみな対象として文学に導きいれられた婦人は、ルネッサンスの時代、文芸復興期になって、どういう変化をうけたろう。
ルネッサンスは、最も早く商業が発達して市民階級の経済的・政治的実力のたかまったイタリーに十四世紀からおこりはじめた。そして、フランス、イギリス、ドイツと全ヨーロッパに拡がって、それまでの中世的な暗い王権と宗教との圧迫から、自由にのびのびと人間性を解放しようとする運動となり、社会生活と文化は全面的にヨーロッパの近代への扉をひらきはじめた時代であった。
ルネッサンスの時代が進んでからは、婦人の社会的な生きかたもひろがりをもちはじめ、スペインのコルドヴァ大学などで婦人の学者も数人あらわれた。ルネッサンス時代の豊富さ、人間性の横溢を代表する芸術家の一人としてシェークスピアの戯曲が、いつも話題にのぼって来る。シェークスピアの戯曲の登場人物は実に多種多様で、社会の現実そのもののように豊富なのを特徴としている。人間の可憐さ、狡猾さ、奸智、無邪気さ、あらゆる強烈な欲望が描かれていて、そこに登場する婦人も、決して一様ではない。マクベス夫人のようにおそろしい女から、リア王の三人娘のような諸性格、ロミオとの悲しい愛に命をおとしたジュリエットのような姫から、「ウインザアの陽気な女房たち」「奸婦ならし」の闊達おてんばな女、ハムレットの不幸な愛人としてのオフェリアなど、千変万化の女性があらわれている。
ところで、きょう私たちがこのシェークスピアの有名な傑作「オセロ」をみると、その女主人公デスデモーナの運命について、実に痛切に感じるものがある。
オセロはアフリカ生れの黒人の武将であった。勇敢な勝利者としてデスデモーナという、美しいヨーロッパの貴婦人を妻にした。ところがオセロの幕下にイヤゴーという奸物がいる。イヤゴーは単純で正直な人々の生活を、自分の奸智でかき乱して、その効果をよろこぶという、たちのわるい生れつきである。従順で、この上なく美しいデスデモーナと、黒いオセロの睦じい性格は彼の奸智を刺激した。機会をうかがっていたイヤゴーは一つのきっかけをとらえた。その不幸をオセロにうちあけないでいるうちに、イヤゴーはオセロの猜疑と嫉妬をかきたてることに成功した。黒人のオセロは、ただ良人として嫉妬したばかりでなく、一人の人間として、デスデモーナの浮薄さに自分の威厳を傷けられたことをも、たえがたく感じて遂にデスデモーナを殺し、自殺してしまう。オセロはシェークスピアの悲劇の中でも、イヤゴーの奸智、オセロの直情、デスデモーナの浄らかな愛情との点で、今日も活々とした感動を与える作品である。デスデモーナは一枚の見事なハンカチーフをもっていた。それはオセロがくれたもので、なくさないように、もしこれをなくしたら、あなたの愛も失われたと思うよ、という意味を云われて、愛のしるしとしておくられたものであった。イヤゴーの目がそのハンカチーフにひかれた。彼はもち前の巧みなやりかたで、そのハンカチーフをデスデモーナから盗んだ。そして、それはデスデモーナがそっとくれたもののように、周囲に思いこませた。
ハンカチーフを失ったデスデモーナの当惑と心配とはいじらしいくらいだのに、デスデモーナはその大切なハンカチーフがなくなったことについては、ひとこともオセロに話さず、さがすことに協力をもとめていない。
けれども、この悲劇をみているとわたしたち女性の胸は、デスデモーナへの同情にふるえるとともに、デスデモーナへの歯がゆさで煮えて来る。どうして、デスデモーナ! 良人のオセロをそれほど愛しているのなら、率直に早くハンカチーフのとられたことを告白して、その不安や困惑を、オセロとともにわかとうとしないのだろうか、と。デスデモーナは、オセロを熱愛しながら、一方で畏怖している。オセロの愛のはげしさをうけみにおそれて、これをなくさないように、と云われたその言葉の力に圧せられ、麻痺させられてしまっている。デスデモーナのこの分別のない過度の従順さ、清浄さ、無邪気さ、品のよさのために、オセロの悲劇は防ぐことが出来なかった。
ルネッサンスに、こういう作品の出来ていることを、わたしたちは意味ふかくうけとらずにはいられない。ルネッサンスは婦人の人間性も解放したけれどもその人間性は、デスデモーナにおいて、どんなにまで受動的であり、分別が不たしかであやうげなものだろう。私達の今日の常識でいえば、非常に大事なハンカチーフをなくした場合は、貴方からいただいたハンカチーフをなくしました、どうか一緒に探して下さいと告げると思う。見つからなくて、非常に叱られたとしても、そのことによって自分の愛情が変っていないこと、失くなったのは一つの災難であるということを認めてもらう。何故ならハンカチーフはものにすぎない。ここで本質的な問題は夫婦の愛の問題である。愛のしるしのハンカチーフは失われても、愛は守らなければならないし守られ得る。そこに人間の自主的で、状況をのりこしてゆく愛情があるわけである。ところがデスデモーナをみると、ルネッサンス時代の上流の婦人というものがそういうふうに自分の愛を守り自分達の悲劇を防いでゆく能力はかけていたということが考えられる。女性のいじらしさとして、男の側からデスデモーナのような性格がみられていたということにもなる。デスデモーナの悲劇は、限りないオセロへの従順さ、献身が、はっきりした判断と意志とを欠いていたために、事態を悪い方へ悪い方へと発展させイヤゴーの奸智に成功を与えるモメントとなっている。こういうデスデモーナを思うとき、私たちの心には、自然さっきのヘレネの問題につづく婦人の立場ということが考えられて来る。
ルネッサンスはデスデモーナに、皮膚の色のちがうオセロを愛させる感情のひろがりをみとめたが、その愛を完成する知性までは開花させていない。ルネッサンス時代は文学作品ばかりでなく、絵画に彫刻に雄大な作品が花と咲き満ちた時期であった。けれどもじっと見ていると、ミケランジェロの絵のなかには何か憂鬱がある。有名なバチカンの壁画など見ていると、宇宙的なミケランジェロの雄渾さとともに一種のみのがせない憂鬱がある。ミケランジェロの伝記を読むと、彼があれほどの才能を持ちながら、法王の我ままと気まぐれのためにどんなに圧迫されたかがよくわかる。ルネッサンスの半面には、まだまだ封建的な苦しいものがあり、法王と芸術家の関係にさえそれが残っていたことがわかる。
当時の法王は、ミケランジェロの才能を認めながら、自分の絶対性を信じる習慣から封建的で、ミケランジェロの芸術家としての人間性を十分認めなかった。ミケランジェロの巨大な才能と大きな人間性のなかには、いつも自分を出し切れない不安があった。丁度デスデモーナが愛と一緒にいつもオセロを恐がっていたと同じように。ミケランジェロは自分の才能と一緒に法王を恐れなければならなかった。
ルネッサンスの表は、華麗豪華な厚肉浮彫の歴史であるが、その陰の部分には封建性が濃くのこっていた。例えばレオナルド・ダ・ヴィンチのモナ・リザはどういう笑いを今日にのこしているだろうか。モナ・リザの微笑は、それが描かれた時代から謎のほほ笑みと云われて来ている。モナ・リザの笑いは、それを見つめている人の心を深くあやしく魅して気を狂わすような微笑と云われている。このモナ・リザのほほ笑みは解放された女のほほ笑みではなく、やはりデスデモーナの不安と、ミケランジェロの憂鬱につながったものであると思う。
世界的な謎の微笑をほほ笑んでいるダ・ヴィンチのこの婦人像は、唇、頬、そして眼の中でほほ笑んでいるだけで、歯をみせて嬉々として笑ってはいない。モナ・リザはじっと何か見つめている。そのまなざしは非常に深くて、こころをたたえているが、それも決して嬉しさにきらきらしている眼ではない。重い、ふっくりと美しい瞼の下の憂鬱な視線である。けれども彼女は、あんなにじっと見つめて、じっと笑いをもっている。モナ・リザ、ジョコンダの笑いの本質はどういうものなのだろう。私たちは女としての自分の心から、モナ・リザとレオナルド・ダ・ヴィンチの心情の中に迫って見ようと思う。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、この美しいモナ・リザの肖像にとりかかって数年間を費したが、到頭未完成で終ってしまった。レオナルドほどの画家が、一つの肖像画に着手して数年をかけながら、それが未完成であったというのはどういうことだったのだろう。レオナルド・ダ・ヴィンチが一応、モナ・リザを描き終ったと思う間もなく、モナ・リザの顔の上に、眼の中に、そして唇の上に、忽ちこれまでレオナルドの発見しなかった何か一つの新しい人間的な情感、女性としての美しさが閃き出たということを語っていはしないだろうか。
富貴な美しいモナ・リザを描くとき、レオナルドがどんなに心をつくして画室をかざり、音楽を奏させ、彼女をたのしくあらせようとしたかという情景は、レオナルド・ダ・ヴィンチを主人公としてメレジェコフスキーが書いた「先駆者」という歴史小説に詳細をきわめている。モナ・リザの幽玄な表情は、レオナルド・ダ・ヴィンチの限りないひろさと深さをもった知性をとおして、あのように把握されているものだけれども、あの幽玄なうちに充実している官能のつよい圧力は、決して、レオナルドの知性の生んだものではないと思う。モナ・リザの成熟した芳しい女性としての全存在には、あのように深い愁をもったまなざしでどこかを見つめずにはいられない熱い思いがあり、あの優美な手を、そのゆたかな胸におき添えずにはいられない鼓動のつよさがあったのだと思う、そして、また、レオナルドは、何と敏感にそれを感じとり、自分の胸につたえつつ画筆にうつしているだろう。描かれる美しい婦人と、描く聰明なレオナルドとの間に、いつか流れ合う一脈の情感がなかったという方が不自然である。モナ・リザは彼女の感覚によってレオナルドの知性を感じとり、レオナルドは彼のあらゆるデッサンにあらわれているあのおそろしいような人間洞察の能力で、モナ・リザという一人の女性の内奥の微妙な感覚までを把握したのであった。こういう共感が異性の間に生じたとき、これが恋愛の感情でないという場合は非常にすくない。人間同士の調和の最も深いあらわれは、こういうハーモニーにこそあるのだから。
モナ・リザは、彼女の良人に、レオナルド・ダ・ヴィンチとの間に生まれたような複雑微妙な諧調を感じていただろうか、おそらくそうではなかったろう。そして同時に、モナ・リザは、自分のなかに湧きいでた新しい人生の感覚について、それが、どういう種類のものであるかということは、自分に対して明瞭にしていなかったと思われる。さもなければ、どうして彼女の顔の上にあのように無限に迫りながら、その意志のあきらかでない微笑が漂いつづけたろう。彼女が、はっきり自分の女としての感情の実体をつかんだとき、あのような微笑は、苦痛の表情に飛躍するか、さもなければ大歓喜の輝やきに輝やき出すかしずにいないものである。
こうしてみると、ここでもまたルネッサンスの感情の姿が考えられる。モナ・リザは、自分の眼をそこからひきはなすことの出来ない快い情感をああやって見つめ、見つめて、我知らず語りつくせない心のかげを映す微笑を浮べてはいるが、ルネッサンス時代の彼女は、そのあこがれに向って行動しなかった。凝視し、ほほ笑み、そのはげしい内面の流れによって永久に一つの肖像を、未完成とレオナルドに感じさせたにとどまった。レオナルドがこの画を未完成としたこころも推察される。未完成の肖像は、その依頼者であるモナ・リザの良人の館に送られずにすむ。そして、モナ・リザは、果して、レオナルドが、それを未完成として、いつも自分の傍にとどめておくことに不満を感じただろうか。モナ・リザは、父兄の命令によってその選ばれた人との結婚をし、やがて良人の権力のままに一生を送らねばならなかったイタリーの婦人の運命を、自分の情熱によって破ろうとしなかった。ルネッサンスは、モナ・リザにああいう微笑を湛える人間的自由は与えたが、そのさきの独立人としての婦人の社会的行動は制御していたのであった。
こうしてみればルネッサンスの華やかな芸術も、その時代の人達を完全に解放してはいなかったことが明かである。
十八世紀になって、フランスではルソーのような近代的の唯物的な哲学を持った人達が現われて来た。働かねばならないという状態をもたらした産業革命は、この時代から本当に働いて、働くことだけで生きてゆかねばならない勤労大衆を産み出して今日に及んでいる。
プロレタリアの婦人というものが歴史の上に現れはじめた。この時代に、イギリスやフランスに、幾人もの婦人作家が擡頭した。十九世紀のイギリス文学では、その名を忘れることの出来ないジョージ・エリオット。ジェーン・オースティン。ブロンテ姉妹。ギャスケル夫人。フランスでは、スタエル夫人をはじめ、日本の読者にもなじみの深いジョルジ・サンドなど。そして注目すべきことは、これらの婦人作家たちがスタエル夫人のほかはみんな中流階級の女性たちであったことである。ジョルジ・サンドは、はじめの結婚にやぶれてのち、生活のために苦闘しながら、女性の権利を主張した「アンジアナ」をかいたし、エリオットも文筆からの収入で生活しなければならない婦人として小説をかきはじめた。これらすべての婦人作家が、様々のテーマを扱いながら、結局は、当時の社会が婦人の生涯に与えるフランスの絶対王権でつくり上げられ形式主義と宗教的なものの考え方に対して、人間の自然性というものを強く要求してルソーが現われた。
哲学者、教育者としてのルソーの考え方は、フランスのルイ十四世から十六世ごろまでの猛烈な専制主義に対して、人間の平等と自由独立、女も男もひとしい人間性の上に立つ自由を主張した。近代民主主義の先駆者であったルソーのほかに、ヴォルテールやディドロのような、近代思想の啓蒙家があらわれた。
一七九三年のフランス大革命によって、フランスおよび全ヨーロッパに新しい息吹きがふきこまれた。このフランスの大革命の中心人物であったマリー・アントワネットは、腐敗しきっていたフランス宮廷生活の中で、その若々しく軽浮であった一生を最も悪く利用された一人の女性であった。けれども彼女の運命は全く受動的で、歴史的にあれほど様々の角度から話題とされる生涯を送りながら、マリー・アントワネット自身は何も書かなかった。オーストリアのマリア・テレサの娘として最も高い教育を受けていたし、最も多い自由も持っていたはずだけれども。彼女の書いたものは、オーストリアの宮廷への密書だけで、ただ一篇の小詩さえかいていない。あのように小詩がはやり、貴婦人の文学熱がたかかった時代だのに。こういう例をみても、婦人の地位とか学識だけが芸術を生むものではないということが判る。
ヨーロッパ諸国の資本主義社会がその発展の頂上に近づいた十九世紀になって、ルネッサンス以後十八世紀になってはっきり方向を定めた人間解放の問題が具体化して来て、特にイギリスではどこよりも早く蒸気機関の利用による産業革命が行われ、繊維産業が非常に発達した。イギリスの婦人と子供が非常に沢山工場に働き出した。機械の力は多くの工場から筋肉の力を必要とする仕事に必要であった男を首にして、女房も娘も子供も桎梏に抗しているところは、十分注目に価する。ジョージ・エリオットは、自分が婦人だとわかると、いろいろうるさい差別待遇がおこるのをいやがって、筆名は男のジョージ・エリオットとしてさえいる。ジェーン・オースティンにしても、イギリスの中流家庭で結婚ということについてどんなに打算や滑稽な大騒動を演じるかということを、諷刺的にその「誇りと偏見」の中に書いている。われわれのまわりでも、まだまだ結婚適齢期の娘をもった母親は、時にふれ、折にふれて眼の色を変えている。食べるものも食べないようにして箪笥を買ったり、着物を拵えたり、何時でも売物のように誰かが買いに来るというように待っている。「女のくせに」ということを男だけではなく女自身が云ってもいる。十九世紀にオースティンが非常に諷刺的に書いた状態は、封建的な風習の多くのこっている日本のなかにはまだつよく残っている。同じ十九世紀に、ポーランドの婦人作家オルゼシュコの書いた小説「寡婦マルタ」を、きょう戦争で一家の柱を失った婦人たちがよむとき、マルタの苦しい境遇は、そのまま自分たちの悲惨とあまりそっくりなのに驚かないものはなかろう。
ところで日本の婦人は、歴史の中でどういう文学を作って来たのだろうか。わたしたちは万葉集というものをもっている。万葉集は当時のあらゆる階層の女の人のよい作品を集めている。女帝から皇女、その他宮廷婦人をはじめ、東北の山から京へ上った防人(さきもり)とその母親や妻の歌。同時に遊女、乞食、そういう人までが詠んだ歌を、歌として面白ければ万葉集は偏見なく集めている。日本の古典の中に万葉集ほど人民的な歌集はなかった。万葉集以前の古事記や日本書紀の中で、最初に描かれた女性であるイザナミノミコトは、古事記を編纂させた人は女帝であったにもかかわらず、それを書いた博士たちの儒教風な観念によって、男尊女卑の立場においてかかれている。
万葉集は、この歌集の出来た時代に日本の社会全体がその生産方法とともにどんなに原始的であったかということをそのまま反映している。人々は直情径行で、美しいことは美しく、泣きたい時に泣き、愛すれば心も身もその愛にうちこむ日本人の感情が現われている。万葉集をみると、当時は支配権力が決して後世のように確立していなかったこともうかがえるのである。
万葉集の時代が過ぎて文学のうえで婦人が活躍した藤原時代が来る。王朝時代の文学は、主として婦人によってつくられたということがいわれている。栄華物語、源氏物語、枕草子、更級日記その他いろいろの女の文学が女性によってかかれた。なかでも紫式部の名は群をぬいていて、「源氏物語」という名を知らないものはないけれども、その紫式部という婦人は何という本名だったのだろう。紫式部というよび名は宮廷のよび名である。大阪辺りの封建的な商家などで、女中さんの名前をお竹どんとかおうめどんにきめているところがあった。そういうふうな家では、小夜という娘もそこに働いているうちはお竹どんと呼ばれるが、宮中生活のよび名で宮中に召使われているものの名であった紫式部、清少納言、赤染衛門というのも、それぞれ使われているものとしての呼名である。紫式部が藤原の何々という個人の名前は歴史のなかへあらわれて来ない。清少納言も同様である。これまで日本歴史の家系譜の中にはっきり名が現われている婦人は藤原家も道長の一族で后や、中宮になったり王子の母となったりした女性だけである。美しきヘレネのように、藤原一族の権力争いのために利用価値のあるおくりもの、または賭けものであった婦人達だけが名前を書かれている。
源氏物語を書くだけの大きな文学上の才能と人生経験をもちながら現実の、婦人としての生活は男子なみでなかったということがよく判る。更級日記をかいた婦人も名がわかっていない。そして、この中流女性の生活をかいた更級日記には、不遇な親をもった中流女性が、不安な生活にもまれる姿が優美のうちにまざまざと描かれている。枕草子は非常に新鮮な色彩の感覚をもっている。青い葉の菖蒲に紫の花が咲いているのを代赭色の着物を着た舎人が持って行く姿があざやかであるとか、月の夜に牛車に乗って行くとその轍の下に、浅い水に映った月がくだけ水がきららと光るそれが面白い、と清少納言の美感は当時の宮廷生活者に珍しく動的である。感覚の新しさはマチスに見せてもびっくりするであろう。十一世紀の日本の作品とは信じまい。その清少納言という人は誰だったろうか、そして、どうなって一生を終ったかということも判らない。文学の歴史の中にさえ普通の個人の婦人の生活は残っていない。そのような当時の社会のなかで清少納言、紫式部そのほかの婦人がそのように文学作品を書いたという動機は何だったのだろうか。藤原家の権力争奪は烈しい伝統となっていて后や中宮に娘を送りこむときその親たちは、政治的権力を社光的場面で確保するために文学的才能のある宮女をその娘たちの周囲においた。装飾と防衛をかねて。その女主人を飾り、優秀な宮女の名声によってその女主人の地位をも高くたもつために紫式部にしろ、清少納言にしろ、傭われていた。そしてまた、更級日記をみてもわかるとおり権門に生れず、めいめいの才智でよい結婚も見出してゆかなければならなかった中流女性にとって、宮仕えは一つの生きる道でもあった。源氏物語の「雨夜のしなさだめ」は、婦人の一生をみる点で紫式部がリアリストであったということを証明している。当時の貴族社会の男の典型として紫式部は光君を書こうとした。今日からみれば、とりとめない放縦な感情生活のなかにも、なお失われない人間性というものがありたいということを彼女は主張した。
当時は風流と云い、あわれにやさしい趣と云って、恋愛も結婚も流れのうつるような形で、婦人は隷属せず行われたようでも現実には矢張り男の好きこのみで愛され、また捨てられ、和泉式部のような恋愛生活の積極的な行動力をもつ女性でも、つまるところは受けみの情熱におわっている。紫式部のえらさは、文学者として美しいつよい描写で光君を中心にいくつかの恋愛を描きながら、一貫して人のきずなのまこと、まごころというものを主張しているところだと思う。「末つむ花」のような当時の文学のしきたりから見れば破格の面白さも、その点からこそ描いた源氏物語には女のはかなさというものへの抵抗が現われている。紫式部は決して、優にやさし、というふぜいの中に陶酔していなかった。
藤原時代の栄華の土台をなした荘園制度──不在地主の経済均衡が崩れて、領地の直接の支配者をしていた地頭とか荘園の主とかいうものが土地争いを始めた。その争いに今ならば暴力団のような形でやとわれた武士が土地の豪族の勢力と結んで擡頭して来て不在地主であった公卿を支配的地位から追い、武家時代があらわれた。やがて戦国時代に入る。ヨーロッパにルネッサンスの花が開きはじめた時代から日本が武家時代に入ったということを、私たちは忘れてはならないと思う。この事実は明治維新に影響し、今日の日本の民主化の問題に重大な関係をもっているのである。
武家時代に入ってからの婦人の生活というものは実にヘレネ以上の惨憺たるものであった。女性は美しければ美しいほど人質として悲惨だった。人質としてとられ、又媾和的なおくりものとして結婚させられる。戦国時代の婦人達の愛情とか人間性というものがどんなにふみにじられたかということは細川忠興の妻ガラシアの悲壮な生涯の終りを見てもわかる。明智光秀の三女であったおたまの方はキリスト教を信仰してガラシアという洗礼名をもっていた。石田三成が大阪城によって、徳川家康に反抗しようとしたとき、徳川の側に立っていた細川忠興の妻であり、秀吉によって実家の一族を滅された光秀の娘であるガラシアは、大阪城へ入城を強要されたのを拒んで、屋しきに火をかけて、老臣に自分を刺させて死んだ。三十六歳の短い生涯の間に、おたまの方は、武門の女の人生の苦痛を味わいつくして、その生をとじたのであった。
この時代には文学の創造者としての婦人は存在し得なくなった。この時代の特色ある文学として現れた謡曲の中に婦人は描かれるが、それは例えていえば物狂い──気狂いとか、愛情の絆によって、生きながら生霊となり、また死んでも霊となって現れるような、切ない女の心に表現されている。当時の婦人はどんなに自分達の希望を殺して生きていたか、また殺させているという暗黙の恐怖が男たちの意識の底を流れていたかが解る。物狂いと云い、生霊、死霊と云い、そこでは普通でない人間に対する怖れがある。謡曲は僧侶の文学とされている。女のあわれな物語を、現代の闇商売で有閑的な生活に入った人々が唸っているのは、腹立たしく滑稽な絵図である。
徳川家康が戦国時代に終止符をうって江戸の永くものうい三百年がはじまった。この時代の婦人の立場は「女大学」というもの一つを取上げただけで十分に理解することが出来る。徳川三百年と云えば、ひとことだけれども、そこから尾をひいていて今日私どもが解決しきっていない沢山の封建性についての問題がある。支那の儒教の精神を模倣して、封建時代には絶対に家が中心問題とされた。家風にあわざるものは去る。子供を生まねば去る。嫉妬ふかければ去る。七去の掟ということが貝原益軒の「女大学」のなかに堂々とあげられている。妻たるものは早く起きて遅く寝るべきである。女は食物におごってはいけない。この貝原益軒が養生訓をかいて、男の長寿のための秘訣をくどくど説明しているのを見くらべると、私たちは心からおどろかずにはいられない。眠り不足で栄養不良で体のつめたい女に、子を生まなければ去る、というむごたらしさはどうだろう。子のないのを女のせいばかりにする人にどうして養生訓がかけただろう。
徳川時代の文学者としては近松門左衛門にしろ、西鶴、芭蕉にしろ、文学的にはずっと劣るが、有名ではある馬琴だとかが出ている。けれども婦人作家は一人もこの三百年間に出ていない。辛うじて俳句の領域に数人の婦人の名が記されているにすぎない。親や兄、良人、また息子に服従しなければ生きてゆく道がない。自分の意見で生きられない。男が殿様の命令を絶対のものとして服従しなければならなかったとおり、女は男に服従しなければならない時代に、その婦人に文学が書けるはずがない。武士階級にも文学は創造されなくなった。戦さの間には深くものを考えてはいけない。この軍事的教育はついこの間までの日本にも怪異のように存在した。頭を切り取ったその代りに鉄兜をのせられたような人間の生存で、どうして文学という人間らしいうちにも人間らしい創造が行われよう。自分が自分の心の主人であることさえ認められない時代には、それがいつであっても文学は生れない。
芭蕉はどういう境遇のものだったろうか。彼は下級武士で、やがて武士をやめて俳諧の道に入った。芭蕉の風流というものの規準が極端に小さい経済的基礎の上に立っていることは、意味ふかいことである。芭蕉は、小舎の柱に一つの瓢箪をつるし、そのなかに入れた米とそのほかほんの僅かの現世的経済の基礎を必要としただけで、権力のための闘いからも、金銭のための焦慮からも解放された芸術の境地を求めた。それは芭蕉の時代にもう武士階級の経済基礎は商人に握られて不安になっており、したがって武士の矜恃というものも喪われ、人にすぐれて敏感だった芭蕉に、その虚勢をはった武士の生活が堪えがたかったことを語っている。
大きな商人の隠居だった西鶴はまた違っていた。西鶴が経済的な面で大阪の当時の世相を描き出した短篇「永代蔵」その他は芭蕉と全然違ったリアリティーをもっている。武士出身の芭蕉が芸術へ精進した気がまえ、支那伝来の文化をぬけてじかに日本の生活が訴えてくる新しい感性の世界を求めた芭蕉の追求の強さ、芭蕉はある時期禅の言葉がどっさり入っているような句も作った。その時代を通過してから芭蕉の直感的な実在表現は、芸術として完成された。芭蕉の弟子には婦人の俳人もあった。が女の生活は、たとえ彼女が俳句をつくろうとも、徳川時代の女に求められているすべての義務を果したうえで辛うじて風流の道のためにさかれなければならなかった。芭蕉の芸術のように精煉し圧縮し、感覚をつきつめた芸術の道が、そのような女性の生活ではなかなか歩むにかたいことであった。家事に疲れた僅かの時間を行燈のもとでひっそりと芸術にささげるのでは、女の才能が伸びる可能もまことにおぼつかない。
近松門左衛門は封建の枠にしばられなくなった武家、町人などの人間性の横溢をその悲劇的な浄瑠璃の中で表現した。そして、当時の人々の袖をしぼらせたのであったが、ここには様々の女性のタイプがその犠牲や献身や惨酷さにおいて扱われている。しかし、近松や西鶴に描かれた女性は、自分で自分たち女性の声をかく能力はもたなかった。当時社会のきびしい階級、身分制度によって動かすことの出来なかった堰で、互の人間的発露を阻まれた男女、親子、親友などのいきさつが浄瑠璃者の深情綿々とした抒情性で訴えられている。義理と人情のせき合う緊迫が近松の文学の一つのキイ・ノートであった。近松門左衛門の文学に描かれた不幸な恋人たちは、云い合わせたように心中した。幕府はあいたい死にを禁じていたにもかかわらず、この世では愛を実現出来ない男女が、あの世に希望をつないで死を辿った。
このような哀れな人間性の主張の方法は、決して明治になってからも、日本の社会から消えなかった。そして今日では恋愛から心中しないけれども、生活難から心中する親子が少くなくなって来ていることを私たちは見ているのである。
さて、日本の歴史は明治に移った。明治維新は近代のヨーロッパ社会に勃興した市民階級(ブルジョアジー)が封建社会に君臨した王権を転覆し歴史を前進させた革命ではなかった。日本のブルジョアジーが薩長閥によって作られた政府の権力と妥協し、形を変えて現れた旧勢力に屈従することによって資本主義が社会へ歩みだしたという特殊な性格をもっている。新しい明治がその中にどんな古さをもっていたかということは樋口一葉の小説にも現れている。一葉の傑作「たけくらべ」は、たしかに美しいと思う。雅俗折衷のああいう抒情的な一葉の文章も古典の一つの典型をなしている。
樋口一葉は二十五歳の若さでなくなっている。彼女がはじめて小説を書こうとしはじめたとき、その相談のため半井桃水という文学者との交渉があった。樋口一葉ほどの才能のある女が、桃水のような凡庸な作家とどうして親しくなったかということが、研究者の間でよく話題にされる。小説「雪の日」の題材となる雪の日の日記があって、それを見ると半井桃水は樋口一葉と同様に貧乏であったことがよくわかる。一葉は当時上流人を集めていた中島歌子の塾に住みこみの弟子のようにしていたが、わがままな育ちの若い貴婦人たちのなかで彼女がどんなに才能をねたまれ、つらいめを見ていたかということは、こまかい插話にもうかがわれる。貧乏というものは口惜しいものだということを一葉は日記の中で書いている。半井桃水が借金に苦しめられて居どころをくらまして、小さい部屋にかくれ住んでいる。そこへ一葉は原稿を読んでもらいにもって行く。貧乏な生活が一葉の現実である以上、それをむき出しにしている半井桃水を自分の仲間、一番近い男だと感じたことがうなずける。生活の現実の類似。貧しい仲間だという気持。それが強い動機となって一葉は桃水に親しみを覚えたにちがいない。ところが桃水との交際を中島歌子から叱られる。一葉は桃水との恋などとは思いもよらないことだといって、桃水とのつきあいは絶ってしまった。桃水とつきあいのあった間、樋口一葉に恋の歌は一つもなかった。実際に桃水とのつきあいをやめて、もう誰も自分の身を非難する人がないというようになって樋口一葉はやっと封建的な圧力からぬけて恋の歌をよんでいる。それもどっさりあふれるように、恋の歌をつくっている。これは、明治という時代にあらわれた一つのデスデモーナのハンカチーフだと思う。
ここに一葉の生きていた明治十九年という時代の封建性の強い性格が私たちに多くのことを語っている。この明治十九年という年を世界の歴史でみれば、アメリカで第一回のメーデーが行われた時代であった。そして、はじめて八時間の労働、八時間の教育、八時間の休養を世界の労働者が要求してたった時であった。明治二十三年に日本では、それまでの自由民権運動を禁圧して、専制権力の絶対性を擁護した。この年に世界の国際メーデーがはじまっている。私たちはこんなにヨーロッパ、アメリカとはずれた歴史の本質の上に今日の歴史をうけついでいるのである。一葉の「たけくらべ」は封建的なものと、藤村などによって紹介されはじめていた近代ヨーロッパの文学にあらわれたロマンティシズムの影響とが珍しい調和をもってあらわれた一粒の露のような特色ある名作である。
明治も四十年代に入ったころ、平塚雷鳥などの青鞜社の運動があった。封建的なしきたりに反対して女も人間である以上自分の才能を発揮し、感情の自主性をもってしかるべきものと主張した。田村俊子の文学は明治の中葉から大正にかけて日本の女がどういう方向で独立を求めたかという段階を示している。田村俊子の人間としての女の感情自由の主張の中には、きょうの目からみると非常にはきちがえた素朴な男女平等の考えかたがある。男のするようなわがままは同じ人間である女もしていいものだし、男が煙草を吸うなら、女だって吸ってあたりまえ、というように、男が中心をなして──つまり封建的な社会的風習を批判せず、ただ男がやっているのなら女もする、という考えかたの限界をもっていた。本質的な発展というものが見られていなかった。それにしても婦人が人間としての自分を主張しはじめ、次第に婦人の経済的独立の必要に理解をすすめてきたという点で明治末期から大正にかけての婦人解放運動は意義をもっている。
昭和のはじめ第一次世界大戦後の各国の社会主義運動の擡頭につれ、日本にもプロレタリア文学運動がはじまった。その時代になってはじめて婦人の社会的地位の向上や婦人解放の課題は、その国の大衆生活全体の地位の向上と解放の実現とともに解決される問題であるということが明瞭になった。男に対して女も、という性の対立の問題ではなくて、勤労する大衆の男女がおかれている社会的地位と搾取する階級との間におこっている近代社会の階級の問題であることが理解されて来たのであった。
プロレタリア文学は文学の分野で、はじめて、おくれた資本主義日本の封建的ののこりものの多い社会機構の中で、文化はどういう歪みを強いられて来ているか、婦人はどうして文学創造の能力を低められているかということを追求し、明白にしはじめた。婦人大衆が社会の現実の中で持っている条件、その不幸な社会的な条件の由来するところ、その不幸や不平等は女を苦しましているとともに、男も不幸にしているということを発見したのであった。それまでの小説には書かれていなかった人民の声、訴え、そのよろこびとかなしみ、未来への希望が書かれ、表現されなければならない。女の胸の中に埋められて来た訴え、語られるべき物語、要求と希望とを発表する能力をやしない、その機会をつくって行ってこそプロレタリア文学は本当の意味で婦人の文学を肯定することになる。
昭和のはじめ、日本の歴史のなかにプロレタリア文学運動があったことは、明治維新に解決し残した沢山の社会的・文化的の矛盾をはじめて近代社会科学の光のもとに、整理し解決しようとしたことであった。婦人と社会・文学の問題を、全人民の半分である女の幸福、創造力の発展としてとりあげた。この時代に新しい素質の婦人作家があらわれはじめた。今日作品を書いている佐多稲子、平林たい子、松田解子、壺井栄など。これらの婦人作家は、それまでの婦人作家とちがって、貧困も、勤労の味も、女としての波瀾も経験した人々であった。そういう人達によって、本当に社会矛盾を認識し、人間として伸びようとする女性の声が文学のなかへ現われはじめた。
プロレタリア文学運動が順調に発展していたならば、今日、日本の新しい民主主義文学というものも、よほどちがった明るさに照らされたろう。ところが日本の支配階級が、大衆の進歩性を抑圧することは実に烈しく、特に最近の十余年間は、全く軍事目的のために民衆の意志を圧殺しつづけた。プロレタリア文学というものは、結局新しい社会的発展を求めて、半封建的なブルジョア社会の矛盾と桎梏とを、否定する方向をもつから、軍事的な日本の専制支配権力が、それをうけ入れよう筈はない。人民解放のための全運動とともにプロレタリア文学も殺された。女も率直にものをいいはじめた。ほっておけば、考えも、いうことも、行動も大人になる。男につよい影響を与える女の心と言葉、動きをいまのうちにふさごう。手足を押えようと、解放運動とともに、婦人がほんとの自立にすすむことを否定されてしまった。こうして圧殺されてしまった長い年月が一九四五年の八月十五日までつづいたのであった。
戦時中、少年であり青年であった人々は、どういうふうな生活をして来ただろうか。そのなかには、特攻隊へ連れ出された人もあったろう。徴用でいろいろな職場で働き、学徒動員で、生涯の目標を挫折された人も少くなかった。家を焼かれ、肉親と生活の安定を失った人も沢山あるだろう。めいめいの人生に、深い深い傷を受けて、そうして戦は終った。
民主的な日本にしなければならないというポツダム宣言を受諾した。日本の人民を解放し、民主社会にしなければならない責任を、いまの政府は世界から負わされている。云わば、その責任の故に存在を許されている。ところが、今日において民主的な文学というものへ、どれだけの若い新しい作家がおくり出されて来ているだろうか。自分は新しい日本とともに生れ出た新しい作家であると、そのように生々として、新しい作品をもたらす人はいたって少い。ここに今日深刻な問題がある。
今日の二十四五歳から三十代の人々は、男女ともに戦争のなかった時代の日本の青年たちとは、くらべものにならないほど多くの人生の経験をもっている。自分の生命を、一たん否定して闘っても来ている。餓死する人間も見たであろうし、その人たち自身、栄養失調で這って帰って来たかも知れない。何故そこから新しい文学が生れないのだろうか。歴史的な野蛮行為のなかにまきこまれて、苦悩し、ひそかに泣き、人間らしさを恋うた心が一つもなかった、とどうして云えよう。それだのに、何故それを書いた小説は出ないのだろう。これほど愛を破壊された婦人がいるのに、何故その声がほとばしって来ないのだろう。これこそ、きょうの私どもの実に大きな問題であると思う。
文学が書かれるには、現象の記憶があるばかりでなく、自分がそれをどう見るか、どう考えるか、そこから何を受けとったかという一つの経験に対する複雑な人間的摂取を経なければならない。そこから小説は生れる。もしただ肉体で経験しただけで文学が出来るなら、あんなに苦しい思いをして三度も子供を産んだ婦人はだれでもそれについて立派な小説が書けるはずだとも云えよう。ところが肉体的な経験からだけではどんな小説も出来ない。平和的な人民の一人として、あの戦は本来どういうものであったか。日本の大衆の誰もが戦争の可否について議論し、一票を投じ、決心して参加した戦であったなら、その歴史的意義と個人の運命への影響を反省もし、そこから人間らしい何かをくみとることも可能な経験だったろう。ところがそうではなかった。頭から脳髄をとり、心臓をつぶしてしまって、ただ一つの忍耐という形の中に男も女も干しかためられてしまった。その石にされた心臓、そして脳髄をすりつぶされたような頭に鉄兜をつけて、毒瓦斯マスクをつけ、そしてみんなが運命を賭し、生命を賭した。日本の婦人は、世界の婦人がそれを信じかねるような程度まで自分の愛情さえ主張することが出来なかった。この状態に対してわたしたちはどう抵抗出来ただろうか。権力で戦争に引張り出されるか、さもなければ戦争はいけないという人間として牢屋に引張られた。このなかに云いつくせない惨酷を自分の意志で踏み込んだ経験としてではなく受取った。私どもは人間として誇るべき何ものもない戦に追いたてられた。全く家畜のように追込まれた戦争で、自分たちを犠牲にして来ているために、殆ど夢中で体だけで苦しさに耐え、文学をつくるところまで精神を保っていることが出来なかった。あの当時は女も男も夢中で生きていた。あまりに受身で過ぎた。民主主義文学への翹望は高いのに、何故戦争に対する人民としての批判をもった文学、婦人が母親として、愛人として、また婦人に対して重荷の多い社会の中で経済的に自分が働いて家の柱となって来たその経験について、女の人が文学を書き出さないか。この原因は、今日になってみればただ経験の仕方があまり受けみであったばかりでなく、戦後の生活に安定がもたらされていないということに重大な関係がある。戦争で蒙った心の傷をいやし、文学を生み出してゆけるような生活のみとおし、勤労による生活の確保が失われている。二三ヵ月に物価がとび上るインフレーションは、一人一人の経済を破滅させているとともに、婦人の社会的生活、家事の心痛を未曾有に増大させている。先ず、生きなければならない。生きてこその文学である。文学は逆に云えば、最も痛烈な人間的生の発現である。
私どもはここで、一つの現実的理解に到達した。文学の発展にはそれにふさわしい社会的な基盤が必要であり、勤労階級の生活の安定の要求は全くぴったりと私たちの人間らしい文化の要求と一体のものであるという事実である。改正された憲法は男女を平等としている。しかし現実の生活で男女の労働賃金は同一でない。男女はひとしく選挙権も被選挙権もあるといってもその土台になる経済的・社会的生活のひとしさはまだまだ実現していない。労働組合や、すべての民主勢力が要求している賃金、待遇改善の問題、家事の社会化の実現などは、婦人の二十四時間の内容を男の二十四時間の内容と、おのずからのちがいはありながらも、その社会的質の高さでは等しくしてゆくために、絶対に必要な前提条件である。
あらゆる文化の基本になる教育についてみよう。憲法は、すべての人は教育を受けることが出来るといっている。だが今日、毎日ちゃんと通学している学生が、殆ど有産階級の子弟だということは、民主日本の建設にとって、どういう重大なマイナスであろう。学生も食うために闇屋さえやっている。憲法で云われているだけでは駄目である。実際の可能を作って行かなければ、教育の民主化という問題は甚しい欺瞞となる。
すべての人は働くことができる。そうであるならば最低限の生活の安定がその勤労によって保たれ、勤労人民としての社会保護が確保されなければならない。そのような全人民の社会的な生きかたの要求、その実現の努力とともに、民主文学の可能性も拡大されるのである。労働時間と賃金の問題は、人民にとって、人間的生存の問題であり、文化の問題でもある。人間であれば時間によって命をきざまれている。その時間をその人と社会の幸福のためにつかうか、搾取の対象とされるかでは、本質的な運命のちがいが起る。これを否定するものがあるだろうか。
こういう文化・文学の問題にふれて六・三制の問題を、見直す必要がある。日本の国民学校六年の卒業生の実力が四年修業程度しかないことが、アメリカの教育視察団によって報告された。民主日本建設のために人民一般の知能水準の向上のために義務教育の年限を長くしなければならないとされ、文部省は六・三制ということをきめた。九年の義務教育と云わず六年と三年を分けて六・三制と考えている。何故一まとめに九年制といわないのだろうか。九年制にしてどの子供もその間は勉強出来るように国庫がその保証をしてやらなければこのインフレーションの中で月謝を払い御飯を食べさせ学用品を買ってやるということは益々貧困化して来ている親の多数にとって負担である。
文部省にこの実状がわかっていない筈はないのに、六・三と分けて、後の三年は通信教授だけでもいいということを法文化しようとしている。あとの三年は実際に学校へ行かないでもただ通信教授をうけただけで義務教育は終ったということになる。第一、初等中学三年という新しくふえた生徒のために学校が足りない、教師がない。教科書さえそろわない。しかも一応六年を終った年ごろで親の役に立つようになった子供は買出しの手つだいにも行ったりして困難な日々のやりくりにまきこまれ時間がない。戦災者、復員者、引揚者みんな困窮している人々は六年を終った子供を生計のための助手にしなければやりきれない場合が多い。工場へなり給仕になり店員になりやってせめて喰べるものだけは、何とかして雇主にもって貰いたいという非常に切迫した要求がある。現に職人のところで使われる小僧さんの姿が目立ってふえて来ている。ブリキヤとか大工とか。労働基準法では少年の労働について保護的な規定をもうけているし、労働組合が青少年婦人の待遇改善を要求している。生活必需品の値上げについて賃上げ要求をして七百円から千五百円になり、千八百円ベースの今日、物価はぐっと高くなり公定価も上って、とても千八百円ベースではやって行けなくなっている。つつましく暮して四人家族で五千六百円ばかりかかる現実となった。大学生一人二千五百円もなくてはやれない。あとの三年は通信教授でもいいということになれば郵便のとどくところならば、どこにいても義務教育は完了されるというわけだろうか。学校へ行けないで生活のために工場へやられ職人の内弟子となった子供達に、どんな勉強のゆとりが与えられるだろう。
婦人の問題として繊維産業をみると今日の婦人労働の最低のありさまがよくわかる。どこの紡績工場でも、大体寄宿舎制で、そこに国民学校六年を終っただけの十四五から二十歳前の娘が、何万人と働かせられている。喰べるものは会社で賄って、働いた給料は、すべての紡績工場で、ほとんど全額を娘さんにわたすところはない。その何パーセントしか渡さない。会社で積立てている。四国の郡是という工場では、去年の秋ごろ、二百三十円前後の収入というのが一番多かった。何百、何千、何万の娘たちの給料の半額を会社で預って、預った金を一ヵ月間会社のために流用するなら、その金融的効力はどのくらいだろう。六年制の国民学校を出ただけの、子供のような女工さんには、こまかい話はしても判らない。会社は若い娘の夢をもたせるために、工場の建物を白く塗って、きれいな花壇をつくったり演芸会をしたり、工場の内に女学校の模型のようなものをおいて、お茶や、お花などをやらせている。その若い娘たちの文化水準が、とりも直さず、日本の婦人の文化的水準の基礎となっている。最も労働条件のおくれた日本の紡績産業に働く娘さんたちのもっている最低の文化的水準が、日本の民主的文化水準の底辺なのである。
人民の文学、民主的文学の課題はここから第一歩の出発をよぎなくされている。六年間の義務教育で四年の実力しかなかったのだから、六・三制で六年だけ出た若い人が四年修業者だということは明瞭な事実である。智能の低い、考え判断する能力を与えられていない人民の多数が、自分たちの貧困を克服するために、組織的に行動するよりもアナーキーに陥り、選挙権をもっていてもどういう政党に投票してよいか分別もつかないで、資本主義の搾取というものに疑問をもたない人間として育ってゆくとしたら日本の民主化というようなことは実現しないどころか、政府の無力のため或は無力であることを標榜するより深刻な打算によって、人民大衆は、全く奴隷化した状態におとされてしまわないものでもない。自分の国の政府によって、人民が隷属の立場に追われるようなことを誰が承服出来よう。
このような現実を現実として見て、それを改善の方向に導こうとする意志。それこそ今日の日本人民にとって生きている文化性であり、文学の内容であり、その素材である。今日の文学は芭蕉の風流より、もっと社会的要素において深刻であり、客観的必然に立っている。
愛情の問題においてもデスデモーナのハンカチーフは捨てられなければならない。婦人の生活も、自分の支配者である男のために、女らしさを粧うのではなく、ほんとうに人民の幸福をうちたててゆく道で互に頼りになる男女として、ほんとうに女らしく生きられる条件をつくり出してゆく情熱でなければならない。のぞましい社会の招来のために、その建設の方へ一歩一歩と前進の旅をつづけなければならない。そこに新しい世代の詩があり、歌があり、文学があり、また行進曲があるのだと思う。
文学は何か現実生活とはなれたもののように考えられている習慣があったけれども、決してそうではない。文学は一つの歴史的・階級的な行動であると云える。行動は生存の意義のために、発展の方向を持つことが当然である。わたしたちはこの多難な社会生活の間で自分の爪先がどっちを向いているかということを知ることが大切である。文学に大切な個性ということも、つまりは社会と、そこに存在する階級と自分とはどういう関係にあるかということを理解し、その関係にどう積極的に働きかけてゆこうとしているかという現実のうちに個性はきたえられる。われわれの一歩は、われわれの一生にとってかけがえのない一歩である。私たちは生きる権利をもっている。良心にしたがって、あることを肯定し、あることを拒絶し、社会と自分のために労作し、生を愛するうたを歌う権利がある。その権利を知り、実現する義務をもっているのである。
文学につれてよく才能ということが云われる。わたしは才能ということにふれて語られている一つの忘られない言葉をここにしるそう。
「すべての才能は義務である。」
底本:「宮本百合子全集 第十三巻」新日本出版社
1979(昭和54)年11月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十一巻」河出書房
1952(昭和27)年5月発行
初出:「女性の歴史」婦人民主クラブ出版部
1948(昭和23)年4月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年4月23日作成
青空文庫作成ファイル:
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