「保姆」の印象
宮本百合子
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「保姆」いろいろの意味で興味ふかく観た。シナリオを書かれたのが厚木たか氏という女性であることも、そしてこのひとは以前「文化映画」を翻訳しておられることも、こういう種類の記録映画の制作に何となし期待させるものがあったと思う。
シナリオを書くのも随分根気よく保育所の毎日の生活を一緒に経験しつつ、作られて行ったときいている。
勤労の生活をしている両親の子供たちを、保育する仕事をとおして、母親の再教育へという保育所の成果を、ありのままの瞬間の中にとらえて物語ろうとした制作者たちの意図は、熱意も十分感じられ、かなりまで表現されていたと思う。
保育所の界隈の街の様子、往来に溢れている生活、それから家庭の中へ、親たちの仕事場のまわりへまでカメラが動いて行った深さは、よかった。
こういう縦の追求は「保姆」に非常に生活的な奥ゆきを与え、描写そのものがみるものにたくさんの人間生活の課題を暗示して、真面目な芸術性をもゆたかにしていると感じた。
一つ二つの場面をのぞいただけで全部が保育所の一日からのスケッチで制作されているということも独特な活々した味を与えているのだが、私ひとりの感じでいうと、或る箇所ではもう少しその対象にカメラが粘って観せてくれたら、さぞその面白さに堪能するだろうと感じられたようなところがいくつかあった。例えば小さい子供たちが、初めて提灯の切りぬきを習っているところ。一人のくりくり頭の男の子が、一心不乱に口を尖らせて切りぬきをやりはじめる。それを見ている私たちは、思わず自分たちまで口をとんがらしながら笑いを湛えて観ているのだが、子供の作業としてもまだそれが終りにも近づかないうち、従って、私たちの親愛な笑いや罪なさにかえったような心持が自然のリズムで推移しはじめるより早く、カメラはその対象から離れてしまう。呼び醒まされた一定の感興はそのために中絶され、何となし物足りなさが残される。感傷的に一つ一つの子供の顔の面白さに足をとられてゆくことは不必要だろうけれど、その瞬間の対象とそれをみるものの感情とがもとめるだけのゆとりは計量されなければならないのではないかしら。もっとも人によって、感性のタイプにちがいはあるだろうけれど。私にすればああいうところをもうすこし悠々とみせて欲しかった。
この切り抜きを習う場面と、鋏を使う面白さを覚えたばかりの子供が家へかえると何の切りぬき絵も持っていないところから、母さんが縫ったばかりの着物をジョキジョキとやって、母親はそれを悪戯として当惑し、保姆はああ本当に鋏を使いはじめたことお知らせするとよかったんですね、と実際から教えられる一つの插話は、この映画にとっては本質的な問題がそこにあらわれたものだったと思う。単なる插話という以上の子供と大人の生活のいきさつが圧縮されて出ているので、こまかに事柄を追ってみれば、ここに叱る母の無理なさ、つい鋏でジョキジョキやってしまった子供の邪気なさ、その家ではその頃子供に切りぬき絵を買ってやることに心づかないでいる庶民ぐらしの肌合いというものが、まざまざと出ている。
保姆はあのきずものになった着物を眺めて、子供が鋏を使いはじめたことを母親に知らせるべきだったとだけ云っているけれど、この現実のいい機会に、子供の遊びが大人の世界でのいたずらに辷りこむ微妙な関係の説明はされなかった。別の場面の母さんの会では、子供の叱りかたについての質問が出されていて指導者は叱りつけるより先に先ず母がその子がそれをしたわけを考えるようにと教えている。その質問も答えも、質問と答えとの限りでされているのだが、もし、あの切抜き遊びと着物を切ったいたずらとの場面で、その叱りかたの生きたモメントが展開されたらどんなに啓蒙的な効果があっただろう。
制作者たちが、この場面を、一つの插話なみにしか扱わなかったのは残念だった。保姆は、母親に切り抜き絵を買ってやれというには及ばないので、何か切ってもいい紙をあずけてやるんですねと一言方向を示せばいいのだろう。鋏を使っていることを知らせるんでしたねと保姆が云えば、ほんとうに、そうと知れば鋏をとりあげておいたのに、という方へ頭が働く。これまでの大人のそういう習慣を、果して観衆の全部が自分のこととして反省するところまで行っているだろうか。
切り抜き絵の插話が、一插話として軽く扱われたから、自然保育所での光景と家で母親が着物をひろげて見せる場面との間の脈絡に特別な注意が払われることがなかったわけでもある。
「保姆」ではカメラがつつましい洋服屋さんの仕事台のまわりや、さっぱりと掃ききよめて淋しいほど何もない母さんの家の座敷まで歩くのであるが、その家庭の姿の語りかたにそのカメラそのもののはにかみのようなものが感じられて、様々の感想にうたれた。たとえば洋服屋さんの仕事場にカメラが入って行く。そこには子供の父さんがいる。母さんも働いている。おとなしい日本のカメラは律儀にその人々にお辞儀をして、早口にものを云って、さっさときりあげて出て来る。ああここにはこういう生活がある、とその生活の姿に芸術の心をつかまれてグルリ、グルリと執拗にカメラの眼玉を転廻させ、その対象となる人々も、さて、これが我々の生活だ、どうぞ、と腰を据えている重厚さは、まだまだああいう場面に滲み出して来ていない。
けれども、今日として、ともかくあすこまでカメラが進み出したことには見のがせない価値があるのだと思う。少くともあの保育所の人たち、子供たちその親たちは、あの経験を通じてカメラを余程自分たちの生活に近いものとして感じることに慣らされたにちがいない。
記録映画の情熱と美は、畢竟、制作者がそこにある対象そのものの客観的な表現力として自身を自覚する強さと、対象となる人々が自分たちのものとしてカメラを信頼する強さとにかかっている。
結果的には、写される人々のカメラへの全然の無頓着、冷淡さも画面としてはやはり或る面白さをもたらすだろうけれども、文化映画の本来の志望が、制作のための制作でないことを考えれば、永い将来のうちに、人々がいろんな場面で、自分たちの表現手段としてカメラを感じるように導かれ育てられてゆくことは、文化映画を制作する人々に課せられた、もう一つの任務でもあろうと思う。
「保姆」という題は、何かで厚木氏がふれておられるように、子供とその母を育てるという眼目をもうすこし広い形で示すものであった方がもっとよかったかもしれない。こういう性質の映画の明日の可能性を期待させる一つであったと思う。
底本:「宮本百合子全集 第十二巻」新日本出版社
1980(昭和55)年4月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房
1952(昭和27)年10月発行
初出:「日本映画」
1941(昭和16)年10月号
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2003年2月13日作成
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