作家と時代意識
宮本百合子
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作家が時代をどう感じ、どう意識してゆくかということは、文学の現実としてきわめて複雑なことだと思う。
たとえば、藤村が「破戒」を書いた前後の事情を考えても、作家と時代の見かたというものは決して単純な関係でないことを考えさせられる。三十三歳だった藤村が最初の長篇小説「破戒」をかきはじめたのは明治三十七年で、年譜をみると、「日露戦争に際会した。当時の出版界と著作者との関係に安じられないものがあって、自費出版を思い立ったのもこの年であった」とかかれている。『戦争文学』という雑誌が発刊されたり、小波の「軍国女気質」泉鏡花「満洲道成寺」という珍妙な小説が出たり、そういう世間の空気のなかで、出版界は、藤村の書く地味な小説などに興味を抱かない時代だというのが、藤村のその時代への感覚の一面であったのだろうと思う。
さりとて漱石のように「吾輩は猫である」の諧謔諷刺や「倫敦塔」の幻想のなかへ身を置こうともしないで、やはりこつこつと「破戒」を書きつづけて行った藤村の心の底には、そのような野暮を敢てする芸術家としての時代への意識があったわけで、その意識は、創作の現実としては作品のテーマとその表現方法への確信として自覚されていたのだと思われる。時代に対する作家の意識は、世相への投合としてあらわれるよりも、常に、世相のよって来る時代の性格に対して示される作家の文学的な態度としてあらわれるのは意味ふかいところだと思う。
世相的、風俗的作品として、あれこれの小説が時代のただの反射として書かれていたとき、藤村は水面の波としてあらわれるそれ等の現象の底まで身を沈めて、日本のその時代を一貫する流のなかにあった寒流・暖流の交錯の悲劇にまでふれようと試みたのであったと考えられる。時代への意識というものが少くとも文学との関係でとりあげられる限りは、刻下の題材を書くか書かぬかという現象のもう一歩奥に歩み入って、それが何故どのように書かれたか、或は書かれなかったかという点にまで迫って観察し、考えられなければならないものだろう。
だから、藤村の「破戒」の場合にしろ、当時における日本の作家の時代意識について理解しようとすれば、一方に、ごく世相的反応で製作したたとえば江見水蔭のような作家たちが、その描く対象をどう見てどう感じていたかということをも見逃し得ない。現象に対する作家たちの解釈は、それら一定の解釈の生れた根のところにその人たちの時代への意識のありようがみられなければならないからである。
現代の作家は、そういう意味で、どんな風に時代を意識しているだろう。日本は今世界史的な規模で変りつつあるのだから世相的刺戟はもとより敏感に感じざるを得ない状態におかれていて、しかも時代の永い見とおしに立って文学態度の歴史的な把握は非常な困難におかれているのが、今日の実際ではなかろうか。
作家が現実の激浪に圧倒されて、或る混乱に陥ったと云われているのは既にこの数年来のことである。その原因は決して簡単でないが、主な一つは、文学の前時代の骨格であった個人的な自我が、内外の事情から崩壊したのに、正常な展開の可能が自他の条件にかけていて、文学によりひろい歴史性をもたらす次の成長へ順調にのびられず、自身の存在の確信のよりどころを失っているような状態であることをさして、作家と文学の敗北、沈滞が云われていると思う。そして、同じ原因から、近頃あちこちでリアリズム否定の論が生じていることは注目に価する。
この間『都新聞』に青野季吉氏がかかれた文章に、今のような時に文学の仕事なんかしていていいのかという不安をおぼえるということ、また、自分のような人間はせめて文学の仕事でもしているほかないとも思うということがかかれていて、もう文学はリアリズムの時代を去った、ロマンティックな文学のいる時代が来ている、と云われていた。
文学は脱世的なものであり得ないのだし、人生と歴史とにとって決して余技的なものではないのだから、青野氏の文章の前半は、現代日本の文学精神が、どこやらにまだ二葉亭四迷の時代の文化的業績評価の尾を引いているようで、今日に云われる一つの感想として、この自己否定、或は謙遜には、やはり私たちの心にのこされる何かの異議がある。
今日文学が作者の念願しているだけ十分にリアリスティックであり得ないという実際の事情は普遍的だから、誰しも身にひき添えて肯けるのであるけれども、それを理由にいきなりロマンティックな文学時代の招来へ飛躍されるのは、文学の問題としてみると、やはりくい下りの足りないという気がする。十分リアリスティックであり得ないという時代の性格そのものに対する作家の文学的意義のくい下りが足りないという気がする。
ロマンティシズムの精神において、では作家は縦横自在であり得るかといえば、現実にはその天地にも埒があって、ロマンティシズムの方向もほぼ見とおされる。現代にそのようなロマンティシズムへの傾きが何故生じていないかという文学の問いに、ロマンティシズムそのものは答えを与える力をもっていないということも興味がある。
リアリズムと云えば自然主義の系列の些末主義の範囲で規定して、そこからの脱出をロマンティシズムに見るような、今日の時代の性格へのかかわりあいかたにこそ、今日の文学の弱い部分があらわれているのだと思う。作家が、自己というものを百万人の一人としての生活の実感で把握しなおし、文学的確信の再建を可能にするのは、窮極において生活と文学との現実に徴してゆくことしかない。
益々強靭である故に美しく、複雑な事象の波瀾におどろかない史眼、その洞察力の故に一層感動深いリアリズムを求めてゆくしかないのではなかろうか。文学におけるリアリズムもやはり世界史的な拡大のときにあって、従来対置されているロマンティシズムが、その発生の現実にまでさかのぼって捉えられるという意味で、かえってリアリズムとの統一を可能にして行きそうに思われるのである。
底本:「宮本百合子全集 第十二巻」新日本出版社
1980(昭和55)年4月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
1951(昭和26)年7月発行
初出:「帝国大学新聞」
1940(昭和15)年9月号
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2003年2月13日作成
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