音楽の民族性と諷刺
宮本百合子
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この春新響の演奏したチャイコフスキーの「悲愴交響楽」は、今も心のなかに或る感銘をのこしている。一度ならず聴いているこの交響楽から、あの晩、特別新鮮に深い感動を与えられたのはおそらく私一人ではなかったろうと思う。
十九世紀のあの時代のロシア、そして、そこを生きたチャイコフスキーが、音楽そのものの力で語り、描き訴えている生命の色彩の生々しい古典性が、見事に流露された。非常に面白く思われた。あの作品は、とかくチャイコフスキーのスラブ的なものというものに足をとられて演奏されることが多く、その結果はかえって作品の生命感を弱めたり甘くしたりする場合が多い。これまでは、どことなくそんな傾きの伴った「悲愴」をよく聴いたような気がする。
先頃の新響の「悲愴」は、そういう意味での観念でかたちづくったスラブ的なものにこだわらず、音をつかんで音の息づいている生命の流れに従っていて、あれだけ音楽として独特の美を発揮させたと思える。チャイコフスキーの生粋な芸術家としての創作の力をも感銘させられた。民族のさまざまな特質やその特質を更に個性のニュアンスで音楽にうちこめている作品の再現としての演奏が、純粋に音の領域から入ってその精髄にふれてゆくことも、いろいろと考えさせて感興ふかかった。
音楽にも民族の性格が顕著なのは自然だが、その自然なものを扱う手法には、種々の不自然さが生じているのが現代社会の一つの悩みであり、課題でもある。この間の「悲愴」の美しさから思いめぐらしても、音楽にある民族的な特性というものを、音楽の外からの解釈や説明でつけ加えても、それが芸術音楽としての内在的な充実感となって来ないということは、しみじみわかる。そしてまた、音そのものの記号の上にだけ民族的特徴をとらえたとして、それの羅列で作ったところで、やはり流動する生命のリズムとしての民族性は人の心をうつものたり得ないことが実感されたのも興味ふかかった。文学は、文字でかかれつつ文字の上にだけその生気をとらえているのでなくて、むしろ、文字から文字へのうつりの底に、流れ動き脈うつ芸術性を湛えている。音楽の日本的な要素のことがいろいろ問題になっているが、私たちにとって関心をひかれる点は、やはり、この音の記号の上での日本らしさの試みが、どのように音の流れそのものの生命が語る日本らしいものに成熟させられてゆくかということでないだろうか。
日本独特の日本らしいものというとき、今日の日本らしさが、どんな風に音楽には生かされてゆくものだろうかということも、難しくてしかも避けられない芸術家への課題だと思われる。
いろんなそんなことを考えているとき、中央公論社から出している現代世界文学叢書の一冊の「黄金の仔牛」を読んだ。これはソヴェトの諷刺小説で、以前「十二の椅子」という諷刺小説を書いたイリフ、ペトロフ合作の長篇である。ジャーナリスト出身のペトロフが素材をあつめることを主に働き、詩人であるイリフが作品として書きあげてゆくという、新しい仕事ぶりで七年ほど前に完成された作品である。
主人公はオスタップ・ベンデルという山師で、北極飛行で世界に有名なシュミット博士の息子と称するいかさま師である。このベンデルが、永年の夢として抱いているリオ・デジャネイロ市へ永住するための資金を稼ごうとして、数年来あらゆる悪辣な秘密手段をつかってこっそり金をためている「ヘリクレス」コンツェルンの会計係コレイコから、その金を捲き上げようとする。その過程にイリフ、ペトロフは極めてユーモラスで辛辣で明快な調子で、ソヴェト社会の旧い考え旧い生きかたの諷刺を行っている。オスタップ・ベンデル自身の山師としての社会的存在の意義も、彼の哀れな失敗そのもので容赦なく批判されているのである。
だんだんこの小説を読んで行って、大変面白く思われるのは、ロシアが生んだ世界的な諷刺作家ゴーゴリの作品の世界と、この「黄金の仔牛」の世界の違いかた、同時にそこにある共通性であった。
ゴーゴリの作品の価値は世界古典のうちに一つの峰として聳え立っている。彼の涙と苦しい笑いとひそめられた憤の震える調子は、アメリカの諷刺作家であったマーク・トゥウエンの作品などと全く異った悲傷な諷刺をつくり出している。マーク・トゥウエンの諷刺は、その基調に何と云っても辛酸をなめつくした後に、新興のアメリカ社会で世俗の生活で安定をかち得たその作者らしい妥協、気やすめがある。ゴーゴリの作品にはそれがない。悲哀の底が抜けている。作者としてのゴーゴリは、わが心のよりすがるべき小さい気休めの小枝にもどんづまりまで皮肉と諷刺との鎌を当てていて、彼の涙と笑いの果いは、一種の虚無感が連っているようでさえある。
イリフ、ペトロフの「黄金の仔牛」の世界は、そういう意味では、ゴーゴリの世界と全くちがう。訳者は「黄金の仔牛」の世界のユーモアを「上からの笑い」だと表現している。「上からの笑い」の真意は、勝利者が上から敗北者にあびせかけた笑いであるというよりは、現実社会の腐敗や停滞、偽瞞を裏まで見とおしている社会生活への鋭い洞察者が、その明るくてかげのない実践的な生活態度と遠大な見とおしに立って、周囲の虚偽卑劣を描きつつ、おのずから笑殺することで、社会的批判を表現しているのだと考えられる。
そこから、ゴーゴリの諷刺と本質的にちがいつつ、アメリカのナンセンスとも異る新種の快活、辛辣が生じている。
そんなにゴーゴリの泣き笑いとはちがう若く確信に満ちた哄笑が響いていながら、なお、この「黄金の仔牛」の読者が、しばしば、ああイリフ、ペトロフは、さすがゴーゴリの出た国の人間だけある、と思わざるを得ないというのも、実に意味ふかい実感だと思う。所謂ロシア気質というものは、イリフ、ペトロフ両人の極めてダイナミックな社会精神と感情の活動を一貫してどこにも古風なバラライカの響となってつたわってはいない。彼等は新しい人間たち、新しい文学のつくりてである。それにもかかわらず、「黄金の仔牛」の全篇は、そのどことも云えない到るところに、イリフ、ペトロフが決してフランス人ではない味、イリフ、ペトロフが決してドイツ人ではない味というものを含んでいる。云いかえれば、ゴーゴリの諷刺は、今日のロシアの歴史の現実のなかで、成程こうも生きかわり得たのか、と感歎する心持をつよめられるのである。
チャイコフスキーが、世界の音楽をゆたかにした古典のロシア的なものは、直接にゴーゴリと並べては云えないけれども、ゴーゴリの諷刺が「黄金の仔牛」によって生れかえられ高められたようには、まだ何人によっても──ショスタコヴィッチによってでも高められていないのではないだろうか。
芸術における民族の特質の微妙で複雑な消長が、ここからも私たちの心に訴えて来ると思う。民族性を古典の規範にしばりつけて考える誤りも明白に理解されるし、さりとて、その新しい展開が単に技法上の新展開だけで齎らされるものでないことも、痛切に考えられる。芸術の素質として民族に特有なものは、いつも具体的であって、それがさけることが出来ない歴史の波、社会の発展の段階の明暗を映していることが、十分芸術家の生活感情として把握されなければならないのだろう。
音楽の歴史と諷刺のことも何となく知りたいことの一つである。文学の世界でも、絵画の世界でも、強烈な現実性と批判の精神と手法として大胆なディフォーメーションを必要とする諷刺は、そう誰にも創り出せるものでなかった。音楽が芸術であるからには、美の一種目として諷刺を避けてはいないのだろうと思う。私たちはよく、諧謔的にと添えがきされる場合を知っているが、諧謔は感情の性質として諷刺と同じではない。妥協的であっても諧謔的では、あり得るのだから。偉大な作曲家たちの精神のなかで、諷刺の本能はどんなに半醒の状態におかれていたのだろう。過去の雄々しい作曲家たちが、平民の生れで、諸公たち、諸紳士淑女たちの習俗に常に居心地わるがりながら、しかも僅に、その諸公、諸紳士淑女をもよろこばせる範囲の諧謔に止っていたのだとすれば、明日の作曲家たちの宇宙は、この方面にも勇ましくひろげられて行くはずなのではないだろうか。ティムパニーが、浄らかな諷刺の哄笑で鳴りわたるよろこびは、歴史とともにいつの日にか期待されていいのではないだろうか。
底本:「宮本百合子全集 第十二巻」新日本出版社
1980(昭和55)年4月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
1951(昭和26)年7月発行
初出:「フィルハーモニー」
1940(昭和15)年7・8月合併号
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2003年2月13日作成
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