若い婦人の著書二つ
宮本百合子
|
いま、私の机の上に二冊の本がのっている。一冊は大迫倫子さんの『娘時代』、もう一冊は野沢富美子さんの『煉瓦女工』。この二冊の本は、それぞれ近頃ひろく読まれている本だと思う。だが、同じ娘としての生活をかいていながらこれらの本は、何と大きいちがいをもっていることだろう。若い女のひとによって書かれた二つの本をよむ人々は、ここにある生活の世界のちがいに対してどんな感想を抱いただろうか。『娘時代』はそれとして面白く『煉瓦女工』もそれとして面白い。ただそれだけを感想として読み終った人もあるかもしれない。けれども、今日の同じ日本の社会のなかからこういう相違をもった本をかく若い娘さんたちが出て来ていて、しかも、まるで互のちがった世界のなりに生き、互を知らないようにその生活のなかからそれぞれの本を生み出しているところには、何か私たちを考えさせるものがある。娘さんたちの文才というひとくちのなかに二つのものを概括してしまうことのできないものが感じられた。
大迫さんには、よほど前、どこかの雑誌の記者として働いていられた時分にちょっとお会いしたことがあった覚えがある。ずっと会わずにいて、新聞の広告を見たときは、思わずハハンという微笑みを感じた。大迫さんも到頭こんな本を書いた。その気持には、あら大迫さんが? という意外さはなくて、どこかで漠然と予期されていたことが実現したような興味であった。つまり大迫さんという娘さんは、こまかい顔だちなどは忘れてしまっている私にさえ、本を書いたことがふさわしく思える一種の印象を残しているような人柄だったのだと思う。
『娘時代』は、随筆風に、現代の娘の心持をある意味では主張し、ある点では反省し、またある箇所では諷刺している気の利いた、才の漲った著書である。娘さんが娘時代をかいている。そこに、高見順氏が序文でいっているように捉え難い今日の若い女性の心理を、典型的な今日の若い女性が自己告白の文章によって描き出したという興味と意味とがおかれている。若い同性の読者たちは、この本のなかに自分たちの気分や気持がそのまま語られていることに多大の共鳴を見出すだろうし、青年たちも公然とあるいはこっそりとこの本を読むだろう。
大迫さんの才気のある筆は、明快にときに皮肉に娘さん心理のいろいろな面を描き出しているのだけれど、私はひそかな疑問を感じた。娘さんたちはこの本をよんで、いろいろな点全くだわと共感しつつ同時に何となく物足りない底の足りないような感じを心のどこかに覚えるのではないだろうか。つまり、そこが現代の娘の感情の性格そのものだといわれてしまえば、それ迄のようなものだ。しかし、それでもそのままやっぱり引こんでしまえないようなものが読者の胸に後味としてのこされるのではないかと思う。
たとえば、若い年ごろの娘さんさえみれば結婚話にひきかけてゆく大人の通俗的なうるささに対して、今日の若い娘さんが厭ましがる心持は十分にうなずける。縁談の場合、男だけが虫のよい註文をつける腹立ち、仮装とトリックとで娘さんに対する仲人というものへの侮蔑の感情、それらはみな若い美しい潔癖であり、つよく娘さんの側から社会的な態度として主張されてゆかなければならない点であると思う。けれども、「お世辞だらけの縁談はまっぴら」というなかで大迫さんが、結婚の対手が石部金吉では窮屈だ、若いころの恋愛ならいくらあったって少しも縁談にさしつかえない、ただそのひとの純粋さえ失わなければそれでいいと思う、といい切っていることは、今日の娘がどんなに旧来の嫁、妻という境遇の束縛から自由になりたがっているかということと考え合わせ、さまざまの感想をそそられた。
独占的な、封鎖的な古風な男の愛情にとらえられて、おれの女房という狭く息苦しい囲いの中に入れられる生活への嫌悪と恐怖は、今日の娘たちに、いわゆるさばけた人を良人として求めさせている。だが、日本の社会の環境が負っている歴史の性質から、そのように近代の女としての空気を自分の周囲に求める娘たちが、まるでその本質は封建的なあそびでさばけた人というものをむしろ肯定しなければならないというのは、何という奇妙で不幸な矛盾であろう。その矛盾の歴史的なにがにがしさを、若い世代としての情熱ではじきかえさず、そこの間に横たわる矛盾こそがいかに大きく深い力で今日の娘たちを引おろしているものであるかも知らず、何かリアリストのようにいい切っている姿は、何と憫然で腹立たしいだろう。若いころの恋愛なら、とまるで結婚はしたいことをしたあげくにすることのような通念にも我知らず屈して、唯そのひとの純粋さえ失われなければ、と出されている条件が人間生活の現実にはほとんど全く成り立たないものだということを知っていないほど、著者は人生に稚く、それが娘の心だというのであろうか。
男と女とが互に束縛する重さを愛の量だと思いあやまったりしない共同の生活をいわゆるさばけた同士の物わかりのよさというものとはちがった社会的な基礎の上に求めている若い男女が今日いないとは思えない。この点ではこの『娘時代』の著者を必ずしも自分たちの典型的代弁者とはしない一部の若い世代も存在しているのだと思う。道学流の見地からでなく、人間がこの社会に生きてゆく生活力、人間性そのもののもつ合理性によってさばけることで目先にもたらされるゆとりの皮相さと退嬰とを大局から理解している娘も、今日の日本にいる。それもやはり一つの現実の娘時代の姿ではあるまいか。
この著者が「自分の幸福のためにとる手段」として「安楽な生活」として描いている結婚の対手の財力に重きをおく今日の娘心を肯定しているのも面白い。「誰だって貧乏したくないのは人情だろうし、それを切りぬける自信は、とても私たちにはない」財産家には「娘の夢を育ててくれる金力がある。理想を徐々に実現してゆく余裕がある。ゆたかな生活はつまりゆたかな気持をいつまでも失わず」もし物資的に苦労のある生活で愛の破綻がきたとしたら女はいっそ何によってそれをいやすことができよう。金があれば「愛情に破綻はあれ、まぎらす方法はいくらもある」故に金力ある良人を求める今日のさもしさが肯定されているのである。あそんで、さばけて、金のある青年を良人として「夢を育ててくれる」生活の条件として求める娘がその面においては「私たちは非常に現実的にからくなっているのだから」「何事にたいしても仮借しないむきな純一しか持ち合わせていない」と力をこめていい切って、しかも「娘の夢」といわれているもののロマンティックな扮装については自分の内の矛盾として見きわめようとしていない態度を、今日の青年もやはり彼らの夢を育ててくれる女性としてよろこびをもって見得る心理なのだろうか。
私は率直にいって大迫さんのように悧溌な娘さんが、まるきり自分の環境や欲求を外側から眺める力を欠いていることにある愕きを感じたのであった。大迫さんの娘さんとしての環境は現代の日本の中流以上の部に属するらしい雰囲気であるが、自分の枠のそとへ一寸出て、そこの生活を観る眼というものはたいへん素朴にしか成長させられていない。自分が今日そのような娘心でいる、その娘心を誰がどのように食わせ養いしているか、いろいろ職業らしいものを持ちながら、大迫さんが、自分とはちがった境遇に今日生きつつあるより多数の娘さんの明暮に思いを拡げず、同質の友達や先輩のうちに生活の環をおいて、疑ってもいない姿もむしろ悲しみを与える。
さき頃セルパンに、今度の大戦になってからフランスのある若い娘の書いた手記が訳出されていた。今名を思い出せないけれども、二十五歳になっているその娘は第一次の大戦のとき姉や先輩たちの経験した女としての感情の擾乱を、自分たちは自分たちの青春の上にふたたびふりかかった歴史の相貌を見きわめて、ふたたびくりかえさず、世紀の波瀾をしのいで生きる決意があることを、落付いた美しい情熱で語っていて、感銘ふかかった。同じ世紀の「娘時代」が大迫さんの著書のような内容で日本では出ているところに、よろこびを見出すべきであろうか。それとも、そこに私たちの生きる社会の性質が反映していることを思うべきものであろうか。
野沢富美子さんの『煉瓦女工』は七篇の小説を集めた短篇集である。題が示しているようにこの二十歳の作者の世界は貧苦と病と労働の世界である。好評であることが十分にうなずけるつよい迫力をもった、生々しい筆致で長屋生活の「隣近所の十ケ月」その他が描かれている。この作者は、はっきり婦人作家として立ってゆこうとする自分を自覚している。その自覚の上でこの小説集の後記には「自分の本が出るというのは良い事だと思う。それはペンに全力を尽くす者にとっては出発の道が開いたようなものだから」というよろこび「と同時に小さな不安が来た。それは本を出した後で自分がどうなるかということだ。私は私の不安に負けたくない」とも語られているのである。
この若い作者が、小説なんか何にもよまず直木三十五を読んだきりであるということが紹介推薦の言葉の中に強調されているのは、私の心にのこることである。そして豊田正子の綴方が世に出されたときも、周囲のひとは彼女が文学的なものに全く遠いということを特に強調して述べていたことを自然のつながりで思い浮べた。
日本の文学はこの四五年来、社会事情の変転とともに大きい転換時代にめぐり会い、文芸思潮と呼ぶようなものも失っている。生活の現実を現実のまま文学に反映すべきであるという一つの要求は、生活者としての現実が多様、広汎であるという面から、素人の文学を求め、それを評価しようとする傾向をも示した。川端康成氏が、女子供の文章のいつわりなさを文学の一つの美として強調されたのもこの頃であったと思う。豊田正子というひとは、丁度この前後の潮流との関係もあって、広い社会へ押し出されたのであったが、それが従来の所謂文学とはちがったものであることをつよく印象づける条件として、彼女の場合にもその生活環境の条件が特に正面に押し立てられたのであった。
『煉瓦女工』の野沢富美子さんの場合は、豊田正子とちがって、はっきり作家として成長してゆくことが目ざされているのだが、やはりこの人の推薦の言葉にも、直木三十五しか読んでいないことが一つの強味のようにいわれて、環境の条件だけが押されているのは何かを私たちに考えさせないだろうか。
本を読む欲求というものは、青春時代、つまりは人生への何かの欲求、何かの探求から生れるものなのだと思う。ゴーリキイの「幼年時代」「人々の中」「私の大学」などは傑れた文学上の古典であり、人生の塩のような作品だが、これらの作品の中に描き出されている少年青年としてのゴーリキイの環境は実に苛酷なものであった。その苛酷な野蛮な、周囲の日常生活の流転の姿に痛む若い日のゴーリキイの心が、人間社会のよりひろさ、より明るさを求めてどんなに苦心して本を読んで行ったかということは「人々の中」などにまざまざと描かれている。読むこと、読んだことを考えることとその考えでいくらかずつ豊かにされた心で周囲を見直してゆくこと、そのことでゴーリキイは、「どん底」を描き出しつつその「どん底」で腐らされるには人間があまり貴重なものであるという自覚にそって、あれだけの作家となったのであった。
『煉瓦女工』の作者は、いかにも修飾なく「ガラクタ部落」と自分から呼んでいる生活の周囲を描き出している。非常に達筆に描き出している。そういう環境の中でやりとりされる言葉が生活そのもののむき出しであると同様むき出しである、それが反映した迫力をもっている。けれどもこれ迄の彼女が何も読まなかったということは、これからの彼女がずっとそうであって大変結構だということとはおのずから別であろうと思われる。求める心の一つの表現として、本を読みたい心がないといわれるのでは、心のどんな必然から小説が書き出されて来るかという訝しさも生じるわけなのである。
この『煉瓦女工』と『娘時代』とは、作者の環境として貧富のちがいが極めて著しい。だが、私たちの関心がひかれるのはそういう偶然の貧富の単純な対照ではなくて、この二人の娘さんたちが、それぞれの意味で自分の環境内に立てこもっていて、互が互の社会的な存在を感情の領域のうちにとりこんでいない点では全く似かよっていることに就てである。
鶴見界隈の部落生活で、人々の動き、声、次々のできごと、その消え行く姿などは四六時中、若い野沢富美子の感受性を休みなく刺戟しているに違いない。生活は裏も表もいわば見とおしで、その具体性というものが自然にこの小説家の大きい力となっているのは事実である。現在までは、「本当に運のわるい自分の家」というだけの感想でそれとたたかい生き、その中から作品もかいて来ているこの若い作家が、将来、真によりひろい視野から自分の境遇をも見て、その境遇を計らず自分一人が脱したというばかりではない理解と圧力と人間らしい誇りをもって、文学化してゆくためには、現象から現象へと目へ筆がついてゆく範囲の具体性では足りないことを、親切な指導者と読者たちとは知っているであろうと思う。
大迫さんにしろその周囲の中では有能な一人の娘さんであることは確だし、野沢富美子という人の文筆上の才も将来に期待したい力を暗示している。
この二様の筆者たちが、時代的な一つの傾向である環境への我とも知らぬ安易な封鎖から真に成長しぬけて来た時こそ、彼女たちの文才は新しい世代のよろこびとなり得るのだと思う。
底本:「宮本百合子全集 第十二巻」新日本出版社
1980(昭和55)年4月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房
1952(昭和27)年10月発行
初出:「新女苑」
1940(昭和15)年7月号
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2003年2月13日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。